世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2002

第1問(20点)
 隋を受け継いで大帝国を樹立した唐は、近隣の諸国や諸民族に大きな影響を与えた。唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもったモンゴル高原、チベット、雲南地方の諸国や諸民族の7世紀から9世紀にかけての興亡について、300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)~(15)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国においては、その南北で風俗・景観・生産に大きな差異がある。たとえば農業では、あわ・きび・[  a  ]などは主に北部の畑作地帯で作られ、稲は主として南部で作られる。その境界は、だいたい淮河付近にある。平和が回復した宋の時代には、(1)産業が盛んになったが、農業においては江南地方の開発がめざましかった。米作では技術改良や新田の開発が進んで、米の生産高が増大し、長江下流域は穀倉地帯となった。「蘇湖(蘇常)熟すれば天下足る」のことばは、それを物語る。江南ではまたこのころ[  a  ]の栽培も行われるようになって、その経済力は華北地方をしのぐほどになった。さて米の生産量はその後も拡大したが、(2)長江下流域では商品作物の生産が増えた結果、長江中流域の[  b  ]地方が、新たな穀倉地帯として浮上した。宋以後の王朝、とくに現在の北京に首都を置いた元・明・清朝にとって、江南地方の穀物をいかに首都に輸送するかは、重要な問題であった。
 (3)
モンゴルは、アジアとヨーロッパにまたがる空前の大帝国を建てたが、13世紀後半に即位したフビライは、大都(現在の北京)に遷都して元朝を開いた。(4)その後南宋を滅して、その領土を併合すると、江南の穀物を大都に送るために、新たに運河を開削して、それを利用する方法や、[  c  ]による方法を試みたが、最終的には後者の方法により輸送した。元に代わって中国を統一した明朝は、その初期には南京を首都にしたが、(5)甥(おい)の建文帝から帝位を奪った永楽帝は、早くから北京を事実上の首都としたので、江南の穀物を北京まで輸送しなければならなくなった。永楽帝は元のときに掘られた運河を開削し直して、(6)北京から江南地方まで現在とほぼ同じコースを通る大運河を完成すると、[  c  ]をやめて、大運河で穀物を輸送した。17世紀前半に明が、[  d  ]の反乱により滅亡すると、(7)清朝が東北部から本土に進出して、北京に遷都した。清もまた大運河を利用して、江南の穀物を北京に輸送した。大運河は物資輸送の大動脈であるとともに、交通路としても利用され、官僚・商人・兵士・農民・(8)外国人その他大勢の人びとが、ひんぱんに往来した。

(1)宋では産業が興って、商業が盛んとなり、銅銭を主とする貨幣経済が発達して、紙幣も使用された。宋代に使われた紙幣の名を2つあげよ。
(2)明代の長江下流域の農村で発達した主な家内工業を2つあげよ。
(3)モンゴル軍は、ヴェトナムに数回侵入した。(ア)当時ヴェトナム北部にあったヴェトナム人の王朝は何か。また、(イ)この王朝時代に漢字をもとに作られた独自の文字は何か。
(4)元では、旧南宋領にいた人びとは、身分的に最下位に置かれていた。かれらは、何と呼ばれたか。
(5)この内乱を何と呼ぶか。
(6)大運河は、現在の山東省を通る。そのコース沿いにかつてあった湖を根拠地に、主人公たちが活躍するのを描いた口語体の長編小説は何か。
(7)北京に入城する以前に組織された清の軍事的・社会的な組織を何と呼ぶか。
(8)イギリスが貿易交渉のために派遣した大使らが、帰国するために1793年大運河を通行した。この大使は誰か。

B ギリシア系の[  e  ]朝の滅亡後ひさしくローマ帝国およびビザンツ帝国の支配下にあったエジプトは、7世紀半ばアラブ・イスラム軍によって征服され、ここにエジプトのイスラム時代がはじまった。
 9世紀になるとエジプトに独自のイスラム王朝が成立し、10世紀後半には、(9)
北アフリカにおこったシーア派のファーティマ朝がエジプトを占領した。(10)ファーティマ朝君主はカリフを称してアッバース朝カリフに対抗し、首都カイロはシーア派文化の中心となった。しかし、エジプトのシーア派化はあまり進行せず、1171年にクルド人の武将[  f  ]がファーティマ朝を滅ぼし、スンナ派のアイユーブ朝をひらいた。アイユーブ朝は十字軍との抗争に苦しみ、マムルーク(奴隷軍人)を多数登用して彼らの勢力増大をまねいた結果、1250年マムルーク軍団によって政権を奪われ、マムルーク朝が成立した。マムルーク朝は、1258年モンゴル軍が[  g  ]を占領すると、アッバース朝カリフの子孫を保護し、またモンゴル軍をくい止めてシリアを守った。以後マムルーク朝はエジプトとシリアを領土とし、また(11)地中海とインド洋を結ぶ商業路を支配して経済的な繁栄を得た。
 15世紀になると小アジアに拠点をおくオスマン帝国が強力となり、(12)
1453年コンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国を滅し、1517年にはマムルーク朝を滅ぼしてエジプトとシリアを領土に加えた。オスマン帝国はスレイマン1世の時に最盛期を迎え、ヨーロッパにおける領土を拡大する一方、東方では、(13)イランのサファヴィー朝から領土の一部を奪った。しかし、強盛を誇ったオスマン帝国も17世紀になると衰退のきざしが現われ、18世紀末には弱体化が明らかとなり、(14)エジプトでは、ナポレオン軍の侵入をゆるした。このような政情のもとで1805年エジプト人の支持を得て[  h  ]がエジプト総督(太守)となり、近代化のための様々な改革を行った。彼は対外政策にも積極的で、アラビア半島に出兵して[  i  ]王国を一時的に滅亡させ、またスーダンを征服した。
 1869年のスエズ運河開通はエジプトの軍事上・交通上の重要性を増した。帝国主義諸国の関心が高まる中、イギリスがスエズ運河会社のエジプトの持ち株を買収して発言力を増し、(15)
1882年にはエジプトを軍事占領下においた

(9)ファーティマ朝がおこったのは北アフリカのどこか。現在の国名で記せ。
(10)この頃ファーティマ朝やアッバース朝のほかにも、君主がカリフを称したイスラム王朝がある。(ア)その王朝名を記せ。また、(イ)その王朝の首都はどこか。都市名を記せ。
(11)15世紀末からヨーロッパのある国がインド洋貿易に参入し、1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝軍を破った。(ア)その国の名を記せ。また、
(イ)その国が1511年に滅ぼした、東南アジアの貿易の中心であったイスラム国家の名を記せ。
(12)のちに「征服王」と呼ばれた、この時のオスマン帝国君主の名を記せ。
(13)オスマン帝国軍は一時的にサファヴィー朝の首都を占領した。この時占領されたサファヴィー朝初期の首都はどこか。都市名を記せ。
(14)(ア)ナポレオンのエジプト遠征の時に発見され、古代エジプトの神聖文字を解読する鍵となったものは何か。また、(イ)1822年神聖文字の解読に成功したフランスのエジプト学者は誰か。
(15)イギリスは1881年におこった反英反乱を鎮圧してエジプトを軍事占領下においた。この反乱を指導したエジプトの軍人は誰か。

