世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

歴史地図で読むウクライナ史

1 ギリシア

 前8世紀頃からギリシア人の大植民時代に入り、ミレトス市・アテネ市などから黒海北岸に植民者が送り込まれた。地図上の●がかれらの植民都市を表しています。ギリシア人はオリーブ油、大理石、貴金属、宝石、織物類を輸出し、小麦・毛皮・奴隷などを輸入しています。ギリシア本土は小麦が十分採れないので、黒海北岸の小麦に頼っていました。当時からウクライナは「パン籠(かご)」でした。地図上の緑色の地域はギリシア人がつくったボスポラス王国の領域ですが、これは教科書には載っていない王国です。この王国は前1世紀にローマに従属しました。さて、ギリシア人の植民市の名前に、いかにもギリシアらしい名がついています。例えばオデッサ(オデーサ)はオデュッセイアが由来です。

2 スキタイ人の到来
 前8〜7世紀にかけて、黒海沿岸より北部の草原地帯にスキタイ人が現われ、ここにいた騎馬民族キンメリア人を追い立てて支配するようになり、南部沿岸のギリシア人と共存・対立をくりかえしました。北から南へ、森林ステップに居住し農耕に従事していた農耕スキタイの集団、これに従属した同じスキタイ人の農民スキタイ、沿岸に住む王族スキタイ、ステップに住む遊牧スキタイなどがおり、沿岸都市に住み商業や家内工業に従事していたギリシア人がいました。このように何層にも分かれていたようです。

3 ゲルマン人の起点
 印欧語族系のゲルマン人は元々北ドイツから以北に住んでいたのが、各地に南下して住みつきます。ウクライナにはゴート人が来たり、3世紀に東西に分かれて活動するようになります。西のゴート人はドナウ川に行き、ローマ帝国と国境を接し、ボスポロス王国を滅ぼします。4世紀に、フン人(指導者アッティラ)→東ゴート→と押されて、ローマ帝国領内に入り込みます。その後、西ゴート(指導者アラリック)はイベリア半島(スペイン)まで行って建国し、東ゴート(指導者テオドリック)はイタリア半島で建国します。

4 フン人・アヴァール人・ブルガール人
 東から西への民族移動の波は絶えることなく襲ってきます。フン人の西走とともに、6世紀半ば東からアヴァール人、7世紀ころにはヴォルガ川流域からブルガール人がこの地に侵入します。かれらの最大版図を示したのが上の地図で、線が重なっていますが、世紀がちがいます。ただし併存した時期もあります。
 6世紀 アヴァール
 7世紀 ブルガール人
 8世紀 ハザール人
 「ハザール人(ハザール国)」のことは教科書に載っていませんが、これはトルコ系の国でユダヤ教を国教にした国です。
 6世紀から入ってくるアヴァール人は柔然(モンゴル系?)が突厥に倒されて西走してきたものと見られ、7世紀、東ローマ帝国に侵入したが敗れ、8世紀、カール大帝との戦いにも敗れて(799年)他民族に同化したようです。
 ブルガール人はもちろんブルガリアの先祖です。ビザンツ帝国との戦いながら、バルカン半島で建国していきます。第1次ブルガリア帝国(893〜1018)、第2次ブルガリア帝国 1187〜1393)ができます。ゆっくりスラヴ人と同化していきます。

5 東スラヴ人
 ポーランド東南とウクライナの西北部がスラヴ人の原住地と考えられています。それが6世紀頃から西に、南に、東に移動・移住します。6世紀ということは、上の地図4と重なっています。西はポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人です。南はユーゴスラヴィア(南スラヴ)ともいうスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、スラヴ化したブルガリア人などを指します。
 これらの人々が、上記のアヴァール人、ハザール人、さらに9世紀にはマジャール(ハンガリー)人の襲来を受けながら、この地域に浸透していきました。通り過ぎる遊牧民たちに貢納しながら生き延びたようです。
 遊牧民たちは一時的に強大な軍事的力で押さえつけても、経済的文化的に遅れた民族であり、どの国も永続することもなく、土着の先住民族によって壊滅されたり同化されてしまいました。

6 キエフ(キーウ)・ルーシの成立
 ウクライナを侵略したプーチンは、ロシアの起源は「キエフ・ルーシ」であり、ロシアはウクライナと共通の歴史をもつ兄弟であり、一つの民族である、と侵略を正当化するため、偽りの歴史を述べています。
 偽りの第1点は、この国を建国したのは東スラヴ(ロシア)人でなく、ノルマン人というゲルマン人の一派であること、もっと厳密にはスウェーデンのノルマン人(ヴァイキング)であること(教科書のノルマン人移動図を見よ)、第2に「ロシア」という語句の由来は「ルス(ルーシ)」で、これは外来のノルマン人を呼んだスラヴ人からの呼称であること、つまりロシアという語句は今のロシアを指さず、外国人を意味していたこと、第3に、キエフ・ルーシという国家が建国した頃、モスクワという都市自体が存在しないこと、などを挙げることができます。モスクワはこのキエフ・ルーシが衰退した12世紀後半から初めて歴史に現われてきます。
 東スラヴ人は(大)ロシア人が現在のロシアを構成する人々、ウクライナ人が小ロシア人とも呼び、ベラルーシ白ロシア人とも呼んでいますが、「小」ロシア人というう呼び方は、大ロシア人の「大ロシア主義」による蔑称です。ポーランド分割の後に行政区として「小」を付けた呼び方をします。しかしこの後の歴史を見れば、この小ロシア人に大ロシア人は養われて生きていった、と言えます。
 ヴァイキングの首長リューリクが南下してノヴゴロド国を建て(862)、さらに親族のオレーグがキエフ公国を建国します(882、中谷 まちよ『ワンフレーズnew』(パレード)の語呂→信子862882)。ビザンツ帝国との交易で栄えます。双方の関係は、ウラディーミル大公が正教(東方正教会)に改宗した(988)時点で頂点にたっします。ただ、このキエフ公国(キエフ・ルーシ)は中央集権国家ではなく、諸民族・諸公国の寄せ集めであり、巡回徴貢によって一つにまとまっていました。また少数ノルマン人は、多数の東スラヴ人と混血して民族性は希薄になっていきます。

7 キエフ公国の分裂
 13世紀になると、キエフ公国の諸公国が、ゆるい連帯を組んでいたのが崩れ、分裂が露になります。また諸公国の内部でも紛争がおき、外からの脅威にたいして、一致して対抗することができなくなります。外からの脅威とは、スウェーデンリトアニアドイツ騎士団などです。最後はモンゴル人の侵入に敗れていきました。

8 キプチャク=ハン国
 分裂したキエフ・ルーシにモンゴル人が襲撃してきました。オゴタイ=ハンの命で西征軍総司令官となったバトゥが指揮します。ポーランド西南部のワールシュタットの戦い(1241)に勝ち、バルカン半島まで南下しましたが、オゴタイ=ハン病死の報で撤退し、ウクライナとロシアにキプチャク=ハン国を建国しました。このバトゥの襲撃・殺裁・破壊・略奪のすさまじさは、プラノ=カルピニが『蒙古旅行記』(光風社出版、p.37〜38)で、1240年に陥落したキエフについて、「タルタル人(注:モンゴル人のこと、タルタル/タタールラテン語で地獄の意味)は……ロシアの首都キエフを囲み、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました」と記しています。
 以後24O年にわたって支配されます。このことを「タタールのくびき」といって、牛馬の首にあてる横木「くびき」で引っ張られる、つまり従属下に置かれたことを意味します。
 従属は、従来通りの諸公の支配は認められたので、間接統治となりますが、監督官バスカク(トルコ語で「抑圧者」の意味)が主となって徴税・徴兵に回ってきます。十分の一税で、財産がその対象となり、基本は土地ないし農産物を徴収されます。人間も労働力・奴隷として連れ去ります。
 諸公たちはカラコルム詣(もうで)、首都サライ詣が義務づけられ、そこで屈辱的な扱いをうけ、抗議すると殺害されます。100年間で20人以上の諸公が殺されました。

9 キプチャク=ハン国の分裂
 過酷な課税と人間の強制連行のために、各地で衝突がおきました。それでバスカクでなく、諸公に徴税を任せる制度に変ええていき、サライの勢力は衰えていきます。サライに代わって勢力をもちはじめたのがモスクワでした。1330年頃、イヴァン(・カリタ「金袋/徴税者」の意味)1世はモンゴル監督官の代理としてタタール税の徴収者となり、サライの承認を受けて勢力をもちだしました。
 この頃、西方からリトアニアポーランドが台頭し、イヴァン1世のモスクワ大公国ポーランド王国リトアニア大公国とが分立した状態になります。
 この時期に、キエフ中心の「ルーシ」はウクライナ人となり、「大」ロシア人はキエフ公国領北東部のいくつかの諸族から成立し、北には白ロシア人という、東スラヴの三民族の民族意識(アイデンティティ)も言語も成立します。史家は、ウクライナ民族は9〜11世紀、大ロシア民族は12世紀から、ベラルーシ民族は14世紀中ごろから形成されはじめた、と順番に説明しています(『世界史歴史大系・ロシア史2』山川出版社、p.175)。この点でも、モスクワの登場が遅かったように、ウクライナ人が先で、ロシア人は後です。
 この時期、キエフモスクワ大公国領ではなく、リトアニア領にあります。リトアニアキエフを奪ったのは1363年でした。

9 リトアニアとモスクワ
 リトアニアポーランドと合体して、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝リトアニア=ポーランド王国(1386年、『ワン』語呂→野下郎はあん1さん386)を築いたのは、対ドイツ騎士団の為でした。騎士団を服属させただけでなく、さらに南下して、14世紀にはリトアニア軍は二度もモスクワにせまっています。15世紀にはウクライナの大半(5分の3)を征服するまでに膨張しました。リトアニア王は「リトアニア人とロシア人の王」と称し、当時のヨーロッパ最大版図をもった国です。
 キエフ・ルーシ時代からの貴族は、リトアニア貴族と婚姻関係を結ぶことで、リトアニアの貴族となり大土地所有者としての地位を維持しました。
 西欧で農奴解放がすすむ中で、この東欧地域はかえって農奴制がすすみ、領主たちは農産物・材木を西欧に売ることで利益をあげました。「東欧の向背地化」といわれる現象です。大農園の経営者としてユダヤ人の移住が奨励されたのはこの頃でした。
 宗教的には正教の力が弱まり、カトリックに改宗するウクライナ人も増えていきます。
 東から膨張するロシアは、1667年にキエフ支配下におきました。

10 コサックの自治国家
 これは教科書に載っていない国家です。「コサック」については主にロシア領のコサックについて、ステンカ=ラージンの乱、プガチョフの乱で教科書は解説していますが、このウクライナ・コサックについては書いてありません(ロシア領であった時代に、北方戦争があり、キエフの東にあるポルタヴァでロシアとスウェーデンの決戦が1709年におきています)。
 このウクライナ・コサックが先に形成されて、一部が東部のロシアに移ったものです。初めはカトリックポーランドの支配から逃れた農民や下層貴族からなる集団で、現在のウクライナの中心部で集団を形成したひとびとです。このコサックたちも度々反乱をおこし、1648年からはじまった反乱は、1649年にポーランド・リトアニア共和国と休戦が成立し、自治政府ができました。これはヘトマン国家(ヘトマンシチナ)と呼ばれる独自の軍隊と外交を備えた自治国家の誕生でした。
 「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者/放浪者」、チュルク語で「自由な人」も意味します。1648年の乱を指導したボフダン・フメリニツキーウクライナの民族的英雄で、首都キエフには彼の銅像の立つ広場があります。彼の方針は「自由と平等」でした。
 しかしこの自治も少しずつ制限されていきました。

11 ポーランド分割
 プロイセンオーストリア・ロシアの三国によるポーランド分割です。第一回は、すでにロシアの属国のようになっていたポーランドにたいして他国も食指を動かして取ろうとしていたので、戦争回避のために「分割」という手段をとりました。サンクト=ペテルブルクで三国協定を結んだ上で、エカチェリーナ2世のロシア軍はポーランド軍の抵抗を打ち砕きながら進撃しました。
 20年後、第二回はフランス革命の影響をうけたポーランド立憲君主国になる可能性が出できて、これを嫌ったロシアのエカチェリーナ2世プロイセン軍とともにコシチュシュの抵抗を破り分割します。
 第三回はオーストリア継承戦争も参加して三国による分割となり、ポーランド国王を強制的に退位させて、ポーランドという国家を抹殺しました。この結果、ウクライナの8割がロシア領となり、2割はオーストリア領となります。
 三回の分割は、1772年、1793年、1795年です(『ワン』語呂→ポーラ、どん17729395)。
 エカテリーナ2世は、農民の移動の自由を禁止して農奴にし(1783年)、コサック将校にはロシア貴族と同様の特権を与えましたが、次第にその権力・土地を削っていき、コサック連隊を解散させて、ついにヘトマン国家も消滅しました。ウクライナ南部に女帝は植民政策を展開し、その小麦はロシア帝国を養いました。
 なおエカチェリーナ2世クリミア半島に残っていたキプチャク=ハン国の後継国家たるクリム=ハン国を併合し、セヴァストーポリ(セバストポール)要塞を築いています(1783)。

12 19世紀ウクライナ
 ナポレオン戦争の最中に、ロシア軍は南西のベッサラビアと北のフィンランドに侵入し、それをナポレオン1世にも、戦後のウィーン会議でも認められました。
 ほぼロシア領となったウクライナにおいて、この19世紀に見られる特徴は、工業化と民族主義です。工業化は世紀末にロシアにも資本主義がおき、ウクライナ東南部は帝国最大の工業地帯を形成し、そのため多くのロシア人も住みつきました。この19世紀も穀物とともに工業面でもロシア経済を支えたことは変わりません。
 前者の民族主義は、西方オーストリア支配下ウクライナは、西欧に近いだけに地域は狭いながらもナショナリズムがおこります。また東部のウクライナ本土でもナショナリズムは盛んでした、1825年のデカブリストの反乱は首都サンクト・ペテルブルグだけでなくウクライナでも起こりましたが鎮圧されました。
 ロシア同様にインテリゲンツィアという新しい階層の下で民族主義は育まれます。1805年にハルキフ大学、次に1834年キエフにも大学ができます(ウクライナ最初の大学は、1661年設立のリヴィウ大学)。
 世紀前半に名をあげたのはウクライナの国民的詩人となるシェフチェンコ(18014〜1861)です。かれはウクライナ民族主義独立運動の象徴的存在となったので、その銅像キエフ大学に建っています。
 かれの刺激で民族主義団体がいくつもできたために、ロシア帝国政府は、ウクライナ語の教科書・宗教書の出版を禁止し、ウクライナ語書物の輸入の全面禁止、講演でのウクライナ語使用の禁止、ウクライナ語新聞の発行禁止、小学校でのウクライナ語による教育禁止、ウクライナ語書物の学校図書館からの追放と締め付けていきました。それだけ民族主義が高まっていることを示しています。
 日露戦争中の1905年1月ウクライナ出身の聖識者ガボン神父に率いられてサンクト・ペテルブルグで平和裏におこなった請願運動は多数が死傷者をだす「血の日曜日事件」となり、各地にストライキが頻発しました。戦艦ポチョムキン号の反乱はハルキフ生まれのマティウシェンコに指導された水兵たち(大部分がウクライナ人)でした。
 教科書はウクライナ民族主義については一言も書いていませんが、民族主義はずっと生きていました。本村凌二(東大名誉教授)はウクライナについて「長きにわたる独立運動の末に勝ち取ったものではありません。言わば、ソ連の崩壊により「棚ぼた式」に国家として独立することになりました。」と発言しています(ダイヤモンド・オンライン、5月8日)。
 だいたい、他民族に支配されて民族主義民族主義運動・独立運動の起きない民族って、どこかに居ますか? これでも歴史家ですかね?

