世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2022

第1問
 次の文章は、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が1158年にイタリア北部のロンカリアで発した勅法「ハビタ」の全文である。この文章を読んで、問いに答えなさい。

 皇帝フリードリヒは、諸司教、諸修道院長諸侯、諸裁判官およびわが宮宰達の入念なる助言にもとづき、学問を修めるために旅する学生達、およびとくに神聖なる市民法の教師達に、次の如き慈悲深き恩恵を与える。すなわち、彼等もしくは彼等の使者が、学問を修める場所に安全におもむき、そこに安全に滞在し得るものとする。
 朕が思うには、善を行う者達は、朕の称讃と保護を受けるものであって、学識によって世人を啓発し、神と神の下僕なる朕に恭順せしめ、朕の臣民を教え導く彼等を、特別なる加護によって、すべての不正から保護するものである。彼等は、学問を愛するが故に、異邦人となり、富を失い、困窮し、あるいは生命の危険にさらされ、全く堪えがたいことだが、しばしば理由もなく貪欲な人々によって、身体に危害を加えられているが、こうした彼等を憐れまぬ者はいないであろう。
 このような理由により、朕は永久に有効である法規によって、何人も、学生達に敢えて不正を働き、学生達の同国人の債務のために損害を与えぬことを命ずる。こうした不法は悪い慣習によって生じたと聞いている。
 今後、この神聖な法規に違反した者は、その損害を補填しないかぎり、その都市の長官に四倍額の賠償金を支払い、さらに何等の特別な判決なくして当然に、破廉恥の罪によってその身分を失うことになることが知られるべきである。
 しかしながら、学生達を法廷に訴え出ようと欲する者は、学生達の選択にしたがい、朕が裁判権を与えた、彼等の師もしくは博士または都市の司教に、訴え出るものとする。このほかの裁判官に学生達を訴え出ることを企てた者は、訴因が正当であっても、敗訴することになる。朕はこの法規を勅法集第四巻第一三章に挿入することを命ずる。
 (勝田有恒「最古の大学特許状 Authenticum、Habita」『一橋論叢』第69巻第1号より引用。但し、一部改変)

問い この勅法が発せられた文化的・政治的状況を説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し.その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

     ボローニャ大学 自治都市

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 考えてみれば、歴史を通じて、公共投資とインフラが文字通り米国を変革してきた。我々の態度と機会を。大陸横断鉄道や州間ハイウエーが2つの大洋をつなぎ、米国にまったく新しい前進の時代をもたらした。
 全国民への公立学校と大学進学援助が機会への扉を広く開いてきた。科学の大躍進が我々を月に、そして今では火星に送り、ワクチンを発見し、インターネットなど多くの技術革新を可能にしてきた。これらは国家として力を合わせて実施した投資であり、政府のみができる立場にあった。こうした投資は、何度となく我々を未来へ進ませてくれた。
 一世代に一度の米国自身への投資である「米国雇用計画」を提案しているのはそのためだ。これは第2次世界大戦以来最大の雇用計画だ。交通インフラを更新するための雇用、道路、橋、高速道路を近代化するための雇用、港、空港、鉄道網、交通機関路線を建設するための雇用を生み出す。
 (中略)
 米国雇用計画は、何百万もの人々が仕事やキャリアに戻れるよう支援する。このパンデミック(世界的大流行)の間に、200万人の女性が仕事を辞めた。200万人だ。子供や助けが必要な高齢者を世話するために必要な支援を受けられなかったため、という理由が余りにも多い。80万もの家族が、高齢の親や障害を持つ家族を自宅で世話するサービスを受けるための(低所得層向けの公的医療保険である)メディケイドの待機リストに載っている。あなたがこれを重要でないと思うなら、自分の選挙区の状況を確認してほしい。
 (「全文で振り返るバイデン氏議会演説」『日本経済新聞』電子版、2021年5月5日より引用。但し、一部改変)。

問い
 下線部からは、この演説が、「米国雇用計画」に比肩しうるような20世紀アメリカの経済政策念頭に置いていることがうかがえる。この20世紀アメリカの経済政策は、それ以降のアメリカの経済政策の基調を作った。しかし、こうした方向性の政策は、その後、強く批判されるようになる。この20世紀の経済政策の内容とそれが実施されだ背景について論じたうえで、それ以降の経済政策への影響を説明しなさい。また、それが、なぜ、どのような理由から批判されるようになったのかについても説明しなさい。(400字以内)

第3問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。(問1から問3まですべてで400字以内)

