世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2014

第1問

 19世紀のユーラシア大陸の歴史を通じて、ロシアの動向は重要な鍵を握っていた。ロシアは、不凍港の獲得などを目ざして、隣接するさまざまな地域に勢力を拡大しようと試みた。こうした動きは、イギリスなど他の列強との間に摩擦を引きおこすこともあった。

 以上のことを踏まえて、ウィーン会議から19世紀末までの時期、ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について、西欧列強の対応に注意しながら、論じなさい、解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

  アフガニスタン イリ地方 沿海州 クリミア戦争 トルコマンチャーイ条約 ベルリン会議(1878年) ポーランド 旅順

 

第2問

世界史上「帝国」は、様々な形態を取りながら各地に広範な影響を与えてきた。しかし、拡大とともに「帝国」は周辺地域からの挑戦を受けることになる。各時代における「帝国」に関する以下の設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

 

(1) ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、6世紀のユスティニアヌス帝の時代に地中海をとりまく多くの地域を征服し支配したが、彼の死後、次第にその支配地を失っていった。その過程で、ビザンツ帝国の歴史に特に大きな影響を与えたのが、トルコ系の人々が打ち立てた諸国家による攻撃であった。この経緯について4行以内で記述しなさい。

 

(2) オランダでは、1602年にアジアとの貿易のためにオランダ東インド会社が設立された。オランダ海洋帝国を象徴するこの会社は、商業的利権の獲得と拡大のために、アジア各地で軍事的衝突や戦争を引き起こし、のちの本格的な植民地支配への下地をつくりだした。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 

 (a) アジアにはすでにポルトガルが進出していたため、オランダ東インド会社はポルトガルの重要拠点を攻撃し、占領することがしばしばあった。そうした拠点のうち、最終的にオランダ側の手に落ち、オランダ東インド会社の拠点となったマレ一半島にある海港都市の一つを挙げなさい。

 (b) オランダ東インド会社は、17世紀から18世紀にかけて、次第にジャワ島内部への支配を強めた。この当時、ジャワ島内で発展した産業の一つが砂糖生産であり、砂糖生産に関わる技術や一部の労働力は中国から導入された。この背景にある中国側の国内事情を2行以内で記述しなさい。

 

(3) 1946年に始まったインドシナ戦争は、1954年のジュネーヴ会議により終結した。しかし、この地域での共産主義勢力の拡大を恐れるアメリカ合衆国はこの会議の決定を認めず、その後およそ20年にわたり、ベトナムへの政治・軍事的介入を続けることになった。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 

 (a) 1965年のはじめ、アメリカ合衆国はベトナムへの介入をさらに強化する決定を下した。この決定を下した大統領の名前とその内容を2行以内で記述しなさい。

 (b) ベトナム戦争の戦費の拡大により、アメリカ合衆国の財政は悪化し、1971年にはその経済政策の変更を余儀なくされた。この新しい政策の内容とその国際的影響を2行以内で記述しなさい。

 

第3問

 人間の生存の基礎である生産は、それぞれの時代・地域でさまざまな様相を呈しながら、歴史の発展に大きな役割を果たしてきた。技術、制度、労働者、生産物など、生産に関連する以下の事柄についての設問(1)〜(1O)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(1O)の番号を付して記しなさい。

 

(1) 古代の世界において、武器・農工具に用いる鉄の生産は重要な意味をもった。西アジアで最初に鉄製武器を生産し、用いたとされる民族の名称を記しなさい。

 

(2) 古代ギリシアのポリスにおいては、生産活動はおもに奴隷や地位の低い住民が担っていた。このうちスパルタにおいて「周辺に住む人」という意味をもち、工業生産に従事する割合の高かった住民の名称を記しなさい。

 

(3) 古代の東西交易を象徴する中国産のある繊維の生産は、ユスティニアヌス帝期ビザンツ帝国への原料生産技術の伝播を経て、その後ヨーロッパ各地に広まった。この技術の名称を記しなさい。

 

