世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2016

第1問
 第二次世界大戦後の世界秩序を特徴づけた冷戦は、一般に1989年のマルタ会談やベルリンの壁の崩壊で終結したとされ、それが現代史の分岐点とされることが少なくない。だが、米ソ、欧州以外の地域を見れば、冷戦の終結は必ずしも世界史全体の転換点とは言えないことに気づかされる。米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれつつあったのである。
 以上のことを踏まえて、1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。
  アジアニーズ(注) イラン=イスラーム共和国 グレナダ 光州事件 サダム=フセイン シナイ半島 鄧小平 フォークランド紛争
 (注)アジアの新興工業経済地域(NIES)

 

第2問
 国家の経済制度・政策に関する、以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) 西アジアでは、イスラームの成立以降、国家や社会のかたちに大きな影響を与える、独特の特徴をもつ経済制度が発展した。これらの制度に関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) 10世紀にブワイフ朝が始めた土地・税制度は、同時代に発展した西ヨーロッパの封建制やビザンツ帝国のプロノイア制にも似た特徴をもち、その後のイスラーム諸王朝に受け継がれ、体系化された。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の特徴について2行以内で説明しなさい。

(b) 16世紀にオスマン帝国が導入した外国人商人に対する制度は、イスラーム法の理念にもとづき、交易の発展をはかることを目的としていた。この制度の名称を書きなさい。また行を改めて、この制度の内容、および後の時代に与えた影響について2行以内で説明しなさい。

問(2) 北インドでは、ティムールの末裔バーブルが、1526年、パーニーパットの戦いでロディ一朝に勝利をおさめた。彼がムガル帝国の基礎を築いたとするならば、第3代のアクバルは、中央集権的な機構を整え、ムガル帝国を実質的に建設した人物であった。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

(a) アクバルの時代に整備されたマンサブダール制について2行以内で説明しなさい。

(b) 第6代アウラングゼーブの時代には、ムガル帝国の領土は最大となったが、支配の弱体化も進んだ。この支配の弱体化について2行以内で説明しなさい。

問(3) 17世紀のイングランド(イギリス)およびフランスで実施された経済政策について、それらを推進した人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて4行以内で説明しなさい。

 

第3問
 民衆の支持は、世界史上のあらゆる政治権力にとって、その正当性の重要な要素であった。また、民衆による政治・社会・宗教運動は、様々な地域・時代における歴史変化の決定的な要因ともなった。世界史における民衆に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) 古代ギリシアの都市国家における民主政は、成年男性市民全員が直接国政に参加する政体であり、アテネにおいて典型的に現れた。紀元前508年、旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前を記しなさい。

問(2) 秦の圧政に対して蜂起し、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」ということばを唱えて農民反乱を主導した人物の名前を記しなさい。

問(3) 古代ローマの都市に住む民衆にとって最大の娯楽は、皇帝や有力政治家が催す見世物であった。紀元後80年に完成し、剣闘士競技などが行われた都市ローマ最大の競技施設の名称を記しなさい。

問(4) ドイツに始まった宗教改革は、領主に対する農民蜂起に結びつく場合もあった。農奴制の廃止を要求して1524年に始まったドイツ農民戦争を指導し、処刑された宗教改革者の名前を記しなさい。

問(5) インドでは15世紀以降、イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興した。その中で、パンジャーブ地方に王国を建ててイギリス東インド会社と戦った教団が奉じた、ナーナクを祖とする宗教の名称を記しなさい。

問(6) 植民地化が進むインドで1857年に起こり、またたく間に北インドのほぼ全域に広がった大反乱は、旧支配層から民衆に至る幅広い社会階層が参加するものであった。この反乱のきっかけを作り、その主な担い手ともなったインド人傭兵の名称を記しなさい。

問(7) プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)に敗れたフランス政府は1871年1月に降伏した。その後結ぼれた仮講和条約に反対し、同年3月、世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称を記しなさい。

問(8) 孫文が死去した年に上海で起こった労働争議は、やがて労働者や学生を中心とする、不平等条約の撤廃などを求める反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称を記しなさい。

問(9) インドシナにおいてベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物の名前を記しなさい。

問(10) 1989年に中国では学生や市民による民主化要求運動が起こったが、それはソ連のゴルバチョフが中国を訪問していた時期とも重なっていた。そのゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガンの名称を記しなさい。

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コメント

第1問
 拙著『世界史論述練習帳new』を推薦してくれるのは、うれしいものの「元・駿台講師」と書いていて、わたしは今はそうではないらしいのですが、いつからそうなのか? 駿台・京都校に電話(075-842-1111)して確かめください。今も現役の講師です。
http://mao-24.com/todai-juken-takurou-books-world-history-essay

 今年の課題は「1970年代後半から1980年代にかけての、東アジア、中東、中米・南米の政治状況の変化」を書くのですが、その前に書いてある「以上のことを踏まえて」を条件として課されています。以上とは「米ソ「新冷戦」と呼ばれた時代に、1990年代以降につながる変化が、世界各地で生まれ」ということです。
 先にこの「1990年代以降につながる変化」を把握しておかないと、「1970年代後半から……の変化」が書けません。双方がつながっていることが必要です。この問題は、2005年第1問の「第二次世界大戦と戦後史の関連」を求めたのと似ています。過去問は「戦争中の出来事(火種)→戦後のありかた(火事)」という構成でしたが、2016年度の問題は後半は書かなくてよいものの、示唆する程度でも書いてもまちがいではないでしょう。90年代を踏まえて、70年代後半・80年代の15年間を書くという課題です。
 受験生にとって困難だったのは、この現代史の15年間を学んでいるかどうか、高校でそこまで授業をしていない高校も多かったのではないか(とくにラテンアメリカ現代史、指定語句「グレナダ」は使えるか、古用語集頻度2、新用語集では0)、という点です。またこの年代で想起できる事象を浮かべることができたか、という困難さも加わります。受験生が生まれる少し前の時代です。生きている現時点から30年〜50年前の歴史は歴史でなくニュースだ、事件だ、いやフランス革命以降はニュースだ歴史ではない、という意見もあります。過去問を解いてきた受験生の中には、これが東大の一番難しい問題だったと言っていた学生もいました。確かにわたしもそう思います。「中米・南米」を諦めて、他はがんばってみよう、でもいいでしょう。合格者の答案では「グレナダは使えなかった」書いても合格しています。難化したため、20・20・20の配点にしたようです。 第1問の出来具合が悪いと、このような配点になりやすい。

 まず90年代のことを三つの地域で想起してみましょう。

 東アジア
  中国。江沢民(1993〜2005)の「社会主義市場経済(事実上の資本主義導入)」、香港返還(1997)、マカオ返還(1999)……ここにあるのは、共産党の中国が党独裁を固守しながら社会主義を否定していく、「1989年的傾向」が見られます。19世紀以来の帝国主義の残滓(のこりかす)を示す二つの港湾都市が中国に返還され、脱植民地化の仕上げになっています。
  朝鮮の盧泰愚(ノテウ、1988〜93)は軍人でありながら、「韓国のゴルバチョフ」みたいに、文治主義政治への転換を準備します。南北朝鮮の国連同時加盟(1991)と中韓国交樹立(1992)を果たします。つづく金泳三(1993〜98)で文民政権の誕生となりました。ここにも「1989年的傾向」が見られます。
  台湾の李登輝(1988〜2000)も入れていいでしょう。経済発展と中国・台湾「二国論」の主張は、民族主義の主張でもあり、治安法の廃止・選挙の民主化・総統の独裁化防止策など、やはりこれも「1989年的傾向」が確認できます。

 中東。湾岸戦争(1991)におけるアラブの分裂、スンナ派とシーア派の対立激化、米軍のプレゼンスと対抗する勢力(タリバン、アルカイダ)の台頭、パレスチナ暫定自治協定(1993)……といった事象の全体的傾向はアラブの分裂・内紛・内戦です。東アジアの民主化・経済発展とはちがう様相です。それでもイスラーム世界の一枚岩と見られた地域がはげしく戦うのも、東欧の1898年の変革がユーゴ内戦を呼び込んだように、「1898年的傾向」ととっていいでしょう。

 中米・南米。エルサルバドル内戦(1980〜)は、政府とゲリラの間で停戦合意(1992)。北米自由貿易協定(NAFTA)発足、メキシコがそれに加わる(1994)。南米南部共同市場(メルコスール)発足(1995)。グアテマラで40年以上続いた内戦が終結。ラテンアメリカ共同市場形成を目ざしアンデス共同体発足(1996)……といった現象があります。独裁・共産党政権の崩壊から民主化、地域統合の動きがあります。これも「1898年的傾向」です。

 「1898年的傾向」とはそれまで機能していた社会主義圏、アラブ・イスラーム圏の分解がすすみ、その閉鎖性が破られて国際政治への個々の国が登場し、枠組みの新結成にむかう動きである、と総括できるでしょう。個々の国は、独裁政治から民主政治へ、社会主義から資本主義へという傾向を表しました。前者のタイプは完全には払拭されていませんが、後者への傾斜は止められない情勢です。これは統計的に著したスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』(青土社)の主張に沿った動きです。

 これらの「1990年代以降につながる変化」は以前の「1976年〜90年」にかけて、「世界各地で生まれつつあったのである」と以前の動き、準備的な、予兆的な出来事を記せ、という課題です。

 中国。周恩来・毛沢東の死去は同年(1976)におき、四人組逮捕によって文化大革命は終息します(1976)。毛の神格化運動は終わりました。胡耀邦総書記(1982〜87)の改革開放路線を積極的に推進する動き、鄧小平の四つの現代化(1979)政策、人民公社解体、職業選択の自由拡大、経済特区(1979)の設置があります。しかし第五の現代化=民主化を求めた第2次(六四)天安門事件(1989)がおき、鄧小平(1977〜97)は鎮圧してしまいました。民主化はしない、という点は今も維持されています。むしろ今の習政権は独裁化に向かっています。
 朝鮮。独裁者・朴正熙の暗殺(1979)、受けついだ全斗煥政権(1980〜88)に対する学生たちの光州事件(1980)、盧泰愚の民主化(1988〜93)は上に述べました。経済発展はアジアニーズの一員にしました。
 台湾。上にあげた李登輝の時代が「1990年代」と「1976年〜90年」と重なっています。

 中東。第四次中東戦争が終わり、その後にエジプト=イスラエル平和条約(1979)が結ばれシナイ半島の返還(1982)も果たされました。和解の動きです。イラン=イスラム革命(1979)とシーア派の勢力拡大はアラブ世界を分裂させ、ソ連のアフガニスタン軍事介入(1979)とタリバーン形成、米国が育てたサダムのイラン・イラク戦争の挑戦(1980〜1988)なども分裂を加速させ、原理主義・過激イスラーム主義が台頭する背景となりました。

 中米・南米。米パ間の新パナマ運河条約(1977)で運河返還を約束、アルゼンチンがしかけたフォークランド戦争(1982)の敗北による民政移行があり、ソモサ独裁政権をサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が打ち倒したニカラグア革命(1979)がおき、それを米国が介入(1988)してつぶし、グレナダ左翼政権成立(1979)と米国の介入(1983)、チリのアジェンデ政権(1970〜73)からピノチェト独裁政権が倒れて(1988)、民政移管(1990)が実現したことは、米国の妨害行為を別にすれば「1989年的傾向」です。

第2問
問(1) 
(a) 「ブワイフ朝が始めた土地・税制度は」はイクター制。「特徴」といってもイクター制とは何かを答えたらいい。軍人に土地所有権を与えず、徴税権を与え、それを俸給の一部とさせる制度です。用語集では「俸給額(アター)にみあう金額を徴収できる土地の管理と徴税権を与えた制度」。

(b) 名称は、カピチュレーション(カピテュレーション)で、内容は、外国人に領内の港で商売する権利。用語集では「領事裁判権、租税免除、身体財産などの安全を保障した一種の治外法権」。
 影響は、西欧が産業革命の商品を投入してきたため、経済的にトルコが従属することになった、という点をあげるといいでしょう。用語集では「オスマン帝国が衰退すると、西欧列強諸国に有利な不平等条約として解釈利用され、侵略への足がかりとされた」。

問(2)
(a) マンサブダール制は、地位・階級にみあった給与を与え、義務として騎兵・騎馬を準備しなくてはならなかった制度です。「ダール」は「持っている者」の意味。用語集では「官僚をマンサブ(位階)で序列をつけ、それぞれのマンサブに応じた騎兵や騎馬の準備を義務づけ、給与を与える制度」。

(b) 「第6代アウラングゼーブの……弱体化」ということなので、彼がイスラーム化を強制したため、離反する地方勢力が伸びて、勢力圏が減少したこと、後継者を巡る争いが頻発したこと、などを挙げます。用語集では「ラージプート族シク教徒マラータ族などの反抗をまねき、戦費の増大で財政は悪化し、帝国の衰退が始まった」。

問(3) 「17世紀の英仏の経済政策……人物の名や代表的な法令をあげつつ、当時のオランダの動向と関連づけて」でした。英国は中継貿易依存の蘭にたいしてクロムウェルが航海法を制定して中継貿易を阻止し、アンボイナ事件の賠償問題も重なり英蘭戦争に発展した、仏は蘭の日常品工業に対してコルベールの下で王立・国立・特権マニュファクチュアを作らせ、奢侈品生産で対抗しました。

第3問
 どれもセンター試験レベルの易問でした。
問(1) 「旧来の4部族制を廃止して新たに10部族制を定め、アテネ民主政の基礎を築いた政治家の名前」ですが、この年「前508年」に独裁者になる可能性のある人物を陶片に書いて投票し、一定数あればアテネ市から追放という陶片追放を決めた人物でもあります。

問(2) 前209年、北のモンゴル高原では冒頓単于が父を殺害して単于となった年でもあります。国内では陳勝蜂起が起きます。

問(3) 「剣闘士競技……競技施設」という観光クイズみたいな問題。

問(4) 「ドイツ農民戦争を指導」者の名。

問(5) 「イスラーム教の影響を受け、神の前での平等を説く民衆宗教が勃興……ナーナクを祖」とヒントが多い。

問(6) 「1857年に起こり……担い手ともなったインド人傭兵の名称」。

問(7) 「世界史上初めて労働者などの民衆が中心となって作った革命的自治政府の名称」。

問(8) 「上海で起こった労働争議……反帝国主義運動へと発展した。この運動の名称」。

問(9) 「ベトナム青年革命同志会を結成して農民運動を指導し、フランス植民地支配に対する抵抗運動の中心となった人物」。

問(10) 「1989年に……ゴルバチョフが国内改革のために掲げた、「立て直し」を意味するロシア語のスローガン」。
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第1問(君の解答)
第2問
問(1)
(a)イクター制
軍人に対して、土地所有権を与えず、俸給にかわって分与地の徴税権を与え、それに応じた軍事奉仕を義務づけた制度。
(b)カピチュレーション
帝国内の外国人に居住の安全や通商の自由を保障したが、領事裁判権、租税免除など治外法権は19世紀に帝国を従属化した。
問(2)
(a)官僚の地位(マンサブ)を階級に分け、その階級にしたがった給与を与え、義務として維持すべき騎兵・騎馬数を定めた。
(b)ジズヤ復活やヒンドゥー寺院破壊などイスラーム化政策をとったため離反され、討伐の遠征費用がかさみ、後継者紛争も加わった。
問(3)
イギリスはクロムウェルが航海法で蘭の中継貿易に打撃を与え、アンボイナ事件の賠償も求めて英蘭戦争を戦い北米植民地を奪った。フランスはコルベールが王立・国立・特権マニュファクチュアをつくり、蘭の日常品に対抗した。オランダ侵略戦争も行った。
第3問
問(1)クレイステネス
問(2)陳勝
問(3)コロッセウム(コロッセオ)
問(4)(トマス=)ミュンツァー
問(5)シク教
問(6)シパーヒー(セポイ)
問(7)パリ=コミューン
問(8)五・三〇運動
問(9)ホー=チ=ミン
問(10)ペレストロイカ

一橋世界史2016

第1問
 聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られると説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない
 (上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

 

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

 

第3問
 次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
 (中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)

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コメント

第1問
 課題は「聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察」でした。ということは、二人の思想家が考えた都市のあり方というより、「実態を対比」という、思想家の対象にした都市そのものの対比です。
 「対比」とは比較して相違点を示すことが求められています。二人の思想家は材料にすぎないということになります。たんに引用文のように「都市の経済性を高調……政治組織として考察」という議論と同じ内容をなぞるだけの解答は要らないことになります。たとえば次のような解答例はそうした例になるでしょう。

アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは、市民が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し、民会による直接民主政を行ったことで、独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重が高く、市民は労働の多くを奴隷に委ね、経済活動を副次的なものとして政治参加に注力できた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を背景に、経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものである。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが、ギルドを結成する大商人や親方が市参事会を独占して、経済的に豊かな者のみが政治に参加でき、自治においても経済の論理が中心となった。このような違いから、都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。

▲ 初めの「アリストテレスは……一方聖トマスは……都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた」となぞった書き方は特に必要ではありません。課題は「実態」の対比です。
 奴隷制立脚の説明をしているのなら、中世都市の働き手、主体(担い手)は誰なのかがハッキリしません。中世都市に奴隷がいるのかいないのか? 対比になっているのは平等な参政権と大商人・親方の市政独占のところだけです。「商工業や貿易も活発……商工業や交易の発達」と共通点をあげていますが、これは要らない文章です。また古代都市は「市民が軍役を通じ」とあるのであれば、中世都市の軍事はどうなっているのか?
 中世都市の前提(背景?)が「中世封建社会の都市を前提とした」とすれば、じゃ古代都市の前提(背景)は何なんでしょうか?

 奴隷制の有無、軍事的な面の内と外の依存、周囲の農村(農民)との関係、都市同盟のあり方、都市内身分制度、と対比すべきテーマがあります。

第2問
 課題は「2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい」でした。
 これもまた比較の問題です。次の「模範」解答のミスが分かりますか?

王権神授説を信奉しフランス絶対王政の最盛期を現出したルイ14世は、ユグノーに信仰の自由を認めたナントの王令を廃止し、カトリックによる信仰の統一を実現しようとした。その結果、ユグノーの商工業者が多く新教国に亡命したが、ブランデンブルク=プロイセンは、彼らを積極的に受け入れて経済成長を遂げ、スペイン継承戦争でオーストリアを支援し王号を認められた。これらがフランス大聖堂建設の背景である。その後プロイセンは、フリードリヒ2世の時代にオーストリア継承戦争でオーストリアからシュレジエンを獲得し、七年戦争でその領有を確定した。また第1回ポーランド分割を主導して領域を拡大した。これによりカトリック教徒のポーランド人を支配下に含むことになった。フリードリヒ2世は、同時に啓蒙専制君主として信教の自由を認める改革を行ったため、ポーランド人のカトリック信仰が容認された。これらが聖ヘートヴィヒ聖堂建設の背景となった。

▲ 両聖堂は導入文に「1701年に始まり」「1747年に始まり」とあり、「建設された理由」を問うているのだから、この年代以後のことは理由にならないはず。フリードリヒ2世の戦争と獲得地を書いたのはミスです。シュレジエンを獲得したのはアーヘンの和約(1748)であり、七年戦争(1756)は寺院建設以後のことです。
 また「模範」答案に「王号を認められた……領域を拡大」とありますがなぜ王号・領土拡大が建設理由・背景になるのでしょうか?
 「比較しながら」の解答文はどこにありますか? 何と何を比較しているのか? 分かりません。なぜドイツ(プロレイセン)に新旧の宗教的亡命者が東西から集まることになったのか? 西のフランスという国と東のポーランドという当時の国のあり方は大きく違っています。1701年までに受け入れたユグノー、1747年までに受け入れたカトリック教徒、このちがう二つの民族・宗教を受容したドイツ側の理由が違っています。
 なお啓蒙専制君主フリードリヒ2世は戦争を始める前、即位と同時に発布(1740)したのが宗教寛容令でした。この寛容令で、初めてドイツで個人の信仰の自由が認められました。導入文の「聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想」とはこれです。

第3問
 課題は「1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を」でした。二つの課題のうち、初めの1945年以降の情勢とは、南北に韓国と朝鮮ができる過程を書けばよく、次に朝鮮戦争と中国・台湾への影響を書くという容易な問題でした。朝鮮戦争は1950〜53年の期間で接する中国と近くの台湾に影響を与えました。
 中国は人民義勇軍を派遣して約13万人が戦死しています。また建国(1949年10月1日)間もない中国にとっては大きな負担となり、社会主義構想は先輩のソ連の援助に頼るかたちをとりました。第一次五ヵ年計画(1953〜57)に依存します。
 台湾について。蔣介石が共産党との戦いに負けて、この台湾に逃避しており、米軍の基地の一つとなりました。ただし戦争中に戦場になった訳ではなく、あくまで米海軍第七艦隊の後方支援で、陸海空の臨検をおこない包囲網を築いていました。それが戦後の1954年に米華相互防衛条約が結ばれる土台となりました。さらにアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持することになりました。

一橋世界史2016

第1問
 聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。「生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られる」と説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない
 (上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)
 *civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

 

第2問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。
 歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

 

第3問
 次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

 アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。
 (中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)
………………………………………
コメント
第1問
 課題は「聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察」でした。ということは、二人の思想家が考えた都市のあり方というより、「実態を対比」という、思想家の対象にした都市そのものの対比です。
 「対比」とは比較して相違点を示すことが求められています。二人の思想家は材料にすぎないということになります。たんに引用文のように「都市の経済性を高調……政治組織として考察」という議論と同じ内容をなぞるだけの解答は要らないことになります。たとえば次のような解答例はそうした例になるでしょう。

アリストテレスは古代ギリシアのポリスを前提とした。アテネに代表されるポリスは、市民が軍役を通じて貧富によらない政治的平等を達成し、民会による直接民主政を行ったことで、独立した政治的共同体の性格を強めた。経済面では商工業や貿易も活発だったが農業の比重が高く、市民は労働の多くを奴隷に委ね、経済活動を副次的なものとして政治参加に注力できた。一方聖トマスは中世封建社会の都市を前提とした。中世都市は商工業や交易の発達を背景に、経済の中心として発展した。やがて自治獲得が進むがそれも経済力によるものである。政治面ではツンフト闘争を通じた手工業者の政治参加拡大はあったが、ギルドを結成する大商人や親方が市参事会を独占して、経済的に豊かな者のみが政治に参加でき、自治においても経済の論理が中心となった。このような違いから、都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた。

▲ 初めの「アリストテレスは……一方聖トマスは……都市国家を市民の政治的統合体と捉えるか経済的統合体と捉えるかという両者の相違が生じた」となぞった書き方は特に必要ではありません。課題は「実態」の対比です。
 奴隷制立脚の説明をしているのなら、中世都市の働き手、主体(担い手)は誰なのかがハッキリしません。中世都市に奴隷がいるのかいないのか? 対比になっているのは平等な参政権と大商人・親方の市政独占のところだけです。「商工業や貿易も活発……商工業や交易の発達」と共通点をあげていますが、これは要らない文章です。また古代都市は「市民が軍役を通じ」とあるのであれば、中世都市の軍事はどうなっているのか?
 中世都市の前提(背景?)が「中世封建社会の都市を前提とした」とすれば、じゃ古代都市の前提(背景)は何なんでしょうか?

