世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2011

第1問

 歴史上、異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった。

 13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動きを、解答欄(イ)に17行以内で論じなさい。その際に、次の8つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 インド 医学 アッバース朝 イブン=シーナ一
 代数学 トレド シチリア島 アリストテレス

 

第2問

 歴史上、帝国と呼ばれた国家は、多民族、多人種、多宗教を包摂する大きな領域をその版図におさめている場合が多かった。それらの国家の繁栄と衰退、差異や共通性、内外の諸関係について、次の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(3)の番号を付して記しなさい。

(1) ローマはテヴェレ川のほとりに建設された都市国家にすぎなかったが、紀元前6世紀に、エトルリア人の王を追放して共和政となった。その後、周辺の都市国家を征服してイタリア半島全体を支配し、やがて地中海世界を手中におさめる大帝国となった。ローマが帝政に移行する紀元前後からおよそ200年にわたる時期はパクス=ローマーナとたたえられ平和が維持された。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設について、2行以内で説明しなさい。
 (b) ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。

 

(2) 中国の歴代王朝は、周辺諸国との間で儀礼に基づく冊封や朝貢といった関係をもった。しかし、その制度や実態は、王朝ごとに、また相手に応じて、多様であった。とりわけ対外貿易と朝貢との関係には、顕著な変化が見られる。明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら、4行以内で説明しなさい。

 

(3) 1898年に勃発したアメリカ・スペイン戦争をきっかけとして、アメリカ合衆国は、(a)モンロー宣言によって定式化された従来の対外政策を脱し、より積極的な対外政策を追求しはじめた。とりわけこの戦争の舞台となったカリブ海や西太平洋、そして中国においては、戦後、(b)アメリカ合衆国の影響力が飛躍的に高まり、帝国主義列強間の力関係にも大きな変化がもたらされた。下線部(a)・(b)に対応する以下の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) この宣言の内容を、2行以内で説明しなさい。
 (b) この戦争後におけるアメリカ合衆国の対中国政策の特徴を、3行以内で説明しなさい。

 

第3問

 火を自由にあつかえるようになると、人類は調理を知り、さまざまな食糧を手に入れることになった。食生活が安定するとともに、人類の生活圏は拡大していく。これに関連して、以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

(1) 麦作は乾燥した西アジアで、始まった。この麦を水に浸して発芽させたものからビールができることはすでにシュメール人もエジプト人も知っていたという。大河のほとりにあるために灌漑施設をめぐらし、豊かな穀物生産にもとづく文明は、文字を発明したことでも名高い。それぞれの文字名を記しなさい。

(2) 漢の武帝は内政の充実とともに、西域などへの対外遠征にも積極的であった。そのために軍事費がかさみ、それをまかなうために鉄などを専売品とした。このとき専売品とされた飲食物が2つあるが、それぞれの名称を記しなさい。

(3) ワイン生産のもとになる葡萄の栽培は、ローマ帝国の拡大とともに北上したという。その北限をなすライン・ドナウ両河の北側一帯には古くからゲルマン系の諸族が住んでいた。それらのなかで帝国内を蹂躙し、やがて5世紀になると北アフリカに王国を建てた部族がいる。この部族名を記しなさい。

(4) 11世紀後半から、西ヨーロッパでは森林や荒野の開墾が進み、農法も改良されて、収穫は播種量の3倍から6倍ほどに上昇した。生産高に余剰が生まれ、それらが取引される交易拠点には都市が目立ってくる。やがて、これらの都市は領主に対して自治を主張するようになった。このことを讃える名高い格言があるが、それを記しなさい。

(5) マレ一半島に興ったマラッカ王国は、15世紀には東西貿易の中継地として栄えた。ジャワ商人などによってマラッカに運ばれたジャワやモルッカ諸島の産物の中で、当時の需要の増大によってヨーロッパ向けにも輸出された国際商品は何か。その名称を記しなさい。

(6) 15世紀末以前のアメリカ大陸では麦や米の栽培は知られていなかったが、独自の農耕技術にもとづいて、ほかの作物が栽培されていた。それらは、以後、世界中に広まり、人口の増大にも寄与している。これらの作物名を2つ記しなさい。

(7) こ16世紀初頭にマラッカを占領した国は、ラテンアメリカに大きな領土を有し、そこで黒人奴隷を導入して大規模なサトウキビのプランテーション栽培をしたことでも知られている。この国名およびそのラテンアメリカの領土名を記しなさい。

