世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2020

世界史B (4問題100点)
第1問 (20点)
 6世紀から7世紀にかけて、ユーラシア大陸東部ではあいついで大帝国が生まれ、ユーラシアの東西を結ぶ交通や交易が盛んになった。この大帝国の時代のユーラシア大陸中央部から東部に及んだイラン系民族の活動と、それが同時代の中国の文化に与えた影響について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(28)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A ムスリムと非ムスリムとは、史上、様々に関わり合ってきた。ムスリムと非ムスリムとのあいだには、様々な形態の、数多(あまた)の戦争があった。ムスリム共同体(ウンマ)は、預言者ムハンマドの指揮のもと、彼の出身部族である[ a ]族の多神教徒たちと戦った。正統カリフ時代には、アラビア半島からシリアヘ進出したのち、東は(1)イラク、イラン高原、西は(2)エジプト、北アフリカヘ侵攻し、各地で非ムスリムの率いる軍と干戈(かんか)を交えた。その後も、イスラーム世界のフロンティアで、ムスリムと非ムスリムの政権・勢力間の戦いが度々起こった。たとえば、現在のモロッコを中心に成立した[ b ]朝は、11世紀後半に(3)西アフリカのサハラ砂漠南縁にあった王国を襲撃、衰退させたうえ、イベリア半島でキリスト教徒の軍をも破った。19世紀、(4)中央アジアのあるムスリム国家は、清朝への「聖戦」を敢行した。また、非ムスリムの率いる軍が(5)ムスリムの政権・勢力を攻撃」した例も数多い。
 ただし、ムスリムの政権・勢力は、常に非ムスリムを敵視・排除してきたわけではない。たとえば、初期のオスマン家スルタンたちは、キリスト教徒の君主と姻戚関係を結んだり、キリスト教徒諸侯の軍と連合したりしながら(6)バルカン半島の経略を進めた。その際の敵対の構図は、ムスリム対キリスト教徒という単純なものではなかった。また、16世紀以前のオスマン朝では、君主がムスリムでありながら、重臣や軍人の中に、(7)キリスト教信仰を保持する者が大勢いた。
 ムガル朝では、第3代皇帝アクバル以来、ムスリム君主のもと、非ムスリムに宥和的な政策が採られ、(8)ムスリムのみならず非ムスリムの一部の有力者も、配者層のうちに組み込まれた。彼らは、位階に応じて、俸給の額と、維持すべき騎兵・騎馬の数とを定められた。しかし、第6代皇帝アウラングゼーブは、非ムスリムにたいして抑圧的になり、ヒンドゥー教寺院の破壊さえ命じたと言われる。ただし、一方で彼は、仏教・ヒンドゥー教・ジャイナ教の寺院群である(9)エローラ石窟を、神による創造の驚異のひとつと称賛した。のち、イギリス統治下のインドでは、(1O)ムスリムと非ムスリムとが協力して反英民族運動を展開することもあった。
 ムスリムと非ムスリムとが盛んに交易を行ってきたことも、両者の交流を語る上で見逃せない。ムスリム海商は、8世紀後半には南シナ海域で活動していたといわれる。9世紀半ばに書かれたアラビア語史料によると、ムスリム海商たちのあいだで、現在の(11)ベトナムは当時、良質の沈香(じんこう)を産することで知られていた。ムスリム海商の活動は、やがて(12)東南アジアにおけるイスラーム化を促した。
 ムスリムと非ムスリムとのあいだには、イスラーム化以外にも、多様な文化的影響があった。イスラーム教とヒンドゥー教との融合によって(13)スィク(シク)教が創始されたことは、その一例である。ムスリムと非ムスリムとは、宗教を異にするが、いつも相互に排他的であったわけではない。その交渉の歴史は、今日の異文化共生を考えるためのヒントに満ちている。


