世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史1997

第1問(20点)
 五四運動期に起こった文化運動について、清代に流行した学術と1989年の天安門事件とを視野におさめ、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
  

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(7)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国では、仏教は後漢の明帝の時代に伝えられた正史に記録されている。インドや西域の僧侶は、いわゆるシルクロードを通って陸上から、あるいは海上から訪れ、仏典やその新しい解釈、また仏像を初めとする様々な文物をもたらした。霊験力で知られた仏図澄や、仏典漢訳で名高い鳩摩羅什などもそうした人物である。前者は(1)五胡の羯族の建てた後趙に、後者は[ a ]族の建てた後秦に仕えて、中国仏教史に名を留めている。
 一方、中国人僧侶たちも、仏教浸透とともに、教義の研究を深めた。彼らのなかには初期の翻訳仏典にあきたらず、新たな経典を求めてインド・西域に赴く者も現われた。東晋の法顕は陸路によって北インドに入り、中インド、セイロン島をへて、海路によって帰国した。彼は多くの経典を集めるかたわら仏教遺跡を巡り、10数年にわたる見聞を[ b ]としてまとめあげた。(2)唐代には、[ c ]・義浄があい前後してインドに赴き、帰国後、持ち帰った経典を漢訳した。彼らも、法顕と同じように旅行記を著わしている。これらの旅行記は仏教国の歴史・遺跡・風俗を記し、貴重な資料として今日まで読み継がれている。
 「夷狄」の宗教として幾度も(3)廃仏の憂き目に会いながらも、仏教は上記のような人物の努力によって、魏晋・南北朝時代をへて徐々に中国社会に定着した。そして隋唐時代には天台・華厳・浄土・禅など、中国の土壌に根ざした新しい仏教が生まれた。この新仏教は[ d ]とともに、(4)宋学の形成に寄与したといわれている。

(1)五胡十六国を統一した皇帝は誰か。王朝名と共に記せ。
(2)唐代にはいくつかの外国の宗教が伝播した。ゾロアスター教(拝火教)もその1つである。当時の中国ではこの宗教を何と呼んだか。
(3)比叡山天台宗の円仁は、聖地巡礼のだめに中国へ渡り、廃仏を実見した。この時の廃仏を断行した皇帝は誰か。王朝名と共に記せ。
(4)二程(程コウ・程頤)が師事し、宋学の祖とされる北宋の儒者は誰か。

B 現在インド亜大陸の一部は完全にイスラム世界に組み込まれており、ヒンドゥー教が盛んなインド共和国ですら人口の1割強がイスラム教徒である。イスラム勢力のインド亜大陸侵入は8世紀初頭ウマイヤ朝によって開始され、12世紀末には[ e ]朝がイスラム教徒による北インド支配の基礎を築いた。インド史上初のイスラム王朝は1206年に成立した奴隷王朝である。いわゆるデリー=スルタン朝は、この奴隷王朝からアフガン系の[ f ]朝までの5つのイスラム王朝を指し、いずれもデリーを都とした。これらの王朝による支配が既存のヒンドゥー教徒の社会を本格的に破壊することはなかったが、[ g ]と呼ばれるイスラム神秘主義者の布教活動などによって、イスラム教への改宗者が増加した。
 デリー=スルタン朝に続いて1526年に成立したイスラム王朝がムガル朝である。このムガル朝の時代に(5)インド=イスラム文化が成熟し、文学・建築・美術などの分野で多くの傑作が生まれた。しかし、ムガル朝の支配領域においてイスラム教徒が多数派となることはなく、対ヒンドゥー教徒政策は内政上の重要な課題であった。国家繁栄の基礎を築いた第3代君主アクバルは、ヒンドゥー教徒に対する融和政策をとって社会を安定させたが、逆に、第6代君主[ h ]はヒンドゥー教徒を抑圧して各地の反乱を招き、ムガル朝衰退の一因となった。
 ムガル朝の国力が衰えると、イギリスによるインド亜大陸の植民地化が進行した。イギリスはフランスをしりぞけて(6)現地の諸勢力を制圧し、1877年にはヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させた。その後イギリスは、反英独立運動を抑制するため、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立をあおろうとした。(7)ベンガル分割令の公布(1905年)や全インド=ムスリム連盟の結成(1906年)はその現われである。

(5)北インドの方言にペルシア語・アラビア語の語彙が混入して発達し、改良したアラビア文字で書かれた言語は何か。
 (6)19世紀半ばイギリスがパンジャーブ地方を征服した戦争は何か。
 (7)この法令は1911年に廃止されたが、イスラム教徒の多い東ベンガルには1971年に独立国家が誕生した。その国名を記せ。

第3問(30点)
 次の問題(a)、(b)に、それぞれの制限字数以内で答えよ。解答はすベて所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 (a)世界史において都市は、人間の集団生活の形態としてきわめて早い時期から、また様々な地域て出現するが、その性格は多様てある。シュメール人の都市国家、ギリシアのポリス、中世ヨーロッパの都市の各々の特色を、相違を明確にしつつ200字以内で述ベよ。
  
 (b)第二次世界大戦後フランスでは、1946年に第四共和政が成立し、1958年に第五共和政がこれに代わって今日にいたっている。この2つの共和政が旧フランス領植民地の独立化の動きに対してそれぞれどのように対処したかを、両共和政の政治形態の違いにも触れながら、200字以内で説明せよ。説明に当たっては、下記の2つの語句を適切な箇所で必ず一度は用いよ。
     ディエンビエンフー  ド=ゴ一ル
  

