第1問
次の文章は、1964年3月に国際連合の事務総長ウ・タントが、ある会議でおこなった演説の一部である。これを読んで下記の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。
世界では二つの変化が並行して進みつつあり、戦争いらい、重要性を増してきました。一つはおもに政治的な、もう一つはおもに経済的な変化です。(中略)
戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。第二次世界大戦後、アジアの諸民族の大半は独立した存在として世界の舞台に登場してきました。1960年代になると、アフリカの台頭がみられました。より最近では、ラテンアメリカ諸国のなかで、重要な変化にはずみがついているようです。(中略)
すでに言及した政治動向は世界の広範な部分でみられるでしょう。国際連合では発展途上地域と普通よばれているところです。しかし、これらの地域は実際には発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していません。程度はさまざまですが、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいます。これらの地域は、工業化された社会に比べて、ますます遅れをとっています。それだけでなく、とくに人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もあります。ここから現代のジレンマをみてとることができます。政治的な解放が得られてもそれにともなって、期待どおりの経済的な進歩が生じるわけではないのです。
問(1) 演説で述べられているように、諸民族の政治的解放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、道のりが容易ではない場合も多かった。1960年代のアジアとアフリカにおける、このような戦乱や対立について、12行(1行30字─中谷の注)以内で記述せよ。その際、以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。
アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線
問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて、5行以内で記述せよ。
第2問
ある書物が、なぜ、どのように、書かれ、読まれ、伝えられてきたのかを問うこと、あるいはそれが葬り去られたり忘れ去られたりした理由を考えることは、歴史をみる一つの有効な視点となりうる。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。
問(1) キリスト教の正典の一つである『新約聖書』は、1世紀末から4世紀末にかけての時期に次第に現在の形になったとされる。このことに関連する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。
(a) 1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行以内で説明せよ。
(b) 325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら3行以内で説明せよ。
(c) 『新約聖書』などの正典のほかにも、キリスト教の歴史において重要な意味をもった書物は多く挙げられる。そこにはキリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ。
問(2) 史上初のトルコ語・アラビア語辞書とされるカシュガリー著『トルコ諸語集成』は、1077年頃にバグダードで書かれた。この本は20世紀前半に①イスタンブルで初めて刊行されたが、その際に使われた写本は、②セリム1世の治世以降に彼の征服地からもたらされたものと考えられている。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。
(a) 『トルコ諸語集成』の著者序文には、トルコ人が広く権力を握る執筆当時の様子が記されている。その頃の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を記せ。
(b) 下線部①に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行以内で記せ。
(c) 下線部②に関連して、セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について、2行以内で記せ。
問(3) 17世紀半ばに中国の支配王朝となった清は、従来の制度や慣習を認めつつ、満洲人による支配の徹底をはかった。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。