第3問(20点)
 17世紀に入ってオランダ、イギリス両国は、いちじるしい対外発展を開始した。このことを背景として、以後17世紀末までの両国の関係について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)のの中に適切な語句を入れ、下線部(1)~(21)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A ローマ帝政の初期にパレスチナで成立したキリスト教は、その後ローマ帝国に広がり、さらに中世以後のヨーロッパにおける社会、政治、文化に大きな影響を与えた。(1)ローマ帝国ではキリスト教はしばしば迫害をうけたが、4世紀初めの[  a  ]帝による大迫害の後は、キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難であると考えたコンスタンティヌス帝によって313年に公認され、また392年には国教とされた。こうして国家と結びつきながら社会に定着していったキリスト教は、帝政末期には都市を中心とした教会組織の形成と、(2)教父たちの著作活動、そして(3)教義の統一のための公会議によって、その基礎を固めていった。民族移動期の混乱を経て、新しい社会と国家の形成が進められたフランク王国においても、教会、とくに修道院は重要な役割を果たした。カール大帝(シャルルマーニュ)は(4)修道院文化が発達していたイギリスなどから学僧を招き、カロリング・ルネサンスと呼ばれる文化的興隆をもたらした。この時期においてより重要なのは、カールの皇帝戴冠によって、ローマ教皇と皇帝の二つの普遍的権威を軸とする、西ヨーロッパ世界の基本秩序が成立したことである。しかしこの聖・俗両権威の関係は、しばしば対立をも生じさせ、11世紀にはローマ・カトリック教会の改革と世俗権力からの自立化をめざす教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝[  b  ]と対立した。この対立は1122年のヴォルムス協約によって一応終結するが、その後ローマ教皇の権威は十字軍運動を通じて上昇し、(5)インノケンティウス3世のころには全盛期を迎えた。しかし十字軍の終焉や各国王権の発展にともなって、教皇の普遍的権威は下降を始める。(6)1303年のアナーニ事件と、これに続く「教皇のバビロン捕囚」、そして40年にわたる教会分裂は、ローマ・カトリック教会に大きな動揺をもたらし、これに対する厳しい批判も現われた。15世紀には(7)ローマ・カトリック教会再建の試みもなされたが、根本的な改革は実現されず、宗教改革時代を迎えることになる。

(1)その原因の一つに、皇帝のためのある儀礼をキリスト教徒が受容しなかったことが考えられる。この儀礼とは何か。
(2)400年ころアウグスティヌスが著した自伝的著作は何か。
(3)ネストリウス派を異端とした5世紀の公会議の開催地はどこか。
(4)その代表的人物を一人挙げよ。
(5)この教皇がイギリス王ジョンを破門した理由を簡潔に記せ。
(6)この時のフランス王は誰か。
(7)教会分裂を克服した15世紀初めの公会議の開催都市はどこか。

B 近代初期のヨーロッパにおける芸術家や思想家の活動は、しばしば権力者の宮廷の世界と密接に結びついていた。聖俗の有力者は、自らの威信を高めるために学芸を保護し、芸術家や学者のパトロンとなった。たとえばルネサンス期のフィレンツェでは、(8)メディチ家がブルネレスキ、ボッティチェリ、ミケランジェロなどすぐれた建築家や画家に活動の場を提供し、また(9)人文主義者によるギリシア古典の研究を援助した。イギリスでも、(10)16世紀後半から17世紀初頭にかけて.エリザベス1世の宮廷を中心に、詩人エドモンド・スペンサーや劇作家シェイクスピアらが活躍した。17・18世紀には、各国の王権は、絶対君主としての威光を示すために宮廷に文化人を集め、その才能を積極的に活用した。(11)絵画の分野では、フランドル派のルーベンスやファン・ダイク.スペインのベラスケスらが宮廷画家として活躍した。フランスでは、ルイ13世が登用した宰相[  c  ]によってアカデミーが設立され、フランス語の統一がはかられた。つづく(12)ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を造営し、「太陽王」としての絶対的な権力を演出するために多くの画家や文筆家を動員した。コルネイユ、ラシーヌ、モリエールらの劇作家が活躍し、フランスの古典主義文学が最盛期を迎えたのは、この時代である。
 18世紀にはいると、造形芸術の分野で、前の時代にくらべてより繊細で優美なロココ様式が流行した。宮殿建築としては、(13)
フリードリヒ2世がポツダムに建てた[  d  ]宮殿やマリア・テレジアが完成したウィーンのシェーンブルン宮殿が、その代表的な例である。理性を重視し、非合理的な慣習を批判した啓蒙主義者たちも、宮廷の世界と無縁ではなかった。フリードリヒ2世や(14)エカチェリーナ2世ら啓蒙専制君主たちは、ディドロやヴォルテールと交際し、新しい思潮をとりこみながら国力の強化に努めた。19世紀に市民社会が成長し、新たな文化の担い手となるにつれて、宮廷に代わる新たな学問・芸術の場が形成されていった。しかし、宮廷文化のなかで発達した礼儀作法は、宮廷の外で暮らす一般の人びとにも部分的に浸透し、市民社会のマナーとなって受け継がれていくのである。

(8)この家の出身の教皇が、サン・ピエトロ大聖堂の改築費用をまかなうためにドイツで販売を許可したものは何か。
(9)人文主義者の活躍はアルプスの北でもみられた。ギリシア・ローマの古典や聖書を研究する一方、聖職者の道徳的堕落をたくみに風刺して名声を博したロッテルダム出身の人文主義者は誰か。
(10)この時代のイギリスでは、ルネサンス的な宮廷文化が開花する一方で、経済的な変化にともなって職を失って移動する人びとも増大した。この問題に対処するために制定された法の名を記せ。
(11)これらの画家たちに共通する様式を何と呼ぶか。
(12)財政面では、ルイ14世は財務長官コルベールを重用して、国力の強化をはかった。コルベールの行った政策の内容を簡潔に説明せよ。
(13)フリードリヒ2世は、マリア・テレジアによるハプスブルク家の家督継承に異議を唱え、そのために戦争が起こった。この戦争の結果、フリードリヒ2世がハプスブルク家から獲得した領土はどこか。
(14)西欧の先進的な文化に強い関心を示したエカチェリーナ2世は、他方でロシアの伝統的な農奴制を強化した君主でもある。彼女の治世下に勃発し、鎮圧された大規模な農民反乱の指導者は誰か。