第4問-(A)(10点)
 次の文章(a〜c)を読み、下線部(1)〜(9)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

a 4世紀後半からヨーロッパでは諸民族の移動が相次いだ。まず、中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進に刺激されて、(1)ゲルマン民族がヨーロッパ西部から南部にかけて大規模な移動を開始した。ついで、6・7世紀には、カルパチア山脈北部からドニエプル川上・中流域にかけて住んでいたスラヴ人が各地に移動し始め、やがて(2)南スラヴ族、東スラヴ族、西スラヴ族に分化した。9世紀頃からは、スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人が南方に移動を開始した。その一部はバルト海東部から南下し、(3)ドニエプル川流域まで進出して、スラヴ人と接触した

b キリスト教会は325年のニケーア公会議で三位一体説を正統とし、教義の統一を図った。しかし、(4)8世紀前半、東ローマ皇帝レオン3世の布告を契機として、東方教会とローマ教会とのあいだに論争が生じた。その後、両者の対立は深まり、11世紀までに両教会は分離し、西方のローマ・カトリック教会に対し、東方にはギリシア正教会が成立した。この間、両教会はそれぞれ東欧地域への布教を進めた。その結果、(5)東スラヴ族は東方教会を通じてキリスト教を受け入れたのに対し、(6)西スラヴ族はローマ・カトリック教会の影響下でキリスト教化した

c 19世紀のヨーロッパにおける民族主義の高揚は、スラヴ人のあいだにも民族意識の覚醒をもたらした。(7)18世紀末に独立を失ったポーランド人、ハプスブルク帝国支配下のチエコ人・スロヴァキア人、オスマン帝国下のバルカンの諸民族は、それぞれ民族自立を求める運動を組織し始めた。他方で、スラヴ人のあいだでの同胞意識も生まれ、(8)1848年にはプラハで初のスラヴ人会議が開かれた。このスラヴ人の連携の主張は、(9)19世紀後半にはロシア指導下でのスラヴ諸民族の統一を唱えるパン=スラヴ主義に発展するが、他方でポーランド人などにはロシアの専制的支配への反発も強く、全スラヴ人の連帯は現実には困難であった。

(1)紀元後1世紀に、この民族の初期の社会について記述したローマの歴史家は誰か。
(2)次のなかで、南スラヴ族に属する人びとを選び、記号で答えよ。
  a スロヴァキア人 b マジャール人 c ポーランド人
  d クロアティア人 e リトアニア人
(3)〔1〕ドニエプル川の流域に9世紀に建国された国の名を記せ。
 〔2〕 〔1〕の国は、13世紀にモンゴル軍により滅ぼされ、この地域はサライを首都とするモンゴル人の国家の支配下におかれた。この国の名を記せ。
(4)この布告とは何か。
(5)ギリシア正教を受け入れた東スラヴ族のロシア人の支配者は、のちにビザンツ皇帝の後継者としてツァーリという称号を用いるようになる。15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し、最初にこの称号を用いた君主は誰か。
(6)このうち、ボヘミアでは14世紀末から15世紀初頭にかけてチェコ人の教会改革運動が起こる。この運動の指導者の名を記せ。
(7)1793年に2回目のポーランド分割を行なった国を挙げよ。
(8)同じ頃、ハンガリーでも民族運動が高揚した。この民族運動を指導し、1849年にオーストリアからのハンガリーの独立を宣言した政治家は誰か。
(9)この主張は、ロシアのバルカン進出を正当化するために利用された。1878年にオスマン帝国より独立し、ロシアを中心とするパン=スラヴ主義の先頭に立ってオーストリアとの対立を深め、第一次世界大戦勃発のきっかけをつくったスラヴ系の国の名を記せ。

第4問-(B)(10点)
 次の文章の[  ]の中に適切な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(7)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 ヨーロッパの18世紀は戦争とともに始まった。スペイン王カルロス2世が継嗣のないまま没したことがその発端である。遺言で(1)フランス国王の孫、ブルボン家のフィリップが王位継承者に指名され、1700年スペイン王フェリペ5世として即位した。ヨーロッパ諸国は、フランスがスペインを併合し、(2)ヨーロッパにおけるその領土と広大な海外植民地とを獲得して、国際秩序に対する脅威となることを警戒した。そのためイギリス・オランダ・オーストリアは同盟を結んでフランスに宣戦、スペイン継承戦争が開始された。この戦争は、(3)ヨーロッパのほとんどの国が参加し、大規模な国際戦争として戦場もスペインのみならず、イタリア半島、ドイツ、オランダに拡大、さらに海外植民地での英仏の衝突をともなった。
 同盟を呼びかけたのは(4)イギリス王ウィリアム3世であった。ウィリアムはオランダの[ a ]家の出身で、1688年の名誉革命にさいしてイギリスに招かれ王位についた。ウィリアムはそれ以前、総督としてフランスによる侵略からオランダを防衛し、さらに(5)領土拡張政策をつづけるフランスを包囲するため、1686年には、自ら中心となって、オーストリア(神聖ローマ帝国)皇帝、ドイツ諸侯、スペイン王とともにアウグスブルク同盟を組織した。1688年に勃発した[ b ]継承戦争は、このアウグスブルク同盟とフランスとの戦いであった。ウィリアムを王に迎えたイギリスはそれ故、フランスとの対立を決定的に深めることになる。こうして17世紀の末にイギリスは、国際商業の覇権を争って(6)17世紀中に3度にわたって交戦したオランダとの対立関係を解消し、かわって英仏の対立が、その後1世紀以上にわたってヨーロッパの国際関係の一つの基軸として維持された。スペイン継承戦争の戦況は、フランスの不利のままに終始したが、1711年に皇帝ヨーゼフ1世が死去し、対フランス同盟がスペイン王に擁立していたカール大公が皇帝に即位したため、今度はハプスブルク家の勢力の強大化を懸念したイギリスが、戦争継続の意志を喪失、1713年ユトレヒト講和をもって終息した。講和条約はフェリペ5世の王位を承認したが、スペインのヨーロッパにおける属領は分割された。イギリスは条約によって(7)地中海や新大陸に新たな領土を獲得したが、さらにアシエントと呼ばれる[ c ]貿易の独占権をスペインから譲渡されたことは、その後のイギリス経済に多大な影響を与えた。

