世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2014

第1問

 次の文章は、ワット・タイラーの乱についてのある年代記作者の記述である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 

 翌金躍日〔1381年6月13日)農村(ケント、エセックス、サセックス等の地域〕とロンドンの民衆は10万人以上の恐るべき大群となった。この中、ある者達は国王〔リチャード2世〕の到来を待つためブレントウッドを通りマイル・エンドに向った。他の群衆はタワー・ヒルに集まった。7時頃、国王はマイル・エンドに到着する。……民衆の指導者ワット・タイラーは民衆の名の下、国王に次の事項を要求した。すなわち、国王と法に対する反逆者を捕え、彼らを処刑する。そして、民衆は農奴ではなく領主に対する臣従も奉仕の義務もない、地代は1エーカーにつき4ペンスとする、誰しも自らの意志と正規の契約の下でなければ働かなくてよい、というものであった。国王はこれを特許状として発布した。この特許状に基づき、ワット・タイラーと民衆は、カンタベリー大司教シモン・サドベリ、財務府長官ロバート・ヘイルズ等、国王側近を捕え、首をはねた。……翌日、再びタイラーは国王に対し、「ウィンチェスター法以外の法は存在しない、同法以外の法の執行過程での法外処置を禁止する、民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃する等」を要求した。国王はこの要求をもあっさり認めたが、……その直後、ロンドン市長ウィリアム・ウォルワースが国王の面前まで突進し、ワットを捕え刺殺した。……かくして、この邪悪な戦争は終った。

 (歴史学研究会編『世界史史料 5』より引用。但し、一部改変)

 

問い この乱が起こった原因あるいは背景として、14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象が考えられる。この2つが何であるかを明示し、それらが上の資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と、この乱にいたるまでどのように関連していたか論じなさい(400字以内)。

 

第2問

 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 歴史なき民が歴史のおもてに現れる。歴史なき民がいまや歴史に積極的にかかわるかもしれぬ。歴史が、というより歴史の価値が崩れたのである。歴史を担った──そして歴史の価値を自覚的に構成した──選ばれた民からすれば、これは歴史にたいする冒瀆と反動である。乱世か革命か、1848年のヨーロッパがそれである。

 「歴史なき民」とはエンゲルスから借用した文句である。そこてまず、エンゲルスの悪評高き一文から始める。「ヘーゲルが言っているように、歴史の歩みによって情容赦なく踏み潰された民族のこれらの成れの果て、これらの民族の残り屑は、完全に根だやしされた民族ではなくなってしまうまで、いつまでも反革命の狂信的な担い手であろう。およそかれらの全存在が偉大な歴史的革命にたいする一つの異議なのだ」。ここでエンゲルスの頭にあるのは、パン=スラヴ主義の担い手たち、すなわちポーランド人をのぞく西スラヴ人と南スラヴ人、それにヴァラキア人(ロマン人、すなわちルーマニア人)などである。エンゲルスの目からすれば、これらの諸民族には未来もなければ、歴史もない。……これらの民族は、放置しておけばトルコ人に侵され、回教徒にされてしまうであろうから、そのくらいならドイツ人やマジャール人に吸収同化してもらえるだけありがたく思わねばならぬ、ともエンゲルスは別のところで言っている。

 (良知力「48年革命における歴史なき民によせて」『向う岸からの世界史』より引用。但し、一部改変)

 

問い 引用文の著者である良知は、1976年に書いたこの論文の中で、「歴史なき民」に対するエンゲルスの考え方を批判的に考察しながら、1848年のヨーロッパの諸事件においてこれらの民が担った役割の再評価を試みた。この文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているかを説明しなさい。それを批判的に踏まえながら、下線部の人々がどのような政治的地位にあったのかについて、17世紀頃から21世紀までを視野に入れて論じなさい。(400字以内)

 

第3問

 次の文章は、16世紀から17世紀末にかけて大きく変動した東アジア情勢の一端を伝えるものである。これを読んで、問1、問2に答えなさい。

 

 万暦47年(1619年)のサルフ山の戦いで大敗して以降、明朝では、女真族の軍事的脅威が高まりを見せる。こうした中で、新式火器の導入をもってかかる危機的状況を打開しようとしたのが、官僚にしてキリスト教徒として著名な徐光啓である。爾後、明朝では、徐光啓やその弟子の李之藻、孫元化などが、火器に精通し、(A.   )のポルトガル人と深い関係を持つキリスト教官僚らを中心に、新式火器の導入や火器の整備が建議・実施される。

