世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東学農民軍の歴史を訪ねる旅

 「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」という旅行体験を紹介します。東学農民戦争というのは教科書や授業で習いましたか? 日清戦争の原因として学んだとおもいますが、そういう原因として学んだこと自体が史実とちがっています。韓国の史家のなかには日清戦争と呼ばないで、韓日戦争と呼ぶかたもいます。「日清」と呼びながら、この中に「韓/朝」が入っていません。宣戦の詔書(天皇の命令)では、「朝鮮の宗主国である清国を排除して朝鮮の独立を助け」るはずでした。しかし、戦場の大半は朝鮮半島であり、この戦争の最大の死者は日清の双方ではなく、韓国・朝鮮人です。かつては戦死者は5〜6万人と数えていましたが、今は約30万人と数えています。これは誇張ではなく、次第に真相が明らかなるとともに数も数えなおさなくてはならくなりました。日本でも、アジア太平洋戦争で日本人の死者は約310万人としていましたが、日本政府は376万4549人と60万人も開きのある数字に訂正しています(https://doi.org/10.50870/0002000515)。

  私が参加した「東学農民軍の歴史を訪ねる旅」は20回目でした。この旅は、2006年から始まり、もう20回目になっていますから、至れり尽くせりの充実した豊かで深い内容になっています。
  旅の初めに富士国際旅行社からいだいたガイドブックには、出発・帰国の時間・待合せカウンター・出国手続きの手順・宿泊するするホテルの位置・電話・電話のかけ方・日本大使館の情報、5枚の詳しい地図などが入っています。また日程表とメモページが付いたノートが届きます。ガイドは朴孟洙(パク・メンス、圓光大学校前総長)、イ・ヨンミさん、富士国際旅会社のガイドさんと3人で、3人とも韓日語を自由に話されます。

──1日目──
 まず1日目は、かつての李氏朝鮮の宮廷である景福宮からです。中は広く広く、いくつもの宮殿が集まっているような空間です。パジチョゴリ(男子の韓服)とチマチョゴリを着た男女、親子が幾組も来ていて写真を撮っています。この宮殿で祝い事をしているのでしょう。なにか自分がタイムスリップしたように錯覚します。

 旅行社から送っていただいたガイドブック(ガイドの朴孟洙さんが書かれた84頁もの解説書)に地図があり、

そこに日本人にとって肝心の迎秋門(げいしゅうもん↓)が載っています。

 1894年、日本軍がここを破壊して中に入ろうした日清戦争のスタートを切る場所です。景福宮の西門を爆薬で壊そうとしたが、壊れない。大砲で扉を爆破して第二十一連隊第一大隊の隊長森少佐が入り王宮に突入します。第十一連隊は南門の光化門(こうかもん)を襲いすま。それぞれの門で朝鮮軍と打ち合いになり、「七時四十分戦闘全く止ミ」と。午前2時半から始まった襲撃が終わり、国王・高宗を擒(とりこ)にしました。甲申政変のさいに擒にできなかった反省から国王を傀儡(かいらい、人形)化することは不可欠でした。この国王に清軍撤退を言わせます。

 その後、大韓民国臨時政府記念館を見学。日本の『世界史用語集』では「1919年4月、三一運動を継承するため、上海で樹立宣言された政府。列強への依存度が高く、まもなく有名無実となった。初代大統領は李承晩」とそっけなく蔑視観のただよう説明です。

自国の政府がなくなり、再起するために「列強への依存」なしにどんな活動ができますか? どっか南極・北極でも基地をつくりますか? この記念館では、政府の活動がいろいろな都市と活動家・グループで執拗に続けられたことを確認できます。

 女性たちは韓国婦人独立宣言を発表し(1919年)、次の新しい政府では男性と同等の権利を認めた政府をつくると唱っています。同時代の平塚らいてうのように女性は男性を支える補助者から解放されるのでなく、男性と同様に独立のために戦う主体としての同権を唱っています。もちろん新しい政府は君主政を否定した民主共和国である、という画期性もあります。日本は天皇制の時代ですよ。これらの主張は現在の大韓民国憲法に活かされています。

 この記念館の屋上に上ると、下に「西大門(さいだいもん)刑務所」が見えます。ここの裁判で死刑となったのは少なくとも493人(1908~1945年) です。この数字には拷問・病気などによる獄中死は数えてありません。晴れた日でしたが、赤煉瓦から怨念がわきあがっているように見えました。

──2日目──
  景福宮の北の奥に乾清宮(けんせいきゅう)があり、ここで高宗の妻・明成皇后(ミョンソンファンフ、閔妃、びんひ)がいて、1895年、外交官・三浦梧楼(みうらごろう)が図って日本軍守備・警察官、日本人壮士(大陸浪人)48名を使い殺傷し、死体に石油をかけて焼きます。翌年、形式的な裁判もどきを日本でやり全員無罪としました。凶悪そのものです。今の日本でいえば、皇居を襲い、雅子さんを殺し焼くことです。この華やかな景福宮で日本のやったことの醜悪さは際立っています。わたしたちが乾清宮の前に行くと、この日は行事があり見学できません、とのことでした。

 途中から大学生も参加して20名くらいになり、専用バスで西南に南下しました。日清戦争で日清両軍の初戦地(白石浦ペクソクポ・牙山アサン)に行くと、戦争中とちがい海が後退して今は畑になっている静かな田舎です。しかし、こにあった人家・役所の金・穀物を奪い、衣服・器をこわし焼いていく、「脅かし辱しめられたことは言葉では言い表せないほど」と記録されることになります。
 さらに南下して、泰安(たいあん)の「甲午東学革命軍追悼塔」に向かう。この近くで多くの農民兵が日本軍のスナイドル銃(飛距離1800m)と村田銃(2400m)で斃(たお)されました。1挺[ちょう]で200人から300人が倒せた。銃弾は頭蓋骨を砕き、腰を破壊した。農民軍の武器は竹槍と火縄銃(50〜100m)でした。これは交戦というより日本軍による一方的な虐殺です。

(火縄銃と竹槍)

──3日目──
 さらに近くの泰安(たいあん)東学農民革命記念館、牛金(禁)峙の戦闘地に向かいます。
 熊津洞(ウンジンドン)に「ソンチャンベミ(「死体が埋葬された田んぼ」という意味)」の碑が立っています↓。

またいくつかの農民の埋葬彫刻がありました。

 全琫準の方針は「刀に血を染めずに敵に勝つことを最上とする。やむを得ず戦う際には、可能な限り人命を傷つけないことを尊ぶ」でした。しかし日本の「東学党討滅大隊」(後備歩兵独立第十九大隊)の南小四郎は、陸軍参謀次長・川上操六の命から「悉(ことごと)く殺戮(さつりく)すべし」を実行します。兵士は「百発百中、実に愉快な気分だ」と戦況を報告しています。

 昼と夜に地元のレストランに行きましたが、とくに夜は地元の東学に関連した方々が集まり、「遺族」として発言されました。「遺族」? と初めは不思議でしたが、東学農民の戦いは、たんなる「農民反乱」ではなく、政府に代わって抗日戦をたたかったひとたちの「遺族」なのです。かつては謀叛を起した「賊」でしたが、今は韓国政府に抗日戦をたたかった(勇士)「遺族」として評価してほしいと要望を出しています。なるほど! 実際、東学農民戦争は第一次と第二次があり、この第二次は日本軍の景福宮占領に呼応して農民たちが立ちあがったものでした。

 レストランは経験豊富な旅行会社と地元の協同でやっているため、韓国客が行かないところに行きます。韓国料理を味わう機会です。キムチはもちろん出されますが、中には日本で味わえないくらい辛いものもあります。自分が慣れないから仕方ないのかとハーハー吹いていると、近くにいた韓国人もハーハー吹いているので、自分だけじゃないんだと安心しました。韓国酒マッコリもレストランがちがう毎にちがう味が味わえます。キムチもいろいろです。海苔(のり)・ご飯・葉・汁との組み合わせもいろいろです。

──4日目──

 東学農民戦争の指導者・全琫準(ぜんほうじゅん、チョン・ボンジュン)の古宅がある井邑(いゆう、チョンウプ)に向かいます。簡素な茅葺き屋根の農家です。私塾の教師で、儒学・医学・国際法・風水の知識をもつ放浪知識人とでも呼ぶべきひとでした。古阜(こふ、コブ)の役人の農民収奪に怒って抗(あらが)い獄死した父をもち、農民の訴えを書面にして役所にもっていく弁護士のような仕事をしていました。しかし訴えは聞き入れられず、蜂起を決意します。古宅はなんとも穏やかな農家のすがたですが、優しいひとは戦いを決意します。みなさんが学ぶ教室の先生はデモに出ますか? 言っていることを行動で表しますか? ほんとうに優しいひとは戦いに出ます。
 

 ↑全琫準と20人の農民が決起を期した集会を開き、それを記念した東学革命謀議塔が立っていました。

 さらに激戦地・公州に向かいます。公州市南部の「牛金峙(ウグムチ)」は、農民軍と日本軍・朝鮮官軍と東学農民軍において繰り広げられた最大激戦地です。
 ここは今は東学農民革命紀念公園になっていて、種々の教材になる塔・彫刻・展示館が建っています。朝鮮半島で一道以外の全道で農民の抗日戦があったことも示されています。日本でも以前は東学農民戦争は全羅道だけの反乱とみていたのが、今は半島全体での運動だったことが分かってきました。
 各地で戦跡の城・山・坂道を歩きましたが、その地方毎に博士号をもつ研究者がガイドをしてくれます。最新鋭の研究に接することになります。主たるガイドの朴孟洙さんは、若い博士たちを紹介するときに、この方はわたしのこれこれの説を否定された方で、と、こともなげに解説されるので聞いているわたしたちは、なんと躊躇いのないフランクな学者かと感嘆します。

──5日目─
 今日は光州市南部の羅州(らしゅう、ナジュ)へ行きます。ここは南小四郎の指揮する歩兵第十九大隊の駐屯地で、捕虜にした農民を拷問にかけ次々と処刑して680名の死体をつくりました。平らな畑は「人骸累重」とよばれるくらいに小山をなし、埋葬するのに3年かかったという。今ここに小学校(↓)があり、柵の向こうの畑が死体の積まれた地域でした。仮借ない処刑、その残虐性に居たたまれない心境にに陥るのは当然でしょう。この殺害は上等兵が残した「陣中日誌」でも記されています。

 この羅州市に、東学農民軍犠牲者を悼む碑があります。中塚明(奈良女子大学名誉教授)や井上勝生(北海道大学名誉教授)を中心とする日本の歴史学者と、韓国の市民によった建てられました(2023年)。碑文には日韓両国語で「日本軍の全員殺戮作戦によって凄惨な犠牲を被った過去の深い傷をもつ羅州を未来の共生、平和の羅州にしよう」という文言が刻まれています。これは民間人である韓日市民が建てたものですが、本来は日本政府が建てるべきものでした。

 ガイドと講師陣の豊かさは、まるで秋季大学講習会みたいなものでした。帰国してから、旅の前にも少し勉強してから行けばよかった、とおもいます。吸収するものがもっとたくさんあったはずです。今年もあります。21回目です(↓)。
http://www.fits-tyo.com/library/5acac5634f6687202984c6e2/6a4729861018437451da6c98.pdf

2026年度・歴史総合・世界史探究──共通テスト

歴史総合・世界史探究  わたしの解説は「」から。

第1問 歴史総合の授業で「近現代における都市の変容」という主題について班別学習をした。次の文窃A·Bを読み、後の問い(問1〜8)に答えよ。(資料には省略したり改めたりしたところがある。)(配点25)

 本田さんとマルタンさんの班は、近現代における大都市の変容について考察するためにパリと東京に着目した。最初に、フランスの第二帝政下で行われたパの都市改造について調べ図1・2を基に、ノート1にまとめた。

ノート1 パリにおける社会階陪による住み分け

・図1は、19世紀前半のパリの典型的な集合住宅の姿である。2階や3階は間取りが広く調度品も豪華だが、4階や5階は狭く、調度品も少ない。
・19世紀半ば以降フランス皇帝の主導の下に、積極的な対外政策とともにパリの大規模な都市改造が行われた。この改造の結果、図1の住のあり方は次第に姿を消していった。図2は、1872年の時点で、19世紀前半とは異なる住み分けが存在することを示している。

問1 図1・2及びノート1から読み取れる事柄や、その背景について述べた文として最も適当なものを次の①~④のうちから一つ選ぺ。[ 1 ]

 ① パリでは、高度情報化社会が成立するなかで、富裕層と労働層は地域的な住み分けから、垂直的な住み分けに移行した。
 ② パリでは、高度情報化社会が成立するなかで、富裕層と労働者層は、垂直的な住み分けから、地域的な住み分けに移行した。
 ③ パリでは、工業化が進展するなかで、富裕層と労働者層は地域的な住み分けから、垂直的な住み分けに移行した。
 ④ パリでは工業化が進展するなかで、富裕層と労働者層は、垂直的な住み分けから、地城的な住み分けに移行した。

 問い方が日本人には分かりにくい「垂直的な住み分け」と「地域的な住み分け」の区別です。パリに行けば分かりますが、こんなにビルのようなアパート(集合住宅)多いのかとビックリします。階層的な「垂直的な棲み分け(下が富裕層、上が労働者層)」は少なくなったとしても、建物(アパルトマン)は、中心部と7区や8区、16区の高級パート以外は労働者層が住んでいます。

正文は④。①②にある「高度情報化社会」は20〜21世紀の電話・ネットが広がった社会のことであり、19世紀段階では言わない表現です。③④の「工業化が進展」が19世紀を表しています。

問2 ノート1中のフランス皇帝が在位している間に起こった、フランスの対外関係上の出来事について述べた文あ・いの正誤の組合せとして正しいものを、後の①~④のうちから一つ選べ。[ 2 ]
 あ フランスは、長州藩に対して、報復の砲撃を行った。
 い フランスは、イギリス・ロシアと協定を結び、オスマン帝国領の分割を取り決めた。

 ① あ─正  い─正  ② あ─正 い─誤
 ③ あ─誤  い─正  ④ あ─誤 い─誤

 この「皇帝」はもちろんナポレオン3世(1852~1870年)です(3世の即位は「ナポレオンさん、愛1852──中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』以下『ワン』)。1864年の四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)には、英仏米蘭が参加し、長州藩を攻撃した事件です。これを知らなくても「い」が「オスマン帝国領の分割」は第一次世界大戦でトルコが敗戦しないと起きませんから、時代が3世とちがうことで推理できます。もう3世は生きていません。3世の対外派兵は図にあるとおり。

 正解は②。

問3 本田さんは、次に、江戸・東京における都市構造の変化について、パネル1にまとめた。その内容として誤っているものを、パネル1中の下線部①~④のうちから一つ選べ。[ 3 ]

パネル1
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・江戸の状況:江戸では、居住区域が身分ごとに分けられ、人口は18世紀に100万人を超えていた。その日常生活を支えるために、①物資が南海路や東廻り航路(海運)により各地から江戸に運ばれていた。
・旧町人地での文明開化:江戸から東京に改称された②明治初期には、銀座に煉瓦(れんが)街が建設され、文明開化のシンボルとなったが、そうした動向は、旧町人地の中でもごく一部の地域に限られた。
・旧武家地での都市計画:③政府は欧米諸国との条約改正を実現するため、欧化政策の一環として鹿鳴館を建設した。また市区改正という都市計画事業で道路が整備され、旧武家地の都市化が進んだ。
・郊外の宅地化:旧町人地の大半では、木造家屋が建ち並ぶ伝統的な商業街や、私的な居住空間が維持されたが、④日露戦争までに、郊外に文化住宅が建てられ、和風・洋風両方の生活様式が取り入れられた
──────────────────────
考察:パリと東京それぞれで近代化が進み、都市構造も変容した。

 「日露戦争まで」がおかしい(『ワン』語呂→日露戦争に、行1く9お0し4ん)。「文化住宅」とは大正(『(日本史)ワン』→時19 豆1腐2)・昭和初期にガラス戸・赤瓦の三角屋根の洋風応接間をもつ住宅のこと。日清戦争・日露戦争は明治の戦争です。第一次世界大戦は大正の戦争。正解は④。

文化住宅

問4 マルタンさんは、さらに東京都の住宅着工戸数と融資(ローン)との関係に興味を持ち、公定歩合(日本銀行が市中銀行に貸し出す際の金利)と新規住宅着工戸数に関するグラフ1を作成した。グラフ1から読み取れる事柄あ·いと、その背景X·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①~④のうちから一つ選べ。[ 4 ]


グラフ1から読み取れる事柄
  1970年代に、公定歩合と新規住宅着工戸数は、同じ向きに変化した。
  1990年代に、公定歩合は低下し、新規住宅着工戸数は伸びずに横ばいとなった。

背景
 X 地価や株価の急落により、平成不況と呼ばれる低成長期となった。
 Y 「列島改造」を掲げた内閣が、公共投資を拡大した。

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 グラフを見たら判断できる容易な問題です。「列島改造」を掲げた内閣は田中角栄です。世界史なら田中訪中・日中国交正常化が大事で、その年に1972年に「列島改造論」を発表しています(『ワン』語呂→「田中、中国、行1く9夏72)。(『(日本史)ワン』語呂→「平成」は「時19 白[はく]89)。正解は③。

 坂井さんの班は、植民地化されたアジアの都市をテーマにして話し合った。
坂 井:ⓐ東南アジア各地は、ヨーロッパ諸国によって植民地化されています。例えば、フランスは、19世紀後半に、まずサイゴンを拠点にして、東南アジアの植民地化を進めていきます。
永 島:サイゴン近隣のメコンデルタは、米穀生産が盛んな地域ですね。植民地化以前から、この地域で生産された米穀は、華僑·華人によって東アジアや東南アジアの各地に向けて輸出されていました。
吉 村:1889年のサイゴンにおける現地の人以外の人口構成を見ると、華僑・華人の方が、主に植民地官僚と商人であったフランス人よりも多く、華僑・華人の活動が継続していたことが読み取れます。植民地化されて、変わったところと、そうでないところがあるのですね。
先 生:考察が深まっていますね。植民地とーロに言っても、それぞれの地域の事情や、植民地化を進める宗主国の都合によって、状況は異なります。いくつか主要な都市を取り上げて、比較してみましょう。

問5 下線部ⓐについて述べた文として最も適当なものを、次の①~④のうちから一つ選べ。[ 5 ]

 ① インドネシアでは、オランダから輸入される、特定の農産品への依存が進んだ。
 ② スペインは、マラッカを植民地の拠点とした。
 ③ ビルマ(ミャンマー)は、英領インドの一部として植民地化された。
 ④ カンボジアは、英仏植民地の緩衝地帯として、独立を保った。

 正解は③。東南アジアのどこの国が英仏米蘭の植民地になったのか、という問いです。英領インド帝国の東隣にあるビルマ(ミャンマー)を3度の英緬(えいめん)戦争(イギリス・ビルマ戦争、緬=ビルマ)によって取り上げています。①「特定の農産品への依存」はなく、むいろ強制栽培制度で輸出用の作物を安く買い上げて儲けています、②マラッカはイギリスが取り上げます。マニラと間違わないように、フィリピンの首都はアメリカがスペインから取り上げます。④フランスがとりあげてベトナム・ラオスとともに仏領インドシナ連邦をつくります。

問6 吉村さんは、朝鮮半島の京城(現ソウル)が日本の統治によって変容した様子を調べ、パネル2を作成した。パネル2に関して述べた文あ~えについて、正しいものの組合せを、後の①~④のうちから一つ選べ。[ 6 ]

 あ 清渓川の南側には、日本語の地名や日本の百貨店が見られる。
 い 朝鮮総督府が移転したのは、日本人住民の割合が大きい地域だった。
 う パネル2が示しているのは、三・一独立運動後の京城である。
 え パネル2の時期に、日本の政府開発援助(ODA)により工業化が進んだ。

 ① あ・う  ② あ・え  ③い・う  ④ い・え

 正解は①。「あ」は地図を見ての通り。「い」はパネル2の地図に「旧朝鮮総督府(1910年)」から北部に「(新)朝鮮総督府」に移ったことを意味している(1926年1月)。地図の右に「王宮であった景福宮内に新たに建てられた」とあるが、周辺にある景福宮の建物は示されていない。写真でみたらわかるように光化門クァンファムン)と勤政門(クンジョンムン)の間に朝鮮総督府庁舎が建てられます。日本の傲慢さが見えるような建て方です。

