世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・中国〔明朝以降〕

Q38 明清間に貿易の発展と農民の没落が東南アジアへの移民につながったとありますが、農民はどうして没落したのですか?

38A 経済発展はすべてのひとが豊かになることを約束しません。発展のためにアップ・ダウンが激しくなるのが人間の世界です。二つ原因があります。
 まず明朝の里甲制の崩壊があります。里甲制の中では、たとえ土地所有に格差があっても負担(里甲正役雑役といいます)は同額となっており、それは小土地所有者に重くのしかかります。納税ができなくなると、土地を牛を妻を売りにだすことになり、とうとう逃亡か自殺かという末路が待っていました。小作人になったとして、1年の収穫は家族が1年分くっていくぐらいしか取れないのに、小作料は半分以上というきびしさです。副業の棉花栽培・養蚕(ようさん)・絹織物などを兼業してなんとかしのいでいる。棉花も一部は地主に小作料として取られ、残りを棉花商人に売るのです。綿糸をつくるものは綿糸を売り、その金で棉花を買ってかえる、という自転車操業(働いただけしか収入がない)です。蓄積する余裕がありせん。農民はますます商人への依存度を深め、ピンはねされる額も多くなっていきます。農民は商人たちを「殺荘」と呼びました。また国家への負担がこれに加わります。「税や徭役を銀で換算し、一括して納入する一条鞭法が普及し、これが農村の商品生産に拍車をかけた。農民は銀を手にいれるために商人への依存を強め、……農民の生産を圧迫して中小農民の没落をまねくとともに、地主への土地の集中をうながした。」(詳解世界史)。この銀納のために不利な条件であっても生産物を銀に交換しました。収穫物・土地を担保にしてでも借りねばならないものもおり、結果として収穫物・土地もとりあげられます。


Q39 軍機処と理藩院はどうちがうのですか?

39A 軍機処は参謀(さんぼう)部(作戦・用兵の計画を協議する機関)でありジュンガル部を討伐するために雍正帝(ようせいてい)が設けた軍需房(ぐんじゅぼう)が発展したものです。ただ後に内閣の上にだんだん位置づけられ、内閣に代わる組織として内政問題も話す実質皇帝の諮問(しもん)機関(アドヴァイス機関)、かつ国政の最高機関となります。内閣や六部の大官から任用された4〜5人の軍機大臣がでむいて皇帝のもとで下問(かもん)に答えたものです。ここでも満漢偶数官制の原則は保たれたらしい。
 理藩院はそこまで上昇することはなく、あくまで藩部(はんぶ、間接統治地区である蒙古・新疆(しんきょう)・青海・西蔵(せいぞう、チベットのこと))を統括するための外務省です。はじめはホンタイジ(清の2代目の太宗)が蒙古を平定して蒙古衙門(もうこがもん)を設けたのが起源です。1638年に理藩院と改称されます。1659年には礼部(外交と教育を担当)の管轄下にはいり、1661年には独立の官庁となります。1861年に設けられた総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)は欧米との外交をあつかう官庁で、藩部とはまた別の外務をあつかうことになりました。


Q40 教科書によると「蒙古衙門が後に理藩院になった」とあったんですけど、ホンタイジの頃に作られた蒙古衙門と乾隆帝の頃の理藩院とでは、名前が違うだけなんですか? あと、理藩院は誰の頃に作られたか?ってな質問の答えって、乾隆帝。でイイんですか?

40A 蒙古衙門がのちに理藩院と名前を変えます。はじめはチャハル部を平定して、そこだけを管理するためにつくった役所です。のちに4藩部(蒙古・青海・新疆 ・西蔵)の四つを統括します。
 理藩院は誰の頃に作られたかの答えはホンタイジです。
 立命館の問題に「理藩院は藩部を治める役所という意味で、1638年に設置されたが、当時の藩部は今日のどこにあったか。地域名を記せ。」というのがあります。つまり「1638年」はホンタイジの期間です。ホンタイジで理藩院ということばを使って出題しています。


Q41 清の時代に、女真人が辮髪を漢民族に強制してましたが、辮髪って、髪の毛が足りなかったらどうしてたんでしょうか???
資料集とか教科書とか見たら、めちゃくちゃ髪がないとできそうも無い髪型なんですが。
相撲の大銀杏は、髪がたりなくて結えなくても、そのせいで引退ということはないらしいですが。

41A 面白い質問ですね。
 魯迅のいろいろな小説の中には、かつらを使ったという話しは出てきます。足りない分を結んで追加することもできますし、頭のうすい人でも天辺がうすいだけで、周辺の髪の毛は普通人と同じように生えるはずですから大丈夫だったのでは……と想像しますが、知りません。次の辮髪のことを詳しく書いているHPでお尋ねになられではどうでしょう?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/benpatu/bebebebenpatu.html


Q42 中国人宣教師によって中国からヨーロッパにあたえた影響について、①朱子学→啓蒙思想 ②科挙→文官任用制度 ③シノワリズムの流行 ④中国美術→ロココ美術へ影響を与えた これ以外にもあるのでしょうか? あと飲茶の風習もこのときにつたわったのですか?