13 ロシア革命ウクライナ
 第一次世界大戦ではオーストリアウクライナ人はロシア領ウクライナ人と戦うことになりました。そして大戦の劣勢からロシア革命が起きます。
 キェフに二月革命のニュースが伝わると、3月ただちにウクライナの諸団体の代表が集まり、「ウクライナ中央ラーダ」を結成します(「ラーダ」は会議、評議会を意味するウクライナ語で、ロシア語の「ソヴィエト」に相当します)。1918年、中央ラーダが定めた国旗である青と黄の二色旗、国歌、ウラディーミル聖公の「三叉の鉾」国章も定められ、これが現在のウクライナの国旗・国歌・国章でもあります。モスクワ大公国の臨時政府が倒れると、「ウクライナ民共和国」の創設を宣言します。
 しかし、このウクライナ民共和国は共産主義の国家ではなく、民族主義的な国家であるため、レーニンの指導するボリシェヴィキと対立、レーニンは武力でウクライナを奪い取ることにします(ソビエトウクライナ戦争)。敗北した国民共和国はオーストリアに亡命したり、白軍に入ったりしました。ロシアに協力した人々はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国をつくります。
 首都がモスクワに遷ったロシア政府に従属した衛星国として再出発します(1922年、『ワン』語呂→ソ連、凍1結92人2)。
 この1922年の時点では、クリミア半島にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国ができており、ウクライナに移管されたのは1954年でした。
 スターリンの権力掌握とともにウクライナ自治は狭まっていき、ついにはモスクワに完全に統制され、ソ連の一行政単位になっていきます。そして豊かな穀倉地帯であるウクライナで大飢饉が起きました。これは人為的な飢饉としてホロドモールと呼ばれます。
 機械輸入に必要な外貨を稼ぐため穀物を輸出する必要があり、その手段が、1928年に始まり1929年から強制的になった「農業集団化」でした。農業の集団化とは、これまで自分の土地を耕して自活していた農民を国営農場(ソフホーズ)または集団農場(コルホーズ)に入れてその一員とすることです。農民を国家の小作人にしてしまう政策でした。
抵抗する者は逮捕され、シベリア送りになり、また自活農が成り立たないよう高率な税を課したり、種々の嫌がらせをしました。さらに「クラーク(富農)」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民の中のブルジョワであり、農民階級ひいては人民の「敵」であるとして土地を没収されたり、収容所(グラーグ)送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けます。日本人が朝鮮半島でおこなったように、農家の一戸一戸を回り、床を壊すなどして穀物を探しました。飢えていない者は食物を隠していると思われます。食物を隠している者は社会主義財産の窃盗として死刑とする法ができました。その結果、正確な数字は分りませんが、400万から1450万人以上が亡くなった、とみられています。人為的なウクライナ人殺戮でした。今でも死体の大量発掘のニュースが新聞に載ります。

14 独ソ戦
 独ソ戦(1941〜45)でナチス・ドイツを追撃したロシア・ウクライナウクライナの人口の約6分の1にあたる約530万人が死亡という戦禍をもたらしました。対独パルチザン活動はナチス・ドイツウクライナ侵入後まもなく始まっています。いくつもの「ウクライナ蜂起軍」 (UPA)が組織され、43年には統一組織になりました。しかしナチスと戦った後は反撃したソ連軍との戦いもしなければなりませんでした。ソ連はこの抵抗軍をナチスとの手先とみなします。数にまさるソ連軍に撃破され、44年10月にはウクライナ全土がソ連支配下に入ります。
 フランスの歴史家でエマニュエル・トッドは次のように解説しています(『第三次世界大戦はもう始まっている』文春新書)。

 そもそも第二次世界大戦時に、みずから多大な犠牲を払ってドイツ国防軍を打ち破り、アメリカ・イギリス・カナダの連合軍による「フランス解放」を可能にしてくれたのも、ソ連でした。ソ連は、2000万人以上の犠牲者を出しながら、ナチスドイツの悪夢からヨーロッパを解放するのに、ある意味でアメリカ以上に貢献したのです。ところが、冷戦後の西側は、その歴史をすっかり忘却してしまったかのような振る舞いをロシアに対してきました。

 実に馬鹿な解説です。理由は、(1)ドイツ軍を招いた一因は、ナチスと協力して独ソ不可侵条約を結び、それがナチス軍を準備させ、ポーランドソ連領内に入りやすくしたのはソ連です。(2)また「2000万人以上の犠牲者」の一因もスターリンによる赤軍の粛清(しゅくせい)です。元帥・国防担当の人民委員代理・軍管区司令官・師団司令官のほとんどを殺し、将校の半分以上が銃殺しました。軍全体が機能不全に陥ります。(3)また武器貸与法(レンドリース法──ウィキペディアの「レンドリース法」を見よ)による武器供与と食糧援助がなければドイツ軍を追撃することは不可能でした。トッドはさもソ連軍単独でドイツをやっつけたかのように書いていますが、無知です。
 スターリングラード攻防戦時には、ソ連はトラック・ジープなどが徹底的に欠乏しており、アメリカ製のトラック・ジープがなかったら兵站(へいたん)が成立しませんでした。終戦までにソ連軍に配備されたトラックの3分の2はアメリカ製でした(山田順・ヤフーニュース、5/7)。

15 プーチンウクライナ襲撃
 これまでのウクライナ史を見てきて分かるのは、ロシアはウクライナ穀物・機械・精神(キエフ正教)に育てられながら、ウクライナ人を犠牲にして、換言すれば、血を吸って太った吸血鬼にひとしい歴史です。
 1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第四号炉が爆発しました。広島型原爆500発分の放射能が広がり、ウクライナ全体が汚染します。
 この原発事故も刺激となってペレストロイカ運動がおき、ソ連邦の解体がすすみ、各共和国の独立が促されました。
 1990年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票が行われ、90.2%が独立に賛成します。ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザボリッジア、ドニプロペトロフスクの各州でも80%以上が賛成、ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54%と過半数を上回りました。ソ連崩壊とともに、正式に1991年独立しました。
 しかしここにソ連の復活をねらうプーチンという吸血鬼が襲ってきました。すでにチェチェン(1999)に、グルジア(2003)に、シリアのアサド独裁政権援助などで軍事介入(2015)をしてきました。彼はグルジアの紛争はアメリカが起こしたものだという嘘で介入しています。
 ウクライナNATO加盟をめぐる粉糾が起きている機会を利用して、ウクライナ東部のドンバス地方(ドネツィク州とルハーンシク州)に親露派に蜂起させ介入をはじめ(2014)、さらにクリミア半島にロシア軍を侵入させて併合しました。そしてクリミア自治共和国の独立を宣言させます。プーチンはロシア軍を派遣していない、地元の自警団だ、と言いましたが誰でも分かる嘘でした。クリミアを併合した後も「ウクライナ国家の領土的統一性を尊重してきました……分裂を望みません」と更なる嘘を重ねました。その上で2022年2月24日、ウクライナ北部から全土におよぶミサイル攻撃を開始しました。
 2022年7月の時点で、民間人の死者5110人、負傷者6752人、攻撃された教育施設は2129件にのぼります(朝日新聞)。
 この攻撃について、ロシアを弁護するひとたちがいます。プーチンを悪人呼ばわりすべきでない、NATOが原因であり、アメリカがやらせている戦争だ、という訳です。オリバー・ストーン映画監督、「ロシアを悪者にすることは簡単」という河瀨直美監督、想田和弘監督、史家のトッド、史家の孫崎享アメリカの言語学者ノームチョムスキー国際政治学者の羽場久美子、豊永郁子、エディターの兼松聡子、政治家の鳩山由紀夫鈴木宗男山本太郎などです。この人たちの言説の特徴は、ウクライナ側の被害(ブチャの虐殺、病院破壊)のことは口にせず、話し合い・停戦交渉をくりかえして言うことです。それをやりつつ抗戦しているのがゼレンスキーなのに。橋下徹のように降伏しないから被害が大きくなった、と頓珍漢なことをわめく吾人もいます。なにかラスプーチンの催眠術にかかっているようで、催眠の内容は、わたしは二項対立に陥らない、わたしは偏っていない、わたしは中立だ、わたしは双方ともよく知っている、わたしは客観的だ、といった態度です。なんのことはない倫理観の欠けた傍観者です。
 この傍観性を暴露するために、この人たちの家を襲うのがいいのではないか……、するとかれらは次のように弁護してくれるに違いない。
 どうぞ好きなようにやってください、わたしの家を襲うなんて、民間施設……もしかして自衛隊のひとが寄ったかもしれません、軍事施設しか攻撃してないとプーチンさまは言っておられますし、ミサイルで家が瓦礫になっても、あなたを告発なんてしません、わたしの家族が難民になっても、あなたを悪人なんて言いません、ああ、正教の神さま助けてください!

(この記事は黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書から学ぶところが多く書いたもの、著者に深謝)

2022年度再現答案

東大
第1問(下線なし)
8世紀。東トルキスタンは唐の支配下にあり、保護されたイラン系ソグド人が西方の宗教や様々な文物を東方にもたらした。西トルキスタンにはアッバース朝が進出し、タラス河畔の戦いで唐を破り、中国からイスラームに製紙法が伝播。トルキスタンに移住したウイグルは、安史の乱で唐の内乱の鎮圧に貢献。9・10世紀。キルギスの侵入で、ウイグルは四散。西ではイラン系のサーマーン朝が自立したが、トルコ系イスラーム王朝のカラハン朝が倒し、東西を併せてイスラーム化を促進。東に成立した西ウイグル王国では仏教文化が繁栄し、ソグド文字をもとにしたウイグル文字も誕生。12世紀には、宋と結んだ金に敗れた遼の一族がカラハン朝を滅ぼし、西遼を建国して東西を支配。13世紀にホラズム朝は、モンゴルに征服されて滅亡し、東西はチャガタイ=ハン国が支配。14・15世紀。西ではティムール朝イル=ハン国を支配し、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利。イランなどを支配してトルコ=イスラーム文化が発展した。16世紀にティムール帝国ウズベク人に滅ぼされ、ティムールの一族バーブルが、北インドムガル帝国を建国。17・18世紀。モンゴル系のジュンガル部が東で勢力を拡大したが、清の乾隆帝に滅ぼされ、この地は清の藩部となり新疆と称された。19世紀にロシアは、イリ条約で新疆での通商活動を清朝に認めさせ、またブハラ・ヒヴァ両ハン国を保護国とした。

第2問
⑴⒜前18世紀。「目には目を、歯には歯を」の同害復讐法の原則に基づき、身分ごと異なる刑罰が与えられ、宗教による差別はない。
⒝イブン=ハルドゥーン。
🄒アメリカの支援の下、パフレヴィー2世は土地改革や女性参政権の実施など西欧化を進める白色革命を行い、貧富差を拡大させた。
⑵⒜イングランド王のジョン王は、財政難の克服や戦費の調達のために重税を課したために、貴族や国民の反抗を招いた。そのため大貴族や高位聖職者らは、徴税権や財産没収などの王の権限を制限すべく大憲章を作成し、議会での承認を義務付けた。
⒝諸外国の侵攻に対処すべくイタリアの統一の重要性を説き、中央集権化とそれを実行するための啓蒙専制君主の必要性を主張した。
⑶⒜康有為・梁啓超
⒝西洋技術を導入し政治改革は行わない洋務運動は、日清戦争での敗北で方針の転換を迫られたので、日本の明治維新を模範とし、光緒帝らを中心に議会政治を基礎とする立憲君主政の樹立を目指す変法運動を行ったが、西太后ら保守派の反対で失敗した。

第3問
アクスム王国。⑵マムルーク王国。⑶アチェ。⑷ラス=カサス。⑸フィヒテ。⑹イギリス・フランス。⑺大陸横断鉄道。⑻ヒンデンブルク。⑼スカルノ。⑽インティファーダ

一橋大学

ローマ時代以来の司教座都市は、十字軍以降に遠隔地貿易が発展し貨幣経済が浸透すると、力をつけた商人たちが司教を追放し、自治都市となることを求めた。イタリアにコムーネが登場し、神聖ローマ帝国では皇帝が特許状を与えて帝国都市が生まれた。都市の空気は自由にすると言われ、諸侯から政治的に自立した都市が成立していた。一方文化面では、十字軍で東方貿易が発展し、イスラームビザンツから文物が流入した。トレドやパレルモアラビア語からラテン語に翻訳されて、失われていた古代ギリシア・ローマ古典が流入した。宮廷や修道院での神学に限られていた学問がアリストテレス哲学・医学・スコラ学を交えた。ボローニャ大学は、法学で名をはせた。都市の繁栄の中、学問が教会の付属学校から大学という自治組織へと移り、振興された結果、学生保護の勅法発布に影響した。

折からの農業不況とウォール街の株価暴落から世界恐慌が発生し、銀行の倒産や失業者の増大を招いた。F=ローズベルト大統領は、状況打開のため3Rを掲げてニューディール政策を行った。ソ連が五カ年計画で恐慌の影響を逃れ、統制経済が評価されたことや、ケインズ有効需要拡大に基づく理論を完成させたことも背景にある。社会保障法やワグナー法で労働者・組合を保護し、全国産業復興法や農業調整法で産業再興を図り、テネシー川の流域開発公社で失業者を受け入れた。産業の自由放任主義と国政を徴税・軍事に限る夜警国家から転換した政策は、大規模な公共事業と社会保障に基づく大きな政府観の確立に影響した。一方で、財政支出の拡大と市場介入の拡大を意味する修正資本主義は後に双子の赤字を招いたり、自由競争に基づく市場原理の有効性を説く新自由主義の台頭を招くに至り、批判されるようになった。

1朴正煕の開発独裁がその暗殺で終わり、民主化運動が起きた。これを弾圧した光州事件を主導した軍人の全斗煥が大統領に就任した。2壬申・丁酉の倭乱。日本統一後の豊臣秀吉が明遠征を図り朝鮮通行を求めたが拒否され、各大名に朝鮮出兵を命じた。日本軍の侵略は義兵の抵抗を呼び、李舜臣の率いる亀甲船の朝鮮水軍に破れ、明は朝鮮に援軍した。日本は秀吉の死後撤退し、朝鮮から陶治や技術者を連れ帰り、朝鮮は荒廃した。明は、続く遠征で財政が圧迫され、物価が高騰して銀が流入し、一条鞭法の普及に繋がった。3壬午軍乱を親清の閔氏政権が耐えると、親日開化派の金玉均らが日本の支援で甲申政変を起こしたが、清の袁世凱が鎮圧し、日本の朝鮮への影響力が弱まった。日清は天津条約で朝鮮派兵時の事前通告を約した。甲午農民戦争で朝鮮が清に派兵を要請すると、通告に基づき日本も派兵し、到着時には乱は鎮まっていたが両軍が対じし、日清戦争が始まった。