(1) 当時この地に都を置いていた王朝は、642年(異説もある)に起きたある戦いでの敗北によって、ムスリム軍への組織的抵抗を終え、事実上崩壊した。その戦いの名称を答えよ。
(2) この地には、ファーティマ朝時代に創設され、現在はスンナ派教学の最高学府と目されている学院が存在する。この学院が併設されているモスクを何というか。
(3) この王国は、ニジェール川流域産の黄金を目当てにやって来た、地中海沿岸のムスリム商人との、サハラ縦断交易で栄えた。この王国の名称を答えよ。
(4) この国家は後にロシアによって保護国化ないし併合されてロシア領トルキスタンを形成することになるウズベク人諸国家のうち、最も東に位置した。この国家の名称を答えよ。
(5) 2001年、アメリカ合衆国は、当時アフガニスタンの大半を支配していたムスリム政権が、同時多発テロ事件の首謀者を匿(かくま)っていたとして、同政権を攻撃した。この首謀者とされた人物の名前を答えよ。
(6) 19世紀、オスマン朝は、バルカンの領土を次々に失っていった。1878年にはセルビアが独立した。この独立は、オーストリア=ハンガリー帝国やイギリスなどの利害に配慮して締結された、ある条約によって承認された。この条約の名称を答えよ。
(7) オスマン帝国内に居住するキリスト教徒は、自らの宗教共同体を形成し、納税を条件に一定の自治を認められた。このような非ムスリムの宗教共同体のことを何と呼ぶか。
(8) この支配者層を何と呼ぶか。
(9) この石窟の北東にある、アジャンター石窟には、特徴的な美術様式で描かれた仏教壁画が残る。その美術様式は、4世紀から6世紀半ばに北インドを支配した王朝のもとで完成された。この美術様式のことを何と呼ぶか。
(10) この運動の一方を担った全インド=ムスリム連盟の指導者で、後にパキスタン初代総督を務めた人物は誰か。
(11) 9世紀にベトナム中部を支配していたのは何という国か。
(12) 東南アジアをはじめ、ムスリム世界の辺境各地で、イスラーム化の進展に寄与した者としては、ムスリム商人のほか、「羊毛の粗衣をまとった者」という意味の、アラビア語の名称で呼ばれた人々を挙げることができる。彼らは、修行を通じて、神との近接ないし合一の境地に達することを重んじた。このような思想・実践を何と呼ぶか。
(13) この宗教の創始者は誰か。

B 現在、中国の海洋への軍事的進出はめざましい。中国における近代的な海軍の構想は(14)林則徐や魏源らに始まる。林則徐は「内地の船砲は外夷の敵にあらず」と考え、敵の長所を知るために西洋事情を研究した。彼の委嘱により『海国図志』を編集した魏源は、西洋式の造船所の設立と海軍の練成を建議している。
 彼らの構想がただちに実を結ぶことはなかったが、(15)太平天国軍と戦うために
(16)郷勇を率いた曾国藩左宗棠、李鴻章は、新式の艦船の必要性を認識していた。左宗棠の発案により(17)福州に船政局が設立され軍艦の建造に乗り出す一方、船政学堂が開設され人材の育成に努めた。西洋思想の翻訳者として後進に大きな影響を及ぼした(18)厳復もこの学校の出身者である。
 しかし、日本の台湾出兵後にも、(19)内陸部と沿海部のいずれを優先するかという論争が政府内に起きたように、海防重視は政府の共通認識にはなっていなかった。
 そうしたなかで、李鴻章は海軍の重要性を主張し、福州で海軍が惨敗した(20)清仏戦争を経て、1888年に(21)威海衛の地に北洋海軍を成立させた。北洋海軍は(22)外国製の巨艦の購入によって総トン数ではアジア随ーとなり、日本、朝鮮、(23)ロシアなどに巡航してその威容を示した。
 しかし、その一方で軍事費の一部が(24)アロー戦争で廃墟となった庭園の再建に流用され、また政府内には北洋海軍の創建者である李鴻章の力の増大を恐れる者もあって、軍艦購入は中止された。
 そして、(25)日清戦争により、北洋海軍は潰滅した。海軍はやがて再建されて、(26)民国期へと受け継がれ、その存在は国内政局に影響を与えたが、かつての栄光を取り戻すことはなかった。
 1949年に誕生した中国人民解放軍海軍は1950〜60年代に中華民国と台湾海峡で戦い、1974年には西沙諸島(パラセル諸島)で(27)ベトナム共和国と戦った。さらに、1980年には大陸間弾道ミサイルの実験にともなって南太平洋まで航海し、2008年には(28)ソマリア海域の航行安全を確保するために艦船を派遣するなど、アジアの海域や遠洋においてその存在感を高めている。
 現在の人民解放軍海軍にとって、北洋海軍の歴史は日清戦争に帰結する悲劇として反省材料であると同時に、自らのルーツに位置づけられている。20世紀末に就役した練習艦が、福州船政学堂の出身で、日清戦争で戦死した登闘世を記念して、「世昌」と名付けられているのもその表れであろう。


