世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024京大世界史

第1問(20点)
 乾隆帝の70歳の誕生日を祝賀する行事に参加する朝鮮の使節に随行して熱河の離宮に赴いた朴趾源(ぼくしげん)の『熱河日記』は、その冒頭で年次を記すのに「後三庚(こう)子」(明の崇禎(すうてい)年間より後の三回目の庚子の年)という表記を用いている。ここには、当時の朝鮮と中国の関係の一面が表れている。16世紀末から19世紀末にいたる朝鮮と中国の関係の変化について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 マンチュリア(今日の中国東北地方および(1)ロシア極東の一部)のうち、今日の遼寧省に相当する地域には、戦国時代に中国本土の農耕民が本格的に入植するようになった。他方、遊牧民もしばしば南下し、やがて農耕民・遊牧民が混在する独自の空間が形成された。
 (2)『史記』匈奴列伝によれば燕は東胡を破り(3)長城を築いて、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の五郡を設置した。遼西・遼東の二郡が今日の遼寧省にほぼ相当する。(4)漢王朝を開いた高祖劉邦は、盧綰(ろわん)を燕王に封じたが、盧綰はのちに匈奴に亡命した。このとき朝鮮半島に逃れた中国人が今日の平壌を中心に[ a ]を建国した。漢の武帝はこれを征服し、[ b ]・玄菟・臨屯・真番の四郡を設置した。
 後漢末年、[ c ]の乱を契機に、中国は群雄割拠の状態に陥り、遼東では公孫氏が自立した。公孫氏は呉と結んで魏に対抗したが、(5)魏に滅ぼされた
魏はついで高句麗に出兵した。鮮卑慕容(ぼよう)
部は魏の公孫氏・高句麗への遠征に従軍し、遼西に定住した。[ d ]の乱で洛陽が陥落すると、遼西・遼東は混乱に陥り、これに乗じた高句麗が、[ b ]郡を征服した。慕容廆(かい)は西晋の東夷校尉崔毖(さいしつ)を破って遼東を制圧し、高句麗と交戦した。慕容皝(こう)は燕王を自称し(前燕)、(6)龍城(今日の遼寧省朝陽市)に都城を築いた。慕容儁(しゅん)は後趙を滅ぼした冉閔(ぜんびん)を破って中原(北中国の東半)を制圧し、皇帝を称したが、慕容暐(い)は前秦の苻堅(ふけん)に敗れ、前燕は滅亡した。
 北中国をほぼ統一した符堅は、東晋征服を図ったが、淝水(ひすい)の戦いで大敗し前秦は滅亡した。慕容部は独立を回復し、慕容垂が後燕を建国したが、鮮卑[ e ]部の北魏に参合陂(さんごうは)の戦いで敗れ、遼西に退去した。ついで、高句麗が遼東を奪取した。慕容宝・慕容盛ののちに立った慕容煕(き)が暗殺され、慕容宝の養子で高句麗人であった慕容雲(高雲)が擁立されたが、これも暗殺され、馮跛(ふうばつ)が北燕を建国した。馮弘のとき、(7)北魏の侵攻で北燕は滅び、馮弘は高句麗領であった遼東に亡命したが、のちに殺害された。


(1) 17〜19世紀の諸条約によって、今日の中露国境がおおむね画定された。
(ア) 1689年、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を国境とするネルチンスク条約が締結された。このときの清の皇帝は誰か。
(イ) ロシアは1858年の条約で黒竜江(アムール川)左岸を獲得し、1860年の条約で沿海州を獲得した。1858年の条約の名を記せ。
(2)『史記』匈奴列伝は中国北方の諸民族に関する最初のまとまった記述である。
(ア)『史記』の著者は誰か。
(イ) 長城以北の諸民族の統一を達成し、漢に対峙(じ)した匈奴の君主は誰か。
(3) 秦の始皇帝は戦国時代の中国北辺の長城に基づき万里の長城を築いた。燕の隣国で中国北辺に長城を築いた国の名を記せ。
(4) 高祖はおおむね秦王政(のちの始皇帝)即位時の秦の旧領を直轄領とし、秦以外の六国の旧領に諸侯王を封建した。このような制度は何と呼ばれるか。
(5) このときの魏の遠征軍司令官の孫で西晋を建国した人物は誰か。
(6) 北魏は龍城に営州という州を設け、マンチュリア諸民族との通交の窓口とした。のち営州出身とされる人物が8世紀半ばに起こした大乱は何と呼ばれるか。
(7) 北魏はほどなく北涼を滅ぼして北中国統一を達成した。
(ア) このときの北魏の皇帝は誰か。
