世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2023年度・共通テストの解き方

2023年度・共通テストの解き方
問題文は以下のサイトから手に入れてください。
https://edu.chunichi.co.jp/site_home/center/pdf/2023sekaishi-B_q.pdf

第1問
 女性参政権について、第一次世界大戦に出征した男性に代わって女性が工場などで働く→女性参政権、という文脈で選挙権が実現したことを語るのが日本の教科書の筋書きです。しかしこれは女性たちが18世紀末からこの選挙権獲得の運動をしてきており、それを無視した失礼な内容です。 
 一橋の2010年の過去問に「女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった」」という導入文がありました。この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州ミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 18世紀末はフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。
 2010年の東大の第1問「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」というものでした。20世紀だけの運動しか知らないのでは、東大の問題は解けません。この問題では、先生と生徒の会話も20世紀に限定されています。出題自体が時代遅れです。
 日本でも19世紀に運動家がいました。楠瀬喜多さんです。→
https://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm

問1(解答番号[1]) 文章中の空欄[ ア ]の国とは、導入文が「フィンランドは19世紀に、当時帝国だった[ ア ]の領土」とあるので、隣のロシア・ソ連の領土ということになります。
 ① 北方戦争の敵は「イギリス」ではなくスウェーデンです。フィンランドはロシアがウィーン会議で得ています。
 ② 「両公国を失った」という歴史はデンマーク戦争の歴史(両公国へのデンマークの南下を阻止した普墺の抗戦)です。
 ③ ピウスツキ独裁とあればポーランドの歴史。
 ④ 21世紀に入ると、中国などとともにBRICS(BRICs)と呼ばれた。……これが正解BRICSとは、Brazil, Russia, India, China に南アフリカ共和国 (South Africa) を加えた表現です。この語句を知らなかったとしても①〜③の消去法で解けます。 

問2[2] 下線部(a)「多くの国や地域を巻き込んだ第一次世界大戦」についての正誤問題。
 ① オスマン帝国が、協商国(連合国)側でなく、同盟国側でした。独墺ブルガリアの3国につづくオスマン帝国は「斜め」につらなる4国が同盟国側です。地図で確かめましょう。
 ② フランス軍でなくドイツ軍が、タンネンベルクの戦いでロシア軍の進撃を阻んだ、です。あるいは、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍の進撃を阻んだ。
 ③が正解。インドに自治の空約束をして徴兵し、インド兵は犬死にとなりました。
 ④「レーニンが」でなく「米大統領ウィルソンが」です。十四か条の平和原則は民族自決を唱えたので有名ですが、レーニンはウィルソンの言う前の17年に「平和に関する布告」ですでに唱えていました。

問3[3] 生徒たちがまとめた次のメモの正誤。
 室井さんのメモ
 ニュージーランドでは、自治領となった後に女性が全国レベルの参政権を獲得した。……白人支配が明白なところから自治が認められていきますが、最初はカナダ(1840)、次はオーストラリア(1901)、そしてニュージーランド(1907)、南アフリカ(1910)という順です。地理的にはジグザグです。オーストラリア(1901、語呂は「オーストラリア、人ひと1901」これは中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』パレード、以降『ワン』で省略)の後だろうなという予想はできます。
 渡部さんのメモ
 第一次世界大戦……1918年に初めて女性参政権が認められた。この文章は問題ないです。なにしろ「佐藤:1918年にはイギリス」と発言しています。これは第四次選挙法改正で、男子は21歳以上の全員が持てました。だから②が正解。戦争中にもかかわらず女性たちは、19世紀につづいて選挙権獲得運動を行ないました。
 佐藤さんのメモ
 アメリカ合衆国では第一次世界大戦末期のキング牧師による公民権運動……キング牧師の運動は第二次世界大戦後の1960年代です。公民権法が成立したのは1964年です(『ワン』語呂→「公民、1964)