(14) 林則徐が1839年に派遣され、アヘン問題の処理にあたった都市の名を答えよ。
(15) 太平天国の諸政策のうち、土地政策の名を答えよ。
(16) 郷勇が登場したのは、従来の軍隊が無力だったためである。漢人による治安維持軍の名称を答えよ。
(17) 当時定期的に福州に上陸して、北京に朝貢していた国の名を答えよ。
(18) 厳復の訳著の一つに『法意』がある。原著の作者である18世紀フランスの思想家の名を答えよ。
(19) 1871年にロシアに奪われ、1881年に一部を回復した地方の名を答えよ。
(20) フランスのベトナムヘの軍事介入に抗して、劉永福が率いた軍の名を答えよ。
(21) 19世紀末に威海衛を租借した国の名を答えよ。
(22) ドイツ製の戦艦「定遠」などが中国に向けて出航した港は、のちにドイツ革命の発火点となった。その港の名を答えよ。
(23) 北洋艦隊が立ち寄った極東の軍港都市の名を答えよ。
(24) この時この庭園とともに円明園も焼かれた。その設計に加わったイタリア人宣教師の名を答えよ。
(25) 下関条約で、日本に割譲された領土のうち、遼東半島はすぐに返還されたが、そのまま日本の手に残ったのは、台湾とどこか。
(26) 奉天軍閥の首領で、1927年に中華民国陸海軍大元帥に就任したのは誰か。
(27) この国の首都の名を答えよ。
(28) この海域にこれより約600年前に進出した中国船団の司令官の名を答えよ。

