世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

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2023年度の再現答案

2023年度再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
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東大2023
第1問
Aさんの答案
ヨーロッパ。仏では専制君主制が革命により倒れ、共和政が成立した。以後幾度か王政・帝政が復活することがあったものの、19世紀末の第三共和制成立後は議会制民主主義が成熟していった。英では先の仏革命の影響を受けた自由主義的な改革の中で選挙法改正が行われ、第一次大戦後には仏とは異なり女性も参政権を持つまでに、議会制民主主義が発展した。一方、統合の遅れた伊・独は二月革命の影響を受けて統一運動が高揚し、ハプスブルク家との対決の末、統一された専制的な立憲君主国家となった。第一次大戦に敗れた独はヴェルサイユ体制の中、変革を強いられ、共和制に転換し、帝国議会も共和国議会に改称された。またロシアでは専制君主制が採られていたが、革命を経て社会主義国ソ連が成立した。南北アメリカ。13植民地では、アメリカ独立革命を経て、合衆国が成立した。合衆国では三権分立と州権主義の下、民主主義の基盤が拡大し、白人男性のみならず、女性の普通選挙権が認められる州もあった。一方南アメリカでは植民地支配から、シモン=ボリバルらが主導し、白人植民地人層らによって多くの独立国が誕生したが、その多くが地主層基盤の軍事政権化した。東アジア。列強の進出を受けた清朝立憲君主制国家を目指す光緒新政を試みたが、革命が勃発した。これにより共和制の中華民国が成立した。日本は独に倣った大日本帝国憲法を定めて専制的な立憲君主制国家を目指した。

Bさんの答案
日本。武士政権の江戸幕府だったが、1868年に立憲君主制明治維新になり、大日本帝国憲法を制定、議会を開設したが、制限選挙だった。中国。皇帝独裁の王朝だったが、光緒親政で議会開設、責任内閣制を導入し、辛亥革命で共和政となった。アメリカ。英植民地下で自治を行っていたが、アメリカ独立革命で独立して共和国となり、三権分立主権在民に基づく合衆国憲法を制定した。1830年代に白人普通選挙が実現し、1920年に女性に参政権が与えられた。南アメリカ。シモンボリバルなどクリオーリョが中心となって、絶対王政のスペインから独立して多くが共和国となったが、地主の寡頭政治だった。メキシコは革命によって1917年に民主的な憲法を制定した。イギリス。立憲君主制の下で責任内閣制が発達し、選挙法改正によって選挙権が拡大した。フランス。絶対王政だったが、革命で倒され、共和政、帝政、七月王政を経て、2月革命で共和政となるもの帝政になり、普仏戦争後第三共和制となり、憲法が制定された。ドイツ。帝国議会があったが、首相が実権を握る帝政で、1923年にヴァイマル憲法が制定されて共和政となり、男女普通選挙が実現した。ロシアは帝政から社会主義に、オーストリアは帝政から共和政となった。二つの帝国崩壊によって、ベルサイユ体制で民族自決が適用され、スラブ人が独立し、王政や共和制になったが、議会政治は安定しなかった。

 

一橋2023
第1問
百年戦争発生直後、ヴァロワ朝は成立したばかりで国内には敵対する諸侯も存在した。特に北部にそのような諸侯が多く、ブルゴーニュ公とフランドル伯がその筆頭であった。この2領は15世紀初めにイングランドと同盟を結びフランス国王を攻撃した。一方で国王側にはアルマニャック公などがつき、この間フランスは内戦状態だったといえる。またイングランドボルドー周辺に領地を持っており、フランスの諸侯と言うこともできる。故に百年戦争は単なるイギリス対フランスではなく、フランス内部の対立も考えねばならない。百年戦争の結果、フランスが勝利したため反国王諸侯の勢力は大きく後退した。加えてカレーを除くイングランドの大陸領を排除したことで、中央集権化が大きく進んだ。フランス王権が国内をほぼ統一したため、王国は拡張先を求めイタリアに向かうこととなる。
第2問
Aポルトガルでは1930年代からサラザールによる独裁が続いており、アフリカやアジアの植民地も保持され続けた。しかし1970年代に軍の無血クーデターが成功し民主化が達成されると、他の欧州国家に倣い植民地が解放され、モザンビークは独立した。その後ソ連が支援する共産勢力が内戦で勝利した。Bイギリス領南アフリカでは南アフリカ連邦と同様にアパルトヘイト政策が行われていたが、国際的な非難から撤回することとなった。これに対し現地の白人は反発しローデシアとして独立して、アパルトヘイト政策が実施された。白人の勢力が衰えると、黒人の発言力が増した。その後ローデシアは分裂し、その後ローデシアは分裂し、ジンバブエが独立した。
第3問 
17世紀から18世紀に結ばれたネルチンスク条約とキャフタ条約は両国の国境問題に対処するためであり、両国の立場は対等だった。しかし19世紀になるとロシアは南下政策を推進し、愛琿条約・北京条約はロシアに有利な形で結ばれ、アムール川流域を獲得した。また三国干渉で日本に遼東半島を清に返還させ、同地の大連・旅順を租借した。しかしロシア革命でソヴィエト政権が誕生するとカラハン宣言が発され、帝政ロシア時代の清との不平等条約の撤回が宣言された。中国では『新青年』を通し民衆の共産主義への関心は高まっていたが、孫=ヨッフェ会談で孫文共産主義には反対したものの党による統治が国家統一の手がかりになると感じた。孫文は連ソ・容共・扶助工農を宣言し第一次国共合作を形成すると共に、黄埔軍学校にソ連式の軍教育を施した。また在華紡での中国人労働者殺害への抗議でのデモやストライキのように労働運動が反帝国主義運動の一つとなった。