 
問4[4] 文章中の空欄[ イ ]に入れる語句として最も適当なものを選べ。……「6世紀後半」に中国北部にあった王朝はどれ? という問いでもあります。またこれは資料の「平城に都が置かれていた時代」という語句もヒントになります。
 ① 西晋を滅ぼした匈奴の風習……確かに匈奴は4世紀に洛陽を都にしていた西晋永嘉の乱で陥落しますが、五胡十六国時代(316〜439)には鮮卑に支配者は代わっています。
 ② 北魏を建国した鮮卑の風習……初めは史料の「平城」に都を置いていたのが5世紀に洛陽に遷都し、6世紀には西魏東魏に分裂し、それが北周北斉に受け継がれます。6世紀前半までは、華北の統一が保たれていました。北魏華北統一(『ワン』語呂、北魏439)か、孝文帝の均田制(『ワン』語呂、均田は485)を覚えておくと良いです。これが正解
 ③ 貴族が主導した六朝文化……南朝中心の文化を指します。
 ④ 隋による南北統一は6世紀末です(初めは華北統一、そして華中華南も征服して統一、『ワン』語呂、隋こ5わ8い1、こ5わ8く9ないと統一)。

問5[5] 「中国に女性皇帝が出現する背景」とは、という問に妥当な文章は、
 ① 唐を建てた一族が、北朝の出身であった……が正解。というのは隋唐両王朝とも鮮卑系だからです。則天武后鮮卑系です。
 ② 古い家柄の貴族から科挙官僚へ移るという移行を進めたのは則天武后ですが、といって官僚が皇帝になるわけではありません。(『詳説世界史』→則天武后が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことは、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移ってくる一つの転機となった)
 ③ 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた……これは女性の地位低下につながるかどうか不明です。
 ④ 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施されたのですが、「漢化」は男性優位をもたらすはずです。第二の武后になるべく、毛沢東亡き後は江青が後継者になろうと武后を褒めたたえる運動を展開しましたが、皇帝にはなれませんでした。武后が稀な例であったことが判ります。

問6[6] 下線部(b)「この時代以降の儒学」について述べた文として最も適当なもの……ということは唐以降の儒学ということです。
 ① 世俗を超越した清談が流行した。……魏晉南北朝時代なら該当します。
 ② 董仲舒の提案……前漢武帝代の儒者です。
 ③ 寇謙之が教団を作り、仏教に対抗した。……北魏・太武帝の顧問で道教国教化につくした人物。
 ④ 『五経正義』が編纂され……これが正解。孔穎達が太宗の命で編纂したもの。

第2問 

問1[7] 家系図を参考に。
 ① 右の図柄は、上の対話中「左の図柄は、……クレシーの戦いの図版」と百年戦争初期の戦いであるクレシーの戦い(1346)と説明しているので、左右が逆になっています。
 ② 左の図柄は、アンリ4世カペー朝とつながりがあることを表している。……これは上段の先生の説明「この図はアンリ4世から始まる王朝で使用されるようになる紋章」とあるので、これが正解です。対話文をなぞるだけの問題で、これは思考力と関係しているのか疑問。
 ③ 二つの王家の「統合」ではなく、「血筋」の繋がりを表している、とは言えます。
 ④「ナバラ王位」は系図では「ジャンヌ=ダルブレ
(1572年までナバラ女王)」という母方を継承したことを表しているので「父から」は間違いです。

問2[8] 下線部(a)「ユグノー」に関連……プロテスタントについて、という問題。
 ① サン=バルテルミの虐殺により、多くの犠牲者が出た。……この文章が正解ユグノー戦争中の出来事として教科書に必ずといっていいほどに虐殺図が載っています。
 ② ツヴィングリはスイスの改革者。ドイツ農民戦争はミュンツァーが指導者。
 ③ 国王至上法(首長法)の制定はヘンリ7世でなく「8世」が正しい。
 ④ イグナティウス=ロヨラが.イエズス会を結成した……これはプロテスタントでなくカトリック側の反宗教改革の一環。パリで結成されました。