(1)この王は誰か。
(2)スペインが本国以外にヨーロッパに有した領土を1つ記せ。
(3)皇帝側にたって参加したブランデンブルク選帝侯はその功績によって、王に任じられた。その王の名と王国の名を記せ。
(4)ウィリアム3世時代の1701年に制定された王位継承法は、次期国王のアン女王の後は、ドイツのある選帝侯領の君主がイギリス王位を継承すべきことを定めた。この選帝侯領とはどこか。
(5)ライン左岸で、この時期にフランスによって併合され、その後19・20世紀になってもフランス・ドイツ間で帰属が争われた2地域はどこか。
(6)この戦争の原因となったイギリスの立法は何か。
(7)地中海・新大陸にイギリスが獲得した領士をそれぞれ1つずつ記せ。

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コメント 
第1問
 問題をはじめて見たとき違和感をかんじます。これは受験生もそうだったのではないか。そして問題を解いていっても一向にこの違和感が消えません。
 一応解いてみます。問題の主問(主たる要求、主テーマ)は「五四運動期に起こった文化運動について」です。副問(副次的要求)は「清代に流行した学術と1989年の天安門事件とを視野におさめ」ということ。事務的な要求は「300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ」です。
 この問題の出しかたは、92年度の「アヘン戦争における敗北と太平天国による動乱を経た清朝は、さまざまな近代化政策を採らざるをえなくなった。この動きのなかで、戊戌の変法はどのような位置を占めているのか、日露戦争の前後までを視野におさめ、300字以内で述べよ」というのと似ていて、あるテーマの前後を視野におさめて、という一般に「意義」を述べさせるときの問題のだしかたです。それはそれなりに世界史の論述問題としてなにも不思議なところはありません。
 「文化運動について」……あっこれは、いわゆる文学革命だ、白話運動だ、ということはわかります。それで清代とくれば考証学とか公羊学とか……、ときて、もうひとつの「1989年の天安門事件とを視野に」とさいごにあるので、天安門事件とくれば「民主化要求」だ、「民主化」とくれば『新青年』の「民主(と科学)」につながる。これで解けた。ということにして答案をつくってみます。
 <解答例>
西欧の進出に対抗できない考証学にかわって、「中体西用」を唱えた朱子学、その挫折を救う公羊学の変法運動と変ったが、いずれも儒教が前提である。この時期、儒教道徳にもとづく家族制度を批わかする文学革命がおこされた。民主と科学を唱える陳独秀創刊の『新青年』、胡適の白話の主張、魯迅の『狂人日記』『阿Q正伝』などがこの運動を発展させた。また、その中心となった北京大学では李大 (金+リ)らによってマルクス主義研究会が起こされた。文学革命の継承者を任ずる共産党は個人独裁を強制し市民的自由を制限してきた。毛死後の現代化政策は民主と自由の必要性を呼びさまし、天安門事件で大学生は民主化を要求したが血の雨で共産党はこれを封殺した。
 さて、これでいいのか?
 いろんな疑問がわいてきます。
 (1)「民主化」の要求は文化運動だろうか? 政治運動ではないか。
 (2)「五四運動期に起こった」という最初の文は時間的なこと「期」を示しているだけですが、しかし、なにか、五四運動と文化運動の関係、さらに天安門事件との関連を問うているようでもあります。というのは天安門事件も五四運動も天安門に学生が集まってはじまったことであり、大学・学生が主体になった運動としては共通点をもっているからです。1989年は五・四運動70周年、建国40周年でした。しかし、天安門事件の前に後に、なにか文化運動はあったのか? あったとしても知らない。「視野におさめ」とはなにをさしているのか?
 (3)なぜ「清代」なのか? 清代300年間の学術全部なのか? 「清末」のまちがいではないのか?
 疑問がわいてきても振り払って問題を解かなくてはいけないのが受験生のつらいところです。そばに弁護士はいない。
 京大の『新編東洋史辞典』の「新文化運動」の項目を開くとこうあります、
