世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・西欧近代史[フランス革命]

西欧近代史〔フランス史〕の疑問

Q1 教科書に「商工業者などの有産市民層はしだいに富をたくわえて実力を向上させ、その実力にふさわしい待遇をうけないことに不満を感じていた」とフランス革命前のことがでてくるのですが、革命前は経済的に破綻していたから革命がおきたのではないのですか?

1A 革命前のフランス経済を示唆している教科書は『詳解世界史』ですが「(フランスは)18世紀を通じて経済が発展するなかで、新興の商工業ブルジョアや富農層は、自分たちを圧迫・差別し、自由な経済活動を制限する不合理な旧制度に不満をもち、啓蒙主義思想やアメリカ独立革命の影響を強く受けるようになった」とあるように18世紀はフランスにとって大繁栄期なのです。革命の準備段階としての18世紀はブルジョワジーの成長期でした。
 イギリスと比較してフランスの18世紀の経済成長を見てみると、フランスの成長の度合のほうが大きい。イギリスは18世紀に輸出・輸入は2倍に増加していますが、フランスは5倍です。その中身はヨーロッパ貿易が4倍、植民地貿易が10倍増加しています。ただし1770年代までで、80年代になるとイギリスの産業革命(1760年代から開始)の影響がでてきて、フランスの経済は鈍化し、イギリスの経済が急速に伸びてきます。たとえイギリスが13州を失っても米大陸との貿易は伸びていきましたし、アジアとの貿易も拡大していきます。しかしフランスは革命と戦争に入り、かつ植民地の多彩さはイギリスに劣りました。なによりフランスは18世紀全体で工業の発展がないことで、これはイギリスに差をつけられます。フランスにはギルド制が残っていて、イギリスは17世紀に廃止していますから、その差も出てきます。国立銀行(イングランド銀行)の設立は長期低利融資を可能にし、個人のイニシアティブも奨励されたイギリスに対してフランスには産業革命当時のイギリスのような「発明精神の爆発」もなかったのです。


Q2 山川教科書p.210に、「そこで……国民議会は自由主義的な貴族の提案で、封建的特権の廃止を決定した」とあるのですが、「自由主義的な貴族」がどうしてそんなものを提案したのかよくわからないし、唐突な感じがするのですが。

2A 「自由主義的な貴族」とは前文に「保守派の貴族」と対比してあるように、フランス政府の財政が悪化の一途をたどっているので、改革を求める貴族です。かれらはヴェルサイユ宮殿に入れず、地方の高等法院で中央の命令に従わさせられ平常不満をいだいている下級貴族です。高等法院に勤めているので法服貴族ともいいます。それに対して中世以来の中央貴族を帯剣貴族ともいいます。自由主義貴族の中にラファイエットやミラボーたちがいます。それでもこのとき提案した封建的特権身分の廃止は、徹底したものではなく、土地を農民のものにするのに10年分や20年分の地代をすぐ払えばやる、という「貴族」らしいものでした。

 
Q3 教科書p.211に「国内でも反革命の動きが活発になると、共和主義者の勢力が増大し」とあるのですが、反革命の立場の人は、王政を支持しているんじゃないんですか? それなら共和主義者より、むしろ立憲君主主義のフイヤン派が増大するんでは……? 

3A この前の文章に「このころ外国軍が国境にせまり」とあります。貴族は王族を代表として他の国の貴族と親戚関係であるものが多く、外国と通じる面をもっており、亡命した貴族たちが外国軍と一緒にフランスに入ってきて革命を台なしにした、との見方があったためです。貴族は国を裏切るもの、と見ていたのです。また国内の軍人にしても貴族が将校で、「王党派の多い軍部は戦意に欠け」とあるようにフランスのために本当に戦ってくれるかどうか怪しい。マリー=アントワネットはオーストリアから嫁にきています。旦那のルイ16世もオーストリアに助けてもらい革命をつぶそうとしていました。「反革命の立場の人は、王政を支持しているん」ですが、その王がこういう考えなので信用できないのです。フランスの国土を守ってくれるのは革命のグループであると一般の人はみなすようになったのです。


Q4 パリの義勇兵を「国民衛兵」、地方の義勇兵を「連盟兵」っていうのかな? と漠然としたものがありますが、合ってますでしょうか?

