世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2009

第1問
 19世紀末からのインド亜大陸における民族運動はヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立、およびこれを煽(あお)るイギリスの政策によって、しばしば困難な局面を迎えた。インド亜大陸の民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の関係や立場の違い、およびこれをめぐるイギリスの政策について、1947年の分離・独立までの変遷を300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B の[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(10)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 中国で古くから精度のかなり高い地図が作られていたことは、1973年に湖南省長沙の馬王堆(まおうたい)で発掘された紀元前2世紀の墓中にあった(1)絹製の地図によって明らかになった。文献には地図に関する記述はけっして多くはない。春秋五覇の筆頭である[ a ]に仕えた政治家管仲の著作と伝えられる『管子』には「地図」篇があって地図の軍事的重要性が強調され、また『戦国策』には蘇秦が合従策を趙王に向かつて説いた際、(2)趙国の地勢について論じてから、「天下の地図」をよりどころにして諸侯の領地が秦の5倍であることを力説したことが記されているが、これらの記述は例外的なものである。とりわけ群雄割拠の時代においては地図の軍事的効用が重視されたであろうが、地図が具体的にどのように描かれ、用いられてきたかは明らかでなかった。
 天下を統一した秦が有していた地図は、首都[ b ]を劉邦の軍が占領した時に接収されたという。[ c ]が『漢書』の地理志を編纂(へんさん)した時点ではそれを参照できた。しかし、晋の斐秀(はいしゅう)が五経の一つである[ d ]の「禹貢(うこう)」の記述と晋代の地名を対照させた地図を作成した時には秦の地図は見られなくなっていた。漢代の地図についても、文献からは具体的な姿を描くことが難しい。たとえば(3)「東京賦」の著者である張衡が作った「地形図」、が斐秀の地図とともに、9世紀の書物(4)『歴代名画記』の「古(いにしえ)の秘画・珍図を述ぶ」の項目に挙がっているが、どんな地図なのかを知ることはできない。その点で、漢代の地図の具体的様相を示す馬王堆の地図の発見は画期的だったのである。
 斐秀の作品が「禹貢」に関連していることからも明らかなように、夏の禹王に献ぜられた各地の貢品と山川について記した「禹貢」は(5)周代の制度を理想的に描いた『周礼(しゅらい)』の地理関連の記述とともに中国人の地理観に大きな影響を与え、後世においてもさかんに研究された。12世紀後半に著された(6)程大昌の『再貢論』『禹貢山川地理図』や、1705年に江南に巡幸してきた[ e ]帝に胡渭(こい)が献上した『禹貢錐指(すいし)』がその代表的なものである。また『周礼』の中で「天下の図を掌る」任を担うとされた「職方氏」は後世には地図を管掌する部局の名前へと受け継がれた。中国で活動したイエズス会士ジュリオ・アレーニが著した世界地理書(7)『職方外紀』、(1623年に完成)は、職方の管掌外にある地域を扱うものであることを書名によって示している。これら「禹貢」や「職方氏」の記述と、南北朝時代にレキ道元(麗+おおざとへん、れきどうげん)が著わした地理書[ f ]によって、中国知識人の伝統的地理観は形作られてきたと言えるだろう。


(1) 地図のうちの1枚は漢王朝の南方に当時存在したある国を意識して作られた軍事地図であった。その国の名を記せ。
(2) 蘇秦は、秦があえて趙を攻めないのは秦と趙の間にある2つの国のためである、と論じた。秦の東方趙の南方にあったこの2つの国の名を記せ。
(3) 「東京賦」の「東京」とはどこを指しているか。その都市の名を記せ。
(4) この項目には、王玄策の「中天竺国図」も挙がっている。王玄策は7世紀に数回インドに使いした人物であるが、2度目の時にインドの内乱に巻きこまれ、結局ヒマラヤ山脈の北にあった新興国の力を借りてインドの王を捕虜にしている。この新興国の名を漢字で記せ。
(5) 漢にかわって王朝を立て『周礼』を利用して復古的政治をおこなおうとしたのは誰か。その名を記せ。
(6) 程大昌は「禹貢」に見える「弱水」を、漢代の西域関係記事を参考にして、大夏・大月氏・安息を経て西の海に注ぐものであるとした。大月氏に使いして、西域情報を中国に伝えたのは誰か。その名を記せ。
(7) (ア) この本の「百爾西亜(ペルシア)」、の項ではペルシアの沖合にあって、アジア・ヨーロッパ・アフリカの富裕な商人が集まってくる島の繁栄が強調されている。この島の名を記せ。
(ィ) また、仏教に由来する「五天竺」という区分をうけて「印度は五つある」とし、そのうちの「四印度」は「莫臥爾」国に併合されたと述べる。この併合を16世紀後半に実現したのは誰か。その名を記せ。