42A 他には、ライプニッツは易経の内容から単子論をおもいついたとのこと、ヴォルテールが孔子崇拝(理性的性格)をしたことも有名です。ケネーは中国は農業を重視している知り、それに刺激をうけて重農主義を唱えたとのことです。また陶磁器はマイセン磁器として模倣されます。 ロココ宮殿にシナ風庭園がつくられたことも影響です。茶はイエズス会士ではありません。名誉革命のときにオランダ(日本と貿易)からメアリ2世とウィリアム3世の夫婦がイギリスの宮廷にもちこんでからです。もちろん18世紀にイエズス会士が茶について言及はしているとおもいますが。
 清水書院の教科書の記事に次のようなものがありました。
コラム21 中国と西欧の文化交流
 アジア・アフリカ諸国は、19世紀以降になると、ヨーロッパの軍事力の侵略的脅威に直面し、西洋化を軍事面からうけいれざるをえなくなる。軍事面から始まった西洋化は、制度・政治・社会・思想などの変革に進む。しかし、アヘン戦争が始まる前の中国とヨーロッパは、文化面で互いに刺激しあう関係を保ってきた。
 明末、マカオを基地としたイエズス会の宣教師マテオ・リッチは、科挙を通じて官僚となる知識階層(士大夫)に、数学・暦法等の自然科学の知識を紹介して信頼を得、キリスト教が中国で布教できる道をひらいた。明の高官徐光啓など改宗した士大夫は、自然科学の本を漢訳し、当時近代自然科学を確立しつつあった西欧の科学知識を伝えた。以来、学才優れた宣教師が明末清初に訪れ、暦法を司る天文台の長官に抜擢され、ユークリッド幾何学などの数学、医学・鋳砲術・機械学・地図・絵画・音楽を宮廷に伝えた。康煕帝、乾隆帝は彼らの才能を愛した。乾隆帝が新疆征服を記念して宣教師カスティリオーネらに戦勝図を描かせ、それをパリで銅版印刷させたことなどは当時の中国と西欧の緊密な文化交流を示す一例である。しかし、宣教師のもたらした知識も宮廷内にとどまり、近代的な社会発展の方へとは結びつかなかった。
 一方、ヨーロッパには宣教師が多くの報告書を書き、マルコ・ポーロ以来情報が閉ざされてきた中国を紹介する本が出版されるようになった。フランスを初めとする絶対主義の宮廷・サロンでは、中国への憧れからシノワズリー(シナ趣味)が流行した。ただし、江戸時代の浮世絵が印象派に大きな衝撃を与え、美術の新主張(ジャポニスム)を生んだような影響にはいたらなかった。また、中国・日本陶磁器への需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達した。それ以上に、理性と倫理性を説く孔子の中国思想が、理性を重んじた当時の中心思想である啓蒙思想にあい通じ、ドイツ人哲学者ライプニッツや、フランスの啓蒙思想家の大立者ボルテールらの哲学・思想形成に少なからず影響を及ぼした。


Q43 清朝の支配に打撃を与えたイスラーム教徒の反乱って何すか?

43A 問題文にはどんな時間設定がされているのでしょうか? もう少し設問の周辺の文章があれば特定できます。というのは清朝時代のイスラーム教徒の乱はたくさんあり、大きくは西方と南部でありました。甘粛丁国棟の乱(1648〜49、順治5〜順治6)、1781年(乾隆46)と1784年(乾隆49)の甘粛新教徒の乱、道光年間(1821〜50)に頻発した雲南回民の乱、1854〜73年(咸豊4〜同治12)の雲南回民、いわゆるパンゼー(Panthay)の乱、1862〜77年(同治1〜光緒3)の陝西・甘粛・新疆にまたがる反乱、そして1895〜96年(光緒21〜光緒22)の甘粛でのサラール族・回民の反乱がおもなものです。


Q44 「清の時代、銀は便宜上馬蹄形であった。」という記述がありました。この時代の銀は秤量貨幣として重量を一定にした通称「馬蹄銀」という形態での流通が一般的でした。「馬蹄銀」と一口に言っても重量、形状は様々であり一般の感覚の「馬蹄形」とは異なります。いずれも銀を精錬し、検定マークの極印を打ち込んだものでした。何故、馬蹄形にする必要があるのでしょうか。

44A 今ひとつハッキリしません。形の由来はどうやら製造過程と関係しているようです。
 小学館のニッポニカには以下のような部分があります。
 「清代には分銅形の中がへこみ両側の耳とよばれる部分が高くなって馬蹄形が多くなった。これは、坩堝(るつぼ)の中で銀を溶かし攪拌(かくはん)して皺曲(しゅうきよく)をつくり……」と。
 このつくり方にあるようです。さらに、上から製造所の印が押されていますが、この印を押すときにへこみができて周りが盛り上がるのではないか、と見ています。また重さを調整するためにハサミで耳にあたる部分を切り取るのにも便利だったのではないか……。推測にすぎません。もしもっとハッキリしたことが分かればお伝えします。


Q45 南京木綿ってなんですか?

45A  三角貿易の南京木綿は中国で生産されている綿布で、南京港から輸出された商品であることから「南京木綿 nankeen 」と呼ばれました。孫文が「三民主義」の中で土布(どふ、中国で生産された土着の布)と言っているものです。これが安くて強い布であるため、イギリスの綿布を中国人は買ってくれない。でかい中国市場に期待をかけていたのはマンチェスター(産業革命の中心都市)を主とする綿工業の人たちでしたからガックリしていました。貿易業者も綿布を売って、その代金で茶を買って帰るというわけにはいかなかった。それでアヘンの登場となったのです。この後のアロー戦争でえた、より多くの港の開放でも結局イギリスの綿布はこの南京木綿のために売れません。なんとか売れたのは綿布という製品でなく、綿糸という原料にちかいもので、この綿糸は、機械で作ったもののほうが強くもあり次第に中国原産のものより売れだします。


Q46 予備校では、乾隆帝の『広州1港に限定』も経済上の問題という従来の考え方に加えて、典礼問題の一環としても習いました。つまり、雍正帝がキリスト教布教を全面禁止した後、それでも宣教師たちは今度は商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教していたということから、乾隆帝は宣教師らの排外を徹底する意味合いもあり、広州一港に貿易港を限定し、かつ政府管理下の によって監視した、ということでした。おかしいでしょうか?

