世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

歴史地図で読むウクライナ史

1 ギリシア

 前8世紀頃からギリシア人の大植民時代に入り、ミレトス市・アテネ市などから黒海北岸に植民者が送り込まれた。地図上の●がかれらの植民都市を表しています。ギリシア人はオリーブ油、大理石、貴金属、宝石、織物類を輸出し、小麦・毛皮・奴隷などを輸入しています。ギリシア本土は小麦が十分採れないので、黒海北岸の小麦に頼っていました。当時からウクライナは「パン籠(かご)」でした。地図上の緑色の地域はギリシア人がつくったボスポラス王国の領域ですが、これは教科書には載っていない王国です。この王国は前1世紀にローマに従属しました。さて、ギリシア人の植民市の名前に、いかにもギリシアらしい名がついています。例えばオデッサ(オデーサ)はオデュッセイアが由来です。

2 スキタイ人の到来
 前8〜7世紀にかけて、黒海沿岸より北部の草原地帯にスキタイ人が現われ、ここにいた騎馬民族キンメリア人を追い立てて支配するようになり、南部沿岸のギリシア人と共存・対立をくりかえしました。北から南へ、森林ステップに居住し農耕に従事していた農耕スキタイの集団、これに従属した同じスキタイ人の農民スキタイ、沿岸に住む王族スキタイ、ステップに住む遊牧スキタイなどがおり、沿岸都市に住み商業や家内工業に従事していたギリシア人がいました。このように何層にも分かれていたようです。

3 ゲルマン人の起点
 印欧語族系のゲルマン人は元々北ドイツから以北に住んでいたのが、各地に南下して住みつきます。ウクライナにはゴート人が来たり、3世紀に東西に分かれて活動するようになります。西のゴート人はドナウ川に行き、ローマ帝国と国境を接し、ボスポロス王国を滅ぼします。4世紀に、フン人(指導者アッティラ)→東ゴート→と押されて、ローマ帝国領内に入り込みます。その後、西ゴート(指導者アラリック)はイベリア半島(スペイン)まで行って建国し、東ゴート(指導者テオドリック)はイタリア半島で建国します。

4 フン人・アヴァール人・ブルガール人
 東から西への民族移動の波は絶えることなく襲ってきます。フン人の西走とともに、6世紀半ば東からアヴァール人、7世紀ころにはヴォルガ川流域からブルガール人がこの地に侵入します。かれらの最大版図を示したのが上の地図で、線が重なっていますが、世紀がちがいます。ただし併存した時期もあります。
 6世紀 アヴァール
 7世紀 ブルガール人
 8世紀 ハザール人
 「ハザール人(ハザール国)」のことは教科書に載っていませんが、これはトルコ系の国でユダヤ教を国教にした国です。
 6世紀から入ってくるアヴァール人は柔然(モンゴル系?)が突厥に倒されて西走してきたものと見られ、7世紀、東ローマ帝国に侵入したが敗れ、8世紀、カール大帝との戦いにも敗れて(799年)他民族に同化したようです。
 ブルガール人はもちろんブルガリアの先祖です。ビザンツ帝国との戦いながら、バルカン半島で建国していきます。第1次ブルガリア帝国(893〜1018)、第2次ブルガリア帝国 1187〜1393)ができます。ゆっくりスラヴ人と同化していきます。

5 東スラヴ人
 ポーランド東南とウクライナの西北部がスラヴ人の原住地と考えられています。それが6世紀頃から西に、南に、東に移動・移住します。6世紀ということは、上の地図4と重なっています。西はポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人です。南はユーゴスラヴィア(南スラヴ)ともいうスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、スラヴ化したブルガリア人などを指します。
 これらの人々が、上記のアヴァール人、ハザール人、さらに9世紀にはマジャール(ハンガリー)人の襲来を受けながら、この地域に浸透していきました。通り過ぎる遊牧民たちに貢納しながら生き延びたようです。
 遊牧民たちは一時的に強大な軍事的力で押さえつけても、経済的文化的に遅れた民族であり、どの国も永続することもなく、土着の先住民族によって壊滅されたり同化されてしまいました。

