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過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方
問題は以下のURLで拾ってください。
① https://www.asahi.com/edu/kyotsu-exam/shiken2024/mondai_day1_jmq2ytbaxq/sekaishi_b.html
② https://www.toshin.com/kyotsutest/sekaishi-b_question_0.html

第1問

問1[ 1 ]
 正解は①、なぜなら「資料1で、李斯は、……周王が制御できなくなったこと」と「文王と武王は、一族や功臣の多くに、封土を分け与えて諸侯としましたが、その後疎遠となって攻撃し合い」と一致しているからです。②のは「手厚く養ったことを戦乱の原因」としておらず、「周王朝が長く続いたのは、一族や功臣に封土を分け与えて」という土地分配を王朝の長期理由をあげています。③では「一族に政治上の権力を持たせない」という点を指摘していますが、資料2にはそのようなことは書いてなく「封土を分け与え」たことを強調しています。④では「一族が帝室を補佐」したことは資料2と合っていますが、「郡県制」は官僚を中央から地方に派遣することで地方支配をすることなのに、資料2は郡県制の説明はないです。それに「封土を分け与えて諸侯と」することは封建制ですね。

問2[ 2 ] 
 資料3の下の説明文では、「臣下であった[ ア ]に魏が皇帝の位を奪われたことに鑑みて採られた方策の弊害」とあり、この文章の「争乱の名との組合せ」は④が正解。というのは「呉三桂」は明末清初の部将の名であり、資料3の時代は「八王の乱」がおきました。三藩の乱は清初の乱です[語呂は『世界史年代ワンフレーズ』(パレード)以下『ワン』と略称、300年の八王の乱→[八王も(54)(-)300]、1673年の三藩の乱「三藩1673藩]。

問3[ 3 ]
 「一族に対する分権の弊害」としては前漢時代の「う 呉楚七国の乱(前154年の呉楚七国の乱は『ワン』→呉楚、i[アイ]1呉5よ4)で、黄巾の乱・赤眉の乱は農民反乱なので該当しない。出来事の朱元璋は紅巾の乱で、農民反乱が成功した事例であり、「一族」の出来事としては建文帝と永楽帝はたがいに朱元璋の子と孫の親族。なので正解は⑥

B 
問4[ 4 ]
 「文章中の空欄[ イ ]の人物」とは「10世紀の王……[ イ ]は後にローマ教皇から戴冠され、これが神聖ローマ帝国の起源」とあればオットー1世と想定できます。すると正解の文章は④の「マジャール人を撃退した」王オットー1世になります。
 ①は小ピピン。カロリング朝を創始します。② のレオ3世によって戴冠されたのはカール1世(シャルルマーニュ)、③はカタラウヌムの戦いに勝利したカール=マルテル。

問5[ 5 ]
 下線部ⓑの人物は「ノルマン人ディー公」とあるので征服者「あ ウィリアム(1世)」。「い クヌート」はウィリアム1世より50年前にデーン朝を築いたひと(『ワン』1016年デーン朝[デーン 1016])。
 X 「王国の有力者によって選出されることもないままに、国王の座についた」はまちがい。「貴族たちによって国王に選ばれた」とありますから。
 Y証聖王(エドワード)は「彼に与えた王国を譲らなかった、ハロルドもそのことを認めて宣誓していたにもかかわらず」とあるので、Yの文は正しい。 
 Z文は資料1=ハロルドは保護者・敬虔、資料2=ハロルドは嘘つき、としているが、征服するノルマンディー側の認識と征服されるイングランド側の認識は逆です。
 正解は②の「あ─Y」となります。
 資料1にあるようにハロルドは国王に就いたのに、資料2で嘘(偽証者)とは、皇太子の時代にノルマンディー沖(フランス北部沿岸)で遭難し、ウィリアムに助けられており、イギリスに帰還する際に、助けてくれたウィリアムに王位を譲る約束をしていたのです。しかしいざとなると王位に就いてしまった。ハロルド王はヘイスティングスの戦いで戦死します。これを描いたバイユー市のタペストリーがたいてい教科書に載っています。