46A 宣教師の「商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教」は確かめようがありません。中央公論の最新版の解説書には広州一港に限定した理由を、慣習的に広州に来ていた外国船(一番の客は東インド会社船)は関税のほかに広州役人の手数料やつけ届けがばか高くて嫌になり、負担の軽い寧波の港に行ったりしたため、広州役人が訴えたのと、あちこちの港に外国船が自由に出入りするのは治安上よくないということで広州一港に限定した、と説明しています。


Q47 中国の関税自主権はいつ、何の条約で奪われたのですか?

47A 1843年の 虎門寨追加条約によってです。


Q48 上海の租界の支配は「フランス」とあったのですけど、いつイギリスからフランスへ代わったのですか?

48A 上海には各国の租界があり、イギリスだけもっていたのではありません。日本ももっていました。


Q49 この問題文は、「イギリスの進出のもとで、」と、句読点で区切られてはいますが、条件が、19世紀の印・中の歴史の推移という要求に付加されています。なので、清仏戦争・日清戦争・変法運動・義和団事件は、条件である、イギリスの進出のもととは言い難くありませんか。仮に上記の語句が必要ならば設問は「列強の進出のもとで」とあるべきだと思います。

49A たしかにそのような疑問を抱くのは自然です。ただこの条件はあくまで副問であることです。比重はイギリスにはなく、進出された側の歴史がどうなったのかが主問であり、イギリス進出史を書けとの要求ではないことです。両国に共通するイギリスの進出がきっかけ(契機)となって両国はどうなっていったのか、ということです。すべての19世紀の両国の歴史をイギリスとかかわらせよ、という要求の問題ではない、ということです。もしそうであれば、イギリスの進出は両国の歴史とどう「関係」したのか、という問題でいいはずです。もっとイギリスと両国が対等な関係史であれば、疑問のとおりでいいとおもいます。
 それでもしつこくイギリスと中国との「関係」を追求してみてもいいです。インドの場合はイギリスの植民地になりましたからイギリスの進出のもとにあることは明らかですが、中国の場合は明らか、と言うほどではありません。アヘン戦争・アロー戦争はハッキリしていますが。ただ教科書には書いてないですが、いくつかの事例をあげます。
 アヘン戦争以前のアヘンの流入・銀流出は前提としておきますが、この主たる国はイギリスです。これは教科書に書いてあります。
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリスでした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。清末には李鴻章と対立しましたが。
 太平天国の乱を鎮圧したのは事実上イギリス(ゴードン)でした。これがきっかけで洋務運動、つまり常勝軍をつくりたいという運動がおきます。洋務をあつかう役所として総理各国事務衙門 (総理衙門) が新設されました(1861年)が、 この新設衙門が軍機処などの従前の政治機構を超える地位を占めていきます。 洋務運動の技術の技師と機械はイギリスにたより、その経費は海関からきていました。総税務司ハートは総理衙門の下にいて使われる立場でしたが、実際はこの衙門(役所)から自立していました。
 香港島からはじまる香港形成が19世紀末まであり、このHongkongがアヘンの輸入・銀流出の相変わらずの基地となり、苦力の出発地でもありました。中国に対する最大の投資国もイギリスでした。投資対象はとくに鉄道です。鉄道は中国分割の最大の手段でした。それとともに鉄道附属地(Railway zone)という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域の設定も認められていました。この附属地の鉱山・港湾の開発もやりました。清朝の借金した最大の貸し手がイギリスでした。
 清仏戦争・日清戦争の賠償金もイギリスを中心とする外国借款でまかないました。
 義和団事件に対する賠償金をあつめ管理・分配をしたのは総税務司ハートです。清朝は「洋人の朝廷」と皮肉られましたが、その洋人とはイギリス人のことでした。


Q50 アヘン戦争後イギリスは、中国に対して南京条約を結んで中国南部の港の開港などを認めさせるとともに、翌年の虎門寨追加条約で協定関税などをも認めさせ、中国に対する貿易の拡大を目指しました。しかしイギリスは、「戦後の交易でも…期待したほどの利益はあがらず、不満をいだい」た(『新課程詳説世界史』p.p.253-254)ためにアロー戦争を起こした、と教科書には説明があります。この部分は、アヘン戦争後にイギリスの機械織りの綿織物製品などが中国に流入したものの、中国ではあまり売れなかったので、これを打開するためにイギリスが中国への更なる戦争に踏み切ったことを意味した文であると小生は理解しております。
 しかし一方で、同じイギリスが植民地化したインドにおいては、よく知られておりますように19世紀前半以降イギリスの機械織綿布がインド製品を圧倒して、インドの綿織物手工業が壊滅的な打撃を受けております。
 こうした中国とインドの相違はどこにあるのか、すなわち、なぜインドでは国内の綿織物手工業が壊滅するほどにイギリスの機械織り綿製品がどんどん流入したのに、アヘン戦争後の中国ではイギリスの機械織り綿製品があまり売れなかったのか、その理由を知りたいというのが質問の内容です。

