世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2019年夏の模試(東大・京大)雑感

A模試
 第一次世界大戦前後、最後の中華帝国である清朝や、ロ一マ帝国の理念を継承した諸地域、例えばオーストリア・ロシアにおいて、「皇帝」位が相次いで消滅した。このことは、古代から続いた長い伝統の断絶を意味した。
 ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ロ一マ帝国に始まる「皇帝」の権威は、民族移動の混乱や抗争によって帝国分裂の危機に直面しながらも、様々な勢力によって継承されていった。古代における集権的な帝国統治は、その後に強化されていく地域がある一方で、分権的な性格をみせていく地域もあった。「皇帝」の権威は、特定の教理や教学と結びつくことで一層高められ、帝国とその周辺に及ぶ広域秩序を形成することもみられた。こうした一連の動きは、17〜18世紀頃までに、地域ごとの特色のある形で収斂していくことになった。
 以上のことを踏まえ、14世紀半ばからの「皇帝」の権威の展開について、権威を支えた理念や帝国統治のあり方、皇帝位の担い手などに言及しつつ、それぞれの地域ごとに特色ある形で収斂するまでを記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に22行以内で記し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 一世一元の制 ウェストファリア条約 カール5世 金印勅書 正教会 大編纂事業 朝鮮王朝 農奴制の強化

解答例──下線なし)
14世紀、元を駆逐した朱元璋は明を興した。「華夷の別」を重視する朱子学を官学とし、一世一元の制を定め、中書省を廃止して六部を皇帝直属とするなど皇帝独裁体制を完成した。永楽帝は南海遠征を通じ朝貢貿易を促進させ、儒教理念に基づく中華秩序の再編を図った。17世紀に満州で自立した女真の後金は国号を清と改め、朝鮮王朝を属国とした。李自成の乱で明が滅ぶと中国本土に進出し、皇帝として明の官僚機構や冊封体制を継承しつつ、モンゴル・チベットなどを藩部として間接統治し、大編纂事業を行い中華文明の保護者ともなった。神聖ロ一マ帝国では、皇帝カール4世が金印勅書を発布し七選帝侯に皇帝選出権を認めた結果、領邦の自立が進んだ。15世紀以降皇帝位はハプスブルク家が事実上世襲し、16世紀にカトリックの擁護者として皇帝権威の復興を図ったカール5 世は、宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウクスブルクの和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した。17世紀の三十年戦争では、ウェストファリア条約で帝国内の領邦主権が承認され、皇帝の支配権はハプスブルクの家領に限定された。キプチャク=ハン国から自立したモスクワ大公イヴァン3世は、東ロ一マ帝国滅亡を背景に皇帝位の継承を主張し、16世紀にイヴァン4世はツァーリを君主の称号として正式に定め、正教会の主宰者として東方キリスト教世界に君臨した。17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し、官僚制の導入や農奴制の強化を通じ皇帝専制体制を強化した。

