世界史論述練習帳new の販売
『世界史論述練習帳new』の増刷できました!
8月20日、出版社の寛大な裁量で増刷されることになりました。

この参考書で何が得られるのか?
(1) 扱った問題で、一番多いのが東大16問、京大14問、一橋10問、阪大3問など全部で46問です。これらはみな思考力を要する問題であり、一般の受験参考書のように関連する史実を勉強するだけでは済まない問題です。思考力を鍛えるのに適した教材です。得られるのは思考力です。
(2) 社会・経済・影響・意義・結果などを書き分けることができますか?
論述の問題文には「まとめなさい」「意義を述べなさい」「比較しなさい」などの指示・制限・条件が書いてあります。これが意味するところを知らなくては、やみくもに史実を並べても解答になりません。これらは本来国語科で学ぶものですが、意外とこれらの書き方とその構成法を国語科では教えません。これらの書き方・構成は、歴史家・出題者にとって当たり前のなのに学ぶ場がありません。この練習帳によって、問題の要求する思考法と文章構成法を得てください。
(3) 問題文に出てくる「中世」「近世」「近代」「現代」はいつから何時まで書くのか?
これは教科書がハッキリ示さないため迷います。末尾の「60字問題集」には地域毎に政治・経済・文化の時代区分が示してあり、この参考書によって時代区分が明解になります。
映画・太陽がほしい
中国での戦時性暴力知ってほしい ドキュメンタリー映画『太陽がほしい』 班忠義監督インタビュー/10月に南区・京都みなみ会館で公開2019年8月17日 中国での戦時性暴力知ってほしい ドキュメンタリー映画『太陽がほしい』 班忠義監督インタビュー/10月に南区・京都みなみ会館で公開2019-08-14T17:17:54+09:00 平和・民主主義, ニュース, ピックアップ画像ニュース
『太陽がほしい』
被害者の万愛花さん。14歳の時に現地の抗日活動に共感し、協力。3回にわたり、日本軍に捕らえられます。抗日活動家の名簿の提供を一切拒否したため、拷問と性的暴力を受けました ©2018 Ban Zhongyi
戦時中、日本軍による中国人女性に対する性暴力被害について取材してきた中国人の班忠義(バンチュンイ)監督が、20年以上にわたる調査記録をまとめたドキュメンタリー映画『太陽がほしい』を昨年完成させました。10月には京都みなみ会館(京都市南区)で上映が予定されています。班監督に、調査の動機、被害の実態、この問題を学ぶ現代的意義などについて聞きました。
衝撃的だった被害者の訴え
―調査することになった動機は
上智大学の大学院生として日本に留学していた1992年のことです。東京で開催された「日本の戦後補償に関する国際公聴会」で被害者の万愛花さんが証言する様子をテレビのニュース番組で見ました。万さんは訴えている最中に卒倒してしまいました。その姿に衝撃を受け、彼女が参加する集会にすぐに行きました。そして3年後の1995年から20年以上にわたり、100人の被害女性を訪問しました。
―被害の実態はどのようなものだったのでしょうか
朝鮮半島の出身者が10数人、中国籍の人が80数人。中国籍の人のうち、「慰安所」に入れられた経験を持っていたのは2人だけ。ほとんどが、「慰安所」のある都会ではなく、日本軍の前線があった山村や農村の若い女性たちでした。自宅から、日本軍の駐留地近くにある民家に強制連行され、監禁され、被害にあっていました。
班忠義監督
班忠義監督
知られてない中国での被害
外から施錠され、トイレに行く時だけ門番の監視のもと外出が許され、太陽を拝むことが出来る状況で、映画のタイトル『太陽がほしい』は当時の被害女性が発した言葉からとりました。
銃剣で脅され、暴力をふるわれながら昼間は日本兵や中国人の傀儡兵に次々襲われ、床は血で染まりました。夕方から朝まで隊長らの相手をさせられました。
これらは、日本で語られる「慰安所」に入れられた「慰安婦」とはかけはなれており、中国における戦時性暴力の特徴で、被害総数は「慰安婦」より多かったと考えられています。中国人被害女性が「私たちは慰安婦ではない」と長年訴えているのはこのことからです。
戦後、彼女たちは地元で被害の事実が知られ、満足な結婚が出来ませんでした。体の不調や被害のトラウマに悩まされ続けました。私は、彼女たちの医療を中心としたケアを行うために、日本の一般市民の支援を受け、会を立ち上げました。
過去に学んでアジア友好を
―なぜ、映画化しようと考えたのでしょうか
2013年、橋下徹大阪市長(当時)は「慰安婦制度は必要だった」と戦時性暴力を公然と肯定しました。私は、長年にわたって被害女性の調査・検証し、支援に携わりながら、それらを伝える努力をおこたってきた自らの責任を痛感し、今までの調査をまとめ映画にすることにしたのです。
現在、そして未来を考えるためには、過去の事実を真摯に見つめなければなりません。被害女性が亡くなってしまった現在、彼女たちの言葉を映像に残し、後世の人々が考える糧にしてもらうおうと考えました。それだけでなく、日本軍兵士の証言、当時の歴史の解説も加え、より事実を客観的にわかりやすくしようと編集しました。
戦時性暴力問題は、人権問題です。戦争がどれほど人間を残酷に、非人道的に変えてしまうのかを明らかにしています。また、男性が女性を差別する、封建的な考えによって起ったことでもあります。この問題を学ぶことで、戦争も差別もない社会に向かう一歩となることでしょう。
国と国の対立というナショナリズムの枠組みで考えるのは正しくありません。中国も日本も今まで「利」を大切に、争ってきましたが、「義」を大切にするときが来ていると思います。義の漢字の意味は羊の肉を皆で分け合うことです。歴史を謙虚に見つめ合ってこそ、東アジアが友好的に未来を歩めるようになるのです。
東大でトークイベント→ h ttps://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/about/booklet-gazette/bulletin/580/open/580-5-2.html
PDF世界史論述練習帳new・巻末の訂正
紙本からPDF世界史論述練習帳new・巻末「基本60字」の訂正(左が誤→右が正)
P.13 問14 経済都市が生まれ→都市が登場
P.21 問10 注にp.67参照→p.71参照
P.22 問16 9か国条約→四カ国条約
P.30 問12 45年の→54年の
P.37 問18 「ミッレト」を構成し→はミッレト制を認められ
P.60 問8 メキシコ革命→メキシコ
P.63 問7 1922年→1920
京大世界史2025
第1問(20点)
オスマン帝国は、バルカン半島や地中海などでヨーロッパの諸勢力と戦いながら、その勢力圏を拡張していった。2度のウィーン包囲とその帰結に必ず言及しながら、15世紀中頃から17世紀末に至る、オスマン帝国とヨーロッパの諸勢力との抗争と、それによるオスマン帝国の支配領域の変化を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
第2問 (30点)
次の文章(A、B)を読み[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 中華人民共和国の首都が置かれる北京は、華北平原の北端、北と西を山地に囲まれた要害に位置している。北側はモンゴル高原に近接し、東北へ山を越えればマンチュリア平原に通じ、古来農耕民や遊牧民を含むさまざまな人間集団が往来した。
(1)秦が薊城(けいじょう─中谷の注)と呼ばれたこの地を征服して以来、今日の北京一帯は長く中国王朝の支配下にあり、その北辺に位置した。隋では、当時開発が進みつつあった江南と華北を結びつける[ a ]が建設され、北は涿郡(たくぐん─中谷の注)にまで達し、江南の物資を東北へ大量に輸送することが可能になった。
唐が成立し、太宗(李世民)が(2)モンゴル高原の遊牧国家を打倒すると、この地に置かれた幽州一帯にも、その遺民を含むさまざまな遊牧民と農耕民が隣接して居住した。8世紀に入り、(3)唐が辺境の防衛体制を再編整備するなかで、幽州(ゆうしゅう─北京のこと、中谷の注)に拠点を置き強大な権限を握ったのが、(4)ソグド人の血を引く安禄山だった。安禄山は遊牧民の軍事力を中核とする軍団を率い、幽州で唐に対して反乱を起こす。皇帝が都から逃亡するなど、唐は存亡の危機に陥ったが、辛うじて反乱を鎮圧することができた。しかし、以後の(5)唐は弱体化し、幽州を含めた地方の軍事勢力が半ば自立した状況となる。
10世紀初頭には、モンゴル高原東部の遊牧民集団である契丹(キタイ)が台頭し、新王朝を建国する。契丹は華北の政変に介入し、後晋の建国を助けた見返りに(6)幽州を含む地域を割譲された。複数の都を置いた契丹は、幽州を都の一つとして南京と呼び、農耕地帯の本格的な支配に乗り出した。12世紀にマンチュリアより興った女真が建国した金は、契丹と(7)北宋を滅ぼした後、北京の地に遷都して中都と称した。
13世紀にモンゴル帝国が出現すると、遊牧民の強力な(8)騎馬軍事力を背景に、空前の規模でユーラシアの広域を統合する。チンギス=カンの孫の[ b ]が皇帝に即位すると、モンゴル帝国の中枢を華北とモンゴル高原にまたがる地に移し、金の中都城の北隣に新しい都城として大都を造営し、国号を元(大元ウルス)と称した。内陸の港を設けて海上航路とも連結した大都は、(9)ユーラシア東西を陸路と海路で結ぶ交易・情報網の結節点となった。
(1O)14世紀半ばごろより、ユーラシア規模で気候変動や疫病の流行が起こった。このころ、ユーラシア各地のモンゴル政権は解体局面に入り、元でも天災にともなう飢饉(きん)や疫病が頻発し、各地で反乱が起こってその支配は動揺する。反乱のなかから頭角を現した朱元璋は明を建国し、明の軍隊が大都を占領して元をモンゴル高原へと駆逐した。江南より興った明も、(11)永楽帝のときに北京に都を遷(うつ)した。明の滅亡後、中華の主となった(12)清も北京を都とし、これが現在の北京に受け継がれることになったのである。
問
(1) 戦国時代に薊城を都として中国東北部で栄え、秦に滅ぼされた国の名を記せ。
(2) この遊牧国家の名を記せ。
(3) 8世紀より設置された唐の辺境を守るための軍団の指揮官を何と呼ぶか。
(4) 北朝時代から隋・唐代にかけて、ソグド人が主な担い手となって、ユーラシア東西を結ぶ交流が活発になった。このころ中国に伝来し、祆教と呼ばれ
たイラン起源の宗教の名を記せ。
(5) この時期の唐にとって、ある物産の専売は重要な財源であった。その物産の名を記せ。
(6) 後晋から契丹に割譲されたこの地域を何と呼ぶか。
(7) 金によって攻め落とされた北宋の首都の名を記せ。
(8) 十進法にもとづき遊牧民を編制するモンゴル帝国の軍事・行政組織を何と呼ぶか。
(9) アジアを旅して元の大都まで至ったというイタリア商人マルコ=ポーロの見聞をまとめたとされる著作は、ヨーロッパ各地で大きな反響を呼んだ。こ
の著作の名を記せ。
(10) このころ、ヨーロッパや北アフリカなどで大流行し、人口の激減をもたらした疫病を何と呼ぶか。
(11) 次の史料は、ハーフィズィ=アブルー『バイスングルの歴史精華』というペルシア語史書に引用される、北京遷都後間もない永楽帝のもとに派遣された外国使節による旅行記の序文の一部である。この史料を読んで、以下の問に答えよ。
彼らはヒタイ(注)の皇帝からの贈り物や珍奇な品々を持ち帰り、その国の情勢や習慣に関する珍しい話を語った。ホージャ=ギャースッディーンはヒタイ(注)ヘの旅を企図してヘラート(注)の都を発った日から帰還の日までの彼が行く先々で見たこと道の状況はどうか、いろいろな地方や建造物の様子、町ごとの慣習王侯らの威風、支配と統治の方法、いくつかの不思議これら各地で実際に目にしてきたことどもを日ごとに日誌の形で書き留めていたのであるが、彼は信頼できる人物であって私利も偏見もなく書き記していたので、その話の内容と摘要を引用することにした。
(注)ヒタイ:中国を指す。
ホージャ=ギャースッディーン:明への使節として派遣され、旅行記を著した人物の名前。
ヘラート:現在のアフガニスタン西端、イランとの国境近くの都市。
(出典 窪田順平編『ユーラシア中央域の歴史構図』総合地球環境学研究所、2010年)
(ア) 領内の主要都市であったヘラートから使節を派遣した国の名を記せ。
(イ) この旅行記には、北京にムスリムのために建てられたモスクがあったことが記されている。永楽帝に仕えたムスリムの宦官で、インド洋からアフ
リカ沿岸にまで至る船団を率いた人物は誰か。
(12) もとは明の武将で、明の滅亡後に清に降伏し、清軍の北京占領を導いた人物は誰か。
B 19世紀、地中海への南下をはばまれたロシアが中央アジアや東アジアヘの進出を強めた結果、中国とロシアはいっそう長い国境を接することとなった。
以後、両者は対立の時代と友好の時代をくり返してきた。
ロシアは[ c ]戦争に乗じて清とアイグン条約・(13)北京条約を結び、ユーラシア大陸東端の領土を拡大した。また新彊のイスラーム教徒の反乱に際して一時(14)イリ地方を占領した。
(15)清が日清戦争に敗北した後、ロシアは清から東清鉄道の敷設権を獲得し、また[ d ]半島の旅順・大連を租借した。ロシアは義和団戦争に際しても東三省(東北地方)を一時占領したため、清の知識人や(16)日本への留学生の間で反口シア運動が起きた。
しかし、第一次世界大戦中にロシアで革命が起こると、新たに成立したソヴィエト政権は、帝政時代の在華利権を全て返還すると宣言した。実行はされ
なかったものの、当時の中華民国ではソヴィエト=ロシア(1922年末よりソ連)に対する好意的な認識が広まった。さらに(17)新文化運動のなかでマルクス主義が紹介され、コミンテルンの指導下に中国共産党が結成された。ソ連の援助を得た中国国民党と中国共産党は広州で(18)国民政府と国民革命軍を組織し、政権奪取を目指して北伐を開始した。しかし、北伐のさなかに中国国民党の蔣介石がクーデターを起こし、中国共産党を排除・弾圧した。蒔介石は北京を占領して(19)全国統一を宣言したが、国民政府とソ連の国交は途絶えた。
1937年に日中戦争が勃発すると、(20)第二次国共合作が成立し、ソ連は国民政府への援助を開始した。しかし1941年に日ソ中立条約が結ばれ、ソ連が満洲国の保全を言明すると、(21)国民政府のソ連に対する不信は高まった。