第3問 (20点)
 第二次世界大戦末期に実用化された核兵器は、戦後の国際関係に大きな影響を与えてきた。1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 (30点)
 次の文章(A,B)を読み[  ]の中に最も適切な人名を入れ、下線部(1)〜(21)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 戦争には正しい戦争と不正な戦争があるとし、正しい戦争とみなされる理由や条件を考察する理論を正戦論という。西洋における正戦論の起源は古代ギリシア・ローマに遡る。アリストテレスは戦争が正当化される場合として、自己防衛・同盟者の保護の二つに加えて、「自然奴隷」としての(1)バルバロイの隷属化をあげた。共和政末期のローマで執政官であった(2)キケロは、敵の撃退・権利の回復・同盟者の保護のいずれかに加えて宣戦布告を正戦の条件として掲げたが、アリストテレスの自然奴隷説は省いた。
 キケロの世俗的正戦論に宗教的な正当性の議論を付け加えたのが、北アフリカのヒッポ司教であった[ a ]である。元来、キリスト教では隣人愛が説かれ平和が志向されたが、(3)ローマ帝国で公認され、ついで国教となったことで状況は変化した。[ a ]は「神によって命じられた戦争も正しい」と述べ、皇帝の戦争とキリスト教徒の戦争参加を条件付きで容認した。その背景にあったのは北アフリカで問題となってい(4)異端ドナトゥス派を弾圧しようという意図である。
 古代の正戦論は、12世紀の『グラティアヌス教令集』等を経て[ b ]によって引き継がれ体系化された。[ b ]は『神学大全』において、戦争を正当化する条件として君主の権威・正当な事由・正しい意図の三つをあげ、(5)私的な武力行使を否定した。
 中世の正戦論は聖戦の理念と結びついていた。ホスティエンシスらは異教徒の権利を強く否認したが、(6)ローマ教皇インノケンティウス4世らは慎重な立場をとり、対異教徒戦をめぐる議論では後者が優位とされていた。(7)コンスタンツ公会議(1414〜18年)では、ポーランド代表が武力によって異教徒を征服し改宗させようとするドイツ騎士修道会の方法を厳しく批判した。
 だが、西アフリカ沿岸部において探検が進むと、ローマ教皇はキリスト教世界の拡大を念頭に、異教徒に対する戦争を正当化する立場を鮮明にした。1452〜56年の教皇勅書で、西アフリカからインドまでの征服権がポルトガル王および[ c ]王子に与えられ、コロンブスの航海後は西方における征服権がスペインに与えられた。
 新大陸の征服が進行し、(8)エンコミエンダ制が導入されると、アメリカ先住民の権利や征服戦争が議論の的となった。サラマンカ学派の始祖とされる神学者(9)ビトリア」は征服戦争の正当性に疑問を呈したが、神学者(1O)セプルベダは自然奴隷説を援用して征服正当化論を再構築した。さらに17世紀のグロティウスはサラマンカ学派の理論を継承しながらも、自然法を神学から自立させ世俗的自然法のもとで正戦論を展開した。


(1) バルバロイに対置される古代ギリシア人の自称は何か。その名を記せ。
(2) この人物の代表的著作を一つあげよ。
(3) キリスト教はミラノ勅令によって公認された。この勅令を発した皇帝の名を記せ。
(4) ネストリウス派を異端として追放した公会議はどこで開催されたか。その地名を記せ。
(5) 1495年、マクシミリアン1世が招集した帝国議会において永久ラント平和令が布告されフェーデ(私戦)の権利が廃絶された。マクシミリアン1世は何家の出身か。その名を記せ。
(6) この教皇によってモンゴル帝国へ派遣されたフランシスコ(フランチェスコ)会修道士の名を記せ。
(7) この会議の結果について簡潔に説明せよ。
(8) この制度について簡潔に説明せよ。
(9) ビトリアは1533年のインカ皇帝処刑等の報に接してアメリカ征服の正当性に疑義を表明した。インカ皇帝の処刑を命じたスペイン人の名を記せ。
(10) セプルベダの論敵で、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著したのは誰か。その名を記せ。