(8) ビルマは19世紀後半以降のエーヤーワディ一川のデルタ地帯の開発で、世界有数の米の輸出地となった。ビルマの最後の王朝となったコンバウン朝についての次の?~?の文章のうち誤りを含むものの番号を1つ記しなさい。

 1) 18世紀に成立した。

 2) シャムに攻め込んでアユタヤ朝を滅ぼした。

 3) イギリスとの間で三次にわたる戦争を戦った。

 4) イギリスの植民地支配下で1947年まで存続した。

(9) 酒を楽しむ歴史は長いが、飲酒を禁止したり制限したりする試みも、古くから繰り返されてきた。ドイツでは、1933年に政権を握ったナチスのもとで断種法が制定され、慢性アルコール依存症患者も、強制的な不妊手術の対象に入れられた。こうした優生学的発想はこの政党の政権が第二次世界大戦の時期にかけて展開した、ユダヤ人などの大量殺戮にもつながった。この大量殺戮は何と呼ばれているかを記しなさい。

(10) ベトナムは、第二次世界大戦以前には、世界有数の米輸出地だったが、大戦後は戦乱のため米作が停滞し一時は食糧輸入国になった。ベトナムが米輸出国の地位を回復するのは1989年からであり、これは1986年にはじまる改革の成果とみなされている。このベトナムの改革は何と呼ばれているかを記しなさい。

………………………………………

[第1問の解き方

 3.11(さんてんいちいち)とその後の原発事故は東大の権威を落としました。東大出身者を主とする原発推進学者が謝罪をしても、原発を止めるべきだというわけでもなく、謝罪だけで終わっている点でその無責任さが浮彫りになってます。多数の人間の故郷を奪ったこのひとたちをなぜ逮捕しないのか? 同時進行した事件に八百長問題やホリエモン事件がありましたが、その罪のなんとちっぽけなことか。かれらは追放され投獄されることになったが、原発推進者たちは何のお咎めもないのか? 原発が電力の30%という虚構も、Amazonのランキング操作と同じく偽装であることも分かってきました。推進派の学者ばかりで解説するNHKの「中立」性や、小佐古敏荘(東大大学院工学系研究科原子力国際専攻教授)が保身の涙を流して参与辞任を表明する場面など、怪しげなものがNHKから続々出てきます。慰安婦問題の映像を消せ、と自民党から言われて、ハイ・放送しません、と優等生ぶりを発揮してきたNHKは今もって映像を隠したままです。

 今年の問題について、受験生は予備校とほぼ同じような答案を書いたのに、開示された得点は35点しかなかった、と嘆いている記事もあり、わたしへのメールでも同じような声がとどきました。そろそろ予備校の答案を「模範」答案とみなす前提を止めませんか。なんどもこのHPで説明しているように、その権威は落ちているのです。NHKを中立放送だと勘違いしている老人のように、ぽかーんと神棚のようにテレビの画面を見つめている信者状態は止めにしましょう。35点ということは予備校の答案も35点に近いかも、となぜ疑わないのか? 権威なんて吹き払い、自分で調べ、疑いましょう。

 2011年度の問題は過去問の編成替えです。

 2005年度第2問

問(2) ギリシア語が広く共通語として受容されたことは、その後の古代地中海世界における学問・思想のめざましい発展を促すことになった。それらはやがてイスラーム世界にも継承されている。このイスラーム世界への継承の歴史について、中心となった都市をとりあげながら、3行以内で説明しなさい。

問(3) ビザンツ世界やイスラーム世界と異なり、中世の西ヨーロッパは古代ギリシアやヘレニズムの文明をほとんど継承しなかった。ギリシア・ヘレニズムの学術文献が西ヨーロッパに広く知られるようになるのは、12世紀以降である。これらの学術文献はどのようにして西ヨーロッパに伝わったのか。3行以内で説明しなさい。

  2003年度の第2問

問(2) 平面幾何学を大成させたエウクレイデス(ユークリッド)が、研究活動を行った都市名を記せ。また彼の著作が、アラビア語訳からラテン語に翻訳されたのは、何世紀か。