B 下の図は、朝鮮半島に展開した諸王朝──X王朝、Y王朝、Z王朝──について、それぞれの首都の所在を示したものである。

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 このうちX王朝は、中国の[ g ]王朝から(8)冊封」を受け、これと軍事同盟を結んで、長く敵対していた[ f ]と[ i ]を滅亡させた。ところが、[ g ]王朝は[ i ]の故地に安東都護府を設置し、朝鮮半島全域を支配しようとした。このため、これに反発したX王朝は、[ i ]遺民の反乱を利用して[ g ]王朝の勢力を駆逐し、朝鮮半島を統一した。しかし、その後の(9)北東アジアにおける国際環境の変化によって、x王朝と[ g ]王朝との関係は再び親密なものとなった。
 次に、Y王朝が成立したころ、中国は[ j ]と呼ばれる分裂の時代にあったが、その後、[ k ]王朝が中国を統一した。Y王朝は[ k ]朝と通交し、その冊封を受けたが、10世紀末から11世紀前半にかけて数次にわたって北方王朝の侵攻を受け、これに服属したため、[ k ]王朝との国交は断絶した。しかし、中国の商人たちは国禁を犯して朝鮮半島に渡航し、Y王朝としきりに通商していた。このため11世紀後半に入って中国で[ l ]党と呼ばれる勢力が権力を掌握すると対外政策に積極的であった[ l ]党の政権はY王朝と国交を再開し、Y王朝を利用して北方王朝の勢力を牽制(けんせい)しようとした。
 最後に、 z王朝は14世紀末に成立して中国の[ m ]王朝から冊封を受けたが、1636年に[ n ]王朝の侵攻を受け、翌年、これに服属した。その後、[ o ]の乱で[ m ]王朝が滅亡すると[ n ]王朝はこの混乱に乗じて中国本土に進出し、やがて中国全土を統ーした。Z王朝は[ k ]王朝に服属したものの、[ m ]王朝に対しては(10)特別の恩義を感じていたため自らの王朝が[ m ]王朝の正統を受け継ぐのだという独特の世界観を構築し、暗に[ n ]王朝に対して復讐(ふくしゅう)の機会をうかがっていた。


(8) 下線部の「冊封」について、当時の国際関係を規定する外交上の概念として簡潔に説明せよ。
(9) 下線部の「北東アジアにおける国際環境の変化」、とは何か、歴史的事実を簡潔に説明せよ。
(10)下線部の「特別の恩義」とは何か歴史的事実を簡潔に説明せよ。

第3問
 コロンブスおよびそれ以降の航海者の探検によって、大西洋の西、アジアとヨーロッパとの間にある陸地は大陸であることが証明された。この「新大陸」の発見の結果、新・旧両世界にひきおこされた直接の変化について300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。なお解答には、下記の語をかならず使用し、用いた語句には下線をほどこせ。
  先住民  産物