(a) 書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら、3行以内で説明せよ。
(b) 清の支配のもとでは、儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ。
第3問
人類の歴史において、軍事的征服や領土の拡大が新しい統治の形態を生み出したり、支配された人々の抵抗運動が当該地域における政治意識を形成したりする現象は、時代や地域を問わず、みることができる。征服と支配、それに対する抵抗など
に関する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。
問(1) ローマは第1回ポエニ戦争でカルタゴに勝利し、シチリアを獲得した。ローマはこれ以後も征服戦争を進め、地中海周辺地域を中心に多くの地域を支配下においていった。こうしたローマによるイタリア半島以外の支配地は何と呼ばれているかを記せ。
問(2) 衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝は、その領域一帯に4つの郡を設置した。このうち現在の平壌付近を中心とする地域に設けられた楽浪郡は、中国から派遣された官僚により統治され、400年あまり存続した。4世紀初めに楽浪郡を滅ぼした国の名称を記せ。
問(3) 13世紀初めにハン位についたチンギス=ハンは、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合するとともに周辺の諸地域も次々に征服した。その後もモンゴル帝国の膨張は続いたが、広大な帝国内の交通を円滑にするために整備された駅伝制の名称を記せ。
問(4) モスクワ大公として東北ロシアを統一し、「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国によるロシア支配を15世紀後半に終わらせた人物の名前を記せ。
問(5) 18世紀のアラビア半島においで[ ]派はイスラーム教の教えの厳格な解釈を目指す改革運動をおこない、サウード家と協力してイスラーム法に基づく国家建設を主導した。文中の空欄に入る適切な語を記せ。
問(6) イギリスの植民地となったインドでは西洋的教養を身につけたインド知識人による社会変革の運動が起こった。そのなかには、妻が夫の遺体とともに焼かれて死ぬという慣習の禁止を求める運動もあった。この寡婦殉死の慣習の名称を記せ。
問(7) 19世紀後半、ベトナムでは、フランスが軍事的進出を企て、支配を強めていった。この動きに対して、黒旗軍を組織して抵抗運動をおこなった人物の名前を記せ。
問(8) ヨーロッパ列強がアフリカでの領土獲得競争に本格的に乗り出すなかで、1898年、アフリカを横断して領土拡大をめざしていた国(a)と縦断政策を進めていた国(b)との間で軍事衝突の危機が発生した。この2国の名称を、冒頭に(a)・(b)を付して記せ。
問(9) ディアス大統領による長期にわたる独裁体制がしかれていたメキシコでは、1910年、自由主義者マデロの呼びかけによりメキシコ革命が起こり、ディアス政権は打倒された。この時、北部出身の指導者ビリャとともに農地改革の推進をめざした農民運動指導者の名前を記せ。
問(10) 20世紀後半、非西洋に対する西洋のまなざしを批判的に検討する動きが活発化する。このような潮流のなかで、ポスト=コロニアル研究の代表作の一つである『オリエンタリズム』(1978年)を著し、東洋に対する西洋の見方を批判的に論じた人物もいる。その人物の名前を記せ。
………………………………………
コメント
第1問
導入文の「国際連合の事務総長ウ・タント」という変わった発音の名前が登場して、1960年代の世界を概観した文章から始まりました。この人物ウ・タントはミャンマー(ビルマ)出身の抗日運動家でしたが、戦後首相であるヌーの秘書を務め、その後国連事務(1961〜71年)に選ばれました。
かれの演説では、世界では二つの変化が並行して進みつつあり、政治的な変化は、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放であり、経済的な変化は、発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していない、「発展途上地域」と呼ばれている国々がある。深刻かつ持続的な低開発の状態、工業化できず、人口増加があり、生活水準の悪化が見られる、と説明しています。
問(1) 独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、このような戦乱や対立について、(指定語句→アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線)でした。つまり独立したものの、それは戦乱を通して、かつ独立国同士の対立も生んだ、という、独立してもすんなり平和な関係ができない状況です。
