世界史B(4問題100点)
第1問(20点)
16世紀、ヨーロッパ人宜教師による中国へのキリスト教布教が活発化した。この時期にヨーロッパ人宣教師が中国に来るに至った背景、および16世紀から18世紀における彼らの中国での活動とその影響について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
第2問(30点)
次の文章(A、B)を読み、[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 関中盆地は、中原から見れば西に偏しているが、遊牧世界と農耕世界が接するユニークな位置にあった。紀元前4世紀半ばに盆地の中央部、渭水北岸の[ a ]に都を置いた秦は、(1)他国出身者を積極的に登用して富国強兵政策を断行し、中央集権的な国家体制を指向して、急速に国力を高めていった。また秦は、早くから騎乗戦術を導入したが、これは(2)騎馬遊牧民との接触・交戦を通じて獲得したものとされる(3)始皇帝による天下統ーは、こうした基礎の上に成し遂げられた。
(4)始皇帝の没後、各地で反乱が起こったが、この混乱を収めてふたたび天下を統一した漢は、新たに長安に都を定めた。武帝の時、漢は匈奴を撃退し、その勢力を(5)西域にまで拡げ、長安は東西交易でも栄えた。[ a ]とは渭水をはさんだ対岸に位置するこの都は、王莽の時代には「常安」と名を改めた。王莽は、(6)儒教の理念に基づいた国制の実現を試みたが、急激な改革は大きな混乱を招いた。紀元後18年に起こった[ b ]の乱を契機に、各地で農民や豪族の反乱が起こり、王莽は敗死、常安も戦乱により荒廃した。
後漢が[ c ]に都を置いて以後、長安が政治の中心となることはほとんどなかった。この都市がふたたび政治史の舞台となるのは、4世紀半ばのことである。氐族がたてた前秦が長安を都とし、華北統一を達成したのである。しかし、符堅がいだいた中華統一のもくろみは、(7)淝水の戦いに敗れたことにより敢えなく潰えた。前秦の滅亡後、長安には、羌族のたてた(8)後秦も都を置いた。
その後、華北は北魏によって統一されたが、6世紀前半、[ c ]から逃れてきた孝武帝を武将の宇文泰が長安に迎えたことが契機となって、北魏は東西に分裂した。宇文泰は西魏の皇帝を奉じつつ、事実上の統治者として(9)国力の充実に努めた。彼の死後、禅譲によって成立した北周も長安を都とした。(10)北周の武帝は、対立していた北斉を滅ぼして華北を統一したが、その直後に急死し、程なく皇帝の位は(11)外戚の楊堅へと移る。
北周を滅ぼした楊堅は、前漢以来の長安城の一隅で即位するが、その直後に新都造営を命じた。[ d ]と命名されたこの都城は、旧都の南東に位置する台地上に建設された。この都こそ、平城京・平安京の範となったものである。
問
(1) 前4世紀、他国から秦に移り、孝公の信任を得て法家思想に基づく政治改革を行った人物の名を答えよ。
(2) 古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、黒海北岸を中心とする地域に遊牧国家を形成した騎馬遊牧民のことを記録に残している。特有の動物文様をもつ金属工芸品や馬具・武具などの出土遺物で知られるこの騎馬遊牧民は、何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
(3) 始皇帝は天下を統一すると、秦の貨幣を全国に普及させるよう命じた。この貨幣の名称を答えよ。
(4) これらの反乱勢力のリーダーのうち、漢をたてた劉邦と覇を競った、楚国出身の人物の名を答えよ。
(5) 中央アジアの大月氏との連携を求め、武帝が使者として西域に派遣した人物の名を答えよ。
(6) 後漢時代、儒教経典の字句解釈についての学問が発達した。この学問は何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
(7) 383年、この戦いで前秦を破った王朝は何と呼ばれているか。その呼称を答えよ。
(8) 後秦のとき「国師」として長安に迎えられ多くの仏典を漢訳した、中央アジア出身の人物の名を、漢字で答えよ。
(9) 宇文泰が創始した兵制で、のち隋唐王朝でも採用された制度は何か。その名称を答えよ。