東京外大
第1問・問9
パリ講和会議で、ウィルソンの十四カ条の下、民族自決が唱えられ平和と安全が達成させる可能性があった。また、不戦条約やケロッグ・ブリアン協定が結ばれるなどの平和的な動きもあった。しかし、国際連盟規約で戦争の違法化が表明されたものの、経済制裁のみで武力制裁がなく、強制力が弱かった。加えて、国際連盟には米・露という大国が不参加であり、総会では全会一致の原則が採用されたため、諸問題への対応が遅れた。植民地の戦争協力に対し、列強は自治などを約束していたが、バルフォア宣言サイクス・ピコ協定など矛盾する協定を結んだため、民族対立を悪化させた。インドにも同様の対応をしたことで反感を買った。戦時中に出された二十一カ条の要求はワシントン会議で事実上失効し、ドイツ領南洋諸島は日本の委任統治領となるなど、民族自決の原則は名目的だった。敗戦国への莫大な賠償金は対立感情を生み後のファシズムを用意した。

京大
第1問
15世紀初め明の鄭和の遠征によって明に朝貢し、中国、ムスリム商人との中継貿易として栄えた。マラッカ王国は当初ヒンドゥー教国家であったがムスリム商人、スーフィーの影響でイスラム教が広まった。16世紀になると大航海時代が始まりポルトガルに占領され植民地化した。ここでは陶磁器や香辛料を扱う中国貿易が中国、ヨーロッパの間で行われ銀が流入し繁栄した。キリスト教世界のヨーロッパ貿易拠点を奪われる形になったイスラム教徒は、これに対抗してスマトラ島マタラム王国を建国し周辺地域のイスラム化を促進した。

第3問
アテネではペルシア戦争で市民が三段櫂船のこぎ手として活躍したためペリクレスが民主政を確立した。ここでは成年男性全員が参加する民会で直接選挙によって決議された。ローマ初期、アテネと異なり有力貴族からなる元老院が政治を行った。平民の立場を守る護民官ができ平民会もできたがこれは選ばれた青年男性のみが参加した。ホルテンシウス法で元老院が握ったコンスル元老院・平民会から1人になり、リキニウス=セクスティウス法で平民会の決議がそのまま通るようになり平民会は力をつけた。アテネと異なり間接選挙である。前264年からのポエニ戦争に市民は重装歩兵として参加したが、それは閥族派と平民派の争いにつながった。

2021年度再現答案

阪大
第1問
1 A1、B2.C3
2 異端者とは、ローマ教皇であり、免罪符での集金や、ラテン語による知識の独占を行っていた。それに対して(A)は聖書を英訳を教会の批判をした。(B)もチェコ語への翻訳を行った。(C)もドイツ語への翻訳を行い、また宗教改革によって信仰義認論の新教を生んだ。
3 11世紀では、ドミニコ派やフランチェスコ派の托鉢修道会は妻帯を禁止したり、自給自足する厳格なものであった。またベネディクトゥス修道会も戒律を作りきびしい修行をして、叙任権闘争に勝利し、聖職売買を行った教皇を批判した。13世紀では、異端派の清貧を目指すカタリ派に対して、アルヴィジョア十字軍を送り弾圧した。
第2問
1 背景として、内政的に文治主義や電子、また中小文科省牛耳っており、皇帝の権力が強かった。外生的に、モンゴルやベトナムへの遠征を行い、北陵南はに対抗した。軍事的にはキングや都護府による軍備の向上が西南の辺手手端による海外遠征がなされた。その遠征によって長江黒をアフリカまで広げ、冊封体制をした。超広告であるインドからの施設は抜けて優れていると言う意味でキリンを皇帝に送った。
2 イタリアルネサンスによって、人文主義を重視しして、絵画、書物等の美術品を保護した。それはギリシア、ローマ、イスラムの文化を復興させるものであった。その背景は、十字軍やレコンキスタによるギリシア文化の流入や、メディチ家から先導して行った香辛料の東方貿易によってそうした文化の流入につながった。また、イベリア半島のトレドやアフリカ北部のアレクサンドリアギリシアイスラム文化の成熟がなされていたためである。
第3問
預言者であるムハンマドの後継者である4人のカリフの正当性を重視するシーア派とそうではないスンナ派に分かれた。四人目のカリフであるアリーからウマイヤ朝が開かれた。そこではそスンナ派が権力を握り、それはアッバース朝でも受け継がれ、シーア派は少数派となりイランの国教となりスンナ派は多数派でサウジアラビアにはワッハーブ派として引き継がれた。

東大
第1問・解答例1(下線無し)
ゲルマン人の移動後西欧ではゲルマン人国家が成立した。多くの国がキリスト教異端のアリウス派を信仰する一方でフランク王国クローヴィスはアタナシウス派に改宗しカトリック教会との結びつきを強めた。ゲルマン布教に聖像画(イコン)を用いていたローマ=カトリックビザンツ帝国による聖像禁止令で打撃を受けたが、フランク王国がトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を破ると教皇フランク王国に近づいた。フランク王国ピピン教皇ラヴェンナ地方を寄進し、教皇領の起源となった。カールの戴冠で皇帝と教皇が並立すると、ゲルマン・キリスト教が融合した西ヨーロッパ世界が成立した。ゲルマン移動の影響が小さかった東欧ではビザンツ帝国ギリシア語を公用語とした、西欧に対して先進的な文化圏をつくった。西欧とは異なり、皇帝教皇主義が採用された。ユスティニアヌス帝の時代にハギア=ソフィア聖堂の建立などビザンツ文化の最盛期を迎えた。イスラム教を創始したムハンマドアラビア半島に支配を強め、正統カリフ時代ウマイヤ朝はジハードを進めイスラーム世界を拡大していった。マワーリーにもジズヤを課していたウマイヤ朝に対しイスラム教の平等を唱えるコーランに反しているとしてアバース朝が成立した。アッバース朝はマワーリーへのジズヤを廃し、改宗者も要職につけるなどムスリムの平等を実現したイスラーム世界を成立させた。
解答例2
西欧ではローマ教会が、メロヴィング朝を創始して正統のアタナシウス派に改宗したゲルマン人のクローヴィスを支持し、グレゴリウス1世の治世からゲルマン人カトリックの布教を積極的に進めた。カロリング朝を創始したピピン教皇領を寄進してローマ教皇に接近し、その子カール大帝教皇から戴冠を受けたことで、ローマ・ゲルマン的西欧社会が政治的・文化的・宗教的に統一された。その中でラテン語を基調とした文化が発達し、スロヴェニア人やクロアティア人がカトリックに改宗した。東欧ではビザンツ帝国コンスタンティノープル教会を支配し、ギリシア正教を広めた。6世紀にはユスティニアヌス帝がローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア聖堂の建設を行った。726年の聖像禁止令を機にローマ教会との関係悪化が深刻化した一方、ギリシア語を基調としてイコンやモザイク壁画を特徴にもつビザンツ文化がバルカン半島にも広まり、ブルガール人やセルビア人がギリシア正教に改宗した。7世紀には西アジアイスラーム勢力が生まれたが、ウマイヤ朝ではアラブ人優遇政策がとられた。8世紀に生まれたアッバース朝ではイスラムに改宗した非アラブ人のマワーリーもジズヤが免除されたため、イスラーム教が更に広まった。北アフリカを支配したウマイヤ朝後ウマイヤ朝イベリア半島に侵攻してカトリック勢力を圧迫したが、ゲルマン人に撃退され、以後レコンキスタが続いた。

京大
第1問
商人の要求により明皇帝が海禁を緩和したため、様々な人々が中国に来た。また、欧州での対抗宗教改革の一環としてイエズス会が結成され海外での布教を進めた。活動と影響。イエズス会士はキリスト教を布教したが、中国の慣習を認めるかどうかで教皇と対立し典礼問題が起こり、康熙帝イエズス会以外の布教を、雍正帝キリスト教自体の布教を禁止した。また彼らは造園術や幾何学などの実学も教えたため、中国では様々な実用書が作られ、実証性を求める陽明学考証学も発達した。彼らは新大陸の作物も伝えた一方で、中国文化を持ち帰ったため欧州ではシノワズリが流行した。
第3問
1815年に、普は四国同盟に加わり、墺はドイツ連邦を結成し盟主となった。その後ドイツ関税同盟が結成されドイツの経済的統一がなされた。仏での二月革命を受けて墺ではメッテルニヒが失脚した。フランクフルト国民議会が開かれ、墺を除いて普中心の統一を目指す小ドイツ主義的憲法が採択され、普王をドイツ王にしようとしたが、普王は拒否し一方的な欽定憲法を発布した。その後統一は地主貴族であるユンカー層が中心となり、ビスマルクの下で普はデンマークに勝利して領土を拡大した。その後普墺戦争で破れた墺はハンガリーと二重帝国を結成し、勝利した普は盟主となって北ドイツ連邦を結成した。その後普仏戦争で勝利しヴィルヘルム一世が即位してドイツを統一した。

ある京大模試、これでいいのか?

  ある京大模試の第3問に以下のような問題と解答がありました。

 古代ローマにおける政体の特徴を、身分闘争の時代、「内乱の1世紀」、パクス=ロマーナ、専制君主政の各時期に分けて、具体的な事例を挙げながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
解答
ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。

コメント
 「政体」とは、誰が支配者か、一人の支配者でなければ、どういう集団が権力・決定権を握りものごとを決定しているか、というあり方です。かんたんな言葉では、このローマ史なら共和政・帝政というのがそれに該当しますが、もっと誰・集団が決定権をもっているか、という点であれば、ローマ史の場合は貴族の集団である元老院がにぎり、それが次第に地位が落ちて、有力将軍がものごとを決めるようになり、とうとう生き残った一人が専制君主になる過程があります。とくにローマ史の場合は4つの時期の元老院の位置付けが違っています。
 またローマ史はギリシア史とともに古代の特異な構造をもっていて、それは市民権をもつ市民が支えており、かれらがどのような位置にあるか、ということも古代的な政体のあり方に関わってきます。
 「特徴」とはかんたんには「違い」です。前の政体がどう違った体制に変わったのかを書く、ということです。一般に「特徴」という言葉を出題者は安直に使うものなので、知っていること、関連事項をなんでも書いたらいい、と言えるのですが、ただこの問題の場合は、4つの時期に分けて「特徴」を求めているので、時期ごとの相違点を指摘していく、ということになります。
 解答例を検討していくと、こういうローマ史の基本的な変化が分かっていないことが判明します。解説では「局所的な学習ばかりでなく、大局観を持って細部に迫ろう」と書いてありますが、大局が分かっているとはとても思えないものです。

▼批判
1 ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。……これは初め元老院、次に平民会と書いて「法的平等が達成された」と結論づけています。すると元老院と平民会は同等になったということでしょうか? 支えている市民の貴族と平民も同等になったということでしょうか? ありえません。教科書は必ずこのホルテンシウス法の後に「だがローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け、しかも非常時には独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使する(詳説世界史)」とか、「現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった(詳解世界史──三省堂)」とかの限界を書いています。
 この「身分闘争の時代」は平民会の向上はあっても、その法が国法になると規定しても、決めることのできる内容は軽いもの(下級官僚・軽罪)に限られており、「法的平等」は形式に過ぎませんでした。むしろ元老院支配、といってよいローマの政体が確立した時期でした。寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制ができあがりました。
 ローマ史の政体変化の基本は元老院の位置がどう変わるか、という点を軸に書くことです。そうすれば特徴が表せます。

2 「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。……ここは寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制が動揺した時期であり、「元老院を抑えて実権を得た」のは事実ですが、もっと具体的には元老院が支配していた属州の担当地域を3人で分け、それが2回つづいて、最終的に一人支配に帰結する、という点が書いてあるべきで、カエサルの独裁と暗殺はなくてもいいものです。元老院で決めるのでなく3人の有力者で帝国全体について決めます。  
 あるいは同盟市戦争の結果、共和政ローマを支えていたローマ市民権が半島全域に拡大し、市民権のあるイタリア半島と市民権のない属州の区別がついた、と帝国全体の政治体制を書くべきでしょう(帝国と書きましたが、もちろんまだ皇帝のいない帝国です)。

3 帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。……ここのミスは末尾の「譲歩した」のところです。なぜ歴史家がこの時期からを帝政・元首政と呼んでいるか無意味になります。これでは「内乱の一世紀」とどう違うのか特徴が表せません。有力者が「元老院を抑えて実権」と皇帝が「元老院や平民会に譲歩」はどう違っていると言いたいのでしょうか? 「皇帝は多くの権限」と「譲歩」は釣り合うでしょうか?
 この時期は皇帝・元老院の共同統治、という政体ですが、「共同」といっても、皇帝に元老院召集権・発案権があり、完全に皇帝が元老院を牛耳っています。確かに皇帝の種々の地位(護民官・最高軍司令官・大神官・コンスル)はいちいち元老院の承諾を得なければなりませんが、これも形式的なものになります。この帝政の初期になぜ狂った皇帝たちが登場しても、なかなか辞めさせることができなかったのかの原因は、それ程の力を皇帝が持ち始めているからです。
 アウグストゥスという「尊厳者」という神にささげる称号をオクタウィアヌスに贈ってから、かれ以降の皇帝は死後すべて神として崇められ、そのためにパンテオンも造られました。属州も元老院属州と皇帝直轄属州に二分し、皇帝は最高軍司令官として辺境と豊かなエジプトを管轄しました。
 またカラカラ帝が属州の自由民に市民権を拡大したため、政治的にはかえって市民権は軽いものなっていきます。

4 専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。……上の文3の「多くの権限」とこの文の「強力な権限」はどう違うのでしょうか? 「元老院を排除」とはどういう意味でしょうか? 元老院という組織は残りましたが、ローマ市の市役所になるのです。つまり他の都市の市役所と同等で、それまで帝国全体ににらみを効かしていた長老たちの集まりではなくなり、ローマ市という狭い空間だけの問題を討議する機関に成り下がりました。属州も全てが皇帝属州になり、元老院属州は廃止され、特別区であったイタリア半島全体も属州の一つに成り下がります。決定的に元老院の地位は落ちた、といっていいでしょう。そして皇帝が官僚を文武に分け、皇帝が任命・派遣するかたちをとりました。皇帝崇拝は軍人皇帝時代から強制がはじまり、コンスタンティヌス帝がディオクレティアヌス帝の皇帝崇拝を止めても、皇帝にたいする跪拝礼はつづきました。超越した存在としての皇帝に市民がみな服従しなくてはならなくなります。

わたしの解答例
身分闘争期は平民を平民会・護民官の設置でかれらの不満・力を吸収したが、貴族が官職を独占し、それらの地位に就いたひとたちが終身の元老院議員となり、国政を牛耳った。内乱の一世紀では、元老院議員でもある将軍たちの勢力が高まり、元老院委を無視して3人で決定する三頭政治を2回経験する。その中から一人の独裁者が登場してくる。また同盟市戦争の結果、市民権は半島全域に拡大した。パクス=ロマーナ期は元首の集権化がすすみ、元老院を牛耳り、属州を元老院と二分した。市民権も全属州に拡大した。専制君主政期には皇帝は元老院ローマ市市役所に縮小し、元老院属州を廃止して、全属州を皇帝の支配下においた。市民は臣民となった。