4A 推理の通りと思います。疑問の「連盟兵」の連盟の語源とも関係しています。
 1789年のバスティーユ牢獄襲撃前後にできた民兵が、15日に国民衛兵 garde nationale と改名されました。これはしかしパリ市だけではなく、全国の都市で結成されました。パリ市は60区ごとに、地方は村・町ごとに自治組織と自衛軍(国民衛兵)とがつくられていき、地方(83の県)ごとにそれらが集まって「○○○連盟」を名乗っていました。マルセイユ連盟兵・ブレスト連盟兵と。それが1790年の革命一周年の全国大会「連盟祭」をパリで開くことになり、合計1万人ほどの連盟兵が集まり、ここに全国的な連盟兵ができます。各県の連盟兵の中央連絡組織もつくられました。立川公一著『フランス革命』中公新書では、連盟兵とは祭典に召集された国民衛兵を指す、と説明しています(p.61)。これはしかし不正確な説明でしょう。すでに地方で連盟兵ができていましたから。
 ただ兵士の指揮につくのは亡命していない貴族など身分の高いものになる傾向があり、それがそうでないものと対立して割れやすく、ときにパリの国民衛兵と地方から出てきて、連盟祭が終わった後もパリに残った連盟兵と衝突する、ということもおきました。こういうときに(パリ)国民衛兵と(地方)連盟兵の対立という文章がでてくるのでしょう。


Q5 女たちによるベルサイユ行進で皇帝をパリに連れ戻す、と書いてあったのですけど…この行動に何の意味があるのでしょーか(?_?)?

5A この行動に何の意味があるの「行進」はパリからヴェルサイユへ歩いていったことを指しています。パリは食糧危機に陥り、ヴェルサイユなら国王(皇帝でなく国王のはず)だけでなく当時三部会の多くの議員が集まっていて食糧が豊富にヴェルサイユにあると期待して。国王がパリに来れば、食糧は必ずついてまわるはずでしたからパリに連れてきます。国王のことを「パン屋の主人」といっていました。


Q6 フランス革命のことで質問です。フランス革命のところで「反乱」「革命」の違いを「支配者、被支配者、クーデター」の言葉を使って説明しろ!という問題がでました。これに対して良い説明のしかたはありますか?

6A ことばの定義としては、「反乱」は支配者である王朝に対してなんにらかの問題で被支配者が抗議すること、革命は被支配者が支配者を倒して支配者の地位につくこと、クーデタは支配者間の交代です。
 フロンドの反乱のようにかえって絶対王政を強固にしてしまったものがありました。フランス革命では1795年の王党派の反乱があります。これは追い出された側が、総裁政府をたおして巻き返しを図るものでしたが成功していません。被支配者となった王党派が支配者となった政府に抗議して失敗したものでした。
 「クーデター」は支配者・被支配者の交代ではなく支配者間の交代で、大きな変動はありません。ブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、統領政府をつくったナポレオンのものがあります。これはブルジョアとブルジョアの同じ階級間の争いにすぎません。
 「革命」は、ブルジョア層が絶対王政を支えていた王室と貴族層を政権から追いやり、じぶんたちブルジョア層が支配者になることです。そのため大きな社会的・経済的・文化的変動も伴います。革命全体の結果でもあります。


Q7 フランス革命中の「王権の停止」と「王政の廃止」の違いっていうのは、はっきりいって何でしょう?

7A 王権の停止は、現在のルイ16世の王としての権利行使は止める、ということだけで、廃止直前の状態。この決定によって市民は国王に従う必要がないと胸を張って言えるようになった、ということです。「王政の廃止」は共和政への移行を決めたもの。
 なんか言葉遊びみたいですが、状況はこういうことでした。8月10日にパリ市民がサン・タントアーヌの国民衛兵を先頭に、国王夫妻のいるチュイルリー宮へ数万が進撃して、そこを守っていた多数のスイス人傭兵を殺害します(八月十日事件)。また守っていた貴族の兵士との戦いにもパリ市民兵が勝ちます。国王一家は議会に難を逃れましたが、逆に身柄は新パリ市当局に引き渡されます。ここで「王権の停止」が宣言され、パリ市はもう国王の支配下にはなく蜂起した市民のコミューンの指揮下に置かれ、王宮を守っていた王党派の武装解除も断行されました。ヴァルミーの戦勝の届く1792年9月21日、新憲法を作成するために国民公会が招集されます。蜂起コミューンのメンバーがパリ県選出議員となって加わった国民公会は王政の廃止を宣言し、共和政ができあがり……という具合です。