問(3) 西欧中世の学問は、アラビア語やギリシア語からラテン語への翻訳活動により飛躍的に発展した。古代の哲学者[ 1 ]の論理学や自然学の著作の翻訳は、西欧に大きな影響を与え、また彼の著作を注釈したコルドバ生まれの哲学者[ 2 ]の著作の翻訳も、西欧の学問を発展させた。文中の[ 1 ]、[ 2 ]に入る人物の名を記せ。

 2011年度センター試験の第4問のリード文も似ていました。

 第4問 現代世界の諸文化は、歴史が展開していくなかで、他の文化との接触を通じて形成されてきたものである。歴史上の異文化接触について述べた次の文章……トルコ系遊牧民も、定住民から商業・交易上の慣習や行政制度、さらには仏教やイスラームなどの諸宗教を受容し、遊牧文化と定住文化を融合させていったのである。……イベリア半島では、キリスト教諸国が再征服した土地にムスリムが信仰を維持したまま残留することが許されて、キリスト教徒とムスリムの共存が見られた。なかでもスペイン中部の都市トレド(下図参照)では、ユダヤ教徒の協力もあって、アラビア語文献のラテン語・スペイン語への翻訳活動が盛んに行われた。ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」は、トレドにおけるキリスト教徒、ムスリム、ユダヤ教徒の共存と異文化交流がもたらした実りを抜きにしてはあり得なかったのである。

 センター試験が予告していたことになります。東大の問題とセンター試験の関係は本年度だけでないことは、ずっとたどっていくと分かってきます。このことはご自分で調べてください。けっこう不思議です。

 

 さて今年の問題の課題は、「13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動きを」でしたが、この「それらの動き」とはリード文にある「新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響」でした。(他地域から)受容→圏内発展→(他地域へ)影響、と言い換えられます。過去問勉強だけでは不十分で、この問題を解くには教科書が何より大きな援護材料です。

 予備校の解答の欠点は自分で探して分かりますか?

 自分の勉強のためになりますから、下のわたしの解説を見ないでいったん離れて検討してみてください。それから下の文章を読んでみてください。発見した分だけ君の進歩です。

 征服地の地名を執拗に挙げていて、そこのどういう文化を受容したかが書いてない。学問の文化は挙げてあるが、「生活様式の多様化や変容」は見当たらない。他地域への影響は西欧だけで、ビザンツ帝国やインドや中国にどんな影響を「与えた」のか書いてない。どこの答案とは指摘してませんが、ほぼどこのものにも共通しています。

 やっぱ全部でも35点だ、ってわかりましたか?

 

 「教科書が何より大きな援護材料」とは、『詳説世界史』なら、次のページと記事です。

 p.107-09 インド洋地域との交易の活発化にともない、東南アジアのイスラーム化の動きもしだいに進展した。……ムスリム商人の隊商によって、東アジアからヨーロッパにいたる陸路貿易がさかんにおこなわれた。……色目人にイスラーム教徒が多かったことから、中国にもイスラーム教がしだいにひろまった。イスラーム天文学をとりいれて郭守敬がつくった授時暦は、のちに日本にもとりいれられた(江戸時代の貞享暦)。また元からはイル=ハン国に中国絵画が伝えられ、それがイランで発達した細密画(ミニアチュール)に大きな影響をあたえた。

 p.113-14 アッバース朝時代には、イラン人を中心とする新改宗者が要職につけられ、宰相の統率する官僚制度が発達し、行政の中央集権化がすすんだ。アラブ人の特権はしだいに失われ、イスラーム教徒であれば、アラブ人以外でも人頭税が課せられず、またアラブ人でも、征服地に土地をもつ場合には地租が課せられた。公用語はいぜんとしてアラビア語であったが、民族による差別は廃止され、カリフの政治はイスラーム法(シャリーア)にもとづいて実施されるようになった。

 p.116-125 (これらのページは余りにデータが豊富なので、学問を省いて生活様式の多様化・変容にあたるものだけ抽出) ガザン=ハンは、地租を中心とするイスラーム式の税制を導入し……ムスリム商人は、奴隷や香辛料の交易にたずさわるばかりでなく、中国・インド・東南アジア・アフリカ大陸へのイスラーム教の伝播にも大きな役割をはたした。……イスラーム勢力の進出により、初期には仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用される例もあった。しかし、現実の統治でイスラーム教が強制されることはなかった。イスラーム信仰は、神への献身を求めるバクティや苦行をつうじて神との合体を求めるヨーガ信仰とも共通性があったことから、都市住民やカースト差別に苦しむ人びとのあいだにひろまった。ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設され、あるいはインドのサンスクリット語の作品がペルシア語へ翻訳されるなど、インド=イスラーム文化が誕生した。……やがてこの海岸地帯では、アラビア語の影響をうけたスワヒリ語が共通語としてもちいられるようになった。……各地の都市には軍人・商人・職人・知識人などが住み、信仰と学問・教育の場であるモスクや学院(マドラサ)、および生産と流通の場である市場を中心に都市生活が営まれた。またイスラーム帝国の成立によって、これらの都市を結ぶ交通路が整備され、このネットワークをつうじて新しい知識や生産の技術が短期間のうちに遠隔の地へ伝えられたことが特徴である。