C 19世紀後半のロシアでは、(15)農奴解放が部分的に行われ、世紀末までに工業化もある程度進行していたが、専制政治への不満が高まっていた。このような背景のもと、1905年には日露戦争を契機としてロシア第一次革命が勃発した。しかし、まもなく首相となった[  e  ]は、革命の結果開設された国会を抑制し、富農育成を目指す農業改革を行ったため、社会的不満は解消されなかった。一方、19世紀を通じて、ロシアは南下政策を試みていたが、イギリスやトルコの抵抗に遭い、数度の挫折を経験した。ロシアを取り巻くこのような国際情勢は、世紀末から徐々に変化し始める。欧州の勢力均衡に腐心していたドイツの帝国宰相ビスマルクが、海外への勢力拡大を企図する皇帝[  f  ]と対立して辞職したことから、(16)ドイツ・ロシア間の条約は更新されなかった。ドイツの勢力拡大を危惧するロシア、フランス、イギリスは徐々に外交的に接近し、1907年に(17)英露協商が締結されたことで三国協商が成立する。この間、ロシアが南下政策をなお推進しようとし、ドイツ、オーストリアを中心とする勢力とのバルカン半島を巡る緊張が高まったことが、第一次世界大戦勃発の背景となった。
 弱体化していたロシアの支配体制は、総力戦となった第一次世界大戦を生きぬくことができなかった。1917年の三月革命によって帝政は倒れたが、革命で成立した臨時政府は戦争を継続し、このことが十一月革命の大きな原因となった。十一月革命で成立したソヴィエト政府は、ドイツとの単独講和を結んだ。ソヴィエト政府は、反革命勢力の抵抗と列強による軍事干渉を耐えぬき、その後は国内経済の発展に努めた。1928年には(18)
五カ年計画が開始された。ソ連は徐々に(19)国際社会における孤立を脱しつつあったものの、世界経済からの孤立が逆に幸いして(20)世界恐慌の悪影響を受けなかったため、数次の五カ年計画のもとでソ連経済は発展した。国力を蓄えたソ連は、第二次世界大戦勃発とともに、周辺諸国に武力で侵攻した。(21)ヴェルサイユ体制の下で新たに誕生していたヨーロッパの独立国の多くが、ソ連とナチス・ドイツによって再び独立国家の地位を奪われることになった。

(15)1861年に農奴解放令を発した皇帝の名前を記せ。
(16)この条約名を記せ。
(17)この協定によって、イギリスとロシアは、ある国における、それぞれの勢力範囲の設定に合意した。この国の名を記せ。
(18)第1次五カ年計画で重点的に推進された政策を簡潔に説明せよ。
(19)ドイツは、1922年にソヴィエト政府とラパロ条約を締結し、列強の中でいちはやく革命政府との外交関係を樹立した。この理由を簡潔に述べよ。
(20)世界恐慌の悪影響を緩和すべく、ドイツの賠償支払いの一時猶予を行ったアメリカ大統領の名前を記せ。
(21)これらの中で、第二次世界大戦勃発までに、ドイツが一部領土を併合し、残る領土を保護国化した国の名を記せ。


コメント
第1問
 やさしそうに見えてやさしくはない。
 「やさしい」感じがするのは、唐と周辺民族だから、なんとか書けそうな問題であるからですが、300字を満たせるだけのデータを持ち合わせたものは少ないのではないか。想起しやすい、とは思えない。それと、問題が唐の周辺の民族の興亡史ではあるものの、「.……大きな影響を与えた。」という導入部の文章につづいて、その影響の中身は「唐の文化を受容し、あるいは唐と政治的関わりをもった」とあり、これをある程度書かなくては課題に正確に応えたことにはならない。関係をもとにした興亡史です。唐との文化的・政治的関わりも書かなくてはならない。たんに唐を無視して周辺国の興亡史だけであれば300字も要りません。文中に「あるいは」とあり、文化でも政治でもどちらか書けば点はくれそうですが、どちらも影響・関係があるばあいは書いたほうが良いに決まっています。

 

 じゃ突厥の唐文化受容は?
 ウイグルの唐文化受容は?
 チベットの吐蕃の唐文化受容は?
 雲南の南詔の唐文化受容は?

 つまり政治的関係や興亡はなんとか書けそう、でも文化的影響はなかなか想起できないのではないでしょうか? 
 「突厥の唐文化受容」なんてどこにも書いてない……でしょうか? たとえば、教科書『詳解世界史』p.34に「7世紀後半のアジア」という地図があり、そこに東西突厥の首都が示してあります。遊牧民の首都? この意味はなんでしょう? オルホン碑文には漢字とともにアラム系文字の突厥文字が記してあります。もちろんウイグルも首都をもち、漢字のように縦書きのウイグル文字もつくりました。マニ教を国教といっていいくらいに信奉していましたが、これは安史の乱とかかわったことと関係があります。やはり受容はありますね。
この二つのトルコ系民族がブレーンでもあったソグド商人の交易によって中国からの多くの物産を受容していたことも知られています。とくに絹を代表として、種々の織物、金銀の細工物、容器、仮面、装身具、皿、留め金などが入ってきています。突厥・ウイグルが代わりに出すものは馬でしたから、こうした交易を絹馬(けんば)貿易といいます。
 唐という東アジアの中心国が繁栄することで、周辺民族は唐と対立しながらも、唐の制度・文化を導入して周辺民族みずからの国家の成立・成長をとげていった時期でした。とくに文字・都市をもたない部族段階の北アジア遊牧騎馬民族が、文字・都市をもつようになった点は歴史家たちが「文明化の過渡期」と評価する時代です。つまり征服王朝(遼金元清)のときは、完全に文字・都市をもつどころか独自の種々の文化と強力な君主権力をたてて中国という文明国と変わらない国をつくることができました。この征服王朝へいたるまでと、柔然までの部族時代までのあいだに、このトルコ系民族(突厥・ウイグル・キルギス)の時期があったということです。

 部族(文字・都市なし、シャーマニズム、部族連合)……匈奴・鮮卑・柔然
 
過渡期(文字・都市あり、マニ教、ただしまだ部族連合)……突厥・ウイグル・キルギス
 
征服王朝(文字・都市あり、仏教・ラマ教、中央集権国家)……遼金元清
 注:シャーマニズムはシャーマンという霊媒師(みこ)が仲立ちとなって神霊や祖先の霊などと心を通わせる宗教。経典・教団・寺院がない段階の原始的な宗教。これらの組織をもった宗教がマニ教・仏教など。
 なお、チベット民族運動のほうからいえば「文化の受容」に中華思想をみるでしょう。

 インターネット上の解答を検討するときは、次のようなことが書かれているかどうか確認してみるといいです。欠陥だらけだということを発見するでしょう。政治的関係だけ書いた後に文化的関係も書いたり書かなかったりと整合性がありません。分析の甘さを見れば、解答の甘さにも反映していることが分かります。

 モンゴル高原:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 チベット:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→
 雲南:
  唐の文化受容→
  唐との政治的関係→
  興亡→

