世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2018

東大世界史2018
第1問
 近現代の社会が直面した大きな課題は、性別による差異や差別をどうとらえるかであった。18世紀以降、欧米を中心に啓蒙思想が広がり、国民主権を基礎とする国家の形成が求められたが、女性は参政権を付与されず、政治から排除された。学問や芸術、社会活動など、女性が社会で活躍する事例も多かったが、家庭内や賃労働の現場では、性別による差別は存在し、強まることもあった。
 このような状況の中で、19世紀を通じて高まりをみせたのが、女性参政権獲得運動である。男性の普通選挙要求とも並行して進められたこの運動が成果をあげたのは、19世紀末以降であった。国や地域によって時期は異なっていたが、ニュージーランドやオーストラリアでは19世紀末から20世紀初頭に、フランスや日本では第二次世界大戦末期以降に女性参政権が認められた。とはいえ、参政権獲得によって、女性の権利や地位の平等が実現したわけではなかった。その後、20世紀後半には、根強い社会的差別や抑圧からの解放を目指す運動が繰り広げられていくことになる。
 以上のことを踏まえ、19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 キュリー(マリー) 産業革命 女性差別撤廃条約(1979) 人権宣言 総力戦 第4次選挙法改正(1918) ナイティンゲール フェミニズム

第2問
 現在に至るまで、宗教は人の心を強くとらえ、社会を動かす大きな原動力となってきた。宗教の生成、伝播、変容などに関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭(1)〜(3)の番号を付して答えなさい。

問(1) インドは、さまざまな宗教を生み出し、またいくつもの改革運動を経験してきた。古代インドでは、部族社会がくずれると、政治・経済の中心はガンジス川上流域から中・下流域へと移動し、都市国家が生まれた。そして、それらの中から、マガダ国がガンジス川流域の統ーを成し遂げた。こうした状況の中で、仏教やジャイナ教などが生まれた。また、これらの宗教はその後も変化を遂げてきた。これに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えなさい。

 (a) 新たに生まれた仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴を3行以内で記しなさい。
 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現する一方で、従来の宗教でも改革の動きが進んでいた。その動きから出てきた哲学の名称を書きなさい。
 (c) 紀元前後になると仏教の中から新しい運動が生まれた。この運動を担つた人々は、この仏教を大乗仏教と呼んだが、その特徴を3行以内で記しなさい。

問(2) 中国においては、仏教やキリスト教など外来の宗教は、時に王朝による弾圧や布教の禁止を経ながらも、長い時間をかけて浸透した。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

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 (a) 図版1は、北魏の太武帝がおこなった仏教に対する弾圧の後に、都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称を記し、さらにその位置を図版2のA〜Cから1つ選んで記号で記しなさい。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程を3行以内で記しなさい。

問(3) 1517年に始まる宗教改革は西欧キリスト教世界の様相を一変させたが、教会を刷新しようとする動きはそれ以前にも見られたし、宗教改革開始以後、プロテスタンテイズムの内部においても見られた。これに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 13世紀に設立されたフランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴を2行以内で記しなさい。
 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点とを、4行以内で記しなさい。

第3問
 世界史において、ある地域の政治的・文化的なまとまりは、文字・言語や宗教、都市の様態などによって特徴づけられ、またそれらの移り変わりに伴って、まとまりの形も変化してきた。下に掲げた図版や地図、資料を見ながら、このような、地域や人々のまとまりとその変容に関する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

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問(1) 10〜13世紀頃のユーラシア東方では、新たに成立した王権が、独自の文字を創出して統治に用いるという事象が広く見られた。図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域を何というか、記しなさい。

問(2) 13世紀にモンゴル高原に建てられた帝国は、周囲の国家をつぎつぎに併合するとともに、有用な制度や人材を取り入れた。図版bは、この帝国が、滅ぼした国家の制度を引き継いで発行した紙幣であり、そこには、領内から迎えた宗教指導者に新たに作らせた文字が記されている。その新たな文字を何というか、記しなさい。

問(3) 図版cに含まれるのは、インドシナ半島で漢字を基にして作られた文字であり、13世紀に成立した王朝の頃に次第に用いられるようになった。この王朝は、その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか、記しなさい。

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問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前を記しなさい。
 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記述しなさい。