問3[9]
 [ ア ]に入れる人物の名は対話文の「宰相マザランが死去した後親政を始めた」とあるのでルイ14世ルイ13世の宰相リシュリューと区別するために、★ザコンの14世、と覚えます(拙著『センター世界史B各駅停車』以降は『各駅』と省略、→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)。
 [  イ  ]に入れる文、とは「国家財政の問題を解決する手段として使います。当時、」とあるので、「X ネッケルによる財政改革」というフランス革命直前のことではありません。「
Y 度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」が該当します。正解は②
 ルイ13世ルイ14世ルイ15世ルイ16世の時に革命です。

B 
問4[10] 空欄[ ウ ]の王朝が10世紀に支配していた半島の歴史の空欄は「半島(イベリア半島)」や、資料1の「私たちウマイヤ家」から「後」ウマイヤ朝だと推理できます。これがハッキリしないと問題は解けません。
 ① ルーム=セルジューク朝ができた場所は、現在のトルコ、アナトリア地方です。スペインのあるイベリア半島ではありません。「ルーム」=セルジューク朝とはセルジューク族の一派で、後にオスマン帝国をつくる起源となった王朝です。
 ② この半島における最後のイスラーム王朝となるのは「ムラービト朝」ではなく、ナスル朝グラナダ王国です。
 半島のイスラーム王朝は、ウマイヤ朝後ウマイヤ朝ムラービト朝ムワッヒド朝ナスル朝の順です。覚え方は★ウウ、ムム何するん?(拙著『各駅』p.150に載っています)
 ③ ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。……これが正解
 ④ この半島はアラビア半島です。

問5[11] 下線部(b)「カリフ」の歴史。
 ① 預言者ムハンマドが死亡すると、アブー=バクルが初代カリフとなった。これが正解。アブー=バクルはムハンマド(53歳)の幼妻アイーシャ(6歳)の父親です。
 ② アブデュルハミト2世(在位が1876〜1909)は、カリフ制を廃止(1924)したカリフではありません。カリフがカリフを廃止することもありえません。ハミト2世はミドハト憲法が制定されたときのスルタン=カリフです。覚え方は「★ミドハミト2世」です。19世紀中頃のタンジマート(恩恵改革)のときのスルタン=カリフであるアブドゥル=メジト1世と区別できないといけませんが、かれの覚え方は「★タンジト(タンジマートはアブドゥル=メジト1世の改革)」です。
 ③ ブワイフ朝の君主はバグダードに入った後、カリフとして権力を握ったのではなく、「スルタン」称号をもらいます。
 ④ サファヴィー朝は1500/01年に成立した王朝で(『ワン』語呂→サファリ、イン1501)、アッバース朝は750年からの王朝であり、事実上1258年に滅亡しています(『ワン』語呂→あっ、バス、1258れたの)。

問6[12] ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて
  ① ファーティマ朝アッバース朝成立以前に成立した王朝……以前がまちがい。アッバース朝の成立は750年(『ワン』語呂→あっ、バスならも750ろ)で、ファーティマ朝チュニジアできたのが909年ですが、この王朝が大事なのはエジプトに入った時点の969年です(『ワン』語呂→不安定、969)。
 ② ファーテイマ朝はスンナ派でなく、シーア派シーア派の王朝名は「フ」が多い。★「フ」の付く王朝はシーア派:ブワイフ朝・ファー ティマ朝・サファヴィー朝・パフレヴィー朝──『各駅』p.145)。
 ③ ファーティマ朝はカイロを首都とした、のは正しい。建国の翌年に建設しています(970)。しかし、「シリアやエジプトを取り戻せない」というよりエジプトが根拠地であり、シリアにも進出して十字軍と戦っています。
 ④ 正解