これらの問から日本軍が不法な武力行使を行い(朝鮮王宮占領事件、1894年7月23日)、国王の高宗を捕虜にし、大臣を脅迫して朝鮮政府軍の武装解除を行い、国王に清軍撤退を言わせます。宣戦布告をしていない国王を擒(とりこ)にして朝鮮の独立を守るために日清戦争をやる? トランプがベネズエラ大統領を誘拐した事件と似ています。この侵略が全土に知られ、反日の抵抗運動が全国でおきることになります。つまり日清戦争は東学農民戦争が原因ではなく、東学農民はすでに朝鮮政府と全州和約を結んでいて故郷に帰っていたのが、再起(第二次東学農民戦争)することとなりました。日本の教科書(詳説)では「全琫準らが甲午農民戦争(東学党の乱)をおこすと、両国軍が出兵して日清戦争となった」とこの事件を隠しています。
 公文書に書いてあります→https://www.jacar.go.jp/exhibition/jacarbl-fsjwar-j/smart/main/18940723/index.html
 日本史の教科書には書いたものもあります。

問7 永島さんは、第二次世界大戦後の香港の経済発展を支えた背景として、1950年代に着目してノート2を作成した。ノート2中の空欄[ ア ]・[ イ ]に入る語句の組合せとして正しいものを、後の①~④のうちから一つ選べ。[ 7 ]

ノート2
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・香港はもともと中継貿易港として発展していた。イギリス本国からやってきた人は少なく、人口の大部分を占める現地の人のほとんどは、周辺から入ってきた中国人であった。1931年の調査では、非中国人人口は3万人弱で、香港の人口全体の約3% に過ぎなかった。
・香港には内戦から逃れてきた人々がさらに流入し、人口は60万人(1945年8月)から250万人(1955年)へ急増した。
・中国の人民義勇軍が[ ア ]に介入すると、アメリカ合衆国はイギリスに、中国との貿易を停止するよう要求した。この結果、香港と中国との貿易は途絶えたため、香港では、繊維製品やプラスチック製品などを生産する、労働集約型製造業が発展した。
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考察:戦後香港の経済発展の背景には[ イ ]があった。

 ① ア─朝鮮戦争   イ─重工業への優先投資
 ② ア─朝鮮戦争   イ─周辺からの労働力の流入
 ③ ア─ベトナム戦争 イ─重工業への優先投資
 ④ ア─ベトナム戦争 イ─周辺からの労働力の流入

 [ア]の前に「人民義勇軍」「に介入」という文があり、これは朝鮮戦争を示唆します。教科書(詳説)に「国連軍が共和国軍に反撃し、中国国境近くまで追撃すると、中国は共和国側を支援して人民義勇軍を派遣した」とあります。自国とは直接関係のない戦争に参戦するので「義勇軍」という表現を使います。[イ]はもしベトナム戦争であるとすると理由が分かりません。そっけない文章になります。「経済発展」の根拠になるとはおもえません。日本は朝鮮戦争でもベトナム戦争でもアメリカの基地になったので特需を受けています。むしろ「イ─周辺からの労働力」はノート2の「香港には内戦から逃れてきた人々がさらに流入」と連携します。内戦とは日本軍撤退後の国共内戦(1945〜49)です。正解は② 

問8 班活動のまとめとして、これまで取り上げた植民地の都市(1880 年代のサイゴン、1930年代の京城、1950年代の香港)について、当時の住民構成が分かるグラフ2〜4を用意し、メモを作成した。メモ1・2の正誤について述べた文として最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 8 ]


メモ1
 グラフ4は、1950年代の香港の住民構成を示していると考えられる。ノー2の内容から、1950年代の香港で現地の人が占める割合は、1931年よりも減少しているためである。

メモ2
 グラフ3は、1880年代のサイゴンの住民構成を示していると考えられる。グラフ3は、グラフ2・4と異なり、その人口の約4割を華僑・華人が占めているためである。

 ① メモ1のみ正しい。
 ② 二つとも正しい。
 ③ メモ2のみ正しい。
 ④ 二つとも誤っている。

 メモ1(1950年代の香港)は「1931年よりも減少」がノート2に書いてある「60万人(1945年8月)から250万人(1955年)へ急増」と合わないからまちがい。正解は②。

第2問 世界史探究の授業で、世界史上における様々な法のあり方とその運用をテーマに生徒たちが班別学習を行った。次の文章A~C を読み、後の問い(問1〜7) に答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。)(配点21)

 1班は、中国唐代の法について調べ、夜間の通行に関する資料1と、それに基づいて作成された、裁判の模擬問答(資料2) を見つけた。

資料1
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夜間に通行した者は、むち打ち20回とする。理由がある場合は罪に問わない。理由がある場合とは、公務で急ぐ時や、疾病などをいう。

資料2
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問:甲が夜中に出歩いていたところ、警備の役人が彼を捕らえた。公務があって早急に朝廷に参内したいと釈明したが、役人は禁令を犯したという理由で、聞き入れなかった。
答:犯罪防止のためにこの法があるのである。甲は公務への尽力ばかりを考え、その時間を考えることにうかつであった。朝廷への参内は、色が識別できる時刻に行い、夜間通行禁止の規則に従うべきである。
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中 田:資料1[ ア ]の一部で、夜間の通行を禁止するとともに、違反した場合の処分を定めています。
佐 伯:資料2は、白居易が官僚を目指す際に、準備のために自作したものだそうですが、裁判の模擬問答を作ったのはなぜでしょうか。
先 生:官僚になると、行政のほか司法を担当することもあったからです。当時の官僚には、儒学の知識や詩文の素養だけでなく、判決文の作成能力、容姿や言葉遣い、文字の美しさなども要求されました。韓愈や柳宗元も、そのような点を評価されて官僚になった人々です。
中 田:資料2の甲の釈明は、資料1を踏まえると、認められるように思ったのですが、白居易は、正当な理由とは認めなかったんですね。

問1 前の文章を参考にしつつ、[ ア ]に入る語句あ・いと、資料2の「答」に見られる白居易の考えX·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 9 ]
 [ ア ]に入る語句
   令
   律

 白居易の考え
 X 甲の釈明は正当であり、夜間の通行禁止に違反しない。
 Y 甲の釈明は正当ではなく、夜間の通行禁止に違反する。

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 律は刑法です。規律・戒律・法律はみな刑法が中心。令は行政法です。具体的には均田法・租庸調・府兵制(軍防令)などを含んでいます。正解は④。

問2 前の文章を参考にしつつ、唐代の官僚の特徴について述べた文として最も適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 10 ]

 ① 文治主義の下、文人官僚が政治を担った。
 ② 封建制の下、世襲の諸侯が政治を担った。
 ③ 儒学の教養を身につけた官僚の中には、古文の復興を主張する者もいた。
 ④ 中央アジアや西アジア出身の色目人と呼ばれる人々が、財政面で活躍した。

 「唐代の」というところに限定が入っています。①「文治主義」は宋代以降の特徴です。②「世襲の諸侯による封建制は「周代」です。④「色目人」は元朝です。正解は③。「古文の復興」は、韓愈と柳宗元の二人の名文家からです(環[韓]流[柳]する古文復興と覚える)。

 2班では、中世ヨーロッパにおける慣習法についての発表を準備している。
小 澤:中世ヨーロッパの農村社会についてもっと詳しく知るために、13世紀のフランス北部ボヴェジ(ボーヴェ)地方でまとめられた『ボヴェジの慣習法』(資料3・4) を持ってきたよ。

資料3
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3月に麦を播種(はしゅ)すべき土地は、播種のために黎耕(りこう)された後、禁区となる。また、牧草地は、3月半ばから草が刈り取られる時期まで、囲い地は、全季節にわたり、森も全季節にわたって、禁区となる。牧草地では、どの季節においても、豚は許されない。なぜなら豚は、土を掘り返すことで牧草地を悪化させるからである。

資料4
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ボヴェジでは、農奴は他の地方に比べて丁重に扱われてきた。彼らは自らの領主に対して、慣習で定められた貢納の義務を果たす限りにおいて、その領主の裁判権の及ばない所へと奉仕しに行くことができ、また移り住むことができるのである。

永 井:資料3では、土地の利用方法について、具体的な規則が定められているね。
中 島:そう言えば11世紀頃から農村では[ イ ]と授業で習ったよ。
小 澤:ⓐその時期から新しい農具が普及し、耕地利用の仕方が変わっていったことが、農村社会の変化を促したんだよね。
中 島:資料4では、授業で学んだ荘園における農奴の立場とは、異なる立場が見て取れるよ。
永 井:慣習法を見ることで、中世の農村社会の具体的な状況が分かって興味深いね。

問3 前の文章を参考にしつつ、会話文中の空襴[ イ ]に入る文あ・いと下線部ⓐの状況の根拠となるものが表現されている図X·Y とについて、最も適当なものの組合せを後の①〜④のうちから一つ選ぺ。[ 11 ]

[ イ ]に入る文
  耕作地や牧草地が共同で利用されていた
  大地主が村の共有地を手に入れ、大農場にしていた

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 「あ」が三圃制農法の畑を季節毎に三分して利用する方法を表していて。図としてはXが該当します。Yのミレーの絵は「落ち穂拾い」で該当する文がありません。「い」の文はエンクロージュア(囲い込み)を指しています。中世ではなく近世(16〜18世紀)に起きます。牧羊のための牧場づくりです。正解は①。

問4 前の文章を参考にしつつ、中世ヨーロッパの農奴について述べた文として最這当なものを次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 12 ]

 ① 荘園では、農奴に移住の自由があったとされ、資料4からはボヴェジ地方の農奴には、条件付きで移住の自由が認められていたことが分かる。
 ② 荘園では農奴に移住の自由があったとされるが、資料4からはボヴェジ地方の農奴には、移住の自由がなかったことが分かる。
 ③ 荘園では、農奴に移住の自由がなかったとされるが、資料4からはポヴェジ地方の農奴には、条件付きで移住の自由が認められていたことが分かる。
 ④ 荘園では農奴に移住の自由がなかったとされ、資料4からも、ボヴェジ地方の農奴には、移住の自由がなかったことが分かる。

 「前の文章」には「貢納の義務を果たす限りにおいて、……移り住むことができる」とあり、条件付きで移動の自由が認められています。正解は③。

C 3班は、博物館の「世界史の中の法廷」展を見学した。そこに、19世紀末の資料5・6と地図、それらについて解説したパネルが展示されていた。

資料5
───────────────────────
原告は、被告に対して銀貨27キルシュの支払いを要求した。しかし、被告は、これを拒否した。そこで、原告側の2人の証人が証言に立ち、私の面前でアッラーに対して証言したので、その証言は承認された。私は、原告の訴えを認め、被告に支払いを命じる判決を下した。

資料6
───────────────────────
ブラヴァの[ ウ ]領事であるカペッロ氏が、2棟の館をヌーライニ氏から購入した。それらの総額は、銀貨427キルシュであった。その全額を売主が受領したので、買主は、売却物を合法的に入手した。この売買は正当であり、双方の合意と自由意志による。このことについて、5人が証言した。それにしても、証言者としてはアッラーで十分である。

パネル
───────────────────────
地図について
 19世紀末以降、エチオピアの周辺地域は、列強によって複雑に分割され、各国の植民地となっていきました。aはフランス領、 bは[ ウ ]領、C は[ エ ]領です。
資料について
 地図中のブラヴァのカーディー(イスラーム法に基づいて裁定を下す裁判官)が司(つかさど)っていた法廷の記録です。これらが書かれた19世紀末、が位置する地域は[ ウ ]の保護領でしたが、保護領における司法のあり方は一般に多様なものです。文中の「キルシュ」は貨幣の単位です。
・資料5は、ブラヴァ周辺の住民間の金銭をめぐる係争の記録です。原告、被告、証人はムスリムです。文中の「私」はカーディーを意味しています。
・資料6は、[ ウ ]領事がブラヴァにある家屋をムスリムの住民から購入したことを証明する記録です。証言をした5人もムスリムです。末尾にある「それにしても、証言者としてはアッラーで十分である」は、『クルアーン(コーラン)』の一節で、 ここでは、定型表現として引用されています。

問5 パネル中の空欄[ ウ ]・[ エ ]に入る国名の組合せとして正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 13 ]

 ① ウ─イギリス  エ─ドイツ
 ② ウ─イギリス  エ─イタリア
 ③ ウ─ドイツ   エ─イギリス
 ④ ウ─ドイツ   エ─イタリア
 ⑤ ウ─イタリア  エ─イギリス
 ⑥ ウ─イタリア  エ─ドイツ

  b[ ウ ]領とc[ エ ]領、とあり、エチオピアを囲んでいる「b」(エリトリアとソマリランド)はいずれムッソリーニがこのエチオピアに侵入して取りあげます(エチオピア戦争)。エチオピアの南cは英領ケニア。

正解は⑤。

問6 3班の生徒たちは、見学を終えた後、メモ1・2を作成した。前の文章を参考にしつつ、それぞれのメモの正誤について述べた文として最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 14 ]

メモ1
 資料5から判断すると、この法廷では、金銭の支払いをめぐる係争に判決を下す際、証人の証言が根拠にされていたと考えられる。

メモ2
 資料5・6から判断すると、この法廷では、宗主国の法律ではなく、シャリーアに則して裁定が下されていたと考えられる。

 ① メモ1のみ正しい。
 ② メモ2のみ正しい。
 ③ 二つとも正しい。
 ④ 二つとも誤っている。

 メモ1には2人の「証言を根拠」に判決しています。メモ2では、シャリーア(イスラーム法)に合ったこととして「合法的に入手」と表現しています。正解は③ 。

問7 班別学習の後、 さらに探究を続けた江上さんは、古代ローマの法である資料7を見つけ、それについて調べた内容をノートにまとめた。ノート中の空欄[ オ ]に入る人名と[ カ ]に入る班の組合せとして正しいものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 15 ]

資料7
───────────────────────
誰のところであれ、他人の権利に属するコロヌスが見つかった場合には、その者はそのコロヌスを原籍地に還(かえ)すだけでなく、それまでの期間にコロヌスに課せられる人頭税の負担をも受け入れなくてはならない。また、逃亡をもくろむロヌス自身は、鉄鎖によって奴隷の状態へと縛り付けられるのが適当である。それは、自由人にふさわしい責務を、奴隷状態を宣告することで彼らに果たさせるためである。

ノート
───────────────────────
・資料7に現れるコロヌスは小作人を意味する。[ オ ]帝は、資料7の法を発布することで、コロヌスの地位を法的に確定させようとしただし、この法の実効性や有効範囲については、様々な議論がある。
・農業に従事した人々への制約については、[ カ ]の学習内容と比較することができる。

 ① オ─コンスタンティヌス カ─1班
 ② オ─コンスタンティヌス カ─2班
 ③ オ─コンスタンティヌス カ─3班
 ④ オ─カラカラ      カ─1班
 ⑤ オ─カラカラ      カ─2班
 ⑥ オ─カラカラ      カ─3班

 「コロヌス……法的に確定」をした皇帝はミラノ勅令のコンスタンティヌス帝です(『ワン』語呂→ミラノ、ミ313)。カラカラ帝はこの皇帝より前に生きた暴君です。全自由民に市民権(212年、『ワン』語呂→市民権、ふ212)を与えたことと、キリスト教徒迫害で知られています。なに班かは、わかりにくい問いですが、「農業に従事した人々への制約」とあれば、農奴の自由制約について調べた問3・問4の中世の荘園と関連します。それが「[ カ ]の学習内容と比較」です。正解は②。


第3問 世界史探究の授業を受けた生徒たちが、歴史に触れるきっかけや、歴史を伝える手段について考えている。次の文章A〜Cを読み、後の問い(問1〜6) に答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。) (配点18)

  生徒たちが放課後に、フランス革命を描いたマンガについて話し合っている。

中 山:『ベルサイユのばら』というマンガを読んでみたよ。主人公の一人のオスカルは、作者が創作した架空の貴族の女性だけど、図1のように、 民衆側に立って、革命の発端とされる襲撃に参加するんだ。
星 野:@現実の革命の過程でも、女性が大きな役割を果たす場面があったね。でも、 どうしてオスカルは、男装しているのだろう。
中 山:オスカルの父はフランスの将軍で、娘しか生まれなかったから、自分の地位を継がせるために、末娘のオスカルを男性として育てたんだよ。
星 野:図2では、 オスカルが父親に「普通の女性として育っていたら、私も15歳になる頃には嫁がされたのか」という趣旨のことを言っているね。
中 山:当時の貴族の女性は、家父長である父親や夫に対して、従属的な立場に置かれていたとえられるね。革命後、ナレオン法典によって、[ ア ]。過去の人々の、記録に残されない感情や葛藤も描けるのが、フィクション作品の強みかもしれない。
星 野:とはいえ、具体的で感情移入もしやすい分、事実と異なる描写に気付きにくい場合もあるから、注意は必要だよね。

問1 次の文Ⅰ・Ⅱ は、 フランス革命に関連する出来事について述べている。図1に描かれている出来事と、文Ⅰ・Ⅱとについて、古いものから年代順に正しく配列したものを後の①〜⑥のうちから一つ選べ。[ 16 ]

 Ⅰ ロベスピエールらが、公安委員会を通じて、反対派を粛清した。
 Ⅱ フランスが、 アメリカ独立戦争に参戦した結果、財政難に陥った。

 ① Ⅰ─Ⅱ─図1
 ② Ⅰ─図1─Ⅱ 
 ③ Ⅱ─Ⅰ─図1
 ④ Ⅱ─図1─Ⅰ
 ⑤ 図1─Ⅰ─Ⅱ
 ⑥ 図1─Ⅱ─Ⅰ

 革命はまず「Ⅱ フランスが、 アメリカ独立戦争に参戦した結果、財政難」があり、改革のための議会・政府が代わります。三部会を解散して国民議会→立法議会→国民公会→総裁政府→統領政府→帝政、と。これを「国立公・総統帝」と一気に覚えます(『各駅停車』──西欧近代史p.281)。問題の「I 公安委員会」は国民公会で決めたもの。バスティーユ牢獄の襲撃で革命に火がつき、国民議会ヴェルサイユからパリに移して開くことになりました。正解は④。

問2 会話文中の下線部ⓐに関して述べた文あ・いと、空欄[ ア ]に入る文X·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 17 ]

下線部ⓐに関して述べた文
  女性を中心とした多数の民衆がヴェルサイユに行進し、国王一家をパリへ連行した。
  オランプ=ド=グージュは、ラ=ファイエットらとともに「人権宣言」の起草に関わった。

[ ア ]に入る文
 X 家父長権は肯定されたよ
 Y 家父長権は否定されたよ

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 「あ」は「ヴェルサイユ行進」と呼ばれ、貧窮した婦人たちがヴェルサイユ宮殿から国王夫妻をパリのテュイルリー宮に移す事件のこと。正しい文章。しかし、「い」のグージュは別の人権宣言「女性の権利宣言(1791)」を刊行したひと。しかし「ナレオン法典によって」「X 家父長権は肯定」されます。フランスで家父長権が否定されたのは1970年の民法によって。正解は①

B 生徒たちが、翌週の世界史探究の授業後に、先生に質問している。
星 野:先日、歴史を題材にしたマンガの話題になりました。このように私たちが歴史に触れる媒体には、他にどんなものがあるのでしょうか。
先 生:ⓑ過去や同時代の出来事を伝える手段としては、文字と文章が、広く用いられてきました。ただし最近では、絵画や風刺画が歴史上果たした役割や、歴史を知る上で果たす役割も注目されるようになっています。
中 山:そう言えばオスマン帝国支配下のキオス島で起こった事件を「虐殺」として描いた絵画が、その臨場感ゆえに、ヨーロッパの世論に影響を与えたと聞いたことがあります。
先 生:そうですね。絵画や風刺画などの視覚的効果が、特定のメッセージや歴史像を増幅する可能性も想起すべきでしょう。
星 野:根棒外交を展開したアメリカ合衆国大統領については、巨人の姿で描かれた風刺画で、強硬な外交姿勢が強調されていますね。
先 生:とはいえ、こうした特定の主張の介在は、文章の場合もあり得る話です。どのような手段に関しても、作者など、発信者側の意図や立場にも留意する態度が求められるでしょう。
中 山:記念碑や彫像などもまた、歴史に触れる手段になりそうですね。

問3 下線部ⓑの具体例について述べた文として誤っているものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 18 ]

 ① 『史記』は、支配者の年代記とその他の人物の伝記とを組み合わせた形式で記述された。
 ② ユーラシアの東西を広く扱った『集史』は、モンゴル語で著された。
 ③ ラス=カサスは、エンコミェンダ制の問題を告発する報告書を著した。
 ④ ランケは、残された史料の批判に基づく歴史学を追求した。

 『集史』は、モンゴル語ではなくペルシア語。モンゴル史を研究したいひとはペルシア語の勉強を。サファヴィー朝もムガル帝国も公用語はペルシア語です。③のラス・カサスの「エンコミェンダ制の問題」といっても酷使したインディオの虐殺
を告発したもの。大型犬でインディオを噛み殺させた。正解は②