 奴隷制の有無、軍事的な面の内と外の依存、周囲の農村(農民)との関係、都市同盟のあり方、都市内身分制度、と対比すべきテーマがあります。

第2問
 課題は「2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい」でした。
 これもまた比較の問題です。次の「模範」解答のミスが分かりますか?

王権神授説を信奉しフランス絶対王政の最盛期を現出したルイ14世は、ユグノーに信仰の自由を認めたナントの王令を廃止し、カトリックによる信仰の統一を実現しようとした。その結果、ユグノーの商工業者が多く新教国に亡命したが、ブランデンブルク=プロイセンは、彼らを積極的に受け入れて経済成長を遂げ、スペイン継承戦争でオーストリアを支援し王号を認められた。これらがフランス大聖堂建設の背景である。その後プロイセンは、フリードリヒ2世の時代にオーストリア継承戦争でオーストリアからシュレジエンを獲得し、七年戦争でその領有を確定した。また第1回ポーランド分割を主導して領域を拡大した。これによりカトリック教徒のポーランド人を支配下に含むことになった。フリードリヒ2世は、同時に啓蒙専制君主として信教の自由を認める改革を行ったため、ポーランド人のカトリック信仰が容認された。これらが聖ヘートヴィヒ聖堂建設の背景となった。

▲ 両聖堂は導入文に「1701年に始まり」「1747年に始まり」とあり、「建設された理由」を問うているのだから、この年代以後のことは理由にならないはず。フリードリヒ2世の戦争と獲得地を書いたのはミスです。シュレジエンを獲得したのはアーヘンの和約(1748)であり、七年戦争(1756)は寺院建設以後のことです。
 また「模範」答案に「王号を認められた……領域を拡大」とありますがなぜ王号・領土拡大が建設理由・背景になるのでしょうか?
 「比較しながら」の解答文はどこにありますか? 何と何を比較しているのか? 分かりません。なぜドイツ(プロレイセン)に新旧の宗教的亡命者が東西から集まることになったのか? 西のフランスという国と東のポーランドという当時の国のあり方は大きく違っています。1701年までに受け入れたユグノー、1747年までに受け入れたカトリック教徒、このちがう二つの民族・宗教を受容したドイツ側の理由が違っています。
 なお啓蒙専制君主フリードリヒ2世は戦争を始める前、即位と同時に発布(1740)したのが宗教寛容令でした。この寛容令で、初めてドイツで個人の信仰の自由が認められました。導入文の「聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想」とはこれです。

第3問
 課題は「1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を」でした。二つの課題のうち、初めの1945年以降の情勢とは、南北に韓国と朝鮮ができる過程を書けばよく、次に朝鮮戦争と中国・台湾への影響を書くという容易な問題でした。朝鮮戦争は1950〜53年の期間で接する中国と近くの台湾に影響を与えました。
 中国は人民義勇軍を派遣して約13万人が戦死しています。また建国(1949年10月1日)間もない中国にとっては大きな負担となり、社会主義構想は先輩のソ連の援助に頼るかたちをとりました。第一次五ヵ年計画(1953〜57)に依存します。
 台湾について。蔣介石が共産党との戦いに負けて、この台湾に逃避しており、米軍の基地の一つとなりました。ただし戦争中に戦場になった訳ではなく、あくまで米海軍第七艦隊の後方支援で、陸海空の臨検をおこない包囲網を築いていました。それが戦後の1954年に米華相互防衛条約が結ばれる土台となりました。さらにアメリカの支援により、台湾は「中国」の国連代表権と安保理の常任理事国の地位を維持することになりました。

京大世界史2016

1 (20点)
 西暦8世紀半ば、非アラブ人ムスリムを主要な支持者としてアッバース朝が成立したことを契機に、イスラーム社会の担い手はますます多様化していった。なかでも9世紀以降、イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々は、そののち近代に至るまでイスラーム世界において大きな役割を果たすようになる。この「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワードを両方とも用いて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

  マムルーク カラハン朝

2 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(18)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答構に記入せよ。

A [本文中の漢字にルビがふってある場合は( )で示しています。また●は後で解説する箇所]中国歴代王朝は自らの正統化を図ってさまざまな瑞祥を演出した。3〜6世紀における粛慎(しゅくしん)の朝貢はそうした瑞祥の一つである。戦国時代の文献には、周王朝開国の際に、粛慎が「こ(木+苦)矢石ド(奴+石)(しせきど)」(ハナズオウの矢柄(やがら)と石の鏃(やじり))を貢納したという伝説が見える。粛慎は(1)「海内(かいだい)」の中国と大海で隔てられた[海外」に住む神話的な存在ともされ、したがって、その朝貢は、子の徳が世界の果てにまで及んだことの証として、第一級の瑞祥となる。
 (2)後漢末の群雄割拠に際し、(3)遼東郡では公孫氏が自立した。曹丕が後漢の禅譲を受けて魏を建国すると、劉備・孫権も蜀・呉を建国した。呉が遼東公孫氏・高句麗と結んだため、魏は遼東公孫氏を滅ぼし、高句麗に出兵した。魏の進出にともなって、東北アジアに関する豊富な知見が獲得された。このことを反映して、『三国志』の烏丸(うがん)鮮卑東夷伝には、東北アジア諸民族に関する現存最古のまとまった記述が見える。これら諸民族の一つが抱婁(ゆうろう)である。(4)『三国志』の本紀には、粛慎の朝貢が見えるが、これは伝説上の粛慎と同じく「こ(木+苦)矢」と石鍛を用いていた抱婁を「古(いにしえ)の粛慎氏の国」として朝貢させ、粛慎朝貢の瑞祥を演出したものである。(5)前漢・後漢あわせて400年にも及ぶ漢帝国が崩壊したのちの分裂に際して、魏は自らの正統性を喧(けん)伝するための瑞祥を切実に必要としたのである。
 その後、[  a ](西晋の武帝)が魏の禅譲を受けて晋を建国した際や、西晋滅亡後、江南において東晋が成立した際にも、粛慎が朝貢している。一方、華北でも後越の(6)石勅(せきろく)・石虎、前秦の(7)苻堅(ふけん)のもとに粛慎が朝貢している。これらも抱婁を粛慎と称したものである。
 『三国志』についで東北アジア諸民族のまとまった記述が見えるのは、鮮卑[ b ]部が建国した王朝を扱った『魏書』である。『魏書』によれば、勿吉(もつきつ)が北魏・●[ c ]に29回朝貢し、うち7回「こ(木+苦)矢」を貢納している。勿吉を「旧(もと)の粛慎国」として瑞祥を演出したものだが、頻繁な朝貢が瑞祥の希少価値を減
じたためか、「こ(木+苦)矢」の貢納は517年が最後である。高洋が●[  c ]の禅譲を受けて北斉を建国すると、粛慎が朝貢し(8)靺鞨(まつかつ)をとくに粛慎と称し、建国の瑞祥としたものであろう。


(1) 戦国時代の鄒衍(すうえん)はこうした地理認識を発展させた「大九州説」を唱えた。鄒衍は諸子百家のうち、何家に属するか。

(2) この時期、黄巾の乱を起こした張角が創唱した宗教結社の名を記せ。

●(3) 戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた。遼東郡を設置した国の名を記せ。

(4) (ア) 本紀と列伝を中心とする歴史書の形式である紀伝体を創始した人物の名を記せ。
 (イ) 『三国志』の本紀において「大月氏」と称された、1〜3世紀に中央アジアから北インドを支配した王朝の名を記せ。

(5) 前漢の禅譲を受けて新しい王朝を開いた人物の名を記せ。

(6) ●(ア) 石勒は五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族の出身である。この民族の名を記せ。

 (イ) 亀茲(クチャ)に生まれ、4世紀前半、石勅の帰依を受けた仏僧の名を漢字で記せ。

(7) 苻堅は淝水(ひすい)の戦いの戦いで東晋に敗れた。この時の東晋軍の主力である北府軍の
下級軍人から立身した劉裕が、東晋の禅譲を受けて開いた王朝の名を記せ。

(8) ●(ア) 靺鞨の一部は高句麗遺民とともに渤海を建国した。今日の黒龍江省寧安市の東京城遺跡にあった▲渤海の国都は、当時何と呼ばれたか。

 (イ) 靺鞨の一部である黒水靺鞨の後身が女真である。12世紀、女真は金を建国した。金が女真人に対して採用した行政・軍事制度の名を記せ。

 (ウ) 17世紀、女真は後金を建国した。この建国者の名を記せ。

B 20世紀初頭までの中国では、「党」とは、官僚やその予備軍である知識人が、個人的な交友や一定の政治理念を基に結んだグループのことを指した。だが、こうしたグループの形成は王朝の禁じるところであり、史書では非難や弾圧の文脈で登場している。
 例えば、後漢の時代には(9)二度にわたる「党人」に対する弾圧が行われたし、唐王朝では、二つの官僚グループが数十年にわたって「党争」を繰り広げている。10世紀に[ d ](太祖)が打ち立てた王朝は、官吏登用試験に(10)皇帝が試験官となる出題を加えたが、これはそれまであったような、試験官と合格者が私的な関係を取り結ぶことを妨ぐためであった。しかし、この王朝でも、(11)ある政治家が提起した諸政策の是非をめぐり、「党争」が何十年も続いた。このほか後年の王朝で、17世紀初め設立の[ e ]書院を基礎に形成された政治グループが、やはり「党人」として弾圧されたし、弾圧した側の宦官にくみした官僚たちは、史書で「えん(門+奄)党」(宦官党)と呼ばれている。
 したがって、中国では「党」とは決して良いイメージの言葉ではなかった。20世紀初め、知識人や(12)留学生たちが共和国樹立を目指し、(13)国外で近代的な政治結社を結成した時にも、彼らはその名称に「党」を用いることはなかった。やや後の、彼らと違って立憲君主制を主張して組織された政治団体にあっても、そのことは同様である。
 こうした状況が一変するのは、(15)共和国が成立したのち、中国史上初の国会議員選挙が行われる過程においてである。中国の政治家たちはこの時、以前から近代政治結社を「党」と称していた近隣国家の例にならい、共和・統一・民主などの語と「党」を結びつけたのだった。そして、共和国樹立を目指した前述の結社は[ f ]と改名してこの選挙に勝利し、国会で多数を占めたのだが、(16)時の臨時大総統」の暴力の前に、政権掌握を阻まれた。同党の政治勢力はその後、党名と組織形態の変更を繰り返したのち、国際的な共産主義組織の働きかけで、別の政党との協力関係樹立に踏み切る。以後、(17)この二つの政党の協力と対立が、(18)中華人民共和国成立までの中国政治の一つの軸を構成することになる。


(9) この弾圧は、中国の歴史上どのように称されているか。

(10) この皇帝が試験官となる試験は、何と呼ばれるか。

(11) この「諸政策」のねらいを、農民・中小商人の保護のほかに二つ挙げよ。

(12) 中国からその近隣国家に赴いた留学生の数は、20世記初めに急増したが、このことは1905年に行われた中国政府の政策決定と関係している。この決定とは何か。

(13) この「近代的な政治結社」は、政治主張を三つにまとめたことで知られる。この三つの主張のうち、漢民族の独立(少数民族による支配の打破)以外の二つの主張を記せ。

(14) 19世紀末に中国が対外戦争に敗れた際、知識人によって立憲君主制導入を中心とする制度改革が主張された。この改革は当時何と呼ばれたか。

(15) 「共和国が成立した」ことの背景の一つに、政府がある事業を国有化しようとした結果、中国のさまざまな階層が広く反発したことが挙げられる。この事業とは何か。

(16) この「共和国臨時大総統」は、対内的には政党を解散させて独裁権力を握る一方、対外的には近隣国家による大規模な権益拡大の諸要求を承認したことでも知られる。この諸要求は何と呼ばれるか。

(17) この「二つの政党の協力」のうち二回目のものは、1930年代半ば、中国の内陸のある都市で起こった事件を契機に成立している。この都市の名を記せ。

(18) この国家では1960年代、党の最高指導者が自らの党組織に対する攻撃を呼びかけ、大規模な政治運動が始まった。この運動は何と呼ばれるか。

3 (20点)
 18世紀のヨーロッパでは、理性を重視し、古い権威や偏見を批判する啓蒙思想が有力となった。イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

4 (30点)
 次の文章(A,B,C)を読み、[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代以来、西洋では船が運輸と軍事で重要な役割を果たした。フェニキア人は二段櫂(かい)船などを用いて海上輸送を行い、地中海沿岸に(1)植民市を建設した。ギリシア人は衝角を備えた三段櫂船などの艦隊を用いて、前480年[ a ]の海戦でペルシア▲臨隊に勝利した。ローマ人も軍事用に▲擢船を用いたが、(2)前1世紀頃までに地中海がほぼ平定され、遠隔地交易が活発になると、帆船が発達した。
 9〜11世紀の地中海では、ビザンツ帝国の艦隊とシリアや(3)アンダルスなどから出撃するムスリムの艦隊が、ともに三角帆を備えた櫂船などで覇権を争ったが、イオニア海以西ではしだいにイタリア諸都市と(4)ノルマン人が勢力を伸張させた。7回に及んだ十字軍の遠征では、第1・2回においてその主力は陸路でシリア・パレスチナへ進軍したが、第3回以降は海軍と海上輸送される兵士が中心となった。兵士や馬に加え、多くの(5)巡礼者と物資を輸送するため、ヴェネツィアやジェノヴァでは多くの櫂船と帆船が建造された。
 13世紀末、ジェノヴァの船がジブラルタル海峡経由でフランドルへ到達し、[ b ]と地中海という二つの海域を結ぶ航路が開設された。この頃、[ b ]・バルト海間の通商では、ハンザ▲同盟の盟主[ c ]とハンブルクをつなぐ河川路・陸路が主軸であったが、15世紀以降、[ b ]とバルト海をむすぶ(6)エーレスンド(▲ズント)海峡の通航量が増大し、バルト海沿岸から西欧へ生活物資が大量に帆船で運送されるようになった。地中海でも商用帆船は発達したが、軍事用では櫂船が16世紀に至るまで支配的であった。


(1) フェニキア人が北アフリカに建設した代表的な植民市の名を記せ。

(2) ●地中海をかこむ諸地域を支配下に入れたオクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて、ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩を書いた人物の名を記せ。

(3) 8世紀半ば以降、コルドバを首都として、この地域を支配していた王朝の名を記せ。

(4) 12世紀前半、ノルマン人が地中海域に建てた国の名を記せ。

(5) 巡礼者の保護などのために設立された代表的な宗教騎士団の名を二つ記せ。

(6) ●15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名を記せ。

B 支配的な権力や勢力に強制されて、あるいはよりよい機会を求めて、故地を出て各地に離散した人々やその状態をあらわす、(7)ディアスポラという概念がある。この切り口から見ると、ヨーロッパ近世・近代史は、たえずディアスポラを生みだす歴史であった。
 (8)コロンブスがサンサルバドル島に到達した年、数万人のユダヤ人がスペインから追放された。彼らは西欧諸国およびオスマン帝国へと移住し、商業などで目覚ましい活躍をする者もあらわれた。また、同じくスペインから、モリスコ(キリスト教に改宗した元イスラーム教徒)が、(9)1568〜71年の反乱の鎮圧を経た後の17世紀初頭、約30万人追放された。そのうちの大部分はモロッコなど北アフリカに逃れた。
 宗教改革の影響で、新教・旧教の双方からディアスポラが発生した。ヘンリ8世によって国教会体制が敷かれたイギリスでは、(10)▲カトリック教徒が厳しい制約の中でひそかに信仰を守ったが、一部は国外へ逃れ、故郷の同宗信徒との関保を保った。フランスでは、16世紀後半の宗教内乱を経てしばらくはユグノーの信教は許容された。しかし、(11)1685年にナント王令が廃止されるなどしたため、多くのユグノーがイギリスやスイス、オランダやプロイセンへと逃れ、共同体をつくり、またフランスで迫害に遭っている仲間の救済に尽力した。
 政治闘争の敗北者たちが一種のディアスポラを形成することもあった。名誉革命で王位を追われたジェームズ2世はフランスにわたり、やがてパリ西方のサン=ジェルマン・アン・レーに亡命宮廷を構えたが、ここは、(12)ジェームズの王統をなおも信奉する人々、ジャコバイトにとって物心両面での拠り所となった。また、(13)フランス革命の際にはエミグレ(亡命貴族)が発生し、異郷で反革命を画策し、帰還の機会をうかがった
 経済的要因が強く作用したディアスポラの例もある。たとえば、ヨーロッパ人が深く関与した奴隷貿易によって(14)膨大な数の黒人がアフリカから離散した。また、(15)南ロシアで1881年に大規模なポグロム(ユダヤ人に対する襲撃)が生じたことも手伝って、その後、(16)多くのユダヤ人が住んでいた場所を捨て、西方のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国に移民していった
 このような各種のディアスポラは国の枠を越えて拡大し、ヨーロッパ諸国にとっては、これらの人々をどのように処遇するにせよ、つねに憂躍すべき要素となった。


(7) この語は古代ギリシア語に起源を持つが、もっぱらパレスチナ地方を追われたユダヤ人と関連付けられてきた。19世紀末になると、各地に散ったユダヤ人の間で民族的郷土の建設を求める運動が活発化した。この運動を何と呼ぶか、記せ。

(8) この追放令が発せられた時のスペインの女王の名を記せ。

(9) これと同じ時期にスペイン王を悩ませる大規模な反乱を開始し、十数年後に独立を宣言した国がある。その国の中心都市で、17世紀に国際金融の中心となった都市の名を記せ。

(10) ●そのような状況にもかかわらず、彼らは16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ。

(11) この頃プロイセンを統治していた家門名を記せ。

(12) ●彼らは18世紀初頭にイギリスで王朝交代があったその翌年に、ジェームズ2世の息子を奉じて反乱を起こした。これを撃退したイギリスの新しい王朝の名を記せ。

(13) ●反革命の動きに対抗して、革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国の名を記せ。

(14) 彼らが輪送先のプランテーションで栽培に従事した主な作物を二つ記せ。

(15) ●1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ、それがボグロムの引き金となったとされる。この人物の名を記せ。

(16) ユダヤ人など多くの移民を生み出したロシア・東欧と並んで、1880年代にエリトリアを植民地化したある国からも、アメリカ大陸への移民が増大した。この国の名を記せ。

C 第二次世界大戦後に出現した、アメリカ合衆国とソ連を頂点とする二極構造の国際システムは、時間の経過とともに、より多極的な構造に移行していった。
 非共産主義世界では、(17)西ヨーロッパ諸国と日本が急速な経済成長を遂げたことで、アメリカの経済的地位は相対的に低下した。(18)ベトナム戦争の長期化により、アメリカの経済的疲弊はさらに深まった。(19)1970年代初頭、アメリカが自国の経済的利益を優先する政策を採用したことを契機に、ブレトン・ウッズ体制は大きく変容することとなった
 社会主義国よりなる東側陣営では、(20)1956年にソ連のフルシチョフが新たな政治路線を打ち出したことを大きな契機として、陣営内でさまざまな変動が生起した。中国はフルシチョフの新たな路線を批判し、(21)中ソ関係は国境をめぐる軍事衝突が発生するまでに悪化、最終的に中国は東側陣営から事実上離脱した。一方、東ヨー口ッパでは、抑圧的な国内政治体制と、ソ連の支配への批判がまり、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで政治的自由化に向かう動きが断続的に発生した。
 かつて植民地や半植民地などとして経済的に従属的な地位に置かれていた地域は、政治的独立を果たした後にも、低開発に苦しむことが多かった。しかし、このような地域の中からも、韓国・(22)台湾・シンガポール・香港・ブラジルなど、比較的早い段賠から急速な経済成長に成功する国や地域が現れた。これらが、のちに(23)新興工業経済地域(NIES)と呼ばれる地域のさきがけとなった。