第3問 

問1[13] 図は「フランスに帰還する様子が象徴的に描かれている」ナポレオンのですね。ということは一旦追放されてから、今は君臨している前の王朝と対決することになります。「統治していた国王」のルイ18世についての選択問題です。
 ① アルジェリアを占領した(1830)、ときはルイ18世の弟シャルル10世のときでした(『ワン』語呂→あるじ、1830)。
 ② 恐怖政治を敷いた、のはロベスピエールジャコバン政権のとき(1793〜94)、まだ革命中です。
 ③ 国外逃亡を図り、ヴァレンヌで捕らえられたのは、ルイ16世国王夫妻でした(1791)。
 ④ 王位に就いて、ブルボン朝が復活したのが1814年ウィーン会議開催と共にでした。これが正解で、ルイ18世の就任です。

問2[14] 空欄[ ア ]は「トゥサン=ルヴェルチュールが指導する」とあるのでハイチだから左図のa、[ イ ]は「対仏同盟軍に敗れて[ イ ]に流され 」とあるのでエルバ島で、右図bです。中図のcはナポレオンが最後に流された大西洋の島でセント=ヘレナ島です。正解は②です。 

科挙に関する授業。
問3[15] 文章中の空欄[ ウ ]は前文に「宋代には……新しい学問」とあるので朱子学(宋学)のことです。
 ① 科挙が創設された時代は隋なので、隋代「書院を中心に新しい学問」はありえないです。隋代に「新しい学問」はおきていません。また隋代に「宋代には私立学校の書院が各地にでき」ていません。
 ② 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いたのは王重陽の全真教の説明文です。
 ③ 臨安が都とされた時代は、南宋の時代ということで、朱熹によって「大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した」となります。これが正解
 ④ 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。……明末、1500年前後のひとで陽明学の大成者。

問4[16] 文章中の空欄[  エ  ]は「同時代……書院を拠点とした争い」とあるので儒学の派閥争い、明末では東林党党と非東林党党の争いです。
 ① 太平道黄巾の乱後漢末の反乱です(『ワン』語呂→黄巾の乱、黄色い184)。
 ② 南宋初期に、対金政策をめぐって争った秦檜と岳飛(『ワン』語呂→何艘、1127出か)。
 ③ 土木の変で.皇帝が捕らえられたのは、明朝初期です(『ワン』語呂→土木、石14敷4く9)
 ④ 東林派の人々が.政府を批判した……これが正解

問5[17] 下線部(a)「中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度」は推薦制の九品官人法です。
 下線部(a)について述べた文
 あ 豪族が政界に進出、が正しい説明。
 い 貴族の高官独占が抑制、がまちがい。

 朝鮮や日本で見られた人材登用制度に関する考え
 X この文章は先生の発言どおりで、正しい。
 Y 日本の儒学者が……科挙の導入を提唱、がまちがいだから、正解は①

 中国における書籍分類の歴史。
問6[18] [ オ ]は「18世紀の中国で編纂」とあり清朝と判ります。
 ① 『四書大全』の大全は永楽帝の編纂書を表しています。『永楽大典』『四書大全』『五経大全』と「★「大」がつく作品は永楽帝(『各駅』)」と覚えましょう。
  「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」は正しいぶんですが、これは明朝創始者朱元璋洪武帝の政策。
 ② 漢人男性に辮髪を強制した、のは清朝
 ③ 中書省を廃止したのは明朝。
 ④ 正解

問7[19] 次の書籍あ・いが『漢書』芸文志の六芸略に掲載されているかどうか。これは「資料2『漢書』芸文志で六芸略に掲載されている書籍の一部は『易経』『尚書書経)』『春秋』」とあり五経の三つが書いてあり、欠けているものはどれか、という問い。もちろん「あ『詩経』」です。「い『資治通鑑』」は時代が北宋司馬光によるもので、時代的にも『漢書』に記されている可能性はゼロ。①が正解
 四書と五経の区別はできますか?
 四書:孟子論語・大学・中庸
 五経:春秋・礼記易経詩経書経
 覚え方は(★四書→もちろん、ダッチューの五経春に礼、易しく詩を書く(『各駅』p.8))

 ちなみにチャットGPTで「四書と五経の区別がしやすい覚え方は?」と問うたら、
 ……(前半省略)つまり、「大中論孟」と「詩書礼易春」の2つのフレーズを覚えることで、四書と五経を簡単に区別することができます。

 とのお答えでした。覚えられますか?