問(5) 次の資料は、地図中の都市Cに関する1154年頃の記述である。下線部①は、直前の時期に起きたこの都市の支配者勢力の交替に伴って、旧来の宗教施設[ あ ]が新支配者勢力の信奉する宗教の施設に変化したことを述べている。この変化を1行で説明しなさい。

 アル=カスル地区は、いにしえの城塞地区で、どこの国でもそう呼ばれている。三つの道路が走っており、その真ん中の通りに沿って、塔のある宮殿、素晴らしく高貴な館、多くの[ あ ]、商館、浴場、大商店が立ち並んでいる。残りの二つの通りに沿っても美しい館、そびえ立つ建物、多くの浴場、商館がある。この地区には、①大きな[ あ ]、あるいは少なくともかつて[ あ ]とされた建物があり、今は昔のようになっている
  イドリーシー『遠き世界を知りたいと望む者の慰みの書』(歴史学研究会編『世界史史料2』より、一部表記変更)

問(6) ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物は、1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした。その一方で、彼の生まれ故郷の港町は同年4月にサルデーニャ王国から隣国に割譲され、その新たな国民国家に帰属することはなかった。この割譲された港町の名前を記しなさい。

問(7) 地図中の都市Aを含む地域は近代以降植民地とされていたが、20世紀後半に起きたこの地域の独立運動とそれに伴う政情不安が契機になり、宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制の名称を記しなさい。

料X
 世界で[ い ]のようにすばらしい都市は稀である。…[ い ]は、②信徒たちの長ウスマーン閣下の時代にイスラームを受容した。…ティムール=ベグが首都とした。ティムール=ベグ以前に、彼ほどに強大な君主が[ い ]を首都としたことはなかった。
   バ一ブル(間野英ニ訳)『バ一ブル=ナーマ』(一部表記変更)

資料Y
 ティムールがわれわれに最初の謁見を賜った宮殿のある庭園は、ディルクシャーと呼ばれていた。そしてその周辺の果樹園の中には、壁が絹かもしくはそれに似たような天幕が、数多く張られていた。…今までお話ししてきたこれらの殿下(ティムール)の果樹園、宮殿などは[ い ]の町のすぐ近くにあり、そのかなたは広大な平原で、そこには河から分かれる多くの水路が耕地の間を貫流している。その平原で、最近、ティムールは自身のための帳幕を設営させた。
    クラヴィホ(山田信夫訳)『ティムール帝国紀行』(一部表記変更)

問(8) 次の図ア〜エのうち、資料X・Yで述べられている都市[ い ]を描いたものを選び、その記号を記しなさい。

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問(9) (a)資料X中の下線部②の記述は正確ではないが、[ い ]を含む地域において、住民の信仰する宗教が変わったことは事実である。この改宗が進行する以前に、主にゾロアスター教を信仰し、遠距離商業で活躍していた、この地域の人々は何と呼ばれるか、その名称を答えなさい。(b)また、下線部②に記されている人物を含む、ムスリム共同体の初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか、その名称を記しなさい。解答に際しては、(a)・(b)それぞれについて改行して記しなさい。

問(10) 資料Xは、もと[ い ]の君主であった著者の自伝である。この著者が創設した王朝の宮廷で発達し、現在のパキスタンの国語となった言語の名称を記しなさい。

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コメント

第1問
 2018年度は異様に長い導入文でした。前段で性差別の長い歴史があったことを述べ、次段では、女性参政権運動があり、実現は19世紀末以降からと述べています。さいごの段落で課題が示されます。このうち次段目の説明は正確ではなく、19世紀の半ばから米国の各州で女性参政権は実現していました。たとえば一橋の過去問(2010)に次のような導入文があります。