(イ) このときの北魏の都の名を記せ。

 人はしばしば特定の場所や地域を神聖視する。そのことが歴史の展開に及ぼした作用、現代の事象に与える影響は無視できない。
 ヒジャーズ地方のイスラームの両聖都は、その保護者にムスリム君主としての威信を付与した。オスマン朝は、[ f ]の治世に両聖都の保護権を入手
した。このことは以後の同朝の君主たちが(8)イスラームの守護者として振舞う上での重要な根拠となった。
 世界中のムスリムが巡礼の義務の遂行や預言者の墓廟への参詣のために両聖都を目指したことは、各地の経済にとって重要な意味を持った。1324年に巡
礼を行った(9)マンサ=ムーサは、その道中に(10)カイロで大量の(11)を気前よく分け与え、当地の金価格を大暴落させたと伝えられる。これは突出した事例だが、ムスリム巡礼者たちの往来が各地に様々な経済効果をもたらしたことは疑いない。
 巡礼の義務は、政争や戦争で敗北が近づいた有力者たちの亡命の口実とされることがあった。彼らの「巡礼」も、それで無用な戦闘・破壊・混乱の継続が回避されたという意味で、経済的意義があったと言えるかもしれない。国共内戦末期、青海の軍閥のムスリム将領、馬歩芳は、蔣介石から惨敗必至の抗戦を命じられたため「巡礼」に発ち、そのまま中国に帰らずカイロに住み、のちアラビア半島の(12)ジェッダに移って同地で没した。
 両聖都へ向かうムスリムの動きは、新たな知の創出にも寄与した。両聖都のうち、北に位置する[ g ]は、17世紀、遠近のムスリム学者が集う、重要なイスラームの学術センターとなっていた。中でも、クーラーニーという(13)クルド系の人物が学者ネットワークのハブ的な存在として活躍した。彼の弟子筋に当たる人々は、世界各地におけるイスラーム思想の発展や政治・社会の動向に多大な影響を与えた。
 クーラーニーの学統に連なるイブン=アブドウル=ワッハーブは、サウード家をイデオロギー面で支え、その台頭を助けた。(14)この際のサウード家の建国運
は結局頓挫したが、のちに同家は、両聖都を支配する王国を建設した。アメリカが(15)この王国の防衛も目的として、その領内に軍隊を駐留させたことは、一部のムスリムから聖地の冒瀆(とく)とみなされ、2001年の同時多発テロ事件の一因になった。聖地は、ときに紛争の種にもなる。
 ムスリムの聖地は、(16)三大聖都以外にも数多くある。例えば(17)セイロン島のアダムズピークには、預言者アダムの足跡があるとされ、ムスリムの参詣地となっている。なお、この足跡を、仏教徒はブッダのそれ、ヒンドゥー教徒は(18)シヴァのそれとみなしている。
 (19)タリム盆地ムスリムたちはそこにイスラームを伝道したと信じられている者たちの墓を、盛んに崇敬し、参詣してきた。その参詣活動は、(20)タリム盆地のトルコ系ムスリム定住民の一体感を育んだとも言われる。


(8) マレー半島と向かい合ってマラッカ海峡を形成する南側の島の北部に、15世紀末に成立したムスリム国家は、19世紀にオスマン朝を宗主と侍んで軍
事支援を求めた。このムスリム国家の名称を記せ。
(9) この王が統治した国の名称を記せ。
(10) 当時この都市を支配していた王朝は、軍人に俸給として一定の土地の徴税権を与える制度を採用していた。この制度の名称を記せ。
(11) 10世紀、建国当初、サハラ砂漠を縦断する塩金交易路の北側の入口をおさえて隆盛し、最盛期にはヒジャーズ地方まで勢力を及ぼした王朝の名称を
記せ。
(12) 彼のジェッダ移住は、エジプトと中華人民共和国がバンドン会議(アジア=アフリカ会議)での外交接触の翌年、国交を樹立したことが契機となっ
たと言われる。当時のエジプトの指導者で、バンドン会議に参加して翌年に大統領に就任した人物は誰か。
(13) サファヴィー朝のタブリーズ再征服(1603年)に始まる戦争を避けて、多くのクルド系の学者たちがシリアなどに移住した。この戦争でサファヴィー朝の旧領を奪還した君主の名前を記せ。
(14) このサウード家の建国運動を挫折させた人物を始祖とする王朝の名称を記せ。
(15) この措置は、ある中東の国家元首が1990年に起こした軍事行動に対するものであった。この国家元首の名前を記せ。