50A わたしはこの理由をつぎのように説明しています。
 インドではなによりイギリスはインド産の綿布に高関税をかけて輸出を阻止する政策をとったこと、また機械による大量生産品に手織りのインド製品は対抗できないこと、また征服した土地における綿織物工場を破壊したり、腕の良い技術者の腕を文字どおり切っていったり、などの理由で、インド綿工業を壊滅させた、と。『詳解世界史』に「世界に冠たる織物の町」として知られたダッカの人口は15万から3万に激減した。インド総督ベンティンクは、1834年「織工たちの骨がインド平原を白色に化している」と本国に報告している、という記事がのっています。
 中国ではインドのような征服戦争はできませんでしたし、なにより中国にはイギリスに対抗できる南京木綿(ナンキーン nankeen)があり、安価でもあったため、イギリスの商品を中国人は買う気もおこらなかった。綿糸という機械でつくった方が強くていいものができるので綿糸は次第に中国産を圧倒していくが、綿布は結局20世紀にはいっても勝てなかった、ということです。
 だいぶ前に読んだ本ですが、加藤祐三著『イギリスとアジア−近代史の原画』岩波新書にこうしたことが書いてあったはずです。


Q51 太平天国の乱に乗じてアロー戦争…とありますが教科書では両者の関係について書かれていません。アロー戦争の勝因に太平天国の乱は関係していたのでしょうか? あと太平天国の乱では清朝側に常勝軍として欧米の義勇軍が参加していましたがその中にはゴードンという英人も参加していましたが、一方で同時期にはアロー戦争で英は清朝と戦争をしていました。一方では清を助け、もう一方では清と戦争するということに矛盾を感じるのですがどういうことでしょうか? 

51A アロー戦争の勝因に太平天国の乱は直接的には関係していません。もともと軍事的な面で清朝は英仏に対抗できる状態ではありませんから太平天国がなくても勝てません。ただ内乱で困惑しているところを突いたという点は英仏に有利な状況であったでしょう。
 太平天国は1850〜64年で、アロー戦争が1856〜60年という風に間にはさまっています。太平天国をキリスト教的な運動とみなして天国側に参加した西欧人もいました。英仏全体としては中立の立場でした。しかし60年の北京条約で英仏の有利が確定し、そのことを太平天国側も認めるか打診すると、認めない、という回答だったので、中立を止めて弾圧という態度をハッキリさせ常勝軍を使います。


Q52 太平天国は中国的キリスト教とはいえないのでしょうか。だとしたらその理由は、短期間で勢力を失って根付かなかったことや、中国のなかでも異端視されたことにもとめられるのでしょうか。

52A いいえ。内容はキリスト教の影響(洪秀全をキリストの弟とみなす、偶像の否定、男女平等)を受けていますからキリスト教の面はもっていました。一方で中国的性格をもちつづけたのは君主政であり、井田法の復活をねらって天朝田畝制度を云々する点、エホバを上帝と言い換えたりするところです。側室を数人持つとかいうことも。


Q53 軍閥とは軍事産業の会社が国の機能を果たすような組織なのですか? 軍閥が各地に分立している状態とはどのような状態ですか? イメージがつかみにくいのですが……。

53A 会社ではありません。各地に派遣されている軍隊が独立した国のようになった場合をいいます。皇帝や袁世凱のような命令する人物がいなくなると、頭のとれた手足が自立して、実質地方の独立した支配者になり、徴税もして軍隊を養うのです。五代十国時代の節度使たちが各地で皇帝を名乗りだしたのも軍閥といいます。20世紀初めの軍閥は直接的には清朝の滅亡によりますが、起源をたどれば、太平天国の乱のときの地方の自衛軍(郷勇)にまでゆきつきます。湘軍・淮軍が起源です。


Q54 中国内閣は幹線鉄道の国有化を進め地方有力者は民営鉄道建設を進めたと教科書に書いてあるのですが幹線鉄道国有化によって生じる不利益とは何ですか? 国有化を猛反対する基本的な理由がいまいちよくわからないのですが。

54A 国有化は清朝に金がないからウソです。このあたりは拙著の『センター世界史B 各駅停車』で、「革命の原因は幹線鉄道国有化問題でした。西南部の郷紳(官僚出身の地方豪族・豪商)たちが資金をだして民営の鉄道にするはずが、清朝は金がないにもかかわらず国有化すると宣言したのです。実際には鉄道を担保に列強から借金するのが目的でした。この売国政策に対して民族資本家だけでなく、あらゆる階層が反対しました」と。用語集の「幹線鉄道国有化」の下に「四国借款団」とあるのが借金の黒幕です。


Q55 日清戦争の際に旅順虐殺事件が起こりましたがなぜ虐殺が旅順で行われたのか教えてください。後なぜ日本軍は虐殺をしたのかも教えてください。

55A なぜが二つ。第一のなぜは、日清戦争の最中に日本軍が兵士でない市民2万人を殺害したことを指しています。これは日本兵が戦死したことに対する日本側の復讐として行なわれました。第二のなぜは日本軍の特色に関する質問です。
 原田啓一著『日清・日露戦争』岩波新書に「1894年9月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。……11月21日未明頃から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。25日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計232人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる」と記しています(p.75〜76)。
 もっと具体的な様子は、一ノ瀬敏也著『旅順と南京』(文春新書)では、従軍した日本兵の『関根日記』を次のように引用しながら説明しています。

