世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

阪大世界史2020

Ⅰ・Ⅱ 世界史問題(外国語学部・文学部は同問)

 ある高校の生徒たちが、2年生の秋の海外実習でベトナムの首都ハノイを訪れ、ベトナム独立の父とされるホー・チ・ミンの廟(びょう)を見学した。生徒たちのうち
AさんからDさんまでの4人は、そのときの経験が忘れられず、実習の詳しいレポートを作成しただけでなく、大学進学後にもそれぞれ、ベトナムと世界の歴史を研究している。これについて、下の問い(問1〜問7)に答えよ。なお個々の問いは完全に独立してはいない。ある問いを考えるのに別の問いの情報が役立つことがありうる。

問1 生徒たちは最初に、同じ高校出身の先輩で大学院生のPさんに手伝ってもらいながら、実習レポートを書くためにホー・チ・ミンの生涯を調べ、関連する世界の動きも加筆して、下のような年表を作った(資料イ)。年表中の空欄[ ア ]〜[ ウ ]に補うべき適切な語句を、解答欄にそれぞれ記入せよ。

資料イ ホー・チ・ミンの生涯と世界の動き
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1890年ごろ 北中部のゲアン省で生まれる(本名グエン・タッ・タイン)。父は科挙試験に合格しフランスの保護国だった阮朝の官僚となる。タインは父とともに首都フエに行き、そこの小中学校で学ぶ。
1911年 フランス船で出国、米英仏などで働きながら学ぶ。
1914〜18年 第一次世界大戦
1919年 ヴェルサイユ講和会議に、グエン・アイクオック(阮愛国)の名前で、ベトナム独立を求める「アンナン人の要求」を提出。フランス社会党に加入。
1920年 フランス共産党創立大会に参加。2年後にソ連にわたり、社会主義の理論・運動方法を学び、世界の共産党の指導機関である[ ア ]の活動家として、アジア各地で活動。
1924年 孫文が建てた広東政府を援助するソ連のボロディン使節団に加わり、広州・香港を中心に活動。翌年香港でベトナム青年革命会を結成。
1930年 香港でベトナム共産党結成(すぐにカンボジア・ラオスを含むインドシナ共産党に改組されるが、1951年に分離してベトナム労働党、1976年にベトナム共産党となる)。
1939〜45年 第二次世界大戦(41〜45年アジア太平洋戦争)
1940年 日本軍がフランス領インドシナ北部に進駐(翌年、南部にも進駐)。
1941年 ベトナムに戻り、日本に抵抗するために多くの階層・組織を含むベトミンを結成。中国の国民党政権の支援も得ようとする。その際、中国向けにホー・チ・ミン(胡志明)と名乗り、それが定着。
1945年 日本の降伏直後に全土を掌握して9月2日に独立を宣言し、ベトナム民主共和国臨時政府を樹立(ベトナム8月革命)。阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎える(バオダイはのちフランスの働きかけで離脱し、「ベトナム国」元首となる)。翌年、総選挙を経て正式の政府をつくり国家主席となるが、独立を認めないフランスとの戦争(インドシナ戦争)が始まる。
1949年 中華人民共和国が成立。
1954年 ディエンビエンフーの戦いで敗れたフランスがインドシナからの撤退を決め、[ イ ]停戦協定で暫定的にベトナムは南北に分けられる(ベトナム民主共和国は北部を支配。南部はバオダイのベトナム国)。
1955年 アメリカがバオダイに代えてゴー・ディン・ジエムを立て、南部にベトナム共和国を樹立、南北分断が固定化。
1960年 ベトナム共和国(南ベトナム)で、共産党以外の諸勢力も巻き込んで、ジエム政権に反対する[ ウ ]が結成され、ゲリラ闘争を開始。これを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)では計画経済開始。
1963年 中ソ対立が激化し公開論争が行われる。
1965年 アメリカが北ベトナム爆撃の一方で南ベトナムに直接派兵し、ベトナム戦争が始まる(〜75年)。
1969年 9月2日に国家主席のままハノイで死去(レー・ズアンらによる集団指導体制で戦争継続)。遺体はハノイのホー・チ・ミン廟に保存される。
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問2 Aさんは大学入学後、政治リーダーについてのレポートを書くことになった。そこで年表作成の際に読んだホー・チ・ミンの伝記を思い出し、ソ連で学んで社会主義革命を起こそうとしたリーダーについて想像されるのとは違った、民族主義的な行動が見られることに気づいた。さらにホー・チ・ミンが起草した独立宣言(資料口)を読んだところ、冒頭に資本主義国であるアメリカとフランスの宣言が引用されているので、Aさんはさらに驚いた。中略部分も含めて、フランスの植民地支配への批判はあるが、資本主義そのものを批判した言葉は見つからない。