問6[ 6 ]
 下線部ⓒ(イングランド王国の歴史)に関連して、イングランドとヨーロッパの他地域との関係について。
 ① フェリペ2世と結婚したのはエリザベス1世ではなく、姉のメアリ1世。
 ② 羊毛(原羊毛)が、イングランドからフランドル地方へ輸出された。これが正解。百年戦争がこの地方で始まると、この地方の毛織物業者たちがイギリスに亡命したため、たんなる原毛の輸出国だったイギリスは毛織物の生産の地に変貌し、エリザベス1世の繁栄を支えることになります。
 ③ ジョン王が争って敗れた相手は、三部会召集で名高いフィリップ4世ではなく、フィリップ2世でした。
 ④ 大陸封鎖令はナポレオン1世の発布で、英蘭戦争の引き金になった航海法はクロムウェルが出したもの(『ワン』1651年航海法→航海1651)。

C 
問7[ 7 ] 
 ドイツでの老齢年金制度の導入時期は導入文では「「世界政策」の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下で,同制度が導入され」とあるのでヴィルヘルム2世の時期、2世は1888年に即位しているが、名高いのはビスマルクを辞めさせて親政というかたちをとった1890年です(『ワン』ヴィルヘルムは189を)。したがって正解は③cです。

問8[ 8 ] 
 イギリスで公的な年金制度の導入を主導した政党。導入文に「年金制度の導入を主導したのは,かつて首相グラッドストンが率いた政党」とあるので自由党です。
 ① アイルランド自治法案を議会に提出した、のは自由党なので、これが正解。
 ② マクドナルドが率いる保守党とともに、連立政権を成立させた。マクドナルドの党は労働党。
 ③ スエズ運河会社の株を買収した、のは保守党ディズレーリ内閣。
 ④ フェビアン協会を基盤の一つとして結成されたのは労働党。

 19世紀 トーリー党→保守党
     ホイッグ党→自由党
 20世紀 労働党(1906年から、『ワン』労働党1906働) 

問9[ 9 ]
 前の文章を参考にしつつ、インタビューで資料は「義務を果たさないならば,権利などというものは存在しない」という権利と義務をセットにした横暴な議論をしたのは誰か、という問い。権利は、義務を果たす・果たさないとは無関係に、人間であることは、それだけで権利をもっているのが「基本的人権」の考え方。義務を多くは果たせない病人・障害者・老人になった場合を考えたら、すぐ判ること。弱者切り捨て論はナチスの思想に近づきます。サッチャーはこの世を体育会のように考えていました。サッチャーを理想とした大阪維新の会の思想がこれ。維新の会自体はチンピラ系・ヤンキー系です。正解は⑥。
 首相アトリーが、第二次世界大戦末期に保守党チャーチルに選挙で勝利した理由でもありました。Xにあるような「ベヴァリッジ報告書」という社会保障制度拡充政策をかかげて勝ちました。脱植民地もかかげて選挙後に実行しています。
 Yの「救貧法」は16世紀エリザベス1世の法。エンクロージュアのため追放されて乞食になる者が増えたため。

第2問
A 
問1[ 10 ]
 ①「自身が滅ぼした王朝によるバビロン捕囚に対抗して」はありえない。ユダヤ人を捕囚したのは新バビロニアのネブカドネザル2世。
 ② 資料2に「子どもたちはソフォクレスやエウリピデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあり、これが正解。(悲劇とちがう喜劇の覚え方、アリストファネスの『女の平和』 →アリスト平和ネス[『各駅停車』このブログで販売])
 ③ 「破壊したのは、資料3によればペロポネソス戦争……報復」ではなくペルシア戦争。ペロポネソス戦争はアテネ連合軍とスパルタ連合軍の戦い。
 ④ デロス同盟を率いたのはアテネ。父フイリッポス2世が率いたのはコリント同盟。

問2 [ 11 ]
 資料1〜4がアレクサンドロ大王に対する後世の様々な評価、という問ですが「評価」の中身を正誤判定することは求められていません。時代背景だけ検討したらいい問題でした。
 時代背景の「あ 評価Ⅰの時代にはアジアで成立したマニ教がローマ領内で広がった」の時代は「共和政末期」とあるので前1世紀となり、この前1世紀にまだマニ教はできていません。できるのはササン朝が成立する時期とおなじ3世紀(226年ササン朝→笹で226)。
 「い 評価Ⅱの時代=19世紀後半には、帝国主義によるヨーロッパ列強の植民地獲得が「文明化の使命(文明的使命)」の名目で正当化されました。代表的なプロイセンの歴史家ドロイゼン(1808〜1884)は『アレクサンドロス大王史』を著し、ギリシア文明がアジアを圧倒するように、プロイセンによるドイツ統一を説きました。イギリスの詩人のキプリングも「白人の責務」を煽りました。
 したがって正解は③です。