(4) 中国江南では、新たな穀物品種の導入により農業生産が増大した。北宋の時代に現在のベトナムに当たる地域から伝来し、長江下流域の水田地帯に普及した稲の品種を記しなさい。

 

(5)西ヨーロッパでは中世都市が発展すると、おもに手工業生産者からなるツンフトとよばれる組織が形成され、彼らが主体となるツンフト闘争が各地で起こった。この闘争は誰に対する何を求めた闘争だったか。1行以内で記述しなさい。

 

(6) エルベ川以東の東ヨーロッパ地域では、近世に入ると領主の農業生産への関与が強まり、グーツヘルシャフトと呼ばれる独特の経営形態が発達した。この農業経営の特色を、当時の交易の発展と関連づけて30字以内で記述しなさい。

 

(7) マルクスとエンゲルスは、1848年に『共産党宣言』をあらわして、社会主義社会を実現するための労働者の国際的団結を訴えた。その後、この理念を実現するための組織が結成され、マルクスがその指導者となった。この組織の名称と結成の場所を記しなさい。

 

(8) インドで1930年に組織された民族運動においては、政府の専売するある物品を生産することが象徴的な意味をもった。その専売品の名を含む運動の名称を、その指導者の名とともに記しなさい。

 

(9) アメリカ合衆国のローズヴェルト大統領は、1929年に起こった世界恐慌に対処し、景気を回復させるためにニューディール政策を実施した。政府が経済に積極的に介入・統制するために制定された法律を2つ記しなさい。

 

(10) 第二次世界大戦後、アメリカ合衆国の支援を受けつつ経済を復興させた西ヨーロッパ諸国は、より一層の発展のために経済統合を推進した。現在のヨーロッパ連合(EU)への発展の基礎となる、1952年に発効した西ヨーロッパ最初の経済統合機構の名称を記しなさい。

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(コメント)

第1問
 何か19世紀の「ロシア対西欧」の対立図を時間順に追いかけていく、つまり流れとしてロシア事件史を書く、ということが求められているのではありません。ロシアが19世紀の約1世紀間に各地に勢力拡大政策(プッシュ)をとったために、そのためにプルなり逆プッシュなりが起きた、それを書いてほしい、ということです。

 課題文に「以上のことを踏まえて」とあるのは、「ロシアの動向……隣接するさまざまな地域に勢力を拡大」のことです。対外政策とはこの「勢力を拡大」のこと。拡大政策と変化はセットのはずです。拡大政策を書かずに変化だけ書くとすると、どういう拡大政策による変化なのか分かりませんね?
 構成が二通りあります。拡大政策を先に示して、後で変化をまとめて書く、政策ごとに変化を書く。わたしは前者のほうが明快とおもいました。また「変化」を細かく書くより1世紀全体でどういう変化が起きたか、東大が大きい変化のときによく使う用語である「動向(これはリード文にあり)」に合う書き方です。
 世紀前半は正統主義・勢力均衡を国際政治の基本としていたのが、世紀後半になるとウィーン体制を支えていた国々同士が戦うことになり、そこからビスマルクとヴィルヘルム2世のドイツが台頭します。なんとかビスマルクの下で国際秩序の均衡を保っていたのが、それではロシアの南下を許すことになってしまうので、世紀末にはイギリスがロシア包囲網を築きだす、という大きな「変化(動向)」が見られます。