資料ロ ベトナム民主共和国独立宣言
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 国中の同胞たちよ。
 「すべての人間は平等の権利をもって生まれてくる。造物主*は人々に、だれも犯すことのできない権利を与えている。その諸権利のなかには、生きる権利、自由の権利と幸福追求の権利が含まれる」
 この不朽の言葉は、1776年の「アメリカ独立宣言」のなかにあるものだ。広く考えるとこの文は、世界の各民族はすべて平等に生まれ、どの民族も生きる権利、幸福の権利と自由の権利をもつことを意味する。
 1791年のフランス革命の「人権と市民権に関する宣言」もやはり言っている。
 「人は権利において自由かつ平等に生まれ、そしてつねに、権利において自由かつ平等であらねばならない」と。
 それは、だれも争うことのできない道理なのである。
 にもかかわらず、この80年以上というもの、フランス植民地主義者たちは、自由・平等・博愛の旗印を利用して、わが国土を奪いわが同胞を圧迫してきた。かれらの行動は、人道と正義にまったく反している。
(中略)
 われわれはテヘランとサンフランシスコの会議で民族平等の原則を認めた連合諸国が、ベトナム人民の独立の権利を認めないわけは決してないと信じる。
 この80年以上にわたってフランスの奴隷のくびきに勇敢に抵抗してきた民族、この数年は連合国側に立ってファシストに勇敢に抵抗してきた民族、この民族は自由を得なければならない。この民族は独立を得なければならない。
 この道理にもとづき、われわれベトナム民主共和国臨時政府は、世界に対しておごそかに宣言する。
 ベトナムの国は自由と独立を享受する権利をもち、事実、すでに自由で独立した国になっている。すべてのベトナム民族は、あらゆる心と力、命と財産をもって、この自由と独立の権利を守るであろう。
  *造物主 天地を創造したキリスト教の神のこと。
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 そこで政治思想の研究を目指しているBさんに相談したところ、Bさんは、第一に「もともと社会主義思想は、ブルジョワジーによる革命が掲げた自由や平等の理想自体は肯定していること」、第二に「ロシア革命後の社会主義国や共産党の内部でも、自由主義や社会民主主義を排斥する動きがある一方で、帝国主義やファシズムとたたかうために、社会主義革命を将来の課題として棚上げし、『ブルジョワ民主主義』や民族解放運動を含めた幅広い勢力と提携したりこれを支援しようとする動きがあったこと」、第三に「社会主義陣営が衰退する1980年代より前は、民族解放の道として社会主義に親近感をもつ植民地や新興国のリーダーが少なくなかったこと」などの点を指摘した。そこで、ソ連が連合国に加わった第二次世界大戦の直後にホー・チ・ミンが発表した独立宣言も、こうした提携の戦略によるブルジョワジーやナショナリストの理想への歩み寄りがあったのではないかと考えたAさんは独立宜言に至るホー・チ・ミンの歩みに影響を与えた可能性があるできごと、資本主義国とも提携する戦略がその後に変更を余儀なくされたできごとなどを、年表(資料イ)に補足することにした。その際に補足した下の3つの年の記述の空欄[ X ][ Y ][ Z ]に入る適当なできごとを解答欄にそれぞれ記入せよ。

