世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2021

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 19世紀半ばに行われたイスタンブルのアヤ・ソフィア・モスクの修繕工事において、内壁の漆喰の下から、この建物がモスクに転用される前のハギア・ソフィア聖堂と呼ばれていた時期に製作されたモザイクが多数確認された。そのうちのひとつ、聖母子像を描いた9世紀半ばのものとされる破損により一部しか現存していないが、当初は「異端者によって破壊された像をここに取り戻す」と言う内容の銘文がつけられていたことが分かっている。モザイクはその後いったん漆喰で埋め戻されたが、1930年代から改めて本格的な調査・修復が始められ、同時期に決定されたモスクの博物館への転用を経て、一般に公開されるようになった。

問い この建物の建造の時代背景、および、政治的・社会文化的背景を説明した上で、複数回にわたる転用がなぜ起こったのかを念頭に置いて、この建物の意味の歴史的変化を論じなさい。(400字以内)

第2問
 ヨーロッパ文化に関する次の文章を読み、問いに答えなさい。

 「シェイクスピアのイングランド」(a)「ゲーテの時代」、このような言葉から人々はある特色によって内面的に統一された文化現象の全体的印象を受ける。いやそれ以上に、後代の人々が一種の憧憬れの感情を以て見返るようなもの、後代には既に失われた青春の活力、後代がわずかにその余映を仰ぐような新しい指導価値が、突然に国民の中に芽生え、成長し、彼らの月並みな伝統的生活、その動脈硬化的生活力を一新する時代、いわば歴史的最良の時代を想い浮かべる。ちょうど、それと同じような意味で(b)「レムブラント[レンブラント]時代」という言葉がオランダの歴史家たちによって使われる。
(松村恒一郎『文化と経済』により引用。ただし一部改変)

問い 下線部(a)(b)について、ゲーテの時代とレムブラントの時代の文化史的特性の差違を、下の史料1及び史料2を参考にし、当該地域の社会的コンテクストを対比しつつ考察しなさい。(400字以内)

史料1
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  (レンブラント「織物組合の幹部たち」)

史料2
 たしかにわれわれの帝国の体制はあまりほめられたようなものではなく、法律の濫用ばかりで成り立っていることをわれわれも認めたが、フランスの現在の体制よりはすぐれていると考えた。〔中略〕しかし他の何物よりもわれわれをフランス人から遠ざけたのは、フランス文化追従に熱心な王と同じく、ドイツ人全般に趣味が欠けているという、繰り返し述べられる無礼な主張であった。〔中略〕フランス文学自体に、努力する青年を引きつけるよりは反発させずにはおかないような性質があったのである。すなわち、フランス文学は年老い、高貴であった。そしてこの二つは、生の享受と自由を求める青年を喜ばせるようなものではなかった。
(ゲーテ『詩と真実』より引用。但し、一部改変)

第3問
 次の文章を読み、問いに答えなさい。

 1977年8月、第11回中国共産党代表大会が開かれ、華国鋒が「政治報告」をおこなった。そのなかで彼は依然として継続革命論を「偉大な理論」と称賛し、党路線の中心は「毛主席の旗織を掲げ守ること」と強調している。しかし同時に、革命と建設の新たな段階に入ったとの認識に立ち、「第1次文化大革命の終了」を宣言し、「4つの近代化建設」を掲げた。ここでの華国鋒の主張は、まさに彼が毛沢東の威信に依拠したために毛の遺産を背負いながら、同時に混乱した経済・社会、そしてむろん政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。他方、鄧小平の戦略は極めて明確であった。政治闘争に明け暮れる雰囲気をいかに一掃して経済再建、経済発展に力を集中するかであった。そのためには、文革路線、毛沢東路線さえ事実上、否定してもかまわない、それを積極的に支持するグループを排除しなければならないという決意だったのだろうか。もちろんできる限り政治混乱を起こさないで「巧くやる」ことが大切だという前提であった。
(天児慧『巨龍の胎動:毛沢東VS鄭小平』より、一部改変)

問い「第1次文化大革命」の経緯を述べた上で、「4つの近代化建設」が1980年代の中国に与えた影響を説明しなさい。(400字以内)
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コメント
第1問
 問いは「建物の意味の歴史的変化」ですが、これはこの帝国の都にあるので、けっきょくは帝国の支配者がどう変わったのか、という問いでもあります。ローマ帝国の後半、コンスタンティヌス帝が首都と定めた330年から東ローマ帝国領であり、それが660年のムアーウィアの攻撃がありながら、1453年にメフメト2世による陥落まで帝国領でした。