(17) ▲古ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が結成される契機となった提案を行ったフランス外相の名を記せ。

(18) ベトナムからのアメリカ軍の撤退を定めた和平協定が締結された都市はどこか。

(19) 1971〜73年にブレトン・ウッズ体制に生じた変化を、それに関連するニクソン政権の政策と合わせて、簡潔に説明せよ。

(20) ●このときフルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について、簡潔に説明せよ。

(21) 1969年3月に、ソ連と中国の間で領有権をめぐって大規模な戦闘が起こったのはどこか。

(21) ●1988年に総統に就任し民主化を推進した人物の名を記せ。

(22) ●新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴を、簡潔に説明せよ。

………………………………………

コメント

第1問 (20点)
 課題は「トルコ系の人々のイスラーム化」の過程について、とくに9世紀から12世紀に至る時期の様相を、以下の二つのキーワード(マムルーク カラハン朝)を両方とも用いて」でした。このイスラーム化の中身は前半の文「イスラーム教・イスラーム文化を受容した中央アジアのトルコ系の人々」と説明してあります。つまり宗教を受けて入れただけでなく、「イスラーム文化」を受容したことも入っています。大きくは「文化」の中に「宗教」もはいりますが、ここでは分けて問うているので「宗教以外の文化」ととればいいでしょう。自分・他人(予備校も含む)の解答を批判するときに、宗教以外の文化がどれだけ考慮してあるか見るといいのです。この考慮がないとたんなるトルコ人のイスラーム王朝興亡史になります。
 たとえば以下のような解答。

アッバース朝の下でトルコ人は軍人奴隷であるマムルークとして組織され、イスラーム世界で軍事力の中核を担うようになった。他方、トルコ人のウイグルがキルギスにより崩壊すると、彼らの一部が中央アジアに移動し、イスラーム教を受容してカラハン朝を樹立した。これ以降、トルコ人の間でイスラーム化が始まった。彼らはアフガニスタンにガズナ朝を樹立し、次いで北インドへと侵攻した。さらに中央アジアで成立したセルジューク朝はバグダードに入城し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けた。その後アナトリアにも進出し、この地域のイスラーム化を進めた。また彼らはエジプトで成立したアイユープ朝でもマムルークとして活躍した。

▲トルコ人がイスラーム化した、つまりイスラーム教という宗教に改宗したのは、中央アジアに移動してからですが、それまでは何を信じていたのでしょう? マニ教や仏教です。また指定語句のカラ=ハン朝から中央アジアのトルコ(人)化(トルキスタン化)も始まりました。印欧語系のひとびと(ソグド人)のところがトルコ人の住む地に次第に変わったのは、このトルコ人の中央アジアへの大移住の結果でした。またイスラーム化したため、アラビア語(文字)の採用も伴ったはずです。アッバース朝下のマムルークになった時点ではアラビア語の採用は確かです。これらが文化です。ただ、まだトルコ=イスラーム文明(文化)という点にまで発展していません。いずれティムール帝国(14〜15世紀)になって完成します(トルコ文学、細密画、天文学)。

第2問
 難解そうなところだけ解説します。大半はかんたんな問題なので。
A 空欄[ c ]は下に2回目に出てくるのがヒントです。「高洋が[ c ]の禅譲を受けて北斉を建国」とあり、北斉の前が何かを推理する。北魏が分裂して東西に分かれ、東魏・西魏となり、それぞれ北斉・北周と受けつがれます。それで東魏が正解。統一の方向は東魏でなく、西魏→北周→隋という順でしたが。

問(3) 「遼東郡を設置した国の名」のヒントは「戦国時代、中国北辺の諸国は長城を築き、郡を設置して遊牧民の侵攻に備えた」という前文です。七雄の中で遼東半島に一番近い国、北京(当時の名は薊)の支配者はなんという国か、ということ。燕雲十六州でも表現している国名・都市名です。

問(6) (ア) 「五胡のうち「匈奴の別部」とされる民族」とは五胡を全部数えたら出てくるかも知れない。匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の中の羯(けつ)です。氐と羌はチベット系。

問(8) (ア) 「渤海の国都」は、教科書によっては長安、平城京とともに碁盤の目の都城図が載っているので覚えているひともいるだろう。

第3問
 課題は「イギリスとプ口イセンの場合を比較しながら、啓蒙思想がどのような人々によって受容され、また、そのことがどのような影響を政治や社会に及ぼしたか」でした。ここにはいくつもの要求があります。まずなにより英普の比較です。自分と他人(予備校も)の答案を批判する際に、この比較ができているかどうか、つまり啓蒙思想の受容が英普でどうちがったのか、政治への影響のちがい、社会への影響のちがい、がそれぞれ3点書いてあるかどうか。「比較しながら」はこの3点全部に及びます。

 そもそも啓蒙思想家を想起できるかどうか、ですね。教科書では啓蒙思想家とあればフランス人で埋まっていますが、英国ならロックとアダム=スミスくらいでしょうか。ロックは17世紀のひと(1632〜1704)ですが、その影響は18世紀にもあります。アメリカの独立宣言に彼の思想が息づいていることは学んでいるはずです。つまりそれだけ読み継がれているということです。この他には? いますよ。
 選挙法改正運動をおこなったベンサム(1748〜1832)もいます。選挙法改正は第1回は1832年に実現し、この年にベンサムも死去しますが、運動自体は18世紀末からありました。かれの「最大多数の最大幸福」の主張は1768年の著書から現れていて、これを実現する方法が選挙法改正でした。
 奴隷貿易の廃止は1807年に、奴隷労働の廃止は1833年に実現しますが、その代表的な運動者ウィルバーフォース(1759〜1833)が生きていたのも18世紀です。「1787年にウィルバーフォースの友人、グランビル・シャープが1786年に設立した奴隷貿易廃止促進協会にウィルバーフォースも参加した」とウィキペディアの記事にあります。
 トマス=ペイン(1737〜1809)はアメリカ人? いいえ、イギリス人です。用語集に「イギリス生まれの文筆家・革命思想家。76年に「コモン=センス」を著し、独立への気運を高めた。のちフランス革命で国民公会の議員を務めた」と書いてありますよ。つまり英仏米で活躍した人物です。イギリスで出版した『人間の権利』(1791)で貴族攻撃をしたためイギリス政府に追放され、パリに渡ってフランスの市民権を得、国民公会では新憲法の草案作成委員会にまでなるという特異な人物です。
 また『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作者デフォー(1660〜1731)もあげることができます。「その『イングランド人民全体の本源的権力の検討と主張』(1701)によって、ロック思想の普及者となった、といわれる。この書物は、ケントの地主が提出した下院への請願の内容が不穏当であるとして請願者が逮捕されたのに抗議し、人民の権力こそあらゆる権力の根源であることを主張したものであり、そのほかのいくつかのパンフレットにおいても、デフォーは王権神授説批判、社会契約説、抵抗権論などを展開している。しかしこのことはかれが体制批判者であったことを決して意味しない。かれは抵抗権を主張しつつ、革命には反対なのであり、名誉革命を支持しつつ、クロムゥェルの共和制に対しては最大級の非難をなげかけるのである。こういう態度はデフォーだけでなく、当時ふつうにみられたところであったが」(浜林正夫著『イギリス民主主義思想史』新日本出版社,p249)。
 ドイツの啓蒙思想家にはライプニッツやカントが含まれますが、大陸合理論のライプニッツには民主主義に関する言論がありません。観念論のカントは、立憲君主政の主張者だが、ロックのような市民の抵抗権・革命権は認めず、服従を解いた思想家でした。フランス革命に拒絶反応を示したことでもそれは表れています。
 イギリスはアダム=スミスだけあげて、プロイセンは啓蒙思想家を挙げない解答も変な者ですが、そういう解答例ばかり見てきたでしょう。
 またイギリスでは議会とか責任内閣制のことが書いてあるのに、プロイセンで議会がどうだったのか何も書いてないものも多い。また影響としてプロイセンでは農奴解放ができなかったのに、さも出来たかのように書いてある答案例も見たでしょう。「比較」の問題が出題されると、どうしようもない程ひどい答案を書いてしまうものです。「比較」文を書く方法論がないためです。

第4問
 難問だけの解説です。
A 
(2) 「オクタウィアヌス(アウグストゥス)の知遇をえて」では分からなくても「ローマの建国伝説をテーマとする一大叙事詩」=『アエネイス』の作者は誰か、という問題。ラテン語の発音としてはウェルギリウス、ヴェルギリウスも可。

(6) 「15世紀、この海峡の両側を支配していた王国の名」とは、カルマル同盟(1397)以来のデンマーク王国。16世紀(1523)にスウェーデンが独立するまでのこと。

B
(10) 「彼ら(カトリック教徒)は16世紀半ばの一時期、イギリスで復権した。その理由を簡潔に記せ」という問。「16世紀半ば」とはエリザベス1世(1558)の前がカトリックの女王でした。ブラッディ・メアリーという名をもらうことになった迫害を行った。映画『エリザベス』では新教徒に改宗した牧師たちを火刑にする場面からでした。

(12) 「18世紀初頭にイギリスで王朝交代……イギリスの新しい王朝」という問題。アン女王で断絶したステュアート朝の後はドイツからジョージ1世が来ました(1714、『ワンフレーズ』の覚え方ではでは「歯NO婆、どないしょ」)。この王朝名は?

(13) 「革命政権は1792年に戦争に踏み切った。このとき最初に宣戦した相手国」はマリー=アントアネットの出身国です。母はマリア=テレジア。

(15) 「1881年にある人物が暗殺されたことがきっかけで、農民たちは農奴制が復活するのではとの恐怖に駆られ……この人物」ということは農奴解放令を発布した皇帝です。発布は20年前でした。

C
(20) 「フルシチョフが打ち出した新たな路線を、国内政策と対外政策について」=「スターリン批判」の内外政策です。内は個人崇拝の否定、外は資本主義国と平和共存、あるいは暴力革命の否定です。

(21) 「1988年に総統に就任し民主化を推進した人物」。それまで長いこと総統は蒋介石、次に厳家淦(75〜77)、そして蒋の子(蒋経国、77〜87)が就いてきた。京大農学部で学んで共産党員にもなったが2年で離党した。戦後、米国に留学、帰国して大学教授となった。1971年に国民党に入党してから政界入りした。

(22) 「新興工業経済地域(NIES)の主要な国々が1960〜70年代に急速な経済発展を実現した際に採用した経済政策の特徴」という課題なので、開発独裁といわれる政治的な要素は要らない。輸入代替型の工業化(輸入している工業製品の国産化)を進めていたが,その後輸出指向型の工業化(技術導入・研究開発を支援し、関税を引下げて外資系企業の誘致を促す政策をとり、輸出を促す)を推進したことを指し、1960年代から世界平均を上回る高度成長を遂げていきます。

(わたしの解答例)
第1問
9世紀ウイグル文字をもつウイグル人がキルギスに追放され西走すると、天山山脈西北にカラハン朝を建国した。かれらは更に西進し、中央アジアをトルキスタン化するとともに、マニ教・仏教の信仰からイスラーム教に改宗した。10世紀、サーマン朝を破り、トルコ人はマムルークとしてアッバース朝に雇われ軍事の中核となり、この頃アラビア文字を採用した。11世紀にセルジューク朝を建国、バグダードに入城してブワイフ朝を追放した。その結果トゥグリル=ベクはスルタン称号をもらいカリフを宗教的権威のみに落し政治権力を握った。ビザンツ帝国を脅かしたが、十字軍との戦いから分裂していった。マムルークたちはアイユーブ朝の軍事を担った。
第2問
空欄 a司馬炎 b拓跋 c東魏
(1)陰陽家
(2)太平道
(3)燕
(4)(ア)司馬遷 (イ)クシャーナ朝
(6)王莽(草冠+犬+草)
(6)(ア)羯 (イ)仏図澄
(7)宋
(8)(ア)上京竜泉府 (イ)猛安(・)謀克 (ウ)ヌルハチ
B
空欄 d趙匡胤 e東林 f国民党
(9)党錮の禁
(10)殿試
(11)財政再建、軍事力強化
(12)科挙廃止
(13)民権伸張、民生安定
(14)変法運動
(15)(幹線)鉄道
(16)二十一カ条要求
(17)西安
(18)(プロレタリア)文化大革命
第3問
英国で受容したのは産業資本家・革新的ジェントリーであり、市民政府論のロック、人権論のトマス=ペイン、自由放任のアダム=スミス、功利主義のベンサムの諸説を受け入れた。普国で受容したのは近代化を急ぐ国王と一部のユンカー層に限られ、大陸合理論のライプニッツ、観念論のカントの説を受容した。政治的影響は、英国では責任内閣制を実現して国王の権力を無力化し、議会政治の発展が見られ、選挙法改正運動が起きた。しかし普国では国王の権力強化・中央集権化に寄与した。官僚による統治は発展したが議会政治の発展はなかった。社会的影響は英国では奴隷解放運動に発展した。普国では宗教寛容令に表れたが農奴解放を実現しなかった。
第4問

空欄 aサラミス b北海 cリューベック
(1)カルタゴ
(2)ウェルギリウス
(3)後ウマイヤ朝
(4)両シチリア王国
(5)ヨハネ騎士団・ドイツ騎士団・テンプル騎士団 (うち2つ)
(6)デンマーク(王国)

(7)シオニズム
(8)イサベル(イザベル)
(9)アムステルダム
(10)メアリ1世の旧教復活
(11)ホーエンツォレルン家
(12)ハノーヴァー朝
(13)オーストリア
(14)綿花(棉花)・サトウキビ・タバコ(うち2つ)
(15)アレクサンドル2世
(16)イタリア

(17)シューマン
(18)パリ
(19)アメリカがドルと金の交換を停止し,そのため固定相場制は変動相場制へと移行した。
(20)国内は個人崇拝否定によるスターリン批判、対外的には資本主義諸国との共存と平和革命の主張。
(21)ダマンスキー(珍宝)島
(22)李登輝
(23)それまでの先進国製品の国産化から、先進国の技術・資本を導入し、輸出へと転換した。

 

京大世界史2010

第1問(20点)
 中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(12)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代オリエントでは、大河の流域で、はやくから灌漑(かんがい)農業が行われ、定住が進み、都市を中心とした文明が生まれた。メソポタミアでは、前3000年頃からシュメール人が、[  a  ]川下流域のウル・ウルクなど様々な都市国家を築いた。前24世紀頃これらの都市国家を征服してメソポタミアを統ーしたのがセム語族の[  b  ]人である。その後、同じセム語族の(1)アムル人が強力な国家を建設し、前18世紀前半ハンムラビ王のとき全メソポタミアを支配下に置いた。この王国は、小アジアに建国したヒッタイトに滅ぼされた。一方、エジプトでは前3000年頃までに最初の統一王国が生まれ古王国はメンフィス、中王国はテーベを中心に栄えた。新王国では、前14世紀半ば(2)アメンホテプ4世が改革に着手して遷都すると、新都を中心に写実的な[  c  ]美術が生まれた
 エジプト王国とヒッタイト王国が弱体化するとシリア・パレスティナでは、セム語族の3民族、[  d  ]人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。(3)[  d  ]人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍し、フェニキア人は沿岸部にシドン・ティルスなどの都市国家をつくり、地中海交易を独占した。前7世紀前半に古代オリエントはアッシリア王国により統一され、その崩壊後はイラン人が大帝国[  e  ]朝ペルシアを建設したが、前4世紀後半アレクサンドロス大王がこれを滅ぼした。
 アレクサンドロス大王没後そのアジアの領土はセレウコス朝に受け継がれたが、前3世紀半ばにはバクトリアが独立し、またイラン系のパルティアが建国された。パルティアが[  f  ]川河畔に築いたクテシフォンは、パルティアおよびこれを倒した王朝の首都となった。ヘレニズム時代に最も繁栄したのがプトレマイオス朝で、首都[  g  ]には研究所・図書館が建設され、学問の中心となった。プトレマイオス朝が滅びローマ帝国が拡大すると、(4)アラビア半島やシリア砂漠のオアシス諸都市は隊商都市として繁栄した
 7世紀初めアラビア半島西部の交易路上の都市にイスラームが興った。預言者ムハンマドと第3代までの正統カリフは[  h  ]を活動の拠点としたが、その後成立したウマイヤ朝はダマスクスを首都とした。(5)8世紀後半にアッバース朝が新都バグダードを築くと、この都市は、13世紀後半カイロにとって代わられるまで、イスラーム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄した。東方では10世紀にサーマーン朝の首都[  i  ]、11〜12世紀にはセルジューク朝下の主要なイラン都市においてイラン=イスラーム文化が栄えた。

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(1) (ア)この王国(王朝)の首都の名を記せ。
  (イ)この首都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(2) この新都の位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(3) ダマスクスの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。
(4) シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。
(5) バグダードの位置を地図上のA〜Nの中から選べ。

B 16〜17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが、国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(6)ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった[  j  ]はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴォルガ流域を制圧し、(7)そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(8)ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで[  k  ]というモンゴル国家が存在し続けた。
 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺(だいこうあんれい)以東の[  l  ]族のなかからヌルハチが台頭し、1616年にはハンを称した。ついで、(9)その子の[  m  ]は1636年に、本来は“主人筋"であった内モンゴル諸王侯に推戴(すいたい)されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(10)清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。
 (11)康熙帝・[  n  ]から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は、外モンゴルおよび[  o  ]仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ[  p  ]と激しく争いあう時代でもあった。(12)清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、1793年に乾隆帝のもとを訪れた[  q  ]が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。


(6) ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこのモンゴル国家は何というか。
(7) 1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(8) ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(9) このときの首都はどこか。
(10) このときの清朝の皇帝は誰か。
(11) 康熙帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(12) このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。

第3問(20点)
 古代ギリシア・ローマと西洋中世における軍事制度について、政治的・社会的な背景や影響を含めて、それぞれの特徴と変化を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章CA、B、C)の[   ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代末期にはじまる東西のキリスト教会の対立は(1)8世紀の聖像をめぐる論争によってますます深まり、11世紀には両教会は完全に分離するに至った。この東西教会の分離に先立って、ビザンツ帝国はスラヴ諸民族のあいだにキリスト教の布教活動を展開していた。9世紀には(2)ギリシア出身の修道士の兄弟がビザンツ皇帝によってモラヴィアに派遣され聖書と典礼書を現地の言語に翻訳し、布教を試みた。10世紀末には、キエフ公国の大公[  a  ]がビザンツ皇帝の妹との結婚を機にギリシア正教に改宗した。
 (3)1453年にビザンツ帝国が滅亡すると、モスクワ大公[  b  ]は最後のビザンツ皇帝の姪と結婚して(4)ツァーリを名乗り、自らをローマ帝国の継承者とみなした。また、コンスタンティノープル総主教のもとに従属していたモスクワ府主教は、1589年に総主教の地位に格上げされ、ビザンツ滅亡後の正教世界においてロシア正教会が指導的役割をはたすべきであるとする主張の実現が目指された。
 他方、(5)ローマから西方のキリスト教を受容したポーランド・リトアニアでは、(6)16世紀後半から、対抗宗教改革の一環として、カトリック教会がウクライナの正教徒社会への布教活動を推し進めた。西方のラテン=キリスト教文化の影響が浸透することによって、正教会の内部には対立が生じた。1652年にモスクワ総主教に就任したニコンは教会儀礼の改革を断行したが、かえってロシア正教会の分裂をもたらした。さらに、俗権に対する教権の優位を主張したニコンは、やがて(7)ツァーリであるアレクセイ=ミハイロヴィチと対立して総主教を解任された。18世紀前半、ピョートルl世は総主教制を廃止し、宗務院を設置して正教会を国家機関のなかに組み込んだ。この状態は、ロシア革命後に宗務院が廃止されるまで続いた。


(1) 8世紀前半に聖像崇拝を禁止する布告を発したビザンツ皇帝の名を記せ。
(2) この修道士の名前を1人挙げよ。
(3) このときコンスタンティノープルを攻略してアドリアノープル(エディルネ)からこの地に首都を移した君主の名を記せ。
(4) この称号の語源となった古代ローマの有力政治家の名を記せ。
(5) ポーランド人と並んで、ローマ=カトリックに改宗した西スラヴ系の民族を1つ挙げよ。
(6) このときカトリック布教の中心となった修道会は、1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動を行った。この修道会の名称を記せ。
(7) このツアーリの治世下、1670年から71年にかけてヴォルガ川流域からカスピ海沿岸にかけての地域で大規模な反乱が発生した。
 (ア) この反乱の中心となった戦土集団の名称を記せ。
 (イ) この反乱を指導した人物の名を記せ。