日本の敗戦後、国共内戦が再開され、中国共産党が勝利した。新たに成立した(22)中華人民共和国はソ連と緊密な外交関係をもった。しかしフルシチョフの[ e ]批判を契機に中ソの関係は悪化に転じた。(23)1963年には中ソ論争は公然化し1969年には中ソ国境の各地で武力衝突が発生するに至った。
ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任すると、中ソ関係は改善に向かった。ソ連解体をはさんで1990年代から2000年代にかけて中口間の国境画定交渉が行われ、妥結したこともあり、以後現在に至るまで中国とロシアは安定した関係を保っている。
問
(13) ロシアが北京条約で獲得した沿海州に太平洋進出の拠点として築いた軍港の名を記せ。
(14) 清はペテルブルクに外交官の曽紀沢を派遣し、1881年にロシアとイリ条約を結んでイリ地方の大部分を返還させた。曽紀沢の父で、太平天国の鎮圧
に重要な役割を果たした清の官僚は誰か。
(15) 日清戦争での敗北後、康有為や梁啓超は、光緒帝の支持を得て、日本やロシアをモデルとした清の体制改革を試みた。この改革の名を記せ。
(16) 清から日本への留学生がこの時期に急増したのは、それまでの儒教にもとづく官僚登用試験が廃止され、西洋式学校の学歴で官僚を採用する制度が開始されたためである。隋の時代に始まり、この時に廃止された官僚登用制度の名を記せ。
(17) 新文化運動のなかで『狂人日記』『阿Q正伝』などの作品を発表して中国社会を批判的に描き、後にマルクス主義の芸術理論やソ連の文学作品の紹介などにも関わった作家は誰か。
(18) この時に国民政府の主席となったが、後に中国国民党左派の指導者として蔣介石と対立し、日中戦争中には南京に対日協力政権を組織した人物は誰
か。
(19) この後国民政府はそれまでの各地の雑多な通貨の流通を禁止し、政府系銀行の発行する法幣による全国の通貨統一を図った。この時に通貨としての
流通を禁止されるまで、中国の通貨の基本となっていた貴金属は何か。
(20) これに先立つ1936年、張学良が蔣介石を監禁し、中国共産党との内戦停止を迫る事件が起き、蔣介石も抗日民族統一戦線に合意していた。この事件
の名を記せ。
(21) 1945年に米英ソ首脳の間で結ばれた協定には、ソ連の対日参戦と引き換えにソ連の在華利権を認めるという内容も含まれたため、ソ連と国民政府の
溝はいっそう深まった。この協定の名を記せ。
(22) 以下の史料(ア)は1950年に中華人民共和国とある国の間で締結された条約、史料(イ)は1972年に中華人民共和国と別のある国が発表した共同コミュニケ(声明文)の一部である。
(ア) 一旦、締約国のいずれか一方が、日本あるいは日本と同盟する国から侵略をうけ、戦争状態に入った時には、締約国のもう一方の国は、直ちに全
力をあげて軍事的およびその他の援助を与える。
(イ) 双方はいずれも、アジア太平洋地域で覇権を求めるべきではなく、またそのような覇権を打ち立てようとする他のいかなる国もしくは国の集団の
試みにも反対する。
(出典歴史学研究会編『世界史史料11』岩波書店、2012年)
(ア)と(イ)の下線部はそれぞれ一般にどの国を想定した文言と理解されているか。最も適切と考えられる国名を記せ。
(23) 中ソ関係悪化の要因の一つとして、1959年から1962年にかけて起きた中国と隣国の国境紛争に際し、その隣国側をソ連が支持したことが挙げられ
る。この隣国の名を記せ。
第3問(20点)
アジア産の商品はヨーロッパ人をヨーロッパ外部世界へといざなった。ポルトガルに対抗しようとしたスペインは、西回りでアジアを目指したが、結果的にアメリカ大陸を「発見」し、そこに植民地を建設した。アジア産商品とラテンアメリカ産商品を具体的に対比した上で、16世紀から18世紀に至るスペインのラテンアメリカ植民地経営の特徴とその変遷を、労働力の供給源の変化に留意しながら300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
第4問(30点)
次の文章(A、B)
)を読み[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(17)について後の問に答え、また問(18)に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 農耕のあり方は、それぞれの時代や地域において、土地支配や政治と深いかかわりがあった。
「肥沃な三日月地帯」とも呼ばれる[ a ]地方では、早くから河川の流域やオアシスで灌漑(かんがい)農業が営まれ、定住人口の増加が進んだ。同地方を統一した(1)ハンムラビ王は、各地に運河をつくり、また治水を推進した。(2)エジプトでは、季節的に増水する[ b ]川の氾濫時期を予測し農作業を季節に応じて行う必要から、太陽暦が用いられた。エーゲ海最大の島に起こった[ c ]文明では、宮殿の周辺に配置された巨大な貯蔵庫が特徴とされる。穀物生産に向かない地域では(3)ブドウやオリーブなど果樹栽培が発達した。
ローマが帝国支配により平和を確立したのち、(4)異民族の侵入などで経済衰退が始まると、農業生産の仕組みも変化した。キリスト教がヨーロッパ各地に伝播(ぱ)すると、清貧や純潔の厳格な規律が課される(5)修道院がつくられ、労働が重視された。(6)中世の領主にとっては、(7)支配下の農奴に農作業を担わせる荘園制による土地経営が財政基盤であった。十字軍の影響で地中海地域の勢力図は様変わりするとともに、東方との交易も盛んとなり、人口も増加し食糧と農地への需要が生まれた。毛織物の生産や交易を通してイングランドやフランスとの結びつきを強めた[ d ]地方では、修道院が干拓事業を支援し、都市と農村を結ぶ運河が建設された。農村生活は、(8)貨幣経済の発展にともない、しだいに市場を中心に組織されるようになった。(9)バルト海沿岸地方では東方植民運動が進み、水産資源や北欧の毛皮、木材が取引された。
問
(1) この王が制定した法典で採用された「目には目を、歯には歯を」という原則を何と呼ぶか。
(2) この地域では、19世紀半ば以降、主にヨーロッパ向けのある商品作物の生産が盛んとなった。この作物の名を記せ。
(3) 古代のアテネでは、ワインやオリーブ油を入れる陶器のかけらを政治的な目的で用いる制度があった。この制度の内容を簡潔に説明せよ。
(4) 大土地所有者は下層市民を土地に縛りつけ働かせた。このような世襲身分の隷属農民を何と呼ぶか。
(5) 6世紀のイタリアでモンテ=カシノに修道院を建てたのは誰か。
(6) 彼らがもっていた不輸不入権(インムニテート)とは何か。簡潔に説明せよ。
(7) この制度の下では、農奴は領主に2種の義務を負った。それぞれを簡潔に説明せよ。
(8) これにともない形成された商業圏では、ハンザ同盟が結成された。その盟主となった都市の名を記せ。
(9) この地域に拠点を築いて一帯を支配した修道会の名を記せ。
B 国の統治体制の基礎を定める文書である近代憲法は、18世紀の欧米に起源し、急速に世界中に伝播(ぱ)した。さまざまな憲法や憲法案が作成された。
1755年には、(10)ジェノヴァからのコルシカ島の独立を目指す一環として、パスカル=パオリはコルシカ憲法を起草した。後に、ジェノヴァから領有権を得たフランスとの戦いに敗れたパオリはイギリスに逃れたが、彼のことを、同郷のナポレオン=ボナパルトは英雄として崇拝していた。そのナポレオンは軍人として頭角を現し、権力の階段を駆け上り、1799年には彼を第一統領とする新しいフランス憲法が制定された。1801年、長らくフランスの植民地であった(11)サン=ドマングでは、指導者トゥサン=ルヴェルチュールが最初の憲法を発布し、そのなかで奴隷制度の永久廃止を宣言した。
(12)ナポレオンの侵攻を受けたスペインでは、占領を免れたカディスで開かれた議会によって、1812年に、スペイン最初の憲法が制定された。アメリカ合衆国憲法やフランス1791年憲法の影響を受けたもので、植民地の先住民やクリオーリョの男性にも等しい政治的権利を与えた点で画期的であったが、これは数年後、復位した国王によって廃止された。しかし、カディス憲法は南米大陸では模範として参照され続け、(13)アルゼンチンやチリ、ペルーなどで19世紀前半に制定された憲法にはっきりとした痕跡を残した。北米大陸のアメリカ合衆国の内部では、1827年に(14)先住民のチェロキー族が憲法を起草したが、その領土的な主張は政府の認めるところとならず、1830年代にはチェロキー族はオクラホマヘ強制移住させられた。
イギリス海軍の艦長であったラッセル=エリオットは任務で訪れた南太平洋のピトケアン島住民の要望に応える形で、1838年、同島をイギリス帝国に包摂するとともに、「憲法」を与えた。これにより、子どもの就学が義務化され、世界の憲法史上初めて、成人の男性と女性に等しく選挙権が与えられた。2年後のハワイ島では、キリスト教宣教師たちの働きによって現地人の意向も反映した形で憲法が制定され、時の国王カメハメハ3世の下での二院制の立憲君主制を定めた。(15)憲法を持ったハワイは数十年間の独立を保った。日本も1889年に大日本帝国憲法を発布した。(16)20世紀初頭にはイラン、オスマン帝国、中国で相次いで憲法ないしそれに準じる文書があらわれた。
第一次世界大戦後、ドイツでは1919年にヴァイマル憲法が制定され、(17)ソ連では1924年に憲法が制定された。イギリス連邦の一員であったアイルランドは1937年に新憲法を制定してイギリスからの自立を主張した。もちろん、憲法はあってもその内容がほとんど守られない国もあった。
現在でも憲法は世界の各地で新たに制定されたり修正されたりし続けている。イギリスのように成文憲法を持たない国もある。
問
(10) ウィーン会議での決定によりこの地を併合した、後のイタリア王国建国時の中核をなす王国の名を記せ。
(11) この地で1804年に独立が宣言された。この時建国された国の歴史的な意義は何か。
(12) この時期の惨状を描いた絵画「1808年5月3日」で知られる画家は誰か。
(13) この国は1982年にイギリスと戦争をした。何が争われていたのかを答えよ。
(14) 次の2つの史料から読み取れる、チェロキー国憲法の特徴を3つ挙げよ。
・アメリカ合衆国憲法(1788年)
《前文》
われら合衆国人民は、より完全な連合を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般的福祉を増進し、そしてわれらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここにこの憲法をアメリカ合衆国のために制定し、これを確立する。
《第1条第2節③》
下院議員の数及び直接税の徴収額は、この連邦に加入する州に対して、その人口に応じて配分する。各州の人口は、自由人の総数に、その他のすべての者の数の五分の三を加えることにより算出する。ただし、自由人には、一定の期間役務に服する者を含み、課税されていないインディアンを除くものとする。(後略)
(出典 高橋和之編『[新版]世界憲法集第2版』岩波文庫、2012年)
・チェロキー国憲法(1827年)
《前文》
われらチェロキー国人民代表は、招集された会議において、正義を樹立し、平穏を保障し、われら共通の福祉を増進し、そしてわれらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、(中略)ここにこの憲法をチェロキー国政府のために制定し、これを確立する。
《第3条第7節》
18歳以上のすべての自由な男性市民(黒人と、解放されているとしても、黒人女性が白人およびインディアン男性との間にもうけた者は、除く)は、すべての公的選挙において平等に投票権を有する。
(Constitution of the Cherokee Nation formed by a convention of delegates from the several districts at New Echota、July 1827、1828より訳出)
(15) ここを1898年に併合し、独立に終止符を打ったのはどの国か。
(16) 関連して、下記の問に答えよ。
(ア) イランで立憲革命に至るナショナリズムが高まる過程で、1890年のカージャール朝による外国の会社への独占利権の譲渡をきっかけとする大きな政治的運動が生じた。この運動は何か。
(イ) オスマン帝国でこの時期に、長らく停止されていた憲法が復活した。その憲法の臣民の権利に関わる特徴を説明せよ。
(ウ) 1908年に清朝が発表した文書の名を記せ。
(17) この2年前にソ連は成立した。この時これを構成した4つのソヴィエト共和国のうち2つを答えよ。
(18) Bの文章を踏まえて、(ア)19世紀から20世紀前半において、とくに欧米の外側の世界で、多くの国や地域の人びとが憲法を求めた(あるいは外来者が憲法を与えた)理由を説明し、(イ)この時代にそれが可能となった技術面での条件を挙げよ。
………………………………………
コメント
第1問
問われているのは「(15世紀中頃から17世紀末に至る、オスマン帝国と)ヨーロッパの諸勢力との抗争」です。
時間が、15世紀中頃から17世紀末、という250年間の攻防です。この期間はオスマン帝国側が積極的にヨーロッパ本土に攻勢をかけ、それが成功した時期で、「17世紀末」には終わります。「抗争と……帝国の支配領域の変化」とあるので、戦闘名とどこを征服・支配し、また失ったかの地名が必要です。
15世紀中頃は、何よりビザンツ帝国への攻撃があり、都のコンスタンティノープルを陥落させます。しかし都だけでなく、この世紀には周辺のスラヴ人地域の征服もしています。15世紀をたんにビザンツ帝国征服だけで終わらせたら正確ではありません。14世紀にブルガリアは取ています(1393)が、15世紀は、アルバニア(1419)、そしてコンスタンティノープル陥落の後はセルビア(1459)、ギリシア(1460)、ワラキア(1480)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1483)と征服します。単純にバルカン半島の征服でもいいでしょう。しかしバルカン半島征服を書いてない「模範」答案もあります(K・Y・T)。