 p.139-140 7世紀以降異民族の侵入に対処するため、帝国をいくつかの軍管区にわけ、その司令官に軍事と行政の権限をあたえるという軍管区制(テマ制)がしかれ、中央集権化がすすんだ……学問の中心はキリスト教神学で、聖像崇拝論争などがたたかわされた。

 p.157 ビザンツやイスラーム圏からもたらされたギリシアの古典が、ギリシア語やアラビア語から本格的にラテン語に翻訳されるようになり、それに刺激されて学問や文芸も大いに発展した。これを12世紀ルネサンスという。スコラ学はアリストテレス哲学の影響をうけて壮大な体系となり、トマス=アクィナスにより大成されて教皇権の理論的支柱となった。イスラーム科学の影響も大きく、実験を重視するロジャー=ベーコンの自然科学はのちの近代科学を準備するものであった。

 p.163-164 カイロのムスリム商人も、シリア・北アフリカ・イベリア半島の海岸都市に代理人を派遣し、これらの地中海都市を結んで香辛料・砂糖・紙・穀物などの取引にたずさわった。また、11~13世紀には、十字軍とムスリム軍との戦争にもかかわらず、地中海を経由して先進的な知識や技術がイスラーム世界からヨーロッパにもたらされた。医学・哲学・数学・化学などのアラビア語の著作はつぎつぎとラテン語に翻訳され、ヨーロッパ近代科学の誕生に大きく貢献した。さらに、イスラーム教徒が中国から学んだ製紙法・羅針盤・火薬なども、シチリア島やイベリア半島を経由してヨーロッパに伝えられた。高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった。

 こんなに教科書は書いていたのかと驚くでしょう。教科書のデータだけで予備校の答案を倍くらい越える答案が書けます。いつでも教科書で十分な答えが導き出せるわけではありませんが、今回は可能な問題でした。

 

[第2問の解き方

(1)

 (a) 「ローマの平和と繁栄を示す都市生活を支えていた公共施設」という課題。これは公共施設の数を多く書いても、「平和と繁栄を示す都市生活を支えていた」ことと関係した説明がないといけない。施設がどう「平和と繁栄を示」しているのか。

 一番書きやすいのはコロッセウム(円形闘技場)かな。ここでは動物(猛獣)・剣闘士(グラディエーター)の闘い、死刑、歴史的戦闘の再現などが観られ、ここでパンも配られたので、「パンとサーカス(配給穀物と見世物)」を享受するローマ市民の歓楽場でした。

 またカラカラ浴場を代表とする公共浴場がローマ市だけで約1000箇所もあり、大浴場は11箇所というくいら、日本人と似て、お風呂大好きでした。これはたんなる風呂屋でなく、ここには図書館・運動場・マッサージ室・レストランもあり、曲芸を演じている者もいて、入場料は安く「大衆の別荘」といわれたものです。プールもあったが泳ぐためではなかった。浸かるだけでローマ市民は水泳というものを知りませんでした。

 この浴場に豊富な水を供給する水道橋も欠かせないでしょう。フランスに残っているガール水道橋が有名です。ローマ市には11本の水道が水を供給していました。アウグストゥスが造らせた水道の終端に位置するトレビの泉も名高い。

 帝国全土に張り巡らせたローマ道(街道)もあげていいものです。アッピア街道から始まるローマ道は、軍用と民用のどちらでも使えました。アメリカの建築史家ルイス・マンフォードは『歴史の都市 明日の都市』新潮社の中で、ローマ史は土木建設事業史であると言い、絶えまなく建設、建設の事業をすすめたと感嘆しています。ローマ軍は戦闘より土木労働が主たる仕事であったでしょう。その第一の建設はこの道路でした。馬車・戦車の通ったあとに轍(わだち)ができていき、この轍のへこみがきつく、このデコボコ道を今歩いてみると捻挫しそうで歩きにくい。こういう道は現代では散歩・観光用にしかならないですが、ここを古代のひとが通ったのかと感慨にふけるのにはいいものです。