関根たち戦闘部隊が旅順を陥落させた翌22日、丸木は土城子から旅順市街地に入った。彼は「清の敗兵成るか身なりの様子では分からねど、捕縛され山景あるいハ畑中なぞニて首打たるる者数しれず」などと、旅順市街地及びその近辺での破壊殺裁の様相を丹念に記録している。彼自身、徴発(=略奪)に出かけた先の農家に隠れていた負傷清兵が逃げようとするところを「多勢かけきたり、メチャメチャに切り倒」したり、あるいは翌23日連行してきた清兵を「すぐさま中へ引入れ首はねたり」など、無抵抗の敵兵殺害に直接立ち会っている(p.99)。

 第二の疑問のなぜは、「虐殺」は戦争にかならず伴うものですが、とくに残虐性は日本軍の中世からの伝統です(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。


Q56 三国干渉以後、列強が中国を争って分割しているなか、アメリカは大きく”出遅れていた”という表現が教科書にあり、この対策として国務長官ジョン・ヘイは「門戸開放宣言」を出し、ヘイの3原則「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を打ち出した、と記憶しています。実際にこの3原則というのはそれぞれどんな内容なのでしょうか。山川の用語集では、この3つについては記述がないのです。

56A  門戸開放について……『高校世界史』という山川の教科書には「当時、アメリカは太平洋に進出し、中国市場への参加を欲していた。このため国務長官ジョン=ヘイは、1899年に中国の門戸開放・機会均等を、翌1900年には領土保全を各国に提案した。各国はこれに同意し、中国分割の手をゆるめたので、アメリカはでおくれていた中国市場への進出を実現することができた。」と書いています。
 日本史の教科書には「国務長官ジョン=ヘイの門戸開放提議を日本をふくむ列国に通告し、各国の勢力範囲内での通商の自由を要求した。」とあります。
 つまり米国は、政治的には領土を中国で得られない代わりに、それぞれの現存する勢力範囲を認めつつも、どこでも経済的交流は閉ざさないでほしい(これが門戸開放)、
 そして経済(貿易)上の壁(関税や港税、鉄道運賃面)にかんしてはどこでも平等なあつかい(等しい関税、運賃)にしてほしい(これが機会均等)、
 勢力範囲は認めるが、中国の領土にかんしてはこれ以上一切どの国も手をつけないでほしい(これが領土保全)。一国だけが中国(清朝)領のどこかをのっとって植民地しないでほしい、という呼びかけです。中国を一国で独占しないでほしいと言いたいわけです。
 これらの内容は、ワシントン会議(1921-22)の九ヵ国条約の中で、はじめて正式に成文化されました。しかし日本は満州国をつくり閉鎖的な経済をはじめたため、条約に違反したと米国が責めてきて対立が深まっていきます。


Q57 参考書によって義和団事件の発生の年代が微妙に違うんですが……1900年と1899の年のどっちなんでしょうか?

57A たしかに二つありますね。世界史では1899年、日本史や他の国では1900年とするようです。
 理由はこうです。
 反キリスト教運動である仇教(きゅうきょう)運動の団体である「義和団」という呼称は、1899年ごろ生まれ山東省からはじまります。つまりこの時点ではまだ列強とは対立していなくて、清朝との対決、いわば内乱です。義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であったことも、いつからはじまったと言えるか正確に決まらない理由です。 
 1899年秋に清軍を破ってから、以後勢力は急激に増大するのですが、1899年の末に袁世凱の徹底した弾圧を受けて山東省の義和団は下火になり、1900年春に義和団は河北(北京市のある省)に中心が移ります。とうとう義和団は北京に入城して全北京市を支配下におくという状態になって、列強の軍隊との対決に入っていきます。一般に日本史では、この1900年からとし、中国史では1899年の発端からをいっています。


Q58 「鉄道敷設などの利権を獲得しようとしていた欧米諸国は、争って自国の勢力範囲拡張にのりだした」とありますが、鉄道を敷設することと「勢力範囲拡張」がどう結びついているのかよくわかりません。

58A 鉄道を敷いたところが勢力圏というのが当時の考え方でした。実際、鉄道を敷く権利とともに、鉄道周辺の土地・山・川(これを「鉄道付属地」といいます)を利用する権利も意味しましたから。鉄道の経営・管理だけでなく、沿線の鉱山・森林・商業・電信などの経営も伴っていました。税関を設けて関税をとり軍隊の駐留・輸送もできます。「満州では1906(明治39)年に関東都督府を旅順におき、ついで長春・旅順間の旧東清鉄道および鉄道沿線の炭坑などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。(山川出版社『詳説日本史』)」


Q59 1900年頃の列国の中国分割は1921年の九ヶ国条約で解消されるのですか?

59A 解消されません。1942年の国民政府にたいして連合軍諸国が不平等条約の撤廃をしてからです。


Q60  清が滅んだのは1911年ですか? 1912年ですか?

60A 1912年です。辛亥革命は前年ですが宣統帝退位は翌年2月でした。


Q61 山川のp.309の14行目「国民政府は英・米の援助で……軍閥の力が弱められ……実質的統一はうながされた」なんでやねん!!!って感じです。

61A 軍閥が弱められたのは経済面です。銀を中心に流通している経済のところへ大恐慌がおこり銀という、それ自身が価値をもつものの取り合いがはじまります。中国の銀を外国(とくにアメリカ)が買い占めようとしたので、銀がなくなると中国の経済の信用はがた落ちになるため、銀流出を防止しなくてはならない。そこで一部(4大)銀行だけが発行する紙幣だけを唯一の通貨とし、銀の取引を禁止しました。銀を国有化し銀の流通を禁止します。この4大銀行は浙江財閥の銀行で蔣(外字なし)介石を支援している銀行でもあり、英米の援助も強力に行なわれたため、「法幣」による通貨統一は蔣介石中心の経済体制をつくりあげました。するとこれまで銀に頼り銀を使ってきた軍閥も一般庶民も、銀が使えなくなり、インフレから身を守る手段としての銀を奪われてしまったのと同じになります。これは軍閥の力を経済的に弱めることになりました。


Q62 北伐というのがありますが、なぜそれを始めたのですか?あと、北伐の後に国民党は共産党を弾圧したとありますが、国共合作はどうなったのですか?