第4問
 次の文章(A、B、C) の[  ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)〜(21)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 古代の地中海地域を中心に文明を築いたギリシア人とローマ人には、市民権を持つ都市の正式構成員が主体となる政治体制を樹立するなど、共通する面も多かったが、他方ではまったく性格の異なる政策を実施するなど、注目すべき相違点もみられる。
 (1)古代ギリシアの代表的なポリス、アテネでは民主政の発展によって成年男性市民の総会である民会が国政の最高決定権を有し、また市民は一部の特別職を除いて誰でも公職に就くことができ、公職者はくじで選ばれ、日当が支払われた。参政権は市民の成年男性に限られており女性や在留外国人には与えられなかった。しかも(2)紀元前5世紀中ごろの立法によって、アテネ市民の両親から生まれた子でない限り市民権は与えられなくなった
 ローマの場合も、共和政の時代は、市民の集会である民会で国家の公職者が選出され、参政権を持つ者も成年男性に限られていた点は、アテネと同様であった。しかし、(3)ローマ市民の中でも貴族が公職を独占的に保持して権力をふるい、貴族主導の政治体制をとった点は大いに異なる。また、(4)ローマ人は征服活動を進める過程でローマ市民権を他の諸部族諸民族にも与えたため、(5)政治的特権であるローマ市民権を持つ市民団は、故地ローマ市はもとより、イタリアをも越えて拡大した
 対外的な活動においてもギリシア人とローマ人の違いは注目に値する。両者とも、(6)地中海を自由に航行し、植民活動や都市建設をおこなっている。しかし、ギリシア人の場合、植民によって建設された都市は母市から独立したポリスとなったが、ローマ人が建設したり植民したりした都市がローマ国家から切り離されることはなかった。またギリシア人は広大な植民活動をおこなったが、植民市はおおむね故地と気候や風土の似た海岸部に建てられたのに対し、(7)ローマ人の場合、ヨーロッパの内陸部にも征服地を広げ、イタリアとは気候や風土の異なる地域にも都市を建設した。このため、(8)ローマ人の国家は、地中海沿岸にとどまらず、ヨーロッパの中央部、さらにはブリテン島やドナウ川下流域にまで広がり、ヨーロッパの広大な地域に大きな影響を残すこととなった。


(1) アテネとともに古代ギリシアを代表するポリス、スパルタは、市民間の平等維持や厳しい軍事訓練などを定めた独自の国家制度を完成させた。この名称を記せ。
(2) この法律を提案しアテネ民主政の黄金期を築いた政治指導者の名を記せ。
(3) 貴族の権力から平民を守るために前5世紀に設置された公職の名を記せ。
(4) 前1世紀の初めに、イタリア半島の都市へのローマ市民権付与をめぐって生じた戦争の名を記せ。
(5) 政治的特権であったローマ市民権は、保持者の増大につれて特権としての価値を減じていった。
 (ア) キリスト教のローマ帝国東部への伝道に活躍し、キリスト教を世界宗教とするために最も大きな役割を果たした人物は、属州で逮捕されたが、ローマ市民権を有したために首都ローマの皇帝の裁判に上訴することができた。この人物の名を記せ。
(イ)紀元3世紀の初めにはローマ帝国内のすべての自由民にローマ市民権が与えられた。この措置がなされた当時の帝国の状況を正しく説明した文章を、次の(a)〜(d)より1つ選んで、記号で答えよ。
 (a) オクタウィアヌスが内乱に勝利し、新しい政治体制を導入した。
 (b) ディオクレティアヌス帝が混乱した帝国を再統一し、様々な改革を断行した。
 (c) 門閥派と民衆派の政治権力をめぐる争いが激化した。
 (d) 五賢帝時代も過ぎて、国境外の諸民族の侵入や皇帝位をめぐる争いが頻発するようになった。
(6) ローマ人の地中海進出以前ギリシア人とともに地中海での交易や植民に活躍し、カルタゴなどの植民市を建設した民族の名を記せ。
(7) 初代皇帝アウグストゥスの治世にローマの3軍団がゲルマン人の部隊によって全滅させられローマの内陸部征服計画は頓挫(とんざ)することになった。この戦いの名を記せ。
(8) ローマ人が進出する以前のヨーロッパ中央部には前5世紀から前1世紀にかけて独自の性格を持つ鉄器文化、ラ・テーヌ文化が広がっていた。
 (ア) この文化の担い手となった民族の名を記せ。
 (イ) この文化の担い手である人々がローマの支配下に包摂されるようになる大きな契機は、ユリウス・カエサルの遠征である。彼がこの遠征について自ら書き記した作品の名を記せ。