問4 星野さんと中山さんは同時代の出来事を扱った絵画や風刺画に興味を抱き自分たちでも新たに幾つか調べてみた(図3・4) 。前の会話文を参考にしつつ、そのような絵画や風刺画に関連する内容について述べた文として最も適当なものを後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 19 ]

 ① 会話文では、「キオス島の虐殺」のように、視党的効果が大きい絵画においては、作者の立場や意図について考慮する必要がないとする見解が示されている。
 ② 会話文中に登場するアメリカ合衆国の大統領はラテンアメリカヘの干渉の一方で日露戦争の講和を仲介したことでも知られる。
 ③ コソヴォ紛争に伴う都市への空爆を題材とした図3は、事件への怒りを伝えている。
 ④ 図4でアフリカを縦断するように足を広げた人物の姿は、両足先の二つの地域を植民地化したフランスの自信を象徴している。

 ◆正解は②。セオドア・ローズヴェルトです。彼は日露戦争の講和(ポーツマス条約)を仲介しました。①意図は明快で、「臨場感ゆえに,ヨーロッパの世論に影響」のところです。③コソヴォ紛争(1998年)ではなく、ゲルニカ爆撃(1937年)を怒ってパリにいたピカソが描いたもの。④フランス→イギリス。エジプトも南アフリカもイギリスが植民地化しました。

 記念碑や彫像に興味を持った中山さんはカザフスタンの都市アルマティにある女性兵士像について調べパネルを作成した。

問5 グラフから読み取れる事柄あ·いと、その背景として考えられる文X·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 20 ]
 
 グラフから読み取れる事柄
 あ 1926 年から1939 年までに、都市の人口が10 倍以上増加した。
 い 1931年から1933年までに、総人口は100万人以上減少した。

 背景
 X 農業集団化によって農村は混乱し、各地で大量の餓死者が発生した。
 Y 世界恐慌によって発生した大量の失業者が、都市へと流入した。

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 「グラフから」で「い」はグラフで明らか。「100万人以上激減」が見られます。「背景」のY「世界恐慌(『ワン』語呂→恐慌、119229)」は1929年以降「大量の失業2者」は増えていますが、グラフでは「大量」というほど増えていません。
正解は③。

問6 中山さんのパネルを見た星野さんは、パネルの内容についてさらに調べ、メモ1・2 にまとめた。それぞれのメモの正誤について述べた文として最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 21 ]

 メモ1
 ソ連期のアルマティでは、十月革命の指導者の像が建てられた。ソ連期のカザフスタンでは、核実験によって、多くの住民に健康被害が発生していた。

 メモ2
アルマティの中心広場に建てられた女性兵士像のモデルとなった二人の女性兵土は、独ソ戦で命を落とした。

 ① メモ1のみ正しい。
 ② メモ2のみ正しい。
 ③ 二つとも正しい。
 ④ 二つとも誤っている。

 グラフ「あ」の「人口が10 倍」は見られない。「い」の「減少」は見られます。背景「メモ1」の健康被害、「メモ2」の独ソ戦(1941〜44年、『ワン』語呂→独ソ、独1941戦)は二人の女性も含み多くの戦死者を生みました。正解は③。


第4問 歴史上に見られた様々な「帝国」のあり方について、生徒たちが資料に基づいて探究している。次の文章A〜Cを読み、後の問い(問1 〜6) に答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。) (配点18)

ある日の世界史探究の授業で、先生が次の資料1・2を示した。
資料1
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スガンブリ族ヘカエサルが使者を送って、ローマ軍とガリアに戦争を仕掛けた者たちの引渡しを要求すると、彼らはこう返答した。「ローマ人のインペリウムはライン川までだ。カエサルの意に反してゲルマニア人がガリアヘ渡ることを、カエサルが不当と考えるなら、なぜカエサルは、自分のインペリウムや権限が、ライン川の向こう岸に及ぶことを求めるのか。」
先 生:資料1は、カエサルの『ガリア戦記』の一節です。
木 村:「インペリウム」という言葉が二度出てきます。この言葉は、英語の「エンパイア」の語源で、 日本語では「帝国」と訳されます。一度目の「インペリウム」については、ローマ人の「帝国」の領域はライン川までだった、という意味で理解できますね。
古 田:すると、ローマは[ ア ]のですね。しかし、二度目の「インペリウム」という言葉の意味は、それとは違う気がするのですが。
先 生:良い点に気づきましたね。「インペリウム」という言葉はもともと、この二度目のように、ローマの公職者が持つ「命令権」を意味していました。その後都市国家ローマの支配が拡大するなかで、各地に派遣された公職者の「命令権」だけでなく、その権限の及ぶ範囲も意味するようになります。
清 水:つまり、権限を表す言葉が後に地理的な意味も持ち、一度目の箇所のように、ローマの「支配領域」や「帝国」を意味するようになったのですか。
先 生:そのとおりです。そして帝政期にはローマが領域的な「帝国」であるという認識が定着し、その認識は、ローマ帝国が東西分裂して以降も変わらず続きます。資料2は、五賢帝時代に書かれた著作の一節です。ここから当時の「インペリウム」のイメージを読み取ってみましょう。

資料2
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アウグストゥス帝は、征服によって手に入れた王国のうち、わずかを除き奪っていた王位を元の王に返却するか、あるいは他の王国に併合させた。これら全ての王国をあたかもインペリウムの一部とみなして気を配り、年齢の上で幼いか、精神的に問題のある王には、彼らが成年に達するまで、あるいは健全な精神を取り戻すまで、いつも後見人を指名していた。

問1 前の文章を参考にしつつ、会話文中の空欄[ ア ]に入る文あ・いと、資料2から読み取れる内容X·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 22 ]

[ ア ]に入る文
 あ 元首政の開始とともに初めて「ローマ帝国」となったと言える
 い 共和政の時代から、「ローマ帝国」と呼べる存在だった

資料2 から読み取れる内容
 X アウグストゥス帝時代のローマ帝国は、支配下に入った諸王国の多くを直轄領とし、集権的な体制を確立した。
 Y アウグストゥス帝は、復活させた諸王国についても、帝国の一部とみなしていた。

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 「ア」に入る文の「あ」の「元首政の開始とともに初めて「ローマ帝国」は、教科書のローマ史の記事はそう書いてあるのですが、ここはあくまでこの問題の資料1の文から推理しなくてはならないので、カエサル(彼の暗殺は前44年、『ワン』語呂→カエル死44、元首政は前27年から、『ワン』語呂→元首、首に綱27)の生きていた時代から「インペリウム」の表現が使われていたことを踏まえて、正しい文章ととります。「X」の「諸王国の多くを直轄領」はまちがいで、資料2「王位を元の王に返却」とあるように王国を許容しています。正解は④。

問2 次の図Ⅰ・Ⅱ は、ある時代にローマ人やローマ皇帝の「インペリウム」が直接及んだ領域を示している。前の文章を参考にしつつ、資料2 が書かれた時代の領域と、図Ⅰ・Ⅱとについて古いものから年代順に正しく配列したものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 23 ]

 ① Ⅰ─Ⅱ─資料2
 ② Ⅰ─資料2─Ⅱ 
 ③ Ⅱ─Ⅰ─資料2
 ④ Ⅱ─資料2─Ⅰ
 ⑤ 資料2─Ⅰ─Ⅱ
 ⑥ 資料2─Ⅱ─Ⅰ

 地図Iはまだアフリカの北岸が領域にない時期で、カエサル以前の時代の地図。地図Ⅱはイベリア半島の南岸しか領域がないのは東西にローマ帝国が分裂して、東ローマ帝国のほうが一時的(ユスティニアヌス帝代、6世紀、この帝の即位は527年、『ワン』語呂→ユスティニアヌス、こ527い)に取った領域で、ローマ皇帝が最大版図を形成した時期のものが欠けています。資料2はアウグストゥス帝以降(前1世紀〜3世紀)の地図はどこにもありません。正解は②。

 次の授業では生徒たちが図懇室で見つけた本について話し合っている。
田 口:ムガル帝国期のグジャラート地方について也かれた本を見つけたよ。このページ(資料3) を見てくれるかな。

資料3
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ムガル帝国の最盛期に、芸術や工芸が高度に発達し、奢侈(しゃし)な生活様式が広まった。このことはグジャラートで栄えたヒンドゥー教のヴィシュヌ派教団が祭る、シュリーナートジーという名の神(左挿絵)の豪華な搬衣や装飾にうかがえる。そこには、イラン=イスラーム文化がインドにもたらした美しい影孵が示されている。
(R.Parikh、et al、Guijaratno Rajkiy ane Sanskritik ltihas)
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坂 本:ムガル帝国ってイスラーム王朝だったよね。なぜヒンドゥー教の神々も拝まれていたのかな。
田 口: ムガル帝国最盛期の皇帝の一人アクバルは、広大な領土を持つ帝国の様々な宗教文化を尊重する融和政策をとったんだ。これによって、 ヒンドゥー教の諸宗派も大いに発展した。シャー=ジャハーンの治世でも、男のダーラー=シコーが、スーフィズムとウパニシャッド哲学とが共
通していると考え様々なヒンドゥー教の経典をペルシア語に翻訳したそうだよ。
坂 本:でもシャー=ジャハーンの後に皇帝になったのは、ダーラー=シコーと対照的な思想を持ったアウラングゼープだったよね。
田 口:そうだね。ⓐアウラングゼープの治世においては、ムガル帝国の文化や政治を考える上で、重要な変化があったんだ

問3 下線部ⓐについて述べた文として最も適当なものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。[ 24 ]

 ① インド=イスラーム文化が最盛期を迎え、タージ=マハルが建立された。
 ② 偶像崇拝を禁止するシク教が、ナーナクによって創始された。
 ③ デリー=スルタン朝最後の王朝であるロディー朝が打倒された。
 ④ムガル帝国の領土は最大となったが、各地で対抗勢力が強まった。

 下線部ⓐは「アウラングゼープの治世……変化」なので、イスラーム教に真面目すぎる彼の変化は、インドのイスラーム化だったから、正解は④。①父のシャー=ジャハーンの建造物。②「偶像崇拝を禁止した」かどうか分からないとしても(禁止した)、ナーナクはムガル帝国成立(無我〜一1526)期のひと(1469〜1538)だからアウラングゼーブラン帝は最盛期(17世紀の1658年に即位、『ワン』語呂→あ売らん、セール、広1658く)のひと。

問4 前の文章を参考にしつつ、ムガル帝国期に見られた宗教や文化について述べた文あ・いの正誤の組合せとして正しいものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 25 ]

  シュリーナートジ一神の衣装は、ヒンドゥー文化とイラン=イスラーム文化とが融合したことを示している。
  ダーラー=シコーは、アッラーとの一体感を求める思想と、ブラフマンとアートマンとの同一性を悟ろうとする古代インド思想とが、共通すると考えていた。

 ① あ─正  い─正
 ② あ─正  い─誤
 ③ あ─誤  い─正
 ④ あ─誤  い─誤

 「あ」の「融合」は資料3に「ヒンドゥー教の……豪華な搬衣や装飾にうかがえる……美しい影孵が示されている。」とあるので正しい文章。「い」の「共通する」は田口くんの発言「スーフィズムとウパニシャッド哲学とが共通している」と発言。正解は①>

C 生徒たちが、スペインの繁栄とその後について、先生と話し合っている。
先 生:スペインは、フェリペ2世統治下の16世紀後半には、世界帝国として君臨し、「太陽の沈まぬ帝国」とも呼ばれていましたが、次第に衰退していきました。
寺 内: 19世紀前半には、ラテンアメリカ諸国が独立していきましたね。
高 崎:それにもかかわらず、キューバはその後もスペインの植民地にとどめられました。そのためナショナリズムが高まり、独立運動が続きました。
先 生:一方で、19世紀末のカリブ海地域では、アメリカ合衆国が台頭していました。当時のキューバ独立運動の指導者ホセ=マルティが、1891年に雑誌に寄稿した論説(資料4) を見てみましょう。

資料4
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アメリカ大陸は様々な危険を乗り越えて今に至っている。だが、 このような危険とは別の危険に、 「我らのアメリカ」は、恐らく晒(さら)されている。
 「我らのアメリカ」を軽んじる強国が、近い将来、親密な関係を要求しつつ近づいてくるだろう。「北のアメリカ」が野望へ向かって一気に走り出す日は、間近に迫っている。「我らのアメリカ」について何も知らない、強大この上ない隣国が軽率な行動に出ることが、我々の最大の危険なのである。(ホセ=マルティ「我らのアメリカ」)

寺 内:言葉の使い方が特徴的ですね。「我らのアメリカ」とは[ イ ]のことですか。
先 生:そのとおりです。
高 崎:しかし、アメリカ合衆国は、キューバの独立運動を支援するために、ⓑアメリカ=スペイン戦争を起こし、その結果、キューバは独立しま
した。独立は、アメリカ合衆国のおかげとは言えないでしょうか。
寺 内:それは一面的な見方です。確かにキューバは独立しましたが、プラット条項によって、アメリカ合衆国の事実上の保護国になったのですから。

問5 会話文中の空欄[ イ ]に入る語句あ・いと、下線部ⓑの結果、アメリカ合衆国が領有した場所X·Y とについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 26 ]

[ イ ]に入る語句
 あ スペインの覇権に対抗する、キューバとアメリカ合衆国との連合
 い アメリカ合衆国の脅威に対抗するキューバも含むラテンアメリカ

場所
  X フィリピン  Y アラスカ

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 資料4の「北のアメリカ」の野望は合衆国であり、これに対抗する「我らのアメリカ」はラテンアメリカだから、[イ]には「い」がふさわしい。ⓑ米西戦争で合衆国が獲得したのは「X フィリピン」。「Y アラスカ」はロシアから買収しました(1867)。正解は③

問6 世界史上の「帝国」のあり方について探究した生徒たちは、 さらに考察を深め、その結果をメモ1 ~3 にまとめた。それぞれのメモの正誤について述べた文として最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 27 ]

メモ1
 キューバがスペインからの独立を求めた背景には、 ナショナリズムの影響があった。古代のローマ帝国の支配が終わった時代にも、 自立に向けた諸民族の動きが見られた。国民国家建設を目指す独立運動が繰り広げられた点で、両者は類似していると考えられる。

メモ2
 フェリペ2世は、プロテスタントを弾圧したため、オランダ独立戦争を招いた。イスラームを篤(あつ)く信仰したアウラングゼープは、ヒンドゥー寺院の破壊などを命じ、 反発を招いた。不寛容な宗教政策が、帝国衰退の要因の一つとなった点で、両者は類似していると考えられる。

メモ3
 アウグストゥス帝は、 ローマ帝国の一部とされた諸王国に、王を復位させた。アクバルは、マンサブダール制を導入して地方分権を進めた。地方の政権が維持されたという点で、両者の帝国統治のあり方は類似していると考えられる。

 ① メモ1のみ正しい。
 ② メモ2のみ正しい。
 ③ メモ3のみ正しい。
 ④ メモ1とメモ2のみ正しい。
 ⑤ メモ1とメモ3のみ正しい。
 ⑥ メモ2とメモ3のみ正しい。

 「メモ1」の帝国支配の終わるとともにゲルマン諸民族の動きは「独立運動」と言いがたい。まして「国民国家」を目指すとは言えない。国民国家と言えるには、国民(議会)に主権が移っていって本格的な国民国家が成立します。領土・歴史・言語が共通していて、それまでの国は「同じ国民」という意識を持っていないが、近代的な団結したシステムになっているものを指しいます。
 「メモ3」は「諸王国」を認められたローマ帝国は国家連合のかたちをとり、マンサブダール制も地方分権的でありながら、中央の中心(皇帝)が強権であることには変わりはない。正解は② 。


第5問 世界史探究の授業で、「税制度と社会変容」というテーマについて、発表に向けた班別学習を行った。各班の活動に関連した次の問い(問1〜5) に答えよ。(資料には、省略したり、改めたりしたところがある。) (配点18)

問1 1班は、明清時代の中国における税制度の変化がもたらした社会変容について、パネルを作成した。パネルから読み取れることやその背景について述べた文として最も適当なものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 28 ]

パネル
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税制度の変化と対応
 明清時代の中国では、財政効率化のために指定の純度の銀での納税が求められるようになった。
 ・市場では、様々な純度や形状の銀が、取引に使われていた。そこで農民は納税に際し、生産物を商人に売却して銀を手に入れた後、銀の純度の調整を職人に依頼し、県の役所まで自分で出掛けて納入することが必要になった。いずれも高額な経費が必要だった。
 ・官僚経験者や科挙合格者をはじめとする地域有力者たちは、県の行政事務に協力することで、商人、職人、役人よりも優位に立っていた。このため、彼らは納税に関わる高額な経貴を支払う必要がなかった。
社会の変容
 地域有力者は、上記の立場を利用し、納税代行に従事して、富を蓄積するようになった。彼らによる納税代行は、納税側、徴税側どちらにとっても都合が良かった。

 ① 明清時代の中国では、交子や会子と呼ばれる紙幣も利用された。
 ② 納税手続きに関与することは、郷紳にとって、蓄財の機会となった。
 ③ 明代に創始された両税法に基づき、銀での納税が求められた。
 ④ 生産物を納税用の銀に換える経費は、政府が負担した。

 ①「交子会子開始」は北宋南宋の貨幣。②「蓄財」パネル「いずれも高額な経費が……彼らは納税に関わる高額な経貴を支払う必要がな
かった。」と一方的に郷紳(官僚経験者・科挙合格者・地域有力者)の得ばかり。③両税法は唐末期から(780年。『ワン』語呂→両税法は780とる)。④「経費は、政府が負担」したのでなく、「農民は納税に際し……高額な経費が必要だった。
正解は②。

問2 2班は、オスマン帝国の税制に関する勅令の一部(資料1) を見つけて、話し合った。会話文中の空欄[ ア ]に入る語句と、 [ イ ]に入る文との組合せとして正しいものを後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 29 ]

資料1
───────────────────────
 徴税を請け負った者たちは、自分の請負期間は1年または2年であると言って、収穫物の全てを奪おうとする。このため、農民の多くは逃亡し、
村々は荒廃し、税収も減少して、国庫に甚大な損害が生じている。

木 田:オスマン帝国の税制は、 17 世紀になると[ ア ]から徴税請負制に変わりました。なぜでしょうか。
ギュル:戦争形態の変化や財政の悪化が、背景にあったと言われます。しかし、資料1からは、新たな問題が生じたことが分かりますね。
木 田:つまり、[ イ ]いうことでしょうか。
ギュル:そのとおりです。これに対して、帝国政府は請負期間を終身にしました。この結果、地方社会では、徴税請負を通して富を蓄え、それを利用して土地を集積した有力者が台頭することになります。

 ① ア─農地の徴税権を分与する制度
   イ─短期間に利益を最大化しようとした結果、激しい収奪が行われた
 ② ア─農地の徴税権を分与する制度
   イ─長期的に利益を確保しようとしたが、農民の理解を得られなかった
 ③ ア─非ムスリムに人頭税を課す制度
   イ─短期間に利益を最大化しようとした結果、激しい収奪が行われた
 ④ ア─非ムスリムに人頭税を課す制度
   イ─長期的に利益を確保しようとしたが、農民の理解を得られなかった

 ◆16世紀まで維持していたティマール制(騎士に徴税権を与え軍役を課す制度)を止め、17世紀から徴税請負制(イルティザーム制)に変えました。「請負」とは一地方の徴税権利が有力者・商人間で売買され、「請負期間は1年または2年」のうちに「収穫物の全てを奪おうとする」ほど悪どい収奪がおこなわれますが、中央政府に現金収入があり、政府はメリットが大きいが、取られる農民はたまらない。正解は①。
 日本の歴史でも朝鮮を植民地化しようとしたときに徴税と略奪・買い占めによって「全てを奪おうとする」収奪が行なわれました。事例はここでで見ることがてきます。→
https://www.youtube.com/watch?v=T7U9lnrKklw&t=21s 

問3 3班は、ヨーロッパの関税について調べ、 ドイツの経済学者リストがまとめた請願書(資料2) を見つけた。資料2を参考にしつつ、リストの主張に合致すると考えられる文あ・いと、それと同様の考えや背景があると推測される事例X·Yとについて、最も適当なものの組合せを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 30 ]

資料2
───────────────────────
 ドイツでは、関税と通行税を取る38 の境界線が、域内の交通を麻痺(まひ)させています。あたかも人間の四肢が縛られ、血液が他の臓器に流れないのと同様の作用を引き起こしています。ハンブルクからオーストリアヘ、10に及ぶ諸邦を横切る際に、それぞれの関税規則を調査し、通過関税を支払わねばなりません。ここに署名をした忠実なる者は、崇高なるドイツ連邦議会に謹んでお願いいたします。
 1、 ドイツ域内の関税を廃止すること。
 2、 ドイツ以外の諸国民がヨーロッパで通商の自由原則を承認するまで、彼らに対して共通の関税を設定すること。
(Deutsche Geschichte in Quellen und Darstellung)