問(1)の構想メモとして、まず1960年代(1961〜1970年)におきた出来事を想起しなくてはなりません。指定語句(以下「指」と略字)がヒントてはありますが、課題に応じるには足らないので、補充しなくてはなりません。やってみましょう。
1960 「指」コンゴ動乱・「指」南ヴェトナム解放民族戦線(『世界史年代ワンフレーズnew』(以下『ワン)』と略称、の語呂→今後、南ヴェトナム一1苦9労60)
1962 「指」アルジェリア独立(主人=あるじ[アルジェリア]独立、僕19、62(歳))
1964 PLO設立(パレスチナ特19務6省4)
UNCTAD(国連貿易開発会議)(あん食たど、胃1黒96よ4)
1965 第二次印パ(インド・「指」パキスタン)戦争
北爆(『ワン』北爆、土1黒96子5)
シンガポール独立(『ワン』シンガポール、行1け9る6こ5れから)
67 第三次中東戦争(『ワン』空67しき3次)
EC(欧州共同体)(『ワン』空67しきは医師EC)
68 アラブ石油輸出機構、ASEAN(東南アジア諸国連合)(『ワン』汗あー、陽[ひ]1来9る6な7)
これらから言える1960年代の世界は、①冷戦の激化の頂点としてのベトナム戦争の泥沼化、②核開発による冷戦激化(仏中)、とくに毛沢東・中国の台頭、③中東戦争・PLOは独立した国同士の抗争、などです。新教科書の「歴史探究・世界史」では、「1960年代」という表現をよく使っています。そこに示されている、この問題と関連する記事は「冷戦体制の動揺」という題で、何よりベトナム戦争をとりあげ、かつベトナムのカンボジア(ポルポト政権)への軍事介入(70年代からなので答えにできない)、ラオス内戦(1960年代前半から)を挙げています。ベトナム側がパテト・ラオ軍と組んでラオス北部に侵入したのが1970年なので、書いてもいいです。
東南アジア。
ベトナム戦争と関連した周辺国との戦争がありました。ラオスはベトナム戦争に巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われました。1970年に北ベトナム軍とパテト・ラオ軍がソ連製戦車を先頭に立てラオスの要地ジャール平原を制圧しています。
また「マレー半島では、1963年にマラヤ連邦がシンガポールなどと合体してマレーシアとなったが、マレー系住民と中国系住民の対立がやまず、65年に中国系住民を中心としてシンガポールが分離した(詳説世界史)」とも書いていて、ここにも独立後の対立が挙げてあります。シンガポールのマレーシアからの独立を書いた答案は予備校では皆無でした。
マレーシアとフィリピン間では北ボルネオの東部(サバ、スールー王国の一部)に対するフィリピン側からの要求をめぐる紛争(1963〜1964年)がおきていました。
南アジア。
中印国境紛争 1959〜62年にダライ=ラマのインド亡命以降、国境地帯での緊張が高まり、62年には中印で大規模な戦闘がおきます。中国が圧倒的に優勢の中で停戦しました。
西アジア。
この60年代にかかわる出来事として、今進行中の紛争・戦争でもあるガザ地区がイスラエルの侵攻を受けています。東大のホームページにも、このガザについて「ガザ危機と中東の激動」と題して記事を載せています(掲載日:2024年2月9日→
https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0405_00026.html)。これは昨年10月7日のハマスの攻撃から書きはじめ「1967年の第3次中東戦争ではヨルダン領のヨルダン川西岸地区とエジプト領のガザ地区がイスラエルに占領され、以降、この両地区に住むパレスチナ人はイスラエルの占領下で暮らすことになりました」と書いています。この第3次でガザ地区住民は陸海空の境界のすべてを管理されることになりました。
パレスチナ人の抹殺を図っています。
AIをつかって皆殺しを実行している
イスラエルの初代首相ベン・グリオンの言葉「我々(ユダヤ人)は彼ら(パレスチナ人)の国を奪った……しかし、それは彼ら(パレスチナ人)の過ちによるものでしょうか? 我々はここへ来て、彼ら(パレスチナ人)の国を盗んだ。なぜそれを受け入れるべきなのでしょう?」(ウィキペディア)とまで言っていました。現在のイスラエルの指導者はこの初代首相のような謙虚さ(?)はありません。
予備校の答案では、第3次中東戦争に言及した答案は一つ(代ゼミ)しかありませんでした。ましてガザへの言及は皆無でした。
アフリカ。
1960年の「アフリカの年」以降も独立は次々とつづき、70年までに30カ国が独立しています。
指定語句のアルジェリアで、ひどい流血の独立戦争が終わり、エヴィアン協定でド=ゴールは独立を承認します。フランスはアルジェリアを植民地化する際に住民の殺戮(ジェノサイド)を行ないましたが、最後までこれを繰り返しました。
