世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2020

第1問
 次の文章は、ルターがその前年に起こった大規模な反乱について1525年に書いた著作の一部である。この文章を読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

  農民たちが創世記1章、2章を引きあいに出して、いっさいの事物は自由にそして[すべての人々の]共有物として創造せられたものであると言い、また私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称してみても、そんなことは農民にはなんの役にもたちはしない。なぜならモーセは、新約聖書においては発言権をもたないからである。そこには私たちの主キリストが立ちたもうて、私たちも、私たちのからだも財産も挙げてことごとく、皇帝とこの世の法律に従わせておられるからである。彼は「皇帝のものは皇帝にかえしなさい」と言われた。パウロもローマ13章において、洗礼をうけたすべてのキリスト者に、「だれでも上にたつ権威に従うべきである」と言っている。(中略)
 それゆえに、愛する諸侯よ、ここで解放し、ここで救い、ここで助けなさい。領民にあわれみを垂れなさい。なしうるものはだれでも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。そのために死ぬならば、あなたにとって幸いである。
(「農民の殺人・強盗団に抗して」『ルター著作集』第1集第6巻より引用。但し、一部改変)

問1 下線部は「農民たち」によって提出された要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい。

問2 「聖書のみ」というルターの主張は、各方面に大きな影響を及ぼした。「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような理由で生じたと考えられるか、述べなさい。

第2問
 20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を、19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ、第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して論じなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章A,Bを読んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

A (1860年代において、当時の朝鮮の政権と思想的方向性を同じくする)奇正鎮・李恒老は(中略)攘夷論を開陳した。たとえば奇正鎮は、「洋胡」(西洋諸国)と条約を結べば、儒教の道徳や礼制はたちまちに滅び、「人類」(朝鮮の人間)は禽獣となると危機感を表明した。これは、「邪説」を排撃して「正学」(朱子学)を崇ぶという「衛正斥邪」の内容をさらに拡大して、西洋諸国を夷秋(「洋夷」).禽獣であるとして全面的に排斥し、儒教道徳・礼制、それに支えられた支配体制を維持擁護しようとする主張であった。
 西洋諸国を夷狄・禽獣と視るのは[ ① ]意識によるものであった。(中略)西洋諸国は儒教を否定する「邪教」の国であるから、夷狄あるいはそれ以下の存在である禽獣ということになる。

B (1876年に)李恒老の門人の崔益絃は開国反対上流を呈した。崔益絃は条約調印に反対する理由として五点を挙げたが、そのなかには次のような点があった。
 「日本との交易を通じて、『邪学』が広まり、人類は禽獣に化してしまう。」「内地往来・居住を拒めないから、日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる。」「人と『禽獣』の日本人とが和約して、何の憂いもないということはありえない。」
 崔益絃の描く日本人像は、奇正鎮の描いた「洋夷」像と何ら異なるところがない。実際に崔益絃は上疏において、倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」を展開した。
(糟谷憲一「朝鮮ナショナリズムの展開」『岩波講座世界歴史20 アジアのく近代>』より引用。但し、一部改変)

問1 [ ① ]は、17世紀の国際関係の変化を受けて高揚した、自国に対する朝鮮の支配層の意識を表す言葉である。これを記しなさい。
問1 [ ① ]意識がいかなるものであり、どのような背景があったのか、また、それが1860〜70年代にどのような役割を果たしたかについて、それぞれ国際関係の変化と関連付けて述べなさい。
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コメント
第1問
問1 課題は「要求を比喩的に説明したものである。具体的にはどのような要求であったか述べなさい」というものです。下線部の「比喩的」とは「いっさいの事物は,自由にそして[すべての人々の]共有物……私たちはみなひとしく洗礼をうけたのだと詐称」という平等を唱えている部分のことらしい。これは「比喩的」と作問者は形容していますが、「農民たち」の声そのままではないかとおもわれます。農民戦争での「12カ条要求」では第三項目に「キリストは自らの血を流して身分の高いもの、低いものの例外なく解放した給うた。われわれが自由であるべきこと、自由であろうと望むことは聖書に合致している。キリスト教徒としてわれわれを農奴の地位から救い出してくれることはとうぜんである」とあります。また4項目の「貧乏人には鹿や野鳥や魚を捕ることが許されないという習慣をなくし、キリスト者として同じ権利を与えること」も、10項目の「かつて村に属していた牧場や耕地(入会地)を個人が占有しているのを、とりもどせること」は共有・平等の要求でしょう。
 「具体的に」とは、上に引用したものの中にありますが、その他に、聖書に基づく社会の根底からの変革を求めて、牧師選任の自由、農奴制・十分の一税廃止、賦役・地代の軽減、共有地の開放などを掲げています。
 