6 キエフ(キーウ)・ルーシの成立
 ウクライナを侵略したプーチンは、ロシアの起源は「キエフ・ルーシ」であり、ロシアはウクライナと共通の歴史をもつ兄弟であり、一つの民族である、と侵略を正当化するため、偽りの歴史を述べています。
 偽りの第1点は、この国を建国したのは東スラヴ(ロシア)人でなく、ノルマン人というゲルマン人の一派であること、もっと厳密にはスウェーデンのノルマン人(ヴァイキング)であること(教科書のノルマン人移動図を見よ)、第2に「ロシア」という語句の由来は「ルス(ルーシ)」で、これは外来のノルマン人を呼んだスラヴ人からの呼称であること、つまりロシアという語句は今のロシアを指さず、外国人を意味していたこと、第3に、キエフ・ルーシという国家が建国した頃、モスクワという都市自体が存在しないこと、などを挙げることができます。モスクワはこのキエフ・ルーシが衰退した12世紀後半から初めて歴史に現われてきます。
 東スラヴ人は(大)ロシア人が現在のロシアを構成する人々、ウクライナ人が小ロシア人とも呼び、ベラルーシ白ロシア人とも呼んでいますが、「小」ロシア人というう呼び方は、大ロシア人の「大ロシア主義」による蔑称です。ポーランド分割の後に行政区として「小」を付けた呼び方をします。しかしこの後の歴史を見れば、この小ロシア人に大ロシア人は養われて生きていった、と言えます。
 ヴァイキングの首長リューリクが南下してノヴゴロド国を建て(862)、さらに親族のオレーグがキエフ公国を建国します(882、中谷 まちよ『ワンフレーズnew』(パレード)の語呂→信子862882)。ビザンツ帝国との交易で栄えます。双方の関係は、ウラディーミル大公が正教(東方正教会)に改宗した(988)時点で頂点にたっします。ただ、このキエフ公国(キエフ・ルーシ)は中央集権国家ではなく、諸民族・諸公国の寄せ集めであり、巡回徴貢によって一つにまとまっていました。また少数ノルマン人は、多数の東スラヴ人と混血して民族性は希薄になっていきます。

7 キエフ公国の分裂
 13世紀になると、キエフ公国の諸公国が、ゆるい連帯を組んでいたのが崩れ、分裂が露になります。また諸公国の内部でも紛争がおき、外からの脅威にたいして、一致して対抗することができなくなります。外からの脅威とは、スウェーデンリトアニアドイツ騎士団などです。最後はモンゴル人の侵入に敗れていきました。

8 キプチャク=ハン国
 分裂したキエフ・ルーシにモンゴル人が襲撃してきました。オゴタイ=ハンの命で西征軍総司令官となったバトゥが指揮します。ポーランド西南部のワールシュタットの戦い(1241)に勝ち、バルカン半島まで南下しましたが、オゴタイ=ハン病死の報で撤退し、ウクライナとロシアにキプチャク=ハン国を建国しました。このバトゥの襲撃・殺裁・破壊・略奪のすさまじさは、プラノ=カルピニが『蒙古旅行記』(光風社出版、p.37〜38)で、1240年に陥落したキエフについて、「タルタル人(注:モンゴル人のこと、タルタル/タタールラテン語で地獄の意味)は……ロシアの首都キエフを囲み、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました」と記しています。
 以後24O年にわたって支配されます。このことを「タタールのくびき」といって、牛馬の首にあてる横木「くびき」で引っ張られる、つまり従属下に置かれたことを意味します。
 従属は、従来通りの諸公の支配は認められたので、間接統治となりますが、監督官バスカク(トルコ語で「抑圧者」の意味)が主となって徴税・徴兵に回ってきます。十分の一税で、財産がその対象となり、基本は土地ないし農産物を徴収されます。人間も労働力・奴隷として連れ去ります。
 諸公たちはカラコルム詣(もうで)、首都サライ詣が義務づけられ、そこで屈辱的な扱いをうけ、抗議すると殺害されます。100年間で20人以上の諸公が殺されました。