 「また五・四新文化運動(五・四文化革命)とも呼ばれるように、1919年の五・四運動の前後にわたり、それをもっとも顕著な事件とし、かつそれによって決定的に性格づけられた一連の文化運動の総称。そのもっとも有力な推進者は雑誌「新青年」(1915年陳独秀によって創刊)と、それに拠った陳独秀・胡適・魯迅・呉虞・李大 (金+リ)・銭玄同・周作人らで、彼らは文学革命、儒教・礼教批わか、文字改革、人道主義などを大胆に提唱し、学生・青年に深い共鳴を呼びおこした。すなわち儒教に象徴される旧文化・旧道徳を打倒してデモクラシーとサイエンスとに基づく人道的・進歩的文化を作り出そうとしたのであるが、当時の中国の事情として、それが必然的に政治的要求、とくに反帝国主義・反封建主義の要求となって爆発し、五・四運動となった。ことにこの新文化運動の過程から、マルクス主義運動がおこり、21年中国共産党結成となった点は注目すべきである。」
 この説明を読むと、今年の問題の答えがあるように思えます。しかし「五・四運動」と「新文化運動」とが、いやに密接になっていることが不思議です。「文化を作り出そうとした……反帝国主義・反封建主義の要求となって爆発し、五・四運動となった」というあたり。ちぢめると「文化→反帝→五・四」ということらしい。
 なぜ「文化」が「反帝・反封」になり、それが「五・四運動」につながっていくのか? 前半の「文化」→「反帝・反封」はある程度わかるが、後半の「五・四運動」との関連は不可解です。教科書の記述にあわないのではないか。教科書(ここでは『詳説世界史』をとりあげますが、どれも似たり寄ったり)は五・四運動について、「中国は1919年パリ講和会議で、二十一カ条のとりけしや、山東におけるドイツ利権の返還を提訴したが、列国によってしりぞけられた。中国民衆はこれに激しい衝撃をうけ、同年5月4日、北京大学の学生を中心に抗議デモがおこなわれた。この動きは条約反対や排日の声となって各地に波及し、日本商品の排斥やストライキがおこり」と記述しています。ここに文学革命のどんな影響があるというのだろうか? 「民主」化を求めたという記述はありません。
 だいたい、当時の天安門には「民主」のスローガンなんてなく、教科書の記述どおりです。
 天安門に大きな旗がたてられ、長方形の白布に書かれていた言棄は次のようなものでした、
<還我青島>(われに青島を返せ)
<保我主権>(わが主権を守れ)
<寧為玉砕勿為瓦全>(瓦とな?チて命を全うするより、玉とな?チて砕けよう)
<北京学界同輓売国賊曹汝霖章宗祥遺臭千古>(北京学生界は共に、売国賊曹汝霖、章宗祥が末代までも悪名を残すことに哀悼の意を表す)
 さいごの名前は親日官僚で学生が槍玉にあげた二人であり、天安門から行進した学生は曹汝霖の家を襲い焼いてしまい、章宗祥を殴打します。これらのスローガンはなにも新文化に触れていません。一般のひとも、儒教の信奉者も共鳴できる内容です。
 しかし一方で、行進途中に「大アメリカ万歳 ! ウィルソン大統領万歳!」と唱和してもいます。反帝国主義運動だというのもあやしい。もっとも「反帝国主義」という表現をここで使っている教科書があるのでこの旗は降そう。どうにしろ「民主」の要求は見あたりません。
 では1989年の天安門に「反帝国主義」のスローガンはあるのか? これも見当たりません。むしろ政府も温和な西欧化(現代化)を求めており、学生も西欧的民主化・ゴルバチョフのペレストロイカに共鳴している。党独裁だけは守りたい政府が学生の要求をつぶしたのです。
 民主化を求める動きは散発的に人民共和国の中国にはあったが、いつもつぶされてきました。1956〜57年の「百花斉放、百家争鳴」という毛沢東みずからはじめ、批判者のあぶりだしをやっておいて結局多くの知識人(55万人)を弾圧しました。反右派闘争といいます。1966年からの文化大革命でも民主化を求めるひとがわずかにいたが、投獄・獄死の憂き目にあっています。1976年に周恩来首相が亡くなり反四人組の抵抗はあった(第一次天安門事件)がつぶされました。1978年以降の (登+おおざと)小平復帰と現代化の動きのなかで「民主の壁」がきずかれ、「第五の現代化=民主化」求めた魏京生は今も獄中にあります。1987年ころから政府の政治改革論議に動かされて大学教授や学生が民主化を要求するようになり、推進者と思われた胡耀邦総書記の突然の死去が天安門事件に発展します。しかしテレビで釘付けになっておおくのひとが見たように6月4日「血の日曜日事件」(六・四運動)となってしまいました。かつての五・四運動のころのほうが雑誌・新聞の発行は自由でした。
 いや中国の文学も思想も要するに政治と切り離せないのだ、という前提であれば、問題を「文化運動について」などとあいまいな言いかたをしないで、きっぱり「政治思想について」とすべきでした。学生はこの問題を解く意味がありません。無視しましょう。