1935年 [ ア ]が[ X ]を提唱。
1937年 [ Y ]が始まり、中国側で第二次国共合作が具体化。
1946年 米ソ両陣営の[ Z ]が表面化。

問3 Aさん・Bさんが、ホー・チ・ミンがもつ社会主義者(共産主義者)と民族主義者(ナショナリスト)の二面性について、さらに掘り下げたいと希望したので、大学院生のPさんは、ホー・チ・ミンが死去した直後に公表された遺言も読むように勧めた。2人は遣言の文章を細かく区切り、社会主義的な内容、民族主義的な内容、両方にまたがる内容のどれに分類できるかを考察した。下のア〜オはその一部である。かれが最後まで純粋な社会主義者でありつづけたと考える場合に、この中のどれが根拠にできるだろうか。社会主義者でなければ言わないことがらと社会主義者以外でも言いそうなことがらの区別や、かれが没した当時の社会主義諸国の動きにも注意しながら、適切と考えられるものを二つ選んで解答欄に記号を記入せよ。

 わたしがカール・マルクスやレーニンおよびその他の先輩革命家に会いに行くようなことになったとき、全国の同胞、党内の同志、各地の友人たちみんなが、思いがけないことと感じないように、ここにいくつかのことを書き残しておく。

 わが同胞は、なお多くの財産・生命を犠牲にしなければならないかもしれない。それでも(中略)山はある、川はある、人はいる。アメリカに勝ったらいまの十倍美しく再建しよう!

 アメリカ帝国主義は必ずわが国から撤退しなければならなくなるだろう。わが祖国は必ず統一されるだろう。南と北の同胞は必ず一家につどうだろう。

 わが国は一小国でありながら、フランス、アメリカという二つの大帝国主義国に英雄的にうちかち、民族解放運動の名に恥じない貢献をしたという、大きな栄誉をになうことになるだろう。

 わたしは、兄弟諸党、兄弟諸国が必ず団結を取り戻すと、かた<信じている。

問4 ホー・チ・ミンは終始一貰して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義者であったのだと考える場合、問1〜3の資料や情報から、どのような根拠をあげることができるだろうか。三つ以上の根拠をあげて、200字程度で説明せよ。通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意すること。

問5 Aさんは大学でヨーロッパの思想や学術を研究しているCさんにも相談した。そこでホー・チ・ミンの独立宣言を読んだCさんは、違和感をいだいた。アメリカ独立革命やフランス革命など「環大西洋革命」が目ざしたのは個人の自由と、自由な個人の選択の結果として社会契約によって形成され国民の意思で変更可能な国家だと習っていたのに対し、ホー・チ・ミンが用いた民族という漢語には、言語や文化を共有し、個人の選択を超越した変更不可能なまとまりというニュアンスが感じられるからである。Cさんはそこで、入学後に聞いた講義の内容を思い出した。変更不可能な集団としての民族が自然に持つ権利という思想は、19世紀半ばの中欧・東欧あたりで最初に強く主張され、第一次世界大戦後に民族自決権が広く認められたのと並行して世界に広がったものだ、という内容だった。Cさんが「環大西洋革命」と同じ18世紀末から、19世紀半ばにかけての中欧・東欧の政治情勢を整理することにしたので、Pさんは、次の3枚のカードに、教科書から関連事項を書き抜くようにアドバイスした。

カード1:この時期の中欧・東欧にすでに存在した帝国、帝国形成に向かいつつあった国家(できたのはどんな国家?)
カード2:それらの諸国に支配されていた国家や民族
カード3:ナポレオン戦争のインパクト、1815年および1848年の変化

 そこで、あなたがCさんならば、18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて、どのように説明するか。カード1からカード3の内容にふれながら300字程度で述べよ。なお、会議や条約の名前、各民族内部の主導権をめぐる対立などは書く必要がない。