 万暦32年(1604年)、進士となり官界に進出した徐光啓は、しばしば兵事、特に新式火器の導入による軍備充実の必要性を陳述して注目を浴びた。それは主として、ポルトガルの拠点となっていた(A.   )で製造される高性能のヨーロッパ式大砲(紅夷砲)を導入し、北京、およびその近郊や遼東諸地域の軍事拠点に配備するというものであった。同時に彼は、彼に師事する李之藻らを通じて(A.   )のポルトガル当局と独自に買い付け交渉を進め、泰昌元年(1620年)、みずから費用を工面して4門の紅夷砲を購入した。天啓元年(1621年)の瀋陽・遼陽の陥落など、いっそう深刻な状況となった対女真情勢を背景に、明朝は、徐光啓の建議を採用し、合計30門の紅夷砲を(A.   )から購入し、北京、および(B.   )や寧遠などの軍事拠点に投入した。また、天啓3年(1623年)、紅夷砲の操作に熟達するポルトガル人技師約100名を火器操作の指導者として招募し、京営での砲手育成の訓練に充当した。

  (久芳崇『東アジアの兵器革命』より引用。但し、一部改変)

 

問1 空欄(A.   )(B.   )に当てはまる地名を答えなさい。さらに、清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯を、さまざまな要因を関連づけて説明しなさい。(240字)

問2 16世紀末から17世紀末にかけて、朝鮮と明朝・女真・清朝との関係はどのように推移したのか説明しなさい。その際、次の用語を必ず使用しなさい。(160字)

 壬辰の倭乱 ホンタイジ 冊封

………………………………………

コメント

第1問
 課題は「ワット=タイラーの反乱の原因・背景……14世紀半ば以降にイギリスが直面していた政治的事件と社会的事象、……資料で問題とされている「国王側近」「民衆に対する領主権」と、この乱にいたるまでどのように関連していたか」というものでした。
 この「側近」が分かりにくい問いにしていますが、資料の中では、「国王と法に対する反逆者……領主……大司教……財務府長官……国王側近」とあるので、農奴・農民にとって敵である大領主たちであろう、と推測できます。
 後者の「民衆に対する領主権」は「民衆に対する領主権の廃止と国王を除く全国民の身分的差別を撤廃」とあるように、農奴・農民の廃止要求であり、「側近」こそ領主権をもっとも強く主張する支配層でしょう。
 平等の要求がトップにとどいたところで、一気に逆転して反乱は鎮圧されますが、ここまでこじれてしまった英国社会の原因・背景を「政治的事件と社会的事象」として整理して説明してほしいという要求です。
 課題は、