(16) のちにイスラームの聖都となる地で、バビロン捕囚から解放されたヘブライ人が神殿を再興した。バビロンを征服してヘブライ人を捕囚から解放した
王の名前を記せ。
(17) 17世紀半ば、ポルトガルにかわって、この島の一部を支配するようになったヨーロッパの国はどこか。
(18) 南インドのある王朝では、11世紀初めに即位した王が、新都に壮大なシヴァ寺院を築いたり、セイロン島やシュリーヴィジャヤ王国に出兵して海上
交易覇権の掌握を目指したりした。この王朝の名称を記せ。
(19) 19世紀後半の一時期、この地域一帯に独立政権を樹立した、コーカンド=ハン国出身の人物は誰か。
(20) タリム盆地の西部では、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼしたある王朝の治下で、住民のイスラーム改宗が進んだ。この王朝の名称を記せ。

第3問
 キリスト教世界がローマ=カトリック教会とギリシア正教会とに分裂していく過程について、8世紀に力点をおいて、教皇領の形成と関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。また、Bについては[  ]中に当てはまる最も適切な語句を答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 黒海は、地中海につながる内海である。ヨーロッパとアジアが接するところに位置するために、この海とその周辺地域は、言語的・文化的・宗教的に多様な背景をもった集団が出会い、相互に影響を与え合い、ときには激しく衝突する舞台となってきた。
 エーゲ海の北東に位置するダーダネルス海峡からマルマラ海をへてボスポラス海峡を抜けると、黒海に入る。(1)古代ギリシア人は、紀元前8世紀頃から、このルートをつうじて黒海に進出し、その沿岸の各地にポリスを築いた。(2)これらの黒海沿岸のポリスは、ギリシア人と黒海北岸に広がるステップ地帯に住む遊牧民との交易の拠点となった。紀元前1世紀になると、黒海南岸の一帯は、ローマの支配下に組み込まれた。(3)紀元後8年には当時のローマを代表する叙情詩人であったオウイディウスが黒海沿岸に追放されている。4世紀前半になると、(4)コンスタンティヌス帝は、ボスポラス海峡の西岸に、新たな首都となる都市コンスタンティノープルを築いた。
 4世紀末にローマ帝国が東西に分裂すると、黒海の西岸から南岸にかけての地域は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下におかれた。西ローマ帝国の滅亡後も(5)ビザンツ帝国の勢力は衰えず、6世紀には地中悔を取り囲む地域に支配を広げるにいたった。他方、11世紀末に、西方のキリスト教諸国は、ムスリムの支配下に入ったイェルサレムを奪回するために十字軍をおこした。しかし(6)13世紀になると、十字軍は当初の目的から離れて、コンスタンティノープルを占領・略奪した。14世紀からはオスマン帝国がアナトリアから西方に向かって勢力を拡大し、バルカン半島に進出した。(7)1402年、オスマン帝国は、東方からアナトリアに進出した勢力に大敗したが、その後国力を回復し、1453年にはコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼした。
 この頃、黒海北岸のクリミア半島にはクリム=ハン国が成立しており、1475年以降はオスマン帝国の宗主権のもとにおかれた。他方で、(8)バルト海南岸から東南方に勢力を拡大したリトアニア大公国は、1386年にポーランド王国と同君連合を結んだ。ローマ=カトリックの君主が支配するポーランド=リトアニア国家は、黒海北方のステップ地帯で、オスマン帝国を後ろ盾とするクリム=ハン国とたびたび衝突することになった。「ウクライナ」と呼ばれたこのステップ地帯に、15世紀から16世紀にかけて、領主の抑圧を嫌う農民たちが逃げ込み、コサックと呼ばれる集団を形成するようになる。17世紀半ば、ウクライナのコサックは、この地域を支配するポーランドに対して反乱を起こした。1654年、ウクライナ=コサックは(9)モスクワ大公国(ロシア)と協定を結んでその宗主権のもとに入るが、1667年にはロシアとポーランドが協定を結び、ウクライナは、おおむねドニプロ川(ドニエプル川)の東西で分割されることになった。