16世紀はこのバルカン半島から北のハンガリーへ、そして地中海へ侵略します。
ハンガリーでのモハッチ(モハーチ)の戦い(1526年)、次に神聖ローマ帝国の都ウィーン包囲を行ないます(1529年、中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』以降は『ワン』と略称、語呂→ウインナー、10001個5肉29)が、陥落させることはできませんでした。ハンガリーは全部でなく3分の2は取れましたが、北部は神聖ローマ帝国領になりました。
17世紀に、メフメト4世が第二次ウィーン包囲(1683年、『ワン』語呂→2個ウインナー、い1る6野8菜3?)を敢行したものの失敗、カルロヴィッツ条約(1699年、『ワン』語呂→カルロがヴィッツ[車名]、道1路6危9機9)で、ハンガリー・クロアチア・トランシルヴァニアはオーストリアのものとなりました。オスマンの支配領域はバルカン半島だけになります。
地中海では、スペイン・ヴェネツィア・ジェノヴァ・ローマ教皇の連合海軍とはプレヴェザ海戦で破り(1538年、『ワン』語呂→海戦で、千1個5サ3バ8浮く)、地中海の制海権を得ます。世紀後半にはレパント海戦(1571年、『ワン』語呂→レパント海戦、「男015勢71)に敗北したものの、地中海制海権はもったままでした。というのは、マルタ島(1530年)、チュニス(1534年)、北アフリカのトリポリ(リビア西部、1551年)、アルジェリア(1556年)、キプロス島(1571年)、クレタ島(1669年)と主要な島々を取り上げているので、地中海はトルコの海でした。これらの島々のことは書けないですが、地中海がオスマン帝国の制海権をもっていたことを書いておけば充分でしょう。
第2問
北京市に関する問題は1999-2-Bでも出題されました。
問 いくらか難しいものを解説します。
(1) 本文には「ふりがな」が付いていませんでしたが、薊城は「けいじょう」と読みます。「戦国時代に薊城を都として中国東北部で栄え、秦に滅ぼされた国の名を記せ」とあり戦国時代の西北にあった国は燕(えん)。

燕は草冠ではないので注意。

すずめです。
(2) 「唐が成立し、太宗(李世民)が(2)モンゴル高原の遊牧国家を打倒」と唐代であれば、隋の離間策により東西に分かれていて、唐の攻撃対象の「遊牧国家」は東突厥。

(4) 「祆(けん)教」と呼ばれたイラン起源の宗教はゾロアスター教=拝火教。「祆=示+天」の字はゾロアスター教以外では使わない独特の漢字です。間違えて「祅=示+夭」という漢字を使わないように。祅怪(ようかい)と使うように、災、禍事のこと。
(6) 後晋は建国に契丹の援助を受けたので、その代償です(936年、『ワン』語呂→雲十六州、消9さ3る6)。
汴京・開封のどちらも正解(勉強から解放されたい!)。汴の字は、「氵」の右は「十」+「、」ではなく、

(8) 十進法なので、千戸百戸十戸制ですが、十戸は省略します。
(10) このころ(14世紀半ば)は黒死病の病源は分かりませんが東方からが通説です(『ワン』語呂→黒死病、悲1惨3死4や8)。
(11)(ア)「領内」とは「ヘラート:現在のアフガニスタン西端、イランとの国境近くの都市」と注が付いて、「永楽帝のもとに派遣」あり、永楽帝の即位は、1402年(この年は永楽帝だけでなく、フスの宗教改革、アンカラの戦いも同年、「『ワン』語呂→意1志4鬼02)。
つまり15世紀に入ったユーラシア大陸の西の国、「アフガニスタン西端、イラン」に関係している国はどこか……、中央アジア・サマルカンドを都にイラン・アフガニスタン・インドを狙っている大国です。ティムール帝国(1370〜1507、『ワン』語呂→ティールーム、「ジュー1サー3慣7れ0)。
B
問 (15) 「戊戌の変法」(ぼじゅつ)
中は「、」ではなく「一」。