 ワット=タイラーの反乱の原因・背景
         =
  政治的事件と社会的事象……国王側近、民衆に対する領主権との関連

 さて政治的事件としてこの14世紀に考えられるのは、フランスを戦場とする百年戦争です。「14世紀半ば以降にイギリスが直面していた」とあるのを広くとれば、ランカスター家とヨーク家の抗争もありますが、反乱が1381年であれば、書かなくてもいいでしょう。
 この百年戦争は英国貴族(領主)に国民しての一体感をもたせ、国内の反乱には一致して団結して弾圧することになったはずです。そうでなくても13世紀以来、局地的ながらも農民反乱は頻発していました。14世紀のこの1381年反乱はその頂点といっていい全国的なものになりました。全領主にとっての危機といえます。
百年戦争の戦費のために人頭税が課され、1377年から1381年まで3度も課税され、とくに1381年の課税は従来の3倍に増やされました。また農奴はときに戦争に駆りだされ、従卒や人夫としてこき使われました。もう我慢ならない、という状況です。
 領主にとって何よりの危機は、百年戦争のことより、本国、いや全欧に広がった黒死病でした。これが「社会的事象」にあたります。英国の黒死病は1348年、1356年、1361-1362年、1368-1369年、1374-75年と断続的に襲ってきました。腺ペストは横ゲン(病だれ+玄)というリンパ腺の腫れががおき、肺ペストは咳といっしょに血を吐き、飛沫感染で広がりました(今問題になっているエボラ出血熱に近い)。肌は乾いてカサカサになり、腕と脚の皮下出血がどす黒く広がり、舌はひどい紫色に変色しました。チアノーゼ症状といわれるものです。この病が英国の全人口約400万人のうち100万人以上を殺します。
 農民の激減により、土地を耕してくれる者が少しでも残っていたら、領主はかれらに賦役を重くする処置をとりました(封建反動)。これに対して、そんなに重くするのなら、じゃ今の領主から離れる、逃亡する、都市に逃げ込む、という現象がおきてきます。領主に代わって、経営をさせてくれませんかと言ってくる富農(ヨーマン)も現れる。もし残ってくれる農奴・農民がいても地代の引き下げを求めてくるし、賃貸に出すと足元を見られて安く貸さざるを得なくなり、そのため収入は減るいっぽうでした。だいたい収入は半分に減ったとみられています。収穫期がせまると、作物の取り入れをする手がないために作物を腐らすよりは、むしろ、高い賃金を支払ってでも仕事をしてもらう他なかった。
 いわば農民・農奴サイドを軸に経済が動くことになったため、領主の反撃は、賃金を黒死病以前の状態にとどめよ、高賃を求めてほっき歩くものどもは額に焼き印を押せ、でした。なーに、そんな領主は無視して家族ともども逃げていけ、高賃を払ってくれる領主を見つけるのは難しくはない、どこの馬の骨かと詮索しない理解のある方だっていらあなあ、という流動的な社会になってきました。法は空文です。なにも農村だけのこれは現象ではない。都市とて、たくさん死んでいるのは同じ。手工業者・賃金労働者も雇い主に強気に出られるようになった。これに貧しい司祭(下級聖職者)も加わってきます。乱の前でも1377年、1378年、1379年と抗議集会が開かれた記録があります。
 14歳の少年王リチャード2世に甘い期待をいだいて蜂起した農民たちは結局は裏切られ、定見のない少年王も、親政の後には身内の貴族たちに裏切られ、ロンドン塔に幽閉され餓死したとのことです。

 さて以上で反乱の原因となる政治的事件・社会的事象、その中で翻弄された国王側近たる領主と怒り狂う民衆の対立はあきらかになったでしょう。ところがここに奇妙なウイルスが入ってきます。このコメントを書く前にブログでは、予備校の二つの解答例をだして、どこがまちがっているのか、と問いました。それはこの乱前後にいたウィクリフとジョン=ボールの関係です。ある参考書には「ジョン=ボールの教説がウィクリフの影響を受けていることは間違いない」と断言してあります。ちょっと調べて見れば、そんなことはありえないことが判るのに、調べなかったのでしょう。
 たとえば、ボールについて「乱の指導者のひとり、その前半生については伝記不詳。乱の起るまで約20年間広く民衆に説教を行い、気狂い僧として知られた。ウィクリフの教説に近似したものを説いたとされる。乱の当時獄中にあったが、一揆軍によって救出され、説教僧の役割を演ずることとなった」(京大西洋史辞典)と。ここにウィクリフの影響を受けたとは書いてありません。
 「乱の起るまで約20年間」とすると1361年頃からボールは活動していたことになります。ウィクリフが

異端とみなされる教説を説教しはじめたのは1378年以降であった

(エイザ=ブリッグズ著『イングランド社会史』筑摩書房、2004)、

 ウィクリフがはじめて大学からでて世に知られたのは1374年ブリュージュでのイングランド政府と教皇庁のあいだの外交交渉にくわわったときである。……彼の著作は多いが、ここでは出世作となった『命題集』(1373年〉、主著『俗権論』(1373年)および異端の書『聖体論』(1380年〉の三つをあげ……ウィクリフの教説はすでに1377年ころから教皇庁およびイングランド教会当局の注意をひいていたが、82年カンタベリ大司教はオクスフォード大学の本格的粛清にのりだし、大学のロラーズは転向するか追放され、ロラード運動の第一段階は終わる。これによってロラーズは高位聖職者を生みだす大学卒業生のあいだに同調者を獲得する機会をうばわれ、大学出身のロラーズが死滅したのち、この運動はウィクリフ的ではなくなり、中程度の教育を受けた敬虔な俗人の宗派となっていく。第二期は1382年から1414年のオールドカースルの反乱までであるが、この時期の運動の特徴はそれが大学をでて民衆のあいだの宗教運動となり、さらに下級貴族層の一部をもとらえた政治運動に発展していった点にある