京大世界史2022

第1問(20点)
 マレー半島南西部に成立したマラッカ王国は15世紀に入ると国際交易の中心地として成長し、東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。15世紀から16世紀初頭までのこの王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 歴史的「シリア」とは、現在のシリアのほか、レバノン、ヨルダン、イスラエルパレスティナの領域を含む、地中海の東海岸およびその内陸部一帯を指す地域名称である。地中海との間を2つの山脈で遮られたダマスクスはシリアの内陸部に位置する古都であり、有史以来じつに様々な勢力がこの町の支配を巡り争った。
  前8世紀の後半、ダマスクスは(1)アッシリア王国支配下に入るが、以後、前7世紀に(2)新バビロニア、前6世紀にアケメネス朝がこの町を征服し、続いて前4世紀後半、町はアレクサンドロスの勢力下に入った。以後、ダマスクスは約千年の長きにわたりギリシア、ローマの支配下に置かれることになった。
  7世紀はこの町の歴史にとって一大転換期であった。この世紀の初め、シリアには(3)一時ササン朝が進出するが、間もなくビザンツ帝国がこの地の支配を回復する。しかし、636年に新興のイスラーム勢力がビザンツ軍を撃破し、シリアの支配を確立すると、この町はイスラーム世界の主要都市の一つとして歩み始めるのである。656年に(4)アリーが指導者の地位に就くと、建設後間もないムスリムの国家は内乱の時代を迎える。この動乱の中でアリーは暗殺され、彼に敵対したシリア総督の[ a ]は、ダマスクスを首都としてウマイヤ朝を創建した。けれども、750年にアッバース朝が成立すると帝国の中心はシリアからイラクヘと移り、同朝のマンスールイラクに新首都(5)バグダードを建設する。
  9世紀になると早くもアッバース朝の求心力には衰えが見え始め、以後、帝国内の各地に(6)独立王朝が次々に成立するようになる。こうした状況の中、10世紀後半からは(7)ファーテイマ朝が、さらに、11世紀後半にはセルジューク朝がシリアに進出し、ダマスクスを含むシリアは動乱の時代を迎えるが、12世紀後半、アイユーブ朝の創建者[ b ]がエジプトとシリアの統一を果たすと、この地には再び政治的安定がもたらされた。1260年、モンゴル軍はダマスクスを征服するが、同年、新興のマムルーク朝がこれを撃退してこの町の新たな支配者となる。(8)1401年には、西方に遠征したテイムールもこの町を一時占領しているが、(9)1516年、オスマン帝国のセリム1世がこの町を征服すると、以後ダマスクスはほぼ四世紀に及ぶオスマン帝国の支配を経験することになった。
  19世紀に入ると、シリアは再び動乱の時代を迎える。オスマン帝国から自立したエジプトのムハンマド=アリー朝は(1O)シリアの領有権を要求してオスマン帝国と戦い1833年にはこの町を含むシリアを支配下に収めた。しかし、1840年に(11)イギリス主導で行われた会議の結果、ムハンマド=アリー朝は[ 10 ]シリア領有を断念せざるを得なくなった。また、第一次世界大戦中の1916年にはメッカの太守、フセインがアラブの反乱を開始し、1918年10月に反乱軍はダマスクスに入城する。戦後の1920年、シリアはフセインの子(12)ファイサルを国王として独立を宣言するが、(13)フランスはこれを認めず同年7月にはダマスクスを占領し、1922年には国際連盟でフランスのシリア委任統治が承認された。歴史的シリアの一部を領土としこの町を首都とするシリアという国家が独立を果たすのは、第二次世界大戦後の1946年を待たねばならなかった。


 (1) 紀元前7世紀にこの王国の最大版図を達成した王の名を答えよ。
 (2) この国の最盛期の王であるネブカドネザル2世に滅ぼされ、住民の多くがバビロンに連れ去られたヘブライ人の国の名を答えよ。
 (3) これに先立つ6世紀に、ササン朝のホスロー1世が突厥と結んで滅亡させた中央アジア遊牧民勢力の名称を答えよ。
 (4) この人物および彼の11人の男系子孫をムスリム共同体の指導者と認めるシーア派最大の宗派の名称を答えよ。
 (5) この町は大河川の河畔に位置している。この河川の名を答えよ。
 (6) 9世紀後半から10世紀初頭にかけてエジプトに存在し、シリアにも領土を広げた独立王朝の名を答えよ。
 (7) アッバース朝に対抗するため、この王朝の君主が建国当初から使用した称号を答えよ。
 (8) この時、ティムールはダマスクス郊外で当時の著名な知識人と面会している。『世界史序説』の作者として名高いその人物の名を答えよ。
 (9) この直前の1514年、セリム1世は以後オスマン帝国のライヴァルとなるイランの新興勢力との戦闘に勝利している。この勢力の名を答えよ。
 (10) 1820年代、オスマン帝国は領内のある地域の独立運動を鎮圧するためムハンマド=アリー朝の軍事支援を得ており、これが同朝によるシリア領有権要求の一因となった。この独立運動の結果、独立を達成した国の名を答えよ。
 (11) ムハンマド=アリー朝にシリア領有を断念させたこの会議の名を答えよ。
 (12) この人物は後の1921年、当時イギリスの委任統治領であったある国の国王に迎えられている。1932年に独立を達成したこの国の名を答えよ。
 (13) 大戦中の1916年、イギリス、フランス、ロシアが戦後のオスマン帝国領の処理を定めた秘密協定の名を答えよ。

B 中国の歴代王朝の人口は、のこぎりの歯状に増減を繰り返し、多くても8,000万人ほどであった。王朝の安定期には人口が増加したが、戦争や反乱、王朝交替、伝染病の流行などが起こると、人口は大きく減少したからである。
 そして(14)明代後期に至ると、ようやく1億人を超えて、1.5〜2億人ほどにまで到達した。長江下流域は、(15)南宋の時には「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と呼ばれる穀倉地帯であったが、(16)明代後期には人口の増加とともに、新たな農地(低地)開発のフロンティアが消滅し、次第に家内制手工業へとシフトしていった。また、南の福建省は海岸線まで山が迫り、平野が少ないという地形的な特徴から、海外へと乗り出し、(17)東南アジアに移住する者も出現した。その後、17世紀半ばに至って、(18)2つの民衆反乱をきっかけとして明朝が倒れると、四川省では飢饉(ききん)や虐殺のために大幅に人口が減少したとされ、のちに湖北省湖南省からの多くの移民が流入することになった。
  清朝が成立した後、(19)康煕・[ c ]・乾隆の3皇帝の時に全盛期を迎えると、人口は順調に回復し、18世紀前半には1.5億人、18世紀後半には2.8億人、18世紀末には3億人と、まさに「人口爆発」と呼びうるような状態を呈した。その要因としては、支配が安定し(20)確実に人口が掌握できるようになったこと、大規模な戦争や反乱のない「清朝の平和」が続いたこと、稲作技術が改良されたこと、(21)アメリカ大陸伝来の畑地作物が導入されたこと、漢民族の農耕空間が(22)台湾・モンゴル・新彊・(23)東北などへ拡大したことなどがあげられる。清朝後期に入っても、人口は着実に増加したと考えられ、19世紀前半には4億人に到達した。(24)19世紀後半から20世紀前半には、国内は政治的な混乱に見まわれたが、人口はゆっくりと増加し、中華人民共和国が成立した1949年には約6億人を抱えるようになった。
  戦後中国はいわゆる「第1次ベビーブーム」の到来によって、人口がさらに大きく増加したが、毛沢東が1958年、[ d ]の号令を発すると、(25)政策の失敗や自然災害などが重なり、少なからぬ人びとが餓死したと推定されている。その後は再び増加に転じて「第2次ベビーブーム」を迎え、人口は9億人に迫るが、(26)1980年以降には、いわゆる「1人っ子政策」が開始され、国家による厳しい人口統制が実施されていくことになった少子高齢化が極端に進み、中国が高齢化社会へと突入するようになると、2014年に1人っ子政策は廃止され、2人目まで子供をもうけてよいとされ、現在では3人目まで認められている。ただし現代の若者はこうした政策に、中国政府が期待したような反応を示しておらず、出生率は高まっていないようである。今後、中国の人口がどのように推移するかは、世界の未来を見据えるうえでも無視できない問題である。


 (14) この頃、各種の税と係役(義務労働)を一本化し銀納させる新しい税制が設けられた。その名称を答えよ。
 (15) この頃、長江下流域では、湖沼や河道など低湿地を堤防でかこい込み新たな農地を開拓した。その名称を答えよ。
 (16) 徐光啓は明代後期に中国の農業技術や綿などの商品作物を解説し、ヨーロッパの農業に関する知識・技術を導入した農書を編纂(へんさん)した。その書物の名を答えよ。
 (17) このように明代後期から清代にかけて、東南アジアの各地に移住した人々は何と呼ばれるか。その名称を答えよ。
 (18) 2つの民衆反乱のうち、明朝最後の皇帝を自殺に追い込んだ農民反乱軍の指導者は誰か。その名を答えよ。
 (19) この皇帝の時、人頭税を廃止し、土地税に一本化する税制が始まった。その名称を答えよ。
 (20) この時代に治安維持や戸籍管理のために行われていた制度は、名称の上では、北宋王安石が行った新法の一つで兵農一致の強兵策を引き継いだといわれている。その名称を答えよ。
 (21) サツマイモとともにアメリカ大陸から伝来し、山地開発にも重要な役割を果たした備蓄可能な食物をカタカナで答えよ。
 (22) 福建や広東から台湾へと移住した人々の中には、客家と呼ばれる集団があった。この客家出身で1851年に太平天国をたてた人物は誰か。その名を答えよ。
 (23) 1644年、清は中国本土に入ると北京に遷都した。その直前まで、清が都を置いていた東北地方の都市はどこか。その当時の名称を答えよ。
 (24) 19世紀末には、華北山東省において武術を修練し、キリスト教排斥をめざす宗教的武術集団が勢力を伸ばし、宣教師を殺害したり鉄道を破壊したりした。この集団が掲げた排外主義のスローガンを何というか。
 (25) この時、集団的な生産活動と行政・教育活動との一体化を推進するために農村に作られた組織を何というか。その名称を答えよ。
 (26) 同じ頃、鄧小平の指導のもとで行われた外国資本・技術の導入などの経済政策を何と呼ぶか。その名称を答えよ。

第3問(20点)
 民主政アテネ共和政ローマでは、成人男性市民が一定の政治参加を果たしたとされるが、両者には大きな違いが存在した。両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
  次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A (1)ヨーロッパで今日の「大学」の原型が誕生したのは、12世紀から13世紀にかけてのことである。当時、ヨーロッパの各地にはカトリック教会の司教座や修道院に付属する学校や、法律や医学を教える私塾が存在した。イタリアのボローニャでは、法律を学ぶ学生たちが出身地ごとに「ナチオ」(同郷会)と呼ばれる自律的な団体を組織し、やがてこれらの「ナチオ」が結集して「ウニウェルシタス」(大学)が形成された。他方、ヨーロッパ北部のパリやオックスフォードでは、教師たちが自治組織を結成し、これが大学の起源となった。中世ヨーロッパの大学では、自由七学科(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学)を基礎的な教養として身につけたうえで、神学、(2)法学、(3)医学などを学んだ。
  (4)14世紀以降もヨーロッパ各地で新たな大学の創設が進んだが、ルネサンス期の人文主義者のなかには、大学で教えられる伝統的な学問に批判を唱える者もあらわれた。(5)古典古代の原典に立ち返って新しい解釈をおこなう営みは、しばしば大学の外で展開された。16世紀以降になると、大学は、政治権力の影響をより強く受けるようになり、学生や教師たちがもっていた自治的な権限は弱められていった。(6)宗教改革以降の宗派間の対立も、高等教育のあり方に影響をおよぼした。既存の大学はプロテスタントカトリックいずれかの立場に分かれ、(7)新しい大学もそれぞれの宗派の布教方針にしたがって設置された。他方で、ヨーロッパ諸国の一部では、大学の外で新しい学術団体が組織された。フランスでは、1635年にフランス語の統ーなどを目的としてアカデミー・フランセーズが、1666年にはバリに王立科学アカデミーが創設された。(8)イギリスでは、1660年にロンドンで民間の学術団体が設立された。この団体は2年後に国王の勅許をえて「ロイヤル・ソサエティ」(王立協会)と呼ばれるようになる
  18世紀にヨーロッパの高等教育はさらなる変革の時代を迎えた。ドイツでは、1730年代に(9)ハノーファー選帝侯領ゲッティンゲン大学が創設された。領邦国家の意向に沿って新設されたこの大学では、歴史学応用数学、官房学などの新しい科目が開講され、ゼミナール形式の授業が導入された。国家が主導するこのような大学教育のモデルは、(1O)1810年プロイセン王国で創設されたベルリン大学でさらなる発展をとげ、19世紀から20世紀にかけて日本を含む世界各国の大学で採用されていった。このように、大学という制度には歴史的にみて、学生・教師の自治的団体としての起源に由来する自由・自律と、国家権力や宗教的権威による管理・統制という2つの側面が存在する。ヨーロッパで生まれた大学制度は近現代にグローバルに普及していくが、この制度を受け入れた多くの地域で、大学は、この2つの側面のあいだに生じる緊張関係のもとで揺れ動く歴史を歩むことになるのである。