(21) ヤルタ会談

(22)史料(ア)「日本と同盟する国」とあり、米軍が占領する日本がありました。史料自体は中ソ友好同盟相互援助条約のもの。「日本あるいは日本と同盟する国から侵略をうけ」と日本の「侵略」への警戒になっています。それまで日本が「侵略」国、つまり戦前の日本のすがたが、帝国主義国であったことを警戒しています。今の日本では「戦争はもういやだ」と政府に騙された年寄りはよく言いますが、周辺国はそうはおもっていませんでした。いつまた侵略してくるかわからない恐るべき国でした。周辺国の近現代史を見れば当然です。
(イ)史料(イ)は1972年に中華人民共和国と別のある国、とはニクソン訪中(1972年、『ワン』語呂→訪中、行1く9な7二2人)での米中共同声明のこと。1972年前から中国はすでにソ連とは対立していました。声明の中には「いかなる国も自国の絶対的正しさを主張すべきではなく、各国は、共通の利益のために、自国の態度を再検討する用意がなければならない。……すべての国は、大小を問わず平等であるべきであり、大国は小国を愚弄すべきではなく、強国は弱国を愚弄すべきではない。中国は決して超大国にはならず、またいかなる覇権主義及び強権政治にも反対する」とあります。米中露(旧ソ連)とも今はこれを守っていません。現代は殺人鬼(プーチン・金正恩・ネタニヤフ・習近平)たちが跋扈(ばっこ)する時代です。
(23) 「1959年から1962年にかけて起きた中国と隣国の国境紛争……ソ連が支持した」とは中印国境紛争のこと。
第3問
課題は「アジア産商品とラテンアメリカ産商品を具体的に対比した上で、16世紀から18世紀に至るスペインのラテンアメリカ植民地経営の特徴とその変遷を、労働力の供給源の変化に留意しながら」でした。長い問いの課題は(1)商品の対比と(2)労働力の供給源の変化に留意、です。
(1)はアジア産の商品として、茶・香辛料・衣料(綿織物・絹)・手工業品(陶磁器・刀剣)・薬など。ラテンアメリカ産商品として、砂糖・コーヒー・サトウキビ・タバコ・ジャガイモ・トマトなど。つまりアジア産品は軽量だが価格は高く、欧州からは手に入りにくい遠い地域からやってくるもの。ラテンアメリカ産品は飲食にかかわるものが主ですが、穀物ではなく、欧州にとっては必要不可欠なものではない趣味的なもの。
このような「対比」は面倒なものですが、「具体的に」とあるので2〜3の産品をあげて説明するのが的確です。産品の対比をしていない「模範」答案もあります。「現地で入手……植民地で生産」と産地のちがいは産品の対比ではないし(K)、「現地で消費……輸出を目的(S)」と産品の消費地を比べていますが、これは産品の対比になりますか?
「現地需要も満たす商品……現地需要(Y)」と需要で比較しています。これは産品そのもの対比になりますか?
分かりにくい問いなので、広く甘く採れば、こういう「対比」もアリかとおもいます。
(2)植民地経営の特徴とその変遷として、「労働力の供給源の変化に留意」という条件付きの問い方です。この問い方が難度を増しました。
労働力として働くのは誰か、ということの「変化」を問うています。
誤解しているとおもわれる「模範」答案は、奴隷の扱いです。
事例1「銀の採掘が減り疫病などで先住民人口が減少すると西アフリカから得た黒人奴隷を主な労働力として使役するアシエンダ制に転換し商品作物を生産した。」(Y)
事例2「先住民の人口が激減すると、外国商人を介して西アフリカから黒人奴隷が導入され、17世紀以降は先住民に加えて黒人奴隷を労働力とする大農園経営のアシエンダ制が発達」(K)
事例3「西アフリカから運ばれた黒人奴隷や債務を負った先住民を労働力とする大農場経営であるアシエンダ制が広がった」(S)
事例4「インデイオの人口が激減し、エンコミエンダ制が廃止されると、大土地所有者によるアシェンダ制が広まり、アシエントにより購入したアフリカからの黒人奴隷を労働力として、鉱山やプランテーションでの生産を支えるようになった。」(T)
これらのどの事例にも黒人奴隷をアシエンダ制で労働力として使ったことが書いてあります。どれもまちがいです。
初めはエンコミエンダ制(貢納・賦役制度)という、スペイン政府がスペイン人植民者に委託し、地域の経営権を委ねたものでした。これはインディオの土地を全て奪ったのでなく、かれらの土地と共存します。かれらは一部の土地ももっている現地民に貢納・賦役を課していきます。しかし次第にインディオが貢納・賦役を払えなくなり、スペイン人に代替として自分の土地を取られていきます。この土地を拡大して大土地所有者となりアシエンダ制が成立します。このときの労働力はインディオです。これは奴隷ではなく、「債務」奴隷、あるいは小作人となったインディオです。アフリカから運ばれてきた黒人奴隷ではありません。黒人奴隷が働かされたのはアシエンダ制の土地ではなく、もっと広大な大農園のプランテーションが主です。サトウキビ・プランテーション、棉花プランテーションなどです。これらはカリブ海やブラジルなどで広がります。
「模範」答案のように、インディオから黒人奴隷に変わった単純な「変化」ではありません。黒人奴隷の働く場(プランテーションと地域)とインディオが小作人として働く大農園とは区別すべきです。
第4問
問 (2) この地域(エジプト)では、19世紀半ば以降、主にヨーロッパ向けのある商品作物の生産が盛んとなった。産業革命の最初の綿花/棉花を提供したのはジャマイカでしたが、それが合衆国・インド、そしてエジプトに依存することになります。その様子を経済史では以下のように書かれています。
綿花栽培はインド、エジプトへ拡大した。イギリスによるインド綿花栽培の奨励は、インドの植民地的収奪の一環として、ライアット制=隷農小作制を創出した。一方、エジプトにおいても「綿花飢饉(棉花需要の増大─中谷注)」の結果として綿花栽培のブームが訪れた。そのために総督家、王による大規模な土地収奪・没収、強制的土地買上げが始まり、膨大な土地がまたたくまに綿花栽培地に転化された。綿花栽培地をナイル河の氾濫から守るための築堤、人工灌概設備の構築など、これらは綿花栽培のための農耕労働とともに、すべて古代的専制治下にある賦役農民の肩にかかった。こうして綿花栽培を契機に、エジプトでは農村共同体の解体と大土地所有の成立、および古代的専制的賦役経済が創出され、19世紀末には綿花輸出に依存する、イギリス経済に従属的な地主制的エジプト経済に再編成されるのである。(角山栄『講座・西洋経済史2』(同文館)p.24)
また数字としては、

宮崎犀他編『近代国際経済要覧』東京大学出版会
(6) 領主にとって不輸不入権(インムニテート)とは、自分より上の国王や王国の役人の立入を拒否できる特権で、だからこそ領主裁判権をもつ、といいう言い方もします。裁判だけでなく課税もされません。なので領主は日本風にいえば一国一城の主人です。
(7) 農奴は領主に2種の義務は、裁判権をもつ領主に、土地を借りている代償として、賦役(ただ働き、週3日)と生産物地代(農産物)を納める義務です。これは土地の借り賃ですが、他の負担(結婚税・死亡税・十分の一税)もあり重すぎるので、経済以外の強制もかかっており、経済外的強制と呼ばれるほどの圧力でした。
(9) この地域(バルト海沿岸地方では東方植民運動)に拠点を築いて一帯を支配した修道会の名は、正確にはドイツ騎士修道会のことで、これは16世紀の宗教改革のさいに修道服を脱ぎ、プロイセンと名乗ります。ドイツ帝国の起源です。かれらが皆殺ししたプロイセン人の名が選ばれています。
B 問
(11) 問いは「この地(サン=ドマング)で1804年に独立が宣言された。この時建国された国の歴史的な意義は何か」ですが、ハイチの独立のことです。スペイン領エスパニヨーラ島からフランス領になって呼ぶようになった名がサン=ドマングです。
意義は世界最初の黒人共和国(ハイチ共和国)となったことです。黒人奴隷のトゥサン=ルーベルチュールの指導の下にハイチは独立を達成します。しかし、フランスは独立に伴い多額の賠償金を要求します。独立の承認と引換えにフランス人奴隷所有者に対し、1億5千万フランの賠償に同意しましたが、1838年には9千万フラン(30年間で残り6千万フラン)まで減額させます。この「賠償金」でハイチの財政は破産状態になり、賠償金の完済は、実に97年後の1922年となります。奴隷労働でたくさん利益を上げておいて、さらに奴隷解放金を払わせるというフランスの横暴さ。日本でも朝鮮人徴用工のことが問題になっていますが、賃金の未払いを払えと求めるのは当然です。徴用工をつかった企業は戦争終結と共に朝鮮に帰ったためと厚生省から労働力を失ったら弁償してくれと要求して金をもらっています。
次の文書には企業に支払った会社名と額の詳細が書いてあります。

(朝鮮労務対策委員会活動記録)
これを知らない日本人はブーブー言っています。フランスと変わらない横暴さ。
(13) アルゼンチン東部にあったイギリス領にアルゼンチン軍が占領したのを奪回した戦争です。

(14) チェロキー国憲法は、合衆国憲法にある「人民は、より完全な連合を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障……子孫のために自由の恵沢を確保する目的」「インディアンを除く」といった点がそっくり同じです。
合衆国は白人平等・先住民排除、チェロキーは自民族平等・黒人排除は同じです。チェロキー憲法は先住民がみずから作成し発布した最初の憲法として,またアメリカ国内に主権をもった国家が出現した最初の実例として重要な意義をもっていました。
(15) 「1898年」は米西戦争ですが、「併合」とあるようにスペイン領ではなく、独立国として存在した国ハワイの併合です。「アロハ・オエ」を作曲したリリウオカラニ女王を排除しました。合衆国はハワイに謝罪決議をしていて、ハワイ側の不満文も載せて発表しています(http://www.hawaii-nation.org/publawsum.html)。
併合したときの大統領はマッキンリーでした。先住民からデナリと呼ばれていた山を白人たちはマッキンリー山と名付けました(1897)。オバマ大統領は先住民の呼び方デナリに戻したのです(2015)が、トランプはそれをマッキンリーに戻す大統領令を出したため、アラスカ州議会がトランプに抗議しています。横暴な関税政策もマッキンリーを真似たものです。トランプはマッキンリー主義者です。1901年にはマッキンリーは銃撃を受けて死亡しました。二の舞が待っているのでしょうか?
(16) 関連して、下記の問に答えよ。
(ア)結局、タバコ利権は取り戻しても高い違約金を取られます(1891年)、『ワン』語呂→タバコ一1葉8食9い1たい)。
(イ)「憲法の臣民の権利」とは、教科書にも『用語集』にも書いてありません。用語集には「二院制議会と責任内閣制」と臣民の権利とは離れた内容です。
近代的な憲法なので、近代的市民権を考えて書いて良いです。つまり言論・集会・結社・信仰の自由です。
東洋文庫リポジトリの「オスマン帝国憲法」では、第8条で、臣民の公権として「いかなる宗教宗派に属していようとも、例外なくオスマン人と称される」。第9〜10条で「個人の自由」、第11条で「国教はイスラーム教……宗教の自由」、第12条「法律の範囲内に出版の自由」などです。
(ウ)「1908年」なので憲法大綱です(『ワン』語呂、憲法一1憲9親08)。
(17) 4つのソヴィエト共和国は