(10) 北周の武帝は、北斉を滅ぼしたのち、北方の遊牧勢力への遠征を企図していた。6世紀半ばに柔然を滅ぼしてモンゴル高原の覇者となり、北周・北斉にも強い影響力をもったこの遊牧勢力は、中国史書には何と記されているか。その名称を漢字で答えよ。
(l1)「外戚」とは何か。簡潔に説明せよ。
B 西アジアとその隣接地域は歴史上様々な人間集団が活動した空間であり、そこでは外来の文化と現地のそれが融合し、新たな文化が形成されることもあった。紀元前4世紀後半、アレクサンドロス大王は(12)東方遠征を行って、ギリシア、および、エジプトからインド西北部に至る大帝国を建設した。彼の死後、その領土は(13)3つの国へと分裂したが、これらの地域では(14)ギリシア的要素とオリエント的要素の融合した文化が成立した。
のち、7世紀初頭には、アラビア半島のメッカでイスラーム教が誕生した。アラブ人ムスリムは、(15)預言者ムハンマドの死後まもなくカリフの指導のもと大規模な征服活動を開始し、1世紀余りの間に西は(16)イベリア半島、北アフリカから、東は(17)中央アジアに至る空間をその支配下に置いた。征服者の言語であり、聖典『コーラン』の言語でもある(18)アラビア語は、やがて広大なイスラーム世界の共通語としての役割を担うようになる。
初期のムスリムは軍事活動にのみ熱心だったわけではない。ウマイヤ朝期に始まったギリシア学術の導入は、続くアッバース朝期に本格化し、9世紀には(19)バクダードに設立された研究機関を中心に、(20)ギリシア語の哲学・科学文献が次々にアラビア語に翻訳された。これらギリシア語文献の翻訳に最も功績のあった人物の一人、フナイン=イブン=イスハークが(2l)ネストリウス派キリスト教徒であったことは、イスラーム文化の担い手が多様であったことを象徴する事実といえるだろう。また、アッバース朝期にはイスラーム世界固有の学問も発展した。これには法学、神学、コーラン解釈学や(22)歴史学などが含まれる。こうして、外来の学術の成果も吸収しながらイスラーム世界の伝統的な学問の体系が形成されていった。
11世紀後半以降イスラーム世界各地で盛んに建設された(23)学院(マドラサ)では、とくに法学や神学の教育が重視されたが、その「教科書」にあたる文献の多くはアラビア語で著されていた。イスラーム世界の東部では9世紀半ばまでには(24)近世ペルシア語が、そして、15世紀末までには(25)チャガタイ語やオスマン語といった各地のトルコ語も文語として成立していたが、それ以降の時期にあってもアラビア語は変わらず学術上の共通語であり続けた。19世紀後半以降、イスラーム世界各地にイスラーム改革思想が広まるが、その伝播にあたっては(26)アラビア語の雑誌も大きく貢献したのである。
問
(12) 紀元前333年に、アレクサンドロスがペルシア軍を破った戦いの名を答えよ。
(13) この時期、エジプトのアレクサンドリアには自然科学や人文科学を研究する王立の研究所が設立された。この施設の呼び名をカタカナで答えよ。
(14) この文化は何と呼ばれているか。
(15) 622年、ムハンマドは信者とともにメッカからメディナヘと移動した。この事件をアラビア語で何と呼ぶか。
(16) この地に進出したムスリム軍が711年に滅ぼしたゲルマン人の王国の名称を答えよ。
(17) この地に進出したムスリム軍は751年、唐の軍と交戦して勝利した。製紙法の伝播をもたらしたともされる、この戦いの名称を答えよ。
(18) この言語と同じ語族・語派に属し、紀元前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍した人々が使用した言語の名称を答えよ。
(19) アッバース朝のカリフ、マームーンが創設したこの翻訳・研究機関の名称を答えよ。
(20) アラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献は、のち12世紀以降、ラテン語に翻訳されてヨーロッパに逆輸入された。このとき、アラビア語からラテン語への翻訳作業の中心地となったスペインの都市の名を答えよ。
(21) ネストリウス派は唐にも伝わった。唐でのネストリウス派の呼称を答えよ。
(22) アッバース朝期に活躍し、天地創造以来の人類史である『預言者たちと諸王の歴史』を著した歴史家の名を答えよ。
(23) マドラサやモスクの運営を経済的に支援した、イスラーム世界に特徴的な寄進制度をアラビア語で何と呼ぶか。