 人口の増減や移動はヨーロッパ近代史を強く規定した。
 大航海時代の幕開けとともに、ヨーロッパの人々はヨーロッパの外の世界からのさまざまな影響にさらされるようになった。(8)中世後期に激減した人口の回復基調とも重なり、また、南米から大量の銀が流入し、物価騰貴がもたらされたことも刺激となって、(9)16世紀には、商業活動が新たに盛り上がった。しかし、17世紀に入ると様相は一変し、深刻な人口停滞と経済不況を含む(10)「17世紀の危機」と呼ばれる状況があらわれた。
  危機の時代を経て、ヨーロッパは新たな局面に入った。ある推計によると、ヨーロッパの人口は、1750年に1億4400万人であったが、1850年には2億7400万人、1900年には4億2300万人と、(11)未曾有のペースで増加した。これは、同じ時期にヨーロッパ社会を大きく変容させることになった一連の産業革命の原因であり、また結果でもあった。
 たとえば、世界最初の産業革命の地イギリスにおいては、農業生産方式の革新が、都市の人口、言い換えれば商業や工業を担う人々を支えた。(12)1851年には、イングランドの実に37.6%の人が人口2万人以上の都市に住むようになった。そして、こうした都市民を中心に構築された巨大な消費市場は、世界中の商品を引き寄せた。
 上述の人口推計には、(13)ヨーロッパの外への移民の数は含まれていない。その数は、20世紀の最初10年間だけで、約120万人にも及んだ。それほどヨーロッパにおける人口の伸び、したがって人口の圧力には、著しいものがあった。


(8) (ア) この時期の人口激減のもっとも大きな要因になった病気の名前を記せ。
  (ィ) パリに生まれ、ナポリやフィレンツェに暮らしたある人物は、(ア)の要因をきっかけに集まった10人の男女が順に話を語り継ぐ、10日間の物語を書いた。この人物の名を記せ。
(9) 一方で、それまでヨーロッパ経済における一大勢力であったイタリア諸都市は、相対的重要性を次第に低下させただけでなく、政治的にも混乱し、イタリア戦争の舞台となった。この戦争に中心的に関わった二つの王家を挙げよ。
(10) 17世紀の危機は三十年戦争に代表されるように戦争や反乱の頻発という形でもあらわれた。この時期フランスで起きた大規模な貴族反乱を記せ。
(11) 18世紀の末、このような人口増加の問題について鋭い診断を下して、大きな衝撃を与えた学者の名を記せ。
(12) (ア)同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベントが催された。それは何か。
  (イ) 産業革命期、急激に人口が増え、コブデンやブライトが活躍したことでも知られる都市の名を記せ。
  (ウ) 1871年の段階で、ドイツの同じ数値は7.7%であった。しかし、その後ドイツは急速な都市化と工業化を遂げ帝国主義的拡張を追求するようになり、イギリスの脅威となった。このような「世界政策」を行った皇帝の名を記せ。
(13) (ア) 19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民の大半が向かった国はどこか。
  (イ) アイルランドから大量の移民を出すことになった大きなきっかけは何か。

C 西ヨーロッパ世界の外部への拡大過程で、東南アジアは次第に世界経済に組み込まれ、19世紀末までにその大部分が西ヨーロッパ諸国の植民地に編成されていった。
 16世紀には、スペインとポルトガルが、香料などを求めて東南アジアに進出した。スペインはフィリピンを領有したが、ポルトガルは(14)東南アジアではごく小さな領土を保持するにとどまった。17世紀にはオランダとイギリスそれぞれの東インド会社が勢力を競ったが、まもなくオランダが優位を築き、のちに(15)オランダ領東インドとなる東南アジア島嶼(とうしょ)部の広大な領域を勢力下におさめていった。一方、イギリスはナポレオン戦争後に海峡植民地を建設し、同植民地はのちの(16)イギリス領マラヤ」の中心となった。インドシナ半島では、19世紀後半にフランス領インドシナ連邦が建設された。
 20世紀初頭には東南アジア各地で(17)植民地支配に抵抗しさらには政治的独立を要求する民族運動が勃興した。第二次世界大戦中にこれらの地域の植民地政府が一時的に崩壊すると、独立への動きが加速した。インドシナでは、大戦終結の直後にベトナム民主共和国の独立が宣言されたが、(18)植民地支配の回復を求めるフランスとの戦闘が1954年まで続いた。オランダ領東インドでも、(19)インドネシア共和国の独立が宣言され、オランダとの武力闘争を経て、1949年に正式な独立が認められた。イギリス領マラヤは1957年にマラヤ連邦として独立し、(20)1963年に周辺のイギリス領を加えてマレーシア連邦を形成した


(14) 旧ポルトガル領で、1976年にインドネシアに併合された後、2002年に完全独立した地域の名称を記せ。
(15) 輸出用作物の栽培を促進するためにオランダがジャワ島に1830年代に導入した制度の名称を記せ。
(16) イギリス領マラヤから輸出された主要な鉱物資源は何か。
(17) 1910年代のオランダ領東インドで最も大きな勢力を誇った民族主義組織の名称を記せ。
(18) 1954年に締結されたジュネーヴ協定においてベトナムについて合意された内容を簡潔に説明せよ。
(19) 1960年代後半にインドネシアの実権を掌握し、開発独裁体制を築いた指導者の名前を記せ。
(20) マレーシア連邦の結成に参加したある地域は、1965年に連邦から分離独立した。
 (ア) この地域の名称を記せ。
 (イ) 分離独立の背景を簡潔に説明せよ。
………………………………………
コメント
第1問
 ここに各予備校のHPで公表されている答案例を陳列します。
 他人の解答を掲載する際にはルールが必要です。出典を示すこと、また引用したものはあくまで従であり、わたしの文章が主になっていなくてはならないことです。▲の横から始まるコメントがわたしの文章(見方)です。

 課題は「中国共産党について、その結成から中華人民共和国建国にいたる歴史を、中国国民党との関係を含めて300字以内で説明せよ」でした。主問は共産党史であり、副問として「国民党との関係」が付いています。時間は1921年から1949年までです。どれくらい中国共産党史に迫った内容になっているかが判定基準です。この基準は大学が求めていることであり、受験生も、たぶん(?)予備校も求められる基準です。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの支援のもと上海で結成された。そして中国国民党と第1次国共合作を行い、軍関打倒をめざす北伐をともに始めたが、上海クーデタ後に合作が破綻すると、紅軍を組織して各地の農村に根拠地を建設し、1931年瑞金で毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立した。しかし国民党の攻撃を受け、長征を開始して延安に移動した。その間に八・一宣言を発表し、内戦の停止と民族統一戦線の結成を訴えると、西安事件が起こり、日中戦争の勃発後、第2次国共合作が成立して両党は抗日戦を展開した。戦後、国共内戦が本格化すると、土地改革で農民の支持を得た共産党が勝利し、1949年中華人民共和国を建国した。
▲まちがいのない解答ですが、共産党史という主題において、コミンテルン・八・一宣言の詳しめの説明は不可欠ではありません。紅軍を書いたのであれば、むしろ発展した八路軍・新四軍などを入れた方がより党史になります。それでいえば「1949年中華人民共和国を建国」とするより、「1949年人民解放軍が統一した」とすれば一貫性があります。また長征途中の遵義会議を入れて毛沢東の実権確立を入れた方が瑞金での毛沢東が「主席」だという借りものにすぎなかった地位の説明より大事でしょう。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
中国共産党は第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に結成され、その後軍閥打倒のため国民党と第一次国共合作を行って北伐を開始したが、国民党の蒋介石による上海クーデタで合作は崩れた。その後、日本の満州進出が激しくなるなか、瑞金の中華ソヴィエト共和国に対し蒋介石が猛攻を加えたため、共産党は長征を行って拠点を延安へ遷す一方、八・一宣言を発して一致抗日を呼び掛けた。これに呼応して張学良が起こした西安事件を機に両党の話し合いが始まり、日中戦争の勃発直後に第二次国共合作が成立し、両党は協力して抗日戦を遂行した。しかし、日本が敗れると内戦が再開され、勝利した共産党が中華人民共和国を建国し、国民党は台湾へ逃れた。
▲「第一次世界大戦後コミンテルンの指導下に……その後、日本の満州進出が激しくなるなか……日本が敗れると内戦が再開され」は共産党史という主題の中では無くてもいいものです。日本との関係を問うているのではないし、どうしても当時の東アジアの全体状況を書いてしまいやすい傾向があるので、これを抑えて党史に集中した解答にすべきでした。紅軍・八路軍・遵義会議・土地改革などを入れた方がベターです。
 下の解答例は皆同じコメントでいい。たがいに見合いながら書いたかのように酷似した答案で上の答案と同じ欠点をもっています。合格者の再現答案と比較したら、密度の点で、ということは得点の取り方の点で予備校の解答が薄っぺらい解答であることが判別できるでしょう。(→こちら)

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
中国共産党は、1921年コミンテルンの指導で結成された。その後24年に中国国民党と第一次国共合作を成立させて北伐を行ったが、国民党の蒋介石による弾圧を受け内戦が始まった。日本の侵略激化のなか、31年には江西省瑞金に中華ソヴィエト共和国を成立させたが,国民党の攻撃にあい本拠地を陝西省延安に遷す長征を開始した。この途上で共産党がハ・一宣言を発して一致抗日を唱えると,国民党側にも同調者が現れ蒋介石が監禁される西安事件が発生した。この事件が共産党の調停により解決すると第二次国共合作が成立したが,終戦後には内戦が再開され、共産党は最終的に勝利して49年に中華人民共和国を建国し、敗れた国民党は台湾へ移動した。(297宇)

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
【解答例】
11921年、コミンテルンの支援により中国共産党が結成され、24年には国民党との第一次回共合作が成立した。26年に北伐が発動されたが、総司令の蒋介石が上海で反共クーデタを起こし、国共合作は崩壊した。共産党は農村に拠点を移し、31年には瑞金に毛沢東を主席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府が成立した。日本軍の脅威が迫るなか蒋介石は共産党攻撃を優先させ、共産党は拠点を放棄して長征を開始した。この途上共産党は八・ー宣言を発して抗日統一を呼びかけ、これに共鳴した張学良が起こした西安事件をきっかけに第二次国共合作が成立した。日本が敗退すると国共は再び分裂し、49年に中華人民共和国が建国され、敗れた蒋介石は台湾に逃れた。(300字)

 なお、どの解答例も西安事件について言及しつつも、共産党の関わりを積極的に書いているのは(東進)のものだけです。山川用語集には「中国共産党の周恩来らの説得によって」と書いてあります。説得の必要性は、すぐは折れない蒋介石に対して、張学良と楊虎城の名で、全国に向かって内戦停止、一致抗日を訴えたため国中が粉糾しだしたからです。中国の最高指導者の監禁という異常な事件に対して、裁判や公開処刑の声もあがっていました。張の依頼を受け、周恩来・葉剣英らが延安から飛来して、蒋介石を説得するとともに、南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、和解に達したのは共産党の働きです。この会談の結果、すぐ第二次国共合作ができたのではないが内戦停止にはなりました。共産党の関わりなしに解決できない事件でした。
 ベネッセ(http://tk.benesse.co.jp/k_conquest/prompt_report/k_w_history_10.html)の解説には「西安事件など、共産党と関わりの薄い事項は適宜削除することも必要だ」とありますが、「国民党との関係を含めて」と要求されている問題に、こういうアドバイスする気が知れない。もちろん、ここに書いているわたしの意見は、わたし個人の意見であり、眉唾つけながら読んで下さい。冷静な目を。

第2問
A
 上から順に空欄・下線の区別なしで解説します。地図以外はほぼセンター試験のレベルです。
空欄a ウルやウルクが何川下流域かと問うている細かい問題です。地図にあるK・L側がユーフラテス川、J側がティグリス川です。Lの周辺にあったと思い出せたら正解です。拙著『センター世界史B各駅停車』(以後『各駅』と省略)p.135にもウルとウルクの位置が地図が載ってます。

空欄b 「メソポタミアを統ーしたのがセム語族」とあるのでサルゴン1世の国・アッカド王国で、アッカド人となります。シュメール→アッカド→バビロン第一王朝の順は「朱赤はびこる」で覚えます(『各駅』p.132)。

下線部(1) (ア)この王国はバビロン第一王朝(古バビロニア王国)であり、王朝名のようにバビロン第一王朝が都です。(イ)その位置を地図上のK。反対側にあるJは問(5)のバグダードです。

下線部(2) テル=エル=アマルナの位置はナイル川沿いの都市Aアレクサンドリア、Bメンフィス、C正解、Dテーベが分かればいい(『各駅』p.128)。Bメンフィスの位置がちと下がりぎみではあります。

空欄c 写実的なという形容がつくこの首都の名前をとった言い方です。ありのまま写すように奨励したためアメンホテプ4世は妊娠した腹のように突き出た姿を後世にさらすことになりました。

空欄d セム語族でダマスクスを中心に交易、とあればアラム商人です。

下線部(3) ダマスクスの位置は、現シリア南部Fです、海岸線はレバノンになるのでEはフェニキア人の街ビブロスかシドン、Gはイェルサレムでしょう。

空欄e アッシリア帝国崩壊後の大帝国は四国分立後のアケメネス朝ペルシア帝国しかありません。それにアレクサンドロスによって滅ぼされる(前330)のですから。

空欄f クテシフォンはバグダードのあるティグリス川沿いを下っていくと東南にあります。クテシフォンの位置を確かめて勉強したひとはどれだけいるでしょうか?(『各駅』p.138,140の地図)。パルティアとササン朝の双方とも都になったので、「PSフォン」と覚えます。

空欄g プトレマイオス朝の首都なので、アレクサンドリア市。王立研究所ムセイオンは名高い自然科学の場でした(1998年度に出題)。

下線部(4) これはセンター・レベルではありません。「シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し」でも分からない、「現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ」といわれても受験生にとって有名ではないという世界遺産はたくさんあります。これはできなくていい問題でした。山川の用語集では頻度2ですが、わたしの持っている教科書7冊の中には記載したものがありません。もちろんパルミラのことはオリエント史の本を読めば出てくるので、そんなに細かいとは言えないが、受験生はそんなに歴史書を読めるはずがないので、できなくていい、と言ってます。なーに1点減点で恐がる必要はないのです。私大でもたまにしか出ません。最近では学習院(10・文学部)と慶應(07・法学部、語群にあるだけで正解ではない)で。

空欄h 正統カリフ時代の都ですから、メディナ(マディーナ、当時の名はヤスリブ)です。ムハンマド(マホメット)の母親の故郷であり、ムハンマドの墓地のあるところです。地図のIがメッカ(マッカ)で北のHがヤスリブです。

下線部(5) バグダードの位置はティグリス川沿いのJです。「ググ」と覚えます。出題されなかった地図のイラン(ペルシア)のMはスサで、Nはペルセポリスです。

空欄 i 地図の範囲外なので載っていませんが、地図の東側をもっと拡大すればアラル海に注ぐ南側の川にアム川というのがあり、その中流域にある都市です。ここを16世紀に支配したウズベク族が分かれてブハラ(ボハラ)=ハン国になるところです。イブン=シーナー(スィーナー、アヴィケンナ、980〜1037)がここの医師として名高い都市です(『各駅』p.144)。

B
下線部(6) 「ルーシと呼ばれた地域」とはロシアのこと。ロシアを支配したモンゴルの国、という易問です。

空欄J 「16世紀半ば、王となった」とあるのでイヴァン4世です。「半ば」は大雑把すぎますが、即位は1533年(『世界史年代ワンフレーズnew(以下『ワン』)』の語呂では「イヴァンナ、先1公5め3メ3ッ」)です。カザン=ハン国とアストラハン=ハン国はキプチャク=ハン国が分解して、ヴォルガ川上流にカザン=ハン国、下流にアストラハン=ハン国ができました。イヴァン3世はモスクワの北部を4世は南部を征服しています。

下線部(7) 年代に諸説ある場合の注釈を吉川弘文館の世界史年表・巻末の解説でおこなっています。この場合も1年と2年説があり、「イェルマクがシベリア遠征隊を組織したのが1581年であり,遠征隊がウラル山脈を越えてシビル汗国を滅ぼしたのが1582年である」と。しかしこれも確かなことは分からず、「82年10月にハーン国の首都シビルを占領した。しかし3年後の85年(一説に84年)8月クチュム・ハーンの夜襲をうけて負傷,イルティシ川の支流で溺死した。残されたコサックはシビル市を捨ててロシアに帰ったが」(平凡社百科辞典)とあるように、失敗しています。オランダが独立宣言をしたのが1581年なのでいっしょに覚えます(『ワン』では「オランダ・シベリアは、人155倍81」)。

下線部(8) 「ある山脈を境」はすでに(7)で越えています。シビル=ハン国はウラル山脈を越えたところにありました。「シビル=シベリア」です。

空欄K ヒントは空欄の前の「1783年」です。この頃の女帝エカチェリーナ2世(18世紀後半はすべて彼女と覚えておきます、位1762〜96)が黒海の北にあるこの国を滅ぼしてセヴァストポリ要塞を築くことになる、クリム=ハン国です。この地域のモンゴル人はクリミア・タタールといい、トルコ人と相当混血したものらしい。スターリンによって中央アジアに追放されました。しかし1991年にタタール人の集会(クリルタイ)が開かれ、帰還を決め、今は25万人が帰っています。

空欄 l 「ヌルハチ」とあればジュルチン(女真)族です。

空欄m 後金創始者ヌルハチは、1624年、チンギスの弟の血をひくホルチン部族の領主と婚姻をむすんで同盟し、1636年の大清と国号を改称したホンタイジ(皇太子)は、元朝皇帝の後裔から旧元朝の皇帝玉璽(ぎょくじ)を献上してもらい支配の正統性を引き継いでいます。ホンタイジの皇后は皆モンゴル人で、三人はホルチン部族出身、残りはチャハル部族のリンダン汗の未亡人でした。一方のロシアは、1575年イヴァン4世の時に、キプチャク=ハン国の後裔の汗から位を継承する手続きをと取っています(詳しくは山内昌之著『ラディカルヒストリー、ロシア史とイスラム史のフロンティア』中公新書、第一章)。イヴァン4世自身の母方はチンギス汗の男系子孫ではなかったが、モンゴル有力部族の出身であり、モンゴル民族からは「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれていました。

下線部(9) 清朝の初期の都を問うています。瀋陽は1634年には盛京、1657年には奉天(府)と呼びました。これは細かい。

下線部(10) 北京入城は1644年で3代目の5歳の子供でした。フリンが満州名ですが、かれから順治帝と中国風に呼びます。

下線部(11) ロシアと清朝の最初の国境条約で、センター・レベルです。

空欄n 康煕帝と乾隆帝との間の皇帝名という、センター・レベル。漢字が正しく書けるかどうか。

空欄o この空欄oとpが迷うところですが、ヒントは空欄の前の「外モンゴルおよび」とあるので地名であること、空欄の後の「仏教文化圏」とあるので仏教と関係のある地名であること、三皇帝の時代が西方に領土を拡大し藩部にしていったこと、それが乾隆帝で完成することを考慮します。仏教関係国としては東方の朝鮮も日本も関連はあるものの藩部になったのではないので、残るはチベット(西蔵)しかありません。

空欄p 空欄の後の「モンゴル帝国以来の由緒」とあるのでモンゴル系であること、「激しく争いあう」関係になったものたち、とは「パミール以東」=回部(新疆ウイグル自治区)をめぐる争いでもあったこと。康熙帝がこの民族のガルダン=ハンを追放したが、天山山脈の北にあって雍正帝・乾隆帝と争い、乾隆帝のときにとうとう「制圧し」た、となればジュンガル(部)となります。

下線部(12) 「パミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャー」とあってこのシャーの名前は知らなくても、「パミール……西南」とあれば地図からアフガニスタンしかない。

空欄q ヒントは「1793年に乾隆帝……使節団」です。マカートニー一行がやって来ました。アメリカはホイットニーの綿繰り機発明、ヨーロッパはジャコバン派政権のフランス革命の年です。

 30点中、26〜28点は取れる問題でした。京大をこの世界史で受験するひとはセンター試験で世界史はとらないとしても、センター試験は世界史の基本でもありますから、センター試験の問題を解くといいです。

第3問
 課題(主問)は古代と中世の軍事制度について書けということですが、「政治的・社会的な背景や影響、それぞれの特徴と変化」とうるさいくらいの副問がくっついています。後半の特徴は比較することで表れる違いですから、内容的に違いが出ておれば、わざわざ「特徴は……」と書かなくても良いでしょう。それと古代から中世にかけて制度の変化を書かざるをえないので、これもわざわざ「変化は……」と書かなくていいはずです。となれば、「「政治的・社会的な背景や影響」は欠かせない。
 「政治的」は政治体制、君主、市民権、民会(元老院)、法などいろいろありますが、いちばん書きやすいのは政治体制(政体)でしょう。西欧古代史・中世史なら国家の規模も特殊です。都市国家から世界(多民族)帝国に発展し、それが分解して部族国家・中世都市・荘園と小さい単位になり中世末に次第に国民国家(権力面から絶対主義国家)に変化しました。君主の面では、初めはギリシア民主政・ローマ共和政から始まって、アテネ帝国・マケドニア王国の支配へと移行し、これらはローマに吸収されて君主のいないローマの帝国的発展があり、とうとう皇帝が登場して専制君主政にまでいき、瓦解してゲルマン人王の支配へと変化しました。
 「社会的」は京大がよく問う問い方でした。過去問では、1991,1993,2000,2008年などに表れています。「社会的」と問われて何を書くかは拙著『世界史論述練習帳 new』(パレード)のコラム(ここだけの話)に「社会って何?」というのがありますから詳しくはこれをお読みください。かんたんに言えば政治以外のすべてです。民族・身分・経済・文化とみなこの「社会」の中にはいるのですが、とくに経済史です。経済がいちばんよく教科書に書いてあるから、という事情もあります。古代・中世史なら、奴隷制からコロヌス制、そして農奴制と農奴解放へ、という働き手の地位変化です。商業面でなら地中海世界全体の商業圏から、次第に都市の衰えた農村中心の自然経済(貨幣流通のない経済)、そして11世紀から全欧での商業ルネサンス・貨幣経済・中世都市の発展です。