 (1) 「大学」の成立の背景のひとつとして、この時期、ヨーロッパの各地で商工業の拠点として都市が発展したことがあげられる。
  (ア) イタリアでは神聖ローマ皇帝の介入に抵抗してミラノを中心に都市同盟が形成された。この都市同盟の名称を記せ。
  (イ) カトリック教会では、13世紀から、フランチェスコ修道会やドミニコ修道会のように、都市の民衆のなかに入って説教することを重視する修道会が活動を始める。これらの新しいタイプの修道会を総称して何と呼ぶか。その名称を記せ。
 (2) 中世ヨーロッパの法律学において重視されたのは、6世紀に東ローマ帝国の皇帝が編纂(へんさん)させた文献であった。今日、この文献は総称して何と呼ばれているか。その名称を記せ。
 (3) (ア) 中世ヨーロッパの医学は、イスラームの医学から大きな影響を受けている。ラテン語に翻訳されてヨーロッパの医学教育で教科書として用いられた『医学典範』を著したムスリムの医学者の名を記せ。
 (イ) イスラーム世界を介して古典古代から中世ヨーロッパに伝えられた医学理論に対して、17世紀にはいると、解剖や実験をふまえた新しい学説が唱えられるようになった。イギリスの医学者ハーヴェーが古代ギリシア以来の生理学説に反論して発表した学説の名を記せ。
 (4) ヨーロッパ東部では、1348年にプラハに大学が創設された。この大学の創設を命じた神聖ローマ皇帝の名を記せ。
 (5) 15世紀のフィレンツェでは、フィチーノらの人文主義者を中心とする学芸サークルが活動し、前5世紀から前4世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者の著作のラテン語訳をおこなった。『ソクラテスの弁明』や『国家』などの著作で知られるこの哲学者の名を記せ。
 (6) 九十五カ条の論題によってカトリック教会の悪弊を批判したルターは、ドイツ中部にある大学で神学教授を務めていた。この大学が所在した都市の名を記せ。
 (7) 16世紀以降アメリカ大陸の植民地にも大学が創設されている。
   (ア) アメリカ大陸で最初の大学は、インカ帝国征服後の1551年にリマに建設された。インカ帝国を征服した人物の名を記せ。
  (イ) ハーヴァード大学の起源は、イギリス領北米植民地で最初の高等教育機関として1636年にマサチューセッツ州に創設された「ハーヴァード・カレッジ」である。17世紀にマサチューセッツ州を含むニューイングランド植民地に入植したのは、ピューリタンと呼ばれる人びとであった。彼らは宗教的には総じてどのような立場にたっていたか、簡潔に説明せよ。
 (8) (ア) この団体に勅許を与えた国王は、父王が処刑されたために大陸に逃れていたが、1660年に帰国してイギリス国王に即位した。この国王の名を記せ。
  (イ) 『プリンキピア』を著して力学の諸法則を体系化した科学者が、この団体の会長を務めている。近代物理学の創始者とされるこの科学者の名を記せ。
 (9) 1714年からハノーファー選帝侯がイギリス国王を兼ねたため、イギリス史ではこの時期の王朝はハノーヴァー朝と呼ばれる。この王朝の最初の2代の国王の時代に、実質的な首相として、内閣が議会に責任を負う体制の確立に貢献した人物の名を記せ。
 (10) ベルリン大学の初代学長となった哲学者フィヒテは、1807年から翌年にかけて、ナポレオン軍占領下のベルリンで、教育による精神的覚醒を訴える連続講演をおこなったことで知られる。この講演の題目を記せ。

B 石炭は近代ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきた。
  燃料としては薪や木炭が古くから用いられているが、経済発展に森林の再生が追い付かず、その枯渇を招くことも歴史上少なくなかった。ヨーロッパでは商業が拡大する16世紀ごろから木材が大量に消費されるようになり、石炭も本格的に利用されはじめる。18世紀前半に(11)石炭を乾留したコークスによって高純度の鉄を精錬する技術が開発されると、石炭の重要性が増大した。18世紀末には石炭をガス化する技術も登場し、19世紀になると大都市では石炭ガスが街灯や暖房にも使われるようになった。
  (12)蒸気機関の普及によって石炭の需要はさらに高まった。18世紀イギリスの綿工業においては、(13)紡績機や織布機の開発による作業の効率化が進んでいた。それらの機械の動力として蒸気機関が採用されると、綿織物の生産量はさらに拡大した。19世紀になると、イギリスは(14)綿織物の輸入国から輸出国へと変貌する。他の産業分野でも蒸気機関の利用が一般化し、蒸気機関車や蒸気船は人や物の流れを加速させた。
  石炭はヨーロッパ各地で採掘が可能である。特にイギリスには豊富な石炭資源が存在していた。イギリスの毛織物工業や(15)綿織物工業の中心地帯で石炭が容易に採掘できたことは、蒸気機関の普及に寄与した。他国の工業化が進むと、イギリスの炭鉱業は輸出産業としても発展した。例えば(16)フランスは、国内産の石炭だけでは工業化で増大する需要を満たせず、イギリスなどの石炭を輸入している。中欧には多数の炭鉱があり、ドイツの工業化を支えた。
  木炭の製造は、周縁的な産業として、衰退しつつも存続した。19世紀初頭の南イタリアでは、(17)ある秘密結社の成員が「炭焼き人」を名乗っている。当時の炭焼き人は山林地帯で独自の共同体を維持しており、その結束力ある組織が模倣されたのである。立憲主義自由主義を掲げるこの結社の運動はイタリア半島各地に、そしてフランスにも広がった。だが炭鉱に乏しいイタリアも19世紀後半には燃料をイギリスからの石炭輸入に依存するようになっていく。
  19世紀後半、内燃機関の実用化などによって石油が石炭に替わるエネルギー源として台頭した。1859年からのオイルラッシュを引き起こした(18)ペンシルヴェニアなどがあるアメリカ合衆国と、バクーや(19)グロズヌイなどで石油を産出するロシアは、20世紀に世界を二分する超大国となった。だが石炭も重要な資源でありつづけた。現在でも製鉄にはコークスを用いるのが主流である。電気エネルギーの利用も20世紀に急速に拡大するが、石炭も火力発電の燃料として利用されつづけている。
  石炭や鉄の産出を背景に発展した鉱工業地帯が国家間の係争の対象となることもあった。(20)フランスが普仏戦争で喪失した地域もそのひとつであった。第一次世界大戦後には、(2l)ドイツの鉱工業地帯のひとつが国際連盟の管理下に置かれ、15年後の住民投票で再びドイツに編入されているヴェルサイユ条約で課せられた義務の不履行を口実に、フランスとベルギーによって(22)鉱工業地帯を抱えるドイツの一地域が占領されたこともある。第二次世界大戦後フランスやイギリスは石炭産業を国有化した。また1952年には西ヨーロッパの石炭等の資源を管理するために(23)6か国からなる組織が発足している。発足の背景には西ヨーロッパにおける戦争の再発を防止する意図もあり、この組織はその後のヨーロッパ地域統合の基礎のひとつとなった。一方、イギリスでは、その後(24)石炭産業の民営化が提唱され、20世紀末までに民営化と一部炭鉱の閉鎖が進められた。


 (11) この技術を開発した父子の姓を記せ。
 (12) 炭鉱の排水などに使われていた蒸気機関を効率的で汎用性の高いものに改良した技術者の名を記せ。
 (13) 蒸気機関が導入される前の、これらの機械の主要な動力は何か。
 (14) 18世紀のイギリスが輸入した綿織物の主要な生産国はどこか。
 (15) この地域の中心的な工業都市の名を記せ。
 (16) 鉄道会社の整理統合や金融機関の育成によってフランスの工業化を上から推進した統治者の名を記せ。
 (17) この秘密結社の名を記せ。
 (18) ペンシルヴェニア州の一都市は独立革命期に政治的中心となっており、ワシントンに連邦議会が設置されるまで合衆国の首都として機能していた。この都市の名を記せ。
 (19) この油田のある地域では19世紀中ごろロシア支配に対する反乱が起こり、ソ連崩壊後にも紛争が2度発生している。この地域の名を記せ。
 (20) この地域の名を記せ。
 (21) この地域の名を記せ。
 (22) この地域の名を記せ。
 (23) (ア) この機関の名を記せ。
   (イ) 6か国のうち2国はフランスと西ドイツである。その他の国を1つ挙げよ。
 (24) 民営化を主導した首相の名を記せ。
………………………………………
第2問・第4問の解説はしていません。解答例だけ。
第1問
 課題は「15世紀から16世紀初頭までのマラッカ王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響」でした。
 難問でした。東南アジア史をどれだけ勉強していたかにかかっています。その中でもマラッカ王国は大事な項目ではあるものの、1世紀にわたって説明する程のデータが果たしてあるか、最終はポルトガルに征服されるまで説明が求められています。
 求められている「外部勢力……関係」と「イスラーム化に与えた影響」という二つの課題に合致するデータをどれだけ集めてこられるか。

 「外部勢力
 当時は北の半島部にタイのアユタヤ朝(1350-1767)が栄え、東の島嶼部(とうしょぶ、諸島部)ではインドネシアマジャパイト王国(1293〜1520頃)というヒンドゥー教の大国がありました。とくに後者のマジャパイト王国マラッカ海峡も支配する商業大国になります。14世紀まではシュリーヴィジャヤ王国(7〜14世紀)がになっていた地位を、マジャパイト王国が奪いました。イスラーム化してからは、西のスマトラ島北部にはアチェ王国(15世紀末〜20世紀初め)ができ、いずれイスラーム化したマタラム王国(16世紀末〜1755)もできます。
 そして「この王国はマジャパヒト王国の商業活動をおさえこみ、インド洋と南シナ海を結ぶ中継貿易によって繁栄した(詳説世界史)」となります。
 もう一つ影響の強い国は北の中国・明朝でした。鄭和チャンパー(占城)とマラッカ海峡に面した港市国家マラッカを根拠地にして、東南アジア、インド洋各国に中国への朝貢をすすめました。それをマラッカ王国のほうは利用して、「マジャパヒト王国やアユタヤ王国の勢力拡大をおさえ、中国と朝貢交易をつづけた(東京書籍)」となります。
 


 最後の強い外部勢力はポルトガルです。1509年にディウ沖海戦でマムルークグジャラート連合軍を破り、1510年にはゴアを占領し、翌年マラッカ王国を征服します。すでに1500年頃、ポルトガル商人はマラッカで胡椒1キンタールを4デュカートで入手して、中国では15デュカートで売れると報告していました(マージョリー・シェファー著『胡椒 暴虐の歴史』(白水社)p.49)。侵攻の様子はこうでした。「1511年、猛将アフォンソ・デ・アルブケルケ指揮するポルトガル艦隊がマラッカを占領した。容赦のない軍事行動であった。絶え間ない砲撃によるポルトガルの侵略を目にしたあるマレーシア人は「フランキ〔西欧人〕のやつらはマラカ人に戦いを挑み、船から大砲を撃ち込んだ。弾が雨あられと降り注いだ……また、大砲の轟音は天の雷のよう、閃光は空の稲妻のようであり、火縄銃の音はフライパンの中ではじけるハマビシの実のようだ。この町を占領したポルトガル人のなかにフェルディナンド・マゼランがいた」と(前掲書、p.69)。マゼランはいずれ逆回りで、このマラッカに到達できると踏んで大西洋・太平洋に挑むことになります。

 「イスラーム化に与えた影響
 イスラーム教が伝わったのが、13世紀以降です(詳説世界史では「13世紀以降、商人や神秘主義教団の活動によってインド・東南アジアのイスラーム化がすすみ」)。マラッカ王国は1400年頃に成立し、イスラーム教改宗は1450年頃とみられています。この王国ができる以前にマルコ=ポーロがマラッカ海峡を通っており(1288年頃)、この地域にイスラーム教徒が多いと書いていて、史家の中にはマラッカ王国イスラーム化する前にいくつもの小王国があったと唱えるものもあります。ただ、このマラッカから周辺一帯にイスラーム教が伝播したという説が一般的です。東京書籍では「マラッカに布教拠点を得たイスラーム教は、香料交易ルートにそってジャワ島北海岸に広がった。ジャワ北岸の交易港をムスリム勢力に奪われたヒンドゥー教マジャパヒト王国は衰退し」と書いています。これは影響も書いています。つまりヒンドゥー勢力の衰退です。
 なぜイスラーム教がこの地に広まったのかの原因は、河部利夫編『東南アジア歴史文化事典』(東京堂出版)の「イスラム」で次のように説明しています。

元来、イスラムヒンドゥー教や仏教にくらべると、より平等主義的で、倫理的に普遍主義的な特質をもっていたが、とくにスーフィズムの場合には、その教団が本来、都市の手工業者のギルドや商人組合と結びついて発達したものであったため、東南アジア島嶼部の沿岸の商業都市国家の商人にも受けいれ易いものであった、さらに、第二に、信仰の面からいっても、スーフィズムは神との瞬間的な合一・没入という直接的・人格的な「悟りの体験」を重視するものであったため、当時のヒンドゥー教・仏教の呪術的・神秘主義的な世界観にも比較的容易に適合しうるものであったのである。とくに、この第二の点は、イスラムがジャワ内陸部のヒンドゥー王国の中心地域にも、時間をかけながらも、ともかくも浸透しえた主要な原因であった。

第3問
 課題は「両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を」でした。
 書けそうで書きにくい難問でした。
 以下のような解答例がネットにあります。

アテネでは、前5世紀、ペルシア戦争で船の漕ぎ手として活躍した無産市民の参政権要求が強まった。これをうけペリクレスの指導で、貴族や富裕な平民に加えて無産市民も含む全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言が認められ、直接民主政が実現した。一方、ローマでは前4世紀にリキニウス・セクスティウス法が制定され、コンスルのうちー名は平民から選出されることが規定された。さらに前3世紀にはホルテンシウス法が制定されて、平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となることが定められ、貴族と平民の法的平等が実現した。しかし、実態としては貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関として政権を独占した。(299字)

 この解答例では、アテネが「全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言」、ローマは「平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となる……貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関」とあります。この「平民会の決議」と「元老院を最高機関」は同等なのかどうかが不明です。書いてあることを文字どおり採れば、最高機関が2つあることになります。また元老院に貴族と新貴族が参加しているのなら、平民は元老院に参加できないというのはどういう状態なのか、不明です。
 ローマの民会に4つあり、兵員会・貴族会・区民会・平民会という組織があることは知っていますか? 教科書に書いてあるのはこの内の一つである平民会についてだけです。もっとも用語集の「コンスル」のところに「行政・軍事を担当した最高政務官。任期1年で無給。民会の一つであった兵員会で2名選出されたが、貴族が独占した」と書いてあります。この兵員会は平民も参加していますが、身分の高いひとや富裕層に多くの票があり、決定権は平民にはありませんでした。他の会も同様で、平民会だけは平民だけの会議ですが、兵員会のような重要な官職、重要な外交案件(宣戦・講和)、重罪裁判は提案されず、下級官職と軽罪しか討議できませんでした。この平民会の議長は護民官ですが、護民官は長い過程の中で新貴族といわれるひとたちが担い、元老院議員たちと近づいていて(だから新貴族)、元老院議員たちが嫌う法案は提出しなくなりました。だからホルテンシウス法は「元老院の承認なしに国法」となり、元老院議員は心配する必要はなく、「身分闘争は終わった」というより、もう闘争は止めにした、諦めた、というほうが正確です。ですが、貴族と平民に政治的な格差がなくなったのではありません。
 ホルテンシウス法の後に詳説世界史は「ローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け」とあり、この指導権とは何か? 元老院議員はコンスル経験者であるため、後輩のコンスル護民官たちにアドハイス(助言、事実上の命令)するのを常としていており、すべての民会の決議を批准(最終承認)する権限をもっているのです。

わたしの解答例
アテネではペリクレスの下で成人男子全員が参加できる民会が最高決定機関となった。将軍以外は重任禁止とし、抽選で官職に就いた。ローマは半島統一戦争からポエニ戦争の過程で、貴族と平民の身分闘争が展開し、それはリキニウス法でコンスル1名を平民から、ホルテンシウス法で平民会の決議が元老院の承認不要とした。前者では、下層の平民身分も全員が会議に参加できたが、後者では民会が4つあり、身分別に分かれていて富裕者に決定権が限られていた。さらにローマでは、平民は平民会でしか発言権はなく、他の民会では身分の高いものたちに決定権があった。高職は兵員会で貴族・新貴族が独占した。平民会は低い官職しか選出できなかった。