 光化門広場はソウル市民の憩いの場であり、多くの観光客が訪れる名所である。一方、ここは社会運動が活発である現在の韓国社会を象徴する空間でもある。2014年にセウォル号沈没事故が発生した際には、犠牲者の追悼や事故の責任を追及するデモがおこなわれた。さらに、2016〜2017年には、当時の朴樺恵大統領の退陣を求めて、火を灯したろうそくを持った市民が光化門広場などでたびたびデモを実施し、同大統領は罷免されるに至った。韓国で、このプロセスは「ろうそく革命」と呼ばれており、20世紀後半の(a)民主化運動を継承したものと評価されている。
 光化門広場の奥には、朝鮮王朝の始祖・李成桂漢城(ソウル)に建造した王宮・景福宮がある(光化門は景福宮の正門である)。近年は、韓国のアーティストBTSがここでパフォーマンスを披露したことでも話題になった。きらびやかなイメージのある景福宮だが、その歩んできた道のりは決して平坦なものではなかった。まず、1592年に景福宮の建造物の多くが(b)戦乱のなかで消失した。再建されたのは19世紀半ばのことである。さらに、1894年に景福宮は(c)日清戦争開戦に先立って日本軍に占領され、1895年には日本の朝鮮公使・三浦梧楼らの計画による朝鮮王妃(閔妃、明成皇后)殺害事件の現場ともなった。「韓国併合」後には.日本は景福宮の建造物を撤去し、その敷地内に朝鮮総督府の庁舎を建設した。そして、植民地支配からの解放50年を迎えた1995年以降、朝鮮総督府旧庁舎が撤去された。現在、景福宮の復元事業は大部分が完了している。

問1 下線部(a)に関して、1979年から1980年までの韓国における政治の動向について述べなさい。
問2 下線部(b)が示す戦乱(1592〜1598年)の朝鮮側における名称を記したうえで、この戦乱の展開過程、また、この戦乱が明に与えた影響について述べなさい。
問3 下線部(C)に関して、1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係について述べなさい。
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第1問
 いかにも一橋らしい異常な問題です。大学の講義を受験生にぶつけているような問題で、身勝手なものです。高校でどんな世界史を勉強してきたか無視しています。
 しかし文句は受験生には言えないので、出題者の意図から離れても、できるたけ近い内容の文章を書かなくてはなりません。与えられた史料を無視してでも、問われていること、つまり皇帝フリードリヒ1世、指定語句のボローニャ大学自治都市について知っていることをつぎ込みましょう。
 皇帝はイタリア政策をとり、自治都市はミラノ市を中心にロンバルディア同盟を結んで皇帝に対抗し成功します(詳しくは1176年のレニャーノの戦い)。またこの時期は皇帝に対抗する叙任権闘争は十字軍の開始とともに始まっていて、西欧の指導者は皇帝でなく教皇であることが次第に明らかになってきた時期でした。またボローニャ大学の成立もこの叙任権闘争に教会側が勝つための研究機関でした。背景として「12世紀ルネサンス」もあります。
 自治都市からは「商業ルネサンス」中世都市、中でもイタリアの場合はコムーネという独立国家にひとしい都市が発展したことを説明するといいでしょう。
 史料とかかわるボローニャ大学については、「ハビタ」の説明として、「神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)が1158年にイタリア北部のロンカリアで発した勅法」と書いてあり、1167年に結成されロンバルディア同盟の10年ほど前であることがわかります。この皇帝と教皇の対立は勅法発布の前年1157年から始まっていますから、これは教皇に対抗する法令であったとみなせます。
 しかし指定語句のボローニャ大学は11世紀半ばにすでにできている西欧最古の大学であり(東京書籍「11世紀後半にはイタリアにボローニャ大学が成立し、主として法学で知られた」)、1世紀前の出来事です。史料の説明として末尾に「最古の大学特許状」とあってもすでに大学はできています。つまり学生は全欧から集っています。とくに学生の多くが修道僧たちであったこと、集まる評判になったのは『ローマ法大全法』の一部、ないしダイジェスト版がこの街で見つかったこと、時期が叙任権闘争のはじまったころであったこと、皇帝に対抗する教会法を作成するのが目的であったこと、などが背景として言えます。
 「ハビタ」の内容がいかにも学生保護になっているものの、教皇・イタリア都市と対決している皇帝が、これを発布した意図はどこにあるのか、という疑問がわきます。すでに教皇寄りの状況に圧力をかけて、皇帝が都市も大学も従わせようとしたのではないか、と考えられます。しかしこの対立のあり方を書かせようとしたのであれば、出題者の無知をなじる他ありません。
 ネットの解答例には二種類あり、皇帝と都市の対決を書いても、大学を味方につけようとした、という大学側が教皇寄りであったことを無視したもの、また対立に言及せず無視したものです。しかし、素直に考えられるのは、皇帝が自己の権力を強化するために、すでに自治都市になっている都市と、大学自治の権利を持っている大学に圧力をかけた、ということでしょう。さも学生を保護する振りをして大学自治に介入しようとしました。しかしそれに失敗した、ということです。