62A 各地に軍閥と呼んでいる暴力的な親分たちがいて、これが中国を五代十国時代の節度使皇帝たちのように中国を分割し、その地方毎に税金をとって地方国家のような状態でした。これを破って中国をまとめ、政党政治の新しい政治体制をつくるには、これら軍閥を破る軍事行動(北伐)が必要でした。「北伐の後に国民党は共産党を弾圧し」ではなく1927年に上海クーデタで共産党を弾圧し、合作はつぶれ、翌年に国民党だけで北伐を完成した後は、共産党攻撃に専念していきます。


Q62 Z会の「実力をつける100題」で、「中国経済界の浙江財閥も、国共合作に終止符を打とうと蔣介石に圧力をかけた」という文があるのですが、なんで財閥が「国共合作に終止符を打とう」とするんかわかりません……。

62A これ時期的に北伐をはじめて上海クーデタを説明するところででてくる表現ですね。五・三十事件で労働者の力が示されただけでなく、その後も各地で労働者・農民の運動(ストライキ・土地略奪)がおきたため、産業・金融にかかわる人々が安全な都市に逃げ出すという状態になりました。とくに南の企業が上海に逃避してきました。それは中国経済全体の停滞につながります。共産党と組んで中国の統一をと望んでいた資本家も、これは「行きすぎ」と写り、北伐をやりながら共産党殺しを展開する蔣介石に期待し、浙江財閥は蔣介石に軍資金を提供しました。


Q63 「満州事変で日本軍は内モンゴルを占領した」とあったのですが、本当ですか? 地図を見ても内モンゴルまで侵略してなかったのです。あと、内モンゴル占領は内モンゴル全体という意味ですか?

63A いえ全体であるはずがありません。広すぎます。中国に近い東部だけです。日本国内では「満蒙」(東北三省に内蒙古東部を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だと言っていたようにわずかですが侵略しています。


Q64 溥儀の「執政」って、どんな体制ですか。 

64A これは「元首」としたものもあります。首相でもいいのです。政権のトップの地位です。英語ではChief Executive とつづっています。世界史では他にローマのコンスルを執政官と訳したり、1795年のフランス革命中の統領政府(5人の統領)を執政政府と言うこともあります。日本史では「政務をとる人。特に(徳川時代の)老中。家老」を指すことで、ちょっと将軍・王・皇帝より低い地位をさしますが、その代わり、将軍より実務を行うひとだということになります。溥儀さんは、もちろん名前だけのトップですが。


Q65 1927年蔣介石が南京国民政府を立てた。とあるんですが、じゃー1912年に立てられた南京の中華民国はどーなったんですか?

65A 中華民国という名前だけは残っていても、都の南京に袁世凱は来ないで北京に居つづけました。北京で中華民国を廃止して新たな王朝づくりをはじめたのですが、それに失敗しました。そうすると中華民国は宙に浮いてしまったようになり、この後は各地の軍閥の政府と、この全体を表現する虚像の中華民国とが共存します。その中で、「1927年蔣介石が南京国民政府」もあります。外からは中華民国といいつづけ(それ以外に名前がいいようがないこともあり)、蔣介石が改めて南京に都をおき政府をつくったことになります。国の名前(中華民国)と実際(国民政府)に行政を遂行する政府とがかみあっていないのです。


Q66 山川の用語集に、張学良が「第二次世界大戦後、共産党政権の成立の際に台湾に逃れ、蔣介石から長らく自宅軟禁にされた…」と書いてあったのですが、張作良は紅軍と手を組んだにも関わらず、なぜ共産党政権を嫌がったのでしょうか?張作良はあくまで抗日意識が強かっただけで、共産党支持者ではなかったということでしょうか。しかし、台湾に逃れれば、(以前、西安事件の際に監禁した)蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測できたのではないか、と思いました。何故でしょうか?

64A 張学良は何も共産主義に共鳴していたのではなく、中国が日本にのっとられないように、共産党と組むことが必要だとおもっていました。というのは、蔣介石は共産党が心臓の病、日本は皮膚の病、とみなしていて、何より共産党を追放することが第一の課題とおもっていました。しかし張学良からすると中国人同士の戦いをつづけているとオヤジ(張作霖)を日本人に殺されたこともあり、日本がますます中国人同士の内戦を利用して領土を中国に拡大してくる、これはなんとしてでも阻止したい。ところが日本の恐ろしさを知らない蔣介石は反共の戦いばかりつづけている、という危機感から西安事件をおこしました。延安から周恩来に来てもらって3者の和解が、つまり中国人同士の国共対立は止めることにしました。このことを蔣介石は終生くやしがっていて、張学良を囚人として台湾に連れて行き、死後も息子の蔣経国にもうけつがれ、1990年まで幽閉されていました。張学良は2001年10月、ハワイにて100歳で死去しました。
 「蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測」……もちろんしていたとおもいます。ただし中国を救うためにはやむを得ないと覚悟していたのです。政治的なことは何時ひっくり返るか分かりませんし、またおもったよりひどい苦境においこまれることもあります。張学良は自分のしたこと(西安事件)を誇りにおもっていたはずです。代償を払わされましたが。しかし代償なしに大きなことはできませんし……。


Q65 「南京国民政府財政部長として、経済建設の中心人物となった、ハーバード大学卒業生」の名前は何ですか?