第2問
 Aは中国への仏教流入史で、Bはインドへのイスラム教流入史です。
A 空欄a 鳩摩羅什が仕えた後秦の民族名を問う、という気違いみたいな問題。前秦という (さんずい+肥)水の戦いにでてくる民族名は問われるときがあるが、これは見たことのない問題。絶対に100点はやらないぞ、という出題者の意気込みがかんじられます。
 空欄b 法顕の見聞録の名を問うた易問。『法顕伝』というのが日本ででている訳本名です(平凡社・東洋文庫『法顕伝・宋雲行紀』)。『高僧法顕伝』でも『歴遊天竺記伝』でもいいのですが。
 空欄c 義浄とともに渡印し旅行記をのこした人物名という、これも易問。漢字が正しく書けるかが問題。
 空欄d 新仏教とともに宋学の形成に寄与したものはなにか、という問。難問かも知れない。宋学に道教の影響があったと書いた教科書はそうない。三省堂の『世界史B』には「宋学は旧来の貴族と結び付いた仏教を排斥したが、一方ではその仏教や道教をもとりいれて新しい体系をつくった」とあります。
 下線(1) 五胡十六国を統一した皇帝と王朝名を書く易問。
 下線(2)  (示+天)教の「(示+天)」という字が正しく書けるかどうか。「天」なのに「夭」になってしまう。
 下線(3) 王朝名は易しいが、円仁(えんにん)が中国にいたときの廃仏を断行した皇帝は誰か、というのは難問。「三武一宗の法難」という北魏太武帝・北周武宗・唐武宗・後周世宗と4人の名をあげれる受験生は少ないでしょう。まだ唐末(845)の廃仏はなんというか、という問のほうが「会昌の廃仏」と書けたかもしれない。長安にいた円仁は外国僧追放令にあい帰国させられ『入唐求法巡礼行記(にっとうじゅほうじゅんれいこうき)』を著しました。
 下線(4) 漢字が問題。『太極図説』を著した周敦頤の「敦」と「頤」が正しく書けるか。
B 
 空欄e ヒントは「12世紀末」と「北インド支配の基礎」の二つ。ガズナ朝と迷っても、「12世紀末」1186年からアフガニスタンの支配者はゴール朝に変っていて「末」にガズナ朝は存在しません。ガズナ朝はインドへの侵入はしたが「北インド支配」まではできなかった。歴史地図を参照すればインダス川流域までであることがわかるでしょう。「北インド」はガンジス川流域も入ります。
 空欄f これも易問。「アフガン系の」と「朝まで」のイスラム王朝ということだから、デリー=スルタン朝は大半トルコ系だが、さいごの王朝は「アフガン系」でこれはなにか、という問い。
 空欄g イスラム神秘主義者をなんというか。できなくてはいけない問題です。「スーフ」はアラビア語で「羊の皮」を表す語で、「スーフィー」はそこから派生した「羊の皮をまとった者」を意味します。禁欲的に清貧に生きようとしたイスラム教徒は粗末な身なりをし、中には羊の粗皮のみを羽織った者もおり、かれらをスーフィーといったようです。はじめは禁欲だけだったのに8世紀半ばに、バスラのラービアという女性神秘家が登場し、修行重視に傾きがちであった禁欲運動に、純粋な神への愛という観念を持ちこんだらしい。最終的な目標は神への純粋な愛、神との真の合一で、理知的な知識ではなく、直観知を得ることでした。それを得るために呪文(じゅもん)のようなものを唱えたり、狂ったように踊る。さらに一般の人にもわかりやすい「聖者崇拝」がスーフィーに見られます。「聖者」とはスーフィーの聖者で、主に各教団の創立者を指しています。神との合一を果たした者、神に作用を及ぼしうる人とされ、聖者のもつ「バラカ(呪術(じゅじゅつ)的力)」を期待してかれらを崇拝する。この聖者が死ねば墓が崇拝の対象になる。こうしてかぎりなく偶像崇拝に近づきます。見えない神より見える神(偶像)のほうがわかりやすい。
 こうした神秘主義や変化は世界のどこでも見られます。古いところではウパニシャッド哲学の「梵我一如(ぼんがいちにょ)」があり、ルターに影響を与えた西欧中世末の神秘主義があります。
 見えない神から偶像への転換も、仏教のガンダーラ仏製作やケルト人の聖者崇拝をキリスト教の聖人崇拝に切り換えていったローマ・カトリックの伝道があります。カトリックは今もマリヤ崇拝をはじめとして「聖○○○の日」や多くの聖人彫刻をもっています。キリスト教も見えない神を拝んでいるはずなのですが。わかりやすさは「改宗者が増加」の条件です。
 空欄h アクバル帝とは対照的な「ヒンドゥー教徒を抑圧し」た君主はだれか、という易問。
 下線(5)(7) ガズナ朝・ゴール朝・デリー=スルタン朝とつづく外来者の侵入がつくあげた言語で、もともと「高貴な陣営の言葉」という意味をもっています。つまりは軍人のあいだでできあがっていった言語です。パンジャーブからデリー周辺で使われていたインド・アーリヤ語系の方言に、外来者の「ペルシア語,アラビア語の語彙が混入して」徐々に発達したのがウルドゥー語です。ウルドゥー語はインドでは標準語の一つとして北インド一帯を中心に数千万の使用者があり、パキスタンでは国語としての普及活動が熱心に行われています。ウルドゥー語の東パキスタンへの強制が独立運動の一因となり下線設問(7)のバングラデシュの独立となりました。
 下線(6) 「19世紀半ば」1948〜49年、「イギリスがパンジャーブ地方を征服した戦争」は第二次シク戦争(シク戦争)。時間的には1845〜46年の第一次シーク戦争でもいいが「征服」とあれば第二次です。シク戦争でも正解にしてくれるでしょう。第一次で東部、第二次で西部を得ました。