Q8 教科書にフランス革命戦争の説明の中で「他方、フランス軍は攻撃に転じて、ベルギー地方を占領した」とありますが、なんかとってつけたような、浮いた感じがして、つながりがようわかりません……。

8A この前の文章に「しかし王党派の多い軍部は戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍は国内に侵入した。この危機にあたり、王がふたたび外国と結ぼうとしていると考えたパリの民衆は、立法議会のよびかけで全国から集まった義勇軍とともに、8月10日テュイルリー王宮をおそい、議会は王を幽閉して王権を停止し、……」とあります。つまり外国軍の方が経験・装備も豊かで、フランス軍は劣勢な状況でした。これを挽回した、という意味です。「注1 1792年9月20日、義勇軍は国境に近い小村ヴァルミーでプロイセン軍に対し、最初の勝利をおさめた」が挽回のきっかけでした。


Q9 フランス革命期の人権宣言(人間と市民の権利の宣言)には自然権という言葉がよくでてきますが、この時代で意味する自然権、自然法、自然状態とは詳しく、わかりやすくいうとなんなんでしょうか??いまいち分からないので、お教えください。

9A 西欧人の考えた「自然」は神によって人間(アダムとイヴ)が造られたばかりの状態(エデンの園)を指しています。その後に歴史的に次第にいろいろな制約ができていった、いわば人工的な状態に、悪く変化したととる。こうした聖書や教会がみる「自然」の見方がひとつ。独立宣言にある「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」というのが代表例です。きわめて楽観的な人間観です。
 もうひとつ。神ぬきに人間のありのままの状態はなんなのか、それは粗野な生物的で暴力的な存在だ、という見方とがあります。生きるためには他のものを殺してでも生き抜こう、という自然の権利があります。この例がホッブズで、人間が国家や政府を知らない無法状態(自然状態、暴力解放の状態)にあるときには、各人は身の安全のために自然権を行使することになり、そうなると「万人の万人に対する闘争状態」が生じやすく、かえって自分の身の安全が危うくなると述べる。そこでホッブズは、人間は自分で自分の生命を守ることをやめ、つまり自然権を放棄することを国家をつくる条件にしました。
 このように「自然」の見方はちがいますが、いずれも人間の原始的な状態を思考の基本にすえて、その上で、こういう人間が集団としての国家や社会をつくっている、それはどうあるべきか、ということを考えたのが啓蒙思想家たちです。純粋「ありのままの自然」というものはどこにも存在しないのですが、すべての人に通づる人間観をつくりあげよう、そうすればすべての人に通づる法(自然法)も可能だとの理想をもっているのです。


Q10 1979年の都立大学の問題のことですが、
 近代世界においては、どこの国でも旧来の土地制度や農村のしくみを変革することが重要な課題となったが、西ヨーロッパ諸国の場合とアジア諸国の場合とでは、その課題の解決のしかたがかなり異なっている。西ヨーロッパの例として、フランス革命(1789年〜1799年)の場合には、どのような土地制度上の変革がおこなわれたか。
 アジアの例として、中国では、アヘン戦争から中華人民共和国成立の前後にかけて、農村の変革はどのようなかたちで展開したか。
 ……この問題に「土地制度上の変革」とありますがフランスにおいて土地制度は存在してないのではないでしょうか。フランス王朝が封建的特権を含めた土地制度を制定したことはないと思いますが……