問8[20] 前中国における書籍分類の歴史について。
 ① 1世紀には……史部という分類も定着していた、はまちがい。これは「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。教授:そのとおりです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした」に反します。
 ② 「木版印刷の技術が普及した」のは「3世紀から6世紀にかけて」ではなく、唐代です。
 ③ 7世紀の書籍目録において、『史記』と同じ分類に本紀と列伝を主体とする形式の書籍が収められた。これが正解
 ④ 「18世紀……四部分類は用いられなくなっていた」は内藤くんの質問にたいする教授の解答「18世紀……、四つに分類されているためです。これを四部分類と言い」とあり、これと矛盾します。

第4問
A 
問1[21] 「貨幣1を発行した国」は「コンスタンティノープルで造られた金貨です。ソリドゥスと呼ばれ」でビザンツ帝国であり、「貨幣2を発行した王朝」は鈴木さんの発言「ムアーウィヤが開いた王朝」でウマイヤ朝と判断できます。
 ① ゾロアスター教が国教とされた、のはササン朝だからまちがい。
 ② パルティアはササン朝に代わられています(ササン朝226年から『ワン』語呂→笹で226)。
 ③ 貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた。これはユスティニアヌス帝が作らせたものでしたから、正解
 ④ バグダードに都を置いたのはアッバース朝ウマイヤ朝の都はダマスクス

問2[22] 
 佐々木さんのメモ
 初めは「各地で使われていた言語を行政において用いることを認めていたが」後で「アラビア文字のみが刻まれた独自貨幣の発行」となったので、正しいメモ。
 鈴木さんのメモ
 「貨幣2を発行した王朝は」は佐々木さんの説明文の後半をより説明していて、正しい。
 広田さんのメモ
 「ソリドゥス金貨は、ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝」はユスティニアヌス帝ですが、かれは6世紀の皇帝です(『ワン』語呂→ユスティニアヌス527い)。ローマが東西に分裂する前から発行しています。遅すぎます。したがって正解は②

 古代ギリシアについて
 資料二つと対話文がごっちゃになっていて分かりにくいものになっています。
 整理してみると、
 資料1・2ともに「二人とも、五賢帝の時代(96〜180年『ワン』語呂→五賢帝は賢9六6〜言1わ8れ0)を中心に活躍」したひとたちの書いたもの。つまりマラトンの戦い(前490年『ワン』語呂→マラソン490)はペルシア戦争(前500〜前449)より相当後の言説です。
 資料1の「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で」、アリストテレスアレクサンドロス大王の師であり(前334年東征開始『ワン』語呂→アレクサンドロスで、334)、前4世紀のひと、マラトンの戦いに時間が近くなります。

 前490年 マラトンの戦い…………………………①
 前4世紀 ヘラクレイデスのテルシッポス……②
 後96〜180 五賢帝、『対比列伝』……………③
 対話文・資料が長いと判別しにくくなるので、このように①〜③のように時間順に番号をメモっていきましょう。

問3[23] 
[ ア ]に入れる語句
 「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で学んでいた人物……松山:ということは[ ア ]ことになりますね」
 あ 資料1・2の著者は二人とも、ヘラクレイデスよりもマラトンの戦いに「近い時代」に生きていた、の「近い時代」がまちがいです。
 い ヘラクレイデスは、資料1・2の著者たちよりもマラトンの戦いに近い時代に生きていた……正しい。
 [ イ ]に入れる人物の名は「マラトンの戦いに時代が近い人物……使者の名前は[ イ ]」とあるので、「Yテルシッポス」になります。したがって正解は⑤