リストの主張
  諸外国が通商の自由を認めているので、後発国のドイツ諸邦はドイツ以外の国々に対して、関税を撤廃すべきである。
  諸外国が通商の自由を認めていないので、後発国のドイツ諸邦はドイツ以外の国々に対して、共通して関税をかけるべきである。

事例
 X コブデンやブライトらによって主張された穀物輸入に関する政策
 Y 南北戦争直前のアメリカ合衆国北部諸州で主張された貿易政策

 ① あ─X  ② あ─Y ③ い─X  ④ い─Y

 リストの「あ」ドイツ域内の関税を廃止を説いているが、他国に対しての関税撤廃は求めていない。「い」こで「外の国々に対して,共通して関税を」と主張している。事例の「X」穀物法という外国産穀物に高関税を課して輸入を制限してたが、二人は廃止を求めていた。「Y」の北部はイギリスに対して関税政策(=保護貿易=関税推進)でした。正解は④

問4 4班は、第二次世界大戦直後に締結されたある協定を取り上げ、その第1条(資料3) を基に考察し、その内容をノートにまとめた。ノート中の空欄[ ウ ]・[ エ ]に入る語句の組合せとして正しいものを、後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 31 ]

資料3
───────────────────────
輸出入の際に課される関税と手数料に関して、一つの締結国が、輸出入される産物に対して有する利益恩恵、特権は、他のあらゆる締結国にも、
即刻かつ無条件に認められる。

ノート
───────────────────────
•この協定は、第二次世界大戦後の経済的な世界秩序を築くことを目的としていた。
•この協定が締結された歴史的背景として[ ウ ]への反省がある。
・イギリスは消極的な姿勢を示していたのに対して、[ エ ]は、 この協定の成立に積極的な役割を果たした。

 ① ウ─株式市場で投機的な動きが活発化し、アジア通貨危機が発生したこと
   エ─アメリカ合衆国
 ② ウ─株式市場で投機的な動きが活発化し、アジア通貨危機が発生したこと
   エ─ソ連
 ③ ウ─ブロック経済の成立によって、世界経済が分断されたこと
   エ─アメリカ合衆国
 ④ ウ─ブロック経済の成立によって、世界経済が分断されたこと
   エ─ソ連

 ノートの「第二次世界大戦後の経済的な世界秩」とはGATT(関税と貿易に関する一般協定)のことで、 経済問題から第二次世界大戦に発展したことから、自由で平等な国際貿易体制ほ築こうとしたが、その主軸になったのは合衆国だった。ブレトン・ウッズ(=金ドル)体制もその一つ。正解は③。

問5 各班の発表を聞いたあなたは、モンゴル帝国がユーラシア大陸に広く影響を与えた時期の中国における税に興味を持ち、資料4・5を見つけ、探究活動を続けることにした。参照する資料やパネル及び事例と、探究活動の方針とについて述べた文として最も適当なものを後の①〜④のうちから一つ選べ。[ 32 ]

資料4 クビライの治世における命令(『元史』の一節)
───────────────────────
・上都の商税(商品の取引価格に応じて徴収される税)は、通常、取引価格の三十分の一であるが、六十分の一にする。(1283年7月)
・大都の商税は、通常、取引価格の三十分の一であるが、四十分の一にする。(1283年9月)

資料5 高麗で作成された漢語会話文集『老乞大(ろうきつだい)』の一節
───────────────────────
仲 介 人:買い手が商税を払う決まりになっている。
大都の商人:この馬を俺が買った分の商税は、いつ払うんだい。
仲 介 人:おやすい御用さ。私が商税を役所で払ってきてあげよう。

 ① 減税措置について述べる資料4 と、1班が作成したパネル及び2班が見つけた資料1とを参照して、税率の変更が流通にもたらした影響について探究する。
 ② 増税措置について述べる資料4 と、3班が見つけた資料2及び4班が見つけた資料3とを参照して、税率の変更が流通にもたらした影響について探究する。
 ③ 1班及び2班が取り上げた事例と、資料5に見られる仲介人の役割とを参照して、納税や徴税の具体的な仕組みについて探究する。
 ④ 3班及び4班が取り上げた事例と、資料5に見られる大都の商人の役割とを参照して、税制と地域の有力者との関係について探究する。

 ①この第5問の初めにもどって、1班は郷紳が納税を代行する、2班は徴税請負人がむさぼる、②3班(関税同盟)や4班(GATT)は国家と国家の取引の事例であり、資料5のような国内市場での取引税代行の事例とはちがう。正解は③。
 
 1班  2班   3班   4班   5班
 明清 オスマ  国・国    国・国 蒙古
    ン帝国  関税     協定    帝国
 郷紳  徴税                   徴税
  |  請負                   仲買人
  |    |           |
 農民   農民          商人  
………………………………………

合格メール

Aさん
いつも添削お世話になっております。
共通テストで点数が取れたため、一橋大学社会学部の学校推薦を受けていました。本日、合格発表があり、無事合格することができました。先生には夏前から沢山添削していただき本当に感謝しかないです。冠模試でも先生のおかげでどんどん世界史の点数が上がり、自分の自信に繋がっていました。共通テストの世界史でも良い点を取ることができました。大学でも世界史を勉強していきたいと思います。本当にありがとうございました。

Bくん
ご報告が遅くなり、大変申し訳ございません。Bです。  このたび、東京大学文科三類に合格することができました。  
予備校に通わずに受験勉強を進める中で、中谷先生に世界史の添削をしていただき、的確なアドバイスや温かいお言葉をいただいたおかげで、苦手意識のあった世界史にも自信を持って本番に臨むことができました。結果として合格することができ、大変感謝しております。  

2026東大合格者の再現答案

再現答案
(再現答案について)
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。
 ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。カンニングする教科書・参考書・用語集は受験場にはなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

2026東大合格者の再現答案
1
(1)中央アジアでティムール帝国がサマルカンド中心の東西交易で栄え、イラン=イスラーム文化等を吸収する。中央イスラム世界からのスーフィーらがインドで熱心な布教を行い信徒が増大した。ティムール帝国の滅亡後末裔のバーブルがインドへ移住しムガル帝国を建国。そのためペルシャ語とヒンディー語の融合のウルドゥ語、イラン細密画と現地芸術が融合したラージプート絵画、イスラム式建築様式のタージ=マハル等イスラーム文化と現地文化が融合した文化となる。宗教政策は当初のイスラム至上主義から三代目アクバルが異教徒へのジズヤ廃止、登用等寛容策をとり後六代目アウラングゼーブはジズヤを復活、異教徒官僚の排除でイスラム化を徹底。
(2)当初は香辛料の東南アジアからの直接輸入が目的だった。ガマがインド航路を開拓し後ゴアを占領、1511年マラッカを占領する。後スペイン領の南米で銀が産出し西欧に流入。トルデシリャス条約でブラジルを得るも銀の産出はなかったポルトガルは輸入銀を用いての中国との交易を始める。布教を条件に交易を教皇に認めてもらったポルトガルは1517年に広州へ到達しイエズス会ザビエルに布教をさせながら明との交易を始め、銀を輸出し陶磁器などの中国特産品を輸入する。後マカオに居住権を得、日本の織田信長らとも交易を行うがスペインとの条約によりフィリピン以西をポルトガルの勢力圏と定め、その範囲での交易を続けた。
2
(1)⒜シトー修道会は世俗化した聖職者の改革運動の中で生じ、修道院での規則正しい生活や農村での布教、開墾活動に従事した。
b当初寒冷化で不作だったが後に温暖化、農業が安定し人口の増加につながる。これは余剰生産物発生による商業復活、土地不足によるレコンキスタ・東方植民・十字軍等西欧の膨張につながった。
⒞ア
⑵⒜イブン=バットゥータ
⒝ダウ船を使いイスラム商人が中東とインドの間で前者の奢侈品と後者の、西欧輸出用の香辛料を季節風貿易により交易した。
⒞マムルーク朝はカリフ家を保護し諸イスラム朝に優越する立場をとり、アッコン陥落で十字軍を撃退、イル=ハン国も撃退した。
⑶⒜イヴァン4世がコサック兵イェルマ—クの活躍によりクリム=ハン国等を滅ぼし中央シベリア地域にまで勢力を拡大させた。
⒝露仏同盟締結による仏資本の導入と三国干渉による清との関係強化を背景としてシベリア鉄道、東清鉄道の建設を行った。これにより露の極東進出の韓国への影響を恐れる日本と露の関係が悪化し中国進出を狙う英米も日本を支援し日英同盟が締結された。

京大世界史2026

世界史探究(4問題100点)
第1問 世界史探究問題(20点)
 次の図と表は中華民国初期における産業の発展状況に関するものである。も参照しながら、この時期の中国で見られた工業の発展に関し、いかなる背景のもと、どのように工業化が進んだのか、そしてそうした工業化が、同時期やその後の中国の政治や社会にどのような変化をもたらしたのかについて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

 

第2問 世界史探究問題(30点)
 次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(29)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 15世紀以前の西アジアでは、騎馬遊牧民の軍事力が戦場において圧倒的優位を保っていたが、この状況は16世紀を境に徐々に変化していった。
 13世紀前半にモンゴルが(1)西アジアヘの進出を開始すると、この地域の情勢は激変した。モンゴル軍は(2)1243年にアナトリア東部のキョセ=ダグで行われた戦闘で現地の(3)セルジューク朝勢力を撃破し、これを服属させた。また、1258年にはバグダードを占領し、(4)アッバース朝最後のカリフを処刑した。モンゴル軍はさらにシリアヘの進出を目指すが、この企ては(5)新興のマムルーク朝により阻止された。一連の征服活動の結果、イラン、イラクは(6)イル=ハン国の領土となった。以後、およそ1世紀の間、西アジア地域では、西にマムルーク朝、東にイル=ハン国という、いずれも遊牧民に出自をもつ騎兵を(7)軍隊の中核に据えた国家が対峙(じ)することになった。
  イル=ハン国は14世紀半ばには崩壊し、その後、イランとその周辺には様々な地方政権が成立した。つづく14世紀後半から15世紀初めにはティムールがイランのほかシリア、(8)アナトリアにまで進出し、一時的にイランは再統一された。しかし、15世紀後半になるとイランの西部は(9)ティムール朝の支配から離脱した。
  16世紀に入ると、西アジアの勢力図は再び大きく変化した。この世紀の初め、中央アジア北方の草原地帯で勢力を拡張していた(10)トルコ系遊牧民のシャイバーニー朝が南下してティムール朝を破り、中央アジアからイラン東部へと進出した。滅亡したティムール朝の王族の一人であるバーブルは、南方に活路を見出し、のちにインドで(11)ムガル帝国を建設した。
  同じく16世紀の初め、イラン西部では、神秘主義教団に起源を持つサファヴィー朝が、やはりトルコ系遊牧民の軍事力を背景に建国し、1510年にはシャイバーニー朝との戦闘に勝利してイラン東部も奪った。こうして、イランはサファヴィー朝のもとに再び統一された。さらにサファヴィー朝はアナトリアヘの進出をねらったが、1514年にアナトリア東部の(12)チャルディラーンの戦いで(13)火器を有効に活用したオスマン帝国軍に敗れ、その試みは頓挫した。この頃から徐々にではあるが、(14)西アジア地域でも火器を操る歩兵が戦場で重要な役割を果たすようになり、騎兵の地位が相対的に低下してゆく。オスマン帝国は1517年にマムルーク朝を滅ぼし、シリア、エジプトも領有した。こうして、16世紀前半以降、西アジアから南アジアにかけて、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国という3つの大国が並立することになるのである。


 (1) この進出は、当時中央アジア、イランを支配下に置いた国との対立を直接の原因とするものであった。この国の名を答えよ。
 (2) その2年前、モンゴル軍は東欧でドイツ・ポーランド連合軍を破っている。この戦いの名を答えよ。
 (3) この王朝の始祖は、アッバース朝カリフから「スルタン」という称号を授与された。スルタンの語義を答えよ。
 (4) 4人の正統カリフや、ウマイヤ朝およびアッバース朝の歴代のカリフはすべてイスラーム教の預言者ムハンマドと同じ部族に属していた。この部族名を答えよ。
 (5) 次の文章は、マムルーク朝後期の歴史家マクリージー(1442年没)の『諸王朝の知識の旅』に収められる、モンゴル軍とマムルーク朝軍の決戦の模様を伝える箇所の一部である。これを読んで下の問(ア)、(イ)に答えよ。

 アミール*たちに命令が下った。彼らが集まると、[スルタンのムザッファル=クトゥズ**は]タタール人***と戦うべく檄(げき)を飛ばした。(中略)それから[スルタンは]アミールのバイバルスに、ー隊を率いて進軍するよう命じた。彼は進軍してタタール人の前衛を発見すると、スルタンに書状でそれを知らせ、攻めては引き返す小競り合いを続けた。そしてついに、スルタンがアイン=ジャールート****に姿を見せた。[ (ア) ]の代官であるキトブガーとバイダラーは、[マムルーク朝の]軍隊が進軍してきたとの知らせが届くと、シリア地方に散らばっていたタタール人を結集し、(イ)ムスリムたちとの戦いに向けて出発した。
(注)*軍団長の意。**当時のマムルーク朝スルタン。
 ***ここでは「モンゴル人」を意味する。
 ****パレスチナに位置する両軍の決戦の地の名称。
(出典歴史学研究会編『世界史史料2』岩波書店、2009年、197ページ。出題に際して一部改変)

 (ア) 空欄(ア)には、当時モンゴル西征軍を委ねられていたチンギス家の人物の名が入る。その人物の名を答えよ。
 (イ) 下線部(イ)について、著者マクリージーはこの箇所で、マムルーク朝軍を「ムスリムたち」と表現している。マクリージーがこのような表現を選択した理由として最も適切と考えられるものを簡潔に述べよ。

(6) この国の宰相であったラシード=アッディーンは、歴史書『集史』を著した。この作品が書かれた言語の名称を答えよ。
(7) 両国はともに、軍隊を維持するため、俸給の代わりに一定の土地の徴税権を軍人に与える制度を採用していた。イスラーム史上、この制度を最初に導入したとされる国の名を答えよ。
(8) この時ティムールと戦って敗れたオスマン帝国君主の名を答えよ。
(9) ティムールにより首都とされ、繁栄した中央アジアの都市の名を答えよ。
(10) この国を建設し、ティムール朝を滅ぼした集団の名称を答えよ。
(11) この国の第3代君主はイスラーム法で非ムスリムに課されるものと規定されていた税を廃止した。この税のアラビア語の名称を答えよ。
(12) この戦いで敗れたサファヴィー朝の君主の名を答えよ。
(13) この戦いにおいては、鉄砲で武装したスルタン直属の歩兵常備軍が活躍した。この常備軍の名称を答えよ。
(14) サファヴィー朝でも16世紀末に即位した君主が、銃兵隊、砲兵隊を新設している。この君主の名を答えよ。

 黄河と(15)長江は、いずれも現在の青海省に源流を発し、大陸東方に広がる海へと注いでいる。この両大河にはさまれた地域を流れる河川を利用して運河を建設し、水路で往来しようとする試みは古く(16)春秋・戦国時代から行われてきた。ただ、建設した運河の維持は容易でなく、河底に堆積する泥土により運河が使用不能となることも珍しくなかった。
  いわゆる「大運河」が完成したのは、隋の時代である。6世紀末、(17)禅譲により北周に替り王朝を建てた楊堅は、春秋時代に開かれた運河を利用して(18)山陽瀆(とく)を建設した。次いで即位した揚帝は(19)通済渠を開鑿(さく)、さらに(20)高句麗出兵の準備として永済渠を建設した。しかし、矢継ぎ早に行われた大運河の建設は、民衆に多大の負担をかける結果となり、各地で(21)反乱が続発することとなった。
  大運河が物資輸送の大動脈として活用されるようになるのは、8世紀以降のことである。8世紀半ば、(22)安禄山らが起こした反乱により財政危機に瀕(ひん)した唐王朝は塩の専売を実施したが、このことは、(23)華北から江南地方へと穀物生産の重心が移動しつつあったことと相侯って、大運河の果たす役割を飛躍的に高めた。
  (24)五代から北宋時代にかけて、大運河による物資輸送(漕[そう]運)は一層盛んとなった。(25)帝都を貫いて流れる大運河沿いの風景を活写したとされる絵画からも、その繁栄ぶりをうかがい知ることができる。しかしその栄華も、12世紀初めに(26)女真の建てた金の軍隊が華北を占領したことによりあっけなく終(えん)を迎え、漕運は衰退し大運河も荒廃してしまった。
  大運河が復活したのは、元が(27)南宋を滅ぼした後のことである。元は(28)陸路や海路を利用して世界中の富を都の大都に集めようとした。中国でも当初は海運による物資輸送を試みたが、やがて会通河を建設して漕運の復活を試みた。15世紀初め,永楽帝により会通河は改修され,大運河は江南地方と北京を結ぶ大動脈として(29)清代まで盛んに利用されることとなった。


 (15) 長江文明を代表する遣跡の一つに河姆渡遺跡がある。発掘調査の結果、そこではある作物が人工的な施設により栽培されていたことが明らかとなった。その栽培作物の名を答えよ。
 (16) 春秋・戦国時代には新たな農具を使用することにより農業生産力が格段に向上したとされる。その農具の材質を答えよ。
 (17) 「禅譲」に対して、武力により政権を奪取することを何というか。漢字2文字で答えよ。
 (18) 587年に山陽瀆が建設された目的について、簡潔に説明せよ。
 (19) 通済渠が結んでいた二つの河川の名を答えよ。
 (20) 高句麗は7世紀半ばに唐王朝の攻撃を受けて滅亡する。その後、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した国家の名を答えよ。
 (21) 隋末の反乱勢力の中から台頭し、唐王朝を建てた人物の名を答えよ。
 (22) 反乱の原因は、玄宗の寵(ちょう)妃の一族に連なる人物と安禄山が朝廷で対立したことにあるとされる。その寵妃の呼び名を答えよ。
 (23) 北宋から南宋時代にかけて、長江下流域が農業生産の中心となったことを端的に言い表したことばに「〇〇熟すれば天下足る」がある。〇〇に当てはまる最も適切な語句を漢字で答えよ。
 (24) 五代から北宋にかけての時代には、科学技術の面でも大きな革新が見られた。次の史料で蘇麒が言及している技術とは何か。

 わたくしはかつて老先生から「自分の若いころは『史記』や『漢書』を求めても得られず、運よく手に入ったならばみな手ずからそれを筆写し、日夜必死で暗誦(しょう)した」とうかがったことがある。ところが近年では、商売人がさまざまな学者の書物を刊行し、一日に膨大な枚数を流布させている。(蘇試「李氏山房蔵書記」)

 (25) 北宋末の画家張択端によって描かれたこの絵画の題名を答えよ。
 (26) 金軍が華北に侵攻するきっかけとなったのは、北宋が国境を接していたある国家を、金と結んで挟撃しようとする作戦であった。この国家を建てた民族の名を答えよ。
 (27) 南宋時代に宋学を大成した朱憲は、儒教の経典のうち「四書」を重視したとされる。四書に含まれる書物のうち、『論語』『孟子』『大学』以外の書名を答えよ。
 (28) 元の陸上交通は駅伝制度によって支えられていた。この制度はモンゴル語で何と呼ばれていたか。カタカナで答えよ。
 (29) 清の康煕帝は、大運河を利用して六度にわたり江南地方に巡幸した。最初の巡幸は1684年に行われたが、その直前には、中国大陸南部で起こった大反乱を鎮圧している。その反乱の名称を答えよ。