 他に公共施設としては、パンテオン(万神殿)、フォルム(公共広場)、バシリカ(公会堂)、神殿、戦車競技用の競技場(映画「ベンハー」に出でくる競馬場)、劇場などもあります。

 

(b) 「ローマの市民権の拡大」

 この問題は京大の過去問(2000年)「アウグストゥスが元首政を創始してから200年余りは「ローマの平和」の時代と呼ばれ、ローマ帝国が安定と繁栄を享受したことで知られる。この時代に、ひとつの統一的な世界としての「地中海世界」が出来上がったと考えることができる。そのように解釈できる具体的な理由を、ローマ人のイタリア外での活動や市民団の変化に注目しつつ、300字以内で説明せよ」に似ています。

 市民権は初めローマ市に住む自由人だけですが、それが半島統一戦争の過程で植民市(上級市民権)・自治市(下級市民権)と拡大し、同盟市戦争の結果、半島全域の自由民に拡大、そして帝政期になると212年のアントニヌス勅令(カラカラ帝の勅令)で属州の自由民にすべて与えられました。これ以外の市民権獲得の方法は、属州民が戦争に参加して市民権を得たり、相当の資財を捧げることで市民権が買えました。この例外は書かなくてもいいでしょう。

 

(2) 「明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら」(120字)。

 「対外貿易と朝貢との関係」という密接な関係についてです。『詳説』では明初のところで「東南沿海では海禁政策をとって民間人の海上交易を許さず、政府の管理する朝貢貿易を推進した」と書いているように貿易と外交がセットになった対外政策です。あくまで中国を中心とした世界観の下で、中国皇帝を世界の君主とあがめ、この至上の君主からの恩恵として中国の商品をくれてやる、その代わり君たちの商品も出せ、という中国中心の外交観と制限貿易です。

 洪武帝は海禁をはじめ、元朝時代のユーラシア大陸全域における東西交易の流れを閉めてしまいました。海賊や密貿易対策として、沿岸漁業や沿岸貿易(国内海運)さえも規制します。永楽帝もこの政策を踏襲し、鄭和を派遣したのもこの朝貢貿易の拡大であり、民間の自由貿易の拡大ではありませんでした。日本側の言い方で、室町幕府の勘合貿易、徳川幕府の朱印船貿易という、渡航する船に勘合符や朱印状という許可証を与え、これをもった船にのみ貿易を許す、という制限貿易です。

 これが16世紀の民間(私)貿易(後期倭寇)と西欧商人の来航・要求によって緩和されます(1567)。緩和であって解除ではありません。東京書籍の教科書が「16世紀後半、明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」という説明をしているのは解せません。

 清朝は東北から南下しながら、明朝打倒・中国統一戦争を展開し、明朝側も南下して再起を図ろうとしていて、その中に鄭成功の抗清戦があり、台湾に逃れて再起を期しました。これを封殺するために清朝は遷界令をしき、海禁を厳しくします。三藩の乱と成功死後の台湾を制圧して遷界令を解除する展界令を出しました(1684)。これによって民間貿易が認められ、4つの海関が設けられて貿易は再開します。といって完全な海禁の解除でないことは、この海関設置でも分かります。予備校の解答に「17世紀末に海禁解除」としたものもあるのはいかがなものか。海禁の完全な解除はアヘン戦争の敗北までありません。

 

(3) 

(a) 「モンロー宣言の内容」(60字)

 これについてどの教科書も書いていることは、「アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉……孤立主義外交」ということです。ただ「内容」という要求は教書の内容そのまま書けばいいとおもわれ、「孤立主義外交」は総括・評価的なものなので、なくてもいいはずです。また当時のラテンアメリカ独立運動期であることの言及も要らないでしょう。ありのままでは、1)ヨーロッパはアメリカ大陸に干渉するな。2)アメリカ大陸の方からもヨーロッパとその植民地には干渉しない。3)アメリカ大陸はもう植民地化の対象ではない、という3点です。本論としてはないが、初めに「この〔北米〕大陸の北西岸における〔米露〕二国のそれぞれの権利と利益について、平和的な交渉によって取決めを結ぶための……」(岩波書店『世界史史料7』)という文面もあり、「ロシアの南下阻止」も入れてもいいでしょう。