B ユーラシアの歴史では遊牧民族の移動と征服活動によって幾度も大きな変化がもたらされた。規模は異なるもののヨーロッパ史においても、様々な民族や集団の移動が、社会や国家の変化を促している。ゲルマン民族の移動が一段落した後、7世紀にスラヴ民族が西進、南下し、ヨーロッパ東部の政治と文化に大きな影響を与えた。バルカン半島ではトルコ系の[ a ]人が東部に定着し、7世紀末には独立国家を建て、やがてスラヴ化した。西ヨーロッパでは、北欧からのノルマン人の略奪活動が(9)ブリテン島や西フランク王国の社会にとって大きな脅威となり各地において支配体制の変化をも促した。しかしノルマン人の活動が、略奪と交易から植民と定住に向かうことにより、(10)ヨーロッパ各地における新たな国家形成の出発点となったことも、見逃してはならなこのように4世紀から11.12世紀にかけては様々な民族集団がヨーロッパを縦横に移動したのに対し11.12世紀には西ヨーロッパから周辺世界への移動や支配の回復・拡大が始まる。11世紀末に開始された十字軍は、イェルサレム王国を建ててイスラム王朝と戦ったが、1187年にはアイユーブ朝の建国者[ b ]との戦いでイェルサレムを失い、1291年にはアッコン陥落により、王国最後の拠点をも失った。エルベ川以東のスラヴ民族の居住地域では、ドイツ人による植民と都市・村落の建設が進められていたが、パレスティナで活動していたドイツ騎士団は14世紀初めまでに拠点をバルト海南岸地域に移して、国家的支配を築いた。(11)この「騎士団国家」はバルト海南岸各地に広がったが、(12)その一部は宗教改革を経て世俗国家となり、ドイツのホーエンツォレルン家の支配下に入った。他方、イベリア半島のレコンキスタもまた、イスラム教徒との戦いにおいて十字軍理念と結びついたと言われるが実際にはキリスト教諸王国はイスラム教徒と同盟し共存をはかるなど柔軟な相互関係を結んでいた。非キリスト教徒に対する抑圧が強まるのは(13)イベリア半島の政治的統ーが進んだ中世末以後である
 14,15世紀にはヨーロッパ東南部は、東方からの新たな脅威に直面する。(14)バルカン半島に進出しコンスタンティノープルを征服したオスマン朝は、1529年にはウィーンを包囲して当時の神聖ローマ帝国の政治に大きな影響を与えたのである


(9) 9世紀末にノルマン人の一派デーン人を破ってアングロ=サクソン王国を復興した人物の名を記せ。
(10) ノルマン人が12世紀前半にイタリア南部に建設した王国の名称を記せ。
(11) 15世紀に「騎士団国家」と戦って優位に立った、この地域の国家の名称を記せ。
(12) ホーエンツォレルン家が継承したこの世俗国家の名称を記せ。
(13) 15世紀後半にイベリア半島の政治的統一を大きく前進させる契機となったのはどのような事実か。簡潔に記せ。
(14) 具体的にどのような影響を与えたのか、簡潔に記せ。

C ロシアはピョートル1世のころから、西方、特にドイツとの関係をそれ以前に増して強化している。(15)ピョートル1世が建設した新首都は、ドイツ語風にサンクト・ペテルブルクと名付けられた。ロマノフ家とドイツ貴族との関係は深く、たとえば、啓蒙専制君主の(16)エカチェリーナ2世はドイツ貴族の娘である。ロシア領内のドイツ系住民の一部は帝国にとって重要な地位を占めることとなる。経済的にも、(17)第一次世界大戦までにドイツはロシアにとって輸出入両面で最大の貿易相手国となった。
 一方、ドイツとロシアとの政治的関係は1870年代から不安定となる。1878年、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)で戦勝国となったロシアは、ビスマルクが議長を務めたベルリン会議でバルカンへの権益拡大を制限され、(18)代わってオ〜ストリアが勢力を拡大した」。その後バルカンをめぐってロシアとドイツは亀裂(きれつ)を深めていき、第一次世界大戦では交戦国となる。開戦直後に、ロシアの首都はロシア語風にペトログラードと改名されている。ロシア軍が劣勢におかれるなかで、(19)ドイツ系有力者が敵と内通しているためにロシアは戦争に勝てない、という意見も公然と叫ばれるようになった。
 ロシア革命後、ソヴィエト政権とドイツは1922年に国交を回復する。(20)ナチスの政権獲得後、1939年には両国の間で不可侵条約も結ばれるが、1941年から両国は再び交戦国となりドイツの首都ベルリンはソ連軍に占領される。戦後、ドイツは東西に分割され、ドイツ民主共和国(東ドイツ)はソ連の勢力圏に入り、ベルリンも東西に分断された。その後、東ドイツ市民の大量流出を防止するため、東西ベルリンの間には(21)「ベルリンの壁」が築かれた。この壁は東西対立を象徴する存在となった。