問2 「「農民たち」が考える「聖書のみ」と、ここでルターが表明している意見の相違はどのようなものであり、どのような埋由で生じたと考えられるか」という難問でした。
 「農民たち」が考える「聖書のみ」という文章が理解しにくいですね。「聖書のみ」はルターの主張であり、農民も「聖書のみ」とどこで主張しているのでしょうか? 史料からは分かりません。「12ヶ条」の12項目目に「以上の箇条が聖書の言葉と一致しないものであれば、その箇条は喜んで撤回する」といっていて、農民たちも聖書に根拠がなければ要求を撤回すると表明しています。印刷によって聖書は広く普及し、とくにプロテスタントは教会で聖書を学ぶことをもっとも重要なこととしていて、カトリックのような儀式を軽視しています。聖書を根拠にすることは農民にとっても当然でした。
 ルターの「聖書のみ」はなによりカトリック教会に対抗する主張でした。教皇に教義の決定権があり、かつプロテスタントが認めない聖書以外の外典や教父たちの著作も聖典あつかいしているのに反対しての主張です。
 しかし「農民たち」が考えているのはカトリックであれプロテスタントであれ、領主という経済的・人格的な支配者に対抗して聖書を利用しています。
 ルターはこの「農民たち」の聖書利用はまちがっていると見なしています。「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」というのは「創世記」から始まる旧約聖書は創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5冊を「モーセ五書」といい、新約聖書で語られることとは別のことを書いているのだ、新しい段階・時代に入っているのであり、創世記は適用できない、と。それが「モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」という文章になります。「主キリスト」は「皇帝(カエサル)のものは皇帝(カエサル)に、神のものは神に返しなさい」(マタイによる福音書」22章15〜22節)と「パウロもローマ13章」の「だれでも上にたつ権威に従うべきである」を根拠に農民の抗議と要求を弾圧すべきこととしています。つまり社会的な改革に聖書を適用すべきではない、お上には従いなさい、ということです。それは領主側に立っての物言いです。
 同じ聖書を根拠に、農民は労働の負担を軽くしてくれ、と要求し、ルターは既存の領主による支配体制は変えるべきではない、という対立になりました。これが「相違」です。さらに進んで「刺し殺し、打ち殺し、絞め殺し」とまで言うようになります。
 この相違が現れた理由は史料からは分かりません。教科書を読んでも理由は書いてありません。詳説世界史では「民衆が直接キリストの教えに接することができるようになった。他方、ルターの説に影響をうけたミュンツァーは、農奴制の廃止などを要求するドイツ農民戦争(1524〜25年)を指導して、処刑された。ルター自身、最初は農民蜂起に同情的であったが、やがて、これを弾圧する諸侯の側にまわった」と経過だけ書いています。帝国書院の教科書『新選・世界史』は「しかし農民の反乱がトマス=ミュンツアーの指導のもとに急進化すると, ルターは反乱を抑圧するようはたらきかけたとされる」と弾圧の理由を書いています。しかし相違がなぜ生まれたのか、という点までは書いてありません。
 注でも「ルターが農民戦争を抑圧した理由 ルターは,諸侯の保護を受けており,カトリック教会の腐敗に抗議したが,身分制度など、これまでの社会秩序を破壊することには反対だった。したがって,農民戦争が農奴解放など、社会改革の性格をもつようになると、これに反対した」という説明は相違の理由ではなく、弾圧の理由です。
 「相違」は聖書にたいする姿勢の違いです。相違は双方にもともとありませんでした。なぜなら農民戦争が始まり、「12ヶ条要求」を読んだルターは内容に納得して「シュワーベン農民の十二ヵ条に対する平和勧告」を発表し、領主たちに対して搾取と専制を戒めています。ところが、過激化すると弾圧する側に転向します。農民たちはルターの「九十五ヶ条の論題」に急に刺激されて過激になったのでしょうか? そんなことはありません。イギリスでもフランスでも、14世紀の農民反乱が知られていて、ワット=タイラーの反乱の場合はジョン=ボールが「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」と平等が人間の初めからあるのだという思想をすでに持っています。この問題の農民戦争は1524年ですが、ドイツではブントシュー運動といって4回大規模な蜂起がおきていました。1493年、1502年、1513年、1517年です。1513年のときに農民たちは、教会領の分割、一切の貢租の廃止、没収された共同地の返還などを要求しています。宗教改革以前の出来事です。「12ヵ条」の共同綱領を起草したのはメミンゲン市の革なめし職人セパスチァン=ロッツァーでした。彼は職人でありながら、聖書を熟知しており、俗人説教者でした。
 相違が現れたのはルターの変心と言う他ありません。ある予備校の解答に「「農民たち」が現世の利益のみを追求しているとして,諸侯の鎮圧を支持した」と書いたものがありますが、「現世の利益」ではない、あの世の利益をルターは説いたのでしょうか? であれば、ルターが初めに農民に共鳴したことはどうなるのでしょうか? ルターとて農民が苦しい状況にあることは知っています。現世であろうと放置できないはずです。
 ルターが弾圧の理由付けにしたのは運動の過激化であり、要求自体は妥当と思っていたのですから、平穏のほうが大事と考え、お上に従えと命じました。良くいえば平和を求めたためとも言えないことはないです。この変心の理由は、過激化を薦めたミュンツァーたちが「再洗礼派(アナバプテスト)」であったことも理由にできます。かれらの教義(幼児洗礼・三位一体説の否定)がルターにとっては容れられない信仰内容でした。いわば宗派対立です。
 なおルターの信仰義認や万人祭司という説と関連づけた解答例が見受けられますが、この問題とは特に関連があるともおもえない。この信仰内容と教会組織のあり方は農民とルターの間で対立する問題になっていないからです。
 導入文を読むと一見、旧約聖書と新約聖書を根拠にすることの対立のように見えます。「農民たちが創世記1章、2章を引きあい……モーセは、新約聖書においては発言権をもたない」と。この旧約と新約の対立だと書いた答案例もネットにはあります。しかしパウロが書いた「ローマ人への手紙」3章22節に「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません」という文章があり、信仰義認論の文章として知られているものですが、ここには「差別」はないとハッキリした表現があります。信徒になる前は何人でもいいわけで、義認される者に差別はないのです。この義認は全ての人間に適用できます。神の前の平等はキリスト教の基本理念の一つです。創世記に「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが貴族(領主)であったか」という文章があるのでなく、これは古くからの信徒たちの解釈です。キリスト教徒は旧約聖書も新約聖書もセットで聖書ととっています。ルターから新約聖書を重んじるようになったという訳でもありません。結局「ローマ人への手紙」から、ルターにとって都合のいい部分、13章から引いてきて弾圧の根拠にした、ということになります。ルターの限界・弱さ・ずる賢さです。
 史料からは旧約と新約の対立として解答しても許容解としなければならないでしょう。それほど受験生に聖書の知識があるとは思えないし、史料文から判断させるのは無理があり、問題自体に疑問が残ります。