(24) アラビア文字を採用し、アラビア語の語彙を大量に取り入れることで成立した近世ペルシア語の最初期の文芸活動の舞台は、9世紀から10世紀にかけて中央アジアを支配した王朝の宮廷であった。この王朝の名称を答えよ。
(25) ティムール朝王族で、ムガル帝国の初代皇帝となった人物はチャガタイ=トルコ語で回想録を著している。歴史資料としても名高い、この回想録のタイトルを答えよ。
(26) イスラーム世界各地のみならずヨーロッパでも活動し、パン=イスラーム主義を提唱して、1884年にパリでムハンマド=アブドゥフとアラビア語雑誌『固き絆』を刊行した思想家の名を答えよ。
第3問(20点)
1871年のドイツ統一に至る過程を、プロイセンとオーストリアに着目し、1815年を起点として300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
第4問(30点)
次の文章(A、B)を読み、[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 古代ギリシア人は、独自の都市国家であるポリスを形成し発展させた。ギリシア本土やエーゲ海周辺に数多く誕生したポリスは、同盟(連邦)を形成することはあっても、(1)ひとつの領域国家に統一されることはなかった。(2)前5世紀中頃のアテネのペリクレスの市民権法のように、市民団の閉鎖性を強めたこともあった。一方で、古代ギリシア人は自らをヘレネスと呼び、(3)出自や言語、宗教、生活習慣を共有する者としての一体感を有していた。そして、異民族を「聞き苦しい言葉を話す者」という意味でバルバロイと呼んで区別した。やがてこのバルバロイには、(4)アテネの帝国的発展と(5)ペロポネソス戦争の苦難の経験を通じて、他者への蔑視など否定的な意味がまとわりつくようになる。
古代ギリシア人とともに高度な文明を築いたことで知られるローマ人は、集団の定義や自己理解の点ではギリシア人と異なっていた。ローマ人の歴史は、イタリア半島に南下した古代イタリア人の一派が半島中部に建てた都市国家ローマに始まる。しかし、(6)ローマ人は国家の拡張の過程で、都市ローマの正式構成員の権利であるローマ市民権を他の都市の住民などにも授与し、市民団を拡大していった。前1世紀の初めにはイタリアの自由人にローマ市民権が与えられ、(7)イタリアの外の直接支配領である属州でも、(8)先住者ヘローマ市民権が付与されたので、市民権保持者の数は急速に増加した。こうして、ローマ市民権を保持する者としての「ローマ人」は、故地である都市ローマやイタリアを離れて普遍化していったのである。
また、故地ローマ市を抽象化し、「ローマ」という名称に普遍的な意義を見出そうとする思想は、その後長く影響力を有し、とくにローマの支配の正統性やその賞賛をともなう帝国理念となって展開した。(9)そうした考え方は初代皇帝アウグストゥスを内乱からの秩序の回復者としてたたえることから始まっている。ローマ市そのものは、3世紀の[ a ]時代と呼ばれる帝国の危機の時代を経て首都としての役割が低下し、人口も減少していったが、(1O)帝国東部の拠点都市コンスタンティノープルが4世紀の終わり頃から首都的機能を果たすようになると、これが「新しいローマ」とみなされるようになった。
コンスタンティノープルは、ローマ帝国を帝国領東部で継承したビザンツ帝国の首都として存続した。ビザンツ帝国では、共通語がギリシア語になってからも(11)皇帝は「ローマ人の皇帝」を称していた。(12)コンスタンティノープルはオスマン帝国の攻撃によって陥落したが、この頃台頭してきたロシアのモスクワ大公国において、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚していた大公イヴァン3世がラテン語の「カエサル」に起源を持つ[ b ]の称号を初めて用いた。この後、(13)モスクワを「第三のローマ」とみなす思想が形成されていったのである。
問
(1) 数あるポリスの中でもスパルタは、近隣地域を征服してその住民を隷属農民として支配した。この隷属状態に置かれた先住民は何と呼ばれたか。その名称を記せ。
(2) この法律の内容を簡潔に説明せよ。
(3) 古代ギリシア人が最高神ゼウスの聖域で4年ごとに開催した民族的な行事の名を記せ。