 18世紀前半、(10)ピョートル1世のもとでロシアは北方戦争に勝利し、バルト海の覇権を握ってヨーロッパの強国の一翼を担うようになる。ピョートル1世は黒海への進出も意図し、アゾフ海の制海権をめぐってオスマン帝国と戦った。18世紀後半になると、ロシアはさらに積極的に黒海北方への進出政策を
展開した。1782年、エカチェリーナ2世はウクライナ=コサックが支配していた領域を直轄領とし、(11)翌83年にはクリム=ハン国を併合してクリミア半島を支配下においた。さらに(12)ポーランド=リトアニアの分割に加わってその領上を併合することによって、ウクライナ中西部を支配下に組み込んだ。こうして黒海の北方に勢力を広げたロシアは、19世紀をつうじて、(13)黒海の覇権と地中海への自由通航権などをめぐって、オスマン帝国や西欧の列強と戦争を繰り返すことになる。


(1) このようにギリシア人が本国から離れて建設したポリスを何と呼ぶか。その名称を記せ。
(2) 紀元前5世紀に、小アジア出身のギリシア人歴史家が、ペルシア戦争を題とする歴史書のなかで、これらの黒海北岸の諸民族についても記述している。この歴史家の名を記せ。
(3) この詩人の追放は、当時のローマを支配する最高権力者の命令によるものであった。この支配者の名を記せ。
(4) この皇帝が発布した命令によって、キリスト教はローマ帝国に公認された。この命令の名称を記せ。
(5) (ア)首都コンスタンティノープルで、6世紀に、当時の皇帝の指導のもとに、ビザンツ様式を代表する大聖堂が再建されている。この大聖堂の名称を記せ。
 (イ)7世紀以降、ビザンツ帝国は異民族の侵入に対処するため、帝国の領域を区分して司令官に軍事と行政の権限を付与した。この制度の名称を記せ。
(6) このときの十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国家の名称を記せ。
(7) このときの会戦でオスマン帝国に勝利した国家の指導者の名を記せ。
(8) このときに成立した王朝の名を記せ。
(9) このときのロシアの王朝の名を記せ。
(10) この戦争で敗れてバルト海の覇権を失った国の名を記せ。
(11) ロシアはクリミア半島の南端に黒海艦隊の拠点を築いた。この軍事的な要地の名を記せ。
(12) ロシアは、第2次ポーランド分割によってウクライナ中西部を併合した。このときロシアとともにポーランドの分割に加わった国の名を記せ。
(13) (ア)1878年、ロシアはオスマン帝国とのあいだに自国に有利な講和条約を結んだ。この条約の名称を記せ。
(イ)(ア)の条約におけるロシアの南下政策の成功にイギリスとオーストリアが反発し、ベルリンで開かれた国際会議によってロシアの企図は阻止さ
れた。この国際会議で調停役を務めた政治家の名前を記せ。

 人類の言語は分化と混交を繰り返している。地域や民族を超えた意思疎通の必要性から、人々は共通語を設定し、時にそれを他者に強要してきた。ヨー
ロッパにおける共通語のあり方は世界の言語状況にも影響を与えた。
 西欧ではローマ帝国で用いられていたラテン語の権威が強固だった。ラテン語が帝国の主要言語だったことに加え、教会でも(14)ラテン語訳の聖書が正典化され、典礼もラテン語でおこなわれるようになったことが大きい。しかし俗語(非ラテン語)による行政文書の作成や文芸活動は宗教改革前から進んでおり、活版印刷の普及や(15)新約聖書の俗語訳などがラテン語の地位低下を加速させた。(16)1492年には初の近代ヨーロッパ言語の文法書とされる『カスティーリャ語文法』が出版された。17世紀頃から大学の講義も徐々に俗語化されている。
 ラテン語は今も多くの国で教養として学ばれており、(17)さまざまな学問分野でラテン語の造語規則に従って新語が作られている。多言語状況の中で中立的とみなされたラテン語を用いる慣行は近代以降にも散見される。例えば、4つの公用語があるスイス連邦は、19世紀後半にラテン語の(18)「コンフェデラティオ=ヘルヴェテイカ(ヘルヴェティア連邦)」を正式国名の一つとした。また、(19)ヴァチカン市国では現在もラテン語が公用語である。しかし、ローマ=カトリック教会も1960年代に典礼の非ラテン語化を容認しており、日常的なラテン語使
用の機会は減っている。