第3問
 (a) 易しそうに見えて意外とむつかしい問題。
 「相違を明確にしつつ」という問い方をすれば、たいていの学生の(多くは予備校のも)解答がこの問い方を無視するものです。たとえデータ面でむつかしくなくても、この論述の「方法」がむつかしいらしい。いや、むつかしくはないのだが、だいたい「相違を明確にしつつ」書く書きかたがわかっていないためです。論述の方法なんていらない、なんていう安直参考書は論外です。
 一例をあげましょう。これはたいていの学生・予備校の書く答案です。
解答例 > 
シュメール人の郡市国家は神殿、宮殿、王墓がつくられ、最高の神官・戦士でもある王が人民や奴隷を支配する神権政治が行われた。ギリシアのポリスは重装歩兵市民団の共同体として発達していき、成年男子の出席する民会による民主政治が行われるようになった。中世ヨーロッパ都市は遠隔地商業の発展などを背景に交易の拠点として成長していった経済的都市であり、自治権を獲得した大商人が市政を独占し、ギルド規制はきびしかった。

 三つの都市の一つ一つの文を取りあげるなら歴史的に間違いはなにもない。しかしこの答えは「相違を明確にしつつ」書いているのか? あとの筆者の文を読まないで自分で確かめてみるるといい……さあ自分で確かめることは大切ですよ。
 どうでしたか? 
 シュメール人の都市国家について書いてあるのは〔1〕「神殿、宮殿、王墓がつくられ」という都市の中心的建物を書いている、〔2〕「最高の神官・戦士でもある王が……支配する」という支配層が示されており、〔3〕「が人民や奴隷を」と被支配者のことも書いている、〔4〕「神権政治」という政治のありかたが描かれています。
 とすると他の二つの都市もこの4つのことで比較して「相違」が描かれているか?
 ギリシアのポリスは〔5〕「重装歩兵市民団の共同体として発達していき」と都市の発展過程か、あるいは都市経営の主体が書かれ、〔6〕「成年男子の出席する民会」という政治の機関が書かれ、〔7〕「民主政治」という政治のありかたが描かれています。
 シュメールに〔1〕「神殿」という空間が出てくるのなら、ギリシアの都市も相違として「アゴラ(広場)」という空間を持ってきたほうがいい。一方で書いて他方で書かないと「相違」がわからないのです。
 〔2〕シュメールの「神官・戦士でもある王」という支配者にたいして、〔5〕「重装歩兵市民団」はいくらか相違になっています。もっとクリアな「相違」は、都市の住民がシュメール人の場合は、王・神官・役人・軍人・職人・農民(都市に農民も住んでいた)と、皆なんらかの専門的職責をもっているのにたいして、ギリシアの場合は「市民」たるものは軍人であるだけでなく、農民・職人であるものが、くじ引きで神官にも役人にもなってしまう素人集団であったことです。
 〔3〕シュメールに被支配者は書いてあるが、ギリシアの場合は言及がない。ギリシアには「奴隷」が重要な意味をもっているはずですが。
 〔4〕神権政治と民主政治で、政治のありかたは「相違」になっています。
 こんどは中世都市について、〔8〕「遠隔地商業の発展などを背景に交易の拠点として成長していった」と都市発展の背景が書かれ、〔9〕「経済的都市」だと都市の性格を一言で言い切った表現があり、〔10〕「大商人が市政を独占し」という支配層が書かれ、〔11〕「ギルド規制はきびしかった」という限界みたいなものが描かれています。
 二つになかった都市成立の〔8〕国際的背景が書かれているので、これは唐突。もちろん「相違」は言えてない。逆にシュメールのような〔1〕建物は書いてない(中世都市なら広場で向きあうかたちで立つ教会と市庁舎)。〔9〕のように言うのなら、前者二つが政治(軍事)都市であったことをどこかで指摘すべきだった。なんとか〔10〕と〔2〕〔5〕の支配層は書いてあります。しかし政治のありかたは前者二つにあったのですが、中世都市の政治のありようはどうだったのか? 神権政治でも民主政治でもなければ、市参事会による共和政治を書かないと片手落ちです。これも被支配層は書いてない。〔11〕は前者二つのどれと対比したらいいのかわからない。
 結局、三者が「相違」になっているところは支配層のところだけです。
 世界史のデータをたくさん学べばおのずと論述の知識は得られるよ、と簡単に考えている学生や先生はおおい。しかしデータはできあがっていても、例のような解答では点がとれない。書いたデータに対応させながら次のデータを入れこんでいくという方法を身に付けていないと得点は望めない。とにかく知っていることを書けば、なんとか点はくれるんじゃないの……、という甘さ。上で筆者が「相違」を見つける努力をしたみたいに、「相違」は見つけてくれるよ……、と採点者に「相違」を委ねてしまうことになります。