(4) アテネはペルシア戦争後に結成した、諸ポリスをとりまとめた組織によって他のポリスを支配した。その組織の名を記せ。
(5) ペロポネソス戦争の経過を描いた歴史家の名を記せ。
(6) ローマと条約を結び、兵力供出の義務を負いながらもローマ市民権を与えられない地位に置かれた都市は何と呼ばれたか。その呼称を記せ。
(7) ローマがイタリアの外に初めて直接的な管轄地域(属州)としてシチリア島を得ることになった出来事の名を記せ。
(8) 小アジアのユダヤ人の家庭の出身で、ローマ市民権を持ち、伝道旅行を重ねてキリスト教が普遍的な宗教となることに大きな貢献をした人物の名を記せ。
(9) 内乱を収束させたアウグストゥスは共和政の復興を宣言したが、実際には新しい政治体制を創始したのであった。彼の始めた政治体制は何と呼ばれるか。その名称を記せ。
(10) コンスタンティノープルがローマ帝国の首都的機能を備えるようになったのは、4世紀末のテオドシウス1世(大帝)の時からである。この皇帝が行った宗教政策で、その後の欧州に強い影響を与えたものを簡潔に記せ。
(11) 5世紀から6世紀にかけて戦場に赴くことが少なかったビザンツ皇帝が、6世紀後半になると親征することが多くなったのは、東で接する国家と抗争することになったからである。ビザンツ帝国と争ったこの国家の名を記せ。
(12) コンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国が滅亡したのとほぼ同じ頃に西ヨーロッパで生じた出来事を、次の(a)〜(d)からひとつ選んで、その記号を記せ。
(a) ドイツ王ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に赦免をこうた。
(b) ウルバヌス2世がクレルモンの公会議で十字軍を提唱した。
(c) イングランド軍がカレーを除いて全面撤退し、英仏間の百年戦争が終結した。
(d) ローマとアヴィニョンに教皇がたつ教会大分裂の状態に陥った。
(13) ローマ皇帝とその帝国の理念は、西ヨーロッパでも継承され、キリスト教世界の統治と教会の保護が任務とされたが、962年に神聖ローマ皇帝としてその役割を担うことになった国王の名を記せ。
B 人類史上、動物が果たした役割、そして動物が被った影響は、非常に大きい。
西洋では、(14)中世の支配層は、馬を大規模に飼育していた。海や船と結びつけられがちな(15)ヴァイキングも、馬を戦争や運搬に使用した。また、イベリア半島などでは、牛や羊が土地を疲弊させるほどに過放牧された。牧畜の隆盛は耕地面積を圧迫し、そのために(16)中世ヨーロッパでば慢性的に食糧が不足していたという見方もある。15世紀末以降、新世界では、(17)ヨーロッパ人は船に載せて持ち込んだ馬を駆って征服を進め、獲得した土地で、ヨーロッパから輸入した牛や羊や豚を大規模に飼育した。これに伴い、先住民はヨーロッパ人や動物がもたらした病気に罹患(りかん)したり、暴力や(18)経済的な搾取を受けて、大幅に人口を減らすことになった。
北米大陸の大平原に広範囲に生息していたバイソンは、白人、そして馬と銃を使いこなすようになった先住民によって、19世紀末までに、ほとんど狩りつくされていく。そして、(19)先住民が[ c ]に強制的に移住させられる一方で、白人の牧畜業者は畜牛の放牧地を経営することになる。南米大陸でも放牧地は拡大し、生産された畜牛は、たとえば、世界の工場として経済的繁栄を享受していたイギリスなどに(20)生きたまま、船に載せられて輸出され、到着後に業者の手に引き渡された。これは、その100年前に隆盛を極めていた、(21)アフリカの黒人を新大陸に運ぶ奴隷貿易と同様に、苦痛を与えるとして非難された。
西洋人は動物の毛皮も欲した。北米大陸に生息するビーバーの毛皮は、近世から紳士用帽子の材料として人気を集めた。ビーバーを追って内陸への進出が果たされた側面もある。他方で、ロシアからもたらされる、シベリア産のクロテンなどの毛皮のほか、(22)太平洋沿岸に生息するラッコの毛皮も、人気の商品であった。19世紀にはダチョウの羽根が西洋の婦人用帽子の装飾として珍重された。太平洋の島々に生息するアホウドリの羽根も同じ用途で高い需要があり、これに目を付けた日本の業者によって乱獲された。