 さて肝心の軍事制度に注目しましょう。古代ギリシアもローマ共和政前期も武装自弁・市民皆兵の原則という制度でした。しかしギリシアもローマもこれは市民経済の破綻・戦争の頻発による荒廃の結果、維持できなくなり、傭兵・志願兵制に依存するようになりました。
 ギリシアの傭兵は外国人(他のポリス市民やスキタイ人)です。
 ローマの場合は外国人傭兵依存ではありません。ポエニ戦争までは、ローマ市民権をもち、財産をもっていて武装できるものたちが義務として参戦しました。ポエニ戦争以降はマリウスの兵制改革がおこなわれ、志願兵制(職業軍人制)になりました。財産資格を撤廃し、武器は国家が用意する、この兵士たちは征服地を退役とともに分配してもらう、ということになり、分配してくれる将軍たちの私兵のような存在になりました。しかしこれは傭兵=外人部隊ではありません。私兵的な要素をなくして国家の軍隊に転換したのが、元首政の常備軍(軍団)・親衛隊(近衛軍)の設置です(拙著『センター世界史B各駅停車』p.191)。これを明快に書いた教科書が見当たりませんが、専制君主政のところに軍備増強は必ず書いてあり、この増強する軍隊(30万→70万)が、要するに常備軍です。
 この常備軍を知りたければ、ウィキペディアの「ローマ軍団」を見るといい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ローマ軍団
 しかし3世紀の危機(軍人皇帝時代)から属州民の兵士を徴収したり、ゲルマン人を傭兵として雇うようになり、4世紀からは侵入するゲルマン人をローマ同盟軍として懐柔しました。常備軍以外のものが増えていきます。ゲルマン兵は、ますます領内に食い込んでいき、西ローマ帝国滅亡時には、イタリア半島は傭兵オドアケルの支配下にありました。このゲルマン人たちがローマ市民権をもっている多数のひとびとを支配する王国ができます。中世の始まりです。残った東ローマ皇帝から西方の総督の称号をもらって、かたちとしてはローマ帝国が存在しているかのような体制でした(中世ローマ帝国)。
 これらの王たちが支配できたのは小さい領域であり、王の家臣たち、つまり領主たち(諸侯・騎士)も小さい空間(荘園)を支配していました。軍事制度といっても、この小さい空間の支配のためであり、いざ外敵が現れるという危機のためだけ封建制という主従関係が機能しました。ばらばらな軍人をまとめられるのは教皇という宗教的権威だけです。その結果として十字軍・レコンキスタ・東方植民という集団的軍事行動が可能でした。
 中世末になると貨幣経済の浸透、火器の登場により、主従関係は崩れだし、封建契約も貨幣代納金を払うことで済ませるようになり、金を集めた国王が武器・兵士を雇って常備軍をつくるようになります。封建契約の下にあった領主たちは次第に官僚、傭兵軍の指揮官として生きていくように変化します。
 しかし中世末から現れる常備軍はすべてが傭兵ではありません。百年戦争のような国民的戦争になるとイギリス兵はイギリス人がほとんどであり、けっして外人傭兵軍ではありません。フランスは傭兵を雇っている間は勝てなかったので、シャルル7世が教区毎に徴兵する制度にし、国民軍に近い常備軍をつくりました。傭兵は2ヶ月契約が一般的であり信用できない兵士なので、こればかりを使って戦争はできません。国を守る、という意識はないし、戦争が終われば強盗になります(詳しくは『百年戦争のフランス軍 1337〜1453』新紀元社)。
 
 さて以上のことを踏まえて、予備校の答案を添削してみましょう。どれもほぼ同じようなことが書いてありますから、個別に点検する必要もないですね。

(河合塾)出典 http://kaisoku.kawai〜juku.ac.jp/nyushi/honshi/10/k01.html
古代ギリシア・ローマで、は富裕化した平民が重装歩兵として、貴族に代わって国防の主力となった。彼らは政治的発言力を強め、やがて戦士が市民団を形成して政治をになう体制を実現した。しかし戦乱が続いて貧富の差が拡大していくと重装歩兵軍団は解体し、市民皆兵の原則は崩れ、傭兵の使用が流行した。西洋中世ではノルマン人の侵入などの社会の混乱の中、ゲルマンの従士制とローマの恩貸地制が結合して封建制が成立し、封土を受けて軍事奉仕を行う騎士層が成立した。騎士は荘園領主として地方を支配し、分権的な社会を形成した。しかし商業の発達による荘園制の解体などにより騎士は没落し、中央集権を進める国王により傭兵が導入されていった。

(駿台)出典 http://www.sundai.ac.jp/yobi/sokuhou2010/kyodai/sekai/index.htm
古代ギリシア・ローマでは、初め貴族の騎兵が軍隊の主力であったが、やがて中小土地所有の平民が自弁で武装すると、その重装歩兵が軍事力の主力となった。彼らは参政権を要求し、貴族の政治独占は打破され貴族と平民の法的な平等が実現した。しかし戦争などにより兵力の担い手であった市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった。西洋中世では、外民族の侵入による混乱を背景に、主君が臣下に封土を与えて軍役を課す封建制が形成され、その下で騎士軍が軍隊の主力となった。その結果、諸侯や騎士が権力を握り地方分権的体制が広がった。しかし中世末期には諸侯・騎士が没落し、中央集権化を進める王権の下で傭兵が重用されるようになった。

(東進)出典 http://220.213.237.148/univsrch/ex/menu/index.html
古代ギリシア・ローマでは、当初、貴族による重装騎兵が軍事力の中心であったが,平民の武器自弁が可能になると彼らによる重装歩兵が中心に変化した。この結果、平民は貴族に対して参政権を求め始め,しだいに政治参加が実現すると市民皆兵の原則も確立されていった。しかし度重なる戦争などで平民が没落するとこの原則も崩れ,傭兵の使用や職業軍人制が開始された。一方、西洋中世では諸民族の侵入などを背景に主君と臣下の契約による封建的身分秩序が形成され,諸侯や騎士などが軍事力の中心となった。彼らは荘園を経済的基盤として地方分権社会を形成したが,中世末期に彼らが没落し王権が強化されると傭兵の使用が本格化するようになった。

(代々木)出典 http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/kyoto/zenki/sekaishi/images/kai.pdf
古代ギリシア・ローマでは初め貴族層が国防の担い手であったが、やがて武器の自弁が可能となった平民により重装歩兵軍団が構成され、戦いの主力となった。こうして平民の発言力は強まり民主化も進んだが、長期間の戦争などで平民層が没落すると、軍団は傭兵に支えられるようになった。ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入などで混乱した西ヨーロッパでは、主君が家臣に封土を与える代わりに軍事奉仕を求める封建的主従関係が成立し、西洋中世では騎士を中心とする戦士団が戦いの主力となった。しかし、中世後半に封建制が衰退し、戦術の変化などによって騎士層が没落すると、国王による中央集権化が進み、傭兵で組織された国軍が活躍した。

▲書いてあることは、古代については、
政治的背景・影響 貴族戦士が市民団を形成して政治をになう体制→貴族と平民の法的な平等
社会的背景・影響 中小土地所有の平民が自弁/富裕化した平民
軍事制度 平民が重装歩兵……国防の主力→重装歩兵軍団は解体→傭兵の使用
 となりますが、政治的背景としての政体が不明。帝政期のローマ(世界帝国)はどこへ行ったのでしょう? 約500年は無視? 京大の問題文は特にローマ共和政期に限定していません。東大が「ギリシアのポリスと共和制期の古代ローマ国家との間に共通に見られる重要な特徴を三つ挙げよ(1980)」と問う場合、「共和政期の」と限定しているのは、帝政期に入るとギリシアとの共通点がなくなるからです。しかし京大はそういう限定なしで出しているということは、帝政期も考慮していいということです。それに約500年間(前27〜476)と長い期間を無視できません。予備校の解答は古代の半分を勝手に削っています。いやマリウスの兵制改革(前110年頃、志願兵制)以降を書いてないので約600年間の削除です。東進は「職業軍人制」は良いのですが、これを常備軍に転換した元首政のことは書いてありません。
 との答案例も「市民が没落すると、傭兵が多用されるようになった」とギリシアの外国人による一時的な傭兵と、ローマの自国民志願兵に武器・給与(補償)を与えて長期に(25年)従軍させる常備「傭兵」とを区別していません。
 古代末期にゲルマン人を傭兵にする、といっても、傭兵だけで戦争はできません。主力はあくまで常備の正規軍団です。傭兵を強調しすぎてます。

 中世については、
政治的背景・影響 (外民族/ノルマン人の侵入?)封建制(恩貸地制・従士制/封土と軍役)→中央集権化を進める王権
社会的背景・影響 何も書いてない/騎士は荘園領主として地方を支配→荘園制の解体などにより騎士は没落
軍事制度 軍事奉仕を行う騎士層→傭兵が導入/重用

 古代は平民・市民とあり、中世は騎士、ということで特徴は出ているものの(厳密には、平民・市民と騎士はちがうものです、後述)、最後には古代も中世も「傭兵」依存・多用・重用ということなので「特徴(違い)」は出ていません。それに常備軍が傭兵で占められたように書いているのは、中世末であっても、上で説明したようにまちがいです。
 政治的背景・影響の面でも古代と中世ではかみあわない。法的な平等と封建制? どうちがう? これでは「それぞれの特徴」が表れない。
 どの答案も封建制と、その由来として恩貸地制(封土)と従士制(軍役)を説明していますが、封建制は軍事制度そのものではありません。社会的経済的なものも含んだ主従関係を指しており(特に、土地所有の承認・継承)、「従」の騎士にだけ軍事奉仕を書いて、軍事制度を書いたつもりでいます。しかし軍事の担当者は「主」の立場の皇帝・国王・諸侯も含むのであり、封建関係の契約者は互いに「戦う人」でした。むしろ中世西欧における封建制は、軍事制度としては、「君主の君主は君主でない」「家臣の家臣は家臣でない」というように、きわめて分権的で不安定な性格をもったものであった、ということです。古代との比較でいえば、軍事の担当者は市民・農民ではなく領主であったという点です。古代では市民を必ず書きながら、中世でこの領主を鮮明に指摘しているものはありません。
 どの答案例も古代から中世への変化が欠けています。「外民族」侵入をあげて、それに対する対応策としての封建制を挙げているのですが、しかし封建制ができる時期は9〜10世紀です。「封建的主従関係は……フランク王国分裂以後,本格的に出現した」と書いてあります(詳説)。「10世紀には……西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明確な姿をあらわしてくる」ともっと遅く10世紀からと説明をしているもの(東京書籍)もあります。この外民族に「ゲルマン人の大移動、イスラーム勢力の侵入」としているもの(代々木)は的外れです。だいたいゲルマン人が中世前期(6〜10世紀)の支配者であり、かれらの間で封建制はできあがるのですから、ゲルマン人の侵入に備えてゲルマン人が封建制で対応した、という変なことになります。これ以外の解答例は、明示しない(駿台・東進)か、ノルマン人(河合塾)としていますが、そうすると、中世の初めにあたる5〜6世紀からは8世紀までは空白になります。いやマリウスから書いてないのですから、前1世紀から後8世紀まで9世紀間が無視されています。
 社会的背景・影響では、中小土地所有の平民と、中世の何が対応しているのか? 書いてない。奴隷制と農奴制という基本的な社会基盤への言及が欠けています。書いてあることに間違いはなくても、分解してみると整合性のない無茶苦茶なものであることが判明します。
 生意気なことを書いている、と思わる方は注意。これを書いているわたしは誰かが大事ではありません。わたしが書いている内容が真実かを吟味してください。

第4問
A
下線部(1) 聖像禁止令を出した皇帝名です。『各駅』の覚え方(p.238)は「聖像冷温」です。聖像って冷たい感じがしますね。レ(ー)オン3世のことですが。8世紀前半とは726年です、『ワン』の語呂は「聖像、77踏2む6」。

下線部(2) 兄弟のうち一人ということです。キリル文字(グラゴル文字)を考案したということになっているキュリロス(キリル、キリール、スラヴ語のアルファベットをつくった「南スラヴの使徒」)、兄メトディオスか。

空欄a ウラディミル(ウラジーミル、ヴォロディーメル)1世が皇帝(バシレイオス2世)の妹と結婚というロシアに正教が伝わる起源となった出来事。

下線部(3) メフメト2世はセンター・レベルです。2003年追試に出ただけですが、いずれ本試験でも問われるはず(じっさい「メフメト2世が、コンスタンティノープルを占領した」と2011年に出題されました)。

空欄b 空欄の後に最後の皇帝の姪と結婚してツァーリを名乗りとあるので、イヴァン3世です。この皇帝の約30年後に登場するのが第2問・問(7)に出てきのたイヴァン4世(雷帝)です。

下線部(4) ツァーリの語源になる人物名です。易問すぎる。

下線部(5) 西スラヴ人とはポーランド人の他にかつてのチェコスロヴァキアを構成したチェック人、モラヴィア人、スロヴァキア人です。これらは皆カトリックでした。すぐ南のハンガリー(マジャール)人もカトリックを信仰しますが、スラヴ人ではありません。

下線部(6) ウクライナへの布教という奇異なことがあげてっても、設問文「1534年に設立され、中国や日本でも活発な布教活動」がヒントです。ヘンリ8世の首長法とイエズス会設立は同年なのでいっしょに覚えます。『ワン』では「首長家は人1混5み3よ4」。布教はある程度の効果があったようで、いまでもウクライナに8%のカトリック教徒がいます。

下線部(7) この皇帝名を知らなくても、設問文「1670年から」が大きいヒントです。ロシア史には2つしか反乱名はなく、それは(イ)ステンカ=ラージン(1670)とプガチョフ(1773)と1世紀開いて二つ(『ワン』では「ステンカに、ボ1ル6シチ7を0」)。どちらも(ア)コサックです。

B
下線部(8) (ア)病気の名は黒死病。最近の小説ではケン・フォレット著『大聖堂─果てしなき世界』ソフトバンク文庫に詳しい。黒死病と農民の賃金高騰を分かりやすく説明してます。中巻の後半から・下巻前半に14世紀のイギリスの実例が書いてあります。1ペニーだった賃金を2ペニーに上げて農民を募集した女子修道院院長カリス、高賃金を求めて逃げた農民夫婦ウルフリックとグヴェンダ、逃げた農民を追いかける領主ラルフという具合です。この小説は百年戦争の初期の戦闘シーンも臨場感あふれる描写で書いてます。
 (ィ) 「10日間の物語」=十日物語ともいう『デカメロン』の作者です。デカメロンといえば、ボッカチオのポッカメロンです(『各駅』p.231)。

下線部(9) イタリア戦争に関わった二つの王家とはカール5世のハプスブルク家とフランソワ1世のヴァロア家をあげればいい。イタリア戦争は広義では1494年からで同時多発テロのフランス王はルイ12世ですが、その後の代表的な王の名前で覚えておくといい戦争です。

下線部(10) 「17世紀の危機」は三十年戦争の他に、清教徒革命(イギリスの内乱)があり、そして「フランスで起きた大規模な貴族反乱」もあります。三十年戦争が終わったのに戦争中の重税を課けつづけることに対する市民の反発もありましたから、貴族だけの反乱ではありません。貴族の官職保有者は4年間の給与カットに怒っていました。反マザラン闘争です(1648〜53)。

下線部(11) 時間が「18世紀の末」、「人口増加の問題について鋭い診断」とあれば人口論のマルサスです。

下線部(12) (ア)「同じ年、イギリスの工業力を内外に誇示する壮大なイベント」は万博(万国博覧会)です。ロンドンについでパリ(1855)、3回目もロンドン(1862)でした。
 (イ) 産業革命の中心都市、ビートルズの生まれた街です。
 (ウ) 「世界政策」を行った皇帝はビスマルクを辞めさせた人物。

下線部(13) (ア)「アイルランドやドイツ、ロシア、東欧、南欧からの移民」とは西欧移民の多かったそれまでの傾向の転換でした。サラダ・ボール(人種の坩堝)になる国です。
 (イ) 「アイルランドから大量の移民」はジャガイモ飢饉といわれる大惨事でした。これは約110万人が餓死したといわれる災害です。1845年から1849年はヨーロッパ全体が寒冷であり、ジャガイモは寒さに弱い。とくにアイルランドに入ってきた種類は病害に弱いものでした。小麦はとれたそうですが、これはイギリス人がもっていってしまい、アイルランド人の口には入ってこないため、人災的飢饉となったものです。しかし冷害は全欧にあり、イギリス本国でも影響がでてきてコブデン・ブライトの運動はあっても、穀物法を廃止しないと本国でも餓死者が増えることになり撤廃にふみきった、ということです。この冷害は1848年革命(二月革命・三月革命)の背景でもあります。今の日本でもジャガイモは生のままでは輸入できないことになっていて、ゆでてマッシュにした冷凍品だけです。国が指定したジャガイモ(馬鈴薯)の原種をつくる専用の農場があり、そこでウイルスのついていない種を作って管理し、ジャガイモ生産農家に配布するようになっています。

C
下線部(14) 2002年に完全独立とあれば、相当新しい独立国です。2006年と09年にセンター試験(本)で出ています。「20世紀後半に、東ティモールはオランダから独立した」「フィリピンから分離した東ティモールが、2002年に独立国となった」とどれも誤文でした。

下線部(15) 「1830年」が大きいヒントです(『ワン』強制栽培せよ、千1葉8実3を0)。

下線部(16) 鉱山資源は錫です。イギリスはゴムのプランテーションでも儲けています。

下線部(17) 1911年中国では辛亥革命の年にできたイスラーム教徒の団体です。センター試験では2002年、04年、08年と出てます。

下線部(18) ジュネーヴ協定の合意内容です。インドシナからフランスが撤退し(=ヴェトナム・ラオス・カンボジアの独立)、北緯17度線を暫定的軍事境界線とし、南北で統一選挙(1956年7月)を行う、という3点ですが、このうち2ポイントがあれば満点2点のはずです。

下線部(19) アキノさんにやられるまで、日米が支えた開発独裁者の名前です。デビ夫人のダンナです。

下線部(20)  (ア) ある地域は、1965年に連邦から分離独立した。『ワン』の語呂は「シンガポール、行1け9る6こ5れから」。
 (イ) 分離独立の背景は、華僑が多数派のこの島、イスラーム教徒が多数派になっているマレーシアからの独立です。

 ここまで第4問のほとんどセンター・レベルでした。30点中28点は取れる問題です。第2問と合わせて54点以上取れ。第1問・第3問の論述40点中16点以上取れば合格圏です。

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 上に予備校の解答例を挙げ、その批判もしました。他人の答案を批判して自分の答案を隠すのは卑怯なので今年に限り自分の解答例も挙げておきます。比較してみてください。他の年度の解答例を挙げてないのは、一度掲載したときに参考書の会社でわたしの解答をまねたもがあったからで、今年だけにします。もっとも『世界史論述練習帳 new』(パレード)を買っていただいた方には、他年度の解答例(非公開)をメールで配信しています。

第1問
マルクス主義研究会が元になり上海で結成した共産党は国民党と合作し、蒋介石とともに北伐を敢行した。上海クーデタのため合作は破れ、紅軍は根拠地を井崗山他に移した。31年瑞金で中華ソヴェト政府を設けたが国民党の攻撃が激しく、瑞金を捨てて長征に出た。途中の遵義会議で毛沢東の指導権が確立し、全国に八・一宣言を発して一致抗日を訴えた。西安事件に周恩来が介入し、盧溝橋事件・日中戦争開始後に再合作をし、抗日戦を八路軍・新四軍で戦った。解放区では減租運動を展開した。太平洋戦争が始まると国民党は攻撃を共産党に向け出し、日本撤退後は内戦となった。土地改革が勝因となり、人民解放軍が国民党を台湾に追放し全国を統一した。
(注:「蒋介石」の「蒋」は異体字。減租運動とは、小作料の額を下げさせることです。まだ土地をうばって農民に分配という共産主義的な改革まではやっていないが、このゆるやかな改革でも農民の支持をうけるに十分でしたし、表向きの国共合作を保つ方策でもありました。日本撤退後は「農村部で土地改革を指導して支持をかため、47年なかばから人民解放軍によって反攻にでた。(詳説世界史)」とある内の「土地改革」は中国土地法大綱のことです。戦中からの土地改革を継承・発展させたものです。八路軍は華北で新四軍は華中で抗日戦を戦った共産党の軍隊名です。)

第2問

空欄 aユーフラテス bアッカド cアマルナ dアラム eアケメネス fティグリス gアレクサンドリア hメディナ(ヤスリブ) iブハラ(ボハラ)
(1)(ア)バビロン (イ)K (2)C (3)F (4)パルミラ(パリミュラ) (5)J

jイヴァン4世 kクリム=ハン国 lジュルチン(女真) mホンタイジ n雍正帝 oチベット pジュンガル qマカートニー
(6)キプチャク=ハン国 (7)イェルマーク (8)ウラル山脈
(9)瀋陽 (10)順治帝 (11)ネルチンスク条約 (12)アフガニスタン王国