女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった。

 この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州とミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州が1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 東大の過去問の類題としては1990年の「第一次世界大戦から1920年代の大衆的政治運動(600字)」が該当します。この大衆の運動の中に女性参政権運動も入っていたからです。
 さて2018年の課題は「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について、具体的に記述しなさい」というものでした。つまり「女性」の「活動」をまず書かなくてはならず、「女性参政権獲得の歩み女性解放運動」も女性・女性が強調されていることです。男性が運動したことでなく、男性が女性に「与えてやった」「認めてやった」参政権でもなく、女性側の活動、女性の獲得運動を書いてほしい、それも「具体的に」ということです
 予備校の解答例がネットで公表されているので、ご覧になり、「女性」側の運動がどれだけ書いてあるか、数えてみるといいでしょう。活躍・運動したのが誰なのか分からない解答例がほとんどです。書いてあるのは、この問題の導入文と同様な女性参政権の歴史・状況・結果で、女性の運動面の具体的事例に乏しいことです。まったく書いてない解答例もあります。課題を素直にとれない反面教師として、書いてはいけない「模範」事例として読むといいでしょう。日本がジェンダー・ギャップ指数で、世界144カ国中114位という現状がこれらの解答例も反映しています。
https://kokai.jp/2017/11/04/男女格差指数2017-日本114位(global-gender-gap-report-2017)/

 しかし指定語句となったキュリー(マリー)やナイティンゲールには活動の広がりがあまりありません。キュリーは完全に個人の研究に没頭していて、女性たちが彼女についていくという「運動」のようなものではありません。女性の国際的地位を上げた一人にはちがいありませんが。
 ナイティンゲールは看護師としてクリミア戦争の地にいき、病院の不衛生さを嘆き、便所掃除から始めて、戦地報告書を提出したことから軍と保健制度の改革につながりました。このことに刺激されてデュナンが赤十字国際委員会を設立します。といって女性の地位向上のための運動になったという訳ではありません。むしろ彼女は統計学の先駆者として学問のほうでの評価が高いひとです。
 なお指定語句の「キュリー(マリー)」はキュリーだけ書いてもいいはずです。他にキュリーは書けませんし、下線を引いておけば指定されたマリーを使ったことの表示になります。どうしもマリーも出題者が書いてほしいのであったら、「マリー=キュリー」と表示したはずです。娘のイレーネ=キュリーのほうが政治運動をおこなったのですが。
 運動指導者といいがたい二人しか女性の名前が指定されていません。東大らしい意地悪い指定語句の出し方です。解答する立場の受験生は、他の運動をおこなった女性の名とともに女性側の運動を列挙していかなくてはなりません。予備校の解答に女性の名前が指定語句以外にわずかしかないのは、この東大のだましに引かかったせいでしょう。
 合格した受験生が、合否がわからない段階で送ってくれた再現答案は以下のものです。問題の趣旨をよくとらえた解答になっています。

女性の活動で著名なものとして、まずラジウムを発見したキュリー夫人が挙げられる。ストウ夫人は『アンクル=トムの小屋』を書いて、奴隷制に関して社会に大きく影響した。ナイティンゲールはクリミア戦争で献身的な貢献を見せ、その後の赤十字設立に寄与した。女性参政権の歩みや女性解放運動については、まず文学でフェミニズムの風を起こしたイプセンの『人形の家』が挙げられる。また、女性の社会貢献が進むに応じて、これらの運動は高揚した。日本では、産業革命が起きて製糸業などの軽工業の機械化が進むと、女工が酷使されて生産された生糸が日本の主要な輸出品となった。これにより、20世紀初頭には平塚らいてうらによる女性解放運動や、女性参政権要求運動が盛んになった。また、世界大戦もこれらの運動活性化の契機となった。世界大戦は、戦場で戦う男性のみならず、女性も軍需産業に従事して戦争に参加する総力戦であった。そのため、大戦後はイギリスで第4次選挙法改正が行われ女性参政権が認められたことなどに見られるように、女性の地位は確かに向上した。これらの運動は、民衆の動きによるもののみならず、政権が主導して行われた例もあった。洪秀全の拝上帝会は、中国の伝統的なてん足を廃止した。ムスタファ=ケマルは、イスラームの女性抑圧の悪しき伝統を断ち切り、トルコ改革で女性参政権を与えた。女性差別撤廃条約人権宣言は使い方がわかりませんでした。