B およそ5000年前のこと、(11)人類は経済活動を記録するために文字を創案したと考えられている。それだけでなく、為政者の命令を民衆に知らしめるためにも、そして知識を蓄積し後世に伝えるうえでも、文字は革新的な発明品であった。(12)地球上には無文字文明の例も多くあるが、文字の発明は、いくつかの文明の成立と関わっている。
 文字は、さまざまな材質の媒体に記されてきた。(13)古代メソポタミアでは粘土板が、(14)古代エジプトではパピルスが、それぞれ記録媒体として用いられたのだった。
 文字の成り立ちはさまざまである。漢字やラテン文字(ローマ文字)など、国家・民族を越えて文明圏共通の文字となったものや、旧来の文字から新しい文字が考案されることも多々あった。仮名文字や(15)キリル文字などである。
 文字情報の伝達技術は時とともに発展し、それが人類史上のさまざまな変動の呼び水となることがあった。(16)16世紀のドイツにおいて、宗教改革が諸侯だけでなく民衆のあいだにも支持を広げた背景には、こうした技術発展が関わっていた
 18世紀以降、文字情報の伝達媒体として新聞が重きをなすようになった。そして19世紀、技術革新にともない大部数化が進み、新聞社間で販売競争も激化し、民衆の関心をひくために、画像を組み合わせた扇情的な記事で紙面が埋められていくことになる。(17)19世紀末のアメリカ合衆国で、ある国に対する好戦的世論が形成されるが、その要因の一つには、こうした新聞メディアの動向があった。
 19世紀末から20世紀前半の時代に入ると、これまでの文字とならんで、新しい情報伝達手段が重要な地位を占めるようになる。とりわけ第一次世界大戦後アメリカ合衆国を中心にして映画などの大衆文化が広がっていくが、(18)これを促進したものの一つが情報伝達手段の革新であった。
 20世紀後半になると、情報伝達手段にいっそう劇的な変革が生じ、人びとは家にいながらにして世界中の出来事を、大きな時間差なく、あるいは同時にさえ視聴できるようになった。そして、こうした変革が世界政治に影響をおよぼすようにもなる。1960年代から1970年代にかけて、(19)ある戦争の実相が、この新しい情報伝達手段を通じて世界中で知られるようになり、それが国際的な反戦運動をうながす一因になったのである。また一方で、(20)この情報伝達手段によって事実の一部が歪曲(わいきょく)されて広がり、戦争容認世論が強まることもあった
 1980年代以降に生じたIT(情報技術)革命は進化のスピードを速め、今日の人びとは軽量でコンパクトな端末機器を操作することで、家庭内ではもちろんのこと街頭においても、多様な情報を即座に入手し、さらには自身が不特定多数の人びとにむけで情報を簡単に発信できる時代に入った。そして、こうした端末機器が、(21)「アラブの春」と呼ばれる民主化運動に際し、運動への参加を市民に呼びかけるツールとなり、さらには、強権的な政府が管理する報道とは異なる情報を人びとに提供した。