10A 「旧来の土地制度や農村のしくみを変革することが重要な課題となった」というのが問題の前提ですから、土地制度はあります。ただ「制度」が政策というかたちで教科書にはのっていないので、これは難しい問題でした。制度は人為的につくる場合と、自然にできてしまう制度とがあります。ここでは後者になります。フランス革命で国民議会やジャコバン政権で改革があったのは知っているはずですが、それは「旧来の土地制度」を否定しているのです。
 教科書では、「自由主義的な貴族の提案で封建的特権の廃止を決定した。(注:この決定により、当時まだ残っていた農奴制・領主裁判権など、農民の人身的隷属を示す封建領主権や、教会におさめる十分の一税は無償で廃止された。しかし生産物や貨幣で領主におさめる貢租の廃止は有償とされたので、農民が土地を獲得して自立するためには多額の支払いを必要とし、実際に貢租から解放された農民は少なかった。)……1793年憲法を制定し、封建的貢租の無償廃止を最終的に確定し(注:また国外への亡命貴族や聖職者から没収した土地(国有財産)が競売に付された。)
 中国の場合も「自然にできてしまう制度」としての大土地所有制がありました。それは農民が没落して佃戸になるという表現で表されています。そこでこの変革は教科書に「農村部で土地改革を指導して支持をかため、47年なかばから人民解放軍によって……中華人民共和国の成立を宣言した。……人民共和国は50年に土地改革法を公布して農民に土地を分配し、」という改革です。


Q11 重層的な土地に対する権利(封建的土地所有)のうち、フランス革命では農奴の、イギリス革命では地主の所有権が認められたということですか?

11A そうです。フランスでは農奴はせまい保有地の私有権(絶対的所有権)が認められました。しかし生活はできないので、地主の土地を借りて小作もしなければなりませんでした。イギリスではヨーマン・農奴の土地保有権はなくなり、農場に残るなら農業労働者しかない状態でした。


Q12 ジャコバン派がキリスト教を禁止する反キリスト教の立場をとった理由はなんでしょうか。また理性の祭典とはどんなものですか?

12A ジャコバン派だけが、反キリスト教的だったのではありません。教会の腐敗、その土地所有、身分としての僧侶階級(第一身分)などにたいする反発は革命以前から大きなものがありました。そこへ啓蒙思想の理性崇拝です。人権宣言の中の権利は信教の自由を保証していますが、それはなにを信じてもいい自由でもあります。ましてローマ教皇がフランス革命反対の立場をとり、対仏大同盟のリーダー的役割をになうことになると、国内の教会は敵に通じた陣営になりました。またローマに赴任していたフランス大使が暗殺される事件(1月)もおきています。
 理性の祭典はとくに1793年11月10日のものが名高く、これは私の知るところ桑原武夫編『フランス革命の研究』岩波書店に詳しい記事があり、それを引用させてもらいます。注や文章の一部を省いています。
 ノートル=ダム寺院の内陣の中央に「山(モンターニュ)」がつくられ、その頂上には「哲学に」という碑文をかかげたギリシア風の神殿がもうけられてある。神殿の入口の四隅には四人の哲学者、ヴォルテール、ルソー、フランクリン、そしてモンテスキューの胸像がたてられている。「山」の中腹にはこれもギリシア風の小さな祭壇があり、「真理」のたいまつがもえている。
 午前十時、国民衛兵の楽隊の演奏するなかを、コミューンとデパルトマンのメンバーが会場に姿をあらわす。そのあとに群衆がつづく。
 一同着席と同時に開会。音楽はつづく。「山」の頂上の神殿の左右に、白衣姿の若い女たちが二組になってあらわれ、山の斜面をゆっくり降りてくる。白衣に三色の帯をしめ、かしわの葉の冠をかぶり、手にたいまつをもった彼女たちは、「理性」の祭壇のそばで交錯する。そして一人ずつ進みでては「真理」の焔のまえで身をかがめ、ふたたび山頂へと斜面をのぼって行く。
 そのとき、神殿のなかから、一人の女性が姿をあらわす。青色のマントに半ばおおわれた純白の長いチュニク(ギリシア風の寛衣)をまとい、赤いボンネットをかぶり、手には黒橿の槍(ピック)をにぎっている。「理性の女神である。扮するはオペラ座の歌手オーブリ嬢(一説にはマイヤール嬢)。彼女は腰をおろし「自由人」の誓いをうける。「自由人」の役を演ずるのは、音楽アカデミーのコーラス隊である。彼らは一せいに女神にむかって腕をさしのべ、讃歌をうたう。
 降りたまえ、おお自由、自然の娘よ。
 人民は不滅の力を回復せり。
 旧き欺瞞くずれおちその華麗なる残骸のうえに
 人民はその手もてなんじの祭壇を再興す(シェニエ作詞、ゴセック作曲)。
 讃歌の合唱がおわると、オーブリ嬢の「理性の女神」は座をはなれ、神殿にもどって行く。そのシキイのところで彼女は立ちどまり、ふりむいて民衆にほほえみかけ、ちょっとした身ぶりをしめす。群衆はこれにわく。「熱狂が破裂する、歓喜の歌となって、永久の忠実を誓うことばとなって」と『レヴォリュション・ド・パリ』紙は報じている(その後、演説が行なわれたらしいが、その演説者の氏名および内容については不明)。これで一おう祭典がおわる。
(翌年の最高存在の祭典については中央公論社『世界の名著 ミシュレ』の中にえがかれています)