(15) 新首都は戦争のさなか、要塞建設を中心に進められた。建設工事は、交戦中だったある国の陸海軍の妨害を受けることもあった。この国の名称を記せ。
(16) 彼女と盛んに文通したフランスの啓蒙思想家を一人挙げよ。
(17) このころのロシア第2の貿易相手国は、ロシアと1907年に協商を結び、両国は政治的に接近する。この国の名称を記せ。
(18) オーストリアはベルリン会議後ボスニア・ヘルツェゴヴィナを管理下におくこととなり、1908年にはこの地域を併合した。この地域で1914年に起こった事件は、第一次世界大戦の直接の引き金となった。
 (ア) この事件の内容を簡潔に記せ。
 (イ) 1990年代に入るとこの地域は内戦の舞台となる。この内戦で解体した連邦国家の名称を記せ。
(19) ドイツでも第一次世界大戦後敗戦の原因を国内の特定の「人種」、に押しつける理論が流行した。この「人種」は何人と呼ばれたか。
(20) この間に起こったある国の内戦で、両国はそれぞれが支持する勢力に武器援助等をおこなった。その国の名称を記せ。
(21) (ア) 「ベルリンの壁」の建設が始まった翌年、ソ連はアメリカ合衆国との対立を激化させ、全面核戦争直前という状況を迎える。この事件の名を記せ。
(イ) 「ベルリンの壁」が崩壊した年を記せ。
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コメント
第1問
 この問題と解き方・解答例は『世界史論述練習帳 new』(パレード、2009年10月出版)p.69〜71に載せておきました。巻末の「基本60字」にも既問(東大で出題)として以下の問いがありました。

 インド民族運動におけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒との協力と対立について述べよ(90字)。 

 合格した受験生が載っていたアレが出ました、と報告してきました。受験生はいいとして、たいていの予備校の解答例(YST)は、イギリス側の政策の一つとして政治組織(インド国民会議・全インド=ムスリム連盟・英印円卓会議)がつくられているのに、そのことを指摘せず、両教徒の対立ばかりを書いてます。 イギリス側の政策があげてあっても、協力関係があったことが欠落した解答例も見られます。
 問題文に、「……これを煽(あお)るイギリスの政策……これをめぐるイギリスの政策」とあるのを見逃しています。また「教徒の対立……関係や立場の違い」とあり、「関係」は対立ばかりでないことも示唆しています。とくに1920年代は、第一次世界大戦が終わった後でもあり、民族自決の声、アムリットサル虐殺やローラット法施行があり、トルコにおけるカリフ制廃止に反発したムスリムのキラーファット(カリフ制擁護)運動があり、これをヒンドゥー教徒も支援して共闘ができました。
 しかし、共闘しながらも次第に違和感をおぼえ、1930年からイスラーム教徒独自の国家建設をめざすべきだとの主張が現れます。それが、1940年のムスリム連盟ラホール大会において、ジンナーの演説を元にラホール決議(Lahore Resolution)として結実します。その演説には「ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない」とあります(もっと長くは、かの wikipedia でジンナーを調べると出てきます)。これをパキスタン構想といいます。
 また問題文に「1947年の分離・独立」とあるのに、解答文の最後に、これをまたわざわざ書いているものも見られます。すでに問題文に書いてあることは書いても得点にはなりません。コピーは能力の一つではありません。もっとも世界史学習はほとんどコピー(暗記)能力の養成みたいなものなので、作答者も慣れきって、書いても不思議におもわないのかも知れません。分離・独立に反対したガンディーのことぐらい書いてもいいはずです。
 