 女性の活動・運動にあたるものをたどってみましょう。
 初めはフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。その10条に「処刑台にのぼる権利と同様に、演壇にのぼる権利をもたねばならない」と訴え、処刑台のほうにのぼらされました。ただ、これは不可欠なデータとというわけではない。教科書には書いてありませんから。
 次は一橋の問題文にあったアメリカ合衆国の女性参政権獲得運動について書けたら書くといいでしょう。19世紀の半ばから各州毎に運動があり、その成果がみられました。
 パリ=コミューンで女性に参政権が与えられたことがあります。
 また世紀末にイギリス女性の運動は活発になり、その指導者エメリン=パンクハーストの名をあげた教科書もあります。『詳説世界史研究』にも載っています。『未来を花束にして(Suffragette)』という映画にもなり、パンクハーストをメリルストリーブが演じました。「言葉でなく行動を」という過激な運動は、映像終盤の衝撃的なエミリー=デイヴィソンの訴えにもなりました。これは Youtube の記録フィルムでも見ることができます。
https://www、youtube、com/watch?v=-G4fJ9I_wQg
 第一次世界大戦の最中に二つの運動と結果があります。ロシア革命において、1917年2月23日、女工たちが「パンを!」の声をあげて街頭に出たことが革命の発端となり、はじめは軍隊が群衆に発砲して鎮圧につとめましたが、やがて兵士も反乱に寝返っていき、ソヴィェト政府は男女同権の選挙権を認めました。
 もう一つが戦前からの女性たちの運動と、結果として教科書に書いてある第4回選挙法改正(1918)で、イギリスでは30歳以上の女性に選挙権が拡大されました。これが戦後に労働党政権を生みます。
 大戦の影響はいろいろ見られます。「総力戦体制のもとで、女性も軍需工場に動員され、男性の仕事を肩がわりするようになった。また、国家は、戦争にあらゆる力を結集するために、男性にも女性にも国民としての役割を与え、国民として自覚させることを通じて……戦争に協力させることが必要になった。女性参政権は、女性運動の成果ではあったが、世界戦争の時代とも深くかかわっていたのである。(東京書籍)」という記事。工場だけでなく戦場に看護婦・兵士として参加した女性もいました。
 アメリカ合衆国では女性参政権は修正19条で全州に強制されました。ドイツのヴァイマール憲法で女性参政権が認められています。この背景として、ドイツでも19世紀に運動があり、「ドイツ婦人参政権協会」(1902)がアニタ=アウクスブルクによって結成されています。マルクス主義者として活動したローザ=ルクセンブルクは多くの聴衆に呼びかけて戦争中はスパルタクス団をつくり、戦後ドイツ共産党を結成しました。
 トルコの改革でも女性に参政権が与えられました。また女性のチャドル(ヴェール)を廃し、一夫一婦制が樹立されました。トルコにも女性側の運動がありました。
 戦争中から戦後にかけてアジアの民族運動はさかんになりますが、日本でもそうでした。中学生の教科書には次のような記事があります。

 (11)始まりは女一揆 ─米騒動と民衆運動─
米俵のゆくえ
 1918年7月、富山県東水橋町(富山市)の港で、何を運ぶ仕事をする女性たちが、山と積まれた米俵を前に、考え込んでいました。米はたくさんあるのに、なぜ米の値段が上がり続け、こんなに生活が苦しいのか。女性たちは、米が他の地域に運び出されるために、米価が上がるのだと考えました。
 そこで、米商人に、「米をよそ(他県など)へやらんといてくれ」と要求しましたが、聞き入れられません。そのため、数百人の女性たちが、実力で米の船積みを中止させ、安売りを求めて米屋に押しかけました。
 8月、富山県の女性たちの行動が新聞で報道されると、米の安売りを求める運動が広がります。たとえば名古屋では、鶴舞公園に、だれかがよびかけたわけでもないのに、たくさんの人が集まり、多い日は5万人にもなりました。その多くは労働者や職人でした。集まった人びとは、安売りを求めて米屋に向かい、警察官と激しく衝突しました。(『ともに学ぶ人間の歴史』学び社、p.214)
 戦後の1919年のことは、この中学生の教科書では、こう書いてます。