Q13 教科書に「理性崇拝の宗教をつくるなど……」とあって下に、「反キリストの立場から……」とあるのですが、これはかなり驚きなんですが、恐怖政治の時代はキリスト教徒も弾圧されたのですか? となると、この世には誰もいなくなってしまう……。そういうロベスピエールはキリスト教徒ではないということですか? それで、別のところに「革命以来フランスと対立関係にあった教皇……」って革命が起こったことでどうして教皇と仲が悪くなってしまうのですか。

13A ノートルダム寺院を理性の寺院にしたように反キリスト教的な面が強くでた革命でした。また教会財産を没収して、これを担保にアシニア紙幣を発行しています。グレゴリオ暦をやめて独自の革命暦をつくったのも反キリスト教的です。一部で、キリスト教会の略奪、破壊行為も生じました。中世以来の封建制と結びついたのが教会であり、これは何より啓蒙思想が批判したものです。しかしローマ・カトリック教への信仰自体は深く国民に根ざしており、急激な非キリスト教化は社会的混乱を生み、革命に対する国民の不信を買い、また対外的に悪影響のおそれがありました。そこでロベスピエールを中心とする公安委員会など他の革命勢力は、この反キリスト教運動に反対し、94年3月、エベール派(反キリスト教運動の中心的グループ)を没落させて運動は消滅していきました。ロベスピエール自身はキリスト教徒ではなかったようですが。


Q14 フランス革命に「プチブル」とありますが、これはどういう勢力の人たちなのでしょうか?

14A 「プチブル」は小(プチ)ブルジョワジーということです。小店主、小企業、農民、学者、職人などの階層のひとびとです。サンキュロットよりいくらか生活がましなひとたちです。


Q15 1796年にナポレオンがイタリア遠征でオーストリア軍を破ったのですが、その時そこにオーストリア軍がイタリアに進駐していたのはなぜですか。

15A 当時イタリアの各国(サルディニア、ピエモンテ、ヴェネツィア、パルマなど)もオーストリア軍を後ろ楯にしてフランスと戦っていました。表向きは大軍のオーストリア軍だけの記述が多いのはいた仕方ないとしても、反仏連合軍として周辺の国々はフランス包囲作戦をとっていたのです(対仏大同盟はイタリア戦役のときは崩れていましたが)。イタリア方面軍の総指揮官ナポレオンは1796年の夏から秋にかけてロンバルディアのオーストリア軍とイタリア諸国を破り、10月17日カンポ・フォルミオの和約を双方で結んでいます。


Q16 テュイルリー宮とは現在のルーブル美術館ですか。

16A いいえ。ナポレオンが宮殿として改修し、ルーブル宮殿(現在の美術館)と接合したのですが、1871年パリ=コミューンで炎上し1882年大部分が取りこわされてしまいました。テュイルリー宮の付属の庭は今も残っており美しい公園になっています。パリ市民の憩いの場です。そこでなんどか私もぼーっとしていたことがあります。


Q17 フランス革命のページで…「政権をにぎったジロンド派内閣は、1792年4月、王にせまってオーストリアに宣戦させた」と書いてあるんですけど、ナゼに宣戦したんですか?