 答案の初めに「ウィーン会議から」と時間指定がありますから、会議の決定内容に言及すべきでしょう。この会議を無視した答案ばかりネットでみることができます。この会議への言及が必要なのは、この問題のテーマである、ロシアがナポレオン戦争中に拡大政策をとったことが含まれているからです。それを会議はどう採決したのか。
 フィンランドやベッサラビアへの侵略が認められました。また戦争中にできていたワルシャワ(大)公国はロシアの進撃で消滅し、会議ではポーランド立憲王国の国王をロシア皇帝が兼ねることも認められました。「兼ねる」というのが表向きの表現ですが、要するにロシアの属国・衛星国になりました。それも 1831年の併合まででした。こうしてロシアはウィーン体制を支える五国の一員としてヨーロッパでは大国の地位を獲得しています。
 1820年代にはトルコからのギリシア独立戦争がおき、これを英仏とともに参戦し、独立をさせています。バルカン半島への関わりがはじまります。
 1830年代には、エジプト=トルコ戦争(エジプト事件)を利用して、ロシアは地中海への進出をねらい、オスマン帝国を援助し、ウンキャル=スケレッシ条約(密約、1833)でダーダネルス・ボスフォラス両海峡に関する特権を獲得しました。しかしロンドン会議(1840)で特権を失うことになり、南下は夢におわります。こうした交渉の中で、次第にロシア南下政策を阻止しようという西欧側の対応ができていきます。まだ対決というほどではなく、これ以上はイエローカードですよ、という段階です。
 1850年代にはクリミア戦争がおき、ウィーン体制の五国の中でロシアに対抗したのは英仏でした。それまで対トルコで一致できた列強は、ここに英仏が非キリスト教国のトルコ支援に出て、ロシアと対抗するという内部対立になりました。神聖同盟は無意味となり、四国同盟と五国同盟もつぶれ、1848年革命とともにウィーン体制は空洞化します。ロシアが得たベッサラビアは放棄させられました(パリ条約)。

 第2問

問(1)
 「ビザンツ帝国……その支配地を失っていった。その過程で、……トルコ系の人々が打ち立てた諸国家による攻撃であった。この経緯」という問題。すると攻撃してきたのは、11世紀のセルジューク朝と14世紀以降のオスマン帝国です。前者には小アジアを奪われ、後者にはバルカン半島を奪われました。それはマンジケルトの戦い(1071)と、後者の場合はコンスタンティノープル周辺を次々つと奪い取られ(アドリアノープルもその一つ)、とうとうニコポリスの戦い(1396)にまでいたります。最終的にはコンスタンティノープルそのものがメフメト2世によって陥落しました(1453)。なおブルガール(ブルガリア)人もトルコ(テュルク語)系なので、セルジューク朝の前に、第一次ブルガリア帝国(893〜1018)とをあげて次第にビザンツ帝国に食い込んでいき、互いに攻防しつつ(第二次ブルガリア帝国は1187〜1393)、帝国を悩ませたので、あげてもいいですが、不可欠という訳ではありません。セルジューク朝とオスマン帝国をあげることが何より基本です。ブルガリア帝国の支配層はトルコ系ですが、極めて少数であり、多数のスラヴ人が住民で、トルコ系もスラヴ人と混血していきましたから、今はブルガリア人といえばスラヴ人扱いをしているからです。むしろ、はっきりトルコ系と分かっていて、セルジューク朝から分立・建国したルーム=セルジューク朝の方がビザンツ帝国を悩ました点でも必要です。

問(2) 
 (a) ポルトガルの重要拠点……最終的にオランダ側の手に落ち、オランダ東インド会社の拠点となったマレ一半島にある海港都市の一つ……という問い。もともとポルトガルが持っていて、それをオランダが奪うとなると、マラッカしかない(1641)。イギリスが後に海峡植民地とするペナン島、シンガポール島はポルトガル領にもオランダ領にもなっていない。