第2問

 古代はみな「大麦」が専門家の説。小麦が普及するのは唐代になってから(問題は時期が宋以前だから、これでもかまわない)。古代の貧しいひとびとの主食は豆。だから豆(まめ)でもいい。問題文にある「きび」は黍と稷とある。ともに「きび」と読む。前者は「もちきび」ともいい、後者は「たかきび」「うるちきび」といってちがう種類で穀物としては上等品。
 洞庭湖の北が湖北省、南が湖南省、この二つの省を合わせたいいかた。
 漕運(そううん)はまちがい。海運であれ運河をつかうのであれ都に納税のための穀物を輸送することを漕運というからです。問われているのは「方法」。「海運」も正確にはふさわしくない。陸運に対して使うことばで、運河も船を使う海運なのです。これは問題文のこの空欄の前にすでに書いてあります。後の問題文にも「[ c ]をやめて、大運河で穀物を輸送した」と出てきます。すると沿岸の海しかないから、答えとしては、たんに「海」か「海路」がふさわしい。問題文の作者が誤解していなければ……。
 王朝を直接倒した反乱はこれしかない。中国共産党が高く評価している反乱です。「殺人せず、愛財せず、姦淫(かんいん)せず、略奪せず」と軍律をきびしくし、農民の支持を得たからです。「良い鉄は釘にはならない。良い人間は軍人にはならない」というくらいに中国では軍人・兵士を嫌っていましたが、李自成の反乱軍はちがっていたのです。共産党の紅軍の規律でも、三大規律として「一.行動は指揮にしたがう。二.労働者、農民のものはなに一つとらない。三.土豪からとりあげたものは公のものにする」と。さらに六項注意は「一.寝るために借りた戸板はもとどおりはめておく。二.寝るために借りた“わら”はもとどおりにくくっておく。三.言葉づかいはおだやかに。四.売り買いは公正に。五.借りたものは返す。六.こわしたものは弁償する。」(野村浩一著『人民中国の誕生』講談社学術文庫)。日本人なら、こんなこと守って戦争できるかい、とふてくされそうです。平時でも守ったほうがいいよ、といってあげたい人が回りにいるでしょう? とくに五と六ですね。

下線設問
(1) 北宋と南宋の紙幣です。このHPの我楽苦多教室→紙幣箱に香港で買った模造品がありますから、ごらんください。  
(2) この設問の文章のことがあるからこそ、空欄bの穀倉化があったことをおぼえてほしいものです。下流(江南)の工業化→中流(湖広)の穀倉化です。
(3)(ア)マルコ=ポーロの『東方見聞録』ではモンゴル人の馬とヴェトナム人が駆使した象との戦いが描かれています。この本の中ではもっとも生き生きした描写のあるところで、「嘘八百」のマルコが戦場にいるかのようです。
(3)(イ)このモンゴル人の侵略に刺激されて民族文字をつくったのであろうと歴史家はみています。
(4) 淮水より南にいたひとたちです。(も)蒙古→(し)色目人→(か)漢人→(な)南人という順で下降します。おぼえかたは頭文字をとって「モンゴル(人第一主義)は、もじかな(文字仮名)」です。モンゴル人にとっては遊牧的であることが人間としてまっとうな生き方であり、中国人農民のように家畜に必要な草を刈ってしまい畑にするのは許せないのです。マルコは本の中で中国人のことを「マンジ」と呼んでいますが、これは中国人を「蛮人」と呼んでいたことからきているらしい。遊牧民にとって農民は野蛮人でした。  
(5) 「靖難」は「靖康」のように元号ではなく、スローガンからきています。燕王(後の永楽帝)が「宮廷の困難を靖(やす)んずる師(リーダー)がわたしだ」と。高原に帰還しなかった多くのモンゴル兵を燕王はかかえていて、これが役に立ちます。皇帝位簒奪(さんだつ)劇です。 
(6) 奇問に近い問題。いくらかヒントは「主人公たち」と複数形になっていること、「長編小説」であることくらい。ま、捨ててもいいですね。すべての奇問に付き合う必要はないのです。これ一問できなくたって合格できます。しかしこの小説のファンであれば、けしから~ん、ということになるでしょうか? 「湖を根拠に」で分かるじゃないか、ととがめられそうです。しかしこれで分かるひとはマニアです。水の滸(ほとり、岸辺)の話しやないか、と。梁山泊という湖のほとりに集まった武人たちの物語。私大の問題では「北宋末の反乱を元にした小説はなにか?」と問われます(1995年甲南大学文系、1995年関西大学経済学部、1997年法政大学経営学部など)。
(7) ヌルハチが創設したもの。清の軍事組織で、平時は行政組織をかねます。1旗は7500人の軍団で、それが8つあった。8つの軍団は黄・白・紅・藍の4色の軍旗と、それぞれの色の旗に縁をつけた計8つの旗で区別しています。どれにも中には龍が刺繍してあります。
(8) ヒントは「1793年」、つまり18世紀末に乾隆帝に会いにきたイギリス最初の使節です。西欧ではルイ16世が処刑されて対仏大同盟がむすばれヨーロッパ中が戦争に巻き込まれる年です。それに対してワシントン大統領が中立宣言を発して孤立主義外交のはじまりにもなった年。

 クレオパトラ7世の自殺。最近、独のエジプト博物館からクレオパトラの直筆文書が見つかったというニュースがありました。自殺の2年前のものらしく、文書はパピルス紙にギリシア語で書かれています。この文書はローマの軍人カニディウスと家来らに対してエジプトが貿易の自由と免税を認める内容で、「穀物の輸出、ワインの輸入を認め、エジプト国内に所有している畑で取れる穀物に課税される税金を免除する」とあり、文書の最後に「そのように計らえ」という署名があるそうです。亡国の危機にあったプトレマイオス朝を守るため、ローマに対する懐柔策として打ちだされた政策らしい。(アサヒ・コムのニュース記事から)
 空欄の前の「1171年にクルド人の武将」とありますが、「クルド人」と年代から、また後の「ファーティマ朝を滅ぼし」からはサラディンしか答えはないですが、さてこの「1171年に」は正しいのか? 教科書にある1169年は実権を掌握した年で、1171年はファーティマ朝を滅ぼした年、ということで正しい。
 アッバース朝の都です。この空欄の後の文章に「アッバース朝カリフの子孫を保護し」とあるよに、子孫はメソポタミアからエジプトに亡命してきたので、カリフ家はカイロで生きつづけることになります。イスラム世界の教科書では日本とちがい、フラグがアッバース朝を滅ぼした、としないでバグダードからカイロに遷都した、と表現しています。これを知っておくと、後にやってくるオスマン=トルコ帝国がスルタン=カリフを名乗る根拠が分かります。
h 空欄アリーの後の「近代化のための様々な改革」とは、西洋式の陸海軍の創始、造船所・官営工場・印刷所の建設、教育制度の改革を指します。原料の棉花は十分ありますから産業革命をエジプトでもおこそうと機械を買っています。そのために多くの外国人を登用しています。軍人・官吏・技術者などをヨーロッパからきてもらい重用します。地租改正をおこない農民を直接支配下におき、農産物の専売制度や徴兵制も導入しています。まるで日本の明治維新みたい。日本より半世紀も先んじた維新です。しかし借金がかさみ失敗におわります。  
 半島の東部におこりサウード家の支持をえた原理主義(ムハンマド時代の原始イスラム教に帰るべきだと説く主義)の宗派です。この宗派をつけて○○○王国といいます。サウディアラビア出身のオサマ=ビンラディンの起源をたどればここまでいくでしょう。このワッハーブ派(王国)はムハンマド=イブン=アブドゥル=ワッハーブ (1703~92) を始祖とする一派で、聖人崇拝、聖人廟への巡礼を禁じ、『クラーン(コーラン)』の定めた禁酒の規定を守ることを説きます。19世紀初頭にはアラビア半島西部のメッカとメディナを占領します。で、この聖地を奪回せよとアリーにオスマン帝国は指示します。