19世紀には、象もインドやアフリカで大規模な狩猟の対象となった。トランスヴァール共和国では、(23)金やダイヤモンドが発見されるまでは、象牙が最大の輸出品であった。象牙はナイフの柄やビリヤードのボールやピアノの鍵盤などに加工されるのであった。1900年の一年間だけでヨーロッパは380トンの象牙を輸入したが、これは約4万頭の象の殺戮(さつりく)を意味した。(24)捕鯨も19世紀に「黄金時代」を迎えた。それを牽引したアメリカ合衆国は、19世紀半ばの最盛期に世界の捕鯨船約900隻のうち735隻を擁したとされる。1853年、同国の捕鯨船団は8000頭以上の鯨をとった。主たる目的は鯨油とヒゲで、肉は廃棄された。
問
(14) 1000年頃からしばらく続く西ヨーロッパの内外に向けての拡大運動においても馬は活躍した。
(ア)この頃の修道院を中心とした経済的かつ領域的な拡大の運動を何と呼ぶか。
(イ)この運動の先頭に立った主な修道会の名をひとつ答えよ。
(15) フランス北部のバイユーで制作された刺繍(ししゅう)画には船と並んで馬が頻出する。この刺繍画の主題である1066年のヘイスティングズの戦いでクライマックスを迎える出来事を何というか。
(16) とりわけ中世後期は疫病や飢饉(ききん)などが頻発し、社会的な不安が高まったのだが、黒死病の大流行以降、人口減少により農奴に対する束縛は緩められる傾向が顕著であった。このとき社会的上昇を果たした独立自営農民のことをイギリスでは何と呼ぶか。
(17)(ア)16世紀前半に騎馬の兵を率いるコルテスによって滅ぼされた帝国の首都の名は何か。
(イ)また、ここはその後何という都市になったか。
(18) ラテンアメリカが産出した銀は、ヨーロッパだけでなくアジアにも輸出された。
(ア)その積出地と、(イ)銀を運んだ船の種類を答えよ。
(19) 19世紀前半に、先住民の移住政策を推進したことや民主党の結成を促したことで知られるアメリカ合衆国大統領は誰か。
(20) 19世紀末にこの輸送法は用いられなくなる。しかし、南米からイギリスなどへの牛肉の輸出は増加した。それが可能となった技術的理由を述べよ。
(21) この奴隷貿易とは別に、アフリカ東海岸では長らく、インド洋貿易の一環としてムスリム商人が奴隷貿易を行っていた。アラビア語の影響を受けて成立し、17世紀以降この海岸地帯で共通語となった言語は何か。
(22) この動物の毛皮は、アジアとアメリカ大陸の間に派遣された探検隊によって持ち帰られ、ロシアによる北太平洋の毛皮貿易が発展するきっかけとなった。シベリアとアラスカを隔てる海峡の名にもなっている探検隊のリーダーの名を記せ。
(23) これらの産品への注目が南アフリカ戦争へつながった。この戦争に踏み切った当時のイギリス植民地相の名を答えよ。
(24) これを題材にした小説『白鯨(モビーディック)』の作者は誰か。
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コメント
第1問
課題は、①ヨーロッパ人宣教師が中国に来るに至った背景、②(時期)16世紀から18世紀における彼らの中国での活動、③その影響、でした。この課題にたいしてどのように応答するか、ある解答例で検討してみます。
(解答例──S)
①16世紀、ヨーロッパでは宗教改革に対してカトリック側が進めた対抗宗教改革の中でイグナティウス=ロヨラらがイエズス会を創設した。そして、大航海時代の本格化をうけてイエズス会が海外布教を積極的に進め、マテオ=リッチを始めとする宣教師が明に来訪するようになった。
②彼らは明・清に仕え、布教のみならず西洋の知識や技術を中国にもたらし、
③中国の地理観や暦法、実学などに影響を与えた。しかし、清ではイエズス会が中国の儀礼である典礼を信者に認めたことから、これを批判する他派や教皇との間に典礼問題が発生した。これをうけて18世紀に康熙帝はイエズス会の布教のみを認めることとし、さらに雍正帝はキリスト教の布教を全面禁止した。
この解答例の背景①は反宗教改革と大航海時代をあげていて問題なくできてます。ただ背景の中の「航海」と「布教」はどのように関連しているのかは書いてありません。たまたま航海だから宣教師がその船に乗っていっただけで、とくに関連はないのでしょうか? もちろん目的があります。宗教改革で失った西欧カトリック世界を他の大陸で布教して信徒を獲得しカトリックの回復を図ること、金銀のあるアジアに行くことで教会自体が富を獲得し、布教の資金を得る、あわよくば植民地化することで政治的な功績を国王にささげることができました。じっさいポルトガル王を兼ねた(1580)フェリペ2世は征服・植民・貿易政策の一環として軍事的色彩の濃い対外政策をうちだしていました。国王の政策を実現すべくイエズス会士たちは中国征服について国王にあてた手紙があります。