▲皇帝という称号はヨーロッパ・ロシア、中国で使うのは確かです。しかしイスラーム世界ではどうなのか? インドのムガル帝国(アクバル帝)でもオスマン帝国(スレイマン大帝)でも使います。スルタンやシャーに「皇帝」の訳をあてることもあります。
 「模範」答案では中国・神聖ローマ帝国・ロシアだけに限定して書いていますが、そのような限定の指示は問題文のどこにも見当たらない。導入文のはじめのところで「中華帝国……諸地域、例えばオーストリア・ロシア」と書いてありますが、3段落目の本格的な問いの中には「それぞれの地域ごとに」とあり、この「それぞれ」がどこを指しているのか不明です。皇帝をいただいた国々ということなのでしょうが、はてそれはどこ?
 この課題文の前文では「ユーラシア大陸の東西において、秦漢帝国・ローマ帝国…に始まる…」と書いてあってどこにも限定した地域名は指定されていません。どうやら、指定語句から類推しろ、ということらしい。
 一世一元の制・大編纂事業・朝鮮王朝は中国、ウェストファリア条約・カール5世・金印勅書は神聖ローマ帝国、正教会・農奴制の強化はロシア、となります。しかし指定語句は指定語句であり、問題(課題)そのものではありません。40年ほど前の東大の過去問にそういう指定語句から類推させて書かせる問題はありましたが、最近のではまったくありません。じじいが作ったのか。
 また求められている解答は、皇帝権威・権力の強化か分権か、支配の理念ですが、「模範」答案の内容は冗長で不要な文章が多い。たとえば「満州で自立した女真の後金は国号を清と改め……李自成の乱で滅ぶと中国本土に進出し、……宗教改革を進めるプロテスタント諸侯に対抗したが、アウグスブルク和議で領邦教会制を認め、権威は動揺した……キプチャク=ハン国から自立した……17世紀に成立したロマノフ朝は、ピョートル1世のもとユーラシア東方までの領域支配を固めつつ、バルト海に進出し」などが不要です。
わたしの解答例──下線なし)
東アジアでは明朝が中書省を廃止して六部を直轄し、内閣に補佐させる皇帝独裁体制を築いた。一世一元の制、衛所制によって皇帝権を強化した。この体制は清朝にも受けつがれ雍正帝の段階で内閣に代わり軍機処が支配の中枢となった。朝鮮王朝や大越など周辺国は冊封体制に組み込み、征服した周辺民の地域は藩部としてその首長を官僚の末端に位置づけた。支配の理念は儒教であり、共に朱子学を国教とし、大編纂事業期に文字の獄で思想統制に努めた。南アジアではデリー=スルタン朝期にムスリムが定着、ムガル帝国はジスヤを廃止して回印共存の理念を強化した。しかし17世紀にジズヤを廃止しイスラーム化をすすめたため分権的な傾向をもたらした。西アジアではオスマン帝国が台頭し、スンナ派の盟主としてアッバース朝以来のカリフ政治を継承した。18世紀にはスルタン=カリフ制となり政教一致の体制を築いた。ロシアではコンスタンティノープル陥落を受けてビザンツ皇帝位はモスクワに遷ったとし、東方正教会の盟主であり、かつ絶対的なツァーリズムを形成した。しだいに農奴制を強化し、18世紀には農奴の売買まで認めた。中欧の神聖ローマ帝国では、14世紀に金印勅書が定められて皇帝は選挙制となり、同時に選帝侯の大幅な内政権が認められた。その権利は小領邦にも拡大された。皇帝位はハプスブルク家が受けつぐようになり、カール5世がその全盛期をきずいた。17世紀の三十年戦争は帝国を分裂させ、ウェストファリア条約により、皇帝の独占的権利であった外交権を領邦に与えたため、領邦は主権国家となった。

B模試
 次の文章は、14世紀半ばにフィレンツェの商人によって書かれたとされる商業の手引きの一部である。

 中国へ旅をする商人たちに必要なこと
 第ーに髯を剃らずに長く伸ばしている方がよい。そしてタナ※では通訳を雇うべきである……通訳の外にクマニア語に通じているもの二人、召使に雇った方がよい。……タナから中国までの道中は、実際に通った商人がいうには日中であろうが夜間であろうが、絶対に安全である。……中国は沢山の都市や町を含む地方である。その中でも特別な都市、すなわち首都は、沢山の商人たちが集り、交易量もはなはだ大きいもので、その名をカンバレクと呼ぶ。……ジェノワやヴェネツィアから出発し、上記の都市に行き、さらに中国まで旅するものは誰でも麻布をもっていくべきである。オルガンチ※を訪ればそこで売ることができるからだ。オルガンチでは銀のソンミ※を買い、何も他のものを購入せずにそれをもって進んだ方がよい。……どんな銀でも、商人たちが中国まで持って行くと、中国の君主はそれを取り上げ彼の金庫の中にしまってしまうだろう。そしてその引き換えに銀をもってくる商人に紙幣をくれるのである。これは黄色をした紙幣で、前述の君主の印が押してありバリシと呼ばれている。この金で絹や他のどんな商品でも買うことができる。この国の人々はすべて、これを受け取るように決められているのである。……
 (ペゴロッティ『商業指南』、田中英道・田中俊子訳)
※タナ 「ターナ」とも。南ロシアを流れるドン川がアゾフ海に注ぐ地に、北イタリア商人が建てた商業都市。
※オルガンチ アラル海の南にあった商業都市。
※銀のソンミ 銀のインゴット(かたまり)のこと。