下線設問
(9) 歴史地図を見ていると容易な問題。969年にカイロ市を、970年に現在のイスラム教世界最高学府となるアル=アズハル大学をつくっています。教祖ムハンマドと妻ハディージャとの間に生まれた娘にファーティマという子があり、これを母とする子孫だと名乗ります。ファーティマは教祖の娘の名前なのです。はじめからカリフを名乗る勇ましさにも理由があったということです。
(10)(ア) イベリア半島のカリフ国「西カリフ国」のこと。後ウマイヤ朝のスタート時点ではカリフを名乗っておらず、謙虚にアミール(総督)称号でした。ところが10世紀になり、問題にもあるようにファーティマ朝がカリフを名乗ったことに刺激をうけ、アブド=アッラフマーン3世が929年にカイロとバグダードに対してカリフを名乗りだします。10世紀になって突如3カリフ時代があらわれたのです。カリフの権威失墜ともとれます。このアブド=アッラフマーン3世は実は母がフランク人の女奴隷であり、青い目で金髪をしていたそうです。それでゲルマン人と見られたくなくて髪の毛を黒く染めていたそうです。愛妾を6321人もかかえていたという豪傑らしい。徳川家斉が40人の側室をもっていて日本では豪傑といわれますが、そんなの目じゃない。中国の皇帝なみです。イスラム教徒は妻は4人までではないか? 4人の妻をもってみたい、とお思いの諸君は金がかかって仕様がないことを肝に銘じるべきです。平等に愛せよ、と戒律はなっていますから。実際は二人目以降の妻たちは一人目の奥さんの召使いのように扱われるのが現実らしい。また4人といっても正妻であり、他は金さえあれば何人でも妾がもてる、というのが現実です。あ、なにか話しの流れがおかしくなってきました……。
(10)(イ) 約40万人と数えられるこの都は当時西欧最大の都市です。道路は舗装されており、高校・大学にあたる学校が17校もあったというのです。70を越える図書館があり、王宮図書館は40万冊の蔵書を数えた、と。多くの文化人が集まったことでも知られています。コルドバ生れでは、イブン=ルシュドがもっとも名高い哲学者です。イブン・ザイドゥーンのような宮廷詩人もいます。外科医ではアブー・アルカーシムが知られていました。
(11)(ア) 前半の問題文で国名はでてきますね。(イ)の文章もヒントです。「1509年ディウ沖の海戦でマムルーク朝を破った」は習ったでしょうか? あまり知られていない戦いです。しかし世界史の中では、西欧がアジアに対して軍事的勝利をおさめ、これから大航海時代がはじまることを告げる重要な戦いで、本当はどの教科書にも書いてあってもいいのではないかと思います。エジプトとインドの貿易に西欧が割って入った事件です。かつて防衛大学で出題されていました。これは不思議ではありませんが、私大でも出題されるようになりました。1994年度慶応・文学部、1995年度の明治・農学部と法政・文学部、1997年度同志社・法学部、1997年度早稲田・教育学部、関西学院大学は好きなのかよく出す大学です(91,94,97,98,01)。山川の用語集は説明が不十分です。ポルトガルがマムルーク朝艦隊を撃破、とありますが、マムルーク朝とインド側の「グジャラートの艦隊」が連合していたのに負けています。このグジャラートは半島の名前でインドの西海岸を見るとこの半島が見つかるでしょう。この半島の南端にディウという島があります。前年の1508年の戦いではポルトガルは負けたのですが、この戦いで戦死した息子の復讐をはたすべく父アルメイダが大艦隊を率いて1509年に再びやってきて望みを果たします。詳しくは『ポルトガルとインド 中世グジャラートの商人と支配者』(M.N.ピアスン著、生田滋訳、岩波現代選書)。
(11)(イ) この王国の成立年代(1400年頃)はハッキリしませんが滅亡はハッキリしています。アルフォンソ・デ・アルブケルケの率いる艦隊が約100年のこの王国の歴史を終わらせました。ポルトガルはこの王国から略奪のかぎりをつくします。その証拠はマラッカ海峡に難破していたポルトガルの船フロール・デ・ラ・マール号で、金・宝石を最低でも10億ドル(1300億円)相当を積んでいました。嵐にあって沈みます(1512年)。ざまあ見ろ、という事件もあったのです。 
(12) 「征服王」というあだ名を知らなくても、問題文の「1453年コンスタンティノープルを征服」でわかるはず。かれはコンスタンチノープルに入城すると、大地にひざまずき、「ムハンマドの預言はここに成就した」といったそうです。ムアーウィアがこの都市の攻撃をはじめてから約800年もして、やっとイスラム教徒の手に陥落しました。
(13) イル=ハン国の都と同じです。マラガ(メラガ)でもいいが、知られていないので、後に(1295年)ガザン=ハンがここに首都を遷してから栄えた都市でいいのです。1597年、サファヴィー朝のシャー=アッバース1世が都をイスファハンに遷すまでです。
(14)(ア) 私大ではこの石の現物はどこにあるか? という問いまで出ています。(1994年立命館・法学部、2000年慶応・文学部)大英博物館でわたしも冷たい石を触ってきましたが、結構大きい石でした。こんな感じです(http://www.crystalinks.com/rosettastone.html)。
(14)(イ) 語学の天才でないと文字の解読はできないようです。シュリーマンの『古代への情熱』を読んだ人は感嘆せざるをえないですが、このヒエログリフの解読者もそうです。10歳になる前に、ラテン語・ギリシャ語の初歩を習っていました。11歳になるとヘブライ語を学び始め、13歳からは兄からアラビア語、シリア語、カルデア語を学び始めています。なんでこんなこと並行してできるの? とため息がでますが可能のようです。兄も学者で、グルノーブル大学の文学部教授でした。その口添えもあり、答えの人物は18歳で古代史の助教授になっています。おおーッ。
(15) ナイル川デルタ地帯にある村長の息子として生まれた人物。ムハンマド=アリー朝でエジプト人は必ずしも優遇されていなかったのが、スルタンによって登用の機会が増えたり減ったり、ということがおきエジプト軍人の不満がたまっていきます。それが反帝国主義、反王朝へと民族運動にまで発展してしまいます。かれは軍事裁判で死刑判決を受けますが、実行されずセイロンに流刑となり1901年に19年ぶりに帰国が許されますが、もう政治に顔を出す空気は残っていなかったそうです。