(1)シナを改宗させるには、征服による以外に手段があるとは到底考えられない。
(2)シナ征服を成就しうる武力は、日本から調達する以外にありえない。
これはペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長宛て手紙です(1598年)(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店「第3章 キリシタン宣教師の軍事計画」p.133)。この(2)でなぜ日本が出てくるのか不思議におもうかも知れませんが、当時のイエズス会士の日本人評価は、次のとおりです。
日本人の兵隊は非常に勇敢にして大胆、且つ残忍で、シナ人に恐れられているからである。(前掲書p.103)
また僧侶・宣教師であるイエズス会士が布教の仕事だけをしに来たのでないことも知られています。布教資金の必要から長崎=マカオ間の貿易に直接たずさわっていたこと、生糸取引の仲介者としても活動し、日本人から銀の委託をうけ希望する商品をマカオで仕入れてもどる、ということもやつていました。家康がイエズス会に対して1604年または1605年に5000ドゥカドもの金を貸与し、希望の品物を仕入れるよう依頼しています(前掲書p.565)。
とすれば絶対王政・金の需要・植民地化政策も背景として可となります。また解答例には書いてありませんが、「中国に来るに至った背景」は中国側が受け入れた背景も書いていいはずです。西欧側だけが積極的だったのでなく、中国側も是非とも受けて入れたい理由がありました。武器・火薬原料の硝石・銀などが必要であり、清朝にまたがって、キリスト教布教をしだいに制限しながらもイエズス会士を受け入れていったのは、かれらの軍事技術とその学問を必要としたためです。康熙帝は三藩の乱のさいにフェルビーストの製造した大砲によって助けられているので、側におきたがりました。
②解答例の活動は「布教のみならず西洋の知識や技術を中国に」とだけあって、なんか、いやにしょぼい内容です。「知識や技術」の具体例がいくつかほしいところです。M.リッチは『坤輿万国全図』で世界地理を、『幾何原本』でユークリッドを、A.シャールは徐光啓と共著の『崇禎暦書』で暦学を、フェルビーストは大砲鋳造法を、ブーヴェ・レジスは『皇輿全覧図』で地図作成法を、カスティリオーネは円明園で西洋建築法と絵画の遠近法を伝えました。
「今、主(神のこと──中谷注)は二人のイエズス会士〔ルッジェーリ羅明堅とリッチ利瑪竇のことを指している──引用者〕の入国を許すよう命じ給うた。彼等は、後になって説教をして霊魂の救済が出来るようにとシナの言語と学問を学んでおり、そして同市に出入してもよい、という許可をえている。彼等も大いに力になることであろ(前掲書p.95)とシナ征服計画の一貫してフランシスコ・カブラルが国王に手紙を書いています(1584年)。マテオ=リッチは中国征服の工作員だったのかも知れません。
教科書(詳説)の「海外でのカトリックの布教活動は、「大航海時代」の世界的通商・植民活動と密接なつながりをもっていた」という記事の内容は以上のようなことを指しています。
③解答例の「影響」もしょぼい内容です。「中国の地理観や暦法、実学などに影響を与えた」と文化的な影響を書きましたが、「影響」というのはどんな影響なのか、これだけの文章では分かりません。中国人はイエズス会士を通して初めて地球が丸いことを知りました。後は典礼問題と布教制限・禁止というお上の決定を詳しく書いています。
京大実戦模試が的中した、と噂になったようですが、この模試の批判を昨年このブログに載せました(→2020年度模試の疑義──(1) - 世界史教室)。この模試問題は「中国の社会経済や文化に与えた影響」と問うていましたが、解答文が文化面は「中国の科学技術の発展を促し」としか書いてないので、実学くらい書けよ、という趣旨で「教科書(東京書籍)に「このようなヨーロッパ科学技術の刺激と、当時の飛躍的な産業の発展を背景として、明代には実用的な学問(実学)が発展し、李時珍の『本草綱目』、宋応星の『天工開物』、徐光啓の『農政全書』などが著された」とある実学です。」と解説しました。また考証学の発展に寄与したことも書きました。史家には知られていても、これを書いた予備校の答案は皆無でした。