第2問
A a ムアーウィヤ b サラディン
(1)アッシュルバニパル (2)ユダ王国 (3)エフタル (4)十二イマーム派 (5)ティグリス川 (6)トゥールーン朝 (7)カリフ (8)イブン=ハルドゥーン (9)サファヴィー朝 (10)ギリシア (11)ロンドン会議 (12)イラク王国 (13)サイクス=ピコ協定
B c 雍正  d 大躍進
(14)一条鞭法 (15)囲田(圩田・湖田) (16)『農政全書』 (17)華僑 (18)李自成
(19)地丁銀(制)  (20)保甲法 (21)トウモロコシ (22)洪秀全 (23)盛京 (24)扶清滅洋 (25)人民公社 (26)改革・開放政策

第4問
A  (1)(ア)ロンバルディア同盟 (イ)托鉢修道会 (2)ローマ法大全 (3)(ア)イブン=シーナー (イ)血液循環説(4)カール4世 (5)プラトン (6)ヴィッテンベルク (6)(ア)ピサロ (イ)イギリスのカルヴァン派のことで、儀式・僧服・行事が旧教のままであり、改革の不徹底を批判した。 (8)(ア)チャールズ2世 (イ)ニュートン (9)ウォルポール (10)ドイツ国民に告ぐ
B (11)ダービー (12)ワット (13)水力(人力) (14)インド (15)マンチェスター
(16)ナポレオン3世 (17)カルボナリ (18)フィラデルフィア (19)チェチェン
(20)アルザス・ロレーヌ (21)ザール (22)ルール (23)(ア)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) (イ)イタリア(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク) (24)サッチャー

2022年度共通テストの解説

22年度共通テスト・世界史Bの解説
 テスト問題はネットからダウンロードしてください。→https://www.asahi.com/edu/center-exam/shiken2022/mondai0115_uiFshykDfV/sekaishi_b_01.html

第1問 
A 必ず資料から問いを立てる点を別にすれば、センター試験に戻ったかのような問い方と易問です。

問1[ 1 ]
 下線部(a)「解剖学・植物学・薬学」の学問のいずれかに対応する、中国における成果について述べた文として最も適当なものを。
 ①は『本草綱目』の薬学。「本草」とは薬のこと。薬になる植物の絵と薬の効用が書いてあります。これが正解。この薬学書と同時期の明末の技術書として③『天工開物』があり、著者と作品が正しいかどうかの判定が求められています。覚え方は、前者が★珍しい草、後者が★星の天。この覚え方は拙著『センター世界史・各駅停車』に書いてあるもの。②史書、④詩文集。

問2[ 2 ]
 「オランダの拠点だった[ ア ]に到着」は地図のどこか、という位置の問い。
 地図①a はベトナム南部で、フランスの植民地になる地域であり、オランダ領ではない。ホーチミン市(旧サイゴン市)。
 地図②b インドネシアなのでこれが正解。オランダが築いたバタヴィア(現ジャカルタ市)。
 地図③c 中国の広東かポルトガル領のマカオか。
 地図④d フィリピンなのでスペイン領かアメリカ領のマニラ市。

問3[ 3 ]
 下線部(b)「朝鮮王朝(李朝)では、明に倣って自国民の海外渡航を禁じていた」に関連して 中国と朝鮮との関係の歴史について述べた文として最も適当なものを。
 「渡航」とは無関係な外交史です。
 ① 唐が、朝鮮北部に楽浪郡を置いた。……誤文。唐ではなく、前104年に前漢武帝がおいた朝鮮四郡のひとつ。(語呂『ワン(『世界史年代ワンフレーズnew』の略字)』楽浪郡、前108年、→楽、天108)
 ② 隋が、高句麗に遠征軍を送った。……正解。
 ③ 清が、南京条約で朝鮮の独立を認めた。……誤文。日清戦争下関条約で認めたもの。南京条約アヘン戦争の結果。
 ④ 朝鮮が、明で創始された科挙を導入した。……誤文。科挙の創始は隋(選挙)ないし宋(科挙)。

B
問4[ 4 ]
 「[ イ ]として活躍し、特に[ ウ ]の分野で評価された」
 あ「ウラマー」はイスラーム法の学者を指すことばで、イスラーム世界の裁判官はもちろん学者・モスクの礼拝指導者・政治家など幅広い分野で活動している知識人たち。中国でいえば読書人・士大夫にあたる。  
 い「スーフィー」は神秘主義者。「信心深く敬虔」とは書いてあっても、神との合一を求める神秘主義という傾向は資料文には何もない。むしろ「ハディースムハンマドの言行録・伝承集)を講じた」とあるように学者の仕事をしています。正解は②。

問5[ 5 ]
 イランにおける下線部(C)「キリスト教」の宗教の歴史について述べた文、
 ① サファヴィー朝の国教となった。……この王朝の国教はイスラーム教・シーア派のなかの十二イマーム派です。
 ② ネストリウス派が伝わった。これが正解。さらに東伝し唐まで到達したため、「大秦景教流行中国碑」に記されました。
 ③ カニシカ王が保護した。……クシャナ朝の王が保護したのは大乗仏教
 ④ イスラーム教と融合して、シク教となった。……イランではなくパキスタン・インドで融合しました。

問6[ 6 ]
 「アッパース朝の下で起こった出来事の影響」はどれか。
 ① バーブ教徒の反乱が鎮圧された。……この反乱は1848年(『ワン』語呂→ハーブ、一1848)。西欧の二月革命三月革命、米国のゴールドラッシュの年。そのころのイランの王朝はカージャール朝(1796〜1925)。アッバース朝は750〜1258年(『ワン』語呂→あっ、バス、長750入ろ)。
 ② ダレイオス1世によって、ペルセポリスの建設が始められた。……この1世はペルシア戦争の開始(前500)で名高いアケメネス朝の君主。
 ③ アフガーニーによって、パン=イスラーム主義が唱えられた。……この啓蒙家は19世紀に活動した。名高いのはパン=イスラーム主義やイランにおけるタバコ=ボイコット運動とのかかわり。
 ④ アラブ人の特権が廃止され、イスラーム教徒平等の原則が確立された。……地租ハラージュをアラブ人も払い、アラブ人ではない非アラブ・ムスリムイスラーム教徒)はジズヤを払わなくてよくなった。ウマイヤ朝までのアラブ民族主義が否定され、この王朝から平等主義(イスラーム教徒は何民族であれ平等)に転換した。これが正解。

C 
問7[ 7 ]
 前の資料中の空欄[ エ ]の民族の歴史とは、「契丹と[ エ ]……遼史』と『金史』」と対応しているので、金についての問い。
 ① 猛安・謀克という軍事・社会制度を用いた。……金の民族・軍事・行政の制度。正解。
 ② ソンツェン=ガンポが、統一国家を建てた。……のはチベット吐蕃
 ③ テムジンが、クリルタイでハンとなった。……モンゴル人は、契丹もモンゴル人であるものの、「テムジン(後のチンギス=ハン)」は資料の時代の後の13世紀はじめ(『ワン』語呂→チンギス、天1206)。
 ④ 冒頓単干の下で強大化した。……のは匈奴。前209年陳勝呉広の乱も同年(『ワン』語呂→陳勝・冒頓はブ20ーク9)。

問8[ 8 ]
 チベット仏教の歴史。
 ① ワッハーブ派が、改革運動を起こした。……この派はサウディアラビア半島東部でおこったイスラーム原理主義の宗派。
 ② ガザン=ハンが、黄帽派ゲルク派)に改宗した。……ガザン=ハンはイルハン=ハン国の君主。マルコ=ポーロが元朝からコカチン姫を連れてきた。黄帽派チベット仏教の一派であり、ガザン=ハンはイスラーム教に改宗した君主。
 ③ ダライ=ラマ14世が、インドに亡命した。……これは中国の圧力で1959年インドに亡命。これが正解。
 ④ 北魏による手厚い保護を受けた。……のは道教と仏教で、どちらにしろチベットの仏教ではない。

問9[ 9 ]
 別の民族や集団が残した記録を史料とする例。
 あ 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)を用いた邪馬台国についての研究……日本の歴史を中国の史書で研究するのは、「別の民族や集団が残した記録を史料とす」ることになります。もっとも教科書からはずれるが、邪馬台国卑弥呼が「日本」の歴史であるかどうかの問題はあります。
 い パスパ文字(パクパ文字)で書かれたフビライの命令文書を用いた、元朝についての研究……パスパ文字元朝が定めた国定文字であり、「別の民族や集団が残した記録」ではない。なので正解は①。


第2問 これも易問だらけ。
A 
問1[ 10 ]
 「ナポレオンの侵略がもたらした悲惨な苦難の記憶は、スペイン人の心にわだかまったままである。この苦難から100年経った今も[ ア ]とスペインとの間に共感は 生えようがない。[ イ ]にジブラルタルを奪われたこと」……前者はナポレオンのフランス、後者はスペイン継承戦争のさいにこの都市をイギリスに奪われたこと。正解は③。ジブラルタルって海峡の名だけではありませんよ。都市名とし存在します。今でもGBと表記されて大英帝国領になっています。スペインは空しく返せの声を上げつづけています。

問2[ 11 ]
 次の図中に示したa〜dのうち、前の文章中の「スペインの最後の植民地」は?
 ① a アルジェリアはフランスの植民地。独立は1962年。
 ② b タイは植民地にならなかった。
 ③ c フィリピンはスペインの植民地からアメリカの植民地に(1898年の米西戦争)。これが正解。
 ④ d ペルーはスペインの植民地から独立したが(1821)、「最後」ではない。

B
問3[ 12 ]
 キューバの歴史。
 ① 北大西洋条約機構(NATO)に参加した。……欧米(合衆国・カナダ)の軍事同盟。
 ② バティスタ政権が打倒された。……カストロたちが倒した独裁政権キューバ革命、1959)。これが正解。
 ③ フランスから黒人共和国として独立した。……のはハイチ(1804)。
 ④ ナセルを指導者とする革命(クーデタ)が起こった。……王国からの独立(エジプト革命、1952)か、ナギブを追放したクーデタ(1954)か。キューバとは無関係。

問4[ 13 ]
 「交渉相手の首相の国あ・いと、締結した条約の内容X・Yとの組合せ」
 「交渉相手の首相の国」としては資料中に「フルシチョフ第一書記とマクミラン首相」とあり、マクミランがイギリスの首相、「締結した条約の内容」は資料には「包括的な」とあるものの妥協して「大気圏内」と限定しているように、「Y 核実験の部分的な禁止(部分的核実験停止条約)」となります(1963年、『ワン』語呂→部分核停、天1963)。正解は④。

問5[ 14 ]
 下線(a)の国「ソ連」の歴史について
 ① 中国との国境で、軍事衝突が起こった。……中ソ国境紛争として、ウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる衝突(1959)、新疆での国境紛争もおきました(1962)。これが正解。
 ② サンフランシスコ平和会議で、平和条約に調印した。……日本との条約。ソ連ではない。
 ③ クウェートに侵攻した。……イラクフセインの軍事行動に対してアメリカ中止の多国籍軍が侵攻した湾岸戦争(1991)(『ワン』語呂→湾岸イ199ィート1)。
 ④ アメリカ合衆国からアラスカを購入した。……アレクサンドル2世から買収した(1867年、『ワン』語呂→アラスカ氷、火1867)が、ソ連時代ではなく、ロマノフ朝の時代。


第3問 問5のひっかけ問題を別にすれば易問です。
A
問1[ 15 ]
 前の文章中の空欄[ ア ]の時期「[ ア ]と呼ばれる革命の時期に活躍したハンガリー出身のコシュート」に起こった出来事。

 ① ロシアで、立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された。……ロシア革命の二月(三月)革命のころ(1917)はこの党を主に社会革命党・メンシェヴィキの連立政府ができた。ハンガリーではない。
 ② オスマン帝国で、青年トルコ革命が起こった。……1908年の革命。立憲君主政を再現した。
 ③ ドイツで、フランクフルト国民議会が開催された。……ドイツ三月革命の結果、ドイツ諸邦があつまりドイツ統一問題を話し合った。この会議に対抗してスラヴ人も統一できないかプラハでスラヴ民族会議を開催してる。この会議はコシュートのハンガリーオーストリアからの独立に対抗する意味合いももっていた。東欧全体の民族主義的な動きを総称して「諸民族の春」「1848年革命」と呼んでいます。これが正解。
 ④ オーストリアで、市民が蜂起し、ディズレーリが失脚した。……ディズレーリはイギリスの首相。メッテルニヒのまちがい。

問2 [ 16 ]
 前の文章中の空欄[ イ ]の人物「1881年にエジプトで民族運動を起こしたもの」について述べた文あ・いと その人物が主導した民族運動を鎮圧した国との組合せ。

 [ イ ]の人物について述べた文、あ「エジプト総督に就任した」のは1805年に民衆の支持をえた総督に就いたムハンマド=アリー(『ワン』語呂→アリー、アン1パン8、05)。
 い 「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げた。のはアラービー(オラービー)=パシャで、年代「1881年(『ワン』語呂→裏ー火、火1881)」でも分かるはず。民族運動を鎮圧した国は、Yイギリスなので、正解は④。

問3[ 17 ]
 「1880年代というと、領事裁判権を含む、日本に有利な[ ウ ]を結んだ後の時期である一方、[ エ ]に向け、西洋列強と交渉が進められる時期」という文相、語句の組合せ。
 「日本に有利な」とあるので江華島事件の後に8隻の軍艦で威圧して結ばせた日朝修好条規になります。日清修好条規は対等な条約でした(1876年、『ワン』語呂→日朝、嫌1876条規)。時間的にも「1880年代というと、……[ ウ ]を結んだ後の時」もヒント。「西洋列強と交渉」は岩倉使節団が「不平等条約の改正」が目的でした。正解は②。①③にある「南樺太」は日露戦争ポーツマス条約によって日本が獲得した地域です。

B
問4[ 18 ]
 「前の表を参照……人口の動きについて説明している文として最も適当なものを。

 ① マラッカ王国が繁栄していた1850年の東南アジアの人口は、1800年よりも増加している。……マラッカ王国の繁栄は14世紀なので、誤文。この王国はポルトガルが来て1511年に滅亡している。
 ② インドでは、ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位した19世紀前半に人口増加が見られた。……皇帝就任は1877年だから誤文(1877年は露土戦争インド帝国の年、『ワン』語呂→露土、インド、印1877)。
 ③ 中国本土では、トウモロコシやサツマイモの栽培の普及が人口増加を支え、1800年の人口が1700年の2倍を超えている。……表の数字もこれが正解と示しています。
 ④ 18世紀後半以降のヨーロッパでは、産業革命の進展に伴って人口が増加し、1900年のヨーロッパの人口は 同じ年のインドの人口を超えている。……表では超えていない。

問5 [ 19 ]
 前の文章から読み取れる事柄あ・いと、日本と東南アジアとの関係の歴史について述べた文X・Yとの組合せとして正しいものを 後の①〜④のうちから一つ選べ。
 この問題のように、表だけでなく、表の中にない新しいデータ、ここでは先生が説明している日本のこと、日本のデータは表にないが、この先生の解説(現在の日本の面積は約37.8万km12で、東南アジアのおよそ11分の1なのですが)が重要な役割を果たしている場合は注意しなくてはならない。