問4[24] 文章中の空欄[ ウ ]は「マラトンの戦いを含む」とあるのでペルシア戦争です。
 ① イオニア地方のギリシア人の反乱が、この戦争のきっかけとなった。……ミレトス市の反乱からスタートが通説です。これが正解
 ② エフタルは突厥ササン朝で挟撃した民族・国ですが、時代が5〜6世紀でずれすぎてます(『ワン』語呂→F樽、5〜6がす)。
 ③ この戦争の後に、アテネを盟主としてコリントス同盟(ヘラス同盟)が結成された。……この「戦争」はアレクサンドロスの父フィリッポス2世の勝利したカイロネイアの戦いの後に結ばれたもの。ペルシア戦争ではない。
 ④ ギリシア軍が、この戦争中にプラタイアイの戦いで敗北した。……敗北でなく勝利した(前479)。

問5[25] マラトンの戦いの勝利をアテネに伝えた使者について
 ① アテネで僭主となったペイシストラトスは使者の話を知っていた可能性がある。……この人物は戦争前の僭主として知られています(前561『ワン』語呂→ペイシス561)
 ② トゥキデイデスの『歴史』はペロポネソス戦争
 ③ プルタルコスは.使者の名前について異なる説を併記している、から「対比」の列伝です。これが正解。上の資料のように二人を挙げました。
 ④ 使者についての資料2の記述は.ヘロドトスの『歴史』を正確に反映している。……これは後段で先生が「紀元前5世紀の歴史家の著作には、資料2にあるフィリッピデスという名前が、マラトンの戦いの後ではなく、その前にスパルタに派遣された使者」とあり、これをそのまま反映していません。

 ベーダが、731年頃に執筆した著作
問6[26] 文章中の空欄[ エ ]に入れる語句と、資料1と資料2が示す「アングル人」について。
空欄は「歴史的出来事……[ゲルマンの三つの民」」とあり、ゲルマン人の大移動であることは容易です。
 あ 大陸から渡来してきた民の一つで、サクソン人やジュート人(ユート人)と並置される集団のことである。……これが資料1の「三つの民」。
 い サクソン人やジュート人(ユート人)をも含めた、共通の言語を話す集団の総称である。……資料2には「アングル人の言語」しか書いてないが、資料3の(注5)に「発音の類似性から.「アングル人」」と書いてあります。したがって正解は③

問7[27] 資料1〜3……古いものから順に正しく配列
 資料1「カルケドン公会議」は細かいですが、正当か異端かを決める公会議が何回も開かれていた(初めのニケーア公会議、325年、次はエフェソス公会議、431年)、そしてこのカルケドン公会議は単性論を異端とした会議でした。年代は451年でカタラウヌムの戦いと同年(『ワン』語呂→語らぬ、451さん)。
 資料2の初めに「私ことベーダが執筆している今のブリテン島」と問題文の初めに「ベーダが、731年頃に執筆した著作」とあります。
 資料3はグレゴリウス1世で、ゲルマン人布教につくした教皇として名高く、かれが派遣したブリテン島は七王国が成立する頃(600年)でもありました(教皇就任が590年『ワン』語呂→グレゴ5グ9レ0)。よって正解は②

問8[28] 下線部(a)「布教対象の民」はイギリスです。
 ① フランク王国
 ② ジョン=ボールが……農民一揆を指導、これがイギリス史で、正解
 ③ コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むためには統一法ではなくミラノ勅令、統一法はエリザベス1世
 ④ ボニファティウス8世ではなくウルバヌス2世が「提唱した第1回十字軍」、ボニファティウス8世はアナーニ事件の危なかった教皇(1303年『ワン』語呂→穴にむ、1さん303)。

第5問
A 
問1[29] 下線部(a)「マラヤの宗主国」の歴史
 ① シンガポールを獲得はイギリスだから正解
 ② 19世紀後半でなく前半の1833年
 ③ 公行の廃止は南京条約。北京議定書は義和団事件の条約。
 ④ 廃止でなく成立した。