第3問 世界史探究問題(20点)
 二つの世界大戦にはさまれた時期、欧米諸国などでは、国民経済の運営や個々の国民の生活に政府・公権力が大きく介入するようになったが、その性格は国によって大きく異なった。1928年以降のソ連1933年以降のアメリカおよびドイツについて、それぞれの性格を、経済運営および国民の政治的自由や人権に着目して、三者の相違が明らかになるように、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問 世界史探究問題(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 古代ギリシア・ローマの歴史叙述は、後世に大きな影響を与え続けることになる。
  ローマ共和政末期の政治家・弁論家として名高い[ a ]によって「歴史の父」と呼ばれることになるヘロドトスは、ペルシア戦争を主題とする『歴史』を執筆した。ヘロドトスにあっては、ヒストリーの語源となるヒストリエは、自身による調査、探究を意味しており、『歴史』は広義の同時代史としての性格が強かった。一方でヘロドトスは、(1)ペルシア帝国拡大の過程を記すなかで、スキタイやエジプトといった各地の諸民族の慣習や風俗を好んで描いた。「異民族びいき」の歴史家とされる所以(ゆえん)である。ルネサンス期フランスの[ b ]はその『随想録』のなかで、『歴史』の異民族描写を多数引用しつつ、新大陸「発見」以降の文化的相対主義を模索している。さらにヘロドトスは、宗教改革期の神学者にも注目された。(2)ルター派のヒュトレウスは、『旧約聖書』と『歴史』に連続性を認め、天地創造から当時までの世界年代の計測を試みたのだった。
  同じくギリシアの歴史家であるトゥキデイデスは、(3)ペロポネソス戦争を自身の『歴史』の主題とした。彼は、ヘロドトスと同様に同時代の歴史を対象としながらも、ヘロドトスとは異なって政治と戦争を主題とし、演説・弁論の引用や群集心理の描写を通じて、緊迫した支配と服従のメカニズムを活写した。現在の歴史学の水準からすると、トゥキデイデスの史料の利用には多くの問題があるものの、彼の対象、手法、叙述は(4)近代の歴史学にいたるまで大きな影響力を持ち続けた。
  ヘレニズム期を代表する歴史家ポリビオスは、ギリシア人の立場から、(5)共和政ローマの帝国化のプロセスを描いた。彼は、同時代史を扱い、戦争・政治を主題とする点で、トゥキデイデスの正統なる後継者である。ポリビオスは他方で、『政治学』を著したギリシアの哲学者[ c ]の影響を受けつつ、ローマの共和政が王政、貴族政、民主政の各要素が合わさった混合政体であると主張した。この混合政体論は、啓蒙思想の時代まで影響力を持ち続けることになる。
  ローマ最大の歴史家タキトゥスは、自由自治を旨とするギリシア人ポリスではなく、皇帝支配が確立したローマ帝国に生きた人物である。これにともなって、歴史叙述の対象にも変化が生じた。『年代記』と『同時代史』のなかで、タキトゥスは(6)皇帝による独裁政治の負の側面を辛辣(しんらつ)に批判した。元老院議員でもあったタキトゥスにとっては、元老院を中心とした共和主義こそが理想だったのである。またタキトゥスは、ローマ帝国にとって脅威であり続けたゲルマン人の生活と習俗を、『ゲルマニア』に描いた。この作品は、ゲルマン人がローマ軍団を壊滅させた(7)トイトブルクの森の戦いとともに、ロマン主義の時代以降、近代ドイツの成立期にかけて、ドイツ人の精神的支柱の一つとなっていく。さらにローマの将軍アグリコラの伝記である『アグリコラ』のなかで、タキトゥスはブリテン島でのローマ支配の現実に鋭く迫っている。ローマ人は破壊的な征服戦争を終えると、この辺境属州に高度な文明と快適な生活をもたらした。ブリテン島の人々のなかには、現地人の生活を破壊してそれを「平和」と名づけるローマ人の欺瞞(ぎまん)を批判する者もいたが、現地のエリート層はその多くが、ローマ風の生活を競って採用したとされる。(8)タキトゥスはこの状況を評して、ローマ人の「文明」はブリテン島の人々の「隷属」を強化するものに過ぎなかったと、ローマのいわば帝国主義的な側面を喝破(かっぱ)している。タキトゥスによるこのローマ帝国主義批判は、後世、(9)ヨーロッパ人によるアメリカ大陸支配の文脈で、再注目されることになる。


 (1) 「王の目」「王の耳」を巡回させて、アケメネス朝の中央集権化を図ったペルシア王の名を記せ。
 (2) この人物は聖書のドイツ語訳を出版した。この背景にある彼の宗教的な考えを簡潔に説明せよ。
 (3) 開戦当初にアテネ側を指揮し、有名な戦没者追悼演説を行ったアテネの政治家の名を記せ。
 (4) 厳密な史料批判に基づく科学的な歴史学を提唱した、19世紀ドイツの歴史家の名を記せ。
 (5) 第2次ポエニ戦争で、ローマがカルタゴのハンニバル軍を最終的に破った戦いの名を記せ。
 (6) アウグストゥスの家系出身としては最後の皇帝であり、母親殺しの廉(かど)などでタキトゥスの猛烈な批判の対象ともなった人物の名を記せ。
 (7) この戦いの古戦場と考えられたデトモルト市郊外に、ゲルマン人側の指揮官であるヘルマン(アルミニウス)の巨像が建立れ、その除幕式に、のちにドイツ皇帝となって「世界政策」を推進する人物が参加した。この皇帝の名を記せ。
 (8) 以下に引用する文章は、オクスフォード大学古代史教授のハヴァフィールドが、20世紀初頭に行った2つの講演からの抜粋である。ローマ帝国の属州支配についてのハヴァフィールドの理解にみられる、当時のイギリス人工リート層にとってのローマ帝国の意義を、タキトゥスの帝国評価と比較しつつ説明せよ。

  ローマ帝政期最大の達成は、属州行政にこそあります──つまり、蛮族をはねのける前線防衛の組織化とその防衛線の内側での属州の発展です。(中略)ローマの言語と慣習が広まり、政治的権利が拡大し、都市的生活が確立され、属州の人々が秩序ある一貫した文明に同化されました。これが帝国の成し遂げたことです。(中略)こうした順応を決して強制しなかったローマの寛容さは、その文化をさらに魅力的なものにしました。
(出典F.Haverfield、"The Romanization of Roman britain、"Proceedings of the 
British Academy、vol.2,1905-1906(Offprint)より訳出)

 

 ローマ帝国の研究は一体何の役に立つのかと、問う必要があるでしょうか。(中略)ローマ帝国のシステムはその相違点と類似点の双方で、わたしたち自身の帝国、たとえばインドの帝国を、あらゆる側面から照らし出します。ローマがその巨大な支配地域の過半を合併し、国民性を消し去り、同化した方法、そしてヨーロッパの三分の一以上の地域とアフリカの一部にギリシア・ローマ文化を広めたおそらく意図せざる、しかし完全なローマの成功は、多くの点でわたしたちの時代と帝国に関係するものです。
(出典 F.Haverfield、"An InauguraーAddress delivered before the first AnnuaーGeneraーMeeting of the Society、11th May、1911、"Journaーof Roman Studies、vol.1、1911より訳出)

 

 (9) スペインによるアメリカ大陸支配の暴力性を批判し、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著したドミニコ会修道士の名を記せ。

 

 20世紀初頭までに、(10)アフリカ大陸の大半はヨーロッパ諸国の植民地として分割されるが、その前提を整えたのが一連のアフリカ探検である。宜教のために(11)南アフリカに赴いた(12)リヴィングストンはアフリカ大陸南部を精力的に踏破し、探検家としての名声を確立した。探検の途上で消息を絶った彼を1871年に救出したのがスタンリーである。(13)レオポルド2世の支援の下で行われたスタンリーのコンゴ川流域探検は、レオポルド2世の私領であるコンゴ自由国(コンゴ独立国)の設立(1885年)につながった。コンラッドの小説『闇の奥』(1899年)に描かれたように、コンゴ自由国では先住民に対する非人道的な虐待と収奪が横行し、国際的に非難が広がった。ヨーロッパ諸国の植民地建設と不可分であった苛烈な暴力行使のもう一つの代表的な事例が、南西アフリカ植民地においてドイツが実行した大量虐殺であり、先住民の8割が殺害された。こうした残虐性を帯びた帝国主義を正当化する役割を果たした思想の一つが、(14)社会進化論である。
  先住民の側がおとなしくヨーロッパ諸国の支配を受けいれたわけではなく、時には激しい抵抗の動きを見せた。たとえば、イギリスがスーダンを制圧する過程では長期にわたる抵抗運動(マフディー運動)が展開され、(15)「チャイニーズ・ゴードン」の異名をとったイギリスのゴードン将軍がその渦中で戦死を遂げた。また、アフリカ争奪戦を繰り広げるヨーロッパ諸国の利害もしばしば相対立した。1898年のスーダンでは、イギリスとフランスの間に(16)軍事衝突すれすれの緊迫した場面が生まれたが、フランスが譲歩し、ドイツを警戒する両国は1904年に英仏協商を結んだ。英仏協商の締結に先立つ1902年の時点で、イギリスはクリミア戦争以降の外交の基本路線であった(17)「光栄ある孤立」を覆し、同盟外交に転じていた。ドイツはフランスとの対立を深め、(18)モロッコでは1905年と1911年の二度にわたって両国間に一触即発の危機が生じた。アフリ力分割の過程で生じた最大の戦争は1899〜1902年の(19)南アフリカ戦争であり、この戦争に勝利したイギリスは1910年に(20)イギリス帝国自治領として南アフリカ連邦を設立する。
  アフリカで独立を求める動きが顕在化するのは第二次世界大戦後のことである。1951年の(21)リビアが先鞭(せんべん)をつけ、特に後に「アフリカの年」と呼ばれることになる1960年には17か国が独立した。アフリカ諸国を結集して1963年に設立されたのが(22)アフリカ統一機構(OAU)である。しかし、不自然な国境線脆弱(ぜいじゃく)な経済、教育の遅れ等、植民地支配の負の遺産は現在でもアフリカ諸国に重くのしかかっている。


 (10) 20世紀初頭の段階では植民地化を免れていたものの、1935年にイタリアの軍事侵攻を受け、翌年には併合されるアフリカの国の名を答えよ。
 (11) 1652年にオランダ東インド会社が設立し、1814〜15年のウィーン会議でイギリス領に移管されたアフリカ大陸最南端の植民地の名を答えよ。
 (12) リヴィングストンの出身地スコットランドで有力だった長老派教会(プレスビテリアン、カルヴァン派)の中核的な教説は何か、答えよ。
 (13) レオポルド2世が国王であったヨーロッパの国の名を答えよ。
 (14) 社会進化論の概要を簡潔に説明せよ。
 (15) ゴードンが鎮圧に貢献し、それにより「チャイニーズ・ゴードン」と呼ばれることとなった1851〜64年の反乱の名を答えよ。
 (16) この出来事を何と呼ぶか、答えよ。
 (17) 「光栄ある孤立」を捨てたイギリスが1902年に同盟関係を結んだ相手国はどこか、答えよ。
 (18) 1912年にモロッコはフランスの保護国とされるが、その際領域の一部はスペインの保護下に入った。1936年にはスペイン保護下のモロッコ(メリリャ)でスペイン人民戦線政府に対する軍の反乱が始まり、これをきっかけにスペインは内戦に突入する。ソ連が人民戦線政府側を、ドイツとイタリアが反乱軍側を支援した一方、イギリスやフランスは不干渉の姿勢を保った。これらの国はなぜ不干渉政策をとったのか、簡潔に説明せよ。
 (19) オランダ系入植者が設立し、この戦争でイギリスと対決した2つの国の名を答えよ。
 (20) 1931年のウェストミンスター憲章は自治領の地位を大きく変化させた。この変化について、簡潔に説明せよ。
 (21) イタリア領リビアの設立(1934年)に至る経緯の端緒となった1911〜12年の戦争の名を答えよ。
 (22) OAUの設立を決めた1963年のアフリカ諸国首脳会議を主導したガーナ共和国の大統領の名を答えよ。

………………………………………

第1問
 課題は「工業の発展に関し、いかなる背景のもと、どのように工業化が進んだのか、そしてそうした工業化が、同時期やその後の中国の政治や社会にどのような変化をもたらしたのか」でした。
 図でも表でも、第一次世界大戦とその直後が際立った数字を示しています。とくに表の生産量は大戦前の2倍半も伸びています。教科書(詳説)に説明があります。「第一次世界大戦による列強資本主義勢力の後退は、東アジアに空前の好景気をもたらした。……中国でも日本でも、都市労働者の数はふえ、学生などの青年知識人も増加した。大戦での帝政国家の敗北、戦後処理にあたっての民族自決原則の提唱、ロシア革命の成功などは、知識人や労働者に大きな影響をあたえ、東アジア各地では社会運動・民族運動が活発化した」と。東京書籍の教科書では「大戦中、欧米の勢力が戦争に集中している間、エジプト、インド、中国などでは、軽工業を中心に民族資本による産業がめざましい発展をとげていた。……産業や商業を担った民族資本家が、国家の独立と近代化の支持者となった。留学を通じて欧米の近代教育を受けた知識人たちも、新しい思想を鼓吹したり、あるいは民族の伝統を再評価することで、民族独立の担い手となった」と。
 これらがそのまま解答になります。つまり大戦による欧米商品の後退、その間に中国工業が発展する、ということです。
 「政治や社会にどのような変化」は、政治は大戦前の辛亥革命・中華民国の成立はあるものの、事実上は軍閥割拠の状態です。せっかく経済発展しても、鉄鋼、石炭、機械などの基幹産業はほとんど外国の手に抑えられ、軽工業でも圧倒的優位に立つ外国資本と苦しい競争を強いられ、政治を握る軍閥や官僚は、民族産業を育成するどころか新税や付加税を課して喰いものにしていました。
 地主の取立てる小作料はほとんどの場合収穫の五割を越え、そのほかに労役や鶏などの献上品をさしださなければならなかった。端境期に食いつなぎの穀物を借りれば、年利にして5O〜8O%の利息を取られた。軍閥の徴収する土地税は、戦費調達のために数年先まで先取りされた。しかも治山治水が放置されたために、洪水、早害が毎年のように農民を襲った。農民・労働者は結束して農工会をつくり、穀物・棉花の供出を阻止しようとしますが軍閥は軍隊を派遣して銃殺します(『中国近現代史』岩波新書、p99-103)。これらが「同時期やその後」、1920年代の反軍閥闘争へ、新しい中国へのうねりとなります。
 中国人の日本留学は1896年に始まり科挙の廃止された1905年以後急増します。近代的学問を講じる日本人教師も、新設された北京大学に招聘(しょうへい)されました(服部宇之吉・小川尚義)。おびただしい数の日本の書物が中国語に翻訳されます。
 「留学を通じて欧米の近代教育を受けた知識人たちも、新しい思想を鼓吹」の事例として京大向きには、日本に留学して京大で河上肇に学んだことが社会主義思想を広めました。河上肇の多数の著作が中国語に翻訳され、中国の知識人や革命家に影響を与えました。それは五四運動の高まる1919年から本格化し、日中戦争、人民共和国成立、文化大革命期を経て改革開放時代の1988年まで約70年にわたります。史上初の中国語訳『資本論』は、河上肇・宮川実共訳の岩波文庫版)、『資本論』に依拠しつつ中国語訳されたもの。1875年から1949年までに翻訳されたのは10点以上とみられています。
 授業を受けたり交流のあったひとに、周仏海・郭大力・李漢俊・陳啓修・王学文が認められます。周恩来は旅行カバンに河上肇の本『貧乏物語』を入れていました。他の中国人として李大釗(りたいしょう)がいます。李大釗は自分の論文を補強するものとして河上肇の著作を引用しています(以上の内容は三田剛史(著)『甦る河上肇:近代中国の知の源泉』藤原書店による)。
 五四運動で活動した女子学生に影響を与えたのは河上肇でなく、アメリカの教育学者デューイでした。かれは訪日の予定でしたが、彼の弟子たちの懇請により急遽中国に来て、北京大学哲学教授になり2年2カ月留まることになりました。『学校と社会』(岩波文庫)で読みとれるデューイの考えでは、学校を実験場ととらえ、伝統を思い切って打破しよう、民主主義を実現しようと訴えていました。政治運動に女子が参加した初めての運動です。
 北京大学の場合、1919年末に男女共学が始まり、最初に受け入れられた女子聴講生は9名でした。しかし1920年代初頭の中国全体では、初等・中等も含めて女子学生数は3000人余りに増えます。
 

 これらの状況と大戦中と戦後の動きは、
1914〜18 第一次世界大戦・中国工業化
1915 二十一カ条要求
   『新青年』発刊・文学革命
1916 蔡元培・北京大学学長、胡適・陳独秀・李大釗らを教授に招く
1918 魯迅『狂人日記』
1919 五四運動→中国国民党、カラハン宣言
1921 魯迅『阿Q正伝』、中国共産党
1924 国共合作・黄埔軍官学校
1925 孫文の死、五・三〇運動
1926 中華民国国民政府、北伐開始(国民革命)
 これらのすべてを書く必要はありませんが、国民党・共産党くらいまでは必要でしょう。

第2問
 難問を主に解説。
問(1) モンゴルが(1)西アジアヘの進出、この進出は、当時「中央アジア、イランを支配下に置いた国」ですから大きいです。チンギス=ハンに征服された大国ホラズム(=シャー)朝(1077〜1231)です。

問(5) 資料のモンゴル軍とマムルーク朝軍の決戦(アイン=ジャールートの戦い)は教科書に書いてない詳しい説明ですが、位置はこのウィキペディアに載っている地図が参考になります。

 エジプトの教科書(『エジプト』ほるぷ社、1981)では「世界中の国々はモンゴル軍に負けたがエジプトだけ勝った」と嘘を書いています。

問⑹ ラシード=アッディーンの『集史』は何語で書かれたか、という問いです。著者はイルハン国のイラン人政治家・歴史家です。ペルシア語です。モンゴル帝国の歴史を勉強したいひとはペルシア語の学習が必須です。 

問(8) バヤジット1世は、ハンガリーのジギスムントと戦かって勝ち(ニコポリスの戦い、1396、語呂(中谷まちよ『『世界史年代ワンフレーズnew』パレード)→「2個ポリス、1396)、ティムールと戦って負けます(アンカラの戦い、1402 1402)。

問(12) この戦い(チャルディラーンの戦い)で敗れたサファヴィー朝の君主の名を答えよ。これはサファヴィー朝の建国者でもあります。西アジア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団クズルバシュがサフアヴィー朝の主力でした。戦局は鉄砲を装備したイェニチェリと鎖でつないだ大砲(問(13))を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎馬兵を倒します。イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れました。これはムガル帝国がデリー=スルタン朝最後のロディー朝をパーニーパットの戦いで破ったのと似ています。バーブルはオスマン軍事技術の砲兵専門家を採用しています。戦いの絵はウィキペディアから引いてきましたが、右上を拡大すると大砲が騎兵・歩兵を屈服させています。

地図は「プッツガー歴史地図」(帝国書院)から

問(15) 教科書(詳説)では「6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として,粗放な農耕が始まっていた」と書いています。ここから朝鮮半島、そして日本に伝播したが稲作のルーツの通説です。ルーツとちがい、戦前の日本は朝鮮米を食べて生きた、という史実があります(→https://youtu.be/T7U9lnrKklw)。

河姆渡(かぼと)遺跡の図(詳説世界史、p.67)

問(18) 「「大運河」が完成」とあるので「山陽瀆(さんようとく)」は別名に邗溝(かんこう)と呼び、北京からはじまる順は、永済渠──通済渠──邗溝(山陽瀆)──江南河となり、頭だけとると「永通邗江」(えいつうかんこう)と観光会社のように覚えます。京大過去問2015-2-(5)に「(5) このとき開鑿(かいさく)された運河のうち,黄河と涿郡(たくぐん=北京)を結ぶ永済渠は,当時朝鮮半島の北部に都を置いていた国への遠征に用いられた。この国の名を記せ」と出たことがあります。私大では「隋や唐代以降には洛陽や長安は江南と運河でつながっていた。2011年度学習院1-(7)(①広通渠②江南河 ③通済渠④永済渠〕は黄河から南につながっていた運河だね。)と選択問題で出ています。1999年度の慶應・法学部で「03.永済渠 04.邗溝」と選択語句に出題されています。

問(20) 高句麗は7世紀半ばに唐王朝の攻撃を受けて滅亡する。その後、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した国家の名を答えよ。……とありますが、新羅は半島を完全に統一していません。大同江までで、支配者たのは半島の3分の2です。

ウィキペディアの地図

問(25) 
 「清明上河図」は巻物を持っていて、6mも長いものを授業で広げて見せましたが、

今は動画で見ることもできます。
https://www.bilibili.com/video/BV1rx411Q7Bn/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.-1&trackid=web_related_0.router-related-2479604-9xr68.1777179392863.926
 
問(26) 燕雲十六州を割譲した国でもあります。

問(27) 四書に含まれる書物のうち、『論語』『孟子』『大学』以外の書名という、よく問われる問題。拙著『センター試験・各駅停車』p.8に「★五経と四書の区別をしておきましょう。五経は『春秋』『礼記』『易経』『詩経』『書経』→春に礼、易しく詩を書く。四書は『孟子』『論語』『大学』『中庸』→もちろん、ダッチューの」と覚えかたが書いてあります(1先史・中国史(1)にあり、無料配布)。

問(29) 「南部で起こった大反乱」なので順治帝が漢人の3人に与えた地域が反清の行動を起こした反乱(1673、英国の審査法の年でもある。語呂→「審査、167、×メッ3、)。