 1919年4月、京城(ソウル)から約100km 離れた並川という町の市場に、およそ3000人の人びとが集まっていました。「3月1日に、京城で独立が宣言された。私たちも独立万歳を叫ぼう」という演説があり、太極旗がふられました。人びとは、いっせいに、「独立マンセー(万歳)」と叫びました。このなかに、女子学生柳寛順(ユグァンスン)も加わっていました。
 柳寛順は、京城で、友だちと3月1日のデモに行こうとしましたが、学校が禁止したため、参加できませんでした。ふるさとの町で、両親といっしょに集会に参加しました。
 日本の憲兵隊が、集まった人びとに向かつて発砲し両親は殺されました。柳寛順も逮捕されて、裁判にかけられ、 翌年10月、刑務所に入れられたまま死亡しました。最後まで、朝鮮独立の意志をすてなかったといわれます。(p.212)

 日本での1919年に関しては以下のように書いてあります。

 平塚らいてう……当時、女性には選挙権も財産権もなく、 自分の意思で結婚する自由もありませんでした。太陽である男性に従い、月のように生きることが、女性のあり方だとされていたのです。『青鞜』は、このような考えや制度を打ち破り、女性の人間としての可能性を開かせようと、よびかけました。
 新聞や雑誌は『青鞜』を激しく非難しましたが、女性たちからは共感の手紙が多く寄せられました。……1919年、平塚らいてうと市川房枝は、女性の社会的地位を向上させるために、女性の団結を訴え新婦人協会をつくりました。(p.216)

 この教科書は中学生用ですが、以上の例のように具体的で分かりやすく、東大がよく出題する民衆運動をていねいに書いていて、東大受験に役に立つ内容であることが分かります。お薦めの教科書です。反日教科書だと産経新聞が泣きわめいていますが、子どもの泣き言にひとしく、無視しましよう。わめく理由は、「慰安婦(日本軍性奴隷被害者)」問題をとりあげたからです。次のような記事があります。

 1991年の韓国の金学順(キムハクスン)の証言をきっかけとして日本政府は、戦時下の女性への暴力と人権侵害についての調査を行った。そして、1993年にお詫びと反省の気持ちをしめす政府見解を発表した。このように、東アジアでも戦時下の人権侵害を問い直す動きがすすんだ。アメリ力・オランダなど各国の議会もこの問題を取り上げた。(p.281)
 同ページに「河野洋平官房長官談話」も載っています。この教科書は文科省の検定を通過した、れっきとした教科書です。

 1920年代の運動として「少女たちの労働争議」もあげています。
 
 1927年、岡谷(長野県)の製糸工場で、労働争議が起こった。労働者たちは、会社に次のような要求を出した。「労働組合に入る自由を認め、組合に入ったととで差別や解雇をしないでほしい」「賃金を上げてほしい」「食事や衛生を改善してほしい」
 会社が要求を認めなかったため、平均17歳の工女たち1213人は、いっせいに労働をやめるストライキに入った。12歳の少女もこれに参加した。会社は、親に連絡して娘を引き取らせ、外に出ていた工女を寄宿舎からしめ出した。多くの工女が解雇されて争議は終わったが、そののち、ほかの工場では食事が改善され、賃金が引き上げられるようになった。(p.215)

 欧州における第二次世界大戦中の運動として、2つ女性の例をあげています。白バラ運動のゾフィー=ショル(21歳)、オランダにおいてドイツ占領軍に対する抵抗運動(レジスタンス)に加わった少女オードリー=ヘプバーン(後の女優)です(p.240〜241)。

 戦後は、世界人権宣言が国連で発表され(1950)、その序文に「基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、……」と外務省のページに載っています。(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html
 指定語句の「女性差別撤廃条約(1979)」も外務省のページにあります(https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/josi/index.html)。
 世界人権宣言の趣旨に基づき設立された、民間の国際的人権擁護機関(NGO)として「アムネスティ=インターナショナル(1961)があります。女性への差別にたいしても果敢に告発・運動を繰り返しています。(http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/women/)その功績でノーベル平和賞を授与されています(1977)。
 戦後、女性で大統領になった方は増えましたが、それは運動になるのか疑問です。活躍・地位向上の一つではあります。
 日本における男女雇用均等法(1985)が通ったのには、多くの女性弁護士の運動がありました。