 (b) 砂糖生産に関わる技術や一部の労働力は中国から導入された。この背景にある中国側の国内事情……過去問に2度も出題歴があります(1986,2002)。時期は「17世紀から18世紀にかけて」と限定しています。すると18世紀末の銀流出と地丁銀の重税化は入れていいのかどうか。時期的には「17世紀から」とあるのを考慮するとこれは入れない方がベターでしょう。19世紀になって顕著になってくる現象だからです。
 該当しそうな解答は、人口増と華僑増でしょう。教科書(詳説)では「18世紀には政治の安定のもと、中国の人口は急増した。新大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど、山地でも栽培可能な新作物は、山地の開墾をうながして、人口増をささえた」という記事。またこの前にある記事「三藩の乱の鎮圧と台湾の占領によって清朝の支配が安定すると、清朝は海禁を解除し、中国商人の帆船交易やヨーロッパ船の来航をつうじて、海上貿易は順調に発展した。生糸や陶磁器、茶などの輸出によって中国には銀が流れこみ、国内商業の発展をささえた。東南アジアとの貿易をおこなう福建や広東の人びとは、清朝の禁令をおかして東南アジアに住みつき、農村と国際市場を結ぶ商業網をにぎって経済力をのばし、のちの南洋華僑のもとになった」。
 また明末の「東アジアの海域でも日本人・中国人の密貿易集団倭寇やポルトガル・オランダなどのヨーロッパ勢力の活動が活発化し、明の海禁政策はくずれていった(詳説)」「16世紀後半、明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め(東京書籍)」という海禁緩和の政策(1567)も挙げてもいいでしょう。
 こうした海外進出の土台として、国内商工業の発展もあります。明末清初の経済については、すてに過去問があります(1983)。

問(3)
 (a) 「1965年……ベトナムへの介入をさらに強化……決定を下した大統領の名前とその内容」です。ベトナム戦争と朝鮮戦争を比較させる過去問(1987)がありました。ジョンソン大統領の政策は北爆です。17度線より南のベトナム共和国でゲリラ活動に悩まされた米軍は、ゲリラを派遣しているのは北と見なして、北を爆撃することに決定しました。北爆の口実をつくるために米艦が北から攻撃されたとするトンキン湾事件をでっちあげました。このあたりは教科書(詳説)に「1960年、ベトナム統一をめざす南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と連携して、ゲリラ戦を展開した。63年、ゴ政権が軍のクーデタによって倒されると、解放戦線の攻勢は激しくなった。アメリカはこれを共産主義勢力の侵略とみて本格的軍事援助を開始し、65年からは北ベトナムへの爆撃(北爆)にふみきり、地上兵力も増派して、その数は68年には50万人をこえた」と詳しい。

 (b) 「1971年にはその経済政策の変更を余儀なくされた。この新しい政策の内容とその国際的影響」でした。
 これは易問です。教科書(詳説)に「ニクソン大統領は同年ドルの金兌換停止、10パーセントの輸入課徴金の導入を発表し、世界に衝撃をあたえた(ドル=ショック)。ドルを基軸通貨として、アメリカ合衆国1国が世界経済をささえてきた戦後のブレトン=ウッズ国際経済体制は転換点をむかえ、世界経済は合衆国・西ヨーロッパ・日本の三極構造に向かいはじめた……ドル=ショック後、1973年には先進工業国は変動相場制に移行したが、オイル=ショックや経済成長の鈍化、多国籍企業の問題、環境汚染など、相互に共通する問題や1国では対応できない問題が多くあらわれた。それに対応するため、75年以降毎年先進国首脳会議(サミット)がひらかれ、経済政策の相互協力と調整を協議するようになった。」とあります。
 一橋の過去問(2000-2)にも類題が出題されています。問1 この演説の背景となったアメリカ合衆国のヴェトナム戦争介入の歴史(1954〜75年)について、その原因と結果を具体的に述べなさい。(200字以内)
問2 ヴェトナム戦争介入がアメリカ合衆国の社会と対外関係に与えた影響を具体的に述べなさい。(200字以内)
 拙著『世界史論述練習帳new』にも「基本60字」p71に「ドルの地位は、1960年代から1970年代初めに大きく動揺する。その背景について説明せよ(指定語句→ヴェトナム戦争・ニクソン)」があります。

第3問
問(1)ヒッタイト
問(2)ペリオイコイ
問(3)養蚕業
聞は)占城稲
問(5)商人ギルドに対する都市の参事会への参政権を求めた闘争。
問(6)商業革命で栄える西欧向けの小麦を生産した再版農奴制が特色。
問(7)第1インターナショナル(国際労働者協会)、ロンドン
問(8)塩の行進、ガンディー
問(9)全国産業復興法(NIRA)、農業調整法(AAA)
問(10)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)