65A 宋子文です。用語集にはのっていません。わたしがつくった立命館用語集の現代版の3の42の番号に「28年11月の中国中央銀行の設立、中国中央銀行の総裁に就任したのは誰か。」と問い、答えが宋子文になっています。▲(立命館用語集で無視の印)を付けたようにだれも答えられない人名です。わたしのもっている事典には「妹の宋慶齢、朱美齢は各々孫文、蔣介石の夫人。国民党要人として財政部門、対米接渉の任にあたるなど、蔣介石政権の後援者であった。1915年(民国4)、ハーバード大学を卒業。1928〜31年(民国17〜民国20)、行政院副院長と財政部長を兼職。」とあります。


Q66 国民党を台湾に追放した中国共産党は、どうして香港からイギリスを追放しなかったのですか? 全中国の解放をなしとげたのであれば、容易にできたように思うのですが……。

66A 密約があったためです。1945年、日本の無条件降伏とともに、蔣介石はイギリスに返還を求めました。イギリスは合法性を主張して拒否しました。軍事的に蔣介石の国民政府が香港を占拠する前に、フィリピンにいたイギリス軍300兵が香港に入ってしまいます。国民政府は四川の重慶にいたこともあり素早いうごきは無理でもありました。実は香港の近くに中国人の大部隊1万2000兵がいました。共産党の「東江縦隊」です。ここで周恩来が「中英密約」を提案しイギリスが受けいれます。条件は、香港内における共産党の合法的地位と新聞、出版の自由、中国と香港の往来の自由、共産党幹部の武装許可などです。イギリス人数名がかつて共産党に救助されたこともあり受け入れざるをえない面もありました。ここに周恩来のイギリスを長期的に利用する案が成立しました。戦後の国共内戦のときにも、香港は軍需物資・医薬品・食糧を延安にはこぶ供給基地となります。この密約話は譚(たん)ろ(王偏に路)美(み)著『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)にのっています。この密約成立には、密約にとどまらず、中国共産党の内部抗争ほか、いろいろなものが含まれたできごとであったことが説かれています。


Q67 中華人民共和国史にでてくる「互助組」とか「合作社」ってなんですか?

67A 農業集団化の過程にあったときの段階的なグループ名です。誕生したばかりの中華人民共和国は地主が持っていた土地を農民に分配しましたが、小農(小規模農家、貧農といってよい農民)ばかりができてしまいます。人口の多さのためです。それで農作業を効率よく集団で行わせるため農家を「互助組」という組織にし、役畜・農具・家具を4〜7戸で共同使用することを進めました。土地の私有制は変えないままの協同組織です。それをひと回り大きい10〜40戸による「初級合作社」、さらに大きい平均160〜170戸の「高級合作社」に組織していきます。さらに58年頃から合作社をまたまた集団化して「人民公社」という3000〜5000戸のでかい村に仕上げました。


Q68 現代中国に関する疑問があります。教えてください。
(1) 党首席(現・総書記)、国家主席、首相はどのように役割を分担(?)しているのか。そもそも中国の政治体制自体がよくわかりません。
(2) 後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画していたのか。
(3) 毛は何故、反文革分子とされた人に対して糾弾大会を開いたのみで、スターリンのように銃殺するなどの措置をとらなかったのか。
(4) 中越戦争で一体誰が得をしたのか。

68A (1)学生からよく訊かれる質問のひとつです。
 党主席(首席でなく)(現・総書記)は中国共産党のトップ、国家主席は行政府のトップ、その下で実務をおこなうのが首相で、正式には国務総理(国務院総理)といいます。この国務院総理は、国家主席の提案(推挙)に基づいて全国人民代表大会(国会にあたる)が選出・決定します。
 国家主席が元首(大統領)にあたるのですが、実際は共産党のトップである総書記が国家主席を兼ねていて、最高の権力者です。江沢民は中央軍事委員会主席も兼ねているので、それこそ並ぶものののない地位です。
 中国の最高の行政機関は国務院(中央人民政府)であり、その構成は、国務院総理(首相)、副総理若干名、国務委員若干名、各部部長……とならびます。首相は全国人民大会に責任を負う責任内閣制になっています。
 共産党と行政府(国務院)との関係は密接です。国家主席も国務総理(首相)も中央政治局といわれる共産党の主要メンバーであるからです。共産党の実行組織として国務院があるといっていいでしょう。
 毛沢東もはじめは共産党主席と国家主席を兼ねて出発しました。ところが大躍進の失敗で共産党主席の地位はもちながら、もうひとつの国家主席の地位は劉少奇に譲ったことがありました。これが問題。二つの首ができてしまった。するといままで劉少奇はなんでも毛に相談してきたのが、毛におうかがいをたてなくなり、これを毛は我慢ならず、文革によって国家主席の地位をもぎとったのです。老害というやつです。この辺りの同志抗争は、『毛沢東の私生活』(文春文庫)がいちばん面白い読み物とおもいます。

(2)「後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画」はわたしも分かりません。毛沢東万歳ばかり叫ぶ林彪が大好きだったために毛は林を後継者にしたからです。わたしがもっている『毛沢東語録』の序文にも林彪の毛賛美がのっています。林彪ののった飛行機が撃墜されたというのも怪しく、先の『私生活』はあわてて飛び立ったため不十分なガソリンが切れて墜落したといっています。
 日本の中国現代史家たちによれば、「事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。」(中島峰雄)とのことです。