ザカフカス(ザカフカース)は現代のアゼルバイジャン・アルメニア・ジョージアにあたるところ。
(18) (ア)「憲法を求めた(あるいは外来者が憲法を与えた)理由」はいろいろ考えられ、いろんな解答文が可能です。
先進国であれ後進国であれ、弱肉強食の中で生きていくため、法でも軍事でも近代化して強国にしなくては、という切羽詰まった雰囲気がこの帝国主義の時代にはどこでも感じられました。革命・反乱・戦争のニュースが飛び交い、いつか、それが自国に影響を及ぼしかねない、と危惧する面がありました。
(イ)「この時代にそれが可能となった技術面での条件」は何より通信手段(電信・電話・写真)の発達、交通手段(汽車・船舶・飛行機)の発展があります。
一橋世界史2025
一橋世界史2025
第1問
1648年に締結されたウェストファリア(ヴェストファーレン)条約において取り決められた代表的な項目を3点取り上げ、その内容を説明したうえで、この条約がその後のヨーロッパの国際関係に及ぼした意義について述べなさい。(400字以内)
第2問
18世紀のヨーロッパでは人々の社交のあり方が大きく変化し、ウィーン体制期に入ると「市民結社の黄金時代」と呼ばれるほどクラブや協会の活動が活発化した。こうした事情を踏まえ、18世紀後半から19世紀にかけてヨーロッパで「市民結社」が発展した背景を前近代の中間団体との相違に触れつつ説明した上で、その政治文化史的な意義と限界を論じなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)
植民地物産 メディアの発達 ギルド
第3問
次の文章は、国際法学者で日本の外務官僚の倉知鉄吉が、1909年に自身が「韓国併合」の語を考案した経緯を、のちに回顧して記したものである。これを読んで問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)
当時我官民間に韓国併合の論少からざりしも併合の思想未だ十分明確ならず、或は日韓両国対等にて合ーするが如き思想あり、又或は墺匈国の如き種類の国家を作るの意味に解する者あり、従て文字も亦合邦或は合併等の字を用いたりしが、自分は韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにすると同時に、其語調の余りに過激ならざる文字を選ばんと欲し、種々苦慮したるも遂に適当の文字を発見すること能わず、因て当時未だ一般に用いられ居らざる文字を選ぶ方得策と認め、併合なる文字を〔中略〕用いたり。
(春畝公追頌会編『伊藤博文伝 下』より引用、ただし一部改変)
問1 下線部が示す1867年に成立した同君連合の帝国名を書きなさい。
問2 1905年以降の朝鮮植民地化過程を朝鮮側の抵抗に言及しつつ論じるとともに、上の文章の内容を踏まえて「韓国併合」の性格について述べなさい。あわせて「韓国併合」と比較しながら第一次世界大戦後に登場した委任統治とはなにかを述べ、このような新たな統治方式がとられた背景を論じなさい。
………………………………………
コメント
第1問
課題は「ウェストファリア条約……3点取り上げ、……この条約がその後のヨーロッパの国際関係に及ぼした意義」でした。①条約内容3つと②意義の二つでした。
教科書そのままでも解ける問題でした。下の引用文は詳説世界史で、①〜④は意義、(1)〜(3)は条約内容です。問いとは順は逆ですが、これをも少し説明すれば300字を越えるでしょう。
①ヨーロッパの主権国家体制は確立された。ドイツの諸侯にほとんど完全な主権が承認され、②帝国における諸侯の分立状態は決定的となった。③長年戦場となったドイツは、人口も激減してその後長く停滞することになった。④ハプスブルク家の勢力は後退し、
(1)フランスにアルザスをうばわれた。また、(2)スウェーデンは北ドイツの沿海地域に領土をえてバルト海を内海とする「バルト帝国」を成立させた。さらに、(3)スイスとオランダは独立を正式に認められた。(204字)
条約内容(1)〜(3)はもっと膨らませることができます。(2)「沿海地域」は西ポンメルン(オーデル川河口)でもいいし、加えて、プロイセン(ブランデンプルク・プロイセン公国)はマグデブルク(エルベ川中流)を得ます。
書いてない(4)アウグスブルク和議になかったカルヴァン派の公認もあります。、(3)スイスとオランダの独立は双方とも宗教に寛容な(「寛容」は、優しい、という人格的な特色でなく、信仰の自由を認める権利)国家の承認でした。
意義は、①をもっと説明的に書くとすれば、皇帝だけが外交権を行使していたのにたいして各領邦(帝国内小国)も外交権をもつことになり、それまで国内主権は黄金文書・アウグスブルク和議で認められていたのにプラスして外交権(条約締結権)ももつと「主権」をもった国家が成立します。他国に左右されずに内外の権限を持ったら国家主権が成立したことになります。上の教科書の「完全な主権」の意味です。
これが帝国の「分立状態は決定的」になり、帝国の死亡証書とも領邦(国家)体制の成立とも言います。領邦絶対主義へつながる、とも言えます。ここでは「有名無実化」もよく使われる表現です。
③停滞は「戦場」となったドイツの都市・農村が破壊され(「4万近くあったボヘミアの村落のうち残ったのは6000でしかなかった」猪口邦子『戦争と平和』東京大学出版会)、人口減少が見られ、回復に2世紀はかかるとみられました。19世紀にドイツは繁栄します。
④ハプスブルク家の勢力は後退は16世紀のハプスブルク帝国の時代からすれば、領邦国家体制に変わるので当然ですが、後継国家とてのオーストリア、そう、これからは名目の神聖ローマ帝国ではなく「オーストリア」という国名でよぶことが慣例になります。オーストリア自体はプロイセンとともに絶対主義体制を構築する努力をしていきます。
書いてないこととして、⑤教皇・教会・宗教の権威失墜も言えます。十字軍以来、国際会議は教皇の召集する公会議がリードしてきましたが、教皇に、この宗教戦争を止める力はなく、政治家・外交官たちが協議してヨーロッパはどうあるべきかを決めていく時代になりました。「世界最初の近代的な国際条約」ともいわれる理由です。
このように「意義」の解答は、長い時間の中で、換言すれば、過去と未来をふりかえり、歴史的にどんな意味をもっていたかを書くことです。拙著『世界史論述練習帳new』では結果や影響とどう違うのか説明しています。
第2問
課題は「18世紀後半から19世紀にかけてヨーロッパで「市民結社」が発展した背景を前近代の中間団体との相違に触れつつ説明した上で、その政治文化史的な意義と限界を(指定語句→植民地物産 メディアの発達 ギルド)」でした。
問いの中の「市民結社(Civil association)」は耳慣れない言葉です。「市民社会(Civil Society)」は通常使う用語ですが、この言葉は国家(政治)から独立した、という点がポイントで、市民のあらゆる階層が入ってます。それゆえ広く多様な意味があります。
しかし、市民結社は、いかにも「下から自発的に理想をかかけて市民が協力するボランテイア団体」のようなニュアンスがあり、全階層ではなく、一部のエリート、意識高めの上層部のグループ、ととれます。もちろん市民結社も市民社会の一部です。市民社会のリーダー的な存在です。
この市民結社については、『市民結社と民主主義:1750-1914(ヨーロッパ史入門)』(2009年3月発売、岩波書店)という本が代表格ですが、その説明によれば、「啓蒙の時代以降、アメリカのみならず広くヨーロッパの各地には、道徳向上と社交を目的に掲げたクラブや協会、フリーメイソンなどの市民結社が登場する。市民の自発性に基づいて活発な活動を展開したこうした社交団体」とあります。
普遍性を求める左派と民族性を大事にする右派の結社のちかいはあるものの、これらの市民結社が近代をつくったことは確かでしょう。とくに市民革命の唱導者・担い手です。
具体的な結社は、貴族の社交になったサロン・クラブ、学者のイギリス王立協会やフランス科学アカデミー、一般市民があつまるカフェ・コーヒーハウス(喫茶店/居酒屋)などの集会です。