第3問
古代は小都市国家で官僚制未発達な民主・共和政であり、奴隷制に立脚した消費者市民が武装自弁で軍役を担った。ギリシア・ローマ共和政は戦争頻発のため疲弊し傭兵に依存した。大土地所有傾向は市民の自弁を不可能にする。世界帝国ローマはこれを転換して常備軍を設け、コロヌスに立脚した専制君主政は官僚と軍を増強した。次第にゲルマン人の傭兵・同盟軍に依存したため、かれらが自立してゲルマン人諸国が西方属州に樹立された。コロヌスから農奴に格下げされた農民の上に小領主の諸侯・騎士が軍の担い手となった。官僚制が未熟な封建国家は、中世末、農奴解放と火器の出現のため領主は没落し、常備軍を用意した国民国家・絶対王政が登場する。
(注:消費者市民とは、生産労働をせず奴隷のつくったものを消費し、政治軍事に専念する古代市民のありかたを表現したことばです。『体系経済学辞典』東洋経済にあることば。ここでは「市民は、原則として生産部門はもっぱら奴隷労働にゆだね、みずからは政治・軍事・学芸にたずさわる特権的な消費者階級であった」とある解説)
(別解)
都市国家は武装自弁による市民軍によって守られた。初めは武装自弁できる富裕層、次第に平民層にも広がり奴隷制立脚によって維持された。しかし都市間抗争が激しく、この抗争から抜け出たマケドニアによる世界帝国が形成された。ローマ共和政は中小農民兵を土台に半島の統一を実現、ポエニ戦争勝利後はマリウスの兵制改革により志願兵制によって世界帝国を形成した。帝政は常備軍によって帝国を守り、次第に属州兵・ゲルマン同盟軍を利用する。ゲルマン人諸国は領域内の小国家を諸侯・騎士という領主が守り、コロヌスを農奴に落した。都市は市民が武装し防衛した。中世末には農奴が解放され、分権を打破した国民国家ができ、常備軍が設置された。

第4問

空欄 aウラディミル1世、bイヴァン3世
下線部 (1)レオン3世 (2)キュリロス(メトディオス) (3)メフメト2世 (4)カエサル (5)チェック人(スロヴァキア人、モラヴィア人) (6)イエズス会 (7)(ア)コサック (イ)ステンカ=ラージン

(8)(ア)黒死病 (イ)ボッカチオ (9)ハプスブルク家・ヴァロワ家 (10)フロンドの乱 (11)マルサス (12)(ア)(第1回)万国博覧会 (イ)マンチェスター (ウ)ヴィルヘルム2世 (13)(ア)アメリカ合衆国 (イ)ジャガイモ飢饉

(14)東ティモール (15)強制栽培制度 (16)錫(スズ) (17)サレカット=イスラーム(イスラーム同盟) 
(18)ベトナム南北の暫定的軍事境界線を北緯17度とし、南北で統一選挙を行うことを約束した。
(19)スハルト (20)(ア)シンガポール (イ)ムスリムのマレー人と華僑の子孫たる中国系住民の対立。

京大世界史2003

第1問(20点)
 中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された。皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ300字以内で述べよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み[  ]内に最も適当な語句を入れ、かつ下線部(1)〜(16)についての後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 陳独秀は1879年に安徽省安慶で生まれた。陳は幼少の頃より(1)科挙の勉強に励んだが合格することができず、(2)康有為や梁啓超を信奉するようになった。
 1901年(3)日本に渡り、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学した。陳は日本で反清革命に傾き、帰国後は安慶で革命運動に従事した。1911年湖北省の[ a ]で軍隊が蜂起(ほうき)すると、1か月足らずの間に多くの省が相次いで独立を宣言した。陳は安徽省軍政府の秘書長として招かれたが、1913年に袁世凱の専制と国民党弾圧に反対した[ b ]が失敗すると、陳は重要犯人として指名手配され、(4)上海に逃れた。
 1915年9月、陳は『青年雑誌』を創刊した。この雑誌はのちに『新青年』と名を改め、西洋の近代的合理主義にもとづき、(5)中国の旧(ふる)い思想・道徳・社会制度を徹底的に攻撃した。一躍、新文化連動の旗手となった陳は、1917年に蔡元培の招きで北京大学文科長に就任した。
 1919年1月、第一次世界大戦の戦後処理を話し合う[ c ]が開催された。(6)山東省の旧ドイツ利権が中国に返還されず日本に与えられようとしたことから、北京で学生らによるデモが行われ、(7)運動は全国に波及した。結局中国はヴェルサイユ条約調印拒否を声明するに至った。[ c ]に対する期待が失望に変わっていく中で、『新青年』の紙面も創刊当初の西洋賛美の論調が次第に変化してきた。陳独秀はマルクス主義に傾斜していき、1921年7月李大 (金+リ) らと(8)中国共産党を結成した
 1924年中国国民党第1回大会が開かれ、孫文の掲げた「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策が採択され、(9)共産党との協力体制が実現した。1926年7月[ d ]を総司令とする国民革命軍は(10)北伐を開始した。その途上1927年4月[ e ]が起こり、共産党は大きな打撃を受けた。陳はその責任を負わされて総書記を解任された。以後、歴史の表舞台に立つこともなく、1942年四川省でその生涯を閉じた。

(1)科挙が廃止された年はいつか。
(2)彼らを登用して戊戌の変法を断行した皇帝は誰か。
(3)ヴェトナムでもファン=ボイ=チャウらが維新会を組織して日本留学運動を推進した。この運動を何というか。
(4)上海など5港の開港を定めた条約の名を記せ。
(5)「文学改良芻議(すうぎ)」を発表して白話運動を提唱したのは誰か。
(6)1898年ドイツが宣教師殺害を口実に清朝から租借したのはどこか。
(7)同じ時期、ソウルで大規模な民族独立運動が起こった。この運動を何というか。
(8)このあと、ヴェトナムでも共産党が結成された。その指導者で、のちにヴェトナム民主共和国の初代大統領となったのは誰か。
(9)1937年にもう一度両党は協力して抗日民族統一戦線を成立させた(第二次国共合作)。そのきっかけとなった、前年に起こった事件は何か。
(10)国民革命軍は1928年6月に北京を占領した。それまで北京を支配し、奉天に帰還する途中で日本軍に爆殺された軍閥の首領の名を挙げよ。

B 古代の西アジアでは、さまざまな民族の興亡が繰り広げられたが、やがて政治的統合が進み、史上いく度か西アジアを広くおおう大帝国が成立した。
 西アジアの主要部に最初の政治的統一をもたらしたのが、セム系のアッシリア人である。アッシリア人は前2000年紀のはじめ頃から[ f ]川流域のアッシュールを拠点に交易活動に従事し、前9世紀から活発な征服活動を行った。その軍隊は、(11)鉄製の武器、戦車および騎馬隊をそなえ、広く西アジアを征服し、前7世紀前半にはエジプトをも版図に加えた。アッシリア帝国は征服地の各州に総督を派遣して直接的に統治したが、被征服民に対する強圧的な政策がわざわいし、前7世紀末に滅んだ。アッシリア帝国滅亡後、(12)西アジアとエジプトには4つの王国が並立した
 西アジアの政治的統一を回復したのは、(13)イラン人が建国したアケメネス朝ぺルシアであった。前550年キュロス2世が同じイラン系の[ g ]王国を減ぼして建国し、第3代の王[ h ]のときには、東は中央アジア・インダス川流域から西はエーゲ海岸・エジプトにおよぶ大帝国となった。領土の各州にサトラップ(知事)をおいて統治させたほか、監察官の派遣、税制の整備、被征服民への寛容な政策など、アッシリアの帝国統治法をさらに高度なものへと発展させた。アケメネス朝はアレクサンドロス大王の東方遠征によって前330年に滅んだ。アレクサンドロス没後は、(14)シリアを拠点とするセレウコス朝をはじめ、各地にギリシア系の国家が誕生してヘレニズム文化が栄えた
 ヘレニズム時代を経て、ふたたび西アジアを政治的に統一したのがササン朝ペルシアである。ササン朝は226年アルデシール1世が[ i ]王国を倒して建国した。第2代の王シャープール1世のとき、東方ではインダス川流域にまで進出して[ j ]朝から領土の大半を奪い、(15)西方ではシリアに進出してローマ帝国と対抗した。5世紀から6世紀にかけては、中央アジアの騎馬遊牧民[ k ]の侵入を受けて苦しんだが、6世紀半ば、ホスロー1世のときに最盛期を迎え、[ k ]を滅ぼした。しかし、7世紀半ばのアラブ軍の侵攻には対抗できず、ササン朝は651年に滅んだ。
 アラブ軍の征服活動は[ I ]朝成立後も活発に進められ、8世紀はじめ、その領土は、東は中央アジア・西北インドから西はイベリア半島にまで達した。イスラム教の浸透とアラビア語の共通語化によって、広大な領域における共通の文化の基盤が形成され、(16)やがてアラビア語以外のさまざまな言語もアラビア文字で記されるようになった

(11)最初に鉄器を使用し、製鉄技術を独占していたとされる、アナトリアの古代王国の名を記せ。
(12)この4つの王国のうち、ある王国は、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を支配し、首都の繁栄でよく知られている。(ア)その王国の名を記せ。(イ)その王国の首都はどこか。都市名を記せ。
(13)イラン人は言語的には何語族に属すか。語族名を記せ。
(14)セレウコス朝から独立した、あるギリシア系の王国は、現在のアフガニスタンを主な領土とし、西北インドにヘレニズム文化を伝えた。その王国の名を記せ。
(15)対ペルシア遠征に失敗し、260年エデッサでシャープール1世に捕らえられた、ローマ帝国の軍人皇帝は誰か。
(16)アラビア文字が普及する前の西アジアの文字の多くは、あるセム系言語の表音文字を母体としていた。(ア)前1000年紀に楔形文字に代って西アジアに広まった、この表音文字は何か。(イ)この文字を母体として中央アジアで生まれた文字には何があるか。1つ記せ。

第3問(20点)
 第一次世界大戦は予想をはるかに越えて長期化し、これにかかわったヨーロッパのおもな国々は本国の大衆を動員しただけではなく、さらには、植民地や保護国を抑えつけながらも、同時にその力を借りて戦わねばならなかった。このことに関して、イギリスを例にとり、インドおよびエジプトに対して大戦中にどのような政策がとられたかを、そのことが戦後に生み出した結果にも触れつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
 次の文章(A、B、C)の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)についての後の設問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 都市と都市国家は、古代地中海世界を構成する最も重要な政治的単位であった。(1)紀元前15〜13世紀にギリシア本土のミケーネやティリンスで栄えた国家は、なお専制的な支配者をもつ小王国であったが、紀元前8世紀以後、アクロポリスやアゴラを中心とする集住によってポリスが成立すると、ギリシア世界は大小の独立都市国家によって構成されるようになった。また(2)ポリス市民は盛んに黒海沿岸から地中海各地に植民都市を建設し、海上交易をおこなった。
 ポリスは軍役義務を負う住民の共同体であり、この義務を担うことによって、住民の政治的権利も拡大した。このような「戦士共同体」としての都市国家の性格は、ローマにおいても同様であった。イタリア中部の都市国家として出発したローマは、他の都市国家を征服し、服属させることによって地中海世界を統一した。こうしたローマの版図拡大において軍役を担った市民は、(3)紀元前4〜3世紀には政治的権利を発展させたが、(4)軍役の長期化は次第に自作農でもある市民の没落をも招き、民主政は危機に陥った。この危機と権力闘争の中からやがて、帝政ローマが誕生する。
 ローマ帝国は、地中海世界のみならず、ほぼライン川とドナウ川までの地域をも支配した。帝国は、(5)地中海世界のような都市文明を持たなかったアルプス以北のこの地域にも都市を建設し、都市を中心とした行政単位を設けて統治したのである。これらのローマ都市は、とくにアルプス以北では、ゲルマン民族の移動と西ローマ帝国の滅亡後の混乱の中で衰退した。しかし多くのローマ都市では、人口減少や市域縮小をともないつつも、司教座などの教会を中心とする都市の核は存続し、11世紀以後のヨーロッパにおける遠隔地商業の復活により、商工業都市として、あらたな発展を開始した。またライン川以東の、ローマ都市が存在しなかった地域では、12、13世紀以後、国王や諸侯によって都市が建設された。とくに(6)ドイツ北部からバルト海地方にかけてのハンザ商業圏では、こうした建設都市が多い
 ヨーロッパ中世都市においても、市民は都市防衛のための軍役を負い、都市は城壁で囲まれた。一般に中世都市の自治権は、城壁内とその小さな隣接地域に限られ、大きな領域を持つ都市国家へと発展することはなかった。また13、14世紀以後の各地域における国家統合の進展の中で、都市自治は次第に制限されていった。しかし(7)イタリア北・中部の諸都市は、広い領域を持つ都市国家を形成し、(8)ドイツの有力な帝国(自由)都市もまた、イタリア都市のような国家形成は実現できなかったものの、その政治的自立性を維持した

(1)(ア)このミケーネ文明において使用された文字を何というか。
    (イ)またこの文字を解読したイギリス人学者の名を記せ。
(2)紀元前500年ころペルシアに対して反乱した、イオニアの中心的な植民都市の名を記せ。
(3)平民会の議決が元老院の承認なしでも法律となることを認めた、紀元前287年に制定された法を何というか。
(4)自作農没落の原因として、軍役の長期化以外にどのようなことが考えられるか。1点のみ簡潔に記せ。
(5)次の都市のうち、ローマ都市に起源を持つものを1つ選んで、記号で答えよ。
     a ケルン   b ニュルンベルク
     c ベルリン  d プラハ
(6)ハンザの盟主的存在であった、バルト海南部の建設都市の名を記せ。
(7)12世紀にロンバルディア同盟の中心となり、また14、15世紀にはヴィスコンティ家の支配下で大きな国家を形成した都市の名を記せ。
(8)都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を、簡潔に述べよ。

B ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターが、95箇条の改革意見書を公表して始まったヨーロッパの宗教改革は、信仰の実践と教会のありかたについて、真摯(しんし)な問い直しをおこなって多くの支持者を集め、ヨーロッパに新たな生活の指針や社会の原理を提供した。しかしそれは同時に、宗教的な対立にもとづく迫害や戦乱を引き起こす原因ともなり、また政治的な抗争の口実として利用されることにもなる。1524年に西南ドイツの農民が起こした反乱に、最初ルターは好意的であった。だが、(9)反乱が中部ドイツに拡大して再洗礼派の影響の下に急進化すると、ルターはこれを非難し、以後ルター派の運動は領邦君主や都市の市民と結びついて支持を得た。1529年、神聖ローマ帝国皇帝はシュパイエルの国会でルター派の布教を禁止したが、諸侯・都市はそれに抗議し同盟を結成して皇帝に対抗した。ドイツにおける宗教問題は、(10)1555年のアウグスブルクの和議で一応の決着をみたが、(11)対立はその後もつづき、1618年には、ベーメン(ボヘミア)で王の即位に反対した新教徒を、皇帝の軍隊が弾圧したことをきっかけに三十年戦争が開始された。この戦争は、(12)新教徒擁護を口実とした外国勢力の介入を招いて長期化し、とくに戦争末期にはフランスまでもドイツに遠征して皇帝の軍隊と戦った。
 フランス国内では16世紀に、救済は予定されていると説いたジュネーヴの改革者ジャン・カルヴァンの教義が、都市の商工業者を中心に支持を拡大し、宮廷にも勢力をもつにいたった。ここでも新旧の信仰は、貴族間の対立と結びついて30年以上にも及んだ(13)ユグノー戦争を引き起こした。この戦乱のなかでフランスの[ a ]朝は断絶し、あらたに即位したブルボン家のアンリ4世は、自らカトリックに改宗するとともにナントの勅令を発してユグノーの信仰を承認し、混乱を収拾することに成功した。
 イギリスではすでに、ヘンリー8世と議会がカトリック教会から制度的に離脱して国教会制度を誕生させていたが、改革は比較的穏健なままにとどまっていた。(14)カルヴァンの改革の影響はイギリスにも及んで改革を先鋭化させ、教会のありかたにあきたらない諸勢力は多くの教派をうみだした。国教会に対する批判はやがて国家と国王に対する反抗となって共和政の実現をもたらした。革命で議会軍を指導した独立派のオリヴァー・クロムウェルは、政治上の実権を掌握すると、禁欲的倫理にもとづいた厳格な神政政治を実施し、またカトリック教徒の多く住む[ b ]への軍事遠征をおこなった。共和政が短期間で終了した後、(15)1673年に制定された審査法は、新王のカトリックヘの復帰を警戒した議会による立法であったが、同時に非国教会諸教派の権利をも抑圧することになった。

(9)この反乱を指導したドイツの宗教改革者は誰か。
(10)この和議によって、帝国内の宗教問題はどのように決着したか。簡潔に説明せよ。
(11)19世紀に成立したドイツ帝国においても、カトリック、プロテスタントの対立は顕在化した。この時期のカトリック教徒を代表した政党の名は何か。
(12)この戦争に介入したプロテスタント国1つの国名と、その国王の名を記せ。
(13)この戦争中の1572年、多数の新教徒が殺害された事件を何と呼ぶか。
(14)スコットランドではカルヴァン派は何と呼ばれたか。
(15)この法律が19世紀に廃止された際の経緯を簡潔に記せ。

C つぎの〔ア〕〔イ〕は、元徒刑囚を主人公とする(16)(17)フランスの歴史小説(1862年刊)から引用したものである。〔ア〕は、登場人物の一人マリユスが、1827年17歳の時、復古王政支持者からナポレオン支持者へと転向をとげる場面を描いている。〔イ〕は、その約1年後、マリユスが、共和主義者に論争を挑んだあげく論破され、ナポレオン崇拝熱から冷めていく様子を描いている。

〔ア〕マリユスは屋根裏の小さな自分の部屋にひとりでいた。ナポレオン軍の公報を読んでいた。ときどき亡父の名が出てきたし、皇帝の名はしょっちゅう出てきた。大帝国全体が彼の目の前に現れた。ときどき、父親が息吹きみたいにそばをとおりすぎ、耳もとに話しかけるような気がした。彼はだんだん妙な気持ちになってきた。太鼓や大砲やラッパの響きや、軍隊の整然とした歩調や、騎兵隊のかすかな遠い早がけの響きが聞こえるような気がした。胸がしめつけられるようだった。感動で身をわななかせて、あえいだ。ふいに、心のなかでなにが起こったのか自分がなにに服従しているのかわからないままに、立ちあがって両腕を窓のそとに突きだし、闇(やみ)や、静けさや、暗い無限や、永遠のひろがりをじっとみつめて叫んだ。「皇帝ばんざい!」
 この瞬間で、すべてが決まった。皇帝は、崩壊を建てなおす驚異的な建築家であり、シャルルマーニュや、ルイ11世や、アンリ4世や、リシュリューや、ルイ14世や、(18)公安委員会などの後継者だった。あらゆる国民に、フランス人を「大国民」とほめさせる使命をになった人物だった。いやそれ以上だった。剣をにぎってヨーロッパを、光りを放って全世界を征服するフランスの化身そのものだった。マリユスは(19)ボナパルトのなかに、つねに国境にすくっと立って未来を見守る、まぶしくかがやく幽霊を見た。
〔イ〕「いったい、きみたちは、皇帝を賛美しないとすれば、だれを賛美するんだ!彼にはすべてがそなわっていた。完全だった。ユスティニアヌスのように法典をつくり、カエサルのように命令し、談話では、タキトゥスの雷撃にパスカルの稲妻を混じえた。歴史をつくり、歴史を書いた。(20)ティルジットでは皇帝たちに尊厳をおしえた。このような皇帝の帝国に住むことは、国民としてなんとすばらしい運命だろうか。しかもその国民はフランスの国民であり、フランスは自分の天才をこの男の天才につけ加えたのだ! 山が四方にワシを放つように、地上のあらゆる方面に軍隊をとひたたせ、征服し、支配し、粉砕し、勝利をつぎつぎに勝ちとってヨーロッパのいわば金色にかがやく国民となり、歴史をつらぬいて巨人のファンファーレを鳴りひびかせ、征服と眩惑(げんわく)によって二度世界を征服する。これは崇高なことだ。これより偉大なことが、いったいあるだろうか?」
(21)(22)「自由でいることだ」とコンブフェールが言った。
 こんどはマリユスが顔を伏せた。この簡単な、冷たい言葉は、鋼鉄の刃のように、彼の叙事詩のような熱弁をつらぬいた。彼は心のなかで熱情が消えさるのを感じた。(辻 (永+日)訳 訳文は一部省略した)

問(16)小説名(ア)と、作者名(イ)を記せ。
(17)(ア)作者は、古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛した文芸思潮を代表している。その文芸思潮名を記せ。
   (イ)また、その文芸思潮の特徴を、批判内容に言及したうえで、引用文を参考にしながら簡潔に説明せよ。
(18)公安委員会がおこなった土地改革を10字程度で説明せよ。
(19)ボナパルトが1802年にイギリスと結んだ協定を何と呼ぶか。
(20)このときに結ばれた条約の結果として建国され、フランスの従属国家となった国を1つ記せ。
(21)自由主義の精神は、1820年代、ヨーロッパ各地に広がっていった。ロシアにおいて自由主義を掲げ1825年に立憲君主制確立などを唱えて蜂起した人びとは何と呼ばれているか。
(22)1820年代当時のブルジョワジーがよりどころにした自由主義経済学は、前世紀にイギリスで誕生した。この経済学の体系的創始者名(ア)と、その主著名(イ)を記せ。
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コメント
 相変わらず、第2問第4問は易しい問題で得点源であり、第1問第3問の論述が合否の決めてであることは従来と変わっていません。