問6 Dさんは、ベトナムの指導者たちの歴史認識というテーマで大学での研究を進めている。まず日本語訳されているベトナムの歴史教科書を図書館で読んだところ、近代以前のベトナムも外国の支配や侵略とたびたび戦ってきた点が強調され、外国を撃退した王朝が高く評価されている一方で、フランスに屈した阮朝は、低い評価をされていることに、強い印象を受けた。次に日本人が書いたベトナム史の入門書も読んでみると、阮朝については歴史学界でも、肯定的な見方と否定的な見方の対立があることがわかった。将来はベトナム留学もしてベトナム史を研究したいと考えているDさんは、阮朝について、どこでどう調べると、どんな結果になりそうかについて予想し、下のような複数の仮説を立てた。そのうち明らかに事実誤認を含む仮説を一つ選んで、解答欄に記号を記入せよ。

 首都だったフエで阮朝王室の子孫にインタビューすると、南北ベトナムを統一した阮朝について、肯定的な意見が聞けるだろう。

 南部のホーチミン市でベトナム共和国時代の教科書を調べたら、阮氏が南部に領土を広げたことなどについて、肯定的な評価がされているだろう。

 北部のハノイで出版されている学者の論文を読んだら、タイソン反乱と戦う過程でシャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受けるなど、「売国的」なやりかたで王朝を立てた阮朝の行動が非難されているだろう。

 山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫から守ってくれなかった阮朝に対する否定的な評価が出てくるだろう。

問7 先輩のPさんから、たとえば明治維新期の日本のリーダーなども参考にするように言われ、明治維新が「富国強兵」による近代国家の建設と、「王政復古」で「神武*創業」に戻るという、二重の主張をしていたことに気づいたDさんは、「近代国家を作ろうとしたリーダーたちは、必ず直前の時代や政権を否定するが、近代化によって前の時代を超えようとするだけでなく、もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどころを求める」というパターンがあるのではないかと考えた。Dさんはそこで、過去の歴史や宗教の栄光を強調したり、その復興を主張した近現代の政治運動の例を探したところ、世界のあちこちでこのパターンが見られることがわかった。下のカードには、Dさんがメモした事項が書かれている。
 *神武は建国神話上の初代天皇を指す。

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サウジアラビア建国やイラン革命とイスラーム
ガンディーのインド独立運動とヒンドゥー教
イスラエル建国と古代ユダヤ人の宗教・国家
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 このカードの例から一つの国を選んで、カードに書かれた近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について、250字程度で論述せよ。
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コメント
問1 4人の研究という全体のスタイルは共通テストを真似ています。この空欄補充の問題は容易でした。空欄アは「世界の共産党の指導機関である」と年代の1920年がヒントで前年(1919年)にコミンテルン(第三インターナショナル)ができているので、これが答と推理できます。この前に「1911年 フランス船で出国、米英仏などで働きながら学ぶ」という足跡が記してあります。これは東大の過去問(1982)に「少年時代から独立運動に身を投じたホー=チミンは、官憲の追跡を逃れて、船員となってヴェトナムを脱出した。ヨーロッパに渡った彼はフランス社会党員となり、1920年フランス共産党が成立するとただちにこれに加入、モスクワを経て中国に入り、中国革命にも参加した。この間、在外ヴェトナム人の組織化をすすめ、被圧迫民族解放同盟を結成するなどして、国際的体験を深めた」と。ベトナムの青年は東遊運動(ドンズー運動)といって日本を目指したのに、日本は信用できない、と踏んで来ませんでした。周りに惑わされず、見る目が若いときからあったことになります。日本は日仏協約(1907)を結び、フランスの依頼で留学生を追放しました。
 空欄イも「インドシナからの撤退を決め、[ イ ]停戦協定」というのは易しい。ジュネーヴ休戦協定です。
 空欄ウも「ジエム政権に反対する[ ウ ]が結成され、ゲリラ闘争を開始。これを支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)」からは長い名称ですが正しく書けることが必要です。この南ヴェトナム解放民族戦線をアメリカはベトコン(Vietcong ベトナムのコミュニスト)と呼びました。当時、日本ではベトナム反戦運動がさかんで、これはアメリカ側の誤った表現であるとして、「愛国・民主・平和の共産主義者・民族主義者から仏教徒・カトリック教徒まで包含した民族・民主統一戦線」(当時の『世界史B用語集』の説明)であった、とゲリラ側の表明をそのまま信じていました。NHKスペシャル『社会主義の20世紀』第5巻(日本放送出版会、私はこのNHKの放送を見ています。これはそれを本にしたものです)の中で「南ヴェトナム解放民族戦線の組織、その目的はどのように決定されたのですか」「1959年、ベトナム労働党中央委員会の第15回会議で解放戦線の結成を決定したのでしたね」という問いに対して、ファン・バン・ドン元首相が「そうです。同時に、南の全人民を動員して抵抗運動に立ち上がらせることも決定しました。それは一斉蜂起運動です」と。多くの共産党員がそれを隠して南にわたり活動しました。蔑称表現はときに的を射た言葉になっている場合もあります。この問題の年表にも「1960年 ……支援するベトナム民主共和国(北ベトナム)」と書いてありますが、正しくは「支援」でなく「企画・実施」です。