9 キプチャク=ハン国の分裂
 過酷な課税と人間の強制連行のために、各地で衝突がおきました。それでバスカクでなく、諸公に徴税を任せる制度に変ええていき、サライの勢力は衰えていきます。サライに代わって勢力をもちはじめたのがモスクワでした。1330年頃、イヴァン(・カリタ「金袋/徴税者」の意味)1世はモンゴル監督官の代理としてタタール税の徴収者となり、サライの承認を受けて勢力をもちだしました。
 この頃、西方からリトアニアポーランドが台頭し、イヴァン1世のモスクワ大公国ポーランド王国リトアニア大公国とが分立した状態になります。
 この時期に、キエフ中心の「ルーシ」はウクライナ人となり、「大」ロシア人はキエフ公国領北東部のいくつかの諸族から成立し、北には白ロシア人という、東スラヴの三民族の民族意識(アイデンティティ)も言語も成立します。史家は、ウクライナ民族は9〜11世紀、大ロシア民族は12世紀から、ベラルーシ民族は14世紀中ごろから形成されはじめた、と順番に説明しています(『世界史歴史大系・ロシア史2』山川出版社、p.175)。この点でも、モスクワの登場が遅かったように、ウクライナ人が先で、ロシア人は後です。
 この時期、キエフモスクワ大公国領ではなく、リトアニア領にあります。リトアニアキエフを奪ったのは1363年でした。

9 リトアニアとモスクワ
 リトアニアポーランドと合体して、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝リトアニア=ポーランド王国(1386年、『ワン』語呂→野下郎はあん1さん386)を築いたのは、対ドイツ騎士団の為でした。騎士団を服属させただけでなく、さらに南下して、14世紀にはリトアニア軍は二度もモスクワにせまっています。15世紀にはウクライナの大半(5分の3)を征服するまでに膨張しました。リトアニア王は「リトアニア人とロシア人の王」と称し、当時のヨーロッパ最大版図をもった国です。
 キエフ・ルーシ時代からの貴族は、リトアニア貴族と婚姻関係を結ぶことで、リトアニアの貴族となり大土地所有者としての地位を維持しました。
 西欧で農奴解放がすすむ中で、この東欧地域はかえって農奴制がすすみ、領主たちは農産物・材木を西欧に売ることで利益をあげました。「東欧の向背地化」といわれる現象です。大農園の経営者としてユダヤ人の移住が奨励されたのはこの頃でした。
 宗教的には正教の力が弱まり、カトリックに改宗するウクライナ人も増えていきます。
 東から膨張するロシアは、1667年にキエフ支配下におきました。

10 コサックの自治国家
 これは教科書に載っていない国家です。「コサック」については主にロシア領のコサックについて、ステンカ=ラージンの乱、プガチョフの乱で教科書は解説していますが、このウクライナ・コサックについては書いてありません(ロシア領であった時代に、北方戦争があり、キエフの東にあるポルタヴァでロシアとスウェーデンの決戦が1709年におきています)。
 このウクライナ・コサックが先に形成されて、一部が東部のロシアに移ったものです。初めはカトリックポーランドの支配から逃れた農民や下層貴族からなる集団で、現在のウクライナの中心部で集団を形成したひとびとです。このコサックたちも度々反乱をおこし、1648年からはじまった反乱は、1649年にポーランド・リトアニア共和国と休戦が成立し、自治政府ができました。これはヘトマン国家(ヘトマンシチナ)と呼ばれる独自の軍隊と外交を備えた自治国家の誕生でした。
 「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者/放浪者」、チュルク語で「自由な人」も意味します。1648年の乱を指導したボフダン・フメリニツキーウクライナの民族的英雄で、首都キエフには彼の銅像の立つ広場があります。彼の方針は「自由と平等」でした。
 しかしこの自治も少しずつ制限されていきました。