第2問
問(22)の『預言者たちと諸王の歴史』を著した歴史家を問うた問題は奇問にちかい細かい問題です。また問(25)ムガル帝国の初代皇帝となった人物の回想録のタイトルも細かい問題でした。共にできなくていい問題です。
第3問
「ドイツ統一に至る過程を、プロイセンとオーストリアに着目し、1815年を起点として」という課題でした。これも一解答例をつかって解説してみましょう。
(解答例──K)
①ウィーン会議の結果,オーストリアを議長国とするドイツ連邦が成立した。
②プロイセンが中心となって発足したドイツ関税同盟では,オーストリアを除くドイツの経済的な統一が進展した。
③自由主義的統一を目指したフランクフルト国民議会が成果なく終わったのち,
④プロイセンは「鉄血政策」を掲げるビスマルクによって,軍事力による統一を進めた。デンマーク戦争で獲得した地を巡る対立が発端となってプロイセン=オーストリア戦争が勃発し,これに勝利したプロイセンは,ドイツ連邦を解体して北ドイツ連邦を樹立し,敗れたオーストリアは統一から排除された。
⑤プロイセンは,プロイセン=フランス戦争でナポレオン3世を破り,ドイツ帝国を樹立した。
①「オーストリアを議長国」と書いたことで「オーストリアに着目」にたいして応えたつもりなのでしょう。しかし「ドイツ統一」という主問にたいする解答としては不十分です。何より、戦争中に消えた神聖ローマ帝国に代わるドイツ連邦ができ、それまで300近い領邦の集まりであった帝国は、35の君主国と4自由市で構成される連邦となり、飛躍的に統一へ向かいました。
また「1815年を起点」とある普墺の立ち位置はどのようなものであったかの言及が欠けています。プロイセン(解答では「普」でも可)はラインラントの工業地帯でドイツ人が住む地域を獲得したのに対して、オーストリア(解答では「墺」でも可)は主に農業地帯のイタリア東北部を得たため多民族性が増し、プロイセンと比べて「統一」に向かう方向性としては明らかにプロイセンが有利になりました。
②関税同盟と経済的統一は不可欠なデータでこれはできています。
昨年の京大実戦模試の第3問に類題があり、このブログでも解答文に批判を加えました(こちら→http://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2020/12/22/2020年度模試の疑義──%282%29)。題は「なぜ産業革命や鉄道建設を書かないのか?」というもので、本文はSの解答例ではないですが、同じ指摘がこの解答例でも言えます。なぜ「ドイツでは、プロイセンが関税同盟による統一市場の形成をすすめた1830年代から、鉄道建設と軍備増強をテコにした重工業中心の産業革命がすすめられた。(東京書籍)」と書けないのでしょうか? 拙著『各駅停車』では「産業革命がイギリスではじまり、1830 年代から欧米に広がる……西欧の国々とアメリカは1830年代から産業革命がはじまります」と1830年代を後の記事でも強調しています。1848年革命(ドイツなら三月革命)のところでは「ドイツ連邦でもフランスと同じ背景があり、プロイセン領となったライン地方では産業革命が進展していて、ブルジョワと労働者が増えてきており、出版・集会の自由、そしてドイツの統一を求めていました。ベルリン暴動では、ベルリンはもちろんミュンヘンでもハノーヴァーでも商工業者・学生・労働者・農民が大衆的な集会を開いて自由と統一を議論しました」と書いています。
③国民議会は失敗したため「統一」に貢献することはなかったので、書かなくてもいいことです。「プロイセン……着目」にこだわるなら「成果なく終わった」のではなく、小ドイツ主義が優位を占めたことか、小ドイツ主義の憲法がまとめられたことを書くべきです。テーマの追跡を止めてはいけません。
④ここはよくできてます。鉄血政策の「血」は戦争政策のことなので、ビスマルクの実施した三つの戦争(デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争)をあげています。