 文章から読み取れる事柄
 あ 1850年の東南アジアの人口密度は、同じ時期の日本と比べて低い。……数字だけ見ると、「1850年の日本……3071万人」と先生の発言にあり、表では東南アジアの1850年の密度が4200万人なので、「低い」のでなく高い。
 しかし面積は東南アジアは日本の11倍もあるので、結局、密度は「低い」ことになります。この文章「あ」が正しい。
 日本と東南アジアとの関係の歴史について述べた文。
 X 第二次世界大戦中にドイツがフランスに侵攻する前に、日本がフランス領インドシナ北部に進駐した。……逆です。独の仏侵攻で仏が降伏した(1940年6月22日)ので、日本の仏印侵攻は、9月23日。
 Y 朱印船が東南アジアに来航し、日本町(日本人町) ができた。……正文。なので②が正解。

C
問6[ 20 ]
 オーストリアの先住民とニュージーランドの先住民。
 正解は④。「オーストラリア・アボリジニー」と「★アア」で覚えましょう。ロマ人は西欧にいるインド系少数民族ナチスも彼らを殺しました。   

問7[ 21 ]
 メモの正誤。
 「小野さんのメモ」も「本田さんのメモ」も正しい。正解③。

問8[ 22 ]
 オセアニアの歴史
 ① オーストラリアは第二次世界大戦以前に白豪主義を廃止した。……廃止は1973年に制限法を撤廃してから。誤文です。
 ② カメハメハが王国を建てたハワイは フランスに併合された。……フランスでなく米西戦争の最中にアメリカが併合した。
 ③ 現在のオセアニアにあたる地域が、クックによって探検された。……18世紀に太平洋のほぼ全域を探検した。これが正解。
 ④ ニュージーランドは カナダよりも前に自治領となった。……カナダは1867年、ニュージーランドは1901年なので、誤文。


第4問
A これも容易な問題でした。ただ現代史の出来事がたくさん出てくるので、年代がハッキリ分かるかどうかが決めてです。
問1[ 23 ]
 日本軍が関わった出来事。
 「日本人の望むままの行動が容認されてしまった」とはスペイン内戦(1936〜39)の時期の近くで実現している事柄を探すことになります。
 ① ノモンハン事件で、ソ連に勝利した。……このノモンハン事件は、1939年の出来事(『ワン』語呂→野茂はん、一19サン3キュ9ー)。スペイン内戦との関連は、日本人の駐仏武官が内線の観察にいき、ソ連が人民戦線側に供給した武器がポンコツばかり、という報告を東京に打電していて、それを満州国に伝えると、それを真に受けてモンゴルにいるソ連軍を攻撃した事件です。スターリンがどいう人間か知らなかったため、大敗を喫しました。戦中はずっと、このことを隠していて、戦後になって初めて事件が明らかになりました。
 ② 満州国満洲国)を建国した。……1932年の建国(『ワン』語呂→まんじゅう、一19さん32)、これが正解。
 ③ 台湾を獲得した。……日清戦争(1894〜95)で獲得したことになっていますが(『ワン』語呂→日清焼きそば、人1894)、条約締結の後に台湾征服戦争をやり、台湾民主国を征服して取ったのが実情でした。これも「日本人の望むままの行動が容認」ではあるものの、時期がずれています。
 ④ 真珠湾を攻撃した。……1941年で内線の後(『ワン』語呂→真珠湾、天1941)。

問2[ 24 ]
 ヒトラーが「虐殺」しようとした[あらゆる党派の政敵」と表現されている組織の一つと、下線部(b)に関連した出来事について述べた文との組合せ。
 資料文の「アビシニア人」がエチオピア人を指し、①②の選択文にも書いてあります。ナイル川の源流アビシニア高原に住むひとびと、ということです。
 ① 共産党──国際連盟はイタリアの行為を非難したが エチオピアに対する侵略を阻むことができなかった。……ナチスが撲滅したかった政党として共産党は正しいし、ムッソリーニエチオピア侵攻は止められなかったのも事実。これが正解。
 ② 共産党──九か国条約に基づいて その締結国がイタリアを非難するにとどまり エチオピアは植民地化された。……「九か国条約」は中国(中華民国)に関するワシントン会議の条約(1921〜22)で、エチオピアと無関係です。九か国条約を★中華国条約と覚えると忘れないでしょう。
 ③④ 第1インターナショナル……1864年にロンドンでポーランド農民反乱を支援すべく集まった組織でした。不戦条約(1928、『ワン』語呂→1864)、国際連盟(1920)は第2インターナショナル(1889)、第3インターナショナル(1919)の前にできたもの。

問3[ 25 ]
 異なる見方あ・いと、それぞれの根拠として最も適当な文W〜Zとの組合せ。
 「異なる見方」は
あ 日本の政権は、ファシズム体制
い 日本の政権は、ファシズムとは区別される体制だったと言える。
 「それぞれの根拠」
W ソ連を脅威とみなし、共産主義運動に対抗する陣営に加わった。……これは反共という点で各国共通のファシズムの主張です。
X 国民社会主義を標榜(ひょうぼう)し、経済活動を統制した。……反共でありながら、労働者の見方ですよ、ということを示すための標語で、国家が社会主義または社会主義的諸政策をすすめるもので、ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)が代表例で、日本は該当しない。
Y 政党の指導者が、独裁者として国家権力を握ることがなかった。……独伊はヒトラーとムソリーニという政党の独裁者がいたので、明快ですが、天皇は独裁者じゃないといえるのか? 疑問はわきますが、通説では独裁者じゃないことになっていますから、これは日本に該当します。しかし最近は天皇の側近たちの日記が公表され、じきじきに軍に対して種々の命令をし、戦争の行方を左右していたことが明らかになってきました。政党の党首のように、表立って演説はしなかったのですが、神とされた天皇、かつ大元帥であり、毎日陸海軍のトップと会い、戦況報告を受けて指示を出しており、たびたび怒鳴りつけています。「独裁者」でないことは難しい。
Z 軍事力による支配圏拡大を行わなかった。……これはファシズム国がみな行ったことであり、行わなかったことではない。なので正解は①。

B
問4[ 26 ]
 [ ア ]の人物の治世に、ロシアで起こった出来事[ 26 ]人物名は記してありませんが、「初めて正式にツアーリ(皇帝)を称した……雷帝」とあるので、イヴァン4世と分かります。
 ① ステンカ=ラージンの反乱が起こった。……ロシアの反乱で名高いものは、どれもコサックたちの反乱で、第一がこの17世紀の反乱と、18世紀のプガチョフの反乱です。もちろんイヴァン4世の治世(1533〜84)の後になります(『ワン』語呂→ステンカにボ16シチ70)。
 ② ギリシア正教が国教化された。……のは10世紀(989年、『ワン』語呂→裏でみても、ケ989)、ウラディーミル1世のときです。現代のウラディーミル=プーチンが錯覚しているキエフ・ロシアの起源らしい。
 ③ キプチャク=ハン国に服属した。……13世紀。
 ④ イェルマークの協力により、シベリアに領土が広がった。……1581年にシビル=ハン国を征服して(『ワン』語呂→シベリア抑留、人1581)、この皇帝に献上したことで知られています。その後の紆余曲折は無視しましょう。これが正解。

問5[ 27 ]
 「明を建国した彼」[ イ ]の人物が徴税のために始めた政策あ・いと、世界史上の税制の歴史について述べた文X〜Zとの組合せ。

徴税のために始めた政策
 あ 一条鞭法の導入……16世紀の政策なので合わない(16世紀、『ワン』語呂→一条、一16)。
 い 賦役黄冊の作成……これは朱元璋洪武帝)の政策なので該当します。

税制の歴史について述べた文
 X イギリス東インド会社は、インドの農民から直接に徴税を行うザミンダーリー制を整備した。……「直接」がまちがい。これはザミンダールという領主まかせた間接徴税で、直接農民から徴税する制度はライヤットワーリー制といいます。誤文。
 Y 共和政ローマでは、騎士身分(騎士階層)が属州の徴税を請け負って、富を積した。……問題なく正解。かれらはエクイテス(騎士)と呼ばれ、政商となって得た利益を土地に投資し、ラティフンディウムを営みます。
 Z イギリス政府は、北アメリカ植民地の抵抗にもかかわらず、印紙法を撤回しなかった。……1764年に出された法に対する激しい反対運動から、翌年に撤回して、代わる法としてタウンゼント諸法を課しました(1767)。誤文。なので正解は⑤。

問6[ 28 ]
 下線部(d)「ドイツ騎士団を撃退した……この映画は1939年から41年までソ連で上映が禁止」の要因です。
 ① 世界恐慌の影響で経済的打撃を受けたため、国民の生活を引き締めようとしたのだろう。……打撃を受けていないというのが定説。
 ② 独ソ不可侵条約を締結したため、ドイツを刺激したくなかったのだろう。……これが正解。41年から独ソ戦が始まります。
 ③ ドイツをコメコンに加盟させるため関係悪化を避けようとしたのだろう。……COMECONは第二次世界大戦後の組織(1949)。ドイツは東西に分断されています。
 ④ 十月革命後に反革命軍との内戦が続いていたため 映画を上映する余裕がなかったのだろう。……十月革命は1917年以降のことになり、時間差が大きい。


第5問 いやに年代の問題が多い。
A
問1 [ 29 ]
 「800年にローマ皇帝」[ ア ]の人物の事績
 ① フン人を撃退した。……カール大帝が撃退したのはアヴァール人。
 ② イングランド王国を征服した。……のはノルマンディー公ウィリアム。
 ③ アルクインらを集め、学芸を奨励した。……カロリング・ルネサンスを推進したのはこの「皇帝」、これが正解。過去のセンター試験でもなんども問われてきた人物です。
 ④ フランク国王として初めて、アタナシウス派キリスト教に改宗した。……メロヴィング朝のクローヴィスのこと(496年、『ワン』語呂→クローイ、ほ496)。

問2[ 30 ]
 「王ジョンと戦って大陸所領」空欄[ イ ]と[ ウ ]は、……空欄[ ウ ]に入れる人物の名の組合せ
 「王ジョンと戦っ」たのはフィリップ2世、[ ウ ]は「南の墓はメロヴイング家とカロリング家」とあるので、ピピンしかいない。ロロはデンマークから南下してきたノルマンディー公、ユーグ=カペーはカペー朝創始者。なので正解は②。

問3[ 31 ]
 年代の問題です。下線部(a)「カロリング・カペー両家の血筋を引く[ イ ]からルイ9世まで」の出来事……消去法で解けるかも。カロリング朝は751年からで、ルイ9世は第6回(1248)と第7回十字軍(1270)の指揮官。モンゴルにルブルックを派遣したのもこの国王でした。
 ① アナーニ事件が起こった。……1303年(『ワン』語呂→穴に、坊1さん303)。
 ② ジャックリーの乱が起こった。……1358年(『ワン』語呂→ジャック、貧1358)。
 ③ アルビジョワ十字軍が組織された。……1209〜29年。1200年頃に在位していたインノケンティウス3世(1198〜1216)が提唱したもの(『ワン』語呂→インノケンティウス3さん(恐竜みたいな名)、い1198)。これが正解。
 ④ トリエント公さん会議が開催された。……1545年、宗教改革の時期に開催された反宗教改革会議(ポトシ銀山と同年、『ワン』語呂→銀ポト、十(とう1)545)。

B
問4[ 32 ]
 下線部(b)「中国人の移民」の歴史。
 ① アメリカ合衆国で、19世紀末に中国人移民の制限が撤廃された。……撤廃は1860年の北京条約。「末」ではない。
 ② 東京で、華僑を中心に興中会が結成された。……日清戦争の敗北に国亡を痛感してハワイで結成(1894)。東京は中国同盟会が1905年に結成されます。
 ③ 福建・広東の人々が、清の禁令を犯して東南アジアに移り住んだ。……正解。
 ④ マラヤ連邦を中心に成立したマレーシアで、中国系住民を優遇する政策が採られた。……1957年のマラヤ連邦を中心に、1963年に成立。「中国系住民を優遇する」はシンガポール

問5[ 33 ]
 次の図中に示したa〜dのうち、文章中の空欄[ エ ](乾隆帝は[ エ ]を征服しましたが ムスリムが多く住む[ エ ])の地域の位置。
 地図中の①aは北京周辺だからありえない。②bは信教ウイグル自治区でこれが正解、③cは台湾なので康熙帝のときに征服、④dベトナムの南部まで征服した中国王朝はない。   

問6[ 34 ]
 空欄[ オ ](山西商人の活躍した時代)に入れる語あ・いと 空欄[  カ  ](商業活動を展開した[ オ ]の時代[  カ  ]ことも)に入れる文X・Yとの組合せ。
[ オ ]に入れるのは「い 明」 
[  カ  ]に入れる文は「 X 同業・同郷者の互助・親睦のために会館や公所が設けられた」なので正解は③。
 Y 黄河と大運河とが交わる地点に都が置かれ、商業の中心となった……北宋開封が該当します。

 対策は前年度(2021年共通テスト)の解説の末尾にあげたものと同じです。

東大世界史2022

第1問
 内陸アジアに位置するパミール高原の東西に広がる乾燥地帯と、そこに点在するオアシス都市は、ユーラシア大陸の交易ネットワークの中心として、様々な文化が交錯する場であった。この地は、トルコ化が進むなかで、ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの名で呼ばれるようになった。トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった。
 以上のことを踏まえて、8世紀から19世紀までの時期におけるトルキスタンの歴史的展開について記述せよ。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、次の8つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を引くこと。

 アンカラの戦い カラハン朝 乾隆帝 宋
 トルコ=イスラーム文化 バーブル 
 ブハラ・ヒヴァ両ハン国 ホラズム朝

第2問
 支配や統治には、法や制度が不可欠である。それらは、基盤となる理念や思想と、それを具体化する運動を通じてつくられることが多い。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教が支配宗教となった地域や国家では、民族や出自にかかわらず、宗教を第一とする統治体制が敷かれることが多かった。そこでは、啓典『クルアーン(コーラン)』と預言者ムハンマドの言行がもとになったイスラーム法が重視された。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

 (a) 最古の成文法の一つであるハンムラビ法典は、イスラーム法にも影響を与えたとされる。この法典が制定された時期と、その内容の特徴を、2行以内で説明せよ。

 (b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』を著して王朝の興亡の法則性を説いた学者の名前を記せ。

 (c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法に通じた宗教指導者(法学者)ホメイニらが中心となり、それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策について、2行以内で説明せよ。

問(2) 中世から近世にかけてのヨーロッパでは、多くの国が君主を頂点とする統治体制のもとにあった。君主の権力に関しては、それを強化することで体制を安定させようとする試みや、それが恣意的にならないよう抑制する試みがみられた。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) 大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に、4行以内で説明せよ。

 (b) マキアヴェリが『君主論』で述べた主張について、2行以内で説明せよ。

問(3) 19世紀末の清では、日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動について、以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前を記せ。
 (b) この運動の主張と経緯を4行以内で説明せよ。

第3問
 戦争や軍事的な衝突は、国際秩序や権力のあり方を大きく変えただけでなく、人々の生活や意識にも多大な影響を与えてきた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教成立以前のアラビア半島には、エチオピア高原を拠点とする王国が紅海を渡ってたびたび侵攻し、イエメン地方に影響力を及ぼしていた。4世紀にキリスト教を受容したこの王国の名称を記せ。