第3問
 課題は「……国民経済の運営や個々の国民の生活に政府・公権力が大きく介入するようになったが、その性格は国によって大きく異なった。1928年以降のソ連1933年以降のアメリカおよびドイツについて、それぞれの性格を、経済運営および国民の政治的自由や人権に着目して、三者の相違が明らかになるように」でした。
 比較文を作るのは意外難しいです。
 一例を挙げてみましょう(K)。

①ソ連ではスターリンの指導のもとで第1次五カ年計画が開始され、計画経済による重工業化や農業集団化が行われた。スターリン憲法では市民の権利や自由がうたわれたが、実際には反対派への大規模な粛清が行われた。
②アメリカではフランクリン=ローズヴェルトにより、議会の支持のもとでニューディールが推進され、農業調整法などで市場への積極的介入が行われた。一方でワグナー法や社会保障法の制定により、労働者の権利を保護した。
③ドイツでは全権委任法によりナチ党の一党独裁体制が確立され、アウトバーンの建設や四カ年計画の推進などで経済回復を進めた。市民へは娯楽を提供する一方、言論は厳しい統制下に置かれ、ユダヤ人迫害が行われた。
 まとめると、

 ①ソ連 第1次五カ年計画(重工業化や農業集団化)……経済運営
 ①-2 憲法では市民の権利や自由・反対派への大規模な粛清……国民の生活に大きく介入
 ②アメリカ ニューディール(農業調整法)……経済運営
 ②-2 ワグナー法や社会保障法・労働者の権利を保護……国民の生活に大きく介入
 ③ドイツ(ナチ党の一党独裁体制) 四カ年計画(アウトバーンの建設)……経済運営
 ③-2 娯楽を提供・言論は厳しい統制・ユダヤ人迫害……国民の生活に大きく介入

 これで「相違」は明らかですか? 
 ①計画と②ニューディールと③四カ年計画はどれも計画経済ではないですか? 実際、フランクリン=ローズヴェルトは「赤(=共産主義)と見られ、ニューディール政策に違憲判決が出ています。計画の中身が違えば相違なのか? 米ソの違いは資本主義(土地私有)を維持する点と、社会主義(土地国有)を維持し、それも戦争準備のための計画であつた点です。  
 ①憲法と粛清、②法で保護、③市民に対する法は書いてないので不明ですが、統制・迫害とあり、①②とは相違しています。
 この答案は具体的ではなく、法に関しては、ナチスの市民統制策として、ニュルンベルク法(旧『山川用語集』8分の1の混血までをユダヤ人と規定し、公職追放、企業経営の禁止など、市民としての生活権を制限した。市民権を剥奪し、やがて絶滅政策が強行された)で規制し、ゲシュタポ(秘密国家警察)が反ナチ的な発言・思想を監視し、裁判なしで逮捕・収容所送りも可能にした。また新聞・ラジオ・映画を統制し、焚書(本の焼却)も実施しました。

 労働組合も解体し、ドイツ労働戦線に統合した。労働者の権利を法律(ワグナー法)で守り、組合の結成を促進する方針(擁護・育成)をとったアメリカと対照的でした。
 ニュルンベルク法制定後にユダヤ人迫害が加速しています。たとえば、学校では、ユダヤ人学者・教師を大学・学校から追放する。ユダヤ人医学生の国家試験の受験を禁止する。ユダヤ人医師はユダヤ人以外診る事を禁止する。ユダヤ人弁護士は活動禁止。図書館の利用禁止。自動車免許証の剥奪、ラジオの所有禁止、食糧購入を1日1時間に制限、チョコレート他の菓子の購買禁止、肉類・乳製品配給券の給付禁止、公衆電話の使用禁止、新聞・雑誌の購入の禁止、公的交通機関の利用一切禁止、ユダヤ人の企業経営禁止、保護口座のみの貯金可能、後に全貯金没収、ユダヤ人は財産の登録を義務、後に財産没収、ユダヤ人は胸に「黄色い星」を着ける義務(1942)、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)破壊・焼却、ユダヤ人は胸に「黄色い星」を着ける義務(1942)、ベンチはアーリア人とユダヤ人で分ける。
 このように「ユダヤ人迫害」だけ③-2で言及していますが、他国のユダヤ人対策はどうなのか、書いてないので、③-2だけ浮き上がっています。①ソ連②アメリカにユダヤ人は居ないのか? 居ます。するとどういう差異があるのか。
 ①スターリンが粛清(殺害)したユダヤ人は、ユダヤ人という民族性を問題にしたのでなく政治思想(非スターリン派)の違いで弾圧・処刑しています。トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ラデックなど。ユダヤ反ファシスト委員会(JAC)のメンバーの作家たち、医師団陰謀事件でユダヤ人医師を投獄しました。スターリンのソ連は、ナチスのように制度化していない点が違います。
 ②アメリカでもユダヤ人差別がありましたが、制度化していません。憲法修正第1条で言論の自由を保障していますから規制はできない。といって差別はあり、ヘイト的なラジオ放送を許容しており、クー・クラックス・クランの反ユダヤ運動がありました。自動車王ヘンリー・フォード(私人)の反ユダヤ宣伝が名高く、ヒトラーはフォードの肖像画を執務室に掲げていたことが知られています。フォードはユダヤ陰謀論を展開した著書『国際ユダヤ人』(1922)でアメリカに反ユダヤ主義を吹き込みます。

ただし民主主義はあってもヘイトスピーチが存在することは日本とて同じです。しかしアメリカ合衆国に言論の自由があるといっても、まったくの自由はありません。2026年度の「報道の自由ランキング」では世界66位、日本は62位です(国際NGO「国境なき記者団」(RSF、本部・パリ)。
 ①②のソ米は③独のように国家が主導して民族弾圧・絶滅を行なっていない。

第4問
 主に難しめのものを解説。
問(2) ルターが「聖書のドイツ語訳を出版した。この背景にある彼の宗教的な考えを」と説明を求めました。
 ルターの考えは山川・用語集の古いものにはよく載っていたのに、2013年版には「 人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論ぐらいしか載っていない。旧版では「万人祭司主義」「聖書第一主義」があった。このどれを書いても解答になります。カルヴァン派も含めて新教徒(プロテスタント)の教会の第一の仕事は聖書そのものを学ぶこと、カトリック(旧教)のような儀式重視でなく、牧師(旧教なら司祭)の説教は何より聖書のそのものの説明になっていて、それを聞くこと、集会は聖書を学ぶ会であること、聖書を知らなくてキリスト教徒たりえない、という基本的な姿勢があります。
 万人祭司の考えも、教会や聖職者を通して神に近づくのでなく、信徒一人一人が聖書の言葉に依拠して、直接神の前で決断しなさい、という神との仲介者としての聖職者を否定した考えです。
 旧教のように善行でなく、信仰することだけで義と認められる(天国に行ける)、というのも依拠するのは聖書のことばです。それまでラテン語で唱えられていたが、意味の分からない儀式用語だったものが、一般のひとの分かる言語で書かれていて、どこにも贖宥状を買え、なんて書いてないこと発見します。今まで言われたいたこは嘘なのだ、という驚きが広がります。

問(6) タキトゥスの『年代記』は。アウグストゥスの死からネロの死まで書いたローマ教皇伝です。
 第14巻(下巻)の初めに浮気した女にそそのかされて母親を殺す顚末が詳しく書いてあります。殺される場面は息子ネロに殺されることを察知した母親アグリッパが、下腹を出して「お腹を突いてくれ」と叫び、多くの傷を受けて息を絶った、と。性欲・殺欲に満ちた人間らしい物語です。

問(8)
 資料「ローマ人は破壊的な征服戦争を終えると、この辺境属州に高度な文明と快適な生活をもたらした。ブリテン島の人々のなかには、現地人の生活を破壊してそれを「平和」と名づけるローマ人の欺瞞(ぎまん)を批判する者もいたが、現地のエリート層はその多くが、ローマ風の生活を競って採用したとされる」、ローマ人の「文明」はブリテン島の人々の「隷属」を強化するものに過ぎなかったと、ローマのいわば帝国主義的な側面を喝破(かっぱ)している。
 タキトゥスによるこのローマ帝国主義批判は、後世、(9)ヨーロッパ人によるアメリカ大陸支配の文脈で、再注目されることになる。
 比較を求めている文章をピックアップすると、
 ①タキトゥスの帝国批判:独裁政治の負の側面 vs 脅威であり続けたゲルマン人の生活と習俗…破壊的な征服戦争……「平和」と名づけるローマ人の欺瞞……「隷属」を強化する
 ②ハヴァフィールドの講演(イギリス人工リート層の帝国の意義):国民性を消し去り文明に同化……(インドの帝国)……完全なローマの成功

 ①のタキトゥスはローマ帝国に批判的であり、征服者のローマと被征服者のゲルマン人を見て、後者の被害を「脅威・破壊的・欺瞞・隷属と記します。②の歴史家ハヴァフィールドは、文明に同化、成功と評価しています。
 問われているのは「工リート層にとってのローマ帝国の意義」なので工リート層にとっての意義・長所です。征服の良い点を説明しろ、帝国に見習え、ということで、『ナチスは「良いこと」をしたのか?』(岩波ブックレット 1080)の言い換えでしょうか?
 「文明化」「植民地主義」という表現は侵略の成果を指しています。日本が明治からモデルとして学んだ西洋化のことです。福沢諭吉の「脱亜入欧」、わたしからすれば「奪」亜「似」欧です。日本は明治から西欧を文明の模範として見習うことに邁進してきました。
 つまり文明化の中身は軍事力によって征服して、人命を土地・資源を奪い、「文明」の名の下に支配することです。なんのことはないドロボー、略奪です。暴力的な西欧文明に学ぶことが明治でした。
 ローマ帝国のイギリス島征服では、先住のピクト人を1〜3万人殺したが、ローマ軍の戦死は360人でした(グラウピウス山麓の戦い、84年)。
 石原莞爾は『世界最終戦争』(1940)でさかんに「文明」という言葉を使って論じていますが、この言葉を「武力」に換えて読むと判りやすい。「文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならない」と説きますが、文明は石原にとって「文明=武力」です。「道義的世界統一」を目指す「東洋の王道」を代表する日本と、「侵略的世界統一」を目指す「西洋の覇道」を代表するアメリカとの世界最終戦争を戦った後に、世界に平和が訪れるという主張の展望を示した、とも評していますが(ウィキペディア)、中身は武力・暴力です。だいたい柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者のどこに「道義」があるのか?

 まさかここで進化論を持ち込む必要はないでしょう(Y)。社会進化論(問14)が似た使われ方はしていますが、ここでの問いは、ハヴァフィールドの理解はどんなものか、という問いです。なお、京大は日清戦争という侵略戦争の賠償金で建てられました。

問(9) その暴力性は、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)に「彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを
食い殺した(p.27〜28)。「スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また、彼らに捧猛な犬をけしかけたりした(p.39)。「司令官はインディオたちを剣で突き剌したり、生きたまま火あぶりにしたり、また、彼らに獰猛な犬をけしかけたり、そのほか様々な拷問を加えたりして苦しめ、結局、四万人ものインディオを殺してしまったのである(p.46)。「
子供や老人、そのほか生け捕りにしたインディオたちを穴の中へ放り込み、その穴の中は、しまいには串し剌になったインディオたちで一杯になった。ことに、母親とその子供の姿は胸の痛む光景であった。スペイン人たちは残りの人びとを全員槍や短刀で突き殺し、獰猛な犬に分け与えた。犬は彼らをずたずたにして食べてしまった(p.78)。犬による暴食と人間の殺欲に満ちた記録です。

ド・ブリの虐殺版画

問(10) ヒントは「1935年にイタリアの軍事侵攻」エチオピア戦争です(語呂→「エチオピア、1935でも)。

問(12) 長老派教会(プレスビテリアン、カルヴァン派)の中核的な教説として、予定説をあげる予備校の解答はまちがいではないものの、それはもっぱらカルヴァン自身の説です。信徒が信仰・不信仰であれ、善悪行であれ、それを根拠に天国にいけるかどうかは分からない。神に決定権があるという説で、個人の行き先は予め神が予定している、という人間の行為の否定論です。神の絶対性の強調です。カトリックの儀式も贖宥状も無効です。
 信仰義認論でも予定説でも合っていますが、同時に教会のシステムとして長老制をとりました。これは教会の中で信頼を集めた一部の信徒たちの合意(長老会)に運営を任せる制度です。

問(18) なぜ不干渉政策をとったのか。英仏が独伊との対立にまで行かないように警戒してとった政策。

問(20) 1931年のウェストミンスター憲章は、自治領議会の法がイギリス法と矛盾しても無効とならないこと、自治領の同意なき限りイギリスの法律は自治領に適用されないことを決めました。互いに独立を認め合ったような内容です。この憲章により、イギリス帝国でなく、イギリス連邦ができあがった、と言います。

一橋世界史2026

一橋世界史2026
(歴史総合・世界史探究)
第1問 次の文章はある文学作品の一節である。これを読んで、問いに答えなさい。

  まずアリカンテ*で例の船に乗りこみ、海路つつがなくジェノヴァに到着したわたしは、ミラノまで行って兵士になるための武具と軍服を調えました。さらにそこからピアモンテ**に赴いて、志願入隊するつもりだったのです。ところが、〔中略〕偉大なアルバ公爵が軍を率いてフランドルヘ進軍中との噂(うわさ)を耳にしました。そこでわたしは予定を変更して公爵の軍に加わり、各地を転戦して、反徒たるエグモント伯爵とホルン伯爵の処刑を目のあたりにした後、〔中略〕将軍の旗手に抜擢(ばってき)されました。さて、われわれがフランドルに着いてしばらくした頃、今や人びとの追慕の的となっている教皇ピオ5世が、ヴェネツィアおよび[ A ]と同盟を結び、共通の敵である[ B ]に立ち向かうことになったというニュースが広まりました。その少し前に[ B ]は艦隊を派遣してヴェネツィアの領土である名高いキプロス島を奪取し、キリスト教世界に嘆かわしくも甚大な損失を与えていたからです。同盟軍の総司令官には、われらの国王[ C ]の異母弟で、冷静沈着なことで知られるドン・ファン・デ・アウストゥリアがお就きになることが確認されていましたし、同時に、大々的な決戦の準備がととのえられていることなども伝わってきましたので、わたしの心は奮いたち、来たるべき対[ B ]戦役にどうあっても参加したいという願いを抱くようになりました。なるほどフランドルにいれば、ほどなく大尉に昇進できるとの、ほとんど確実な見込みがあったのですが、それらすべてを投げうってもわたしはイタリアに赴きたいと思い、実際そうしました。〔中略〕わたしはあの栄光に満ちた戦いに参加することができたのです。しかも、その時には歩兵大尉になっていましたが、そうした晴れがましい地位に昇進することができたのも、わたしの功績というよりはむしろ幸運のおかげでした。そして、その日はキリスト教世界にとってとてもめでたい日になりました。と申しますのも、その日、世界の諸国民がそれまで陥っていた、[ B ]軍は海上にあって無敵であるといった迷信から覚めることになったからです。
(『ドン・キホーテ』(牛島信明訳)より引用。但し、一部改変)

*地中海に面した[ A ]の港町
**ピエモンテのこと。ミラノを中心とする地方。

 この文章は、この文学作品の主人公が旅の途中に泊まった宿屋で、同宿の「わたし」が主人公たちに語った話である。この作品の著者は、若い頃に、自らの出身国である[ A ]を中心とする連合軍が勝利した下線部の戦いに参加した経験を持ち、壮年になって発表したこの作品の中で、当時のヨーロッパ史上の出来事を「わたし」の経験として語らせている。
  引用文中の「わたし」が語る出来事が起こった世紀から次の世紀にかけて、世界における[ A ]の位置づけはどのように変化したか、[ B ]の勢力拡大と[ C ]の事績ならびに、「わたし」が兵士として経験した一連の戦いの結果がその変化に与えた影響に言及しながら論じなさい。解答文には、
[ A ]、[ B ]、[ C ]に該当する語句を必ず使用し、下線を引きなさい。但し、A、B、Cの記号自体を記す必要はない。(400字以内)

 

第二問 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

  ……いま話題になっているのは、現在および将来の党にとってきわめて大きな意味をもつ問題である。すなわち党の原則である党内民主主義と革命的合法性とをきわめて大規模かつ深刻なほどに歪曲することになった一連の原因へある段階で変化したスターリン個人崇拝が、いかにして形成されてきたかという問題がそれである。
  個人崇拝が実際に何をもたらしたか、党における集団指導原則の侵犯と一人の人物の手に強大で無制限の権力が集中したことによって、いかに大きな損害がもたらされたか、ということはまだ十分には理解されていない。これにかんがみて党中央委員会は、この問題にかんする資料をソ連共産党第20回大会に提供することが必要であると考える。〔中略〕
  スターリンの下で起こったようなことが繰り返されるあらゆる可能性を取り除くためにわれわれはこの問題を真剣に検討し的確に分析しなければならない。スターリンは集団的な指導や集団的な活動にはまったく我慢がならず、気まぐれと専横な性格ゆえに、自分に反対する人々だけでなく自分の方針に反していると思われた人々に対しても、無作法な暴力を行使した。彼は、説得や説明、人々とともにおこなう面倒な活動を通じてではなく、自分の方針を無理強いし自分の意見に無条件に服従することを求めるやり方で活動した。これに抵抗したり、自らの見解やその正しさを示そうとしたりした人々は、指導的集団から排除されて、精神的および肉体的に抹殺される運命に陥った。
 (歴史学研究会編『世界史史料』第11巻より引用。但し、一部改変)

問 この演説は、ソ連の指導者フルシチョフが1956年2月に開催されたソ連共産党第20回大会で行った演説である。この演説の前後の時期にソ連は国内政策と外交政策の両面で政策の転換をはかった。この演説が行われた背景について述ベ、実際にどのような方針転換が行われたのかについて論じなさい。また、こうした方針転換がソ連と社会主義陣営諸国の関係に与えた影響についても論じなさい。(400字以内)

 

第3問 次の資料は、1973年10月19日の『朝日新聞』朝刊に掲載された社説である(一部を省略のうえ、表記を改めている)。これを読んで下記の問いに答えなさい。(問1と問2あわせて400字以内)

 十七日、アラブ側はついに石油戦略を発動、産油国はイスラエルを支持する米国およびその友好国を対象に、毎月五%の生産削減を決定した。石油危機が叫ばれている折柄、(a)この作戦が米国のみならず世界の経済・社会生活に与える影響は、時とともに計り知れぬ影響を及ぼして行くものと思われる。現在のように需要が急増する一方の石油事情と、産油地域が中東に集中しているという状況を考え合わせれば、石油が政治的な武器として持つ力は、かつてないほど強まっている。それは陸、海、空三軍と並ぶ「第四軍」にも匹敵するものとして、西欧の有力紙は「石油軍」という言葉をこのほど造語したほどであった。
  〔中略〕西欧は(同じく(b)被害を受ける日本も含め)、アラブから与えられたこの時間を利用し、経済的な対策ばかりでなく、アラブ側の条件に対する政治的対策をも検討しなければならない。
      (「発動されたアラブの石油戦略」)

問1 下線部(a)に関して、アラブ側が石油を「武器」に「この作戦」を用いるに至った直接的な契機について論じるとともにその背景を第一次世界大戦の終結までさかのぼって説明しなさい。

問2 下線部(b)に関して、この「石油戦略」によって日本の経済とエネルギーをめぐる環境はどのような影響を受けたか、下の表も参照しつつ説明しなさい。

  【表】日本における一次エネルギー供給量の推移
 

 

第1問
 課題は「出来事が起こった世紀から次の世紀にかけて、世界における[ A ]の位置づけはどのように変化したか、[ B ]の勢力拡大と[ C ]の事績ならびに、「わたし」が兵士として経験した一連の戦いの結果がその変化に与えた影響に言及しながら」でした。2017年のスペイン盛衰の焼き直し問題でした。「世紀から次の世紀にかけて」は過去問の「スペインの盛衰、および16〜17世紀のヨーロッパ経済に与えた影響」と連動しています。

 この「戦い」は何か。小説「ドン・キホーテ」、「あの栄光に満ちた戦い」、3回も出てくる「フランドル」とヒントはいくつもあります。とくに「フランドルヘ進軍中」はスペインがもつ領域のフランドルはオランダ独立戦争の原因となった戦地です。国王フェリペ2世の在世中でした。カール5世の後を受け継ぎ、16世紀「スペインの世紀」の後半をになった人物の「栄光の戦い」はレパント海戦です(1571)。これで地中海はからオスマン帝国は追撃されたのでなく、「地中海制覇は一時的に後退し(山川・用語集)」に過ぎませんでした。次のアルマダ海戦(1588)で英国に敗れます。
 ある予備校(S)の解答例で「レパントの海戦でオスマン帝国を破って威信を高め、西地中海へのイスラーム浸透を防いだ」としていますが、西地中海に位置するアルジェリアの地域は1550年代(スレイマン1世)にすでにオスマン帝国の領域になっています。
 文学作品の一節に「アルバ公爵が軍を率いてフランドルヘ進軍中」とあり、この男は苛烈な弾圧を行たことで知られ「暴君アルバ」と呼ばれます。独立戦争に発展する主因となります。弾圧の方法は、容疑者の大量逮捕、財産没収、公開斬首(ざんしゅ)、絞首刑、火刑(異端審問的処罰)、拷問による自白強要、都市への駐屯軍配置、新税導入などが火種になります。
 殺した人間は、18,000人と数えたものがあっても現代の史家は、実際は約1,000〜1,500人前後だったろうと推理しています。後者は裁判記録による処刑数で、戦闘中の虐殺・略奪・拷問死・逃亡による破産や飢餓は含んでいません。
 この弾圧の嵐が去った後のネーデルラントを描いたのが(父)ピーター・ブリューゲルです。「幼児虐殺MassacreoftheInnocents」と「絞首台の上のカササギTheMagpieontheGallows」と2枚あります。
 「結果がその変化に与えた影響」とあります。結果はもちろんスペインの勝利、オスマン帝国の敗戦となりましたが、軍事費増大による国庫の破綻は防げず、1596年に大規模な破綻がおきます。国庫が枯渇し、銀行家への返済が不能なりました。金銀流入が減りだし、宝庫のネーデルラントを戦闘で失い、綿織物業の育成を怠ったために回復しませんでした。約3年にわたるペストの流行も重なりました。
 この17世紀に明らかになる衰退要因のうち特異なのは毛織物業の衰退のことです。一つはレコンキスタとその継続で、①ユダヤ人・モリスコ(改宗ムスリム)追放による技術者喪失です。ユダヤ人は商人・銀行家であり、モリスコ(改宗ムスリム)は織物・染色・手工業の担い手でした。また②貴族・牧羊経済を優遇していて、都市工業・都市市民(ブルジョワ)を保護していません。とくに貴族は広大な牧羊地の所有者であり、メスタ(牧羊組合)の移動放牧を保護しています。秋になると1000頭単位で10名程度の牧者と牧羊犬と塩を載せたラバを引き連れて南下を開始し、春には逆の移動路を北上しますが、途中の農地が荒らされます。それを示した絵が下の絵で、これは歴史画を集大成したものでAIにつくってもらった絵です。貴族と農民の対立がよく示されています。

 左下の抗議の板:

Nuestros Campos
Nuestro Sustento
Basta De Danos!