(『世界歴史大系・イギリス史1』山川出版社 p.414-415)と。
 著作はラテン語で書かれており、民衆が学べるはずもなく、かれの意志をうけついだロラード派にしても1382年の段階でもまだ大学内の問題にとどまっています。ジョン=ボールとロラード派も無関係です。領主たちは一揆はウィクリフのせいだと後になって言い出しましたが、無理な主張でした。
 英国から遠い遠い日本人が、生きた時期が同じだから影響を受けたはず、という思いこみは捨てなくてはなりません。まさか時計の針が逆進することがあるのでしょうか? 三・一運動が五・四運動の影響を受けて起きた?
 古い書物ですが、トレヴェリアンはこう書いてます、

The Lollards who were brought to trial by the Church for spreading his heretical doctrines, were in no single cases accused of having had hand or part in the Peasants'Rising. Similarly the indictments of the rebels contain no hint of heresy. The rebellion was not a Lollard movement.

(England in the Age of Wycliffe G.M.TREVELYAN 1899、p.200)

https://archive.org/details/englandinageofwy01trev

 この時代の専門家マクファレンの著作では、以下。

 Ball had, in fact, been a troublesome demagogue long before Wycliffe turned his mind to politics; and the minute researches of M.Andre,Reville and other modern scholars have completely failed to establish any connection between the two men or their associates.

(Wycliffe and English Nonconformity K.B.MCFARlANE Pelican Books 1966、p.86)

 もちろん現代のイギリスの教科書にもボールやワット=タイラーとウィクリフ・ロラード派を関係づけた説明をみることはできません(世界の歴史教科書シリーズ2 イギリスⅡ 帝国書院)。

第2問
 第1問で「思いこみは捨てなくては」と書きましたが、この問題もエンゲルスの思いこみを痛烈に批判する著者(良知 力(らち ちから))の引用文からできています。
 「悪評高き一文」と指摘しているように、社会主義という世界に通じる普遍的な原理をたてたと誇っているはずの思想家が、じっさいは狭い自民族優越主義(レイシズム)に囚われている、と批判しています。ヘーゲルしかり、エンゲルスしかり、マルクスしかり、ランケしかり、……ヒトラーとつながってきます。西欧だけが先進的であり、東欧やアジアは「普遍的・人間的価値を知らぬ者、これらの民は人間であって人間でない、なお動物なのである(p.56)」という帝国主義時代の西欧人が考えていた志向と何ら変わりがありません。著者はこれを「狭隘なエゴイズム(p.18)」と呼んでます。著者はこの蔑視観を否定すべく1848年革命でのスラヴ人の役割を描いていきます。受験生に対しては、1848年のスラヴ人の動きという細かい知識はあるはずもないので、「ポーランド人をのぞく西スラヴ人」すなわち、チェコ人とスロヴァキア人の歴史を書かせることで、エンゲルスに反論せよ、という要求です。巻末の解説で安部謹也が「歴史なき民こそが歴史の担い手であり、革命の主体であったという事実を掘り起こしたのである」と述べています。これを時間は「17世紀頃から21世紀までを視野に入れて」で書いてほしいと。これは過去問の焼き直しでもあります。1992年の問題はこうでした、

 東欧諸国が大国の政治支配から脱して真の独立国家を実現するには、長い時間を要した。東欧諸国のうちポーランドまたはチェコスロヴァキアを選び、その国が19世紀以降、形式的ではあれ、国家的独立を達成してからワルシャワ条約機構解体にいたるまでの歴史過程を、国際政治とのかかわりで大きく三期に区分して述べよ。

 このうちのチェコスロヴァキア史をこの問題の時間より長く書いてほしい、という課題です。史実をもとに思いこみに反論する、これは歴史の価値です。歴史も真実を探る一方法なのですが、現代でも重要な方法です。朝鮮はいつも中国に負けている歴史、と思い込んでいる日本人のブログをたくさん見つけることができます。中国史と朝鮮史を比較してたどっていくと、じつは中国が負けつづけ、朝鮮が勝ちつづけた歴史であったことが判明します。とくに北アジア民族との関係では顕著な違いです。