 以上の運動にあたるものは総括的にはフェミニズム(女権)運動だといわれもします。ただフェミニズムは一般に戦後の選挙権だけではなく、広く社会全般(政治、文化、宗教、職場、家庭、教育、医療)における女性差別を撤廃しようという運動です。男中心の「近代」社会への批判でもありました。
 1960年代からウーマン・リブ活動といわれるものがアメリカからはじまり、つくられた「女らしさ」を拒否する、性差だけでなく人種・民族・階級の差別のない社会・世界へと市民運動のかたちをとりました。それが国際婦人年世界会議(1975年)を開催するところまで行き、いくつもの都市でこの会議は開かれます。
 アメリカの公民権運動でも女性がきっかけでした。黒人ローザ・パークスさんが、バスの白人席を譲るのを拒んだだめ逮捕され、バス・ボイコット事件となります。これにキング牧師が呼応して大きな運動に発展しました。ローザは米国連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれます。

 日本では、内閣府男女共同参画局を設けていろいろ提言・勧告をしていますが、実態は世界的にも惨めな状況であることは初めの方で指摘しました。なかなか目覚めない日本人男性。セクハラをめぐる最近の政府の対応も、その遅れを可視化しました。「セクハラ罪という罪はない」の答弁書、政府が閣議決定(2018.5.18)というニュースです。「婦人に参政権を与えたのは失敗だった」とも発言している人物(麻生太郎)なので、これは不思議な発言ではありません。
 
第2問
問(1) 
 (a) 仏教やジャイナ教に共通のいくつかの特徴という問い。共に人生を苦悩ととらえ、この苦悩から解放される道を説きました。バラモンの権威、その祭儀を否定し、それに伴う身分を度外視した信徒の集団を形成しました。クシャトリヤやヴァイシャが信徒となりました。

 (b) 仏教やジャイナ教などの新宗教が出現……その動きから出てきた哲学の名称は、ウパニシャッド哲学。その説くところは焚我一如(ブラフマンとアートマンの一体化)という。苦脳に縛られ、輪廻から抜け出せない解脱の境地らしい。自己陶酔的な逃避思想ではないのか?

 (c) 大乗仏教の特徴。出家僧だけが解脱できるとする考えを否定して一般人も解脱・救済の道があるとする仏教。とくに自己の救済より他人の救済(利他行)に専念する僧侶、これを菩薩といい、この菩薩も仏に近い存在として崇拝します。菩薩は仏陀の弟子、高僧、仏教学者などを指し、わかりにくい。

問(2)
 (a) 図版1は、北魏の太武帝……都の近くに造られた石窟である。この都の名称と石窟の名称……位置を図版2から。
 3代皇帝の太武帝のときは都は平城で、現代の大同にあたります。地図上のBが内蒙古自治区と山西省の境にあたり、燕雲十六州の雲州でもあり、その近郊に雲崗石窟があります。

 (b) 清朝でキリスト教の布教が制限されていく過程。康熙帝が典礼問題を機にイエズス会士だけに制限し、次帝の雍正帝が皇帝継承をめぐる際に雍正帝と反対の立場に立ったことと、広東での会士と民間人の衝突事件を理由に全面禁止しました。雍正帝の理由は書かなくてもいいでしょう。

問(3)
 (a) フランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴。
 「それまで」としてクリュニー修道院を想起してみます。この修道会はベネディクト戒律を厳守することで信頼され、大土地所有者の寄進を受けるようになり、西欧で1200院も増設するほどの支持をあつめました。改革運動の中心でありながら、次第に豪奢な建物になっていきます。二つの修道会はこうした俗化を嫌い、寄進は受けずに托鉢(市民の施し)で生きる道を選びます。大きな荘園と醸造所をかかえた地方ではなく、都市の中で説教と道路・橋の建設工事に邁進する、という働き者の修道士たちでした。

 (b) イギリス国教会の成立の経緯と、成立した国教会に対するカルヴァン派(ピューリタン)の批判点。
 経緯はヘンリ8世が離婚問題を機に首長法で創設し、エリザベス1世が統一法で確立した、と書けばいいでしょう。批判点はあくまで(ピューリタン)の立場からです。国教会は教義面でカルヴァン派を採用しながらも、旧教の儀式・礼服・祭式をそのまま残したため、もっとそれらは簡素にすべきこと、あるいは廃止すべきであり(クリスマスや復活祭は廃止)、国教会の首長(Head)を国王にしたことに対して神こそ首長であるべきで、司教の権限も弱めること、聖職者も結婚を認めるべきである、などでした。