このアルジェリアの南では、ビアフラ戦争がありました。1963年にナイジェリアが独立する同時に内戦に入り、東南部のビアフラ軍が共和国を宣言して独立。1967年からナイジェリア政府軍に糧道を絶たれてビアフラは飢餓状態に陥り、70年までに200万人が餓死したと見られています。
また東部の角では、エチオピアとソマリアの国境紛争があり、1964年アフリ力統一機構が即時停戦呼びかけをしています。
コンゴはベルギー領でしたが、60年の独立とともに内乱に発展します。東南部のカタンガ州はウラン・コバルト・銅など重要鉱物資源の宝庫です。広島・長崎の原爆原料はこのコンゴのウランでした。この分離独立闘争をベルギー・アメリカが支援しました。
あれもこれもは想起して書けませんが、想起できる範囲で書いてみてください。
全体構図としては、アジアは……、アフリカは……、もっと細かくは上で挙げたような東南アジア、南アジア、……と地域の分割して、順に書いていくのが妥当かとおもいます。アフリカを先にして、アジアは後でもいいですね。
問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて
……ここで問うている不発展・低開発の経済的状況は指定語句からは何も判りません。
上に挙げた事件史で関連するのは、UNCTAD(国連貿易開発会議)と、アラブ石油輸出機構、ASEANです。
歴史探究の教科書では「アフリカ諸国をはじめとする新興独立国では、従来、植民地宗主国の利益にそって、輸出向けに限定された種類の農作物栽培や原料生産にかたよった開発がなされてきた(モノカルチャー経済)。そのため経済基盤が弱く、また、交通網や電気・水道などの社会的インフラストラクチャー(基本的生活基盤)、教育・医療などの社会制度もほとんど整備されていなかった。さらに、圧倒的多数の現地住民は、行政運営や政治に参加する機会も奪われてきた。これらを背景に、独立後の政治・経済は不安定で、部族相互の対立による内戦やクーデタが繰り返され、軍事独裁政権がしばしば登場した。豊かな先進国と、アジア・アフリカの開発途上国との経済格差は、南北問題と呼ばれるようになった。(引用終了)」と歴史的背景を述べています。
対策として「1964年には、77カ国の開発途上国が国連貿易開発会議
(UNCTAD)を結成し、南北の経済格差の是正をめざしたが、十分な成果はあがらなかった」と悲しい結論にしています。
この教科書で書くべき内容は尽きています。
追記すると、UNCTADが「不平等及び脆弱性から全ての人の繁栄へ」のための会議ですが、その前に国連は需要な決議を出しています。1960年12月14日、「植民地と人民に独立を付与する宣言(Declarationon the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples)」を採択した(決議1514(XV))です。この宣言は、「外国による人民の征服、支配および搾取は基本的人権を否認するもので、国連憲章に違反し、世界平和と協力の促進にとっての障害である」と述べています。植民地の完全な否定です。植民地というものがどういうものであるか、「支配および搾取は基本的人権を否認するもの」と定義しています。これは独立したら、それで「おしまい」ということではなく植民地化した宗主(支配)国にたいして植民地支配責任についても問うているのです。日本による東アジア・東南アジアの植民地支配責任も問うています。イスラエルのパレスチナ支配も植民地支配です。もともとイスラエルも日本もヨソ者でしたから。
旧植民地だった国々は、資源はあっても旧宗主国が経営権をにぎっているため自営できないため、イランが石油を国有化したり、インドネシアも全外国石油企業を政府の管理下に置くと発表したりしています(1965年)。
第2問
問(1)
(a) 課題は「1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行(120字)以内で説明せよ」でした。
国家と宗教の関係はどんな時代でも重要な歴史的テーマです。過去問1986年第3問、2013年第2問でも問われました。
「1世紀から4世紀末」キリスト教という問題は拙著『世界史論述練習帳new』に問7の「紀元1世紀後半から4世紀末に至るまでのローマ帝国におけるキリスト教の発展について、200字以内で説明せよ。説明に当たっては、下記の2つの語句を適切な箇所で、必ず一度は用い、用いた箇所には下線を施せ。(指定語句→ディオクレティアヌス三位一体)」という類題がありました。この問題自体は京大1996年の問題でした。
1世紀のネロ帝から4世紀のテオドシウス帝による国教化まで、という易問です。ポイントは2〜3世紀をど書くか、という点です。
この2世紀間の迫害は厳しいものではなく、この間に下層市民や奴隷から上層市民へ普及していきました。また新約聖書が200年頃にできあがります。