第3問
 わたしが教えてた京大志望者には、「17世紀の中葉には、その後のヨーロッパ史を決定づけるような大きな変動がおきている。そこで17世紀のイギリス・フランス・ドイツでおきた変動とその後に及ぼした影響について、300字以内で述べよ。」という創作問題をやらせました。ぴったりは当たっていませんが、これは論述としては創作といいながら、ありきたりのテーマでもあります。17世紀は「諸革命の群生」として学界では知られた特異な世紀だからです(『十七世紀危機論争』トレヴァー=ローパー編、創文社歴史学叢書)。今年の京大の問題は「関係」でした。

 まず問題の「対外進出」を少しくわしく見てみましょう。
 まずイギリスの進出です。
1600.東インド会社設立 07.ジェイムズ・タウン 12.スラート(印) 19.バミューダ諸島 20.プリマス植民地 25.バルバドス 29.バハマ諸島 32.リーワード諸島 39.マドラス(印) 49.アイルランド征服 50.アンキラ 51.航海法、セント・ヘレナ 52.第一次英蘭戦争 55.ジャマイカ 61.ケープ・コースト、ボンベイ(印) 63.カロリン、王立アフリカ貿易会社 54.ニューアムステルダム占領 65.第二次英蘭戦争 72.ヴァージン諸島、奴隷貿易独占権、第三次英蘭戦争 90.カルカッタ(印)
 ステュアート朝の時期とあいだの共和政期(1649~60)との双方にまたがって対外進出が滞りなくおこなわれています。
 次はオランダの進出です。
1600.オランダ船リーフデ号が豊後に漂着 02.東インド会社設立、モルッカ諸島 05.アンボイナ島 14.ニューネーデルランド 19.バタヴィア、アフリカ黒人をアメリカに陸揚げ 21.西インド会社設立 23.アンボイナ事件 24.台湾、マンハッタン島、ポルトガル領ブラジルに侵入 37.エルミナ(ポルトガルの奴隷貿易基地) 40.スリナム 41.マラッカ、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す 42.オーストラリア(新オランダ)、ニュージーランド 55.ハドソン川河畔のスウェーデン植民地を占領 56.コロンボ 77.ジャワ島マタラムに侵出
 17世紀の前半に進出が集中していることが分かります。
 対立はアンボイナ事件を代表とする衝突だけではありません。ともに毛織物工業国であり、オランダが中世以来の技術は高く、加工工業で利益をえていました。未仕上げの英国の織物を購入して付加価値をつけて輸出しています。毛織物の市場をめぐっても対立していました。アンボイナ事件による英国人の虐殺にたいして賠償金を要求していますが、オランダは不払いを決め込んでいます。それに北海の漁場をめぐる問題もありました。これらが英蘭戦争の要因となります。

 ここから次のように、この17世紀の両国の関係は展開したといえるでしょう。
 16世紀における宗教戦争においては、新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係にありながら、17世紀前半にともに海外進出をさかんにした結果、宗教より利益を優先するように変わっていき、世紀後半には対立が深まっていったといえます。世紀後半の末期にはカトリック・フランスの台頭があり、再び手を結ぶことになった、と総括できます。世紀後半の英蘭戦争でも一貫して両国は対立ばかりしていたのではなく、1668年にイギリスとオランダが、フランスに対抗してハーグ同盟を結んだ例があるように、迷いがあります。第三次英蘭戦争(1672~74)は、フランスのオランダ戦争(1672~78)と重なっていますが、年代を見るとわかるようにイギリスはルイ14世に利用されると危惧して早々と和解しています。
 まとめると、全体の流れは、
(1)
<前提>新教国として反スペイン・反カトリックの友好関係
(2)
17世紀前半の両国の対外進出と対立……アンボイナ事件
(3)
17世紀後半の対立の激化……三次の英蘭戦争
(4)
反仏のために連合……名誉革命

 こうした関係は政治的な外交関係ばかりですが、人的交流が双方のあいだにあったことも結果的に対立を和解に導いたといってもいいでしょう。それはいろいろいな著書にありますが、たとえば、駿台のガンダルフ(映画『ロード・オブ・ザ・リング』で主人公フロドに助言を与える指導者)といっていい山本義隆師の著書『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』(現代数学社)に科学者同士の交流が描いてあります。
 「科学思想面においてもオランダは、大陸のどの国よりイギリスと密な交流を維持していた。とくにライデン大学は「大陸におけるニュートン主義の普及のための一つの──当面は唯一の──中心」(ピーター・ゲイ)であった。17世紀後半にベーコンとボイルの経験論は、イギリス以上にオランダで評価されていた。ロックも一時オランダに亡命しているし、そのロックにニュートン力学の正しさを請け合ったオランダ人ホイヘンスは、逆にイギリスを訪れ王立協会の会員にもなっている。また、スコットランドの初期ニュートン主義者ピトカリンは1692年に1年間ライデンで講義しているし、逆に、1715年から一年間イギリス大使を勤めた「オランダにおける最初のニュートン主義者」グラーベサンドは、デザギュリエの講義に出席し、またニュートンとも会見し、帰国後ライデン大学で数学と天文学を教えている」と。
 こうした科学者だけでなく思想家・政治家・非国教徒・ユダヤ人にとっての避難所をオランダは提供していました。特に革命時(1640~90)はそうでした。宗教的差別をしなかったからです。ガリレオはオランダでしか自分の研究書を印刷できませんでした。デカルトもオランダにわたり『方法叙説』『省察録』を出版しています。上記にあるロックはチャールズ2世に追放されて、オランダに亡命し名誉革命で帰国します。光と影の芸術家レンブラントは破産して移り住んだのはアムステルダムのユダヤ人街で、そこで多くのユダヤ人と知り合いになり、ユダヤ人を描いています。「ユダヤ人の婚礼」「アムステルダムのラビ」「ユダヤの青年」です。いやレンブラントが描いた多くの聖書物語の人物は、かれがよく知っているユダヤ人の日常生活のひとびとでもあったのです。かれが住んだ家のさほど遠くないところにアンネ=フランクの隠れ家もあります。スピノザが生まれた家も近くにありました。オランダ東インド会社の株の4分1をユダヤ人がもっていました。1598年にオランダで初めてシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)が建てられています。
 政治とは無関係な交流が結果的に対立国を和解させる、という例はいくつか歴史に見られることです。インターネットで国を超えた関係ができていくと、和解の実現は20世紀までの歴史より早いかも知れません。
 さて各予備校のこの問題の答案を見て、なぜ英蘭両国が対立から友好関係に変わったのか理解できないのではないでしょうか? できごとの羅列になっています。結局「関係」はハッキリしない。