 
問2 たった3つの空欄を埋めるのに、また長い文章を読ませています。「1935年の[ ア ]コミンテルンが[ X ]を提唱」とあり、この35年はヒトラーの再軍備宣言があり、戦争の危機が迫ってくる中で、共産党ではないものとも組もうという戦略のことです。人民戦線(方式)です。反ファシズムのために資本家・民族主義者とも組むという方法です。
 空欄[ Y ]は「が始まり、中国側で第二次国共合作が具体化」という後の文章からは日中戦争しかありません。当時の日本人は戦争といわないで支那事変と呼んでいました。
 空欄Zは「1946年」という年代、「米ソ両陣営の[ Z ]が表面化」が冷戦を示しています。

問3 課題は「最後まで純粋な社会主義者でありつづけたと考える場合に、この中のどれが根拠にできるだろうか」です。5つの文章から選ばせるのも共通テストに似たタイプの形式にしています。これは二次試験なのになぜ真似なければならないのか不思議です。もちろんいろんなタイプの問題があってもいいのですが……。
 文章アはあの世の「革命家に会いに行く」は「社会主義者でありつづけた」ことになります。
 文章イはなんだか不明です。「財産・生命を犠牲に」は日本の特攻隊でも、ヒトラー崇拝者でも言うでしょう。
 文章ウは「アメリカ帝国主義」という語句で「社会主義者」でも、社会主義者でない反米感情の強いひとなら言うでしょう。「ありつづけた」という厳密な条件では首をかしげざるをえません。
 文章エの「民族解放運動」が社会主義者であるかどうかの判断を鈍らせます。
 文章オの「兄弟諸党、兄弟諸国」は同じ主義主張のひと・国の団結を唱えているので、共産党宣言の最後の言葉「万国の労働者よ団結せよ」と同じなので、これは「ありつづけた」でしょう。

問4 「ホー・チ・ミンは終始一貰して、社会主義陣営の提携戦略の枠に収まらない民族主義……三つ以上の根拠をあげて……通常の社会主義者ならしないはずの行動や発言にも注意」という課題です。問1の年表と問2の独立宣言書、問3の遺言から抜き出してきて「まとめ」る能力を見ようとしています。良問です。
 問1の年表では、1924年のソ連・コミンテルンの使節団員となった点は社会主義者としてですが、同年の「孫文……ベトナム青年革命会を結成」は社会主義と民族主義が混ざっています。
 1941年の「多くの階層・組織を含むベトミンを結成」は民族主義者として活動しています。直後の「中国の国民党政権の支援も得ようとする」も民族主義者として妥協的な部分です。
 1945年の「ベトナム民主共和国臨時政府を樹立」は社会主義と民族主義が混在しています。またこの年に「阮朝のバオダイ帝を最高顧問に迎え」という妥協的なところが民族主義です。
 問2の独立宣言書はアメリカ独立革命とフランス革命という代表的なブルジョワ革命の宣言を模範としている点、またその末尾には、「すべてのベトナム民族は、あらゆる心と力、命と財産をもって、この自由と独立の権利を守るであろう」と民族主義を唱えています。
 問3の遺言に「両方にまたがる内容」があり、解答ではなかった「イウエ」の文章が民族主義を表しています。
 これらを行動と発言に分けて書いてもいいし、混ぜて書いてもいいでしょう。