第2問
 課題は「20世紀中葉において資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程を,19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して」でした。主問は前半の「資本主義世界の覇権がイギリスからアメリカ合衆国に移行した過程」で、副問は「19世紀後半以降の世界史の展開をふまえ,第2次世界大戦・冷戦・脱植民地化との関係」です。副問が具体的な史実をあげつつということです。
 「世界史の展開」としてはイギリスの世界覇権、いいかえれば「パクス=ブリタニカ」の形成が「19世紀後半以降」に目立つのであり、その当時はアメリカは専ら「国内の征服」、というよりインディアンの居住地を奪っていく最中で「フロンティア」を西に移住しつつありました。アメリカの太陽は西から昇っていました。その間、イギリスは中国(アヘン戦争・アロー戦争)、インド(第二次シク戦争・大反乱鎮圧・インド帝国)、エジプト(スエズ運河株買収。ウラービー反乱鎮圧)、カージャール朝半植民地化、アフガン戦争・ビルマ戦争(英緬戦争)、南ア戦争と植民地を拡大しています。
 19世紀末になってインディアンの抵抗が終わり、フロンティアが消滅します。同時に世界一の工業国になりました。この「世界一」は鉄鋼製品の元になる銑鉄の生産量で測ります。といってすぐイギリスに代われたのではありません。投資・金融・貿易・海運の面でまだイギリスが世界一でした。この状態は第二次世界大戦の開始までつづきます。南ア戦争のころから20世紀はアメリカの世紀だといわれ始めしたが、それは第一次世界大戦でハッキリしました。イギリスは債務国になり、アメリカが債権国に変わりました。
 戦後の世界はアメリカの経済で持ちこたえました。ドイツへの資金援助(ドーズ案・ヤング案)、この援助で復興したドイツは英仏に賠償金として払いました。これが世界全体で生産過剰のため大恐慌をきたし、ニューヨークから破綻がはじままり、ファシズムを興起させることになりました。ニューディール政策で復興をはかるも十分な復興にならず、第二次世界大戦がアメリカ経済を救いました。ハワイを別にすれば戦場にならず戦後を迎えた合衆国は並ぶもののない経済力をもった資本主義国家として発展することになりました。大戦末期に金ドルを基軸とした世界経済がブレトン=ウッズにおいて成立します。マーシャル=プランを対ソ的に共産主義化防止策として使い、資金を振りまきました。一方のイギリスは植民地の独立があいつぎ世界から撤退するととなり。アメリカの資金援助で生きていく国に転落しました。
 この問題は、東大の過去問(1996-1)にある「パクス=ブリタニカの盛衰」と類似しています。易問でした。