問(2) 1096年に遠征を開始した十字軍は、イェルサレム王国などの十字軍国家を建設した。当初、イスラーム勢力の側は地方勢力の分立により、十字軍に対抗することができなかった。しかし、13世紀末になって十字軍の最後の拠点ァッコン(アッコ、アッカー)が陥落し、十字軍勢力はシリア地方から駆逐された。このときアッコンを陥落させた王朝の名称を記せ。

問(3) 1511年にポルトガルはマラッカを占領した。マラッカは東南アジアの海上交易の一大中心拠点であったため、ムスリム商人たちは拠点をマラッカから移動させて対抗し、東南アジア各地の港に新たな交易中心地が発展することになった。こうして新たに発展した交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前を記せ。

問(4) 16世紀、アメリカ大陸に進出したスペイン人征服者たちは、多数の先住民を殺害し、現地の社会を破壊した。また、彼らは征服地の農園や鉱山などで先住民に過酷な労働を強制した。スペイン人征服者のこのような行為を告発し、先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物の名前を記せ。

問(5) プロイセンは、ナポレオン軍に敗れて首都を制圧され、フランスとの過酷な内容の講和条約の締結を余儀なくされた。国家存亡の危機を目の当たりにして、連続講演「ドイツ国民に告ぐ」をおこない、国民意識の覚醒を訴えた哲学者の名前を記せ。

問(6) ヨーロッパ諸国も加わった多国間戦争のさなか、ナイティンゲールは38名の女性看護師とともにオスマン帝国に派遣され、その首都イスタンブルの対岸にある傷病兵のための病院で、看護体制の改革に尽力した。この戦争でオスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名を記せ。

問(7) 南北戦争後のアメリカ合衆国では、北部を中心に工業発展がめざましく、西部も開拓によって農業が発展した。合衆国の東西を結んで人・物・情報の流れを促し、経済発展に大きく寄与した鉄道は何と呼ばれるか。その名称を記せ。

問(8) 第一次世界大戦に敗れたドイツでは、帝政が崩壊し、当時、世界で最も民主主義的といわれたヴァイマル憲法を擁する共和国が成立した。この憲法は、代議制民主主義の弱点を補うというねらいから、国民に直接立法の可能性を与え、同時に国民の直接選挙で選ばれる大統領に首相任免権や緊急措置権など大きな権限を与えていた。世界恐慌のさなか、1932年に大統領に再選され、翌年にヒトラーを首相に任命した人物の名前を記せ。

問(9) 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。翌15日には昭和天皇がラジオを通じてポツダム宣言受諾を国民に明らかにした。その日本の占領下にあったインドネシアでは、8月17日にインドネシア共和国の成立が宣言されたが、この宣言を読み上げ、インドネシア共和国の初代大統領となった人物の名前を記せ。

問(10) 第3次中東戦争の結果、イスラエルは占領地をさらに拡大させ、それによって多数の難民が新たに発生した。一方、占領地に残ったパレスチナ人住民のあいだで、1987年末から投石などによるイスラエルに対する抵抗運動が始まった。この抵抗運動の名称をカタカナで記せ。
………………………………………

第1問
 一つの地域での民族・国家の興亡、とくに東大らしく一定の地域で、文化が交錯する場、という設定は、過去問でも、キリスト教文化圏がイスラーム世界からうけた影響(1986)、地中海世界と周辺文明(1995)、イベリア半島史(1999)、エジプト5000年史(2001)、オランダの世界史的役割(2010)、きわめて広い地域でしたが、ロシアの対外政策と西欧列強の対応(2014)も入れてもいいでしょう。5〜9世紀の地中海世界(2021)も入ります。まさか来年度はウクライナを軸にした民族興亡史を出すでしょう……か。
 東西から次々と諸民族が入ってきたり、ここを根拠地に周辺に侵出したり、の東西トルキスタンの歴史です。流れ(時間経過)の問題でもありますから、タテに8〜19の数字を出来事のあるなしにかかわらず書くのが構想メモの原則です(なぜかは拙著『世界史論述練習帳new』参照)。その上で、興亡したトルコ人を初めとした民族、勢力(国家・王朝)、文化、事件などを書き込みます。もちろん文化が主役でなく、「興った勢力」という民族的政治的な勢力を書くことが第一で、文化の諸相はそれに付随するものです。このやり方と同じことを出題者が書いていて、びっくりしました。もっとも、ありきたりのやり方ではあります。→https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400186951.pdf
 
8 突厥ウイグル(744) ←唐の都護府設置
9 キルギスウイグル西走(840)、サーマン朝(874)
10 カラハン朝(940)、イスラーム教信仰、宋(960)
11 西夏セルジューク朝成立(1038)、ホラズム朝(1077)
12 西遼(カラ=キタイ、1132)
13 モンゴル帝国(1206)
14  チャガタイ=ハン国、オゴタイ=ハン国
  ティムール帝国(1370)
15 アンカラの戦い(1402)、ティムールのこの地域進出、ティムール帝国滅亡(1500) 
16 トルコ=イスラーム文化(ティムール帝国)、バーブルはここからインド進出・ムガル帝国
17 康熙帝のこの地域進出
18 乾隆帝の新疆(1759)、ロシアがこの地域進出
19 ロシアのブハラ・ヒヴァ両ハン国保護国化、イリ条約(1881)

 あちこちカッコ(  )の中に年代を入れましたが、こんなこと書けませんか? でも正確には書こうとしたら、これくらいは必要です。『世界史年代ワンフレーズnew』でかんたんに覚えられますよ。
 ウイグル74(なし)4
 ウイグル840
 サーマン朝は、874
 カラハン朝 カラカラ、940
 宋 宋、堅960
 ホラズム朝 ほーらず、入1077い
 西夏セルジューク朝 成果競る、父10さん38
 西遼(カラ=キタイ) 空期待、い1132
 チンギス(モンゴル帝国の成立) チンギス、天1206
 ティムール帝国 ティー・ルーム、ジュ1ーサ3ー慣70
 アンカラの戦い(永楽帝・フス) 1402 
 ティムール帝国滅亡 ティー・ルーム滅亡、イチ15ノー0ノー0
 ムガル帝国 無我〜一1526
 康熙帝(ルイ14世親政) 康煕・ルイはヒ1ーロ6ー・ル61
 イリ条約 イリリイ、イ1881

 さて以上ですが、読むだけで、もういくつか覚えたでしょう。
 課題は簡単にいえば「トルキスタン興亡史」です。導入文に「トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼす」と。これを8〜19世紀の長期で描くことです。
 8世紀はこの地域の支配者であった突厥が、同じトルコ系のウイグルに交代する時期でした。突厥が支配していた時代は、隋唐との対決があり、服属して唐の都護府支配下に置かれています。東西に分かれた東突厥はまず唐に滅ぼされ、再建した者たちはウイグルに滅ぼされました(744)。どうしてか、この突厥のことは予備校の解答例に書いたものはありませんでした。トルコ系による支配はかれらから始まるのに。
 しかしウイグルキルギスに追い立てられ、かれらの西走(840)が、西トルキスタンをトルコ化し、ここにカラハン朝を建て(940)、すでに進出していたイラン系のサーマン朝を滅ぼします(999)。このカラハン朝は、また、トルコ人として初めてイスラーム化した王朝でもあります。
 このカラハン朝を追撃しに来るのが、東方の勢力でした。宋と金が結び、遼は西方に追い立てられ、このトルキスタン地域に西遼(カラ=キタイ)が耶律大石によってつくられます。キタイ族はモンゴル系ですが、13世紀のモンゴル時代を準備します。
 この間、トルコ系民族はこの地域から西アジア世界に軍人奴隷「マムルーク」としてアラブ人・イラン人の王朝に雇われていき、かれらの王朝も各地でできることになります。このマムルークの浸透を書いた答案例もありませんでした。「周辺の地域に影響」として書いてあってもいいものです。
 東大は2012年度の第2問・問2でかれらのことを問うています。アッバース朝西トルキスタンに進出した際に戦争捕虜としたり奴隷として買ったことが起源となり、次第にイスラーム世界に入ってきたものです。とくに第8代カリフのムウタスィム (ムータシム、在位 833-842) が親衛隊として使い始めてからです。
 このマムルークたちが、サーマン朝のマムルークであった者がガズナ朝をつくってインドに侵出し、インドイスラーム化の道をひらき、デリー=スルタン朝(奴隷朝)も開くことになります。またカイロのアイユーブ朝を奪いマムルーク朝をつくったのもかれらでした。
 11世紀、カラハン朝から西に移動したトルコ人はシル川下流セルジューク朝を興しました。この王朝は南下してバグダードに入城した後、部下がホラズム朝としてこの地域で独立します(1077)。
 西遼に話しをもどすと、モンゴル人に追い立てられたナイマンが、西遼を奪い、その短い支配もチンギスが襲っています。そしてその西を支配していたホラズム朝も、チンギスは滅ぼします。
 チンギスは奴隷朝へも攻撃をしていますが成功していません。これは細かいので書かなくてもいいでしょう。
 チンギス死後は、チャガタイ=ハン国の支配下にはいり、これが東西に分裂して、西チャガタイ=ハン国からティムール帝国が登場してきます。このティムールもデリー=スルタン朝のうちトゥグルク朝を攻撃し、部下を置いてきましたが、この部下がつくる王朝がサイイド朝(1414年、コンスタンツ公会議)です。
 さらにティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国をいったん滅ぼします。モスクワの近くまで行き、東はサマルカンドからシル川中流のオトラルで病死するまで荒らし回りました。現代のプーチンのようです。しかしこの荒ぶれた男は都のサマルカンドに多くの文化人を集め、文化振興につとめ、指定語句にある「トルコ=イスラーム文化」が成立した、と評価します。この「トルコ=イスラーム文化」をどこで使ったかが評価の対象になるでしょう。
 1500年ちょうどに滅亡したティムール帝国はトルコ系ウズベク族がここを支配します。今もそれは変わっていません。かれらがつくる国々が、ブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国です。今は、北からカザフスタンウズベキスタントルクメニスタンと呼んでいる地域です。
 このティムール帝国の滅亡は、サマルカンドで復興策に失敗したバーブルをインドに向かわせ、インドでムガル帝国を建てることにつながりました。
 どちらかといえば、西トルキスタンの興亡が多いですが、東トルキスタン清朝による侵出が康熙帝から始まっていて、乾隆帝の段階で天山山脈の北部のジュンガル(準部)と東トルキスタン(回部)を合わせて新疆(new frontier)と呼ぶことになります。
 19世紀になると「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」も保護国化し、コーカンド=ハン国も保護国化します。その目的はシベリアの毛皮とちがい、棉花です。さらにイリ事件を利用して新疆に入ってきました。左宗棠の抵抗はありながら国境を削られてイリ条約が結ばれます。

第2問
問(1)(a) 「ハンムラビ法典……が制定された時期と、その内容の特徴」という問題。時期は前18世紀、内容は「刑法・民法・商法など多方面」、特色は「刑法……同害復讐の原則、身分によって刑罰に差がつけられていることに特色がある(かんたんには同害刑法と身分法)」(どちらも東京書籍)で十分ですが、「王は神の代理として統治(詳説世界史)」とも注があり、スーサ出土の写真には神から王が法典をいただくレリーフが付いているので、「神授」である、という点を指摘してもよい。

(b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』の著者は、イブン=ハルドゥーン。

(c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法……それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策、という問い。「政策」とはパフレヴィー国王の白色革命を説明したらいい。土地改革・文盲率低下・女性参政権・工業化・教育振興・西欧型の商店導入など。とくに土地改革は重要ですが、農地分配をしても農民に灌漑をつくる資力がなく、貧農より地主層に土地が買い取られるまずい結果を生みます。嫌われたのが掛け合いで値段を決める従来の商人の方法を止めさせ、公定価格を決めたことでした。

問(2)(a) 「大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に」といろいろな課税要因を挙げることです。まずフランスに敗北し続けたため軍事費の増額の必要性、この費用を貴族たちへの課税でまかなおうとしたため貴族の反発がおき、そのため国王が勝手に課税を決めるな、貴族会議の承認が必要だ、と要求したことでした。
 下のイギリスの教科書の図がよく表しています。

(b)「マキアヴェリが『君主論』で述べた主張」とは、あまり教科書では書いてありません、せいぜい「政治を宗教や道徳とは別個のものとして論じ」という程度で、これは「主張」になるでしょうか? 強力な君主になるためには、どのような術策を用いるべきかを論じたもので、権謀術数を使え、信仰厚く慈悲深くある必要はないが、信仰厚く慈悲深いひとだと見られるために、その振りをせよ、運命の女神の頬をぶちたたいてでも、強引にものごとを遂行せよ、愛されるより恐れられるほうが安全だ、イタリアは統一されるべきだ、などとと説きました。

問(3) 「日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動」
(a) 「この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前」は、中心人物で康有為と梁啓超。この二人ですが、ただ日清戦争の危機意識の中で動いたのは変法運動をおこなった二人だけでなく、戦争中にハワイで興中会をつくった孫文も該当します。ただ次の問題(b)からは、変法運動だけなのだろうと推理できます。
(b) 「この(変法)運動の主張と経緯」。主張は、洋務運動が富国強兵の技術導入にすぎず、それでは不十分であり、日本の明治維新にならって立憲と議会政治の導入を説いた。経緯は、光緒帝とわずかの官僚にしか支持は得られず、西太后が戊戌の政変で改革を挫折させます。「百日維新」と揶揄するくらいに短いものでした。寝ている光緒帝を西太后が「起きなさい」と叩き起こして、「今やっていることを止めなさい」と怒鳴りつけ、皇帝を幽閉しました。

第3問
問(1) 教科書(詳説)ではクシュ王国滅亡の原因として「4世紀にエチオピアアクスム王国によってほろぼされた」と出てきます。東京書籍では「アクスム王国は、4世紀に、クシュ王国を征服してナイル川中流域に進出したが、このときキリスト教を受容した」と。

問(2) 「アッコンを陥落させた王朝」はカイロの王朝です。初め十字軍はセルジューク朝と戦いましたが、イェルサレム占領後は、その南を支配していたカイロの3王朝と戦うことになりました。

問(3) 「交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前」とはアチェ王国のこと。世界史は歴史地図を見ながら勉強しましょう、という教訓。

問(4) 先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物(ラス=カサス)はカール5世に訴えていて、恐ろしいのは犬たちの記録です。「彼らを狩り出すために猟犬を檸猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した」(岩波文庫、p.28)。日本軍が南京で生きた人間を捜索するために使ったのも、このような犬でした(笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研、p.214)。  

問(5) センター試験でも何度も問われたフィヒテ

問(6) クリミア戦争で「オスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名」は英仏。

問(7) 南北戦争後の」とは1869年の大陸横断鉄道の開通です(『ワンフレーズ』語呂→(スエズ)運河・鉄道で、ひと1869ット)。

問(8) 「ヒトラーを首相に任命した人物」は第一次世界大戦の英雄とたたえられたヒンデンブルク大統領。

問(9) 「インドネシア共和国の初代大統領」は宗主国オランダに留学し、帰国してインドネシア国民党を創設したスカルノ

問(10) 「投石などによるイスラエルに対する抵抗運動」は主に青年・子どもたちが戦う戦い方(インティファーダ)。