第2問
 第1問で中国史が出ようと出まいと必ずこの第2問で中国史を出してきます。それほど京大にとって中国史ははずせないということでしょう。
 
A 空欄と下線設問を別にしないで、出ている順に説明します。中国史の地図に関する私大的な問題文です。

問(1) 「南方……ある国」と問題文にある「前2世紀」がヒントです。 前203〜前111年に存在した広東以南に位置していた独立国でした。建国者の趙佗(ちょうだ)は秦の漢人官僚で県令(県知事)であり、秦漢交代期を利用して独立しました。中国に対抗して皇帝を名乗っていたため、景帝の使者にたいして帝号を用いず朝貢すると約束しながら、国内では帝号を使いつづけたそうです。中国側は景帝の後をついだ武帝がこの国を征服し、南海九郡を置きました。後々、阮福映(映の右側「央」に草冠が付いた字も可)が清朝に国名を「南越国」と申請したら、この古い国の復活を図り反抗する意志がみられるととられ、断わられたため「越南国」と申請したら許可された、という経緯がありました。これが現在のヴェトナム(越南)の起源です。

 空欄(a) 「春秋五覇の筆頭」とあるので最初に覇者と位置づけられるのは斉の桓公です。拙著『センター世界史B各駅停車』には未出題ではあれ、出る可能性の大きいものとして「斉の桓公、晋の文公」(文公は97追試で出題歴)と覚え方を載せています。

問(2) 七雄は時計回りで勾玉(まがたま)のような格好をしたもので覚えるのが一般的です。これも拙著(前掲書 p.9)に地図とともに覚え方が書いてあり、真っ先に覚えるべきは韓魏趙からとしています。理由はこの3国がもともと晋から下剋上で独立した国々であり、この3国の分裂を周本家が認可したことをもって戦国時代の開始ととるからです。位置としては下から順に、韓→魏→趙と上に昇ります。答は韓と魏です。

 空欄(b) 秦の都はかんたんですが漢字が正しく書けたかどうか? 2005年の第2問でも「[ a ]水の北岸には(2)秦の都である咸陽があった」と問題文に出てきたことがありました。空欄は渭水の「渭」です。劉邦軍の占領後に、前206年12月壮麗な宮殿群が猛火の中で沈もうとしていました。咸陽城を燃やしたのは楚の項羽です。17年前に秦軍60万に攻められ、楚は都を燃やされました。その復讐です。

 空欄(c) 『漢書』の著者名です。センター試験でも問われてきた基本問題です(88、97追、2005)。

 空欄(d) これは難問。できなくていい。ただ五経の5つの内容をある程度知っていて歴史の経典はどれか、と考えることができたら『書経』が出てきたかもしれない。五経の覚え方も拙著(前掲書)には載せています(p.8)。

問(3) 問題文の中の書以外に南宋の孟元老(12世紀)が書いた『東京夢華録(とうけいむかろく)』という本があり、この場合は開封を表していました。ただ問題文に「漢代の地図……張衡」という後漢の科学者の名があり、この場合は時代的に東京は洛陽を指しています。というのは長安を都にした前漢に対して洛陽を東の都という意味で「東京・東都」と呼んだからです。
 
問(4) 作品のことよりインドの方に話が移って「王玄策は7世紀……ヒマラヤ山脈の北にあった新興国の……名」という要求です。ヒマラヤの北といえば、もろにチベットであり、7世紀にできたばっかりとは吐蕃以外にないでしょう。吐蕃は中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』(パレード、以下『ワン』と省略)では「飛ばん咳(せ7き9、7〜9世紀)」と覚え方が書いてあります。

問(5) 「漢にかわって」というのは「前漢にかわって」と同じで、内乱・内戦の勝利者でない宮廷クーデタで皇帝になった人物です。王莽の「莽」は正しくは草冠の下が犬で右肩に点が付きます。短い治世でも王莽が残したものがいろいろあります。貨幣「貨布・貨泉」は佐賀県や大阪府で見つかっています。学・校という名の教育施設をつくって儒教を教え、酒の専売のためのコマーシャル「酒は百薬の長」は王莽作といわれます。

問(6) 大月氏に使いして、西域情報を中国に伝えたのは誰か……かんたん過ぎるでしょう。これも漢字「騫」が正しく書けるかどうか。

 空欄(e) 「1705年に江南に巡幸してきた」帝は誰か。1661年に即位して61年という在位だった人物。で、分からなかったら地丁銀のもとになった盛世滋生人丁を即位50周年を祝ってやった皇帝。で、分からなかったら雍正帝の年代がキャフタ条約(1727)だから、その前の皇帝。で、分からなかったら諦めた方がよろしいようで。分かっても康煕帝の「煕」が正しく書けるかどうか。