第3問
問1 史料文は19世紀のものであるのに、空欄[ ① ]は,「17世紀の国際関係の変化」を受けて高揚した、「自国に対する朝鮮の支配層の意識」は何か、という問い。つまり西洋諸国を夷狄(「洋夷」)・ 禽獣と視たように、17世紀の明朝に代わった清朝も夷狄と視ました。史料Bの日本は「倭夷」と呼びました。「倭(日本)と洋は一心同体であるとする「倭洋一体論」」となります。
 史料Bの1行目にある「雀益絃は開国反対上流を呈した」の「流」はさんずい偏になっていますが、8行目の「疏」が正しい漢字です。誤字に気がつかなかったようです。正しくは「疋(ひき)」偏です。

問2 課題は、①小中華意識とは何かの説明、②背景、③1860~70年代にどのような役割を果たしたのか、④それぞれ国際関係の変化と関連付けて、という条件が付いています。
 ①この言葉を知らなかったらアウトですが、用語集には頻度6として載っています。「朝鮮が唯一中国の伝統文化を継承しているという思想。朝鮮の支配層は.清の征服によって中国は「夷秋化」し.明以降の正統な「中華」を守っているのは自分たちだけであると自負した」と説明しています。用語集のこの語句のすぐ上には「夷狄(いてき)」という項目もあり、「中国で周辺諸民族を呼んだ蔑称。文明化されていない.道徳的に劣った人々とみなす考えが.中国知識人のあいだで一般的であった」と。もともと中国で使っていた表現を朝鮮側で中国(清朝)蔑視の表現として使った、ということです。拙著『世界史論述練習帳new』にも「小中華」を指定語句にした筑波大の問題を解説しています。
 満州族という狩猟民を蔑視したのですが、しかし清朝自体も中国支配において儒教・儒学を国家教学として基本に置いている国であり、実施する科挙も儒学の試験であり、李氏朝鮮はこの清朝に家臣として事大の礼をとっているのに、なぜ、という疑問がわきます。元々の中国では夷(野蛮人)に該当する東北地方出身ということが一つ、また清朝の皇帝は自らを満珠菩薩の化身とみなしていることの二つめが問題です。この満珠菩薩であるとの表れは正式な清朝皇帝がみな数珠を首からかけている図で示されています。しかし朱子学を国学とする朝鮮からすれば仏教は邪教とみなします。