 この手引きからは、いわゆる「モンゴル時代」の全盛期における広域の交通・商業ネットワークの一端をうかがい知ることができる。そしてこの時代に銀が、あたかも経済活動を活性化させる血液のようにユーラシアの大部分を循環し、国際通貨としての地位を確立させたことは、16世紀後半〜17世紀前半に大量の銀が供給されたときに進んだ世界経済の一体化の基礎になったと考えられる。
 以上を念頭におきながら、13世紀後半〜14世紀前半のユーラシアにおける銀を中心とする経済・商業の状況と16世紀後半〜17世紀前半に世界規模で起こった銀を中心とする経済・商業の状況を対比しながら概観しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。なお( )で併記した語句は、どちらかー方を用いて解答すること。

 価格革命 ガレオン貿易(アカプルコ貿易)泉州 ジャムチ 日本銀 東方貿易(レヴァント貿易)農場領主制(グ一ツヘルシャフト) ムスリム商人

解答例──下線なし)
モンゴル帝国はジャムチにより陸上交通路を整備し、銀を中心とする貨幣制度を整えたため、ムスリム商人が遠隔地交易で活躍した。元は銀納税制を始めるとともに、銀との交換を保証した紙幣である交鈔を発行して銀を集め、宗主国として諸ハン国に銀を下賜した。紙幣の流通で不要とされた銅銭は日本などに輸出され、経済活動を刺激した。さらに元は華南の泉州などの海港都市と華北の大都を結ぶ大運河と海運を整備し、海上交易を活性化させた。このため銀は、泉州などに来航するムスリム商人を経由して元に環流した。西方ではイタリア商人が黒海経由でモンゴルの陸上交通路とつながり、また地中海では東方貿易でムスリム商人と南ドイツ産の銀とアジア産の絹や香辛料を交易した。16世紀にはポルトガル・スペイン船が直接アジアに来航した。中国商人と結ぶポルトガル商人は日本銀と明の生糸の中継交易を行った。17世紀前半にはオランダ商人がこれに参入し、日本からも朱印船が東南アジアに渡航し、日本銀で中国商人と交易した。またスペインはマニラを拠点とし、メキシコ銀を太平洋経由でマニラに運び、明の絹などと交換するガレオン貿易を行った。スペインがポトシ産の銀をヨーロッパに流入させると、価格革命と呼ばれる物価騰貴が起こった。西欧では主に新大陸を市場として商工業が発達し、エルベ川以東では農民の賦役を強化し西欧向けの穀物を生産する農場領主制が広まり、国際的分業が進んだ。
▲ 「対比しながら」という語句を安易に使ってしまったようです。どこにも対比した跡が見られません。「13世紀後半〜14世紀前半のユーラシア」と「16世紀後半〜17世紀前半に世界規模」の二つの時期の「経済・商業の状況」で対比するという課題です。違いは「ユーラシアと世界規模」で空間的に違うことは示されていても、その中身、とくに銀経済が違うという前提の問題です。解説文では表で示しながらも、どこにも対比になっている表がありません。たんに語句を二つの時期にあてはめているだけです。対比は違いを表す思考法なので、対比表ができて当り前なのですが、内容が伴っていません。

 東大で「対比しながら/しつつ」という課題で出題した過去問は以下のようなものがあります。
 1991年第1問 西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。
 1983年第1問 (A)10世紀ころに変動した朝鮮の国内情勢および国際関係について、その変動の前・後を対比しながら述べよ。
 1981年 9〜10世紀における西ヨーロッパ、東ローマ帝国、イスラム世界は、それぞれどのような特色をもっていたか、互いに対比しながら。
 1972年第2問 (A)古代ギリシアのポリスにおける、政治的・社会的な自由の歴史的意義とその特質を、古代オリエント世界および近代市民社会と対比しつつ、100字程度で記せ。