問(7) (ア) 「ペルシアの沖合……この島の名」はペルシア湾から出るにはこの島名からとったホルムズ海峡を通過しなくてはなりません。センター試験2006年度第1問の問2に地図がのり、正解の方ではなかったがホルムズの位置が「イ」として出ました。教科書では1515年ポルトガルが占領したが、1622年アッバース1世が奪還した島として出てきます。またマルコ=ポーロが、イル=ハン国に嫁ぐコカチン姫の道案内役として泉州を出帆し、海路ホルムズに上陸して任を果たし(1290)、ヴェネツィアに帰りました。

(ィ) ややこしい名称の国はわからなくても、「併合を16世紀後半」とは、この時期のムガル皇帝の名をあげればよく、アクバルがすぐ想起できますね。できない? 「悪張る、千1個5殺56す」が『ワン』の語呂。この年にフェリペ2世も即位していることが書き添えてあります。

空欄(f) 南北朝(北魏)時代にレキ道元(麗+おおざとへん、れきどうげん)が著わした地理書。センター試験で出題歴はないもの。京大世界史は少し詳しめに中国史を学べ、という示唆です。

B
 朝鮮と中国のからみ、外交関係の歴史です。複雑そうですが、空欄の語句は何度も出てくるので確定しやすい。北からYZXは都らしいところを矢で指しています。位置から、また下の問題文からY高麗(開城)、Z李氏朝鮮(平壌)、X新羅(慶州)、と推測できます。

 空欄(g)は「中国の」王朝であり、この王朝を駆逐し、「朝鮮半島を統一した」とあるので新羅が追い出した唐と判明します。この3国と唐との関係と経緯は、センター試験2009年度第3問・問2(問題番号20)でも出ました。 

問(8) 「当時の国際関係を規定する外交上の概念」は2007度もこの第1問と第2問で出ました。中国を主人・主君とし周辺国は家臣・臣下の立場で交際をする、朝貢をするという册封体制・君臣関係です。

 空欄(h)(i) 双方とも「滅亡させ」られた国々です。(i)は「故地に安東都護府」とあるので平壌と推理できるので、高句麗と決まり、前者hは百済となります。

問(9) 「北東アジアにおける国際環境の変化」とは、高句麗の遺民たちがつくった渤海(国)です。共同建国となった民族の靺鞨(まっかつ)人は書けなくてもいいでしょう。

 空欄(j) 「中国は……分裂の時代」とあるので五代十国です。

 空欄(k) このころ「中国を統一した」は宋(北宋)しかありません。

 空欄(l) 「11世紀後半」で「党」とあれば王安石の新法党です。「新法は登10録69で(『ワン』から)」が語呂です。「権力を掌握」していなければ新法の実行はできません。
 
 空欄(m) 「z王朝は14世紀末に成立……冊封を受けた」とあるので、Zが李氏朝鮮であることはまちがいありません。語呂は「利子挑戦、遺1産3国92」(『ワン』)。この王朝の少し前にできたのが明朝です。語呂は「明が、日1見3る6番8」(『ワン』)。

 空欄(n) 時代が200年も飛んで「1636年」とあるのでホンタイジの清朝です。

 空欄(o) 明朝を滅ぼした農民反乱です。指導者名で李自成の乱です。

問(10) 「特別の恩義」とはすぐ直前のできごとで清朝が朝鮮を助けてくれたことは何か、と考えて秀吉の朝鮮侵略(壬辰・丁酉の倭乱=文禄・慶長の役)に対する清朝の援軍と推理できます。ただどれくらい清朝の援軍が朝鮮にとって役にたったかは怪しいところがあるようです。 


第3問
 「「新大陸」の発見の結果、新・旧両世界にひきおこされた直接の変化」という課題です。指定語句は難しいものでなく「先住民・産物」でした。
 変化は新旧の双方とも書かなくてはならないのですが、旧大陸のユーラシアは西欧しか書いてない答案例(YKO)が見受けられます。あるいは西欧と中国だけという場合(ST)もあります。それでは旧大陸の全体にはなりません。東欧・西アジア・南アジア・東南アジアも書けるといいでしょう。字数300字では苦しいですが簡潔になら全部書けます。この幅の広さで答案の善し悪しを判定できるでしょう。