問5 課題は「18世紀末から19世紀半ばの中欧・東欧の各民族の動きについて、どのように説明するか。カード1からカード3の内容にふれながら」でした。
 カード1のすでに存在した帝国とは、東のロシア帝国、北はプロイセン王国中心とするドイツ帝国、このプロイセンに敗戦したハプスブルク家の支配する神聖ローマ帝国と、結果としてのオーストリア=ハンガリー二重帝国がありました。「帝国形成に向かいつつあった国家」とはプロイセン王国のことでしょう。南部にはオスマン帝国がありました。
 カード2:それらの諸国に支配されていた国家や民族……「支配されていた国家」には言葉の矛盾がありますが、カード1の帝国から独立する予定の国々、あるいはかつて国家をもっていたが滅ぼされた国家を指しているでしょう。神聖ローマ帝国にはボヘミア(ベーメン)王国があり、かつて3分割されたポーランド、ハンガリー(二重帝国の自治国)、露土戦争(1877〜1878)で独立するルーマニア・セルビア・モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア(1830)などがあります。
  阪大の出題意図の中に「中欧・東欧(南欧ではない)が指す範囲」という文章がありますが、おかしなことです。教科書では東欧といえば中世から書き出していますが、そこでは何よりビザンツ帝国から書き出しています。つまりバルカン半島の南欧の歴史からであり、東欧といえば南欧が入ることは教科書では自明です。何か勘違いしているのでしょう。
https://www.osaka-u.ac.jp/ja/admissions/faculty/general/pastexam-answer
 民族としては上の国々と重なりますが、西スラヴ人のポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、マジャール人、南スラヴ人のセルビア人、ボスニア人、ヘルツェゴビナ人、モンテネグロ人、アジア系のブルガリア人、印欧系のルーマニア人とアルバニア人とギリシア人などです。各地にユダヤ人、植民してきたドイツ人、インド由来とみられるロマ人(ジプシー)も。
 カード3:ナポレオン戦争のインパクトはフランス革命軍が国民軍であったため、侵略された国々で自らも国民軍を創ろうという動きになったナショナリズムの刺激。また分割された国が消えていたポーランドはナポレオンによってワルシャワ大公国を創ってもらい、ナポレオンのモスクワ遠征にも参戦していたこと、などがあげられます。1815年のウィーン会議で民族主義を抑える、革命以前の旧王朝に復帰する、という正統主義が決められながら、それに対する反発が各地でおきたこと、また神聖ローマ帝国は崩壊していて、ドイツはドイツ連邦という35の君主国と4自由市の連合というかたちをとり、かつて中世以来300もの領邦の集団であったのが、ドイツ民族のまとまりが促されたこと。1848年の革命の結果、ウィーン体制は崩壊し、一時的に共和政の国ができたこと、東欧ではドイツ統一の会議(フランクフルト国民議会)の向こうを張ってプラハでスラヴ民族会議を開き、オーストリア帝国の解体を画策しましたが失敗しています。このスラヴ民族会議を書いた答案が予備校のものにないのは情けないですね。東欧が課題なのに。
 ナポレオン戦争が始まる前にはポーランドでコシューシコ(コシチューシコ)の反乱がありました。第二次分割に対する反抗でしたがつぶされました。
 いろいろデータがありすぎて困りますが、これらの全部は書き切れないので、大きな動きを中心にまとめることになります。「中欧・東欧」のうち中欧はドイツも入れて書け、ということでしょう。今の国境線とはちがい、プロイセン王国はポーランドの北部を領土として持っていましたから。