問3[ 12 ]
 下線部ⓐの地域(ミシシッピ川以西のルイジアナ)をアメリカ合衆国に譲渡した国の名と、文章中の空欄[ ア ]に入れる語との組合せ。この「ルイジアナ」の「ルイ」はルイ14世の名をとって付けられたフランス人探検家ラサールの命名。当然フランスから買収したころ(1803年『ワン』類似穴の1803つけた)。
 また「北緯 36度 30分以北の部分」とあるのはミズーリ協定のことで、「奴隷制度……禁止」(『ワン』ミズーリI1 have82 ゼロ0)。
 正解は④。

問4[ 13 ]
 「作られた理由や背景」が複数とある。法律名「あ」は理由・背景Yの内容(大統領ジャクソン)と合い、「い」は理由のところは、法律名Xと合ってます。Zは南北戦争中のホームステッド法のことなので、該当する法律名はありません。正解は②と④。

問5[ 14 ]
 「きっかけと なって起こった事柄」なので結果とか影響です。[ 13 ]の解答が②の場合は①   がおき、[ 13 ]の解答④の場合→⑤がおきます。②は南北戦争中、③は19世紀末(1886年、『ワン』アメリカ労働1886働)、④セオドア=ルーズヴェルトのカリブ海政策、⑥アメリカにおける1787〜88年に憲法草案に対して賛成する派が連邦派、反対するのが反連邦派。連邦憲法という中央集権的な法を支持するかが問われました。前者で成立します。

問6[ 15 ]
 資料の内容で判らなくても、資料の下の文に「[ ウ ]が派遣されて戦闘に加わることとなった結果、実質的に中国とアメリカ合衆国との間の「熱い戦争」」とあるので中国参加の軍の「人民」の付いた軍となり、空欄[エ]は、これも文「アメリカ合衆国は……阻止しようとして」と米軍が加わった軍事同盟なのでSEATOとなります(1956年『ワン』→シャトー19、54)。ASEANは1967年の経済協力機構(『ワン』汗あー[ヒ]1967)。正解は②。

問7[ 16 ]
 文「1948年2月に[ エ ]で共産党のクーデタが起こって同党が政権を掌握」とあるように、戦後3年後でも、まだ共産党政権とは決まっておらず、この1948年にクーデタで共産政権になった国はチェコスロヴァキアです。歴史用語として「チェコ=クーデタ」という語句があります(『ワン』チョコ食うで194ーば8る)。このチェコに関連する歴史は後の1968年の「プラハの春」があります(『ワン』ブラ歯1968)。春の指導者はドプチェクです。人間の顔をした社会主義を目指しました。ソ連共産党書記長ブレジネフから、「わしらはどういう顔をしていると言いたいのか」と問われて「醜い顔」と言いたかったと自白していますが、怖い顔の前では言えませんでした。
 正解は④。

問8[ 17 ]
 中国の第1次五か年計画とソ連の第1次五か年計画について正しい文を選ぶ問題。
 グラフから読み取れる内容は、「あ」がまちがいで「い」が正しい。ソ連の第1次五か年計画はYが正しい。Xの戦時共産主義が失敗したからこそ、五か年計画はあり、Zはアメリカのニューディール政策。正解は⑤。 

第3問 
A 
問1[ 18 ]
 空欄[ ア ]統治理念を刻ませた王なのでアショーカ王、彼の治世に起こった出来事は?
 ① サータヴァーハナ朝は前1〜後3世紀であり、アショーカ王のマウリヤ朝(前317頃〜前180頃)は紀元前の王朝で滅びています。サータヴァハナ朝の同時期はユーラシア大陸に4王朝が併存した時代として覚えておくべきことです(『ワン』p.6 ローマ帝国・パルティア・サータヴァハナ朝・前漢後漢、みな前200〜後200年の間400年)。 
 ② エフタルの侵入があった王朝はグプタ朝(320頃〜550頃、『ワン』愚豚に320(る)いも、5〜6世紀エフタルF樽56がす)。
 ③ 仏典結集が行われた。これが正解。
 ④ 東晋から法顕が訪れたのは、399年長安出発してグプタ朝へ(『ワン』法顕さん399)。