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清朝皇帝

 こうしたことから朝鮮だけが純粋中華だ、というわけです。④「国際関係の変化と関連付けて」は明清交代です。朝鮮にとって服属する主人の交代です。もちろん服属といっても何もかも服従するのでなく、外交上の上下関係、君臣関係であって、清朝が朝鮮の内政に干渉することはありません。この「服属」を文字どおり採って朝鮮はずっと中国に従ってきた弱小国だとみるひとたちがいます。今年(2020)の東大の第1問の導入文に「中国王朝の皇帝に対して臣下の礼をとる形で関係を取り結んだが、それは現実において従属関係を意味していたわけではない。また国内的には、それぞれがその関係を、自らの支配の強化に利用したり異なる説明で正当化したりしていた」と書いています。お互いの関係でした。中国にとっては周辺国も中国文化を尊び、皇帝の徳をあがめている、世界の中心である、という満足感があり、朝鮮側はこの中心から承認された正統な君主である、と自国内への権威として利用できました。
 朝鮮半島にとって中国は国境を接する国であり、ときに国境紛争がおきています。しかしいつも敗北していたわけではありません。隋の高句麗遠征は高句麗側の抵抗で敗退しており、唐太宗の侵略も失敗しています。新羅は唐軍を追放して版図を統一しています。その後、負けた唐と「服属」の関係をもちました。「服属」は平和のあり方の一つです。遼金の侵入に対抗した戦いでは高麗が勝利して領土を鴨緑江まで拡大しましたが、外交上は「服属」という和平のかたちです。紅巾軍が入ってきたこともありますが、撃退して李氏朝鮮ができています。16世紀末の秀吉の侵略が失敗したことは誰も知っていることです。後金・清朝とは紛争がおきましたが領土の変化はなく「服属」になりました。

 ②背景として、朱子学を奉ずる支配層である官僚たち、朝鮮半島の場合は両班(ヤンバン)がいます。受験資格は両班の子弟にかぎるという中国とはちがい狭いものにしましたが、かれらが朱子学の大義名分論にしたがって生きることを誇りにしています。この誇りが「小中華」という自己認識、儒学的ナショナリズムを主張する背景です。