 ユスティニアヌス帝はこの寺院の創建者ではなく、再建者です。教科書(詳説)「ユスティニアヌス大帝は……『ローマ法大全』の編纂や,ハギア(セント)=ソフィア聖堂の建立などの事業に力をそそぎ」と「建立」の字があてられていますが、三省堂の『詳解世界史』(絶版)では注に「ギリシア正教世界にはこの名をもつ聖堂が数多く建てられたが、ユスティニアヌス帝が再建したこの建物が最もすぐれている」と「再建」としていて、こちらのほうが正しい。4世紀半ばに創建され、ユスティニアヌス帝のときにはニカの反乱で燃えおち、それを再建したものです。
 1453年まで変化としては、8世紀のレオン3世による聖像崇拝禁止令による破壊があり、9世紀には元にもどってイコン重視に落ちつき、そのことで西方ローマ教会との対立が鮮明になりました。正式には東方正教会と呼ぶ現在のギリシア正教が形成されます。
 また第4回十字軍によるラテン帝国成立でカトリックになり、それがジェノヴァ支援によるニケーア帝国でまた東方正教会にもどり、それが保たれていた帝国は1453年を迎え、イスラーム世界の領土になり、モスクとして造り直されました。20世紀にケマル=パシャによるトルコ革命の一環、世俗化政策として博物館仕様に変わりました。
 これだけの事柄を400字で書かせるのは字数が難題です。データがあまりないので、完結感のない解答文になるでしょう。聖像崇拝問題のところや第4回十字軍、ケマルの改革(トルコ革命)のところを詳し目に、ふくらまして書く、ということでマス目を埋めざるを得ないでしょう。
 この問題は2020年7月10日、エルドアン大統領が、このアヤソフィア(聖ソフィア寺院)をイスラーム教のモスクに変更すると発表したことに刺激されて作問したようです。ケマル=パシャの世俗化政策に反対するイスラーム化政策の一環です。公の場でのスカーフの着用を厳禁していたのを解除し、言論の自由を制限しています。オスマン帝国の「スルタン」を気どっているらしい。イスラーム世界によく見られる回帰主義・原理主義です。

第2問
 比較の問題です。「対比」は相違点を指摘しつつ書くことが求められています。「文化史的特性の差違」は「当該地域の社会的コンテクスト」すなわち背景も違っているので、そこから導き出される相違点です。
 史料1のレンブラントの絵「織物組合の幹部たち」は、かれがよく描いた群像の絵です。自画像はかれ自身の関心だとしても、頼まれて肖像画や群衆画をたくさん描いたのは注文主の豊かな財力を表しています。
 史料2はゲーテが政治体制はフランスよりすぐれているが、フランス文化に引き付けられもするが反発もあると、フランスにこだわっているドイツ人の姿を批判しています。独自のものをつくることのできないドイツの悩みが表されています。「生の享受と自由を求める青年」はゲーテ自身でもあるでしょう。
 二つの史料はまったくかみあわない内容ですが、ここから無理にでも対比できる対象を探さなくてはなりません。
 予備校の解答例で対比の勉強をしてみましょう。
(解答例─K)
「レンブラント時代」のオランダはスペインから独立を果たし,国際貿易で繁栄していた。同時代のフランス・スペインでは王侯の権威を誇示する豪華なバロックの歴史画などが発展したのに対し,オランダは商人貴族が支配する共和国で,宗教的寛容の風潮のもと富裕な市民団を中心に国際的な文化が花開き,レンブラントは市民を相手に日常を題材とした肖像画を制作した。「ゲーテの時代」のドイツでは,フランスの古典主義演劇やフランス語などの宮廷文化,ヴォルテールの啓蒙思想が広まり賞揚され,プロイセンのフリードリヒ2世のような啓蒙専制君主も現れた。これに対しゲーテはフランスの絶対主義を批判し,分権的な領邦国家体制の下で市民層が成長して文化の担い手たりえたドイツの現状を擁護しつつ,個人の解放と,啓蒙思想が重視する理性に対する人間感情の優越を主張する文学運動である疾風怒濤を起こした。この運動は19世紀のロマン主義の先駆となった。

