世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2019年度再現答案


(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
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東大2019
第1問
帝国は18世紀に露に敗北しクリム=ハン国を奪われた。19世紀初頭にはナポレオンの遠征を撃退したムハンマド=アリーがエジプトで自立した。アフガーニーの提唱したパン=イスラーム主義はワッハーブ派のアラビア半島での国家建設運動を刺激した。東方問題での欧米列強の介入も帝国の解体を促した。ギリシアは英仏露の支援を受けロンドン会議で帝国から独立、2度のエジプト=トルコ戦争後の列強主催の会議では帝国はアリー朝にエジプト総督の世襲を認めた。この間アブデュルメジト1世下の帝国ではギュルハネ勅令発布でタンジマートを開始し富国強兵政策で近代化を進めた。しかし英との通商条約を機に安価な英製品が流入し経済的進出を許し、これもまた帝国の解体を促した。クリミア戦争では帝国は英仏墺の支援で露に勝利したが民衆からの立憲政要求が高まりアブデュルハミト2世はミドハド憲法発布するも、露土戦争勃発で停止された。露土戦争後のベルリン条約ではバルカン三国が独立した。日露戦争での日本の勝利が帝国に伝わると、再び立憲政要求が高揚し青年トルコ革命が起こり、憲法復活で立憲君主制が確立した。帝国は1次大戦で敗北するとセーヴル条約でシリアやイラクなどが英仏の委任統治下となり、フサイン=マクマホン協定に沿って一部がアラブ人の王国として独立した。またワッハーブ派はサウード家と結んでアラビア半島で国家を建設した。対して帝国はケマル=パシャのトルコ革命期に共和政と政教分離が実現して解体が決定的となった。ケマルは不平等条約を改定し、一部領土を奪回、文字、暦革命や女性解放などを行った。
第2問
(1)ヒンドゥー教徒の多い西側とイスラム教徒の多い東側に分割し、両教徒の対立を煽ることで、印全体を支配する英への不満をそらす意図があった。
(2)
(a)ヴィルヘルム2世下の独に植民地化されたが、1次大戦中に日本が占領し大戦で独の敗北後に4カ国条約で日本の統治下となった。
(b)世界恐慌期にブロック経済形成のために英がウエストミンスター憲章を発布したため英の直轄領から自治国へと地位が上がった。
(3)
(a)西晋が弱体化すると高句麗が楽浪郡を占領し、3国が分立した。そのうち新羅が唐と結び高句麗と百済を倒した後に唐を排除した。
(b)唐の都長安の都城の制を模して渤海の都の上京竜泉府が建設され、唐の科挙や儒教、仏教、官僚制、律令制を渤海は取り入れたり。
第3問
(1)世界市民主義
(2)エリュトゥラー海案内記
(3)班超
(4)義浄
(5)ヴォルガ川
(6)スワヒリ語
(7)
(a)プラノ=カルピニ
(b)ルブルック
(8)ジャガイモ、トウモロコシ
(9)キャラコ
(10)ニューヨーク、フィラデルフィア
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一橋2019
第1問
1ハンガリー王国・ポーランド王国、モラヴィア王国。2議会政治。議会では君主は貴族らに免税特権を与える代わりに市民への課税を認めてもらった。イギリスでは、11世紀には王権が強大であったが、ジョン王に発布されたマグナ=カルタがヘンリ3世に無視されると、貴族の反乱が起きその後に身分制議会が開かれた。だが、16世紀ごろから国王は絶対主義的になり、17世紀には国王専制とカトリック政策が行われた。旧教徒らはこれに反発し、2つの革命を経て国王は名目化し議会政治は本格化した。選挙制になり選挙権は拡大し、責任内閣制がとられた。フランスではアナーニ事件を機に三部会が開かれたが、百年戦争以後封建諸侯の関係は整理され絶対王政の幕開けとなった。17世紀以後三部会は開かれなくなる。ルイ14世は財政難に陥ると貴族らを集めて名士会を開いて課税を認めてもらった。仏革命で自由主義貴族に議会政が達成されたが、その後ブルボン王朝は復活した。