第4問

a
 この皇帝の「大迫害」があったにもかかわらず「キリスト教徒を敵としては帝国維持が困難」という理由は、この皇帝の大迫害が困難を証明したからです。その迫害は、教会の破壊、聖書の焼却、キリスト教公職者の地位剥奪、信徒の法律的保護の剥奪、信徒奴隷の解放禁止という法令をだし、それがさらに硬化して宮廷内教徒を処刑、聖職者を逮捕・拷問・処刑となります。しかし4人の皇帝のうち西の正帝や副帝は法令の一部しか実施せず、末端の官僚たちは無視したという事例があり、皇帝暗殺をねらったとみられる宮殿の火災が頻発します。約500人くらいは殺したそうですが、全人口(約5400万人)の7~12%(「住民の1割」詳解世界史)とみられるローマ帝国のキリスト教徒では微々たるものでした。迫害したガレリウス帝自身が311年に寛容令を発してキリスト教徒の存在をみとめ、その後の抗争に勝ちのこったコンスタンティヌス帝が313年にミラノ勅令を発して宗教自由の原則をみとめます。コンスタンティヌス帝の母ヘレナは解放奴隷でキリスト教徒でした。
 この皇帝とグレゴリウス7世とのおぼえかたは一橋大学の2002年度の解説にあります。  
(1) キリスト教徒はローマ帝国に対して不忠実であると見られただけでなく、宗教的にも嫌われていました。ローマの多神教には祭壇があり、祭祀があり、儀礼があり、神殿があったのですが、キリスト教には見えない神を崇めている以上、こうした宗教的な装置をもたないため無神論にひとしい、と見られました。またその秘密の集会では近親相姦がおこなわれ、幼児を誘拐してその血をすすっていると噂されました。ディオクレティアヌス帝になると、皇帝をローマの神々の代理として「主にして神」と呼ばせることになり、これまで死んでから神々の列に加えていたはずの皇帝たちを生きているうちから礼拝の対象とするかたちに変わったのです。皇帝崇拝が強制され、皇帝にたいして臣下は跪拝礼をしなくてはいけなくなります。カエサルに仕えるのか神に仕えるのかの決断は、現代でも信徒が迫られる問題です。
(2) マニ教からキリスト教に改宗する過程を描いたものです。ミラノ司教アンブロシウスの影響を受けてキリスト教への傾斜を深めていきました。この司教はテオドシウス帝を皇帝にしたてはキング・メイカーでもある有力者です。改宗前にアウグスティヌスはテオドシウス帝からも改宗を勧められています。 (3) 公会議の開催地はみなトルコ西部小アジアに集中しています。ニケーア(ニカイア)公会議(325)も、この設問のエフェソス公会議(431)も、単性論を異端にしたカルケドン公会議(451)も。キリスト教の中心がいまとちがいトルコにあったからです。
(4) 781年イタリア訪問中にパルマでカール大帝と会い、翌年から招請され、アーヘンの宮廷学校の校長として迎えられます。大帝の文教政策に協力し、失われていたローマ時代のラテン語復興につとめます。いわゆる「カロリング・ルネサンス」の中心人物です。
(5) この教皇はジョン王だけでなく、離婚間題でフランス王フィリップ2世にインターディクト(聖務禁止の罰則)を下しています(1201)。ジョン王は英国国王に戴冠権をもつカンタベリ大司教の叙任権をめぐる争いをしています。教皇は破門をもって対抗した(1209)ので、1213年に教皇の臣下となることで許してもらい屈服しました。 
(6) 三部会を初めて召集し、アヴィニョンに教皇庁を移した国王です。カトリックの王であるにもかかわらず(宗教改革はまだ先ですが)フランス王権の教皇に縛られない独立した状態を求めて成功した人物。この人物が代表する考え方をガリカニズム(フランス人中心主義)といいます。
(7) 1414~1418年に南ドイツのこの都市で開かれました。神聖ローマ皇帝ジギスムントの圧力により、ピサの教皇ヨハネス23世がカトリック教会の分裂(シスマ)を止め統一を実現し、またウィクリフやフスらの異端の根絶をはかるために召集しました。


 ルイ13世の宰相が問われています。ルイ14世の宰相はマザランです。まちがえないように。「マザコンの14世」とおぼえるとまちがわない? この答えの宰相は肖像画で見たらわかるように聖職者です。教皇につぐ枢機卿の地位にありました。この宰相の能力が大きすぎたためルイ13世にルイ14世のような「親政」がないのです。この宰相を辞めさせて、ルイちゃんが親政しなさいと諌めたのが母のマリー=ド=メディシスでしたが、ルイ13世は宰相に頭が上がらなかったのです。生涯、劣等感を抱いて死んだそうです。進言を聞いた宰相は母親も追放します。
 ロココ様式の代表的宮殿です。華麗な花模様・草模様のたれさがる部屋が教科書の写真にのっています。あんなところで男が暮らすのか、というのは日本人の野暮な感想でしょう。ヴォルテールは2世に招かれて作文を教えて難儀したとのことで、この王の虚栄心を嫌ってスイスに逃げていったそうです。

(8) 「この家の出身の教皇」とはレオ10世です。目の前にサン=ピエトロ大聖堂という巨大なビルのような教会を見れば、どれだけの費用がかかったのかと、だれでもため息をつくはずです。答えとして「免罪符」という表現はまちがった表現です。罪は日本的に「免れ」水に流されることはないのです。かならず償わなくてはならないのがキリスト教です。  
(9) 私大ではロッテルダムというかれの出身都市そのものを問う細かい問題もあります。「ギリシア・ローマの古典」に関しては『文章用語論』があり、また「聖書を研究」に関しては『校訂ギリシア語聖書』があり(ルターが学ぶテキストです)、「聖職者の道徳的堕落」に関しては『(痴)愚神礼賛』があります。  
(10) 英語で Poor Law といわれるものです。囲い込み(エンクロージャー)のために農村から追い出された貧民を各地の教会が面倒をみなさい、という法律です。
(11) 先に紹介したレンブラントもその中に入れる様式です。絶対主義最盛期の様式ともいいます。つまり、どっか誇張があるのです。これらの画家の絵を見ると一目瞭然です(こちら http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/rubens/)。これらの絵を見たらわかるように、人物を画面一杯に描いており、赤・黒というどぎつい色を多用しています。題材としては静かなレンブラントを別にすれば、物語のクライマックスを劇的に表そうとしていることがうかがえます。 
(12) コルベール主義ともいう財政政策です。教科書では「国内の商工業を育成し、東インド会社などの特権会社を振興した(詳説世界史)」「保護貿易や、特権マニュファクチュアの育成がはかられた(詳解世界史)」という風に国内と対外政策の両方があげてあると良いでしょう。決して貿易政策だけで終わらないように。重商主義とは「商」業だけ「重」視した政策ではありません。国内産業の保護政策も加えないと、貿易差額だけでは利益は得られません。やはり売れる商品もつくらなくてはならないのです。フランスの国内マニュファクチュアは英蘭のように民間人が自発的に(これをかんたんに「下から」といいます)おきたものではなく、政府のほうから資金をだし指導して工業を振興しようとするものです(これをかんたんに「上から」といいます)。どこかの予備校の解答に「王立マニュファクチュア」というのをあげたのがありますが、フランスは王立・国立・特権と3種類の特権的なものをつくりましたから、この一部だけあげるのはまちがっています。つまり「王立」は政府が全面的に資金をだすマニュファクチュアですから「保護・育成」は必要ないのです。「国立」は政府と民間が半々で、「特権」は全部民間資本ですから、後半の2者が「保護・育成」の対象になります。
(13) この土地をめぐる戦いは3回にわたっておこなわれました。第1次は1740~42年。プロイセンがマリア・テレジアのオーストリア相続を認める代償にここを占領します。これがオーストリア継承戦争の発端となります。第2次は1744~45年。勝敗はなしでした。第3次が1756~63年。オーストリアがフランスと同盟してでもとりかえしたかったのですが、結局負けます。この土地を地図で確かめたことがありますか? 現在大半はポーランド領 です(ポーランド名シロンスク) 。ポーランドのどの辺りか地図で確かめてください。山岳地帯というイメージですがオーデル河畔の低地は肥沃な土地で、農耕も牧畜も盛んです。地下資源も、石炭・鉄鉱・亜鉛など産みだしています。
(14) 私大ではプーシキン著『大尉の娘』の主題となった反乱はなんですか? とも出題されます。露土戦争を展開していたエカチェリーナ2世はこの反乱鎮圧のために戦争を早期に終わらせ鎮圧に向かわせました。