(b)主問は「2つの共和政が旧フランス領植民地の独立化の動きに対してそれぞれどのように対処したか」で、副問は「両共和政の政治形態の違いにも触れながら」、事務的要求は「200字以内で説明せよ。説明に当たっては,下記の2つの語句(ディエンビエンフー、ド=ゴ一ル)を適切な箇所で必ず一度は用いよ」です。これも「違い(相違)」を求めた問題。主問に「違い」のことばはないが、「2つの共和政が……それぞれどのように対処したか」が同じ対処であれば、この問題はなかったからです。

 (a)の三つの比較よりは易しいが、指定語句が与えられると罠にはまります。語句はヒントにもなり語句を説明することで完成すると思ってしまいやすい。しかし問題は問題文にあるのであって語句にはないのです。指定語句はほんの一部のヒントにすぎない。語句に負けて問題を忘れてしまいやすい。そうした例をあげてみましょう。
<解答例 >
第四共和政は、ホー=チミンの独立宣言を承認せず、インドシナ戦争を起こしたが、ディエンビエンフーの敗北により1954年ジュネーヴ協定を結んでヴェトナムから撤退した。また同年アルジェリア独立戦争が起こると、現地の仏軍は本国政府に反発して反乱を起こした。この反乱に苦慮した政府が崩壊すると、政権を樹立したド=ゴールは大統領権限の強大な第五共和政をつくり、1962年のエヴィアン協定でアルジェリアの独立を承認した。

 この解答例も間違いはないが、「違い」がどれだけでているか、問題の要求にどれだけあっているか検討してみましょう。
 文章上、政治形態から説明するのがやりやすいので、副問から見てみます。解答例は第四共和政の政治形態はまったく述べていない。第五共和政にかんしてだけ「大統領権限の強大な」とかんたんに触れています。これでは要求に応じていないことになります。『詳説世界史B』には「46年10月新憲法が成立して、第四共和政が正式に発足した。しかし、第三共和政以来の政局の不安定はその後も続いた」という記述がある。この「政局の不安定」だけでも書けたのではないか。「優勢だった左翼政党」という記述は山川出版社の『世界史A』で見ることができます。第五共和政の「大統領権限の強大さ」は清水書院、実教出版、第一学習社などの教科書が書いています。
 教科書にあるように第三共和政と第四共和政とは、類似点が多く、議会の力が優勢であり、行政力は後退していました。議員や政府は、選挙民の意向をよく反映し、第四共和政では旧社会党と共産党の勢力が大きかった。これとは対照的に第五共和政は、大統領に代表される強い行政権が特色。大統領は、首相を任免する権限をもち、国民議会(国会にあたる)を解散することができる。また、重要と判断される問題については直接国民投票を実施でき、非常時には大権を発動することができる。国民議会の地位は大幅に低下したのです。
 主問の「独立化への対処」は「ホー……撤退した」まではインドシナ戦争のことをいい、あとアルジェリア独立戦争にうつっています。ところが第五共和政になると、なぜかアルジェリア独立のことに限られています。この問題の要求は、ある特定の独立戦争をあつかうことが課題ではなく、二つの共和政の「独立化への対処」だから全体的な(全「旧フランス領植民地」にたいしての)姿勢を問うているはずです。とすれば、第四共和政は独立を抑え、第五共和政は独立を容認・推進した、という基本的姿勢の「違い」を書くべきです。
 そんなこといちいち書かなくてもわかっているよ、と言うなかれ。かんたんなわかりきったことをいちいち書いて説明するのが「論述」問題なのです。あるいは解答例の作者は語句にいつのまにか縛られたのでしょう。「ディエンビエンフー」は指定されているので仕方なく書かざるをえなかったが、使えばあとは解放されて好きなようにつづったのかも知れない。第五共和政のド=ゴールの外交政策として1960年の「アフリカの年」は見逃せないはず(17の独立国のうちフランスからは11国が独立)。けっしてアルジェリア独立だけが「独立化への対処」ではない。

