世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室:北アジア・チベット史

北アジア・チベット史の疑問
Q1 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何系と判断しているのでしょうか? 

1A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴はいるのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系ともつかっています。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q2 山川の用語集p.44の「ウイグル」の欄に「マニ教を信仰し……」とあって、同p.142の「回部」の欄には「イスラーム系トルコ族(ウイグル人)」という説明があります。ウイグル人はいつの間にイスラム教徒になったんですか。

2A はじめは安史の乱に唐側を支援して中国に入り、蒙古に帰るときにマニ教僧侶を連れてかえり、それがマニ教を信仰するきっかけでした。そのあとに仏教がはやり、キルギスに押されて西走(840)し、現在の新疆ウイグル自治区に入ってからイスラーム教に触れ、これを信仰するようになります。3回も宗教を変えたという珍しい民族です。現在はイスラーム教徒のままで変わっていません。イスラーム教徒になれば変わる可能性はないでしょう。


Q3 ウイグルの西走と中央アジアのトルコ化にはどういう関係があるのですか?

3A ウイグル人がトルコ人ですから、かれらが移動して住みついた地域は「トルキスタン(トルコ人の住む地)」と呼ばれます。840年にキルギスに追い立てられて西走し、940年にカラ=ハン朝ができてからが「トルコ化」のスタートです。その後、セルジューク朝がすぐ西のシル川下流域ででき、これがイランに、そしてイラクへと南下していって、西アジア一帯のトルコ化につながります。


Q4 ベラサグンってドコらへんですか?

4A カラ=ハン朝の都として出てきます。天山山脈の北側でバルハシ湖の南です。もし吉川弘文館の『標準世界史地図』をもっていたらp23にでていくす。もっていなくても、10世紀頃の歴史地図か12世紀のカラ=キタイ(西遼)の地図を探せばたいてい書いてあるはずです。フス・オルダと名前に変わっている場合もあります。


Q5 ダライ・ラマとパンチェン・ラマと活仏の用語の使い分けはどうなってるのでしょうか? ダライ・ラマもパンチェン・ラマも活仏ですよね? また、パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?
 さらに……、実教出版の教科書p309には「(モンゴルでは)その後、活仏の死を機に共和政が宣言され、1924年9月モンゴル人民共和国が成立した」とあります。この場合の活仏とは具体的には誰なのですか? 活仏は一人ではないと思うのですが……。

5A 活仏に4人あり、それに権威の差があるようです。第一はもちろんダライ・ラマで(最高法王ともいいます)、次がパンチェン・ラマ(副法王ともいいます)、ここまでがチベットのラマたち。そして三番目がモンゴルにおけるジェプツンダンパ(ツェブツンダンバ)・フトクト(ホトクト)、四番目が青海におけるシャンジャ・フトクト。このうちの三番目のジェブツンダンバ8世であるボグドゲゲンがボグド・ハーンとして1911年に独立宣言をし、この人が亡くなって共和政に、ということです。一方のチベットのダライ・ラマ(13世トゥプテン・ギャツォ)も1912年に独立宣言をしていますが、現在の第14世テンジン・ギャツォの代に中華人民共和国軍がチベット進駐を行い(1950年)、ダライ・ラマは一度は「チベット自治区準備委員会」に参画しますが、1959年のラサでの反乱を機にインドに亡命し、ダラムサーラに亡命政権を樹立して現在に至っています。ところが10代パンチェン・ラマはチベットにとどまり、チベット人民自治区代表委員をつとめています。つまり中国側に認められた活仏なのです。
 パンチェン・ラマはダライ・ラマを継承するのではないのですか?  ……政治的には中国が強引にそうしているだけで、宗教的には、これはありえないのではないでしょうか?   モンゴルにおける活仏はいつ現れたのか、という疑問がわきます。ジェプツンダンパの起源は、外モンゴリアでラマ教に帰依した16世紀のアバダイ・ハーンに由来します。17世紀後半にこのハーンの曾孫にボグドゲゲンと呼ばれる活仏が出ます。清朝もこの活仏を保護し、ボグドゲゲンは以後8代続き、1924年に廃止されるまでその地位にありました。(平凡社百科事典の「ラマ教」の項目を参照しました)


Q6 1907年の英露協商で、「イランでの両国の勢力範囲の取り決め、アフガニスタンはイギリスの勢力範囲」まではわかるけど、なんでいきなり「チベットは中国の主権を認めた」んですか。

6A 英露協商で、チベットでの中国の宗主権を認め内政不干渉を守る……というのは、逆に言えばロシアにチベットに干渉してもらいたくない、ロシアによるチベットの植民地化は困りますよ。それでは中央アジアにぐっとロシアが南下してしまい、英領インドが危なくなる。それよりここは妥協していただいて、ドイツに対抗して手を結びましょう、というものです。実はすでに清朝とチベットのことは互いに内約済みでした。清朝には宗主権というあいまいな外交権をチベットの頭ごなしに英清間で決めています。ダライ・ラマ13世が清朝から完全に独立したがっていることを知っていたので、英軍を派遣して脅しており、また後でチベットとも1904年にラサ条約を結んでその独立性を暗に認めています。こうした二枚舌と刀を使って既成事実をつくっておいてロシアに認めさせたのです。この間の事情抜きに、いきなりチベットの話が出てくるのが教科書っつうものですよ。