 上の解答例を分解してみます。
「レ」①国際貿易で繁栄、②商人貴族、③共和国、④宗教的寛容、⑤国際的な文化、⑥日常を題材
「ゲ」②王侯の権威を誇示する豪華なバロック、⑥宮廷文化、⑤啓蒙思想が広まり、③分権的な領邦国家体制
……「レ」と「ゲ」で解答文の順で書きだしてみて、対応している内容に番号をふってみました。①と対応する経済面は「ゲ」にはありません。②は商人と宮廷の対比はできてます。⑥の日常と宮廷も対比になっています。③オランダは7つの州の連邦でホラント州の総督は外交を代表して主席総督という地位にいますが各州は自治制が強いので、政体は分権的な点は共通しているはずですが、しかしドイツの中身は領邦の君主たちは絶対主義のはずで、歴史用語としても「領邦絶対主義」ということばがあります(「三十年戦争と領邦絶対主義の形成」という題の中村賢二郎の論文『世界歴史 15』岩波書店)。「レ」の国際的文化とはどういうものか不明ですが、「ゲ」の啓蒙思想も国際的な文化のはずです。対比はできていません。
 末尾に書いてある「個人の解放と……ロマン主義の先駆」はオランダのどういう分野との対比なのか不明で浮いています。たとえ当時のドイツを正しく説明していても対比が成立していない以上無駄な文章です。とするとできているのは、②と⑥の2箇所ということになります。
 こういう、ちぐはぐな解答文は、準備として対比的な構想メモをつくらなかったためです。混乱した文章になりましたが、書いたひとは混乱しているとはおもっていないでしょう。適当にデータを盛り込んだら、自動的に対比したことになるはずとおもっている。こうした解答例を分解する方法は、他の予備校の解答例でもやってみてください。まともな解答文がいかに少ないか判明します。比較文が書けるひとはとても少ない。
 比較文のつくり方は双方の史料のちがいから始まります。まず時間がちがいます。レンブラント(1606〜69)の時代は17世紀であり、ゲーテ(1749〜1832)の時代は18世紀後半と19世紀前半です。前者の国はネーデルラント連邦共和国であり、後者の国は有名無実化している神聖ローマ帝国の中のヴァイマル公国(ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国)という領邦の一つです。
 史料1の「幹部たち」は大商人層で都市貴族とも呼ぶくらいの市参事会の有力者たちです。これが共和国の実質的な支配層であり、後者の公国はゲーテがそうであるように土地所有貴族たる領主たちです。前者は企業家であり、後者は荘園主です。前者は中世以来の都市自治と市民の自由を重んじていて、共和国といっても7州にそれぞれに総督と議会があり、全体を統括する枢密院はあっても君主はおらず、ホラント州総督が外交面で共和国を代表する主席総督になっていますが、全体を統括する力は弱い地位です。後者には公国の領邦君主たる啓蒙専制君主がおり、集権化を志向しています。
 問われている「社会的コンテクスト」にこうした政治的なことが含まれているか不明ですが、引用文の『文化と経済』では政治的なことがけっこう書いてあります。
 一般に「社会」とあれば政治以外のことを指すのですが、史料2に「フランスの現在の体制よりはすぐれていると考えた」と政体のことが出てくるので、許容してもいいでしょう。
 「社会」の大きい要素は経済です。「レ」時代の共和国は17世紀がその黄金時代というくらいに海外に進出して大きな利益をあげた時代でした。長崎に、バタヴィアに、アレッポに、ケープに寄港していました。「世界の船舶量2万隻の中ホーランド(オランダ)は1万5000ないし6000を有ち、フランスは500ないし600隻のみを保有するにすぎぬと言う。たとへそれらの言葉に多少の誇張が含まれているにしても」(前掲書p.416)というくらいでした。こうした貿易業の土台に国内の手工業(毛織物、造船、陶器、醸造、時計)、また漁業(北海の鯡・鱈)、東欧との穀物取引も盛んでした。世界初の公立銀行たるアムステルダム銀行があり国際金融の中心でもありました。一方のドイツはハンザ同盟はないにひとしく、人口減少は17世紀は三十年戦争のためにひどかったものの、18世紀には回復傾向にはなってきました。前者のように手工業の発展は見られないばかりか、何より海外に進出することもなく、前者のような都市の発展は見られません。欧州内に閉じこもっています。
 これらのコンテクストの下で、前者では市民・群衆の庶民的な文化がおきました。レンブラント以外に、ハルス、ルイスデール、フェルメール、ホーホなどがいます。かれらの描いたものの特色を引用文の著者は「荘重厳格な様式の欠乏、隈々極めて常識的ともいってよい現実の生活世界を対象として、これをありのままに忠実に描写することに対する喜びに於てその特色を示す。彼等の尊ぶのは高遠な思想や荘厳雄大な構想ではなく、むしろ日常生活での快感や有益性に役立ち、作者の手工業的熟練を証明するようなものが尊ばれる」(前掲書p.346)と述べています。
 また全欧の学者が来集するくらいの大学教育がありました。スピノザ、デカルト、ロックです。ライデン大学は西欧科学の最先端でした。ホイヘンス、デザギュリエ、グラーベサンド、ド=ル=ボウェイ、ヘルマン=ブールハーフェなどです(山本義隆『熱学思想の史的展開 熱とエントロピー』現代数学社)。
 後者のドイツでは、貴族たち(ゲーテ、ノヴァーリス)、法律家や医師・官僚の子弟であったヘルダーリン、シラー、グリム兄弟など、どちらかといえば上層階級の知識人たちによる文化が目立っています。これらの知識人にふさわしいものは当時は「古典主義」文学であり、古代ギリシア・ローマの文化を理想とし、調和と形式的な美しさを重視することでした。ナポレオン戦争後にこれらがロマン主義に転換しても、中世や神聖ローマ帝国への回帰が見られ、世界に目を開いたオランダとはあまりにも対照的な傾向が現れていました。時間は「ゲーテの時代」のほうが新しいのに過去に目を向けています。