1848年革命のさいに、政治的な集会が禁止されていたので、カフェで結婚式・誕生会などと政治性がないような催しにして実は始まると政治討論の場に変身するという偽装工作をおこなっていました。
これらの結社が発行する新聞・雑誌・自主出版物(ミニコミ)・冊子などが伝達・宣伝手段で、中国のイエズス会士が送ってくる「中国通信」はフランス知識人の議論の題材となり、啓蒙思想を育てました。
『新世界史』(山川出版社、世界史B、2013年)では、
理性の光に照らして旧来の権威や偏見を容赦なく批判し、人間の進歩を信ずる点でほぼ共通していた。また教会や神学の独善を激しく批判し、実践的な改革案を提出する点で、理論にとどまった17世紀とはことなっていた。その成果の集大成がディドロ・ダランベールの編纂した『百科全書』である。
指定語句の「植民地物産」は当時の海外情報が頻繁に伝えられること、植民地形成期とリンクしています。物産としてコーヒー・砂糖が入ってきて生活革命ともいう、新大陸・アフリカ・アジアなどから茶・砂糖・コーヒー・綿織物などの新奇な商品が流入し、ライフスタイル(飲料・衣類)が大きく変わりました(生活革命)。
「メディアの発達」は、印刷技術の発展とともに新聞・雑誌・冊子(パンフレット)が大量に刷られ、ジャーナリズム・世論・俗論・マスコミが形成されました。当然そこから政党が結成されます。種々の運動(選挙・裁判・解放・賛否・対抗・立法・値下げ・減税などの運動)も展開されます。
指定語句の「ギルド」は一橋が中世の問題としてよく問うてきたもので、今回のは市民結社との比較対象として使えばいいです。
ギルドは商人や手工業者の同業組合で、製造方法・品質価格を決めて、非組合員や他市の参入を防ごうとした閉鎖的・排他的な団体でした。自由な競争や新技術を否定した反資本主義の邪魔になり、市民革命で消滅させられます。市政に参加するのがギルドの親方たちだけで、職人(親方の下働き)・徒弟(住み込みの見習い)という身分差別も強固でしたから、なかなか下のものは親方になれませんでした。
市民結社はギルドのような閉鎖性がなく、貴族や学者の協会を別にすれば、たいていは自由参加であり、身分は問われません。発表の自由があり、左右の議論を戦わせることが眼目でもありました。しかし労働者とはちがい、ブルジョワが主体なので、経済的・知的弱者は無視する傾向をもちます。
さて指定語句だけでは、この問題の時代(18世紀後半から19世紀にかけてヨーロッパ)は背景として不十分です。
「植民地物産」で説明した生活革命の他に産業革命・科学革命の展開が当時あります。これらの革命によって職業・知識・生活の時間と空間の拡大があります。これまで知らなかったアジア・アフリカの知識がはいってくるだけでなく、そこに直接行けるようになりました。行くだけでなく植民地化して領土にし、そこの物産を味わうだけでなく、それを取引して利益をあげる時代になってきました。
とくに当時の英仏を比べると、イギリスは18世紀に輸出・輸入は2倍に増加していますが、フランスは5倍です。その中身はヨーロッパ貿易が4倍、植民地貿易が10倍増加しています。啓蒙思想を支持するブルジョワジーの船にはヴォルテール号、ルソー号という名が付けられていました。
いや啓蒙思想は海賊が影響を与えているのだ、という説が出てきました。『啓蒙の海賊たち あるいは実在したリバタリアの物語』岩波書店、2025年4月。ウィキペディアの「リバタリア」を読んでみるのもいいでしょう。
………………………………………
真剣な余談
上のイギリス王立協会は今も活動していますが、日本のアカデミー(日本学術会議)が危機です。
今国会で成立しそうな学術会議法案は、日本政府が学術会議を統制しようとしている法案です。国費を出すことを盾に、人事権を握り、政府の意向に従わせようとしています。会議の独立性をなくし、政府や財界の意に沿う方向に動員することを目論んでいます。
欧米から始まった学術会議(アカデミー)は国家が金を出しても、関与は会計監査のみで、他は学者会員に任せます。
調べると、学授業会議・会員数・国家予算の順で、
・英国王立協会・1700名・148億円。
・全米科学アカデミー・2100名・(外国人500名)・472億円
・ドイツ科学アカデミー・1600名・21億円
・日本学術会議・2200名・10億円、日本では旅費も不十分なため自弁で用意することが多いのが日本の会員。
この法案について、橋下徹は「そもそも、お金をもらって、後は全部自由にさせてくれというのは、仕送りをもらっているろくでもない学生と同じですよ。……お金だけもらってあとは自由にさせてくれという世界は、この世の中にあるわけはないです」と言って賛成しています。上に挙げたように、あります。
こうした組織が出来たのは戦前に国家が学者を統制したことの反省から来ていて、独立性の高い組織であるべきだからです。ナチス宣伝相ゲッペルスは「真実はわたしがつくる」と言ったように独裁政党が好みの思想を押しつけてしまうことのないよう、維新政府ができたら維新の思想を押しつけられないよう、共産党政権ができたら共産党の思想を押し付けられないようにしなくてはなりません。「文字の獄」が好みの中国共産党では困ります。
いつの時代でもこうした自由を政治家は嫌がります。トランプは大学に圧力をかけて自分好みの大学に変えようとしています。彼の選挙参謀だった共和党マイケル・スティールは「心は10歳の子供なんだ」と言っています。
橋下徹は大人の知恵が分からない病人です。病名は「演技性人格障害」で最高裁で確定した病です(2017年)。
(1)https://article9.jp/wordpress/?p=8081
(2)https://www.sankei.com/article/20160421-X7UE4IVJ2BJHXO5ZYKJ3A7FA7E/
あまりに基本的な事ですが、日本国憲法・第23条「学問の自由は、これを保障する。」
前文「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」していて、国家の行為を批判する権限は国民側にあります。
………………………………………
第3問
史料の倉知鉄吉の文に「韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明かにする」と述べているように亡国にする意志は明らかですが、「苦慮」は「未だ一般に用いられ居らざる文字」であるため「併合」を選んだという言い訳です。
「(韓国は)併合であり、植民地ではない」という文を書くひとたちがよく見られます。当時から植民地であるとの公文書がたくさん残っているし、併合は植民地化の一般的な形態です。
疑問に思っているひとは「ekesete1のブログ」に詳細な公文書が引用されてるので確かめてください。
(1)https://ekesete1.livedoor.blog/archives/41362419.html
(2)https://ekesete1.livedoor.blog/archives/48367057.html
植民地でないという意見を書くひとはこの問題は間違っているから答えられない、と拒否するのでしょうか?
一番問題にしているのは、「合法的に併合されたのだから植民地ではない」という言い方です。
これは、まちがいです。
第1次日韓協約は、反対しそうな大臣を日本に拉致(らち)しました。その上での調印です。
第2次は伊藤博文が大臣たちを銃をつきつけながら脅迫して調印を迫ったものでした。国王は署名しないままでした(海野福寿『韓国併合(上)』不二出版)。
第3次は一切協議なしで調印をさせました。
日本の教科書は「日韓協約」とかならず「日韓」を付けますが、ほんらい原文にはこのような名も付いていません。日本の外務省が後でくっつけたものです。つまり双方がいかにも話し合って調印にいたった、という偽装なのです(李泰鎮著『東大生に語った韓国史』(明石書店)。
併合条約も「日韓」は付いておらず、正式には「韓国に関する併合条約」といいます。この条約は総督になる寺内正毅の自作自演でした。話し合ってつくった文章ではありません(和田春樹『韓国併合 110年後の真実: 条約による併合という欺瞞 (岩波ブックレット NO. 1014)』p.44)。
問1 「墺匈国」の帝国名は、「匈」が分からなくても(匈牙利はハンガリーの漢字表記)、「1867年に成立」なので、オーストリア=ハンガリー帝国と推理できます。普墺戦争(1866年、『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード)、以下『ワン』で略称、語呂→「普墺、同1伴8るん6るん6」)に敗戦してできた同君連合の帝国でした。
問2 課題は「(1)1905年以降の朝鮮植民地化過程を朝鮮側の抵抗に言及しつつ論じるとともに、上の文章の内容を踏まえて「韓国併合」の性格について述べなさい。(2)あわせて「韓国併合」と比較しながら第一次世界大戦後に登場した委任統治とはなにかを述べ、このような新たな統治方式がとられた背景を論じなさい」でした。
この課題の肝は「朝鮮植民地化過程……(2)「韓国併合」と比較しながら……委任統治とはなにか」の部分です。
「植民地化……比較して」と明解に書いているのに、委任統治領と変わらない、と書いてしまうと、何も考えないで解答したことになります。
たとえば、
駿台「事実上の植民地再分割」
代々木「分割し植民地化する」
東進「多国間の枠組みに基づくという点で異なる」
河合塾「植民地支配・再配分を糊塗した点は共通していた」
どれもまともな解答になっていません。
「比較」は異同の双方とも書いて良いのですが、二つのことを比較するさいに重点になるのは相違点の方です。植民地と委任統治領はどう違うのか、ということです。
委任統治領は『用語集』に「国際連盟から統治を委任されるという名目だが、事実上は領土の再分割であった」とあり、これを使ったようです。もちろんこの『用語集』でも、何を言いたいのか漠然としています。
でも問題として出されたら考えないといけません。教科書にも『用語集』にも明解に書いてないけれど、朝鮮半島の「植民地化過程」を思い出して、西アジア地域の「委任」統治領とどう違うのか?
朝鮮半島の場合、「抵抗に言及しつつ」とわざわざ書いてあるので、これに日本がどう対処したのか、が鍵です。『世語集』には「1896年に初期義兵闘争がおこった。1905年以降にふたたびおこり、07年の朝鮮軍解散の強制でいっそう激化」と書いてあります。義兵運動と呼ばれる激しい反日抵抗運動があり、これに対して殲滅(せんめつ)=皆殺し、村・街・学校・教会・書堂・寺院の焼き打ち(デーリーメール社のマッケンジーの写真)をやり、

3万から5万人は殺したようです。詳しくは愼蒼宇著 『朝鮮植民地戦争: 甲午農民戦争から関東大震災まで』 (有志舎)、が適格です。

写真は北大で見つかった東学の指導者の首です(https://japan.hani.co.kr/arti/culture/15228.html)。
「新たな統治方式がとられた背景」はもちろん「民族自決」をどう適用するか、ということであり、アジアに適用しなかったとしてもこの原則は重い。それで段階的に適用することになり(←これは植民地にはない)、すぐではないとしても「委任」された国々は「自決=独立」までの準備をしなくてはならず(←つまり永続的に支配=植民地にできない。内政権を完全に取り上げることはできない)、連盟に実状を毎年報告する義務を負いました(←植民地化を企図する国に義務はない)。
報告の内容は国際連盟の常設委任統治委員会に、軍事基地の設置禁止や武器取引の制限など、委任統治協定の条件を守っているか、他の国との関係や貿易の公平性は保たれているかです。あと統治体制の概要(法律、行政機関、裁判所など)、地域の安定性や治安維持の状況、経済・教育・福祉・住民の権利についても報告しなくてはなりませんでした。
委員会は報告書を精査し、必要に応じて統治国に質問や改善要求を提示できます。時には現地視察も行われました。
『用語集』に委任統治領後に独立した国々のことは書いてありますが、上に説明した「委任」の内容は教科書に書いてありません。しかし、「委任」の結果、イラクは1932年に独立し、シリアとレバノンは1943年に独立しました。ヨルダンは1946年に独立します。
2025年合格メール
2025年合格メール(到着順)
Aさん
お久しぶりです。Aです。
大阪大学外国語学部 イタリア語に合格しました。
世界史が一番の苦手教科だった私が当日、世界史が一番手応えを感じられる程になったのは中谷先生のおかげです。この合格も、中谷先生なしでは絶対に叶わないものだったと思います。
本当に有難うございました。
Bくん
一橋大合格しました!!!!!!!!!!
先生との添削を通して世界史がずっとずっとずっと大好きになれたと思います!!!!!!!
1年間本当にありがとうございました!!!!!!!!!!
Cくん
一橋大学法学部合格しました!
ご指導本当にありがとうございました
正しい知識を身につけて自信もっていけました。
Dさん
2月から一橋大学世界史論述を添削していただいたDです。
この度、一橋大学 社会学部に合格しました!
先生には伝えていなかったのですが、共通テストe判定、かつ本番で数学がほぼわからない+国語も終わらなくて落ちたと思っていたので、合格者一覧に自分の番号があって号泣しました。
なので、点数開示が出てないのでわからないのですが、おそらく合格の理由は英語(一橋模試で2位でした)と世界史です。本当に添削をしていただきありがとうございます。大問2を結構適当に書いたのですが、大問1と大問3(朝鮮)で稼げたのではないかと思っています。
改めて本当にありがとうございます。
Eさん
この度、東京大学 文科三類に
無事に合格いたしましたことを、
報告させていただきます。
「中谷世界史論述練習帳」や
中谷まちよ先生の『世界史ワンフレーズ』の著書は大変分かりやすくて
勉強になりました。
そしてなにより
中谷先生が一文一文、他の参考書の
引用をしてくださるなど、
ご丁寧に添削してくださったお陰で、
右も左も分からなかった私の論述力が
飛躍して、東大の世界史で戦いきることができました!
改めまして、本当にお世話になりました。
これからも、受験生達に
すばらしい論述の技術をご教授していってください。
Fさん
一橋大学経済学部に合格することができました。ほんの数回でしたが、先生のおかげで自信を持ってのぞむことができました。本当にありがとうございました。
Gくん
おかげさまで一橋大学社会学部に合格できました!!
過去問の添削の際にアドバイスに加え、褒めて頂いたことがとても励みになりました。
Hくん
(京大法学部)
宅浪の身では模試以外で添削してもらう機会はなく、不安になっていたところを、直前期にも関わらず添削を受けて下さり本当にありがとうございました。中谷先生に褒めていただいたおかげもあって、本番の世界史で、ある程度自信を持って受験することが出来ました。本当にありがとうございました。
東大世界史2025
東大世界史2025
第1問
オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ロシア帝国、清は、いずれも地続きに巨大な領域を支配した大陸国家である。これら4国は、版図を統合する強力な政治体制や軍事力をもつ一方で、脆弱性も抱えており、いずれも20世紀前半に大きな変容を迫られた。その際、それぞれがたどった過程や結果にはいくつかの共通点と相違点があった。以上のことを踏まえて、以下の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。
問(1) 共通の課題を抱えていた4つの大陸国家は、1910年代から1920年代にかけて後継国家に移行していく。その際に、支配領域や民族別人口構成の面で、大きな変化があった場合とそうでない場合があった。これらの点に着目して、4つの大陸国家の変容を2つの類型に分けて、12行以内で記述せよ。その際以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。
国民統合 チベット ドイツ人 連邦制
問(2) これらの大陸国家の変容に際して、国際社会では新たな原則が提唱され、大きな影響を与えた。その原則と、原則の適用をめぐる事情について論じた上で、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国における事例について、8行以内で記述せよ。その際以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。
委任統治 ウィルソン チェコスロヴァキア 平和に関する布告
第2問
人類史上、各時代・地域の外交は、それぞれ独自の歴史的背景と条件の下で展開し、それが新たな歴史的条件をもたらすことにもなった。このことに関連する以下の設問(1)〜(3)に答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。
問(1) 南アジアでは、他地域の支配者の要請によりなされた宗教施設の建立や、それら宗教施設への土地などの寄進を記録した刻文から、他地域との外交関係を読み取ることができる。インドのナーランダー遺跡で発見された、9世紀前半にインド東部を支配したパーラ朝の王デーヴァパーラの銅板刻文もその1つである。この刻文を抜粋した次の資料1(内容を一部省略・改変している)を読み、このことに関する以下の(a)·(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)·(b)・(c)を付して答えよ。
資料1
スマトラ島の主であるシャイレーンドラ朝の大王バーラプトラデーヴァから、私(デーヴァパーラ)は次のように知らされた。「私(大王バーラプトラデーヴァ)は、ナーランダー大僧院の中に僧院を建立いたしました」。そこで、大王が建てたこの僧院において、ブッダと経典と菩薩に対して供物を捧げるために出家修行者たちの共同体に対して必要物を提供するために、ブッダの教えを書写するために、また、僧院の破損個所を修理するために、私(デーヴァパーラ)は村々を寄進した。
(a) 資料1に見られる両王朝の関係は、東南アジアヘの仏教の拡大を背景としている。当時東南アジアに広まっていた仏教の名称と特徴、および関連する遺跡について、2行(60字)以内で記せ。
(b) 資料1に登場する両王朝は、マレー半島とスマトラ島に挟まれたマラッカ海峡を通る海上交易路により交流していた。7世紀から8世紀にかけてこの交易路を支配して繁栄した王国の名称を記せ。
(c) 資料1の下線部に関連して、7世紀にこの大僧院で学んだ中国の仏教僧の名前を挙げ、その事績について、2行以内で記せ。
問(2) 次の図1は、1932年に完成した道路を示したものである。この道路は、ある現代国家の政権中枢が置かれていた建物(丸で囲った箇所)と手前の古代遺跡とを直線的に結んでおり、他国の外交団を迎えた時の軍事パレードや、重要な政治集会が催される場として機能した。この道路の傍らには、ある古代国家の版図の時間的変遷を示す大理石製の地図が4枚張りだされたが、図2・図3はそのうちの2枚である。道路の左右には古代の広場の遺構が広がっており、そのうちの2つの広場は、図2・図3が示すそれぞれの時期に古代国家の最高権力者だった人物によって造られたものである。さらに1936年には、その現代国家の威信を示すために、その時新たに獲得した領土を示す5枚目の地図も加えられた。
以上のことを踏まえ、以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。
(a) 道路が完成してから1937年に至るまでの、この現代国家がとった対外政策と、それに伴う国際的な政治環境の変遷について、3行(90字)以内で記せ。
(b) 上記の文章と図1〜図3を踏まえると、この現代国家は古代国家のどのような側面を強調しようとしていたと考えられるだろうか。古代国家の最高権力者の名前も挙げながら、3行以内で記せ。