(11) 文字によって記録が残されるようになる以前の時代は、それ以降の、「歴史時代(有史時代)」と呼ばれる時代と区別して、何時代と呼ばれるか。
(12) (ア)インカ帝国で使用された記録・伝達手段は何と呼ばれているか。
(イ)それはどのようなものであったか、簡潔に説明せよ。
(13) 『聖書』の創世記にみえる洪水伝説の原型となったとされる詩文が、粘土板に記され現在に伝わっている。その叙事詩は何と呼ばれるか。
(14) パピルスに記され、ミイラとともに埋葬された絵文書で、当時の人びとの霊魂観が窺(うかが)えるものは何と呼ばれるか。
(15) キリル文字が考案された宗教上の背景を簡潔に説明せよ。
(16) この関わりの内容を簡潔に説明せよ。
(17) アメリカ合衆国は、この世論に押されるかたちで開始した戦争に勝利し、敗戦国にある島の独立を認めさせたうえで、それを保護国とした。その島の名を記せ。
(18) アニメーション映画もこの時代に発展した。世界最初のカラー長編アニメーション映画『白雪姫』(1937年)を製作した兄弟の姓を答えよ。
(19) この戦争の名を記せ。
(20) 1991年に中東で勃発した戦争の際には、戦争当事国の一方が自然環境を損壊した、と印象づける映像が報道された。この戦争の名を記せ。
(21) 「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。
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コメント
第1問
 易しい部分と難しい部分とがある問題でした。易しいのは前半の「イラン系民族の活動」です。難しいのは後半の「中国の文化に与えた影響」です。「イラン系民族の活動」はソグド商人の活動しかありません。ソグディアナ地方の中心都市サマルカンドを拠点に活動し、とくに中国に行く途中(甘粛省)のオアシス都市に居住地を定めて東西の文物をとりひきした商人たちです。
 教科書(詳説世界史)では「アラム文字から派生した文字としては,……ソグド文字」、安禄山の注に「ソグド人の父と突厥人の母をもつ武官」、トルコ人との関係で「トルコ系のウイグル人は,ソグド商人の協力をえて,豊かな遊牧・オアシス国家を建設した」、トルキスタンの説明として「イスラーム化以前にはソグド人を中心にゾロアスター教が信仰されていた」、オアシスの道の説明として「イラン系のソグド商人は,匈奴・突厥・ウイグルなどの遊牧国家内で交易に従事するとともに,マニ教やソグド文字などを東方に伝えた」と書いてあります。
 時期は「6世紀から7世紀」なので、安禄山という8世紀のひとは書いては書いてはいけませんが(書いているのはK予備校)、魏晉南北朝の末期、南朝の梁・陳の時代で、華北は北魏が東西に分裂し、北周から出た楊堅が陳を滅ぼして中国の再統一(589)を実現し、7世紀初め(618)に唐が隋に代わることになります。則天武后の登場が690年(『ワンフレーズnew』の語呂では「武周ブシュッと録69音0」)です。
 この「イラン系民族の活動」は商人の活動であり、政治的な建国や軍事行動はないのと、また、かれらが仕えた突厥についてあまり字数を費やすのは趣旨から離れます。たとえば「突厥は東西に分裂し、7世紀に東突厥は唐の建国を援助した。しかし太宗が東突厥を服属させ、さらに高宗が西突厥も服属させて唐がユーラシア中央部を支配下におさめた」といった解答例は書きすぎです。トルコ人と中国人の活動ではあってもソグド商人の動きではありません。
 「活動」は何より商業であり、つまりはモノが流通します。それとともにかれらの信じた宗教や作成した文字です。宗教と文字は上の教科書引用文にありました。モノは『詳説世界史』では「交易路をつうじて中国の生糸や絹が西方に」とあり、『新世界史』(山川出版社)では「内陸アジアでは,イラン系のソグド人が,また南方の海路では,アラブ人が中継貿易にたずさわった。唐の絹織物・染織・陶磁器・金銀細工・紙などはこうして世界に広がった」と。
 「同時代の中国の文化に与えた影響」は難問でした。というのは「影響」を書くのが難しいからです。予備校の解答例で影響を書いたものは少ないですね。まず「○○を伝えた」と書いても、伝えた結果、中国側にどんな影響、つまり従来あったものに何らかの変化がないと影響した、とは言えません。マニ教をゾロアスター教を伝えた、文字を伝えた、といってもそれは外来のものがきた、といいうだけです。伝えた後の中国側の変化が必要です。イチローが大リーグに行った、だけでは大リーグ側がどんな影響を受けたのか分かりません。早く走るので内野ゴロでもセーフになるケースが増えると、ショートもサードも安閑としていたらイチローが一塁ベースを越えてしまいます。内野ゴロでも早く投げる、ということが大リーグで広まりました。影響です。また捕球のうまさ、レーザービームといわれた投球でも観衆を唸らせました。それまでホームランバッターばかり尊敬の対象であったのが、走攻守そろった選手こそ尊敬すべきだ、となりました。影響です。なので宗教に関しては、信徒を獲得した、中国の建築様式で三夷教の寺院が建てられた、とまで行けば影響になります。
 予備校の解答例では「国際色豊かな文化」も影響にしていますが、これは概観しただけで何がどう影響したかは不明快な文章です。
 帝国書院の教科書には「国際都市長安」というトピックを立てて、「ササン朝の滅亡でイラン系の人々が多数移住していた。胡服・胡弓やポロ競技などイラン系風俗が流行し、その影響はわが国の正倉院の宝物にもみられる」とあり、東京書籍の教科書では絵の説明として「(左) ササン朝の獅子狩製皿と法隆寺の獅子狩文錦、(右)獅子狩の図柄はオリエン卜に広く見られ、東西交渉を通じて中国や日本にも伝えられた。後ろ向きに弓を射るやり方を、ローマ人は「パルティア人の曲射(パルティアン=ショッ卜)」とよんだ」とあります。『詳説世界史研究』では「ソグド人に代表される西域出身者を胡人と呼び、長安には、西域出身の女性)がもてなす酒場がにぎわい、胡楽(西域音楽) ・胡旋舞(体を旋回させる西域の舞踊)・打毬(だきゅう、ポロ競技)など西域の風俗が流行した。小麦を製粉して食べる風習(胡餅) も西域から伝わって、唐代に定着したものである」と説いています。こうした「風俗」というものになれば庶民にまで影響した、といえるでしょう。
 唐文化へのイラン人の影響については、石田幹之助の『長安の春』 (東洋文庫)が名著として知られています。「隋唐はまさにイラン文化全盛の時代といっても過言ではなく、宗教・絵画・彫刻・建築・エ芸・音楽・舞踊・遊戯等の各部門はもとより、衣食住、ことに衣食の両方面において、広くイラン文化の感化をみることができる(p.163)」と書いています。その具体例を延々と挙げています。たとえば絵画への影響について
「凹凸(おうとつ)画と呼ばれ、陰影を施して遠くより望むと実物が浮き出ているかと思われたというのは明らかにイラン風であったことを証している。敦煌その他西域諸地から発見された仏画類にはその巧拙は別としても手法において尉遅乙僧(うつちいっそう)の凹凸画とはかようなものではないかと思わせる、すこぶるイラン風の匂いの高いものがある。……呉道玄の作品にあってはひとり仏画・人物画等にイラン風の影響があったばかりでなく、山水画にも(p.180)」と。
 教科書や図説によく載っている唐代美人画では、赤い頬紅をしたふっくらとした顔をもち、いろいろな着物を重ね着したすがたが描いてあります。これがイラン風の女性像です。
 しっかり影響を書いている合格者の答案を見てください。→こちら
 