第2問
 課題は「この20世紀の経済政策の内容とそれが実施されだ背景について論じたうえで、それ以降の経済政策への影響を説明しなさい。また、それが、なぜ、どのような理由から批判されるようになったのか」というもの。
 (1)世界恐慌の「背景」と、(2)「経済政策」はニューディール政策、(3)その後の「経済政策への影響」、(4)そして「批判」の理由、という4点が求められています。
 (1)背景
 株価の大暴落から書き始めても背景にはなりません。なぜ暴落が起きたかが背景です。
 背景になるのが、大量生産方式の採用と普及があり、作りすぎて在庫が増える一方でした。とくに農産物の在庫は腐ってしまうので価格暴落の先駆けとなりました。部品と生産工程の標準化、動力使用の増加、とくに動力源の電化などの技術革新の急速な進行も「大量生産」を支えました。
 また独占企業の支配が強化され、労働運動は衰退していいため、労働者の給与も伸びませんでした。株の配当は増えても、労働者に見返りは少ししかありませんでした。
 (2)政策
 世界恐慌の現象は求められていなので書かなくてもいいでしょう。つまり企業・銀行の倒産、貿易不振、株価暴落のことです。
 いきなり政策(ニューディール政策)に行けば、その具体例は教科書に書いてあります。全国産業復興法、農業調整法、復興金融公社(これはフーヴァーから継承したもの)、TVA、ワグナー法などです。
 (3)その後の政策
 ニューディールケインズ有効需要論を元にしたため、「大きな政府」の形成につながり、大規模な公共事業と社会保障を推進しました。それは戦後のトルーマンによるフェア=ディール政策、ケネディの「ニューフロンティア政策」、ジョンソンの「偉大な社会」など民主党政権に受けつがれました。
 (4)批判
 しかし石油危機やスタグフレーション(不況下のインフレ)、ドル危機も起き、政府の赤字が増え、経済全体の停滞も見られ、出口が見えないことから、これらの大きい政府の政策は批判にさらされました。福祉予算を削り、公共事業の民営化を断行する「小さな政府」がめざされ、規制緩和新自由主義が唱えられるようになりました。
 しかし今は世界中でこの新自由主義にノーの声があがっています。

第3問
問1 「民主化運動……1979年から1980年までの韓国における政治の動向」という狭い時間の問いです。すぐ思い浮かぶのが光州事件ですね(中谷まちよ『世界史ワンフレーズnew』パレードの語呂「光州、1199破8裂0)。朴正熙(パクチョンヒ)暗殺後に独裁政権をうけついだ全斗煥(チョンドハン)の民主化要求運動の弾圧事件です。2000人くらいの青年を殺しています。YouTubeでその運動と鎮圧のすがたを見ることができますし、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』にもなりました。

問2 (1)戦乱(1592〜1598年)の朝鮮側における名称は、壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱です。
 (2-1)この戦乱の展開過程は、日本側の侵略から始まり、鴨緑江まで進軍した後に、義兵の抵抗、李舜臣の亀甲船に敗北、李朝政府の江華島遷都、秀吉の死とともに撤退、という順です。朝鮮出兵については、大垣さなゑ著『征韓』(東洋出版)が詳細でありながら面白い大著です。
 (2-2)この戦乱が明に与えた影響は、明朝も宗主国として派兵し、経済的困難に陥り、東北で女真族の台頭を許すことになった、といったことです。

問3 下線部(c)に関して、「景福宮は、日清戦争開戦に先立って日本軍に占領され」という記事はきみの使っている教科書に書いてありますか? たぶん書いてないでしょう。今年から新科目となった「歴史総合」の教科書で山川の『歴史総合 近代から現代へ』では「日本軍が王宮を占領し、閔氏政権を倒して大院君政権を立て、清軍を排除する依頼を取りつけて、清軍への攻撃を開始した(日清戦争)」と。実教出版の歴史総合でも「農民軍が朝鮮政府と和解したことで,日本軍は派兵の根拠を失うが撤兵せず,朝鮮王宮を襲撃して開化派による新政権を樹立した。日本が朝鮮の内政改革を求めると,清や朝鮮の旧政権関係者は反発を強めた」と。
 内政改革は朝鮮政府の専権事項なのに、日本が押しつけがましく迫り、高宗に清朝撤退を要求させるなど、壬午軍乱(1882)の失敗以来軍費を増強して戦争の準備をしてきたため、どうしても戦争を起したかったのでした。それをよく表したのがこの王宮占拠です。
 さて問題の「1880年代から1894年までの朝鮮・清・日本の関係」は、狭い時間ですが、この間の事件としては、壬午軍乱(1882年、『ワンフレーズ(以後『ワン』)』語呂→「」痔後、ひと1882かしい)、甲申事変(清仏戦争と同年、『ワン』語呂→神仏交信、火1884る)、甲午農民戦争(『ワン』語呂→1894)、日清戦争(『ワン』語呂→日清焼そば、人1894)くらいですね。 
 「関係」は清朝間は宗主国朝貢国という従来からの関係があり、朝鮮内にこれを維持したい事大党と清朝から離れたい独立党の争いがあり、壬午軍乱で清朝は大院君を拉致し、朝鮮は親清に傾き、反発した独立派・金玉均親日の動きが失敗し、日清戦争の結果、下関条約で朝鮮は清朝から「独立」したことにりました。しかし、日本軍が駐留する、という形ばかりの独立でした。