問2[30] 文章中の空欄[ ア ]と線部(b)「統計が取られた時点で、[ ア ]において、ゴムの需要が高まっていた」の背景

 [ ア ]に入れる国の名は表のフィリピンの宗主国アメリカが書けているので合衆国だと判定できます。
 下線部(b)「ゴムの需要」の背景は、ベルトコンベアー方式の自動車生産ですね。アウトバーンの建設はその後です。よく「ヒトラーアウトバーンを建設して失業者に職を与えた」とのプロパガンダが知られています。ナチス政権以前からあった政策をナチス政権の成果として宣伝したことが今も響いています。
 正解は③。  

問3[31] 1929年当時の東南アジア各地の経済
 ① コーヒー栽培……インドネシアは、宗主国(オランダ)向けの輸出額の割合が4地域の中で最も低かった、ではなく2番目の高さ。
 ② ゴムプランテーション(ゴム園)の労働者として移民が流入したマラヤは、インドシナの輸出額上位5地域の中に入っていた。……これが正解。文章中の「インドシナ」は東南アジア全体を意味することもあります。「仏領」を付けるべきでしたが、そうすると宗主国が分かっちゃうので付けられなかった。
 ③ フィリピンでは強制栽培制度はオランダがインドネシアでやった政策です、フィリピンではない。
 ④ インドシナの輸出額において最大であった地域は、インドシナと同じ宗主国の植民地であった。……この「インドシナ」は表の仏領「インドシナ」連邦のことでしょう。とすれば、香港が最大輸出先で、香港の宗主国アヘン戦争で奪ったイギリスです。

 歴史統計。
問4[32] 空欄[  イ  ]と[  ウ  ]
 ① イー表1を見ると、都市人口比率が上昇している……1600年335000人→1801年2380000人だから正しい。
  ウー土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された……「食料の供給が安定していた」のはエンクロージュアと四圃制・改良三圃制が新農法です。これが正解
 ② イー「都市人口比率が減少」が誤文。
  ウー全国的に鉄道の輸送網が完成はまだ。完成は19世紀末。
 ③ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が上昇している……これは合っている。
  ウー農業調整法(AAA)が制定され、農産物の生産量が調整された……これは合衆国の恐慌対策。
 ④ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が減少している……まちがい。
  ウー穀物法の廃止により、穀物輸入が自由化された……穀物法廃止は1846年(『ワン』語呂→穀物ひと1846)。「18世紀後半の時期」ではない。

問5[33] 空欄[  エ  ]の前後文は「移民の送り出し国や受け入れ国で起こった出来事が移民数の変動に影響」とあり、「先生:よく勉強していますね」の内容は何か、という問い。アイルランドの点線が1845〜55年の間が山になってます。
 ① 大飢饉(ジャガイモ飢饉)ですね。これが正解
 ② クロムウェルにより征服は、17世紀のピューリタン革命(『ワン』語呂→ピューと1642)。
 ③ 1870年代初め……南北戦争が始まった、がまちがい。1861年から(『ワン』語呂→南北戦争1861)。「移民は、1870年よりも減少している」は正しいが。
 ④ 移民は、1890年よりも増加していない。

問6[34] 下線部(c)「世界初の産業革命は、イギリスで起こりました」
 ① 「大西洋」の三角貿易を通じて、綿製品、茶、アヘンが取引された。ではなくインド洋/アジア。
 ② ダービーによって開発された、コークスを使用する製鉄法が利用された。これが正解
 ③ ラダイト運動は「選挙権の拡大を目指して、」ではない。産業革命への反発運動でした。
 ④ 1833年の工場法は「大気や水の汚染問題の改善が図」るものでなく、子ども労働者の夜業禁止。

 共通テストで高得点をとるには、
(1)対話文をよく読んでチェックを入れていくこと、
(2)年代を覚えること。