第2問
 全体としては易しい問題。そのうち難問・奇問だけ解説です。
A
問(2) 奇問でした。大学名は教科書に載っていますが、そこのモスクを何というかまでは書いてありません。出題者の神経を問題にしたほうがいい問題でした。アル=アズハル・モスク(アズハル・モスク)に付属するマドラサ(学院・学校)がアズハル大学でした。
B
問(17) これも奇問でしたが、「定期的」「福州に上陸」というのがヒント。19世紀に来るとすれば、一番近い国で朝貢している、と考えたら琉球国が妥当です。台湾は三藩の乱で清朝領になっているので、台湾のすぐ北に位置する琉球が推理できます。
問(18) ヒントは「法」だけです。啓蒙思想家で「法」関係の著書としては『法の精神』というモンテスキューの本があります。それより厳復は知っていますか? 『天演論』=ハクスリー著『進化と倫理』、『原富』=アダム・スミス著『諸国民の富』、『群己権界論』=ジョン・スチュアート・ミル著『自由論』と重要な本を翻訳・出版しています。
問(23) 「ロシアなどに巡航」とロシアに下線があるので、当時のロシアの「極東の軍港都市」としてはムラヴィヨフが造らせた沿海州南端の都市「ウラジヴォストーク(ウラジオストック)」。
問(26) 「奉天軍閥の首領」なら分かっても「1927年に中華民国陸海軍大元帥」といわれても、こういう経歴の人物として教科書は出てきません。趣味的な問いです。「奉天軍閥」だけで張作霖と決めつけるほかないでしょう。