(注:11世紀→13世紀、旧教徒→清教徒、ルイ14世→ルイ13世)
第2問
背景は植民地獲得を巡る対立であった。ルイ14世は対外戦争を繰り返した。仏国やスペイン王位継承に乗り出すと、英国はこれに反発し戦争が起こった。北米ではアン女王戦争が起こった。ユトレヒト条約で仏国の王位継承権は認められたが、仏国は英国にハドソン湾など北米の領土を渡した。この頃英国はイングランド銀行を設立して戦争を有利にした。1740年墺継承戦争が勃発すると、北米・インドで英仏は対立した。その後外交革命で仏国はオーストリアと組むと、英国はプロイセンについて七年戦争を戦った。同時期に北米・インドではフレンチ=インディアン戦争、プラッシーの戦いがあった。英国は勝利しパリ条約でミシシッピ川以東のルイジアナとカナダを獲得した。戦費の拡大は英国の植民地への課税を強め米独立革命の契機となった。英国はインドの徴税権を獲得し支配を固めていく。インディアンが条約に参加できなかったことは彼らの権利が認められない風潮を作った。
第3問
1共産党 2五・四運動が契機となって孫文が国民党を結成し、コミンテルンの指導下に中国共産党が成立した。共産党員が国民党に入党することで第1次国共合作が成立する。だが北伐の途上、浙江財閥と組んだ国民党は上海クーデターで共産党と対立し合作は崩壊した。その後張学良が国民党に帰順して北伐は完了した。完了後国民党は共産党を攻撃し共産党は瑞金で中華ソビエト臨時政府を建てた。共産党は大西遷を始める。この頃日本が満州に満州国を建国し中国進出を準備していた。これを受け共産党は八・一宣言で抗日と国共合作を主張した。張学良が蒋介石を監禁してこれらを説くと第二次国共合作が成立した。盧溝橋事件を機に抗日戦争を共に戦ったが太平洋戦争勃発後から合作は崩壊し始め、終了後に国共内戦が再開した。土地改革を実行し民衆の支持を得た共産党が勝利し、49年に国民党が台湾に中華民国を、共産党が中華人民共和国を建国した。(注:第二次国共合作は盧溝橋事件後に成立)
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京大2019
第1問
4世紀、マンチュリアは朝鮮半島の三国の一つである高句麗によって支配されていた。7世紀に高句麗が唐と新羅の連合軍に敗れると、マンチュリアンは新羅の一部となった。しかしその後、大祚栄が高句麗の移民を引き連れて渤海国を経てマンチュリアは渤海に支配された。12世紀には女真人の完顔阿骨打が建てた金がマンチュリアで起こり、金に支配された。13世紀には元が金を滅ぼしたことでマンチュリアは元の支配下に入った。14世紀に元が北方に後退し、明が建てられると、明がマンチュリアを支配した。17世紀には満州人のヌルハチが台頭して明を破った。彼は後金を立ててマンチュリアン支配し、後に中国全土を支配するようになった。
第2問
16世紀にポルトガルのヴァスコダ=ガマが東回り航路でインドに到達し、ゴアを拠点として香辛料貿易が始まった。17世紀初めにイギリスのエリザベス女王によって東インド会社が設立された。イギリスはマドラス、ボンベイ、カルカッタを拠点として綿布を交易した。フランスはルイ14世の時代の財務長官コルベールが東インド会社を再建し、ポンディシェリ、シャンデルナゴルを拠点とした。18世紀のプラッシーの戦いで勝利したイギリスはインドからフランス勢力を駆逐した。同世紀後半、イギリスでは産業革命が始まり、インド産の綿花の需要が急激に高まった。また、庶民の間で飲茶の風習が広まり、インド産のお茶が輸出された。