私たちの農地
私たちの生計
被害はもうたくさんだ!


 価格革命によって羊毛市場が縮小していくと英蘭の毛織工業に負けていきます。
 ポルトガルはスペインから独立し(1640)、海外の基地はほとんどオランダに奪われていきました。「太陽の沈まぬ国」だったのが、「太陽が沈む国」にもどりました。

第2問
 課題は「この演説が行われた背景について述ベ、実際にどのような方針転換が行われたのかについて論じなさい。また、こうした方針転換がソ連と社会主義陣営諸国の関係に与えた影響についても」でした。
 課題は三つ。①背景、②方針転換、③ソ連と社会主義陣営諸国の関係に与えた影響、でした。
 ①背景 

 一橋はよく「背景」を書かせる大学です。ということは、一つの事件について書かせるだけでなく、事件にいたるまでの背景、言い換えれば、経緯・要因/遠因も書けということです。事件の外回り、環境/状況と呼び変えてもいいものも書け、ということです。バックグラウンドですね。
 この問題の場合は「スターリン批判」と総括される演説にいたるまでの何がバックにあったのか、ということです。ソ連自身のバック、ソ連外の世界的/国際的なバックは何か、フルシチョフにそこまで演説させた理由・要因は何か、ということです。予備校の解答例の中には、この背景を書かないものもあります(K)。
 ポーランド統一労働者党第一書記のボレスワフ・ビェルトは、スターリン批判の衝撃のあまりモスクワで心臓発作を起こして死亡した。

 ②方針転換は、■■■から〇〇〇へという違いを表すことが必要です。

 個人崇拝(独裁政治)→集団指導体制
 冷戦→平和共存(コミンフォルム解散)
 大粛清→名誉回復/政治犯の釈放/強制収容所(グラグ)体制の縮小/冤罪再審
 指導者への批判(スターリン神話の崩壊・犯罪告発)→言論の(多少の)自由
 軍需・重工業→軽工業・生活改善(住宅・家電)
 朝鮮戦争に参戦→日本と国交(正常化/日ソ共同宣言)
 ユーゴ、コミンフォルム追放→ユーゴスラヴィアと和解
 資本主義国と対立→米国訪問(キャンプ・デービッド会談、1959年、語呂→キャンプで、冒1険9ご5き9げん)

 中国共産党はこの「批判」を研究して、今も余命を保っているが、批判への弾圧はいずれ命を絶つ要因になるはずです。というか、なってほしいものです。
 ニュースでは、不正を告発するフリー記者を拘束しました(2026.4.24)。中央政府が「反腐敗」を掲げいながら、不正を訴える報道を許しません。ネットからも消しました。中国国内の主要メディアも沈黙を守っています。経済的な成功はいつまでもち、かつての日本のスパイ防止法(治安維持法)のような中華人民共和国反間諜法(プラス「国家安全法」や「国家情報法」)が生きつづけられるか?

 ナチスの宣伝相ゲッペルスの行なったことをAIに作ってもらいました。戦前の日本のすがたでもありまます。バカ市の目指す「これからの日本」かもしれない。このトランプに抱きつくバカ市ママは子どもを国のために差し出せと迫ります。→https://x.com/i/status/2007347488962052581

  また7万人超の住民が犠牲となったパレスチナ自治区ガザでのイスラエルの軍事行動には、パランティア・テクノロジーズ社提供のAI技術が用いられてきました。アメリカ国内でも、市民の殺害にまで至ったICE(アイス、移民・税関捜査局)による無差別的な移民の取り締まりに、この会社製の監視ツールが用いられてきました。バカ市はこの会社の会長と接触しました(→https://mainichi.jp/articles/20260423/k00/00m/030/169000c)。国民監視に使うのか?

③ソ連と社会主義陣営諸国の関係に与えた影響
 1953年 東ベルリン暴動
 1956年 ポーランド・ポズナニ暴動
     ハンガリ一反ソ暴動
 この後は12年おきに騒動がおきます。(1968プラハの春、1980ポーランド連帯)
 このうち東ベルリン暴動は、今の教科書には載っていないようです。1953年6月東ベルリンの労働者が起こした運動で、年代からもわかるようにスターリンの死去が原因です(スターリンの死・批判の語呂→「廃れ、投1棄9ご5み3、ゴ5ム6タイヤ)。東欧各国の指導者は小スターリンでしたから、スターリン路線への不満が爆発しました。スローガンは「顎(あご)ヒゲ、出っ腹、メガネは人民の意志ではない」でした。顎ヒゲ書記長ウルブリヒトの独裁が非難され、東ドイツの600の市町村で抗議行動が展開され、106人が即決裁判で処刑されました。顎ヒゲ権力の強化になりました。

 コミンフォルムの解散は上で政策転換としましたが、影響のなかで書いてもいいでしょう。

 

第3問
問1 課題は「下線部(a)(この作戦が米国のみならず世界の経済・社会生活に与える影響は、時とともに計り知れぬ影響を及ぼして行く)に関して、アラブ側が石油を「武器」に「この作戦」を用いるに至った(1)直接的な契機について論じるとともに、(2)その背景を第一次世界大戦の終結までさかのぼって説明しなさい」でした。
 (1)直接的な契機
 資料「1973年10月19日……十七日、アラブ側はついに石油戦略を発動」とあるのはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が1968年石油輸出国機構の中のアラブ諸国が結成した協議機関。第4次中東戦争中に石油戦略を発動し、石油危機を引きおこします。資源ナショナリズムと呼ばれる民族自決運動の一つです。これが「直接的な契機」です。
 (2)第一次世界大戦の終結まで
 当時の戦争のエネルギーは石炭でしたが、大戦で石油が勝敗を決することが明らかになりました。大戦後の民族自決は西アジアに適用されず、委任統治領というかたちで遅らされ、民族運動は活発になったが、資源は欧米資本が利用しました。これは怨念を貯めてしまいます。
 この怨念は第二次世界大戦後に、イラン石油国有化(1951年)はサディクが失脚させられ、イランは国際石油市場から締め出されました。
 なお、第一次世界大戦で石油は勝敗を決する決定的な資源となりました。太平洋戦争の前なら米国の対日石油禁輸が想起されます。真珠湾奇襲からでなくマレー半島のコタバル襲撃から太平洋戦争は始まりました。半島の支配者はイギリスなので、対米ではなく対英戦争として始まります。

 12月8日、陸軍は、英国軍の激しい抵抗の中、英領マレー半島コタバルに上陸。やや遅れて同半島シンゴラ(タイ領)にも上陸します。日本軍は、マレー半島をへて、石油資源が豊富なオランダ領インドネシアの占領を目標にしていたからです。日中戦争続行のために不足している石油収奪のための侵略戦争です。真珠湾奇襲の1時間前でした。コタバル(コタ・バル)奇襲後、タイのプラチュアップキリカン・チュンポン・ナコムシータマラート・ソンクラなどに上陸し、日タイ戦争を引き起こし、タイとは前年に友好和親条約を締結していたので、明らかに国際法違反です。

問2 課題は「下線部(b)(被害を受ける日本」)に関して、この「石油戦略」によって日本の経済とエネルギーをめぐる環境はどのような影響を受けたか、下の表も参照しつつ説明しなさい」でした。グラフを見るまでもなく石油の比重は大きい。
 教科書(詳説)では「ドル=ショックとオイル=ショック(石油危機)は、先進国の好景気に終止符をうち、まもなくたちなおった日本をのぞいて、西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の経済成長は減速した。……世界経済は多極化へと向かうが、先進工業国と発展途上国との格差が南北問題として深刻化した。」と書いています。
 詳説日本史では「1973(昭和48)年10月、第4次中東戦争が勃発すると.アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は「石油戦略」を行使し、イスラエル寄りの欧米や日本への石油輸出を制限し.原油価格を段階的に4倍に引き上げた。これを機に.アラブ参油国の資源ナショナリスムが高まり.安価な原油の安定的な供給という経済成長の基本条件が失われた(第1次石油危機)。当時、日本の原油輸入量は世界最大規模に逹しており、しかもその大半を中東地域に依存していたので,日本経済が受けた打撃は大きかった」。と書いています。
 庶民には、トイレットペーパー以外に、洗剤や砂糖、塩なども「なくなる」という噂が広がり、スーパーから商品が消えました。他に灯油や練炭も品薄になり、政府は省エネを呼びかけ、深夜テレビ放送の短縮、ガソリンスタンドの休日休業などが実施されました。今年はどうなるのでしょう?

詳説日本史 p.404

 

東大世界史2026

第1問
 モンゴル帝国の時代にユーラシアにおいて広域交流が活性化し、これを先駆けとして、15世紀末からは「世界の一体化」と呼ばれる地球規模の交流が開始された。この動きのなかでインドではイスラーム教が浸透し、またヨーロッパ勢力が到来してアジア進出の起点とした。
 このことに関連する以下の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。

問(1) モンゴル帝国解体後の広域交流の展開を踏まえてムガル帝国の成立に触れた上で、ムガル帝国の宗教政策や文化について、10行以内で記述せよ。その際以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。  

 アウラングゼーブ タージ=マハル ティムール ペルシア語

 

問(2) 「世界の一体化」の進展を踏まえて、15世紀末から17世紀中頃までのポルトガルのアジア進出について、10行以内で記述せよ。その際、以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。

 ザビエル トルデシリャス条約 マカオ マラッカ王国

第2問
 地球環境や天然資源は人類の経済活動や社会制度の変化と密接に関係しており、人類の歴史を考える上で重要な要素の一つである。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) 次の文章を読み.このことに関する以下の(A)·(B)·(C)の問いに、冒頭に(A)·(B)·(C)を付して答えよ。

A:この図は、12世紀初め頃に、現在のフランスのブルゴーニュ地方にある、とある修道院で作成された手書きの冊子本に見られる装飾の写真です。
B:描かれているのは修道士でしょうか?彼らは何をしているのでしょうか?
A:良い質問ですね。考えてみましょう。この描写からは、この修道院を中心に形成された修道会における、冊子本作成当時の修道士たちのあるべき姿の一つを読み取ることができるのです。
B:彼らは植物の上に立っているように見えます。左の人は斧を持っていますね。キリスト教とは関係がなさそうですが…。
A:そうですね。しかしこうした活動も、彼らの修道生活にとっては大きな意味を持ったのです。

(a) この描写に見られる修道士たちの活動を話題になっている修道会の名称を挙げながら、2行以内で記せ。

(b) (a)で扱った修道士たちの活動の背景となった当時のヨーロッパの気候傾向を述べた上で、その傾向に変化が生じ時期と、その変化がヨーロッパにもたらした影響を、3行以内で記せ。

(c) この描写を含む冊子本は、教皇グレゴリウス1世の著作を収録している。この教皇の事績を説明した文として最も適当なものを次のア〜エのうちから1つ選び、その記号を記せ。

ア ゲルマン諸族へのキリスト教布教を進めた。
イ イコンの利用をめぐり、ビザンツ皇帝レオン3世と対立した。
ウ フランク王カールに皇帝の冠を与えた。
エ 聖職叙任の問題などをめぐり、ハインリヒ4世と対立した。

問(2) 自然環境は人間の移動を条件づけてきた。それを知る手がかりを与えてくれる重要な史料の一つとして、旅行記が挙げられる。次の資料は、14世紀に世界の各地を旅し、旅行記を残したことで知られるモロッコ出身のウラマーが.旅の途中、海路でアラビア半島南東部のザファーリを訪れた時の記録である。このことに関する以下の(A)·(B)·(C)の問いに、冒頭に(A)·(B)·(C)を付して答えよ。

資料
 ココヤシの実は、人間の頭にその形が似ている。つまり、その実には二つの眼と─つの口が付いており、(中略)その表面は毛髪に似た繊維に覆われている。ザファーリの人たちは、その繊維で縄紐を作って、鉄釘の代わりにそれを使って船板を縫い合わせる。また、その繊維から船舶用の太綱を作る

(a) このウラマーの名前を記せ。

(b) 資料中の下線部に関連して、ココヤシの繊維を用いて作られていた帆船の名称を挙げながら、その船を用いて行われた海上交易について、2行以内で記せ。

(c) 当時のアラビア半島西部には、カイロを拠点とする王朝の影響力が及んでいた。その王朝の建国後の対外的な動きについて、王朝の名称を挙げながら、2行以内で記せ。

問(3) ユーラシア大国としてのロシアは、シベリアという広大な領域の支配により成立したといえる。シベリアの毛皮や木材、そして豊富な地下資源は、歴史的にロシアに大きな経済的利益をもたらしてきた。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

(a) 16世紀のロシアのシベリア進出について、2行以内で記せ。
(b) 1890年代のロシアのシベリア開発に関して、この時期に起こった事柄とその背景さらにその影響について、対外関係も踏まえて、4行以内で記せ。

第3問
 世界史探究の授業において、3つの班が世界史における女性と男性のあり方について調べ、パネルを作って発表した。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

 

 1班は、近代イスラーム社会における女性のあり方に関心を持ち、オスマン帝国の女性雑誌について調べたことをパネル1にまとめた。
—————————————————
パネル1
 オスマン帝国では、女性の編集者によるトルコ語の女性雑誌が1880年代に登場した。これらの雑誌には、家政、衛生、教育、文学、ファッションなど多様な記事が掲載された。ⓐその後、憲法の下で出版の自由が保障されたことを背景として、1910年代に女性雑誌が多数刊行された。なかでも『女性の世界』誌は、ムスリム女性の地位の向上、教育の拡大、社会進出などを訴え、また、ⓑ女性の参政権について論じた。オスマン帝国における女性のこうした活動は、世界各地に波及した第1波[ A ]の一環であり、その第2波は、ⓒ1960年代後半から70年代に高揚した。

問(1) 下線部ⓐの状況をもたらした、オスマン帝国における政治的事件の名称を記せ。
問(2) 下線部ⓑに関連して、第一次世界大戦後のドイツでは、男女平等の普通選挙権を明記した憲法が成立した。この憲法の名称を記せ。
問(3) 下線部ⓒの時期の[ A ]の運動に影響を与えた、アメリカ合衆国におけ
る黒人差別撤廃運動の名称を記せ。

 2班は、中国における女性と男性のありように関心を持ち、清代についての資料
を探して、パネル2にまとめた。
——————————————————
パネル2

Ⅰ                           Ⅱ


・Iは清の皇帝が狩猟をしている様子を描いた絵画である。左側に描かれている女性は、動きやすいズボンをはき、馬に乗っている。これは、清を建国した[ B ]の社会に見られる習俗だった。
・IIに見える女性は、纏足と呼ばれる、人為的に足を小さくする風習をしている。これは、清の支配以前から[ C ]の上流層で行われた習慣で、ⓓ科挙に合格して官僚を出した地主など富裕層の家庭に多く見られた。
・近代になると、IIに見られる風習や、ⓔ[ C ]の男性に対して強制された辮髪は廃止されていった。しかし、身体に関わる規範からの解放を強制することもまた、苦痛を強いることになった。

問(4) パネル2中の空欄[ B ]・[ C ]に入る語句の組合せとして正しいものを次のア〜エのうちから1つ選び、その記号を記せ。

 ア B─漢人  C─満洲人
 イ B─漢人  C─両班
 ウ B─満洲人 C─漢人
 エ B─満洲人 C─両班

問(5) 下線部ⓓに関連して、試験で官僚を選抜する科挙制度は清と同時期のヨーロッパで注目を集め、啓蒙専制君主と交遊して影響を与えた思想家も、これを高く評価した。この思想家の名前を記せ。

問⑹ 下線部ⓔに関連して、辮髪姿の男性は中国人の表象とされ、19世紀から20世紀前半にかけて、欧米の風刺画でさかんに描かれた。その背景にはこの時期に中国人労働者が世界各地に数多く流入したということがある。その事情について調べるための資料として適当でないものを次のア〜エのうちから1つ選び、その記号を記せ。

 ア 世界恐慌の前後における主要国の工業生産指数の推移を示したグラフ
 イ イギリスとフランスにおける奴隷制の廃止に至る過程を記した年表
 ウ 第2次アヘン戦争(アロー戦争)後に結ばれた北京条約の内容
 エ 蒸気船・蒸気鉄道による輸送力の増加を示した統計

 3班は、女性の社会的な地位や役割の変遷について関心を持ち、調べたことをパネル3にまとめた。
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パネル3
 次の資料は、前7世紀後半にレスボス島に生まれ、古代ギリシアの叙情詩人として名高い女性が歌った詩である。

 やさしい母さま
 ほんにわたしゃ、もう機(はた)を織る
 気も出ませぬえ、
 すらりとした殿御(とのご)をいとしと
 おもうこころの切なさに。
  (呉茂一訳、表記一部改変)

・この詩は、未婚の女性が若い男性に恋い焦がれる様子を描いたものであるが、本来であれば彼女は母とともに家事労働を期待される存在であったことも示している。
・前近代における一般の女性たちは、このように家庭内での役割のみを求められ、政治に参加する権利を認められないことが多かった。ⓕ世界史には権力の座についた女性も現れたが、その多くは家系や結婚などによる地位の獲得や向上が前提となっていた。
・近代に入ると、ⓖ男性優位の役割分担がむしろ強まったが、ⓗ20世紀になると、社会に出て働く女性も多くなり、それが女性の社会的・政治的地位向上に結びついていった。
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問(7) パネル3中の詩の作者の名前を記せ。

問(8) 下線部ⓕに関連して、中国史上で唯一、女性で皇帝となった人物の名前を記せ。

問(9) 下線部ⓖの傾向は、近代欧米社会において、法で規定されることによって強化・固定化された側面があった。フランスで定められた、近代市民社会の原則をまとめた民法典の名称を記せ。

問(10) 下線部ⓗのきっかけの一つは、戦争が、軍隊だけでなく国力の全てを動員する形態をとるようになったことにある。このような戦争の形態の名称を記せ。

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第1問
 問(1) 課題は「モンゴル帝国解体後の広域交流の展開を踏まえてムガル帝国の成立に触れた上で、ムガル帝国の宗教政策や文化について(指定語句→アウラングゼーブ タージ=マハル テイムール ペルシア語」でした。