17A 1791年に国王夫妻の逃亡事件(ヴァレンヌ逃亡事件)があり、国王夫妻はパリにつれもどされ幽閉状態にしたのですが、この国王夫妻の危機にたいして、オーストリアとプロイセンが武力干渉を示唆するピルニッツ宣言をだしました。このころからフランスの貴族が亡命しだしたり、この亡命貴族のフランス情報が周辺国に伝わったり、フランスの国境線にオーストリア兵が軍事行動をくりかえすといった緊迫した状態がうまれ、王がオーストリアにまた逃亡したり、オーストリアと裏取引をしないように迫る意味がありました。


Q18 フランス革命の1791年憲法の特色の立憲君主制とはどういう意味ですか?

18A 立憲とは憲法という法律をつくりそれに従った政治をおこなう、ということで国王もこの法律を守らなくてはならなくなり、法の下に国王が位置づけられます。国王の存在を認めた上での法による政治ということです。ただそれでも1791年憲法は国王に多くの権限が残され、普通選挙でもないのですが。


Q19 東大のエジプト史の問題(2001年)を解くときにでてきた疑問です。『詳説世界史』に「ナポレオンは……敵国イギリスとインドの連絡を断つ目的でエジプトに遠征した」と書いてあるのですが、インドとの連絡というのは何ですか? たしか当時のエジプトはオスマン帝国の支配下にあったはず、なぜイギリスはオスマン帝国を通路にしてインド航路を保つことができたのですか? 大航海時代のポルトガルは何故わざわざアフリカをまわったのか……?

19A 西欧の国々にとってスエズ運河開通の前には、インドからの道は3ルートありました。ひとつはポルトガルのはじめた喜望峰まわり。次は紅海・カイロ・アレクサンドリアまわり、もうひとつがペルシア湾・バグダード・アレッポという北まわりです。後者の2ルートは全通路を船だけで行くことは無理があり、積荷をラクダに分散してキャランバンを使わねばなりません。遅くなりますが、それでも喜望峰ルートも時間がかかります。半年から3ヶ月もかかりました。後者の2ルートの場合は、途中にオスマン帝国の関税や仲介者に賄賂をつかませたりしなくてはなりません。喜望峰まわりであればこうした仲介者なしで面倒はありませんが。ナポレオンの意図は紅海・カイロのルートを押さえることでした。それだけでなくエジプトを押さえたら全アフリカがフランスのものになると皮算用をしていました。


Q20 パリコミューンがドイツとの戦争を継続しようとしたのはなぜでしょうか?

20A なにより帝政が崩壊して必然的に共和政の方向がでてきたために、この共和政をパリで守りたい。またヴェルサイユでプロイセン軍と結託しているティエールという保守的な政治家が許せない。第二帝政が軟弱な戦い方で、あっさり負けたことに我慢がならなかった。パリには十分戦えるだけの兵力・弾薬・城壁がある、という確信も手伝いました。二月革命とナポレオン3世のクーデタのために亡命していた人たちルイ=ブランやユゴー、ブランキらが帰国して市内にいました。プロイセンに負けたら自由は無くなるという漠然とした危惧もありました。


Q21 フランスの工業化はなぜ遅れたのですか?

21A 「遅れた」という表現は正しくありません。イギリスがだんとつに早いだけで、欧米の他の国では1830年代からはじまります。ロシアは1860年代から、日本は1890年代からです。むしろその工業化の進み具合がなぜ遅かったのか、という問いの方が適切です。フランスはスタートは遅いといえないが、進行は遅かった。
 工業化は産業革命と同義ですが、この革命にはいくつもの事柄(条件)が備わっていないとできあがらないものです。政治的な規制の排除、資本の蓄積、労働力、原料や資源などです。また機械改良をさかんにおこなう技術者がいないとできません。フランスは革命によって規制を排除し、資本はあるものの、労働力はなく、資源・原料は決定的に不足していました。革命の結果、農民が土地に根付きイギリスのように農村から農民を追い出すエンクロージャーはなく、石炭はとくに欠如し、原料になる綿花をえる植民地を持ちませんでした。イギリスのように民間人が自発的に改良をおこなうような手工業の伝統がなく、上から絶対王政がマニュファクチュアをつくることでフランスの工業ができていて、しかも奢侈品(ぜたいく品、絹・麻織物・ゴブラン織・ガラス工芸)ばかりつくっていました(イギリスの産業革命は綿織物という日用品)。さらに政治的な不安定さがつきまとい、政府の方の後押しもない。