(3)「糾弾大会を開いたのみ」でなぜ銃殺でなかったのか、ということですが、この大会のあとに拷問がまっています。拷問で劉少奇が死に追いやられ、精神病になったものは数知れず、というのが現実であったことを考えると、それほど差がないのではないでしょうか? 拷問の具体例と、それを生き抜いた女性の『上海の長い夜』(原書房、上下。文庫は朝日文庫で出版)という記録は稀有の伝記でもあります。

(4)中越戦争で「得をした」のはヴェトナム側ではないでしょうか。
 というのは、中国としては、かつての皇帝政治の名残りとしてまだ周辺地域(チベット、新疆。北朝鮮など)に支配を及ぼしており、この戦争の結果、ヴェトナムへの影響力を失い、ソ連(当時としてはソ連)圏に入ってしまったことを認めたくやしい戦争であったにちがいありませんから。ヴェトナムとしてはこの戦争でハッキリ中国との断絶を言い渡したことになるからです。ヴェトナムからみれば、ベトナム戦争中からの中国の急速な対米接近と大国主義的政策に対する強い不信があったはずです。中国軍は近代戦に慣れたヴェトナム軍によって多大の損害を強いられ、自主的に撤退せざるをえませんでした。


Q69 中国の全国人民代表大会の『大会』ってどういう意味ですか? マラソン大会とかの「大会」とは意味が異なりますよね?
「機関」程度の意味なのかな、とは思ったんですが。教えて下さい。

69A 世界史でも1924年の国民党第一回全国大会を「一全大会」と略称して、出てきます。日本の国会にあたるのがこの大会です。それでいえば「機関」です。地方から積み上げてきて全国大会で決定するというやり方の意味をとれば、マラソンの全国大会とそう変わらないでしょう。スターリン批判のは「ソ連共産党第20回大会」でした。ペレストロイカでも「国内では、1988年にソヴィエト型民主主義が修正され、翌年複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会・連邦最高会議制が実行され、90年には強力な権限を持つ大統領制も導入されて、ゴルバチョフが大統領に就任した。」と大会がでてきます(詳説世界史)。
 ある組織のもっとも重要な「会合」を意味し、それがアテネの民会のように三権を兼ねた大事なものであったように定期的な機関にもなっています。平凡社の百科事典では「全国人民代表大会」のことを「中華人民共和国における最高の国家権力機関。人民代表大会制度は、資本主義諸国における議会制度とは異なり、すべての国家権力を人民の代表機関に集中する民主集中制を採用し、三権の分立を否定している。つまり議事機関であると同時に執行機関でもある全国人民代表大会は,3級からなる各地方行政レベルに設置された地方各級人民代表大会の頂点に立つ。」とあります。
 なお http://www.moftec.or.jp/jp/china5_1.htm に詳しくこの機構の権限・経緯が書いてあります。


Q70 清の地丁銀制について、東京書籍「世界史B」に下記の記述があります(p.213 注釈16)。
 ……丁銀の廃止は国庫の充実を誇ったものであるが、人口増に比して耕地がふえないという現実に即したものだった。この「人口増に比して耕地がふえない」のならば、なぜ丁銀を廃止したのでしょうか。税収増を望む国家にとって、「丁銀廃止」は不利な政策ではありませんか。「丁銀を強化して、地銀を廃止する」ほうが理屈にあうと思うのですが…

70A 丁銀(人頭税)廃止といっても、富農には丁銀を地銀に含めて(組みこんで)払わせますから、完全な廃止ではありません。問題なのは小農・貧農の丁銀です。
 中国は大家族なので、一家に数家族も住んでいるという場合があり、5人の丁人(成人男子)が住んでいても全員が払うのでなく、2人だけ1人だけという事例があり、中には役人に賄賂を払って一切払わない家もありました。豊かであればあるほど賄賂が払えますから、貧農には加重になります。この不公平さが問題。貧民に丁銀を支払わせる傾向となり、不作の年には子どもを人買いに売らざるを得ないといった悲惨な状況に陥っています。
 丁銀の支払いを嫌がって逃亡する者もあり、すると土地がほったらかしになり収穫は得られず、徴税もできないという問題。
 逃亡しない場合、支払いができない農民は土地を売り、佃戸(小作人)になりますが、佃戸から徴税は出来なくなります。中国税制の基本は(大・小)地主に課税することですから、課税対象が減るという問題。
 18世紀はとくに清朝中国のベビーブームであり、次男三男の逃亡・移住先は周辺の辺境地や蒙古・チベットになり、漢人との民族的な衝突がおきやすい、という問題。
 以上のような問題があり、丁銀は廃止の方向に向かいました。税の軽減は必ずしも税収の減少とはなりません。重税のほうが没落(佃戸化)・逃亡がおき、かえって得るべき地銀が入ってこなくなる可能性があります。


Q74 アロー戦争の講和条約について質問があります。用語集を見ると、外国公使北京駐在は天津条約で定められたことになっています。しかし、センター過去問の2008年の世界史A追試で、外国公使北京駐在が北京条約で決まったという選択肢が正解になっています。どちらの条約で決まったのでしょうか。

74A 天津条約でいったん決まった事柄は、戦争が再開したため、改めて結び直しています。そのためです。天津条約に書いてあったことが北京条約でも再確認されたからです。じっさい天津・北京条約とくっつけていう表現もあります。