11 ポーランド分割
 プロイセンオーストリア・ロシアの三国によるポーランド分割です。第一回は、すでにロシアの属国のようになっていたポーランドにたいして他国も食指を動かして取ろうとしていたので、戦争回避のために「分割」という手段をとりました。サンクト=ペテルブルクで三国協定を結んだ上で、エカチェリーナ2世のロシア軍はポーランド軍の抵抗を打ち砕きながら進撃しました。
 20年後、第二回はフランス革命の影響をうけたポーランド立憲君主国になる可能性が出できて、これを嫌ったロシアのエカチェリーナ2世プロイセン軍とともにコシチュシュの抵抗を破り分割します。
 第三回はオーストリア継承戦争も参加して三国による分割となり、ポーランド国王を強制的に退位させて、ポーランドという国家を抹殺しました。この結果、ウクライナの8割がロシア領となり、2割はオーストリア領となります。
 三回の分割は、1772年、1793年、1795年です(『ワン』語呂→ポーラ、どん17729395)。
 エカテリーナ2世は、農民の移動の自由を禁止して農奴にし(1783年)、コサック将校にはロシア貴族と同様の特権を与えましたが、次第にその権力・土地を削っていき、コサック連隊を解散させて、ついにヘトマン国家も消滅しました。ウクライナ南部に女帝は植民政策を展開し、その小麦はロシア帝国を養いました。
 なおエカチェリーナ2世クリミア半島に残っていたキプチャク=ハン国の後継国家たるクリム=ハン国を併合し、セヴァストーポリ(セバストポール)要塞を築いています(1783)。

12 19世紀ウクライナ
 ナポレオン戦争の最中に、ロシア軍は南西のベッサラビアと北のフィンランドに侵入し、それをナポレオン1世にも、戦後のウィーン会議でも認められました。
 ほぼロシア領となったウクライナにおいて、この19世紀に見られる特徴は、工業化と民族主義です。工業化は世紀末にロシアにも資本主義がおき、ウクライナ東南部は帝国最大の工業地帯を形成し、そのため多くのロシア人も住みつきました。この19世紀も穀物とともに工業面でもロシア経済を支えたことは変わりません。
 前者の民族主義は、西方オーストリア支配下ウクライナは、西欧に近いだけに地域は狭いながらもナショナリズムがおこります。また東部のウクライナ本土でもナショナリズムは盛んでした、1825年のデカブリストの反乱は首都サンクト・ペテルブルグだけでなくウクライナでも起こりましたが鎮圧されました。
 ロシア同様にインテリゲンツィアという新しい階層の下で民族主義は育まれます。1805年にハルキフ大学、次に1834年キエフにも大学ができます(ウクライナ最初の大学は、1661年設立のリヴィウ大学)。
 世紀前半に名をあげたのはウクライナの国民的詩人となるシェフチェンコ(18014〜1861)です。かれはウクライナ民族主義独立運動の象徴的存在となったので、その銅像キエフ大学に建っています。
 かれの刺激で民族主義団体がいくつもできたために、ロシア帝国政府は、ウクライナ語の教科書・宗教書の出版を禁止し、ウクライナ語書物の輸入の全面禁止、講演でのウクライナ語使用の禁止、ウクライナ語新聞の発行禁止、小学校でのウクライナ語による教育禁止、ウクライナ語書物の学校図書館からの追放と締め付けていきました。それだけ民族主義が高まっていることを示しています。
 日露戦争中の1905年1月ウクライナ出身の聖識者ガボン神父に率いられてサンクト・ペテルブルグで平和裏におこなった請願運動は多数が死傷者をだす「血の日曜日事件」となり、各地にストライキが頻発しました。戦艦ポチョムキン号の反乱はハルキフ生まれのマティウシェンコに指導された水兵たち(大部分がウクライナ人)でした。
 教科書はウクライナ民族主義については一言も書いていませんが、民族主義はずっと生きていました。本村凌二(東大名誉教授)はウクライナについて「長きにわたる独立運動の末に勝ち取ったものではありません。言わば、ソ連の崩壊により「棚ぼた式」に国家として独立することになりました。」と発言しています(ダイヤモンド・オンライン、5月8日)。
 だいたい、他民族に支配されて民族主義民族主義運動・独立運動の起きない民族って、どこかに居ますか? これでも歴史家ですかね?