 問題の導入文に「モンゴル帝国の時代にユーラシアにおいて広域交流が活性化し、これを先駆けとして、15世紀末からは「世界の一体化」と呼ばれる地球規模の交流が開始された」という説明があります。この文章のへの疑問は、13世紀のモンゴル帝国を「先駆け」として、15世紀末からは「世界の一体化」と呼ばれる地球規模の交流が開始された、と大航海時代(地理上の発見)を連結させています。この二つの「広域交流」は「一体化」と呼べるつながりが本当にあったのか? 14〜15世紀の2世紀は帝国は分裂し、相互に対立しており、ジャムチ(駅伝制)も崩壊しているので、「一体化」は無理に共通要素があったかのように捉えています。情報は12世紀までの世界より伝わったでしょうが、「一体化」は誇張とおえます。前者は陸上であり、後者は海上です。なにか根拠があるのか? この間に他世界の情報が伝わったのは確かですが、他に何か根拠があるのか? この無理筋に東大歴史学の傾向というか、巨視的に歴史をとらえよう、という意欲が感じられます。
 ただ各問(1)(2)は「帝国解体後」と、一体化とは無関係な問いです。
 「帝国解体後」とはモンゴル帝国が同系統のモンゴルの諸汗国が互いに争い、分裂を深めていき、そのうちの一つであったチャガタイ汗国ができ、東西に分裂し、西の汗国からティムール帝国が湧き出て、イランと周辺をいっきに支配下におき帝国化する、という現象がありました。
 これは過去問・2022年の第1問「8~19世紀までのトルキスタンの歴史」(20行)の類題です。それは「トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼす」とあり、そのうちのインド/南アジアに限った影響を書くという焼き直し問題です。その中身もムガル帝国の宗教政策に関しては対照的なアクバル・アウラングゼーブ両帝の対比です(1991-1、2002-2-5、2016-2-2)。東大は過去問と一体化しています。
 問いの初め「モンゴル帝国解体後の広域交流の展開を踏まえて」とあるのに、「帝国解体後」とはどういうことか書いてない予備校の解答例もあるが、モンゴル帝国→四汗国→チャガタイ汗国→東西に分裂→西チャガタイ汗国からティムールの台頭、という順で推移しました。このこと簡潔にか、あるいは一部でも書くべきでしょう。
 ティムール帝国についても、「一体化」と関連して、その「広域交流」を意識して、帝国の中身がどんなものだったか書くべきです。たとえば、都サマルカンドに中国人技術者・画家・学者・芸術家を集め、宮殿・モスク・マドラサ・天文台を造らせた。運河・灌漑の施設をつくり、細密画(ミニァチュール)が発展した、など。ここでトルコ・イスラーム文化ができたとも呼ばれます。ティムール本人は貧しい出で、羊馬の略奪に精を出す強盗団の頭となり、その間負傷したため障害者でした。華麗な建物に醜い小男という、歴史によくある姿です。
 次問の「ムガル帝国の成立に触れた上で、ムガル帝国の宗教政策や文化」は①帝国成立過程と②宗教政策や文化の二つです。
 ①成立は、(1)創始者のバーブルに言及する。チンギス=ハンの血統を受け継ぐという人物、(2)アフガニスタンでティムール帝国再建を期したが失敗、(3)インドに南下してデリー=スルタン朝最後のロディー朝をパーニーパットの戦いで破りデリー市に入った、と。
 この戦いはインドにおける火器への転換点とみなされます。バーブルはオスマン軍事技術の砲兵専門家を採用しています。装備は「火器統合軍」と呼べるもので、その核心は火器+機動騎兵です。野戦砲(青銅砲)と火縄銃兵をもっていて、ロディー朝には火器はなく、約1000頭と推定される戦象が相手でした。象軍の密集突撃は大砲の前に混乱散逸するほかありません。中世のロディー朝と近世のバーブル軍の決着でした。日本史なら長篠の戦いですね。
 ②宗教政策や文化
 指定語句に「アウラングゼーブ」があるので、アクバルの政策を書き、対照的なアウラングゼーブの政策も書く。
 アクバルの政策はデリー=スルタン朝の政策を受け継いでいて、ヒンドゥー教徒を受容(具体的にはヒンドゥー教徒ととの結婚許可・官吏として採用・聖地の保護)したのを、卓袱台(ちゃぶだい)返しのように反対の政策ばかり打ち出しました。フランス人旅行家フランソワ・ベルニエ(François Bernier)は『ムガル帝国誌』(岩波文庫)に、アウラングゼーブ帝のことを「ずる賢く、なるべく本心を見せまいとするたちで、長い間、……信心家になると誓願でも立てるように言い、王位など望む気は少しもなく、ただ祈りと信心の中で、静かに生涯を過ごしたいと願っているように見せかけて」(p.30)、兄弟全員を殺して首を市中に引き回し、父シャー=ジャハーンを幽閉して黙らせました。日課は、朝5時に起床して内廷のモスクで朝の祈りをおこないコーランを読み、午後にはウラマー、長老、修道僧や少数の側近たちと祈りの会をもち、日没時には夕べの祈りをし、宮廷閉会(8時ころ)後には少数の側近と一緒に祈り、それから眠るまで数時間を宗教的膜想にひたるというひとでした。スンナ派としてヒンドゥー教・ゾロアスター教を認めることは許せず、いろろいな祭礼を禁止し、寺院の破壊を命じています。風紀監察官が置かれ勅令に反するものを逮捕し、宗教裁判にかけました。
 トランプと似ています。信仰庁を設け、執務室で祈禱集会をひらき、真面目に殺戮と利得に専心しています。トランプが憎むバイデンの肖像を取っ払い、代わって掲示した自動署名装置「オートペン」の写真を指さし、口に手を当てて高笑いしているバカ市ママの姿が最近話題になりました。
 ②文化は、ムガル帝国が「一体化」の中の国として「広域交流」を示すデータはたくさんあります。既にあげた細密画の発展(ムガル絵画・ラージプート絵画)と公用語のペルシア語(指定語句)、また南アジアの多様な民族の侵入がくりかえされたパキスタンにウルドゥー語を形成したこと、指定語句の「タージ=マハル」と。このタージ=マハルはシャー=ジャハーンの妻で軍事行動をしている夫に従っていたが、病没したため遺言どおりの華麗な墓をつくることになったものです。本名のムムターズ=マハルはペルシア語で、インド風発音のタージと言うのが通例となっています。

問(2) 「15世紀末から17世紀中頃までのポルトガルのアジア進出」という課題です。スペインと逆回りでインドに向かったポルトガル東回りの航路はどこまで続いたか。
 スペインとトルデシリャス条約を結び(1494)、東(アジア)・西(アメリカ)のうちアジアを範囲と決めたポルトガルは、アフリカ沿いに東に向かいました。

 アフリカの奴隷貿易の基地エルミナをポルトガルが築き、ケープから印度西部ディウ沖でグジャラート商人と組み、カイロのマムルーク朝艦隊との海戦(ディウ沖海戦、1509)に勝ちます。南下してセイロン(スリランカ、1505)に、インドのゴア(1510)、サファヴィー朝からホルムズ島(1515)を奪い、さらにマラッカ王国を滅ぼして基地を築きます(1511)。モルッカ諸島(1512)、中国の広州(1517)・マカオ(1557年に居住許可)、種子島(1543)、平戸(1550)、長崎(1571)が東端になるでしょう。ポルトガル「海洋帝国」です。この間、スペインに併合され(1580〜1640)、スペインが「太陽の沈まぬ国」と呼ばれます。
 イエズス会士の宣教師も運びますが、宣教師はたんなる宣教師ではなく、また西欧の学問を紹介する啓蒙家というだけでもなく、アジア征服の探索も兼ねていたようで、かれらの書簡からも確かめられます。ザビエルもマテオ=リッチも一種「工作員」でした。宣教師はポルトガル政府の一員としてアジア情勢を詳しく報告しています。名高いのはスペインのフィリピン総督代理・宣教師ブリエル・デ・リベラが「わずかな人数の日本兵を雇えば、中国(明)の征服も可能である」と伝えています。乱暴さに際立つ日本人サムライを評価していました。全ての宣教師が武力征服を意図していたわけではないでしょうが。

第2問
問(1) (a) 
 課題は「修道士たちの活動を話題になっている修道会の名称を挙げながら」でした。60字以内で、「名称・活動」を述べよ、という問題。
 絵と地名(ディジョン市、ブルゴーニュ地方)から修道会の名前がわかるひとは稀でしょう。「斧を持ってい」るというくらいで、シトー派と気がつく人はいるでしょうか? シトー派はが他の修道会(ドミニコ派・フランチェスコ派)・ベネディクト派と開墾運動で活躍したシトー派くらいしか日本人には分からないです。たぶん当たっているだろう、という推測でしか当てようがありません。「良い質問ですね」より、悪い質問です。東方植民にも貢献した、というヒントくらい加えてほしいものです。

 彼らと関わりの深いのが、東方植民(北の十字軍)と呼ばれる運動です。彼らによってエルベ川以東で知られていなかった三圃制農法も伝わります。14〜15世紀にはロシアにまで伝わる農法です。行った人数はおよそ2,000〜5,000人前後とみられ、修道士が単独で動いたわけではなく、集団に農民・開拓民・技術者も呼び込みました。そして一つの修道院が数百人規模の入植村を形成することも多い運動でした。ドイツ騎士団みたいに武力で征服し国家建設をおこなった集団とはそうとう違った開拓団でした。
 
(b) 「当時(12世紀)のヨーロッパの気候傾向を述べた上で、その傾向に変化が生じた時期と、その変化がヨーロッパにもたらした影響を、90字以内で」という課題です。
 「気候傾向」を書かせた珍しい問題です。拙著『世界史論述練習帳new』p.84に、知っておくべき歴史探究学説の一つとして「(3)気候による影響」という説明を1ページ使って説明しています。その中に「11〜13世紀は温暖」と題して解説しています。もともと人間も野生動物でしたから気候の影響を受けやすい。ロマネスク様式の暗い時代から高く高くと教会の屋根を上にあげることでステンドグラスをはめ、中に外の光をあふれさせるゴシック様式が生まれのが12世紀です。ロマネスク様式の高さは大規模なもので、30〜45m前後、ミラノ・コルティナ・オリンピックで度々ミラノ大聖堂がそびえ立つ映像が映し出されたように、ゴシック様式の大聖堂は150mを超します。
 11世紀からの温暖化で、開墾が進み、人口は増加し、それが初期膨張(十字軍・東方植民・レコンキスタ)に人員を提供ししました。この温暖化と開墾がネズミを増やし、14世紀以降になると黒死病蔓延の要因になっていく、という影響が拙著に書いてあります。さらに荘園制の解体・農奴解放へとすすみます。

 

(C) 課題は「教皇グレゴリウス1世……の事績を説明した文として最も適当なもの」という共通テストのような問題。
 「ア」の「キリスト教布教」が正解です。グレゴリウス1世の活動にアングロ=サクソンへの宣教があり、かれらの改宗につながりました。ローマ市で金髪の少年が奴隷として売られていて、どこから来たのかと問うとアングルからと答えたので、君のように天使(アングル=エンジェル)のような人間は早く改宗するにちがいないと布教師を送り出した、という言い伝えがあります。これはベーダ著『英国民教会史』にある逸話でダジャレ的に伝えられていますが、教皇がカンタベリーのアウグスティヌスを派遣した結果、英国がキリスト教化したこと史実です。
 「イ」は、1世ではなくグレゴリウス2世のときに対立。
 「ウ」は、カール1世に戴冠したのは教皇レオ3世。「イ」のレオン(レオーン)3世は東の皇帝。この3世は西のローマ教皇。
 「エ」は、4世皇帝と対立したのはローマ教皇グレゴリウス7世。「早よーくれないか(ハインリヒ4世・グレゴリウス7世・カノッサの屈辱)」と覚える(拙著『各駅停車』p.212)。

問(2) 
(a)「14世紀……旅行記……モロッコ出身のウラマー」とあるので、『三大陸周遊記』のイブン=バ(ッ)トゥータです。
 ウラマーは中国では士大夫、朝鮮の両班、知識人全般を指す表現です。イスラーム教の学問を修めたひとを指しています。

(b) 資料のココヤシの繊維を縄紐としてつくる船はダウ船(dhow)です。「三角帆(ティーン・セイル)」とも呼ぶくらいの小型船ですが、中国の船は大型のジヤンク船です。このダウ船の技法はオマーン、イエメン、インド西岸、東アフリカ沿岸に広く見られます。
 以下の動画(5分33秒)は船に乗っているひとの様子をよく捉えています。
https://www.youtube.com/watch?v=-dNSi-tnZDs
 課題の「海上交易」は、問(c)とも関連していて、簡単にはインド洋の東西交易です。西はアフリカ・地中海、東は中国・東南アジアにまで商域は広く、商品は陶磁器、香辛料、香料、木材、絹など。商業を書くときは、地域・商品・担い手の三役がそろっていたらOKです。

(c) 課題は「当時(14世紀)のアラビア半島西部には、カイロを拠点とする王朝の影響力が及んでいた。その王朝の建国後の対外的な動きについて、王朝の名称を挙げながら(60字以内)」でした。語呂は「マムルーク、一1つ2小5丸0」(中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』)です。カイロの3王朝は「ファーティマ朝・アイユーブ朝・マムルーク朝」は初めの「ーティ」に合わせて「フ・ア・マ」の順です。
 「対外的な動き」では、①成立した13世紀というモンゴルの世紀にフラグ(フレグ)による襲来があり、アイン・ジャールートの戦い(1260)でモンゴル軍を破っています。エジプトの教科書では「世界中の国々はモンゴル軍に負けたがエジプトだけ勝った」と嘘を書いています。その後のイル=ハン国との戦闘はつづきました。

 ②マムルーク軍が十字軍と戦い、最後の拠点アッコンを陥落させます(1291)。
 ③インドのグジャラート商人との交易は新顔のポルトガル艦隊にディウ沖海戦で敗れています(1509)。
 ④陸上ではセリム1世のオスマン軍に侵入されて滅亡しています(1517)。さらにメッカ・メディナの支配権を獲得しました。といってスルタン=カリフ制が成立したとは言いにくいのは、18世紀になってから主張しているからです。

(3)(a)
 課題は「16世紀のロシアのシベリア進出」を60字でした。これは問いとして違和感がありますが、モンゴル関連でということであれば、つながっています。つまりキプチャク=ハン国、その一派のシビル=ハン国との関連です。予備校の解答はほとんどモンゴルと無関係な解答にしていますが、なんらかモンゴルとの関係を書かざるをえないでしょう。なぜこの問題があるのかが分からなくなります。
 つまり雷帝イヴァン4世によるイェルマーク派遣(1582)でシビル=ハン国を征服し、これがシベリア進出の開始となりました。
 もともとモンゴル人との対立ではなく、イヴァン4世までキプチャク=ハン国の後裔のハンから位を継承する手続きをと取っています。詳しくは山内昌之著『ラディカルヒストリー、ロシア史とイスラム史のフロンティア』中公新書、第一章)。イヴァン4世自身の母方はチンギス汗の男系子孫ではなかったが、モンゴル有力部族の出身であり、モンゴル人からは「白いハーン」(チャガン・ハーン)と呼ばれていました」と。ちなみに、飛びますが、レーニンは純粋なロシア人ではなく、モンゴル系カルムイク人の血を引く混血です。

(b) 課題は「1890年代のロシアのシベリア開発に関して、この時期に起こった事柄とその背景さらにその影響について、対外関係も」と多様なすがたを書かせています。 
 背景は、①ロシアは、ドイツとの再保障条約の更新が拒否されると、露仏同盟を結び、(1891〜9)その資金を利用します。つまり、フランス資本を導入してシベリア鉄道を建設(ウラジヴォストークと欧州を繋ぐ)します(1891〜1905)。
 ②下関条約(1895)に対して/三国干渉(遼東半島を返還)を主導したり(1896)、中国に租借地や権益を獲得/東清鉄道の敷設権を獲得したため、イギリスや日本との対立につながり、日英同盟(1902)締結へ向かいます。

第3問
問(1) 下線部ⓐの状況(出版の自由)をもたらした、オスマン帝国における政治的事件の名称を記せ。……「1880年代に登場……「その後、憲法……「政治的事件」とあるので青年トルコ革命(1905)が想起されます。

問(2) 下線部ⓑ(「女性の参政権」)に関連して、第一次世界大戦後のドイツでは、男女平等の普通選挙権を明記した憲法が成立した。この憲法の名称を記せ。……ヴァイマル(ワイマール)憲法(1919〜33)しかない。

問(3) 下線部ⓒの時期(「1960年代後半から70年代」)の[ A ]の運動に影響を与えた、アメリカ合衆国における黒人差別撤廃運動の名称を記せ。これは人種・宗教・性・出身国などによる差別を禁ずる「公民権法」です。覚え方は「公民、特1権9無6視4」(中谷まちよ『世界史年代ワンフレーズnew』)。
 今もつづく合衆国らしい暴力的な白人主義。トランプのICE(アイス、米国移民税関執行局)という覆面重装備の捜査官は先住アメリカ人を拘束し、繰り返し殴打した、というニュースがありました。インディアンをアジア人移民と勘違いして移民だと断定した事件です(2026年1月ミネアポリス、2025年11月シアトル)。移民は白人のほうで、インディアンは先住民ですが、無知な捜査官たちにはその知識がない。捜査官たちの初任給は日本円換算で750万円、上級職は2,250万円です。じゃんじゃん捕まえる理由です。

問(4) 
 空欄[ B ]の前後は「清を建国した[ B ]の社会に見られる習俗」とあり、満洲人であり、空欄[ C ]の前後は、「男性に対して強制された辮髪」とあるので、漢人の方であり、「ウ」が正解。

問(5) 問いは「科挙制度は清と同時期のヨーロッパで注目を集め、啓蒙専制君主と交遊して影響を与えた思想家」なので、ヴォルテールが想起できるか? 過去問(2000-1)に「儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)という引用文がありました。彼の悲劇『中国の孤児』(1755)の序文に、科挙制度がいかに合理的に人材を採用しているかを論じました。

問⑹ 「下線部ⓔに関連して、……中国人労働者が世界各地に数多く流入したということがある。その事情について調べるための資料として適当でないもの」
 解答は「ア」は、中国人排斥法と関係しています。早くは1882年から1943年まで、仕事を奪うひとたちとして敵視しました。
 「イ」はもちろん奴隷に代わる労働力として苦力貿易が行なわれました。「ウ」はこの条約で中国人の渡航の自由が認められました。「エ」輸送力は大量に速く労働力を運びますから一因でしょう。

問(7) パネル3中の詩の作者「名高い女性が歌った詩」というので、サッフォーさん。

問(8) 下線部ⓕ……中国史上で唯一、女性で皇帝となった人物。則天武后。

問(9) 下線部ⓖ……フランスで定められた、近代市民社会の原則をまとめた民法典の名称を記せ。ナポレオン法典、フランス民法典のどちらでも。

問(10) 下線部ⓗ……戦争が、軍隊だけでなく国力の全てを動員する形態をとるようになったことにある。このような戦争の形態の名称を記せ。
 総力戦(国家総動員体制)です。日本の軍部が準備し、国家総動員法(1938)として法制化したものです。土屋喬雄『国家総力戦論』(1943)では、「総力戦的政治力に就いては、如何に時日をもってしでも反枢軸国家(英米仏)は枢軸国家(日独伊)に及びつき得ないのである。第一線の将兵は勿論のこと、銃後国民の思想的・政治的団結力においても、その(枢軸国側の〉優勢は絶対的なものがある。反枢軸国家の政治的不統一や対立、唯物的個人主義、自由主義、階級的独裁主義等に較べて、格段の優秀性をもってゐる。而して是れは全くその国体と政体の絶対的優越性からきてをり、特に我が国について然りである……、枢軸国家は堅き血盟を結び、今後もかくの如き戦略的方途を歩んで完勝の彼岸に到達するであらうし、また到達しなければならぬ。……我が国民は、御稜威(みいつ)の下、前線銃後一体、軍宮民一体となり、国家総力をあげてこの一大歴史的偉業を完遂し、新しき世界史の主体たらねばならぬ」と。これらの思考は失敗の根幹になっていて、硬直化した視野と作戦で大量死をもたらしました。この時の標語が「欲しがりません、勝つまでは」「すべてを戦争へ」「その手ゆるめば戦力にぶる」「今日も決戦、明日も決戦」「理窟言ふ間に一仕事」などでした。無思考日本人ができあがります。この「国家総動員法」には「濫用しないこと」「平和的な外交政策をとること」という附帯決議がついた。 3年後、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。無意味な付帯決議。神風が吹くと期待しての決議か。