 さて、17世紀からですが、17世紀以前でも、モラヴィア王国、ボヘミア王国の歴史があり、スラヴ人全体では、南部で大セルビア王国、ブルガリア帝国の歴史があります。
 17世紀の三十年戦争では、ボヘミア新教徒の抵抗から三十年戦争が始まり、ドイツ全体を混乱に陥らせましたが、結果としてアウグスブルク和議より寛容な解決で決着しました。
 18世紀の啓蒙専制君主たちはスラヴ人の自立を認めず、ヨーゼフ2世の中央集権的政策にスラヴ人は反発し改革を挫折させたました。
 19世紀半ば、フランクフルト国民議会のドイツ統一論議に対抗してプラハ民族会議を開き、スラヴ人統一を議論したこともあります。
 20世紀の第一次大戦末期から独立運動と独立宣言が発表され、パリ講和会議はチェコスロヴァキアを認めざるを得ませんでした。
 その後のナチス・ドイツの蹂躙、第二次大戦後はソ連の衛星国とされましたが、この圧政に対して「プラハの春」という市民による民主化運動がおこり、ソ連の衛星国支配を動揺させました。
 1989年革命時には、ビロード革命といって血の流れない穏やかな革命がすすみ、共産政権を倒壊させました。

 このように重大な歴史の出来事にチェック人・スロヴァキア人による行動が確認できます。

第3問
 徐光啓は『農政全書』の著者、マテオ=リッチから洗礼を受けたひと、ということしか知らないのが普通です。引用文には清朝の危機において、積極的に動いた外交官である姿が描かれています。

問1 空欄のAは、「ポルトガルの拠点となっていた(A.   )」とあり容易ですが、一箇所しかない「北京、および(B.   )や寧遠などの軍事拠点」はできなくてもいいでしょう。ヒントはあります。「サルフ山の戦いで大敗……北京、およびその近郊や遼東諸地域の軍事拠点……瀋陽・遼陽の陥落」とあり、東北の満州族・後金に対抗する拠点であることです。呉三桂が順治帝の清朝と対峙した場所でもあります。しかし李自成の反乱軍が北京を占領したため、呉三桂はここで清朝と和解し、李自成にたいして共闘することになったところです。山海関。

 次問は「清朝が明朝に替わって中国を支配するようになった経緯を、さまざまな要因を関連づけて説明しなさい」と。これも過去問の焼き直しです。1998年第3問はこうでした、

 17世紀前半、女真族が建てた後金は明軍を破って中国東北を支配し、国号を清と改めた。この清が1644年に北京に都を移してから、さまざまな対抗勢力をおさえて、中国本部の全域に対する支配を確立するまでには、およそ40年を要した。1644年以降における清の中国支配の確立の過程について、簡潔に説明しなさい。

 引用文にあるサルフ山の戦い(1619)以降どうなったのかを書け、ということでしょう。ヌルハチは明朝に勝っても南下するとほどの勢いはなく、この後に東北一帯の制圧に努めます。
 2代目ホンタイジはチャハル部を平定し、李氏朝鮮を服属させ、遼寧省の中国農民も支配下においたため、「大清」と国号を改めました。また八旗に蒙古八旗・漢人八旗を整えました。
 5歳の順治帝は叔父さんたちに補佐されて、呉三桂の明朝軍と対峙していましたが、明朝側の尻に火が付きます。李自成の反乱軍は北京を占領し、崇禎帝は自殺し明朝はここに滅びます。明将・呉三桂は順治帝との対峙を転換して清朝と組むことにし、すでに崩壊した明朝後の中国に入っていきました。
 明朝皇族は各地に後継王朝(南明)を建てて、存続を図ったものの、呉三桂たちに追い立てられて滅び、この中国入関と南明制圧に協力した呉三桂と他の漢人には三藩を与えて自治を認めたのでした。ここで終えてもいいですが、この後、三藩は康熙帝が鄭氏台湾とともに制圧して中国支配を完徹しました。