 一方、ローマ帝国の東部地域ではギリシア語が広く用いられていたが、新約聖書はシリア語などにも翻訳されていた。トルコ系遊牧民がバルカン半島に侵
入して[ a ]を建国すると、先住民族であるスラヴ人との混血が進み、9世紀後半のキリスト教受容後に聖書や典礼のスラヴ語化が進められた。教会ス
ラヴ語はキリスト教とともに他のスラヴ系諸民族にも浸透した。加えて東欧ではドイツ語も広められたが、ギリシア語も教会スラヴ語もドイツ語も、西欧に
おけるラテン語ほどの地位を獲得することはなかった。
 17世紀には、フランスの国力を背景に、さまざまな分野でフランス語が広く使われるようになった。1635年には(20)フランス語の整備を主目的とする組織が設立された。(21)18世紀にフランス語はヨーロッパの共通語の地位を獲得した。神聖ローマ帝国の一部やロシアやオランダなどの上流階級はフランス語を常用した。しかし19世紀にはフランス語の地位も徐々に低下した。例えば1856年のパリ条約はフランス語を正文としたが、(22)1919年のヴェルサイユ条約の正文は英語とフランス語である。
  一方で16世紀以来、ヨーロッパの諸言語は植民地化を通じて話者を増加させた。この増加はときに暴力的に成し遂げられたが、(23)脱植民地化以降も、ヨーロッパの言語が非ヨーロッパ地域で使われつづけている例は多い。20世紀後半には旧植民地諸国での話者の多さや、アメリカ合衆国の超大国化などを要因として、英語が次第に優位になっていった。
  他方、既存の特定の言語ではなく人工言語を共通語にする試みもあった。ラテン語が衰退しつつあった17世紀後半には多くの人工言語が構想された。例えば、単子論を提唱し積分記号や二進法でも有名な[ b ]は漢字を参考にしつつ、概念的に整理された普遍記号を構想した。フランス語の権威が揺らぎつつあった19世紀後半にも第二の人工言語ブームがあった。特に、(24)ロシア帝国領生まれのユダヤ系ポーランド人であるザメンホフによるエスペラント語の普及活動は一定の広がりを見せた。しかし(25)国際連盟の作業言語にエスペラント語を採用する試みはフランスの反対によって実現されず、ソ連邦でもエスペラント語の普及活動は弾圧された。
 [ b ]の普遍記号構想の一部は電子計算機に受け継がれたといえる。現代では機械翻訳による言語習得の負担減も試みられつつあるが、複雑な情報の正確な伝達のツールとしてはまだまだ課題も多い。


(14) 典礼のラテン語化と前後して正統教義も確立された。三位一体説について簡潔に説明せよ。
(15) 神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)では、ルターに先駆けて聖書の俗語訳や教会改革運動がおこなわれていた。
 (ア) 改革を提唱し火刑となった人物の名を記せ。
 (イ) コンスタンツ公会議でこの人物とともに異端宣告を受けたイングランドの神学者の名を記せ。
(16) このときのカスティーリャ王国の女王は誰か。
(17) 18世紀に動植物の学名の命名法を確立したスウェーデン人学者の名を記せ。
(18) 1798年から数年間、ヘルヴェティア共和国という国家が存在していた。スイスに侵攻し、この国家を建てさせた国の名を記せ。
(19) イタリア王国と教皇庁は長らく対立状態にあった。最終的にヴァチカン市国の独立を認めた時のイタリアの首相の名を記せ。
(20) この組織の名を記せ。
(21) この時期の代表的なフランスの啓蒙思想家で『哲学書簡』(『イギリス便り』)などを著した人物の名を記せ。
(22) この条約で非武装化された地域の名を記せ。
(23) アフリカの植民地が多数独立し「アフリカの年」と呼ばれたのは何年か。
(24) ザメンホフは1870年代後半ごろから人工言語を構想していたとされるが、その後ロシアにおけるユダヤ人の状況は急激に悪化した。ある皇帝の暗
殺が大規模な反ユダヤ暴動の引き金となった。その皇帝の名を記せ。
(25) ある国はこの組織に参加しなかったが、1920年代には国際平和を求める活動を主導するようになった。1928年の不戦条約に、この国の代表として
署名した人物の名を記せ。
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