問2 [ 19 ]
 下線部ⓐ(デリー)について
 ① 第1回インド国民会議の開催は1885年にボンベイ(ムンバイ)市です(『ワン』ボンベイの1885)。
 ② 4綱領が決議はカルカッタ大会された(『ワン』1906年カルカッタ大会、軽かった1906かった)。
 ③ タージ=マハルがあるのはデリー市の南にあるアグラです。
 ④ 奴隷王朝からはまる王朝はデリー=スルタン朝といいいます。これが正解。

問3[ 20 ]
 メモ1・2の正誤問題。
 メモ1の「南端」まで行っていない。
 図2「黄金の四角形」の中にイギリスの基地三つが入っています(拙著『各駅停車』p.100、英国の基地は BCM の三角形→ボンベイ・カルカッタ・マドラス)。正解は②。


問4[ 21 ]
 年代問題。
 あ 債務国から債権国に転じたのは第一次世界大戦の1914年(『ワン』第一次大戦191418、終戦の18年まで)。
 い イギリスヘの支援を目的とする武器貸与法が成立したのは、1941年(『ワン』武器は1941)。
 う テネシー川流域開発公社(TVA)が設立されたのは1933年のニューディール政策から(『ワン』ニューディーゼル車で1933)。
 正解は②。


問5[ 22 ]
 [ イ ]に入れる語句、「え」はアメリカ本土は第一次世界大戦の戦場にはなっていないので影響は考えられず、「お 自動車の普及」が妥当します。
 [  ウ  ]に入れる文は「X」の文がグラフの説明として正しく、「Y」の「貨物輸送量」は伸びているのに「同様に、旅客輸送量も減少傾向」がグラフと合っていません。したがって正解は③。


問6[ 23 ]
 空欄[ エ ]に入れる国は「あ ドイツ」であることは、資料1の「ヴィルヘルム帝(ヴィルヘルム2世)」と手紙に(1884年)という1882年の三国(独墺伊)同盟を示唆する年代(『ワン』三国1[イチ]1882)が入っていることから、「あ」と推定できます。
 理由は、このフランス孤立化のための三国同盟が資料2の「フランスは、助かるためにはロシアと同盟するしかない」という1891年の露仏同盟(『ワン』ロフトに1[いっ]1891ま0る)を示唆しているので、「X」の「ロシアとの同盟を望むと期待していた」が該当します。正解は①。

問7[ 24 ]
 藤井さんのメモの「1860年代から1870年代にかけて、鉄道の年平均建設距離数が伸びている」がまちがい。70年代は下がっています。西原さんのメモの「アラスカ売却」は正しい(『ワン』1867年、アラスカ氷、1867し)、90年代の伸びと「露仏同盟」も正しい。したがって正解は②。

第4問

問1[ 25 ]
 文章中の空欄[ ア ]の人物は「公認」した皇帝なのでコンスタンティヌス帝とわかり、その事績「あ 軍管区制(テマ制)」はビザンチン帝国の制度なのでありえないし、召集したニケーア公会議で決めたことは「Y アリウス派が異端と」としてアタナシウス派を正統とすることでした。三位一体説とも言います。正解は⑤。
 「X 単性論」はカルケドン公会議(451年)で、「Z ネストリウス派」はエフェソス公会議(431年)で異端と決められました。

問2[ 26 ] 
 下線部ⓐ(地域や王朝を越える文化の伝達)文化や制度。
 ① ゼロの概念は、ローマでなく、インドから、ということは何度も何度も問われてきました。
 ② アマルナ美術はアマルナに遷都したアメンホテプ4世のときに栄えた文化。細密画は、イスラーム世界全体ではなく、イラン地域で普及した絵画。偶像を嫌うスンナ派では普及しなかった。このイラン系の絵画がムガル帝国に普及した。イラン系の官僚たちがインドを支配しました。ムガル帝国の公用語はペルシア語。
 ③ マドラサという学問機関は早い事例はカイロのアズハル大学、バグダード入のニザーミーヤ学院。これが正解。
 ④ イクター制はセルジューク朝から。