13 ロシア革命ウクライナ
 第一次世界大戦ではオーストリアウクライナ人はロシア領ウクライナ人と戦うことになりました。そして大戦の劣勢からロシア革命が起きます。
 キェフに二月革命のニュースが伝わると、3月ただちにウクライナの諸団体の代表が集まり、「ウクライナ中央ラーダ」を結成します(「ラーダ」は会議、評議会を意味するウクライナ語で、ロシア語の「ソヴィエト」に相当します)。1918年、中央ラーダが定めた国旗である青と黄の二色旗、国歌、ウラディーミル聖公の「三叉の鉾」国章も定められ、これが現在のウクライナの国旗・国歌・国章でもあります。モスクワ大公国の臨時政府が倒れると、「ウクライナ民共和国」の創設を宣言します。
 しかし、このウクライナ民共和国は共産主義の国家ではなく、民族主義的な国家であるため、レーニンの指導するボリシェヴィキと対立、レーニンは武力でウクライナを奪い取ることにします(ソビエトウクライナ戦争)。敗北した国民共和国はオーストリアに亡命したり、白軍に入ったりしました。ロシアに協力した人々はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国をつくります。
 首都がモスクワに遷ったロシア政府に従属した衛星国として再出発します(1922年、『ワン』語呂→ソ連、凍1結92人2)。
 この1922年の時点では、クリミア半島にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国ができており、ウクライナに移管されたのは1954年でした。
 スターリンの権力掌握とともにウクライナ自治は狭まっていき、ついにはモスクワに完全に統制され、ソ連の一行政単位になっていきます。そして豊かな穀倉地帯であるウクライナで大飢饉が起きました。これは人為的な飢饉としてホロドモールと呼ばれます。
 機械輸入に必要な外貨を稼ぐため穀物を輸出する必要があり、その手段が、1928年に始まり1929年から強制的になった「農業集団化」でした。農業の集団化とは、これまで自分の土地を耕して自活していた農民を国営農場(ソフホーズ)または集団農場(コルホーズ)に入れてその一員とすることです。農民を国家の小作人にしてしまう政策でした。
抵抗する者は逮捕され、シベリア送りになり、また自活農が成り立たないよう高率な税を課したり、種々の嫌がらせをしました。さらに「クラーク(富農)」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民の中のブルジョワであり、農民階級ひいては人民の「敵」であるとして土地を没収されたり、収容所(グラーグ)送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けます。日本人が朝鮮半島でおこなったように、農家の一戸一戸を回り、床を壊すなどして穀物を探しました。飢えていない者は食物を隠していると思われます。食物を隠している者は社会主義財産の窃盗として死刑とする法ができました。その結果、正確な数字は分りませんが、400万から1450万人以上が亡くなった、とみられています。人為的なウクライナ人殺戮でした。今でも死体の大量発掘のニュースが新聞に載ります。

14 独ソ戦
 独ソ戦(1941〜45)でナチス・ドイツを追撃したロシア・ウクライナウクライナの人口の約6分の1にあたる約530万人が死亡という戦禍をもたらしました。対独パルチザン活動はナチス・ドイツウクライナ侵入後まもなく始まっています。いくつもの「ウクライナ蜂起軍」 (UPA)が組織され、43年には統一組織になりました。しかしナチスと戦った後は反撃したソ連軍との戦いもしなければなりませんでした。ソ連はこの抵抗軍をナチスとの手先とみなします。数にまさるソ連軍に撃破され、44年10月にはウクライナ全土がソ連支配下に入ります。
 フランスの歴史家でエマニュエル・トッドは次のように解説しています(『第三次世界大戦はもう始まっている』文春新書)。

 そもそも第二次世界大戦時に、みずから多大な犠牲を払ってドイツ国防軍を打ち破り、アメリカ・イギリス・カナダの連合軍による「フランス解放」を可能にしてくれたのも、ソ連でした。ソ連は、2000万人以上の犠牲者を出しながら、ナチスドイツの悪夢からヨーロッパを解放するのに、ある意味でアメリカ以上に貢献したのです。ところが、冷戦後の西側は、その歴史をすっかり忘却してしまったかのような振る舞いをロシアに対してきました。

 実に馬鹿な解説です。理由は、(1)ドイツ軍を招いた一因は、ナチスと協力して独ソ不可侵条約を結び、それがナチス軍を準備させ、ポーランドソ連領内に入りやすくしたのはソ連です。(2)また「2000万人以上の犠牲者」の一因もスターリンによる赤軍の粛清(しゅくせい)です。元帥・国防担当の人民委員代理・軍管区司令官・師団司令官のほとんどを殺し、将校の半分以上が銃殺しました。軍全体が機能不全に陥ります。(3)また武器貸与法(レンドリース法──ウィキペディアの「レンドリース法」を見よ)による武器供与と食糧援助がなければドイツ軍を追撃することは不可能でした。トッドはさもソ連軍単独でドイツをやっつけたかのように書いていますが、無知です。
 スターリングラード攻防戦時には、ソ連はトラック・ジープなどが徹底的に欠乏しており、アメリカ製のトラック・ジープがなかったら兵站(へいたん)が成立しませんでした。終戦までにソ連軍に配備されたトラックの3分の2はアメリカ製でした(山田順・ヤフーニュース、5/7)。