第3問
問(1) 図版aは、10世紀にモンゴル系の遊牧国家が創り出した文字である。この国家が、南に接する王朝から割譲させた領域。……図版a が分からなくても、10世紀・モンゴル系とあれば国家は契丹(遼)しかない。それが北宋から後晋建国を助けて石敬瑭に割譲させた燕雲十六州です。

問(2) 図版b の上段の文字は「至元通行宝鈔」、その左右に縦書きで奇妙な文字、パスパ文字が印字されています。この紙幣の大きさは、タテ30cm、ヨコ21.5cm です。東京銀行のそばに貨幣博物館があり、そこに現物が展示してあります。

問(3) 図版c はチュノム(字喃)ですが、この文字をつくった陳朝が「その南方にある、半島東岸の地域に領域を拡大している。漢字文化圏とは異なる文化圏である、その領域にあった国を何というか」という問い。北ヴェトナムの南、チャンパー(国)です。中国では占城と呼んだ国です。

問(4) 430年、地図中の都市Aの司教は、攻め寄せてきた部族集団に包囲される中、その生涯を閉じた。……ヒッポ市(ヒッポレギウス)です。チュニジアの国境に近いアルジェリア東北部の都市(現アンナバ市)です。ヴァンダル人に攻められ陥落しました。
 (a) 若い頃にマニ教に関心を示し、その膨大な著作が中世西欧世界に大きな影響を及ぼした、この司教の名前……マニ教からの回心を描いた『告白』の著者アウグスティヌスです。

 (b) また、この攻め寄せてきた部族集団は数年後には都市Bも征服した。この部族集団名を記しなさい。……B のカルタゴ市もせめてここを都とし、さらに北のコルシカ島もサルディーニア島も、ローマ市にも侵攻しました。

問(5) 都市C はパレルモ市。「1154年頃の記述」とは、ここにノルマン人が進出してアラブ人を追放したため、それまでのイスラーム教・モスクからキリスト教の教会に変貌したことを指しているはずです。
 1154年は西欧ではプランタジネット朝創始の年(『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)の覚え方では「プランタジネット、い1い1交5信4」)ですが、両シチリア王国も近い年代で1130年(「いい漁師、ト1ト1さん3を0[トトは魚のこと]」)。両シチリア王国は、ノルマン朝の貴族たちがシチリア島を征服し、半島南部のナポリにも根拠をおいてできた親族国家でした。

問(6) 「ウルグアイなど南米で勇名を馳せたある人物」について知らなくても、「1860年9月に地図中の都市Dに入り、サルデーニャ王国による国民国家建設に大きな役割を果たした……」とあればガリバルディの名が浮かぶはず。都市D はナポリ市です。統一戦争はフランス(ナポレオン3世)が助けてくれたためにサヴォイとともにニース港市を割譲しました。

問(7) 宗主国の体制が転換することになった。この転換した後の体制。アルジェリア独立戦争のことです。当時、フランスでは独立戦争といわずテロと叫んでいましたが、今は独立闘争であったことを認めています。映画『アルジェの戦い』は壮絶な殺しあいを描いていました。第四共和政はインドシナ戦争でも苦戦し、アルジェリア戦争でも苦戦していて、アルジェ市のフランス人コロン(植民者)たちがド=ゴールの登場を要請して蜂起したことから第四共和政はつぶれ、第五共和政が成立することになります。この政変はド=ゴールが仕組んだという説があります。

問(8) ティムールの都がサマルカンドだという問題は、センター試験でなんども問われてきた基本的なことです(90、96、01追、04追、06)。地図のアはコンスタンティノープル、地図のウは長安、地図のエはバグダード、と分かれば、見たことがなくても正解は「イ」となります。

問(9) (a)[ い ]を含む地域において、……遠距離商業で活躍していた、この地域の人々。サマルカンド市がアム川とシル川の間にあるソグディアナの住民のことで、ソグド人です。

(b) 初期の4人の指導者は特に何と呼ばれるか。正統カリフ。

問(10) 現在のパキスタンの国語は、ウルドゥー語です。インダス川流域に8世紀以降、多くの民族・兵士が往来したためできた混成語です。