 「対比」とは辞書では、「二つのものを並べ合わせて、違いやそれぞれの特性を比べること。(デジタル大辞泉)」「複数個のものを異同を明らかにするためにくらべること(日本国語大辞典)」などとあるように、違いを明確にするための方法であり、違いを叙述することです。
 「対比」という語句を使わないで、違いを求めた問題は東大に多いです。2017年の古代帝国(秦漢とローマ)、2013年の米大陸の開発・軋轢の差異、2012年の植民地政策と独立運動の差異、1998年の18〜19世紀合衆国とラテンアメリカの対照性、1997年の帝国解体過程の比較、などです。
 この模試の問題は、過去問2015年の13〜14世紀モンゴル時代と2004年の16〜18世紀における銀を中心とした世界経済の一体化の二つを抱き合わせた問題でした。
 二つの時代を前半と後半に分けて書いても、それは羅列であって「対比」したことになりません。それでいいのなら第2問のように(a)・(b)に分けて書けばよいはずです。二つの時期を流れとして書いてしまったため、対比したかどうかは採点官に違いを探してください、と預けたかっこうになります。真面目に問題文をとって対比して書いた受験生は、その部分が無駄になりました。本番では無駄になりませんが。

わたしの解答例──下線なし)
13後半から14世紀前半の経済・商業。中国国内に新運河を建設し港湾も整備、銀を土台に紙幣を流通させる商業環境をつくった。モンゴル帝国内にジャムチを敷き、各ハン国間の通商も活発になった。泉州は東洋第一の港として栄えた。西欧でも商業ルネサンスがおき、東方貿易でイスラーム世界とつながりムスリム商人が陸路・海路にラクダが、ダウ船とジャンク船が行き交った。流通した銀は南ドイツと中国が産地であり、それほど大量ではなかった。ところが16世紀後半〜17世紀前半の経済・商業では銀はポトシ銀山を代表とする新大陸産のものと日本銀が大量に世界に流通した。西欧はインディオの帝国を破壊し、マラッカ王国を滅ぼして金銀を獲得した。それは明清の税を一条鞭法・地丁銀に変え、ムガル帝国にルピー銀貨を発行させ、欧州では価格革命を起こした。そのため東欧は農場領主制が普及し、西欧の商工業を支える後背地となった。商品を運ぶ手段も、大砲を装備したガレオン船によるアカプルコ貿易もはじまり、列強は東インド会社・西インド会社などをつくり海外に貿易基地を建設しだした。大西洋では奴隷貿易も始まり、港のリヴァプールは資本を蓄積した。このように前者の時期は商業のネットワークはつくったが各地の経済構造を変えることはなかった。後者の時期には経済構造を大きく変える変動を招来した。とくに西欧では資本主義の発展に寄与し、アジア・アフリカは従属の端緒となった。

C模試
 19世紀初頭のナポレオンによる大陸制覇とその後の保守的な国際体制の成立は、イギリスを始めとする諸国の多様な動きを生じさせ、そのことがヨーロッパのみならずアメリカ大陸に大きな政治的・経済的な変動を引き起こした。
 1810年代から1820年代にかけてイギリスの採った対外政策が、ヨーロッパおよび南北アメリカ大陸での政治的動きとどのように関わったかについて、それがアメリカ大陸に与えた経済的影響にも留意しつつ300字以内で説明せよ。

解答例
イギリスはナポレオンが発した大陸封鎖に対し海上封鎖で通商を妨害したが、反発したアメリカ合衆国がアメリカ=イギリス戦争を起こし、これを機にアメリカ合衆国は経済的自立を果たした。イギリスはナポレオンを破ると、その後成立した保守反動的なウィーン体制の支柱である四国同盟に参加した。しかしギリシア独立戦争が勃発すると、イギリスはフランスやロシアとともにギリシアを支援してオスマン帝国を破り、ギリシアの独立が実現した。またラテンアメリカの独立運動では、イギリスは外相カニングのもと自由貿易主義の立場から独立を支持したが、独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった。