⑤フランスに勝ったことがなぜドイツの「統一」になるのかの言及はありませんが、カトリック地域である西南ドイツはカトリックのフランスと同盟関係を模索していたのが、この戦争によって「統一」の意志を高めルター派プロイセンと組むことになりました。フランスとの同盟はなくなりました。戦争の結果22の君主国と3自由市のドイツ帝国ができあがりました。この帝国の中身が連邦制であることは、25の国の集まりであることでわかります。完全な統一的集権国家はナチス・ドイツで成立します。
第4問
奇問に近いのは問(20)の「南米からイギリスなどへの牛肉の輸出は増加した。それが可能となった技術的理由」で、冷凍が可能になったことですが、山勘で正解になったひともいるでしょう。こちらの経済史の論文(https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/125642/1/kronso_178_5-6_614.pdf)の表(p.98)に1880年代からアルゼンチンからの輸出項目として「冷凍牛肉」が載っています。
もう一問は、問(24) これを題材にした小説『白鯨(モビーディック)』の作者は誰か。作者のメルヴィルを知っている受験生はどれだけいたでしょうか? もちろん作品とともにこの名も用語集には載っていません。できなくてもいい問題の一つです。
ただこの作者とともに日本に関することがいくつかあるので、歴史の勉強として以下を読んでください。
作品『白鯨』は片足を食いちぎられた船長が、食いちぎった鯨をどこまでも追いつめて復讐をはたそうとする物語です。作者のメルヴィルは捕鯨の仕事をしたことがあり、その経験をもとにしています。1841年1月3日かれはマサチューセッツ州フェアヘイヴンでアクシュネット号に乗り、捕鯨のために日本の沿岸海域に向かっています。3週間後の1841年1月27日、14歳の(中浜)万次郎は高知で、名前も付いていない小舟に乗り、漁に出かけたことが、途中で遭難して、思いがけなくもフェアへイヴンに向かっていました。救助してくれた船長ホイットフィールドの故郷の町がフェアへイヴンで、この町で万次郎は暮らすことになり英語の学習をします。1849年ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに行き、金を掘って帰国資金とします。遭難してから11年目にして故郷に帰ることができました。
ペリーの黒船が来たため江戸に呼ばれ通訳をつめます。その後米国に帰国したペリーはホーソン(『緋文字』の作家)に「日本開国の航海記録出版に向けて、メモと資料を用意してくれる適任者を私に推薦してほしい」と頼みます。するとホーソンは知人であったメルヴィルの名前をあげましたが、どうしてかペリーは肯きませんでした(参考文献はクリストファー・ベンフィー著・大橋悦子訳『グレイト・ウェイヴ 日本とアメリカの求めたもの』小学館)。
第1問
(君の解答)
第2問
A
空欄 a咸陽 b赤眉 c洛陽 d大興(城)
(1)商鞅 (2)スキタイ (3)半両銭 (4)項羽
(5)張騫 (6)訓詁学 (7)東晋 (8)鳩摩羅什 (9)府兵制 (10)突厥 (11)皇后たちの親族
B
(12)イッソスの戦い (13)ムセイオン (14)ヘレニズム文化 (15)ヒジュラ (16)西ゴート王国 (17)タラス河畔の戦い (18)アラム語 (19)知恵の館(バイト=アルヒクマ) (20)トレド
B
空欄 c保留地
(14)(ア)大開墾(運動) (イ)シトー修道会(シトー派) (21)景教 (22)タバリー (23)ワクフ (24)サーマーン朝 (25)『バーブル=ナーマ』 (26)アフガーニー
第3問
(君の解答)
第4問
A
空欄 a軍人皇帝 bツァーリ
(1)ヘイロータイ(ヘロット) (2)両親ともアテネ市民である者に市民権を限定する。(3)オリンピアの祭典 (4)デロス同盟 (5)トゥキディデス (6)同盟市 (7)第1回ポエニ戦争 (8)パウロ (9)元首政(プリンキパトゥス) (10)キリスト教の国教化 (11)ササン朝 (12)(c) (13)オットー1世 (15)ノルマン=コンクェスト(ノルマンの征服) (16)ヨーマン (17)(ア)テノチティトラン(イ)メキシコシティ (18)(ア)アカプルコ(イ)ガレオン船(19)ジャクソン (20)冷凍技術の発達 (21)スワヒリ語 (22)ベーリング (23)ジョゼフ=チェンバレン (24)メルヴィル