問2 時間は「16世紀末から17世紀末」で、テーマは「朝鮮と明朝・女真・清朝との関係はどのように推移したのか」、指定語句は「壬辰の倭乱 ホンタイジ 冊封」でした。この中の奇妙な問いは「朝鮮と女真との関係」です。つまり清朝になる前にはどういう関係があったのか、という問いです。これは教科書に記載がないです。参考書でも書いたものはないでしょう。指定語句なので、ここは女真「族」が後金を建国し、その後に清朝となって国境紛争をおこし朝鮮側が服属した、と誤魔化したようにしか書けないですね。あるいは後述するように、日朝の衝突を利用して女真族が台頭した、と。
 韓国の教科書(『国定韓国高等学校歴史教科書・韓国の歴史』明石書店)では次のように書いてあります、

 李成桂の先祖は武臣執権初期に故郷の全州から転々とし東北面に定着した流移民であった。この家門はやがて女真族の間で勢力を得て、恭愍王(きょうびんおう)の代に開京に進出した。李成桂は先祖の築いた強力な勢力基盤とみずからの優れた武芸で紅巾族、倭寇の撃退と東寧府征伐に輝かしい戦功を立て、ついにグ(示+禺)王末年には中央政界の実力者として登場した。
 ……鴨緑江と豆満江沿岸には多くの女真族集団がわが国の民と近住し、騒乱も頻発した。元来、女真族は半農、半狩猟の状態にあったため、食糧、衣類などの生活必需品や農機具などの生産用具を朝鮮に求めた。彼らの騒乱はこれらを得るためのものであった。朝鮮はこの女真族を放逐し、国土を拡張しようという基本目標のもとに、和戦両面政策をとった。まず女真族の帰順を奨励し、官職、土地、住宅などを与えわが国の住民に同化させると同時に、貿易所と上京野人〔鴨緑江、豆満江以北の満州族〕のための北平関などを設置し国境貿易と朝貢貿易を許可した。朝鮮は彼らに必要な塩、布木〔麻布と木綿〕、米穀、農機具などを与え、彼らは貢ぎ物として馬と毛皮をもたらした。しかし彼らの略奪行為を完全に止めさせることにはならなかった。
 したがって一方では強硬策をとった。国境地方に多くの鎮、保を設置し、各郡を戦略村にして防備を強化し、時には大規模の遠征軍を派遣して女真族の本拠地を討伐した。

 ということは、李成桂の一族が女真族とのかかわりで台頭したこと、貿易もさかんであり、時には対立したので、和戦両様の関係があったことです。
 指定語句の壬辰倭乱(じんしんわらん、1592)は秀吉の朝鮮侵略です。後の丁酉倭乱(ていゆうわらん、1597)とともに日本でいう文禄・慶長の役です。この際に明朝軍に援助を求めており、ときの皇帝・万暦帝は4万の軍を派遣します。朝鮮側は李舜臣による海戦の勝利、民間人の義兵が抵抗したため、日本軍の退散となりました。この明朝・朝鮮・日本の戦いのすきを利用して台頭したのが女真族でした。間接的には秀吉が清朝を興したともいえそうです。一方、朝鮮にとっての明朝軍支援は助けになったのか? 「明軍が来て、とくに朝鮮の危急な危機的状況を救ったというべき戦果はなく、むしろその支供(食糧類の供給)や接済(生活物資の供給)にいいしれぬ苦痛を強いられた」(崔南善『物語 朝鮮の歴史』三一書房)ともあり、ありがた迷惑とはこのことを言うでしょう。それに台頭した女真族のヌルハチが明朝を攻撃してくると(サルフ山の戦い)、明朝は朝鮮に鉄砲隊などの援軍を要請しています(引用文の同書、久芳崇『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』吉川弘文館」p.128,136)。中国が朝鮮に助けをもとめるなんて……実際にあったことです。引用文の初めにあるように、それでも負けたため、徐光啓が軍備強化のために奔走しなくてはならなかったのです。
 指定語句の「冊封」は中国を主人とし、周辺国を家臣とする外交のあり方を指しています。清朝が朝鮮を襲い、服属させました(事大の礼)。しかし朝鮮では、以前は朝鮮に臣従していたこともあり、清朝を文明国でないと野蛮視し、朝鮮こそ中華文明の遺産を受け継ぐものと「小中華」と称しました。