 この問題の類題は、東大過去問1986年第2問です。

 ナポレオン戦争およびこれに続くウィーン体制の成立は、南北アメリカにいかなる影響を及ぼし、またどのような動きをひき起こしたか。

 今回のようにイギリスの対外政策に的をしぼった点は違うが、欧州と米大陸への影響といった点は同類の問題です。
 解答文の問題点は3つ。
 第一文の末尾「経済的自立を果たした」のところ。かつて合衆国の産業革命がこの米英戦争の最中であったとの説があり、これは今は否定されているのに、受験の世界では生きている説です。山川の『用語集』を見たらわかるように(以下)、今は1830年から、という説が経済史の本でも通例見られる年代です。

アメリカ産業革命 ⑤ イギリス製品に対する保護関税政策で北部の工業が発達し、豊富な資源と労働力不足が農業工業の機械化を進めた。1830年代、木綿工業金属機械工業を中心に産業革命が本格化し……

 まして「果たした」という表現はそれが完成したかのような表現になっています。そうではなく対外関係が破綻したため商人は貿易ができなくなり、その分を木綿工業をつくることで埋め合わせようとしたのであり、わずかな工場ができただけでした。本格的には1830年代です。第一次世界大戦の最中にやっと債権国になるように、それまでイギリスの資金に依存して工業化していくのが合衆国の工業化のあり方です。『詳説世界史研究』(山川出版社)のように「アメリカ合衆国の経済的自立が始まり,ニューイングランド地方を中心に木綿工業の進展がみられた」というのが的確な説明です。やっと「始まり」に注目。果たした、ではない。
 第二の疑義は、「対外政策が、ヨーロッパ……での政治的動きとどのように関わったか」という問に対して四国同盟参加とギリシア独立しか書いてないことです。「関わ」りがどの程度のことを指しているのか不明ですが、広く「ヨーロッパ……影響」ととれば、もっと多くデータを挙げるべきです。イギリスだけの影響ではないものの、ナポレオン没落後も開放的な自由主義の動きはつづきました。その中にイギリス自身もあり、奴隷貿易の廃止(1807)、団結禁止法廃止(1824)、審査法廃止(1828)、カトリック教徒解放法(1829)、選挙権拡大運動と自由主義の運動が展開し、それらは他のヨーロッパ諸国にも影響しました。
 第三の疑義は、「独立後は経済進出を進めた結果、ラテンアメリカ諸国のイギリスに対する経済的従属が強まった」のところ。これはミスです。戦争前からイギリスはラテンアメリカに進出しています。ポルトガルと締結した通商条約であるメシュエン条約(1703)はラテンアメリカ進出のきっかけとなったものでした。戦争中も進出しています。なにより大陸封鎖令のためラテンアメリカはイギリスしか貿易相手はなく、じっさい英国の商品輸出は対欧州と対中南米を、1805〜11年で見ても、ほぼ同額で推移していて、戦後もあまり変動がない(外山忠著「ラテン・アメリカ市場への英・米の進出 : 1820年代から第 1次大戦前まで」北海道大学・経済学研究 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/31290/1/24(2)_P235-292.pdf)。
軍事的にはイギリス軍がブエノスアイレス(アルゼンチンの首都)を占領する(1806)ということもやっています。

わたしの解答例
対仏大同盟の盟主として海戦・陸戦を戦い、フランス革命政府を屈服させた。四国同盟に加わったが、神聖同盟に加わらないことでラテンアメリカ独立革命への干渉拒否の立場を堅持した。欧州では自由主義運動に影響を与えた。国内のラダイト運動、国外でのブルシェンシャフト運動、スペイン立憲革命、カルボナリ運動、デカブリストの乱、ギリシアのトルコからの独立戦争などである。ラテンアメリカへは独立革命が継続し、20年代に実現した。戦争中からイギリスは市場として進出していたが戦後も市場化・原料供給地化をすすめた。北米の合衆国とは米英戦争がおき、それは合衆国の国民主義を起し、経済的自立の契機を与えたため木綿工業が興った。