 ③年代が「1860~70年代」で、この時期に「どのような役割」と問うています。
 この時期は何より外圧が大きい。このことは「④それぞれ国際関係」でもあります。1860年に北京条約で沿海州を割譲されたロシアの船がたびたび朝鮮半島沿岸に出没するようになります。1866年にフランスの船が江華島を占領したが大院君(高宗の父で実権者)は義勇兵を集めて抵抗しフランス艦隊を退散させています。同年アメリカのシューマン号が大同江をのぼり威嚇しますが、平安道観察使の朴珪寿が火攻で応じて挫いています。アメリカ軍はその後なんども襲撃してきますが朝鮮側の反撃が鋭く断念しています。こうした状況下で大院君は「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国、戒我万年子孫(洋夷が侵犯しているのに、戦わないのであれば和することである。和を主とするのは売国の行いである。このことを万年の子孫に戒める)」と書いた斥和碑を、漢城(ソウル)と全国の都会地に建てさせました(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書)。尚武の武国・日本はアメリカの黒船の威力の前にかなわないと和を認めますが、尚文の文国・朝鮮は、和を嫌い徹底抗戦をしています。
 70年代に他国が失敗した侵略に日本が成功します。井上良馨(よしか)という明治の諸戦に海軍として活躍した男は西郷隆盛の征韓論に共鳴して次のような意見書を政府に出していました。
 「朝鮮はわが国にとても必要な土地である。……朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります。日本の強弱は、朝鮮を日本の領地とするかどうか、この一挙にかかっている。……いま朝鮮は国が乱れている。もしこの天が与えたチャンスをはずしてしまい朝鮮を討たないときは、後々悔やむことになるかもしれない。……このチャンスを深く見抜いて、ぜひ早くご出兵になることを希望します」
 かれが雲揚号の艦長となり、江華島に発砲しながら近づいていくと、朝鮮側も発砲してきたので、挑発に乗ってくれた、しめた、となり上陸して戦闘になり35人を殺し、江華府の大砲・文書を奪っています。ペリーによる平和な日本開国とは違ったものになりました。
 井上良馨は明治8年9月29日に出した報告書では、「①測量および諸事検捜かつ当国官吏工面会万事尋問をなさんと、海兵4名、水夫拾人に小銃をもたらし……②ここへ上陸せんと思えども日もいまだ高いため今少し奥に進み帰路上陸に決し……③すぐに距離試しのため40斤を発すれば八分時を後れて彼よりもまた発砲か」と書いていましたが、10月8日の報告書では「①朝鮮から清国牛荘までの航路研究中に清水の補充を必要と考え、海図に水深の記載がある江華島付近に寄航しようとした。②9月20日、端艇に乗り、江華島の第三砲台(日本側呼称)付近で「此辺に上陸良水を請求せんとし右営門及砲台前を航過せんとするや突然、銃砲で発砲された」と違う内容に書き換えています(『史学雑誌』111巻12号、鈴木淳の論文)。後者では初めはなかった「良水」と書き、「発砲された」と受身で書き直しました。改竄(かいざん)です。
 翌年(1876)8隻の軍艦で威圧して調印させたのが日朝修好条規でした。(1)朝鮮の自主独立、(2)釜山・元山・仁川3港の開港、(3)日本公使館領事館の設置、(4)日本人の領事裁判権、(5)無関税貿易という不平等条約でした。
 この時期、朝鮮は小中華思想で満足し、外圧があれば、それに対して抵抗だけで済ましてきた訳ではありません。魏源の『海国図志』の紹介、中国にも日本にも使節を派遣して近代化を学び、製鉄・兵器工場をつくり、軍制改革・行政改革にとりくんでいました。開化政策といいます。しかし日本の方が一歩先んじていたため、火力の差がつき負けました。時間的なわずかな差が勝敗を決しました。それをものすごく差があるかのように誇張して、遅れた朝鮮を野蛮視したのが明治の日本でした。
 この事件について、日本のヘイトスピーカー福沢諭吉は次のように書いています。

 日本にとって今大事なのは欧米諸国との対応であって、アジア諸国と戦おうと和を結ぼうと名誉にも恥にもならない。朝鮮はアジアの一小野蛮国で、その文明は日本に遠く及ばない、貿易をしても、外交関係を持っても利益はない。たとえ、朝鮮から貢ぎ物を持ってきて日本の属国となると言っても喜ぶに足りない。我が国が欧米諸国を制するのに力にならない。ましてや、戦う意味はない。勝っても栄誉にならないし利益もない。今度の事件(江華島事件)は手足にけがを負った程度の朝鮮は小野蛮国だから、このことで深く心配する必要はない」(全集20巻 p.149)。 

 引用された崔益絃(チェイッキョン)の倭洋一体論は、倭洋双方とも尚武の歴史・伝統をもっているので適切な指摘です。条規を結んだ後の朝鮮半島がどうなるか、日本人が何をしでかすのか崔は透視していました。「日本人による財貨・婦女の略奪、殺人、放火が横行して、人理は地を払い、『生霊(じんみん)』の生活は脅かされる」は秀吉の侵略のときにすでに経験していることでした。
 こうした日本も夷狄「倭夷」と視たと指摘した解答例は予備校のものに無いのは不思議です。史料Bにしっかり書いてあるのに、そうは書きたくなかった、ということでしょうか。