第4問
(A)設問(1) 「紀元後1世紀に」とあるから『ゲルマニア』を著したタキトゥスになる。もし紀元前1世紀とあれば『ガリア戦記』のカエサルだった。
設問(2) スラヴ族は問題文にあるとおり3種類に分けます。東欧の北から西スラヴ族のcポーランド、チェコ、モラヴィア、aスロヴァキア、シレジア、南方の南スラヴ族のセルビア、dクロアティア、スロヴェニア、ボスニア、ブルガリア、そして東方ロシアの東スラヴ族にあたる白ロシア(ベラルーシ)、大ロシア、小ロシア(ウクライナ)という具合。bマジャール人はアジア系、eリトアニアはバルト語族。ユーゴスラヴィア(南スラヴの意味)がかつてセルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国といったことを思い出してもできた問題。
設問(3) 〔1〕キエフ公国はドニエプル川に接しているが、ノヴゴロド国は北のボルホフ川に接しています。〔2〕キエフ公国陥落のすがたは、ここを通ってカラコルムに向かったプラノ=カルピニの旅行記に見ることができます。キプチャク汗国の「キプチャク」はもともとトルコ系の遊牧民の名前で、ヴォルガ河上流にいたが、しだいに南下してサライのある下流域にきていました。
設問(4) 聖像禁止令(聖像崇拝禁止令、聖画像崇拝禁止令、イコノクラスム)という名からは人物彫刻を拝むのかと思ってしまうが、ちがう。イコン(コンピューターのアイコンと同じ)という多くは板に描かれた聖人像を拝みます。厚さはいろいろあるが大抵は3cmくらいの厚さの板ですこしカーヴしています。これを壁にかけて拝むのです。イコンの実例はhttp://www.byzantinart.com/en/pages
設問(5) ツァーリという称号を最初に用いた君主は誰か、と問われたら迷う面があるが、「15世紀後半にモンゴル人の支配から自立して東北ロシアを統一し」とあればイヴァン(イワン)3世しかない。
設問(6) ウィクリフの影響を受け、コンスタンツ公会議で異端となり処刑された人物。
設問(7) 第二回分割のときはオーストリアが参加していない、という知識があるか、を問うた問題。
設問(8) コッシュート Kossuth Lajos はポーランドの民族運動家コシューシコ(コシチューシュコ)Tadeusz Kosciuszko と間違えやすい。「コ」ではじまって「コ」でおわる名前がポーランドのひと。「ココはポーランド」とおぼえます。それぞれの肖像はhttp://www.dfmk.hu/kossuth/kossuth.htm とhttp://www.polishworld.com/polemb/const/tk.html にあります。
設問(9) 「第一次世界大戦勃発のきっかけ」とあればサライェヴォ事件、ボスニアの首都のサライェヴォだが、事件を起こしたのはセルビアの青年プリンチプ、オーストリア政府の捜索をセルビアが拒否することで戦争へ。
(B)
 異常に詳細な1700年前後の西欧国際関係の問題文ですが、問はむつかしくない。
空欄a 名誉革命のときにメアリ2世とともにイギリスにわたりウィリアム3世となる人物の家の名、という易問。オラニエ(オレンジ)。
空欄b ぱっとは思いつかない戦争かもしれないが、ルイ14世がかかわった戦争で1701年のスペイン継承戦争の前のものとして文章が説明してあるから、この戦争の前のものと考えればいい。とすればルイ14世の戦争が、ネーデルラント→オランダ→ファルツ→スペインという順を覚えていたらできます。ルイ14世の戦争は「寝てるオラ伏す」の順。
空欄c 「アシエント」という細かい用語をだされては受験生はつらい。スペイン語で「契約」の意味で、つられて詳しいことをいえば、スペイン領新世界植民地への黒人奴隷供給契約のことです。スペイン領植民地は深刻な労働不足状態にあったから、この契約にもとづく奴隷供給とそれに伴う商品貿易は莫大な利潤があがると信じられ(実際はそれほどでもなかったらしい)、この契約をめぐる争いが重商主義戦争の一因となりました。フランスが1701年のブルボン家成立とともにこの契約権をもっていたが、このユトレヒト条約でイギリスがこれを奪いました。
設問(1) ルイ14世にかんしては、3つの年代をおぼえておかなくてはいけない。問題文にでてきたスペイン継承戦争の1701年だけでなく、親政開始の1661年(康熙帝即位の年でもあり)、ナントの勅令廃止の1685年。死ぬ1715年からルイ15世です。
設問(2) ユトレヒト条約(1713年)以前だから、ナポリ王国、両シチリア王国、南ネーデルランド(低地南部、ベルギー)。
設問(3) フリードリヒ1世は対仏戦争にたいして皇帝支持を表明したため喜んだ皇帝は、公国を王国に格上げしたのです。従来、ブランデンブルク・プロイセン公国といっていたものを神聖ローマ帝国領外にあるプロイセン公国の名だけをとりこの王国が成立しました。
設問(4) デンマークの王子と結婚していたが、アン女王にも子がなく遠縁のハノーヴァー家となった。
設問(5) アルザス・ロレーヌは1648年のウェストファリア条約によって、完全ではないが、ほとんどの土地がフランスのものになっていました。
設問(6) 航海法(航海条例)は英蘭戦争の一因であって、これだけではないが、教科書はこれだけを書いています。他に北海の漁業権問題、アンボイナ事件賠償問題もありました。
設問(7) 後のフレンチ=インディアン戦争で獲得したところと間違わなければいい。新大陸ではカナダの東北部の沿岸部(ハドソン湾岸、ニューファンドランド、アカディア)と地中海ではジブラルタル(海峡のことでなく海峡沿いの都市の名前、スペイン政府は返せとイギリスに要求していますが、今もイギリスは無視を決め込んでいます)とミノルカ島。

<解答例>
第1問
  (君の答え)
第2問 A 空欄 a 羌 b 仏国記 c 玄奘 d 道教 問(1)北魏・太武帝 (2)ケン(示+天)教 (3)唐、武宗 (4)周敦頤  B 空欄 e ゴール f ロディー g スーフィー h アウラングゼーブ 問(5)ウルドゥー語 (6)シク戦争 (7)バングラデシュ 
第3問
  (君の答え)
第4問─(A)問(1)タキトゥス (2)d (3)〔1〕キエフ公国 〔2〕キプチャク=ハン国 (4)聖像禁止令 (5)イヴァン3世 (6)フス (7)ロシア、プロイセン (8)コッシュート (9)セルビア
第4問─(B) 空欄 a オラニエ b ファルツ c 奴隷  問(1)ルイ14世 (2)ナポリ王国 (3)フリードリヒ1世、プロイセン王国 (4)ハノーヴァー (5)アルザス・ロレーヌ (6)航海法 (7)ジブラルタル(ミノルカ)、ハドソン湾岸(ニューファウンドランド、アカディア)