 この首相のおこなった二つのことは重要です。政治と経済です。「国会を抑制」はへんな表現ですが、国会を解散し、国会の協賛を経ずに新選挙法という悪法を発布します(地主1票は農民540票にひとしい)。1906年には農業改革を実施し、従来の村落共同体(ミール)を廃止して自作農を創設していきます。うまくはいかなかったのですが。  
 ビスマルクを辞めさせた皇帝です。理由に売春婦がからんでいた、というのが最近のニュースです。「ビスマルクが皇帝のスキャンダルをもみ消す」というもので、皇帝がひそかに寵愛していた売春婦から情事をねたにゆすられ、「国家の一大事」を察知した鉄血宰相ビスマルクがもみ消しに奔走していた、と。ビスマルク財団が保管する関係資料から、皇帝の隠されたスキャンダルを実証する脅迫の手紙や口止め料の領収書などが発見された。ツアイト紙によれば、皇帝から「ミス・ラブ」と呼ばれていた高級売春婦は、皇帝から届いた恋文や皇帝の「変わった性癖」を暴露すると脅して金品を要求。事態の深刻さを知らされたビスマルクは、若き皇帝の火遊びをいさめたものの聞き入れられず、一計を案じて1889年にフランクフルトの宮殿でこの売春婦に2万5000マルクの口止め料を支払い、手紙も買い取ります。しかし、これがきっかけで皇帝とビスマルクは疎遠となり、ビスマルクの失脚を早めるきっかけとなった、と。

(15) この法令のために「解放皇帝」ともいわれます。クリミア戦争の末期におやじ(ニコライ1世)が死去し、おやじの尻ぬぐいをさせられた皇帝です。 
(16) 空欄fの皇帝が短絡にロシアとの関係を蹴ってしまった。かれ自身の、ドイツを世界中に書き込みたい、ビスマルクは欧州の安全ばかりに気を取られていて海外に雄飛できない。また国内にはこのうつけものの野望を支持する産業界の発展があり、やれやれ、行け行けと声をあげていました。
(17) カージャール朝(1796~1925)の国です。  
(18) 五ヵ年計画の説明ですから「計画経済」ということばは要りません。第一次は、社会主義的工業化といって、重工業の発展のための基礎的な機械(生産手段生産部門)をつくることでした。それと農業の集団化でコルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)です。前者はミールを解体して(ストルイピンの解体は成功せず革命のときにミールは復活しています)、国家管理の共同体に仕立てたものです。後者は国営農場と訳すように模範的農場としてつくられたもので、大半は前者でした。
(19) 下線を含めた文章が「ソ連は徐々に国際社会における孤立を脱しつつあった」だから、「孤立化を回避」というのでは答えになりません。ともに第一次世界大戦による敗北と、第一次世界大戦を利用して革命にこぎつけた両国が疎外されたり孤立した状態におかれていました。孤立化から脱却しつつあった中で、またそのひとつとしてラパロ条約があるのだから、「この理由」はもっと具体的なことを書くよう求めています。ドイツにとってはフランスの対独包囲網に風穴を開け、ソ連領内で秘かに再軍備をはかり武器を製造することでした。ソ連は戦後経済の復興と赤軍の強化を考えておりドイツ軍部に訓練をしてほしかった。互いの軍事と経済の欲望が合致した結果がラパロ条約です。
(20) 恐慌開始のときの大統領です。通常の景気後退にすぎないと甘く見ていたために被害をひどくしてしまった大統領です。国民にむかって演説するときは「自らの問題を解決するために政府を当てにしてはならない。……解決する力は、……個人と地域社会が、自らの責任を果たすかどうかによって明らかになります」と。明らかになったのは、倒産・失業者はますます増えつづけ、自分が落選することでした。どこかの首相も似たようなことを言っています。痛め痛め、と。  
(21) ミュンヘン会談の結果、ドイツにズデーテンを割譲することになった。この割譲をせまられた国は何? という問い。ナチス・ドイツはズデーテンだけでなく、西側のボヘミア・モラビアの全域をとってしまい、東のスロヴァキアを保護国化しました。独裁者の脅しに対する誤った譲歩(宥和政策)は一国をつぶしてしまいます。   

解答例 2002
【1】
    (君の答え)
【2】

a 小麦(大麦/麦/豆) b 湖広 c 海(海路) d 李自成
(1) 交子・会子  (2) 綿織物業・絹織物業  (3)(ア)陳朝 (イ)字喃
(4) 南人 (5) 靖難の変 (6) 水滸伝 (7) 八旗(制) (8) マカートニー


e プトレマイオス  f サラディン(サラーフ=アッディーン)  g バグダード
h ムハンマド=アリー  i ワッハーブ
(9) チュニジア  (10)(ア) 後ウマイヤ朝 (イ)コルドバ 
(11)(ア) ポルトガル (イ)マラッカ王国  (12) メフメト2世(メフメット2世)  
(13) タブリーズ  (14)(ア)ロゼッタ石(ロゼッタ=ストーン) (イ)シャンポリオン
(15) アラービー(オラービー)=パシャ(アフマド=アラービー)

【3】
    (君の答え)
【4】

a ディオクレティアヌス  b ハインリヒ4世  
(1) 皇帝崇拝 (2) 告白(告白録) (3) エフェソス (4) アルクィン
(5) ジョン王がカンタベリ大司教の叙任権を譲らなかったため。  
(6) フィリップ4世 (7) コンスタンツ

c リシュリュー d サンスーシ(サン=スーシ)
(8) 贖宥状 (9) エラスムス (10) 救貧法 (11) バロック様式  
(12) 国内では特権的なマニュファクチュアを保護・育成し、対外的には保護貿易をおこなった。
(13) シュレジエン(シレジア/シロンスク) (14) プガチョフ

e ストルイピン f ヴィルヘルム2世
(15) アレクサンドル2世 (16) (独露)再保障条約(二重保障条約/再保険条約)
(17) ペルシア(イラン) 
(18) 重工業の発展のための基礎的な機械をつくることと、コルホーズとソフホーズという農業の集団化。
(19) ドイツは国防軍を秘密裏に再軍備したく、ソ連は経済建設のためドイツとの協力を欲していた。
(20) フーヴァー (21) チェコスロヴァキア