15 プーチンウクライナ襲撃
 これまでのウクライナ史を見てきて分かるのは、ロシアはウクライナ穀物・機械・精神(キエフ正教)に育てられながら、ウクライナ人を犠牲にして、換言すれば、血を吸って太った吸血鬼にひとしい歴史です。
 1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第四号炉が爆発しました。広島型原爆500発分の放射能が広がり、ウクライナ全体が汚染します。
 この原発事故も刺激となってペレストロイカ運動がおき、ソ連邦の解体がすすみ、各共和国の独立が促されました。
 1990年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票が行われ、90.2%が独立に賛成します。ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザボリッジア、ドニプロペトロフスクの各州でも80%以上が賛成、ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54%と過半数を上回りました。ソ連崩壊とともに、正式に1991年独立しました。
 しかしここにソ連の復活をねらうプーチンという吸血鬼が襲ってきました。すでにチェチェン(1999)に、グルジア(2003)に、シリアのアサド独裁政権援助などで軍事介入(2015)をしてきました。彼はグルジアの紛争はアメリカが起こしたものだという嘘で介入しています。
 ウクライナNATO加盟をめぐる粉糾が起きている機会を利用して、ウクライナ東部のドンバス地方(ドネツィク州とルハーンシク州)に親露派に蜂起させ介入をはじめ(2014)、さらにクリミア半島にロシア軍を侵入させて併合しました。そしてクリミア自治共和国の独立を宣言させます。プーチンはロシア軍を派遣していない、地元の自警団だ、と言いましたが誰でも分かる嘘でした。クリミアを併合した後も「ウクライナ国家の領土的統一性を尊重してきました……分裂を望みません」と更なる嘘を重ねました。その上で2022年2月24日、ウクライナ北部から全土におよぶミサイル攻撃を開始しました。
 2022年7月の時点で、民間人の死者5110人、負傷者6752人、攻撃された教育施設は2129件にのぼります(朝日新聞)。
 この攻撃について、ロシアを弁護するひとたちがいます。プーチンを悪人呼ばわりすべきでない、NATOが原因であり、アメリカがやらせている戦争だ、という訳です。オリバー・ストーン映画監督、「ロシアを悪者にすることは簡単」という河瀨直美監督、想田和弘監督、史家のトッド、史家の孫崎享アメリカの言語学者ノームチョムスキー国際政治学者の羽場久美子、豊永郁子、エディターの兼松聡子、政治家の鳩山由紀夫鈴木宗男山本太郎などです。この人たちの言説の特徴は、ウクライナ側の被害(ブチャの虐殺、病院破壊)のことは口にせず、話し合い・停戦交渉をくりかえして言うことです。それをやりつつ抗戦しているのがゼレンスキーなのに。橋下徹のように降伏しないから被害が大きくなった、と頓珍漢なことをわめく吾人もいます。なにかラスプーチンの催眠術にかかっているようで、催眠の内容は、わたしは二項対立に陥らない、わたしは偏っていない、わたしは中立だ、わたしは双方ともよく知っている、わたしは客観的だ、といった態度です。なんのことはない倫理観の欠けた傍観者です。
 この傍観性を暴露するために、この人たちの家を襲うのがいいのではないか……、するとかれらは次のように弁護してくれるに違いない。
 どうぞ好きなようにやってください、わたしの家を襲うなんて、民間施設……もしかして自衛隊のひとが寄ったかもしれません、軍事施設しか攻撃してないとプーチンさまは言っておられますし、ミサイルで家が瓦礫になっても、あなたを告発なんてしません、わたしの家族が難民になっても、あなたを悪人なんて言いません、ああ、正教の神さま助けてください!

(この記事は黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書から学ぶところが多く書いたもの、著者に深謝)