 

(b) 「この戦争(米西戦争)後におけるアメリカ合衆国の対中国政策の特徴」(90字)

 類題として一橋過去問(2008年)・第2問に「問3 米西戦争以後、アジア太平洋の国際関係への関心を強めたアメリカの、太平洋戦争(1941-45年)開戦にいたるまでのアジア政策を述べなさい。(150字以内)」というのがありました。東大は対象が中国だけですから、まだ書きやすい。やっかいなのは「特徴」ということばです。

 特徴は他とのちがい、それは英国とのちがいであったり、米西戦争以前の米国の外交政策とのちがいであったり、いろいろ視点のおきどころによって「特徴」を表さなくてはならないのですが、拙著『練習帳』の中の「特色」の章で説明しているように、たんに内容を書けばいいことが多いことです。出題者はどれだけこの特徴に意味を込めているのか? 比較する対象もとくにあげないで特徴ということばを使う場合は単に知っていることを書け、ということをあからさまに言うのを躊躇して、少しひねって「特徴」といっているにすぎないことです。この問題の場合も「戦後の対中国政策を書け」で済むはずのことをこのように表現していると。いろいろな事情・事件・政策に共通する要素を引っ張ってくる一般化はしなくていい、ということです。たった90字という字数でそこまでは求めていないだろうと。

 それでいえば、政策の羅列でいい。ジョン=ヘイの門戸開放宣言(通牒)と機会均等(1899)を、義和団事件がおきたため出兵し、さらに領土保全も訴えた(1900)、という順です。さらに近いところでは、タフト大統領のときに四国借款団をつくり(1910)、清朝の鉄道国有化に介入しました。ここに見られる外交の特徴は領土をとって植民地を増やすことはせず、経済的な進出にとどめていることです。この特徴は書かなくていい、ということです。

 

第3問

(1) シュメール人もエジプト人……それぞれの文字名を、という易問でした。センター・レベルです。

(2) 漢の武帝……専売品とされた飲食物が2つ、というセンター・レベルです。

(3) ゲルマン系の諸族……北アフリカに王国を建てた部族、という、これもセンター・レベルです。北アフリカと関連させて出したセンター試験の問題は、最近では2002年、09年。

(4) 11世紀後半から……自治を主張するようになった。このことを讃える名高い格言、と。これはセンターで出題されたことはないが、中世都市の自由については出題されてます(2000年)。

(5) マラッカ王国……ヨーロッパ向けにも輸出された国際商品、という、これも易問です。

(6) 15世紀末以前のアメリカ大陸……作物名を2つ、これもセンター・レベル(トウモロコシは4回、ジャガイモは3回出題)。

(7) 16世紀初頭にマラッカを占領した国は、ラテンアメリカに大きな領土……この国名およびそのラテンアメリカの領土名、これもセンター・レベルです。ブラジルがポルトガル領かスペイン領かを問う問題は7回も出題されてます。

(8) コンバウン朝……の文章のうち誤りを含むものの番号、はまさにセンター試験の四択問題です。4)の「イギリスの植民地支配下で1947年まで存続した」は3回のビルマ戦争で崩壊してます(1886年)。

(9) ユダヤ人などの大量殺戮にもつながった。この大量殺戮は何と呼ばれているか、という易問。ホロコースト以外にジェノサイドも主にユダヤ人虐殺を意味したが、最近はジェノサイドは他の民族虐殺にも使用するようになり、ユダヤ人の場合はホロコーストが使われるようになりました。センター試験でも3回ユダヤ人虐殺が出題されてますが、この言葉で問われたことはありません。

(10) ベトナムの改革は、という問い。ドイモイはセンター出題歴はないですが用語集の頻度は10なので、そろそろ出てきそうです。

 (わたしの解答例)

第1問

 参考書『東大世界史解答文』(25カ年分〔2013年から1987年まで〕の全問全解答)発売 →こちら

第2問

 (同上)

第3問

 1楔形文字、神聖文字

 2塩、酒

 3ヴァンダル人(族)

 4都市の空気は自由にする

 5香辛料

 6トウモロコシ、ジャガイモ

 7ポルトガル、ブラジル

 8 (4)

 9ホロコースト

 10ドイモイ