Q21 『詳説世界史』 p.264「ドイツに対する報復の主張や共和政に対する攻撃が、ブーランジェ事件やドレフュス事件となってあらわれた。」とあるのですが、どのへんにどう、そんなものがあらわれているんか全くわからないんですが……しかもなんでフランス人が共和政を攻撃せないかんのですか。

21A 敗戦したことからくる恨みです。「ドイツに対する報復の主張や共和政に対する攻撃」はドイツに報復したいというフランス人の願いがあり、それを実行しない共和国政府に対して軟弱だと非難しているのです。
 ブーランジェ事件はドイツに対する復讐戦争をやるべきだと唱えたブーランジェが権力の座につくクーデタに失敗した事件でした。成功していたらドイツを痛めつける戦争ができたのに寸前のところで失敗したことを残念がっているのです。ドレフュス事件はフランスの軍事機密がドイツにもれた、つまりフランス軍部の失態なのですが、それはただでさえドイツに復讐したいのに、逆にドイツにやられた、と残念がっているのです。


Q22 東京大学の過去問を見直していて2006年度の問題でナポレオン戦争を助長した要因としてナショナリズムがあげられますが、そもそもナショナリズムというのはどういう経緯で生まれたものなのですか?

22A 徴兵制をしいたのはジャコバン派ですが、初めに戦争を望んだのはこの革命側ではなかった。反革命の側、つまり国王自身、亡命貴族、革命のゆきすぎを心配するジロンド派、そして周辺の君主国、中でも親族のオーストリアとプロイセンの脅し(ピルニッツ宣言)、イギリスの対仏大同盟などでした。こうした危機に、戦う意欲のない貴族の指揮する古い軍にたいして、ジャコバン派は「武器をとれ! 革命を守れ!」と叫び、義勇兵もパリに参集し、「ラ=マルセイエーズ」が国歌となります。この歌をはじめに合唱していた兵士は裸足でした! 武器も訓練も不足していましたが戦意(ナショナリズムと言い換えても同義でしょう)というエネルギーだけが熱くふつふつ、です。
 つまり外国軍が入ってきた危機に、じぶんたちの生命を守ろう、という対応がナショナリズムの起源です。かのヴァルミーの戦いのさいは、マルセイユ、ブルターニュその他フランス各地から集まって来ました。彼らは自分の費用で武装するか、それとも誰かの出資によって武装しなければならなかった。緊急の対応であったことが伺えます。国家が武器を支給してくれない。そんな準備もできていない。義勇兵に参加できた者は武器の用意できたブルジョアの子弟でした。貧しい階層の者が出陣するばあいは、商人、工業家、その他の財産家が彼のために献金してくれたら参戦が可能でした。ま、ブルジョアの傭兵になります。
 出撃するとしても、兵站(へいたん)はどうするか。軍需物資、食料の強制徴発をおこないました。これも緊急の処置です。例として、大貴族たるコンデ太公のシャンチイイの領地から、22頭の馬、多数の馬具、テント用の布を徴発したという報告があります。クルセルという貴族の城を捜査して、20ばかりの小銃と馬、馬具を徴発したという報告もあります。このような形で、急ごしらえの義勇兵の装備が整っていきました。
 戦争が長引いたり、平和になったら国家が次の戦争の準備としてナショナリズムを意図的につくりあげる過程がつづきます。外国の脅威を煽り、国歌・国旗の制定、命令語の統一、愛国教育(忠誠心、国に命をささげろ)と。日本もロシアの脅威を煽り、ナショナリズムをかきたて周辺国に侵略しました。
 「国家(国)意識」そのものは長い目でみれば、中世末の反ローマ教皇的なガリカニズム(国家教会主義)があり、絶対王政の際のルイ14世の自然国境説などがありますが、これらは上層のひとたちだけのもので、国民全体に広がるのは革命戦争以降です。