問3[ 27 ] 
 ① シュメール時代(前3000年代~前1800年ご)のメソポタミアで用いられた文字は楔形文字。写真のシリア文字は楔形文字ではない。
 ② パルティアとジズヤの時代が合わない。パルティアは前250年頃からササン朝のできる226年までで、まだイスラーム教が存在しない。イスラーム教は610年から(『ワン』ハンマ610)。
 ③ シリア語を使っていたキリスト教徒が、アッバース朝における学術の発展に寄与した。これが正解。会話文の先生「シリア語を経由した翻訳活動は、9世紀には,ギリシア語から直接アラビア語に翻訳するという形が広がっていく学術的基盤となりました」と「12世紀ルネサンス」の説明をしています。これが正解。
 ④ 第1回十字軍の到来=11世紀までに、「失われていた」はまちがい。先生は「11世紀から13 世紀には、シリア語でも再び多くの書物が記されるようになり,モンゴル支配下の西アジアにおいて、様々な学術分野の著作がシリア語で書き残されました」と。

問4[ 28 ]
 誤っているもの
 ① ルターが、『新約聖書』をフランス語に翻訳→ドイツ語に翻訳が正しいから、これが正解。

問5[ 29 ]
 ① コロンブスの時期(1492年『ワン』ころんだブス1492明)にポルトガルのレコンキスタは終わっていた。12世紀にカスティリア王国から独立して、独自にレコンキスタの戦いをしていたが、13世紀半ばに完了しています。
 ② 条約は両国とも利益を得た世界分割なので「侵害」の懸念はない。
 ③ スペイン王がポルトガル王位を継承したのはフェリペ2世の時期(1580年)なのでコロンブスの時期とはずれています。
 ④ バルトロメウ=ディアスの喜望峰に到達は1488年でコロンブス以前。なので、これが正解。

問6[ 30 ]
 「コロンブスはスペイン人である」=思い込みの内容
 「あ」 スペイン語で書く者はスペイン人である。これが正しい。そのように文章では「文書をスペイン語で書いていたことを根拠に」と書いてあります。
 「い」 ジェノヴアはスペインの支配下にあった。この都市はジェノヴァ共和国として、ずっと独立を保っていた。しかし一時スペインに占領されたり(1522)しているが、コロンブスの時期とは噛み合わない。
価値観
 X 国家は同一の言語・文化を共有する均質な国民によって構成されるべきだという国民国家の価値観……この価値観は合っています。
 Y 列強は支配地域の拡大を目指して世界を分割すべきだという帝国主義の価値観……帝国主義の時期は1870年代からなので、時期が合わない。たがって正解は①。

問7[ 31 ]
 空欄[ イ ]の反乱=安史の乱、最も適当なものは、
 ① 塩の密売人が起こした反乱は黄巣の乱なので、まちがい。
 ② 「減退」がまちがい。藩鎮=節度使による鎮圧と、乱後は節度使の派遣拡大となった。
 ③ 鎮圧して、すぐ「新たな王朝を創設し」ていない。安史の乱は唐中期(775年、『ワン』安心755)なので、新王朝は五代十国の時(907年)から(『ワン』907いか)。
 ④ ウイグルの援軍を得て、反乱が鎮圧された。これが正解。


問8[ 32 ]
 空欄[ ウ ]を推奨した韓愈に入れる語は、古文。韓愈(かんゆ)と柳宗元(りゅうそうげん)が簡潔な古文を復興すべきと唱えました(『各駅停車』の覚え方→還(韓)流(柳)する古文古学復興運動)。
 空欄 顔真卿の書の書きぶり[  エ  ]唐代後半期から宋代にかけての文化の流れ、とは古文のような簡潔な文章への復帰と関連しています。つまり「X」が正しい。「Y」の「貴族的……力強さや個性を尊重する」は流れと矛盾します。したがって正解は③。

問9[ 33 ]
 メモ1「乾隆帝は、漢人に対して自由な言論活動」はありえない。文字の獄という言論弾圧は現中国共産党と同じ。まちがい。
 メモ2「北魏の孝文帝」の漢化政策は中国文化に浸透する、自文化を捨てる政策なので、乾隆帝の「文化事業は,中国の伝統的な書道文化が長く保持された一因」に通じるとしても、清朝満州族の自文化を完全否定したのではない。満州語・満州文字・八旗・文字の獄・女真族の名(愛新覚羅)・辮髪・服装など独自のものを捨てなかった。正解は④。