問(3) 冷戦期においては、外交が国際関係の緊張緩和に重大な意味をもった。これに関し、以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。
(a)次の資料2は、ある危機の解決を目指して行われた大国間外交のー局面を示す文書である。この危機の発端となった1959年に起きたある出来事の概要と、危機に至るまでの経緯について、4行以内で記せ。
資料2
私は以下の提案を行います。我々はキューバからあなた方が攻撃用と称している兵器を撤去します。我々はこの任務を行いますし、そのことを国際連合の場で誓約します。あなた方のほうでは、ソヴィエト連邦が感じている不安や懸念に鑑みて、トルコから同様の兵器を撤去するという宣言を行うことになるでしょう。
(b) 冷戦期には、第三世界と呼ばれる地域で紛争がくり返された。(a)で述べた危機に関係した3国も、1975年に独立したアンゴラの内戦に介入した。アンゴラについて、その旧宗主国の名称を記せ。
第3問
歴史のなかで都市は、政治や経済あるいは軍事の中心地となっただけでなく、文化の融合や発信の基地としても機能した。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。
問(1) 次の資料1は、宋代に都として栄えた都市について述べた回想録の一部分である(内容は一部省略・改変している)。資料中の下線部ⓐの都市の名称と下線部ⓑの河川の名称、および下線部ⓒの地域の名称の組合せとして正しいものを、後のア〜力のうちから1つ選び、その記号を記せ。
資料1
かつてのⓐ都の城内には四つの河道があり、中央の河を汴(べん)河といった。汴河は、西の洛陽とはⓑ河川を介してつながり、東のほうでは淮河につながり、ⓒ東南の食糧を運びこんだ。東南から送られる物資はほぼこのルートで都に運ばれ、為政者も庶民もその供給に頼って暮らした。東の水門の外には虹橋があった。その橋には柱がなく、巨木でもってアーチを組み、朱色で飾ってあって、あたかも河に虹がかかっているかのようであった。
ア ⓐ開封─ⓑ長江─ⓒ山東
イ ⓐ開封─ⓑ黄河─ⓒ山東
ウ ⓐ開封─ⓑ黄河─ⓒ江南
工 ⓐ臨安─ⓑ長江─ⓒ山東
オ ⓐ臨安─ⓑ長江─ⓒ江南
カ ⓐ臨安─ⓑ黄河─ⓒ江南
問(2) 資料1の波線部(ここでは実線)の都市は、多くの中国王朝が都とした。そのなかで、6世紀にこの都市を都としていた王朝の名称を記せ。
問(3) 資料1に見られる都市の繁栄は、宋代に新たな庶民文化を生み出した。文芸においては、それまでの詩とは異なり、楽曲に合わせてうたう、新しいジャンルの文芸が流行した。この文芸の名称を記せ。
問(4) 次の図1は、19世紀のある都市の多宗教共存の様子を示したものである(一部改変)。歴史上、この都市は外部からの襲撃にもさらされてきた。紀元前6世紀には、新バビロニアの王によって攻略され、住民はバビロンに連行された。新バビロニアを滅ぼして、連行された人々を解放した王朝の名称を記せ。

問(5) 図1の[ A ]の人々にとって、この都市は第三の聖地である。[ A ]の人々にとって最も重要な聖地である都市の名称を記せ。
問(6) 図1に関連して、聖地回復を目指した十字軍時代に活発に活動したキリスト教の騎士修道会(宗教騎士団)の名称を1つ記せ。
問(7) 1993年に、パレスティナ暫定自治協定(パレスティナの暫定自治に関する原則宣言)をオスロで調印したイスラエルの首相とパレスティナ解放機構(PLO)の議長の名前を、この順序で記せ。
問(8) 次のグラフ1は、1750年および1800年のイギリス(グレートブリテン)における都市の人口上位7位までの動向を示したものである。すべての都市で人口が増えているが、特に都市[ B ]はこの時代のイギリス社会に起こっていた大きな変化を反映して、人口が大幅に増加している。この都市の名称を記せ。

問(9) グラフ1の都市[ C ]は1850年前後には人口が約270万人に達し、世界最大級の都市となっていた。この時期に都市[ C ]で開かれ、イギリスの繁栄ぶりを内外に示した国際的な催しの名称を記せ。
問(10) 18世紀後半から19世紀前半にかけてのイギリスでは、経済が急速に成長した一方で、苦境に立たされて、暴動を起こしたり犯罪に手を染めたりする人々も出た。グラフ1の時期に囚人の流刑植民地として発足し、後にイギリス連邦の一員となった国の名称を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
問(1) 課題は「1910年代から1920年代にかけて後継国家に移行……支配領域や民族別人口構成の面で、大きな変化があった場合とそうでない場合があった。これらの点に着目して、4つの大陸国家の変容」でした。
「大陸国家」はどれも大国といっていい領域を支配した国々で、その比較の問題です。過去問1997年度の「帝国解体過程の比較」の類題です。
1997年度のそれは、
20世紀の民族運動の展開を考えるさい、第一次世界大戦の前後の時期は大きな意味をもっている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家も生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら(指定語句→民族自決、三民主義、少数民族、シオニズム、アラブ、モンゴル、オーストリァ・ハンガリー、バルト三国)
で、これを450字以内、という問題でした。なぜこのような類題を出したのか。前回の問題に対する学生の答案が出題者には不満だったので、比較の観点(支配領域や民族別人口構成)を指示して書かせてみよう、と考えた、というのが一つ。プーチンやトランプの登場で、かれらのように旧帝国に執着心が強く、取り戻したい、という現況が出題者をつきうごかしたのではないか、というのがもう一つ。この後者ではないかとわたしは見ています。
寒いので大統領の就任式を議事堂内で行ったバカランプ(トランプの別称、ビル・ゲイツは「肉体をまとった『無知』」と呼ぶ。「無知豚」とも訳せます→
ビル・ゲイツ氏が暴露したトランプ大統領の「無知さ」 | 47NEWS
)が寒いグリーンランド(島の8割が氷)とカナダが欲しいという狂った要求を出してきました。
「後継国家に移行」とあっても「後継国家(継承国家ともいいます)」なので、旧大国の遺産(領土・民族)をある程度ひき継いでいます。それを「大きな変化があった場合とそうでない場合」と違いを指摘してほしい、という要求です。
過去問で「比較」を練習をしていたら容易な問題でした。また現代史なので、地図をよく見ながら勉強してきたかどうかも問われています。
また「1910年代から1920年代にかけて後継国家に移行」と条件が付いているので、第一次世界大戦(1914〜18年)の前後ときっちり比較できないが、ほぼ大戦の前後に近い。
■1910年代から1920年代にかけての変化


(1910年代)オーストリア=ハンガリー帝国
→(1920年代)この二重帝国しオーストリア(ドイツ人の国民統合)とハンガリーに分離独立して共和国になった、また帝国内のスラヴ人国家ができた。
(1910年代)オスマン帝国
→(1920年代)トルコ共和国、英仏委任統治領、アラブ人・ユダヤ人を失う