3世紀「軍人皇帝」は不安定であり、そのためかえって皇帝崇拝を強制し、迫害は激化します。信徒はカタコンベ(地下墓所集会所)で秘密の集会を聞き、聖職制度(ヒエラルヒー)をつくりあげていきました。
(b) 「325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら」……「325年」ですぐ想起できなくてはらないのはニケーア公会議です(『ワン』逃げや光32子5)。「教義形成」とは「神の子=神」か人間にすぎないのか、という神人の判定です。前者の神、人にして神、というアタナシウス派の主張が承認されました。(三位一体説ともいうのは、父なる神・子なる神・聖霊なる神の三神が一体である、という教義です。議長であったコンスタンティヌス帝がこれを正統説として公表します。皇帝が教義の問題に関わるのは皇帝教皇主義のスタートにもなりました。
(c) 課題は「キリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ」で、スコラ学に影響したギリシアの「万学の祖」なので、アリストテレスしかありません。アリストテレスには哲学以外に政治学・詩学(演劇)・生物学・倫理学・論理学と数えられ、アリストテレスを学ぶことは万学を学ぶことに等しい、といわれます。逆にいえば、キリスト教には宗教教義と歴史はあっても他がなかったためでした。
問(2)
(a) 課題は「その頃(1077年頃)の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を」でトゥグリル=ベク。
(b) 課題は「下線部①(イスタンブル)に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行(60字)以内で」でした。第四回十字軍の建てた国・ラテン帝国です(『ワン』ラテン? ワン1 ツー2、お0尻4ふる)。
(c) 課題は「セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について」でした。要するに16世紀初めの戦争の成果です。オスマン帝国を西アジアの大国にしました。それまで小アジアとメソポタミアの支配をしていたのを南部に拡大したスルタンです。シリア全土・エジプト・アラビア半島の沿岸(メッカ・メディナ)を領域にしました。半島内の砂漠地帯をなぜ征服しなかったのか、という疑問もありますが、ここにはアラブ遊牧民が住んでいて、この地域を征服して支配する軍事的・政治的・宗教的な意味はなかったからでしょう。
問(3)
(a) 課題は「書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら」でした。
編纂事業と文字の獄という言論統制を挙げたら完結する易問です。
(b) 課題は「儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ」でした。
「厳密に校訂・検討する学問」は考証学、「基礎をつくった学者」は顧炎武か黄宗羲です(拙著『各駅停車』[このブログ内で販売]の覚え方→(考証学は顧炎武・黄宗羲の二人が先駆者→考証学は「こ・こう」から)p.51)。
第3問
問(6) これは2010年でも問うています。
問(10) サイード(エドワード・サイード)については『詳説世界史』に「先住民文化の影響をうけた……こうした傾向は、第二次世界大戦後のアジアやアフリカ諸国の独立によっていっそう強まり、1960年代末頃からはサイードらによる西洋思想の批判など、第三世界に対する西洋側の偏見を批判するポスト=コロニアル研究が注目されるようになっていった(p.414)」と書いています。
用語集(2013年)でもサイードという項目をもうけ「Said 1935~2003 パレスチナ生まれのアメリカ人文学研究者。ヨーロッパのオリエントに対する見方・偏見を鋭く指摘した1978年の著作『リエンタリズム』は36カ国の言語に翻訳された。そのなかでサイードは、ヨーロッパが自己と正反対のものとしてのオリエントに、後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけた、とした。サイードの著作により提起された批判はポスト=コロニアル研究の起点となった」と。
このうち「後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけ」は今でもヤフーニュースで見られる対韓コメント欄でも見られます。コメントしている日本人は現代の日本人です。
作家・大江健三郎とサイードの交流は親密なものでした。『暴力に逆らって書く: 大江健三郎往復書簡』朝日文庫(2006年)参照。
第3問の解答
問(1)属州
問(2)高句麗
問(3)ジャムチ(站赤)
問(4)イヴァン3世
問(5)ワッハーブ
問(6)サティー
問(7)劉永福
問(8)(a)フランス(b)イギリス
問(9)サパタ
問(10)サイード