第1問 
 問題の要求は「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変について、各王朝名を明示しつつ」というものです。問われているのは、軍事制度でも、官吏登用法でもなく、経済政策でも、農村の組織(隣保制度)でもありません。「政治」制度です。それも「中国の皇帝独裁制(君主独裁制)は、宋代、明代、清代と時代を経るにしたがって強化された」政治制度です。君主独裁化の制度だけを書きなさい、という要求です。軍事も官吏登用法も経済政策なども皇帝権強化のための制度だと広くはとれないこともないのに、「……経るにしたがって強化された」制度ですから、君主に直接かかわる政治の制度でなくてはなりません。それは皇帝と官僚の関係、決裁のありかたがどう変遷したのかを問う狭い問題です。
 しかし、この一つのテーマを追いかけて書くのは意外と難しいかもしれません。なにしろ予備校の解答を見ても、ちゃんと一つのテーマを追いかけていないものが結構あるからです。問題を勝手に都合よく書きやすいテーマに変えて書いてしまっています。
 教科書では三省のことは唐で説明があり、その後は消えて、たいてい明朝になって中書省を廃止した、と突如でてきます。つまり途中の経過が書いてなくて、門下省・尚書省はその間、存在したのかどうかさえ分からない。学生にとっては迷うのは当り前ですが、予備校もそうだというのは哀しいことです。インターネットでも解答例(速報)を予備校は出していますから、一緒にご覧いただくといでしょう。

 宋代:ここで独裁化がスタートしますが、その発端は唐末に表れていました。唐ははじめ皇帝の下に三省六部で中央官庁をはじめましたが、この三省のうち門下省という貴族の牙城があまりに強かったため、次第にその権限を削っていきました。宋代には三省はなく、中書省と門下省をくっつけた、というより中書省が門下省を吸収して、中書門下省と変え、責任者も同中書門下三品、あるいは同中書門下平章事(のち同平章事と略称)と呼びます。ちなみに、このことは『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)の巻末問題に問い、かつ解答しています。
 問「宋皇帝と唐皇帝の権力のちがいについて説明せよ。(指定語句→)門閥貴族 殿試」
 解答「唐では法案の決定権と人事権とが門閥貴族に奪われていたのに対し、宋皇帝は中書門下省により決定権と、殿試により人事権を掌握した。(注:中書門下省とは中書省と門下省がくっいたもの、換言すれば、門下省が中書省に吸収された。これは貴族という批判勢力がなくなり無意味になったための処置。)」
 つまり宋代は、唐代の三省六部を継承しません。また貴族勢力が強かった門下省の権限を削滅するのは唐の中期からおきていることがらであり、宋になってからやったことではありません。だいたい宋代にはもう貴族がいません。唐末五代に消滅したからです。このあたりは中国史の基本といっていいでしょうが、それさえ分かっていない解答もあります。
 殿試によって皇帝と官僚の関係を強化した、と書いても「関係」がどういうことなのかサッパリ分かりません。「官僚の人事権を天子がにぎり、旧貴族の復活の道をふさいだ。さらに全国的に行政官の職務権限の分割と行政監察の徹底をはかり、ついに軍事・行政・財政のすべての最終の裁決権を天子一人に集中する君主独裁制を確立した」(『新世界史』山川出版社)という風に書かないと独裁皇帝と奉仕する官僚の構図が見えてきません。
 この教科書の記述のように官庁の長官を複数にして、一人に権限を集中させず、皇帝のみを最終決定者としたことを「複数宰相制」といいいます。「皇帝独裁制の強化をもたらした政治制度の改変」という問題からは、これは是非とも書かなくてはならないことです。これを書いた答案が見られないのは、理解に苦しむことです。
 これが書けないとしても文治主義を書いてもいいでしょう。これなら書ける……いや、これさえ書いてない予備校の解答もあります。必要のない軍事制度について書いています。
 文治主義(文政)により軍人から軍政権をうばい、科挙により選抜された文官官僚が軍政を統括するように変えました。中央から文官を派遣して地方政治を文官の支配下におき、徐々にそれまで節度使がもっていた民政・財政・軍事の3権力をうばっていきました。このように軍人の上に文官を置く文官優位の体制を文治主義といいます。五代十国の武断政治を代えた制度です。
 しかしこの文治主義はあくまで、それまでの武断政治から離脱したことに強調点があり、軍事制度も、たとえば禁軍を説明すると、この後もずっと軍事制度を書いてしまう、という愚を犯すことになります。

 明代:この時代では、中書省(元朝が名前を中書門下省から「中書省」と変えています)の廃止、六部直轄は不可欠です。皇帝が唐代の三省のしごとをすべて引き受けるからです。この忙しさから内閣が生まれてきます。しかし内閣制度を書いたものはほとんど見られません。これも政治制度ですから書いても不思議はないのですが……。補佐機関だから書かなくてもいだろう……と済ませていいものでしょうか?
 たくさんの仕事をこなすことができず、建国者の洪武帝のときに「殿閣大学士」を置いたのが起源です。永楽帝のとき、これを「内閣」と称します。永楽帝を継いだ短命な仁宗のときから内閣の大臣を「内閣大学士」と呼ぶことがはじまります。初めは、その地位は低かったのですが、皇帝のそばにいて補助する仕事は次第に重きを増していきます。とくに「票擬」といって、臣下からの上奏(申請)文に対する皇帝の決裁文をあらかじめ用意するようになります。内閣はしだいに明の中心的政務機関となり、内閣大学士は実質的な宰相となります。教科書でもこのことを指摘しています。「内閣大学士は洪武帝が皇帝の親政を補佐させる殿閣大学士をおいたのに始まる。行政権はもたないが宰相に近い権力をもった。(新世界史)」「のち大学士の筆頭が事実上の宰相となった。(詳解世界史)」と。明代の皇帝独裁は、この内閣との合作であったのです。皇帝独裁を代行した張居正という人物は必ず教科書にでてきます。
 また「(永楽)帝は、宦官を重く用い(『詳説世界史』)」を用いて、東廠(とうしょう、西廠)という秘密警察を設けたことに言及してもいいでしょう。
 「衛所制」を書いたものもありますが、むしろ内閣を書くべきでした。軍制を書くとすれば、衛所制ではなく五軍都督府をとりあげた方がいい。衛所制はこの五軍都督府の下の制度であり、直接的には皇帝独裁につながるものではないからです。明の初期は、軍事の最高機関として宋代以降の枢密院が置かれていましたが、中書省が廃止されるとともに五軍都督府になり、いざ戦争というときには、皇帝自らが、どの部隊をだれに指揮させるかを決定し、六部の中の兵部がその命令を都督府に伝える順で下に降りていきます。ここにも皇帝独裁を維持する線が守られています。しかしこれは軍制であり、やはり無くてもいいものです。
 まして「里甲制」について言及する必要はありません。この農村を統制する郷村組織は、政治制度ではありません。ここで里甲制を書いても、他の宋・清朝では郷村組織は、じゃどうだったのか、ということになり一貫性も整合性もなくなります。論述の一つの課題を忘れて、王朝毎に特徴的なことをなんでもかんでも入れ込んだという無茶な答案になります。

 清代:満漢併用制とか思想統制を書く必要はありません。これは民族政策です。皇帝権強化のための政治制度ではありません。馬鹿のひとつ覚えのように、清朝とあれば満漢併用制だと書いてしまったのでしょうが、「皇帝独裁制……経るにしたがって強化された」政治制度という問題を忘れなければ、満漢併用制はテーマからはずれる、とすぐ認識できるはずです。漢民族を統治するためのアメとムチ、あるいは二重統治策は、異民族支配者(征服王朝)の問題には不可欠な知識ではありますが、ここでは要らない。もちろん八旗・緑営などの軍事制度は要りません。必要なのは「政治制度の改変」です。京大の過去問に「唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ」(1990年度)とあるように、政治制度と軍事制度とは別のものです。もちろん完全に無関係ではないが、問題というのは、要求されたことは目一杯書くのが原則です。余計なことは書かない。2003年度の問題は「軍事制度も書け」とは要求していないのです。だいたい軍事組織のない王朝はありえないし、王朝創建のさいに母体となった軍がその後も軍の中枢を占めることは当り前のことです。
 思想統制(文字の獄)は清朝からはじめたのではなく始皇帝以来の歴代の王朝がやってきたことです。とくに清朝になって「強化された」制度でもありません。
 書くべきは軍機処です。清朝は政治制度はほとんど明の制度を受けついでいて、内閣も受けつぎました。内閣が国家の最高行政機関でした。軍事は後金建国以来の満州貴族でかためた議政王大臣がとりしきっています。ところが、ジュンガル部討伐のため5代目の雍正帝が臨時の軍需房を設けたことから、次第にこの軍略専門の官庁が重きをなしていきます。なぜそうしたのかは、内閣の庁舎が遠いところにあったり、内閣に関係する人間が多過ぎて機密が漏れる恐れがあったことを危惧したためらしい。これを臨時でなく常設の軍機処とします。そして軍略だけでなく一般行政に関することも合わせて管轄するようになり、従来の議政王大臣と内閣の職権を兼ねる国政の最高機関にしあげていきました。内閣の大学士や六部の官僚の中から信頼できる人間を集め、4〜5人の軍機大臣を常時出仕させて皇帝のもとで働かせます。宮崎市定著『雍正帝』(中公新書)に副題が「中国の独裁君主」となっている理由です。
 
 インターネットにのっている各予備校の解答を見てみたら、不十分な点はあるものの予備校(K)の解答がもっとも問題の要求に合った解答になっています。上述した誤解や、不要なことをよく書いた非「模範」答案の予備校もあります。こういう答案では論述も中国史も教えられるのか、なんとも怪しい。
 2001年度の第1回京大実戦模試でわたしのアイディア「中国皇帝の専制化(宋〜清)」というテーマを、わたしではない作問者は「中国では10世紀以降、漢人・異民族の支配が相半ばした。そして諸王朝の下で軍事・文治の両側面が整えられて次第に皇帝権力が強化される。10〜17世紀の諸王朝で皇帝権力を支えた軍事・行政の制度の特徴について、王朝間の継承や担い手にも留意しながら300字以内で述べよ」という問題にしました。この問題になると、今回の京大の問題より要求項目が多い。軍事が入り、元朝も入り、担い手も要求しています。初めのわたしのアイディアの方が単純で今回の問題に近かかった。
第2問
A
問(1) 過去問に「紀元前から官僚機構を完備させた中国では、官吏登用制度が各王朝の政治・社会や文化に大きな影響を与えた。紀元前後から20世紀初めまでの官吏登用制度の変遷について」(1998年度)という問題が出されています。この「20世紀初め」が何年かと問うています。
 この問題文のはじめ出てくる改革派のひとたちはみな科挙に苦杯をなめさせられた経験の持ち主です。陳独秀は17歳のとき科挙予備試験に合格して「秀才」となったものの、あとの郷試で落第しています。自伝で、科挙は、まるでサーカスの猿か熊のようで、長年にわたってずっと繰り返しているもの……中国の他の制度は等しく腐敗してる、と疑問をていしています。
 梁啓超は17歳で郷試に合格して挙人となりますが、翌年の会試に失敗しました。
 康有為は17歳のときの郷試に失敗し(1876年)、ふたたび郷試受験のために上京したとき官僚の腐敗と無能を指摘する上書(意見書)を提出しました(1888年)。しかし、彼が進士でなかったため上書の資格に欠け、皇帝のもとには届かなかったのです。こんどは会試受験のため上京し、また上書したのですが受け入れられませんでした。1895年になってやっと殿試に合格して進士となります。20年間の受験勉強の終了です。かれが四書五経を学びだしてからは、30年間と言うべきでしょうか。変法運動のひとつとして科挙の改革があったのは自然です。2000年前の四書五経で列強に対抗できない。あまりの時代錯誤でした。
問(2) よく問われる人名です。センター試験でも過去3回確認できます(89年、92年追試、99年)。この弱い皇帝は、ある朝早く西太后にたたき起こされ、こんなことはもう止めなさい、と言われ、そのまま幽閉されました(戊戌の政変)。なんともあっけない変法運動でした。この皇帝は西太后の妹の子で、4歳のときに西太后が皇帝にしたてた人形でした。改革をつぶすのは容易なことでした。
問(3)「ファン=ボイ=チャウ」の運動もセンター試験で出ています(98年度)。「日本留学」運動そのものを漢字で言い直します。日本は東にあり、留学は遊学ともいいます。ファン=ボイチャウ(1867〜1940年)は1900年の地方試験に合格します。同時に、かれは明治維新・変法運動に動かされ、「維新会」という反仏の秘密組織をつくります(1904年)。この年、武装闘争を考えていたかれは、日露戦争をチャンスと見、武器援助を求めて来日しました。犬養毅や亡命中の梁啓超の助言もあり、まず武器でなく人材をと説得され、ヴェトナムの青年たちを日本に留学させます。200人ほどの学生が来日しました。フランスはこれを嫌い、日本と日仏協約を結んで、すべての学生を退去させます。日本は信頼できる国ではありませんでした。見透かしていたホー=チミンはフランスに留学します。
 空欄a 「1911年湖北省」「軍隊が蜂起」「多くの省が相次いで独立を宣言」は辛亥革命です。西洋式の軍隊「新軍」の兵士3000人が10月10日夜に蜂起したものです。鉄道国有化問題に対して四川暴動の鎮圧のため湖北の新軍が西に派遣され、答えの町に残った兵士が少なくなったこと、ロシア租界で密造中の爆弾が破裂したことから同志が逮捕されたこと、などから6日の蜂起の予定が10日になりました。
 空欄b 1911年を第一革命として1913年の反袁闘争を第二革命、1915年の反袁闘争を第三革命といいます。奇数(1、3、5)ごとに革命のやり直しです。日本では一般的ではありせんが、護国軍起義・雲南護国運動などともいいます。袁世凱は民主的な仮憲法である臨時約法を停止し(1914年)、大総統の権力強化をねらった新約法を制定しており、儒教の国教化をはかる尊孔運動までやりだしていました。
問(4)「上海など5港の開港」とあればアヘン戦争の結果としての条約です。この条約もセンター試験で4回でています。私大なら5港全部が出ます。「清は香港の割譲、長江以南の[ ア ]・[ ウ ]上海・寧波・厦門の5港の開港(法政大)」、「清を破ったイギリスは1842年に条約を結び、[ a ]を割譲させ、[ b ]・福州・[ c ]・[ d ]・広州の5港を開港させた(立命館大)」のように。
問(5) この人物もセンター試験で過去3回出ています(1989年、1996年追試、2003年追試)。「文学改良芻議」の正式名は「文学改良についての卑見」で、内容の一部はこうです。「今日、文学の革命を唱えようとすれば、次の八項から着手する必要があると思います。それは、
 一、典故を用いない。二、常套句を用いない。三、対句を使わない(文章では駢文を、詩では律詩を廃止すべきである)。四、俗字俗語を避けない(口語で詩作することも排さない)。五、文法構造を追求しなければならない。以上はいずれも形式上の革命です。六、悩みもないのに深刻ぶらない。七、古人を模倣せず、一語一語に個性がなければならない。八、言葉に中身がなければならない」(西順蔵編『原典中国近現代史 第四冊』岩波書店)。
 空欄c 「ヴェルサイユ条約」「期待が失望に変わって」というのは第一次世界大戦の戦後処理会議の開催地の名前が付いています。
問(6)文中に「山東省の旧ドイツ利権」とあります。この湾もセンター試験で3回出ています(1996追試、2001年、2003年)。私大では書かされます。書けますか?
問(7) 1919年、この設問の朝鮮半島における運動も刺激になり、五・四運動が北京ではじまります。韓国の教科書では「韓国独立万歳」を叫んだことになっていますが、ほんとは「朝鮮独立万歳」です。「朝鮮」という名をなんとしてでも使いたくない、ということでしょう。もちろんセンター試験で出ています(1996年、1998年、2000年、2001年の追試)。
問(8) 読んできたひとは、この答えがすでにあったことを知っているでしょう。日本に留学しなかった人物です。「ヴェトナムでも共産党が結成され」とあるように、ヴェトナム共産党をつくりますが、インドシナ全域の解放を目指そうと目標を大きくして「インドシナ共産党」に名称を改めました(1930年)。かれの戦いの生涯はその終結を見ず閉じてしまいました(1969)。
問(9) この問題を作問する頃の昨年6月、事件をおこした張学良(1901〜2001、100歳でハワイで亡くなった)の証言がコロンビア大学で公開された、と新聞が報じていました。1936年12月、軍閥の楊虎城将軍と組んで西安で蒋(漢字は古いものを使うのが正式)介石を監禁し、これまでやってきた共産党掃討を中止して、挙国一致の抗日作戦に転換しようと迫ったのです。蒋介石が投宿していたのは西安郊外の華清池という楊貴妃が湯浴みしたとされる温泉です。突然の銃声に寝室を飛びだした蒋介石は、わずかな護衛兵とともに裏山へ逃げましたが、中腹の岩穴に潜んでいるところを、張学良の東北軍に発見され連行されます。しかし蒋介石は共産党掃討中止をすぐには承諾しないため、延安の周恩来にきてもらい、やっと蒋介石が承諾した、という事件です。
 空欄d 「総司令……国民革命軍」は問(9)でしぶしぶ抗日を認めた人物です。
問(10)張学良の父です。小さいとき朝早く農家の納屋に火をつけ、農家のひとをドンドン戸をたたいて起こし、一緒に消火をして、よくぞ早く知らせてくれた、大事に至らなかったと感謝されて金をもらった、という幼くて暴勇の人物でした。
 空欄e 「北伐……途上1927年4月[ e ]が起こり……共産党は大きな打撃を受けた」という共産党員虐殺事件です。上海のヤクザ青幇が労働組合と共産党をつぶす陰謀を蒋介石にもちかけます。蒋介石がこの話にのり、ヤクザに資金援助を見返りに承諾しました。4月12日の明け方、共産党員を逮捕し、街頭で首をはねていきます。諸説ありますが、3日間で3000余人が殺され、5000人が行方不明になったらしい。

B
 空欄f 「アッシュール」というアッシリア帝国のもとになった都市がユーフラテス川沿いにあるのか、ティグリス川沿いにあるのか? バグダードはティグリス川沿いにあり、バビロンはユーフラテス川沿いにあります。さてアッシュール(Ashur,Assur)市は? ティグリス川の上流にあることは、つぎの地図で確かめられるでしょう。http://www.nineveh.com/whoarewe.htm
問(11) 「最初に鉄器を使用」で分かるはず。「アナトリア」という地名はローマ時代からの「アジア」と同じ。現在のトルコ領西部で、北は黒海、西は地中海に囲まれたところ。しかし、アジアという概念が東へと広がったため、この地は小アジア(Asia Minor)と改められた。「アナトリアAnatoliaともよばれるのは、ビザンティン帝国の14のテマ(軍管区)に分けたとき付けられた名前からです。次のホームページの地図の28 Asia がそれに当たります。
http://www.dalton.org/groups/rome/RMap.html
問(12)(ア) 「4つの王国のうち」「肥沃な三日月地帯」であるメソポタミアを支配した王国は何か、(イ)その王国の首都はどこか、という、これも地図を見ていないと迷う問題。つぎのホームページにのっています。http://www.biblestudy.org/maps/assybaby.html
この中の Chaldaean Empire が答えです。別名「新バビロニア(王国)」とも「バビロン第10王朝」ともいいます。
問(13) 「イラン人」はペルシア人ともいいます。ペルシア北部のメディア人も、小アジアのヒッタイトも、メソポタミア北部のミタンニも、南部のカッシートも、インダス川に入ったアーリア人も、そしてヨーロッパに入った5民族もみな同じ語族です。みな青銅剣・戦車をもち、この戦車をひっぱる馬を連れています。1995年度に「問(2)ローマ人の母語であるラテン語と同じインド=ヨーロッパ語族に属する言語を、次の〔1〕〜〔4〕から1つ選んで記号で答えよ。〔1〕トルコ語 〔2〕アラビア語 〔3〕アラム語 〔4〕ぺルシア語」という問題が出ています。
 空欄g 「前550年キュロス2世が……を減ぼして建国」というのは歴史家の評価で、キュロス「2世」から「建国」という表現に疑問をもつひともいるでしょう。アケメネス家では、前700年から王国時代がはじまっていて、それまで服属していたメディアの都エクバタナを陥落させてペルシア全体の支配者になったのが前550年だからです。
 空欄h 「第3代の王」「大帝国」は、古典ペルシア語ではダーラヤヴァウシュ(ダラヤウァウシュ)ともいう人物です。この大帝国に自分の肖像をかたどった金貨ダレイコスを発行し、史上はじめて貨幣で徴税したひとでもあります。この金貨は次のホームページで見ることができます。
http://www.coin-gallery.com/cgearlycoins.htm
問(14) アレクサンドロスの遠征は、たんなる征服だけでなく、ギリシア人の拡大とみなすことができ、それは建国、都市建設、植民、商業、コイネー(共通ギリシア語)の普及を伴ったものでした。いわゆる「ヘレニズム文化」といわれるものの拡大でした。西欧人のサイドで名前はヘレニズムとなっていますが、アレクサンドロスの軌跡をたどれば、ギリシア人の方がオリエントの影響を強く受けていることが分かります。大王が死ぬと、東方の大半の征服地はセレウコス1世が受けつぎ、この王朝が西のプトレマイオス朝エジプトとシリアの領域をめぐって長い戦争に入ると、セレウコス朝のもっとも遠い方から独立していきます。それがこの問題のアフガニスタンにおけるギリシア人将軍ディオドトスによる独立・建国です。国名にわざわざ「グレコ(ギリシア)」とギリシア人による国であることを示す表現もあります。しかし、20世紀後半にその遺跡が発掘されるまで、その痕跡はコインとギリシア人による書籍しかなく幻の王国といわれていた国です。日本最高の博物館ミホ美術館で「古代バクトリア遺宝展」を開催しています。開催期間は2003年3月15〜6月8日。
http://www.miho.or.jp/japanese/inform/inform.htm
この答えの王国もセンター試験ではよく出ています(1996年、97年、2000年追試、2003年追試)。
 空欄 i 問(14)と同じ頃(前250年)にセレウコス朝から独立し、南下してイラン全土を支配した王国です。甘英が来訪してここを「安息国」と名づけたことでも知られています。この国も過去のセンター試験では9回出ています。
 空欄 j 3世紀頃にインダス川流域にあった国はなにか、と問われています。45年頃から450年頃まで存在した大月氏の後継者です。カニシカ王のいた王国といえば分かりやすい。風邪をひいているみたいな名前です。  
問(15) この皇帝は1990年のセンター試験の追試でも出たことがあります。なにかしつこくセンター試験のことを書いていますが、京大の問題は基本問題ですよ、と言いたいためです。京大の世界史は得点源。第2問第4問の計60点問題で、50点を越えることは容易です。第1問第3問の論述で半分しかとれないとしても、70点を越えることは確実。
 なにか幸福な感じになりますが、この皇帝は捕虜になってすぐ死んだという説と、生涯奴隷であったとの説があり、分かりません。いずれにしろ不幸でした。割れないですよ、と聞こえる皇帝です。
 空欄k 「5世紀から6世紀」とあったら反射的に出てこなくてはいけない民族名です。センター試験にすでに5回出ています。  
 空欄1 空欄の後の「8世紀はじめ」の王朝です。8世紀半ばの750年からアッバース朝です。
問(16) 「アラビア語」が普及する以前の西アジア地域の国際語であり文字でもあったのが、問(ア)の文字です。それが中央アジア(その中心都市がサマルカンド)の商人の文字になります(イ)。六朝時代から隋唐にかけて中国に頻繁に訪れたひとびとの文字です。(ア)は今年も含めてすでにセンター試験で2回でました。(イ)も2回出ています。