第3問
 文化大革命に「第1次」の付いた語句は教科書にないものですが、引用文に「1977年」という時間が示されているので、教科書に書いてある1966〜76年(中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』パレードの語呂「1966、1976」)の文化大革命と同意であることが分かります。また1977年ということは「報告」の前年に「第1次」が終わったばかりであることも気がつきます。じっさい第2次はなかったのすが、華国鋒としては、この後もつづいて「継続革命」が起きると想定しての演説でした。
 課題は①文化大革命の経緯、②「4つの現代化建設」、③は②が1980年代の中国に与えた影響の3つです。
 ①文化大革命の経緯は、毛沢東の国家主席失脚→劉少奇の就任→経済復興→毛沢東の奪権闘争の開始・劉派を「走資派」「実権派」と非難・紅衛兵の大衆運動を利用・→劉派の失脚・毛林体制→毛沢東の死・四人組逮捕(文化大革命の終了)
 ②華国鋒の「四つの現代化(工業・国防・農業・科学技術)」を推進・文革犠牲者の復権→鄧小平の復権と経済改革(人民公社の解体と農業生産の請負制,外国資本・技術導入による開放経済,国営企業の独立採算化)
 ③影響は、学生・市民の民主化(第五の現代化)要求・天安門事件と鎮圧、高度経済成長期に入る(生産・貿易・金融の急激な成長、GDPで日本を越す経済大国に)。貧富差の拡大。

 ②の中で華国鋒の位置が微妙です。「毛沢東の威信に依拠……政治の混乱を建て直さねばならないというディレンマを物語っていたのである。他方、鄧小平の戦略は極めて明確」という毛と鄧の間にたっていた、という点は、どっちつかずの曖昧さが批判の原因となり4年で失脚することになりました。このあたりは、意外やアメリカ国務長官のキッシンジャーが明快に説明しています(キッシンジャー『中国 下』p.415)。
 「彼には政治的な支持基盤が欠けていた。彼が権力の頂点に上り詰めたのは、対立する主要派閥、すなわち四人組と、周恩来・鄧小平の穏健派の、どちらにも所属していなかったためだ。毛沢東が舞台から去ると、華国鋒は、毛沢東主義者の、集団化と階級闘争という指針への批判を許さぬ信奉と、経済的、技術的な近代化という鄧小平の理念との折り合いを付けるという、この上ない矛盾につまずいてしまった。四人組の信奉者は、ラディカリズムが足りないといって華国鋒に反対し、鄧小平とその支持者らは、次第に、あからさまに、プラグマティズムが足りないと言って華国鋒を拒否するようになった。」