(1910年代)ロシア帝国
→(1920年代)連邦制諸共和国、バルト三国・ポーランドの分離独立、ロシア帝国はバルト三国語族と西スラヴ人を失う。


(1910年代)清
→(1920年代)漠北(モンゴル北部)だけ分離独立


この戦後処理の協議は、ヴェルサイユ宮の近くトリアノン・パラスで行なわれました(井上ゆかり[フランス政府公認ガイド]さんの撮影)。

日本の全権大使は西園寺公望で全権大使でしたが、ほとんどしゃべらずジャパニーズ・スマイルで済ませました。イタリア首相オルランドは未回収のイタリアが得られず、怒って席を立っていました。オルランド、おらんどどこ行った? となります。他は米国が十四ヵ条のウィルソン、、「種子が砕けるまで」レモンのようにドイツ人を絞りたいと言った英国首相L.ジョージ、仏首相クレマンソーでした。
問(2)では指定語句が「ウィルソン 平和に関する布告」が指定されたので、民族自決の原則をここで長々と説明する必要はなく、専ら「変化があった場合とそうでない場合」つまり「共通点と相違点」に集中して解答文をつくることにします。
「原則の適用をめぐる事情」という条件が付いているので、予備校の解答例では「アジア・アフリカには適用されなかった(K)(S)」とあるが、これは必要のない説明です。というのは「オーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国における事例」とあり、アジア・アフリカの全部を考慮する必要がないからです。
またアジアは会議の前に独立宣言を出している国はありませんでした。
パリ講和会議は1919年1月18日から開会さましたが、その前に独立宣言を発表した国は以下。
会議の1年前にあたる1918年2月に独立宣言を発表した国は、リトアニアとエストニア、
10月に独立宣言を発表した国は、セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国、チェコスロヴァキア
11月に独立宣言を発表した国は、ラトビア、チェコスロヴァキア、ポーランド、ハンガリー、ラトビアなどです。
これらの国々は会議に独立の承認を迫っていました。植民地になっていた国で、アジアの国は一国もないのが当時の状況です。アジアは間に合わなかった、ともいえます。もちろん宣言だけであり、それまで独立運動を行なってない国はありませんが。
第2問
問(1) (a) 「両王朝」は「9世紀前半にインド東部を支配したパーラ朝」とシャイレーンドラ朝です。パーラ朝は東部のベンガル地方を支配していて、ここから「東南アジアに広まっていた仏教の名称と特徴」という問い。東部から広まったのは小乗仏教と大乗仏教の二つありますが、資料1に「菩薩」があり、これは大乗仏教に見られる信仰です。「自身の悟りよりも人々の救済がより重要と考え出家しないまま修行をおこなう菩薩信仰が広まった。この運動を、あらゆる人々の大きな乗ものという意味で大乗と呼び」という説明文が教科書にあります。信者は出家し、自分個人の解脱をめざして修行する小乗仏教との違いが出せたらOKです。
「関連する遺跡」については、資料1の「ナーランダー大僧院」もシャイレーンドラ朝がつくったボロブドゥール寺院も大乗仏教が関連しています。玄契・義浄もここで学んでいます。

(b) マラッカ海峡……7世紀から8世紀にかけてこの交易路を支配して繁栄した王国は、シュリーヴィジャヤ王国です。
義浄はインドから帰り、この王国の都パレンバンで『南海寄帰内法伝』を書きました。
(c) 「7世紀にこの大僧院で学んだ中国の仏教僧の名前を挙げ、その事績」は、『大唐西域記』を書いた玄奘は、『南海寄帰内法伝』を書いた義浄の二人。この著書によってインドの政情・風俗、途中の内陸と海域の情報なども伝えました。共に仏典の漢訳をしています。玄奘は、657部、馬22頭にのせて経典をもちかえり、3日に1巻のハイペースで9年かがりで訳しつづけました。義浄は律という僧侶の生活規範を訳しています。
問(2) 「1932年に完成した道路……道路の左右には古代の広場の遺構……1936年には、その現代国家の威信を示すために、その時新たに獲得した領土を示す5枚目の地図も加えられた」
(a) 「1932年から1937年に至るまでの、この現代国家がとった対外政策と、それに伴う国際的な政治環境の変遷について」という問い。3行90字。
ムッソリーニがローマ進軍(1922年、『世界史年代ワンフレーズ』以降『ワン』と略称、語呂→ローマへ進軍、人1靴92つ2ぶす)以来、独裁制を強めた彼はフィウメ併合(1924)、アルバニアの保護国化(1926)、エチオピア侵略(1935年、『ワン』エチオピア、ど1け9産3後5でも)、ベルリン=ローマ枢軸(1936年、『ワン』ベロ、独19メ3ロ6ン)、スペイン内戦への介入(1936年、『ワン』スペイン内、闘1牛9見3る6)日独伊防共協定(1936)、国際連盟脱(1937)、ミュンヘン会談(1938)、アルバニア併合(1939)という対外政策をとりました。
それまだ対立しなかった英仏とはエチオピア侵略で対立するようになり、ドイツに近づいた。レーニンが「泥棒たちのキッチン」といっていた国際連盟はこの試練を乗り切るのに無残な失敗を犯した。イタリアを止めることはできず、国際連盟はまったく口先だけの存在であることが明らかになりました。
(b) 課題は「古代国家のどのような側面を強調しようとしていたと考えられるだろうか。古代国家の最高権力者の名前も挙げながら」でした。
図1は古代ローマで栄えたコロッセウムや帝国の政治の中枢であったフォロロマーノの遺跡が並び、まさに帝国繁栄の象徴になる場。図2はアウグストゥス帝の版図、図3はトラヤヌス帝の版図で、後者が最大領域でした。強調しているのは古代国家の再現であり、古代ローマ帝国が復活した、と国民に告げることでした。実際には再現できず、北アフリカもバルカン半島も征服できませんでした。
(何もなしとげていないのに王様気分の大統領もいます)

問(3) (a) 課題は「この危機の発端となった1959年に起きたある出来事の概要と、危機に至るまでの経緯について(4行)」でした。資料2の「キューバ……ソヴィエト連邦が感じている不安や懸念に鑑みて、トルコから同様の兵器を撤去」からキューバ危機(1962年、『ワン』危機でも、生1き9る6人[にん]2)のことだと判断出来ます。
その前の「1959年」の出来事とは、キューバ革命です(『ワン』球場[キューバ]、一1球9五5球9)。これはカストロが親米独裁のバティスタ政権を倒した革命です。初めはソ連型社会主義を好んでいなかったのに、ユナイテッド・フルーツ社の農地の接収、米銀行の国有化を進めていき、社会主義の宣言も出します。米国との対立がはげしくなり、米国はカストロ政権打倒の軍事行動を起こすも失敗します。するとカストロはソ連(フルシチョフ)に接近していき、対米親ソの軍事協定を結び、秘かにミサイル基地を建設しだします。この基地をケネディが偵察飛行で建設中の基地を撮影し、これを世界に公表し(下の写真)、直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫ります。これがキューバ危機という米ソ核戦争の危機です。

「トルコから同様の兵器を撤去」とは、トルコにあったNATO軍のジュピター・ミサイルのことで、これは1963年4月に撤去しています。米国はもうキューバへの武力侵攻はしない、との約束の代償です。
(b) 「アンゴラについて、その旧宗主国の名称」でした。ポルトガルです。

ポルトガルは最近の例では、2011年の第3問、2010年の第3問、1997年第2問に出題されています。
第3問
問(1) 課題は「宋代……ⓐの都市の名称と下線部ⓑの河川の名称、および下線部ⓒの地域の名称の組合せ」で正しいものの選択問題でした。北宋の開封・汴京か、南宋の杭州・臨安か? 資料1に「都……汴(べん)河……四つの河道」とあり北宋の開封であることが分かります。そこから「ウ ⓐ開封─ⓑ黄河─ⓒ江南」です。

問(2) 波線部の都市(洛陽)……6世紀にこの都市を都としていた王朝。ということは7世紀に大興(城)を都にした隋の統一以前ということになり、北魏の孝文帝が494年に遷都して以来の都です。漢化政策の一環と見られています。均田制を始めた(『ワン』均田は四4箱85)皇帝でもあります。
問(3) 「宋代に新たな庶民文化……この文芸の名称」ですが、実は庶民文化ではありません。だいたい庶民は字が書けないので、士大夫という知識人たちの「庶民的」文芸です。先に美しい叙情的なメロディーがあって、それに合わせてつくる漢詩です。唐代のキッチリ字数・音韻を合わせたものと違い、え?! これ詞/詩なの、と疑問におもうようなものです。事例は『中国文学講話』岩波新書に、靖康の変で南に逃げる途中、夫が亡くなり、妻の李清照(1084〜?)という女性がつくった詞が載っています。
尋尋覔覔 冷冷清清 惨惨惨惨戚戚……
(和訳:うろうろそわそわ さむざむひえびえ、わびしさ・かなしさ・なやましさ……)
問(4) 「多宗教共存……紀元前6世紀……住民はバビロンに連行された。新バビロニアを滅ぼして、連行された人々を解放した王朝」と。アケメネス朝です。

「多宗教共存」でイェルサレムだと推理でき、地図の中の「岩のドーム」もイェルサレムを指しています。前538年、新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世によりユダヤ人が解放された史実です。ウィキペディアの英語版 Cyrus Cylinder に宗教寛容令が彫られており、これが事実上のユダヤ人解放文書で、粘土板でつくったシリンダー型の碑文があります。旧約聖書「エズラ記」第1章第2〜3節には解放令が詳しく書いてあります。「あなたがたのうち、その民である者は皆その神の助けを得て、ユダにあるエルサレムに上って行き、イスラエルの神、主の宮を復興せよ。彼はエルサレムにいます神である。すべて生き残って、どこに宿っている者でも、その所の人々は金、銀、貨財、家畜をもって助け、そのほかにまたエルサレムにある神の宮のために真心よりの供え物をささげよ」と。

問(5) この[ A ]の人々とはイスラーム教徒です。[ A ]の人々にとって最も重要な聖地ねなのでメッカ。「第三」の聖地で「第二」はメディナです。イスラーム教の発祥地です。
問(6) キリスト教の騎士修道会(宗教騎士団)、なのでヨハネ騎士団、テンプル騎士団、ドイツ騎士団(正式にはドイツ騎士修道会)のうちどれか1つ。
問(7)

「イスラエルの首相とパレスティナ解放機構(PLO)の議長の名前」ということで、ラビン、アラファト。合意の内容は「1.イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認する。2.イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する」です。現在のイスラエル首相ネタニヤフは、パレスチナの自治どころか全部土地の征服を狙っていて完成しそうなところまで来ています。ネタニヤフは、キュロス2世とは真逆でホロコーストの復讐/再現をガザでやっています。このイスラエルに武器を提供している米独も狂っています。
映画『ノーアザーランド』の一場面(イスラエル兵が近づいてくる教室、この後で学校を破壊する)

問(8) 都市[ B ]はこの時代のイギリス社会に起こっていた大きな変化を反映して、人口が大幅に増加している。この都市の名称を記せ。「1750 年および1800年……大きな変化」とは産業革命でしょう。貿易港リヴァプールと鉄工業都市バーミンガムは挙げてあるので、綿織物工業の中心都市マンチェスターが挙げられます。
問(9) 「1850年前後……世界最大級の都市……国際的な催しの名称」は今年の大阪万博に合わせたのでしょうか?
問(10) 「囚人の流刑植民地」なのでオーストラリアです。1783年にアメリカが独立したので、それまでアメリカ大陸は流刑植民地だっのが、そうでなくなり、こイギリスは送り先をオーストにリアに変えたのでした。ロシアのシベリア送り、日本の島流し。トランプは南米エルサルバトルの最恐刑務所テロリスト監禁センター(CECOT)に犯罪者でないものも強制移送をしています。