第3問
 京大は南アジア史はこれまで論述で皆無でしたが、とうとう出題しました。この3問目は例年、欧米史の出題でしたが、イギリス中心ではあれ、アジア史がもろに問われたのは珍しい。問第1問に回しても良かったはずです。植民地・半植民地への「イギリスの政策」を問う、という点ではこの第3問が欧米史だという分野は守られています。
 構想メモとしては、インド政策→戦後の結果、エジプト政策→戦後の結果、という順で書いていくのがひとつ。インド政策→エジプト政策、戦後のインドとエジプトの結果、という時間順に書いてもどちらでもいいでしょう。
 「大戦中にどのような政策」はインドでは、なにより自治の約束をあげなくてはならないでしょう。一方的にイギリス側からの発案で自治の約束があった訳ではありません。戦前から自治の要求はあり(カルカッタ大会のスワラジ)、戦中もガンディーがアフリカから帰国して政治活動をはじめており(「1915年にはガンディーの政治活動も始まり」三省堂の『詳解世界史』)、全インド=ムスリム連盟と協定を結んで自治要求運動を展開しています。さらに何より、「約150万人もの兵士が強制的に徴募された(同じ教科書)」という事実。これはイギリス帝国全土の中で、インド兵が他のどんな地域より「桁はずれに多くの人々が動員された(木畑洋一著『支配の代償 英帝国の崩壊と「帝国意識」』東京大学出版会)」ことと関係しています。インドに次ぐ動員は、カナダ約63万人、その次がオーアストラリアの約41万人です。この二国はもう自治領でした。
 なお予備校の中には、国民会議派と協力した「全インド=ムスリム連盟」の名前を「全インド=イスラーム連盟」などと解答しているものがありますが、こんな名称はありえません。All India Muslim League (All India Moslem League)は「全インド=ムスリム(イスラム教徒)連盟」と訳します。
 戦後の結果は、自治の約束を果たすことがなく、イギリスはむしろより強圧的なローラット法という民族運動弾圧法をしいています。「逮捕状なしの逮捕、普通の裁判手続抜きの投獄など、民族運動に対する法外な弾圧を目ざす治安維持法である(平凡社)」と「法外な」といっていいものでした。ある予備校は「強圧的な支配」を「続行」と書いているものがありますが、むしろ「強化」に訂正した方がいいでしょう。Anarchical and Revolutionary Crimes Act が正式名で、「無政府・革命分子犯罪取締法」とか「刑事緊急権限法」とか訳します。ローラットは1917年にインドの治安調査委員長の名前です。この悪法はインド人の激しい抵抗を引きおこします。すでにあった不満に火をつけた、といっていいでしょう。このローラット法制定の翌月、アムリッツァー市で開かれた抗議集会にダイヤー将軍率いるイギリス軍が包囲して発砲し子供を含む1000人強の死傷者を出しています。ここでガンディーを指導者に全国的な非暴力不服従(サティヤーグラハ)運動もはじまります。まさに結果は全国的・全民族的で組織だった反英運動に発展します。

 エジプトに関しては、戦中は名目的なオスマン帝国の外交権をイギリスがうばい保護国とします(1914年)。その理由は「第一次世界大戦でトルコがドイツ側についたので、イギリスはエジプトを保護国とした(『要説世界史』山川出版社)」のでした。
 予備校の中には、エジプトにもインド同様に「戦後の自治を約束した」とか「将来の独立を約束して戦争に協力させた」とデタラメなことを書いているものもありますが、そんな約束はありません。「将来の(エジプトだけの)独立を約束」などというものはなく、フサイン・マクマホン協定(1915)というカイロの高等弁務官マクマホンとメッカの首長フサインとの書簡で、アラブ人の独立の約束があったものの、ここにエジプトは含まれていません。含まれているのは戦後に委任統治領にするところとアラビア半島です。むしろ「エジプトを保護国として最終的にトルコとの関係を断ち切らせたイギリスは、その支配力をさらに強化するために植民地として併合することをも、戦争中に検討していた」のが実状でした(木畑の前掲書)。(教科書に書いてないことは、書かない方が無難です。予備校のようにボロを出す可能性があります)
 しかし、米国大統領ウィルソンの民族自決に刺激されてワフド党のもとになる団体が18年から運動をはじめ、戦後激しい民族運動がおこります。全国的な反英運動を「1919年革命」とまで呼ぶ歴史家もいます。「エジプト人は街頭の主人であり、権力の主人であった。男、女、子供、ストやデモの参加者、すべての者の集合場所としての街頭は民族の全生命を吸い込んだ。政府はもはや存在しない(岩波講座『世界歴史』25巻、板垣雄三の論文「エジプト1919年革命」から)」と。こうした動きに促されてイギリスが戦後1922年に保護権を廃止し、独立を承認していきます。さらにイギリス軍が駐留する名目だけの独立に民衆は反発し、1924年の総選挙ではワフド党が政権をにぎるまでになりました。

第4問
A 
問(1)(ア)クレタ文明なら絵文字、線文字A。後を継いだ「ミケーネ文明」なら解読されています。つぎのホームページでこの字体と読み方を確かめることができます。
http://ancienthistory.about.com/gi/dynamic/offsite.htm?site=http%3A%2F%2Fwww.ancientscripts.com%2Flinearb.html
ミケーネ文明以前にも文字はあったのか、という問題がセンター試験に出ています(1996年度)。
(イ)14歳のときに、クノッソス宮殿を発掘したエヴァンズの講演を聞きに行き、線文字Bについて話しているのを聞いています。それ以来興味をもちつづけ、18歳で 雑誌 American Journal of Archaeology に線文字Bはエトルスキ文字と関連があるとの論文を発表しました。1952年にラジオで線文字B がギリシア文字の古い形であることを発表します。
(2)ペルシア戦争の発端となった反乱の都市です。万物の根源を「水」と唱えたタレースの出身地です。センター試験の過去問ではアリストテレスがここで活躍した、とまちがった文章で出ています。ここは現在のトルコ側です。つぎの地図でMiletos という文字が見つけられますか?
http://www.fsmitha.com/h1/map11ae.htm
(3)これは追試も含めるとセンター試験で5回も出題されている基本データです。「こうして共和政ローマは、法的には平等な市民によって構成される国家となった」という部分だけ注目するとローマ史を見やまってしまう法です。この文章の後の「が、現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった」とか、「しかし、このような改革にもかかわらず、非常時には貴族の独裁官(ディクタートル)が全権をにぎったりして、結果的には貴族と平民上層の富裕者が政治の実権をにぎる体制となり、ギリシアのポリスのようなより徹底した民主政とはことなった(『新世界史』)という点が重要です。
(4)「自作農没落の原因」のばいあの「軍役」の最大のものはポエニ戦争です。それはイタリア半島と農民にどんな影響を与えたのかを追っていけば、いろいろな解答が可能です。
 ポエニ戦争のときのカルタゴ軍の侵入による農村(耕地)の荒廃。農民とは逆にこの戦争の期間を利用して土地を拡大した元老院議員や騎士が農地を買い占めたこと。征服地を属州としていったたために、税として無償の穀物や、安価な穀物が輸入(流入)してきたため中小自営農は対抗できない。大土地所有者が経営する奴隷制という安上がりの労働力の経営に対抗できない。ラティフンディウムの「圧迫」に農地経営が行き詰まった、といってもいいでしょう。ポエニ戦争と農民の没落をあつかった文章もセンター試験では過去3回出題されています。
(5)aのケルンはローマ帝国時代の名前はコロニアです(Colonia Claudia Ara Agrippinensium、Colonia Agrippinensis、略称Colonia)。コロニア(植民市)がケルンという名前の起源です。ローマ帝国の国境線であるライン川・ドナウ川の地図を教科書・歴史地図でよく見ていれば、これはローマ時代からあったはずと推理できます。さて、きみどうでしょう? bのニュルンベルクは、歴史的にはナチス大会とナチスを裁く裁判の都市ですが、いつできたのか教科書・参考書では分からないものですが、こういうばあいは放っておく。cとdはローマ国境線外になるので、いくらなんでもちがうだろう、と推測できるはず。cのベルリンはエルベ川沿い、dはプラハはエルベ川の支流ブルタバ(モルダウ)川沿いにあります。ライン川とエルベ川の区別ができない? それでは地図をこれから勉強しましょう。
http://www.roman-emperors.org/nouest1.htm
 センター試験でも似た問題に次のようなものが出ています。
 ローマによって建設された都市ではないものを一つ選べ。  
 1 ロンドン  2 パリ  3 ベルリン 4 ウィーン(1990年、答えは3)
 なお、ニュルンベルク市は1050年に記録上はじめて確かめられる都市で、もともと皇帝ハインリヒ3世(位1039〜56)が築いた城に由来するそうです。特許状を得て一人前の都市となったのは1219年です。
(6)京大の過去問に「北海・バルト海商業圏が地中海商業圏と並んで重要な意義を持つようになった」に下線があり、設問は「この地域の商業上の最大の都市同盟を何というか」という、似た問題が出ています(1993年度)。論述問題としても「l1〜l4世紀のヨーロッパの遠隔地商業について、主な商業圏とその代表的都市および商品を挙げて、200字以内で論述せよ(1995年度)」と出ています。これは何も京大のよく出すところ、というより、どこでもよく出題している頻出分野です。論述であれ、かんたんな問題です。中世都市の問題はいろいろな角度から論述では問いますから、『中谷の世界史論述練習帳』(旺文社)に6問の中世都市の問題がのっています。
(7)ハンザ同盟はセンター試験で出ても、このロンバルディア同盟は出たことがありません。頻度からは出題されても不思議ではないものです。ロンバルディアはゲルマン人の「ロンバルド王国」が残した地名でもあり、もしかして映画ファンであれば「ヴィスコンティ家」といえばその子孫の映画監督の名に気がつくひともいるでしょう。この都市もローマ帝国の西方の中心として栄えました。前の設問(5)の地図の下方にMediolanum(「平野の真ん中の地」の意味)という文字が見つけられたら、それがローマ時代の名称です。
(8)予備校の解答はへんです。「分裂状態……強力な権力が存在しなかった」と解答しています。これは問題文に、すでに「都市国家、都市共同体という形態の相違はあれ、イタリア、ドイツの有力都市が19世紀まで、自立性を維持することができた政治的背景を」と全体を統合する強力な政治的権力が存在しなかったことを示唆しています。都市の自立性は、それを統制・制限する中央集権的権力がなかったということであり、「分裂」が解答なら、そうした解答は問題文の言い換えにすぎません。問題文の「19世紀まで」は、19世紀まで両国が統一できていなかったことも示唆しています。分裂でなく、もっと明快な理由を説明すべきです。
 この問題の「背景」は「理由」に近いでしょう。京大の過去問に「ドイツの再統一は……その後の民族国家への歩みは、決して順調なものではなかった。このことを念頭において中世ドイツにおける国家の発展の特色を、画期をなすいくつかの事件をあげ、150字以内で述べよ。(1991年度)」と歴史的な事件をあげながら、統一しにくい理由を求めた問題です。この問題と共通する点が今回の問題にあります。これは時代を中世に限っていますが、今回の問題は19世紀まで広げています。なぜ中央集権が育たなかったのか? 統一国家的な絶対主義はなぜなかったのか? これに代わる存在としての皇帝と教皇がそれぞれ存在し、どこよりも地方(領邦)・都市の自治の発展したところでした。叙任権闘争による内戦、皇帝のイタリア政策は絶対主義を育成しませんでした。また近世(16〜18世紀前半)の時期に内戦(イタリア戦争、三十年戦争)が激しく外国の干渉・侵入も頻繁でした。

B
問(9)下線部の後に「ルターはこれを非難」とある農民反乱の指導者です。
(10)和議の内容はいくつもあります。領邦君主と都市(市参事会員)に信仰の選択権が認められたこと。個人の信仰の自由はないこと。ルター派は認めるがカルヴァン派は認めない。聖職諸侯がルター派に改宗するときは、その聖職と領土を放棄しなくてはならない。
(11)議会の中央の議席を占めたたため呼ばれるようになった政党です。
(12)ともにルター派であるスウェーデンかデンマークをあげ、その君主もあげる問題です。スウェーデンの国王はセンター試験で2回出ています。デンマークの王は出たことがありません。頻度からも出題の可能性がありません。
(13)映画『王妃マルゴ』でも描かれた凄惨な虐殺事件です。
空欄a 王妃はカトリーヌ=ド=メディシスの娘で、マルグリット=ド=ヴァロアといいます。 
(14)教会の経営において聖職者でない信徒(俗人)の長老たちPresbytersにゆだねたため、この名前があります。南のイングランドにも広がり、イングランドの長老たる貴族が政治を担当する議会政治を理想とする派としてピューリタン革命でも登場します。
空欄b クロムウェルの征服地です。これ以来の紛争が今も完全には収まっていません。
(15)この解答も予備校のは理解しがたいものです。たいてい、オコンネルとカトリックの反対運動の沈静化をあげているのですが、そうでしょうか? かれらカトリックにとってはカトリック教徒解放法(1829年)があり、オコンネルは確かに審査法廃止の前から活動しているものの、審査法廃止後もカトリック排除は変わらないから、かれを支持する運動が盛んになるのです。カトリックである者には被選挙権がないにもかかわらず、アイルランドのひとびとは選挙でオコンネルを当選させてしまいます。対立候補とは2057対982という圧倒的な差でした。それでカトリック教徒解放法が審査法廃止後に成立します。この問題は審査法廃止の経緯を問うているのであって、カトリック教徒解放法の成立の経緯を問うているのではありません。だいたいカトリック教徒だけが反対運動をしていた訳でもありません。なにより非国教徒がいます。教科書は審査法廃止をナポレオン戦争中からの自由主義改革の一貫として書いているのはそのためです。奴隷貿易禁止(1807)、手枷足枷の刑の廃止(16)、婦人の笞(むち)刑の廃止(20)、結社禁止法の廃止(24)、奴隷労働制の廃止(33)という一連の改革の中で、この審査法廃止もあります。非国教徒であるメソジスト教会やクェーカー派の運動があり、この時期のウェリントン内閣(1828〜30)で提案された審査法廃止は下院で圧倒的な支持を集めたのは、下院に非国教徒のホイッグ党員が多かったからです。こうした自由主義改革がつぎつぎと実現していく背景には、産業革命の進展と中産階級の台頭もあげることができます。この間の事情を説明しているのは教科書『新世界史』です、「1820年代になるとトーリー党内部にもカニングのような自由主義政治家が登場し、内政・外交に転換がおこった。内政面では1828年に審査法が廃止され……」と。『詳解世界史』でも「産業革命をいち早く遂行したイギリスでは、新興ブルジョアジーがしだいに力を増し、自由主義的な改革が進んだ。1824年の結社禁止法の廃止は労働組合の合法化に道を開き、1833年に工場法が制定された。1828年の審査法の廃止や翌年のカトリック教徒解放法の制定は……」と述べています。
 審査法廃止だけの経緯を書いた教科書はありません。教科書の記述に合わせた方が無難です。
 予備校や多くの参考書が、まちがった解説・解答(カトリックの運動)をこの設問にたいして出している理由は、非国教徒は国教徒でないものをさし、旧教徒(カトリック)も含まれる、と誤解しているためでしょう。信仰のことゆえ分かりにくいのはしたかないとしても学生に教える立場の人間もそうであるのはなさけない。国教徒も非国教徒も新教徒(プロテスタント)であり、旧教徒(カトリック)とは別です。これは清教徒革命を説明する際にも分かっていないといけないキリスト教の根本的な区別のはずですが……。

C
問(16)(ア)(イ) 小説名は「元徒刑囚を主人公とするフランスの歴史小説」で分からなければ、作家も無理でしょう。諦めても他の設問は難しくありません。
 小説の概要はつぎのホームページで知ることができます。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/2462/remizerasite.html
 また全文はテキスト・データで購入することもできます。つぎのホームページです。
http://www.gutenberg21.co.jp/miser.htm
 資料として作品の一部をもってきた推し量らせるというのは、特殊な問題ですが、作者とその時代自体は特殊ではありません。センター試験(2001年度)で次のように問題の導入部に出ています。

 19世紀フランスの生んだ文豪ヴィクトル=ユゴー(ユーゴー)は、政治家としても波乱に富んだ一生を送った。七月王政期に貴族院議員であったユゴーは、二月革命の際にも憲法制定議会の議員に連出された。1851年のクーデタに対しては、抵抗委員会を組織して共和政擁護を叫んだが失敗に終わり、19年間にも及ぶ亡命生活を余儀なくされた。その間、『レ=ミゼラブル』などの代表作を執筆した。帰国後、再び議員となり、パリで他界して国葬に付された。しかし、ユゴーが共和派の英雄としてまつられるに至った19世紀後半は、一方でフランスが対外的に侵略的姿勢を強めていく時期でもあった。

(17)(ア)「古典主義と啓蒙主義を批判するかたちで19世紀前半に隆盛」とあれば理性主義の啓蒙思想とフランス革命を否定した主義です。ロマンチックromantic(英語)、romantique(フランス語)ということばもここから出ています。伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として使われるようになります。理性・啓蒙思想の普遍主義(どこにも通じる主義)を拒否して、自国の歴史・伝説に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性をうたいあげようとするものです。理性至上が結果的に恐怖政治と戦争に陥ったことに対する反発です。ユゴーはロマン主義の戯曲『エルナニ』を書き、コメディ・フランセーズで初演します(1829年)が、観客が古典派とロマン派に分かれて乱闘騒ぎにまで発展するという事件もおきます。「エルナニ合戦」です。フランスではルソー・スタール夫人・シャトーブリアンを先駆者にしてユーゴー・ラマルチーヌ・ミュッセらが演劇を中心に活躍し、ユゴー・デュマ・ジョルジュ=サンドらが小説の分野でも見られ、イギリスでは、この主義の作家としては、ワーズワース・バイロン・シェリー・キーツらの詩人、ロシアではプーシキン、アメリカではエマソン・アーヴィング・ホイットマンらをあげます。
(18)ジャコバン政権のおこなった土地改革は? という問でもあります。
(19)パリ市をまっすぐ北のカレー市に向かうと、ちょうどその中間に位置する町で、そこにゴシックの大聖堂もあります。協定(和約)はこの大聖堂で結ばれました。年代もヒントです。もちろんセンター試験に出ています(2001年度)。
(20)1807年の「ティルジット」条約はフランスに敗北したプロイセンとロシア帝国との条約ですが、とくに前者は領土半減となります。この半減はもともとプロイセンのものではなく、ポーランド分割でとったところです。ポーランドでなにが何という国ができましたか、という問です。ナポレオンの没落とともに消えてしまう国です。
(21)ニコライ1世の即位式のときに、将校たちが新しいツアーに宣誓する前に立憲の要求をつきつけました。十二月です。
(22)(ア)1776年はトマス=ペインの『コモン=センス』も発表された年としても名高いものです。「経済学の体系的創始者」はマルクスが名づけた古典派経済学の創始者のことです。(イ)作品は英文で読むことができます。
http://www.bartleby.com/10/
 これまでの和訳に異議をとなえているホームページは以下。
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/koten/bn/WealthOfNation1-3.html