問6 阪大らしく東南アジア史重視の問題でした。ここでも更に畳み掛けるようにベトナム史を追いかけています。課題は「事実誤認を含む仮説」を選べ、というもの。面白い問題です。
 文章ア 「阮朝王室の子孫にインタビュー……肯定的な意見が聞けるだろう」なんて当り前です。
 文章イ 「南部のホーチミン市でベトナム共和国時代の教科書」は米軍の支援を受けていた時期なので、「南部に領土を広げたことなどについて、肯定的な評価」がされるはずがありません。北部と対決しているのに北部が南部を侵略するのを肯定できません。
 文章ウ 「北部のハノイ」ということは元朝共産党政権の教科書になるので、「シャム(タイ)やフランスの宣教師の支援を受けるなど、「売国的」なやりかたで王朝を立てた阮朝の行動が非難」は当然です。
 文章エ 「山岳地帯の少数民族社会を調べたら、ラオスやカンボジアなどの強国の圧迫から守ってくれなかった阮朝に対する否定的な評価が出てくるだろう。」は当然です。共産党は少数民族を重んじません。

問7 課題は「もっと前の歴史や宗教・文化にもよりどころを求める」というパターン……一つの国を選んで、カードに書かれた近現代のリーダーまたは政権がよりどころにした過去の国家や宗教の興亡の歴史について」でした。これも面白いが嫌な問題です。というのは、予備校の解答例のように、だらだらとそれぞれの歴史を適当に書けばいいのではなく、「政権がよりどころにした過去」に注目しつつ書かなくてはならないことです。
 どれが書きやすいか受験場で即決しなくてはいけません。ユダヤ人の歴史が書きやすいように思いますが、どうですか?
 「サウジアラビア建国」これを書けるには、サウジアラビアが原理主義のワッハーブ派であること、サウード家がこの派を支援してできたのか現在の国であること、これだけでは書き切れないので、「イスラーム」という部分ではムハンマド以来のかんたんな歴史を書く。
 イランを選ぶなら、イラン革命もサウジアラビアと同様に原理主義的なシーア派を基にイラン=イスラム革命でできた国であること、シーア派そのものの歴史、この派を国是としたブワイフ朝・(ファーティマ朝・)サファヴィー朝・パフレヴィー朝など「フ」付き王朝についてかんたんに説明する。
 インドならガンディーの非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ運動)がまさにヒンドゥー教の聖典バガヴァット・ギーターに書いてある「不殺生と禁欲」の教理を基にしていること、南アフリカでの弁護士活動、国民会議派としての活動、塩の行進、宗教間対立に反対、ハリジャン(不可触民)の解放運動など、いろいろ書けばいいでしょう。
 イスラエルの場合はユダヤ人の古代の歴史と再現をはかるシオニズムの歴史がふさわしい。
 
 なお導入文に書いてある「王政復古」と注の「神武は建国神話上の初代天皇を指す」は前660年に即位したとされる天皇です。当時日本に国家はないのに天皇だけで居るという不思議な話です。神国だとの主張が日中戦争中になんども強調されました。負けるはずのない国というわけです。4世紀の神功皇后(じんぐうこうごう)もよく持ち出された神話でした、この皇后は新羅出兵を行い、朝鮮半島の広い地域、高句麗も百済も服属下においたとされました。この神話が征韓論の起源として長々と信仰されました。代表的な人物は吉田松陰(1830〜59)です。次のように書いてます。

蝦夷を墾き琉球を収め、朝鮮を取り満洲を拉き、支那を圧し印度に臨みて、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固めて、神功の未だ遂げたまはざりし所を遂げ、豊国の未だ果さざりし所を果すに若かざるなり

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第三次日韓協約

 この絵は第3次日韓協約を締結させた中心人物である伊藤博文と外相・林董(ただす)が、ひざまずいて条約文に捺印している李完用を見下ろしていて、いかにも屈辱を与えている姿ですが、上には征韓にかかわる昔の人物たちが慶事として見守っています。大きく描かれた神功皇后・豊臣秀吉・西郷隆盛たちです。出典は雑誌「東京パック」1907年8月1日号発行。