第3問
 課題は「1962年から1987年までの国際関係を、核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ、300字以内で説明せよ」でした。
 時間は「1962年から1987年」と細かく、主問は「国際関係」で、副問は「核兵器の製造・保有・配備、および核兵器をめぐる国際的な合意に言及しつつ」でした。 類題として、一橋の2005年第2問に「第二次世界大戦後に「冷たい戦争(冷戦)」という米ソ両体制の対立する時代が形成された背景には、大国による核開発、核保有が大きな役割を果たしている。第二次世界大戦後の冷戦勃発から、1989年のベルリンの壁の崩壊に至るまでの時期を対象に、各国の核保有、各国間の核軍縮の経緯を押さえた上で、この冷戦期の国際政治に核兵器が果たした歴史的役割について述べなさい。その際、下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(指定語句→キューバ危機 中距離核兵器全廃条約 封じ込め政策 ワルシャワ条約機構)(400字以内)」というのがありました。時間は京大のより幅があり、核兵器そのものの役割を問うているところは違っていますが、「国際政治」という趣旨は同じです。もちろんヒト引用したからといって、ヒトの過去問を勉強しなさい、と言いたいのではありません、この大学は奇問・狂問が多いので薦められません。

 核兵器の「製造・保有」だけ挙げれば、
 1945 アメリカの原爆実験と投下(広島、長崎)
 1949年 ソ連が原子爆弾の開発
 1952 アメリカが水爆実験
    イギリスの核実験
 1953 ソ連も水爆の保有
 1957 大陸間弾道弾(ICBM)実験(米ソ)
 1960 フランスの核実験
 1964 中国の核実験
 1974 インドの核実験
 1980年代 アメリカの戦略防衛構想

 「国際的な合意」は以下のようになります。
 1963 部分的核実験停止条約
 1968 核拡散防止条約(NPT)
 1970 西独とソ連との武力不行使協定
 1972 戦略兵器制限交渉(第1次)
 1973 核戦争防止協定 
 1979 戦略兵器制限交渉(第2次)
 1981 中距離核戦力(INF)全廃条約(中距離ミサイル全廃条約)の話し合い開始 
 1982 戦略兵器削減条約交渉(第1次)
 1987 中距離核戦力全廃条約の調印

 また冷戦「国際関係」にかかわる重要事件としては以下のものをあげておきます。
 1956 中ソ論争(中ソ対立)
 1969 中ソ国境紛争
 1971 中国の国連代表権交替 
 1972 東西ドイツ基本条約(東方外交)
    ニクソン訪中
 1973 東西ドイツ、国連同時加盟 
 1975 全欧安保協力会議に米ソも参加
 1985 ゴルバチョフのペレストロイカ・新思考外交

 戦後史もある程度年代を覚えないと正確な解答は書きにくいですね。1945〜1962年の冷戦展開期、1963〜70年代の緊張緩和(デタント)期、1980年代の冷戦終結期とおおまかに区分しておくと、書きやすいでしょう。

第4問
A
(6) これは奇問というより細かい問いです。名高い絶頂期のインノケンティウス3世ではなくインノケンティウス4世という載っている教科書も少ない教皇に派遣された修道士としてプラノ=カルピニが想起できるか。むしろフランス王ルイ9世が派遣したルブルクがモンケ=ハーンに会った、というのを語呂として覚えておくと区別しやすい。ルンルンモーケ、です。
(7) この会議の「結果」とは何を決議したか、ということでしょう。①教皇庁をローマにだけ置くこと、②ウィクリフとフスを異端者とし焚刑にすること、③公会議主義といって、これから教皇は公会議の決定にしたがうこと、という三つでした。②のウィクリフ(1320〜1384)はすでに亡くなっていましたが、墓から死体を掘り出して焚刑の処置をして灰をテームズ川に放っています。異端者は重罪で、火刑にして苦しめてあげないと、あの世でもっと苦しむことになる、という慈悲の心で処刑してあげる、そうです。
B
(21)「アラブの春」において、20年以上にわたる長期政権が崩壊した国を二つあげよ。……これは難問かも知れない。「アラブの春」のニュースをどれだけ追ってきたか、注目してきたかにかかっています。共に独裁者が倒されたという国で、ムバラク(大統領として1981〜2011年)のエジプトと隣の国リビアはカダフィ(ムアンマル・アル=カッザーフィー、最高指導者として、1969〜2011年)です。このカダフィが殴られ殺される場面を YouTube で見ることができます。