 新大陸は、まず征服され西欧の領土となり、インディオの文明は破壊されました。新大陸の豊かな土地・資源(金銀・産物)が西欧のものとなり、西欧の産物(小麦)と病気が輸出されてインディオの人口が激減します。足りない労働力をアフリカから連れてきた奴隷で埋めました。土地と先住民はエンコミエンダ制で経営し、インディオには貢納をさせます。
 旧大陸の西欧では価格革命がおき、商工業が盛んとなり、経済的に絶対王政を支えることになります。領主危機がおこり農民の地位はより上昇します。
 東欧は西欧に対する後背地となり、グーツヘルシャフト(農場領主制)が広がりました。
 西アジアでは、この膨張してきた西欧とオスマン帝国の間でカピチュレーションが結ばれ、大西洋だけでなく東方貿易も盛んとなります。
 南アジアでは銀をもった西欧商人が来たり、キャラコの生産が増え、ムガル帝国はルピーという銀貨を発行します。
 東南アジアではフィリピンが植民地化され、アカプルコ貿易がはじまり、銀で買い物する中継点となります。
 東アジアの中国では、マニラから墨銀が流入し、日本銀も入ってきました。銀納の一条鞭法は両税法の800年の歴史を終わらせました。

 指定語句の「産物」については、間違った解答例が見られました。
 アメリカ原産のトウモロコシ・ジャガイモ・タバコなどの産物がヨーロッパに伝えられ,人々の生活に大きな変化を与える生活革命に影響した。(Y)
 ジャガイモ・トウモロコシ・サツマイモなどの新大陸の産物は、旧大陸に流入して、ヨーロッパや中国の食糧事情を改善した。(S)
 ジャガイモ,サツマイモなどの産物が旧世界に流入し生活事情の変化がみられた。(T)
 ヨーロッパやアジアへもたらされ、その食糧事情に大きな変化を与えることになった。(O)
 「旧大陸」に伝えられ食糧生産・生活に大きな変化をもたらした。(A)
 ……これらはすべて間違った解答です。教科書をよく読めば、こんな解答はしないはずです。問題文に書いてある「直接の」という条件は16世紀に限っていると見るべきでしょう。教科書に世紀を書かず、ゆるやかに「その食生活を大きくかえることになった」とあるのは実は16世紀より後の世紀になってからでした。下のように教科書のこの後の記事を見たら判明します。 

 18世紀には政治の安定のもと,中国の人口は急増した。新大陸から伝来したトウモロコシやサツマイモなど,山地でも栽培可能な新作物は,山地の開墾をうながして,人口増をささえた。(詳説世界史)
 17世紀ごろから,アメリカ大陸からの輸入作物のうち,トウモロコシが華北一帯で,甘藷が江南で広く栽培されるようになり,甘藷は琉球を通して日本にも伝わった。(東京書籍)
 17世紀ころから華北ではトウモロコシ,江南ではサツマイモといったアメリカ大陸産の作物の栽培がはじまり,当時の人口増加をささえることとなった。(山川の要説世界史)

 西欧でもジャガイモの栽培が本格化するのは18世紀からです。西欧で早い例は三十年戦争(1618〜48)のときに傭兵のオランダ人がもちこみ飢餓のドイツ人を救った作物だそうです。さらに七年戦争(1756〜63)は「ジャガイモ戦争」といわれるくらいにジャガイモがかかわっています。フリードリヒ2世は国内に奨励しただけでなく、確保したシュレジエンにこれを植えつけ、スウェーデンでは帰国した兵士がこれを伝え、フランスでもプロイセンの捕虜となったパルマンチェが食糧としてのジャガイモを知り、これを持ち込んだとのこと。かれはマリー=アントワネットにジャガイモの花束を贈ったそうです。するとマリー=アントワネットはジャガイモの白い花を髪に飾って見せびらかしたたことから貴族の間に流行するようになったとか。宝石の首飾り事件が尾を引いてギロチンにかかる前のことです。ジャガイモの花では首は飛びません。

 新大陸の産物が食生活に影響を与えるのは入ってきた16世紀でなく、もっと後であるとわざわざ説明した論文もあります。こちら→http://www.teikokushoin.co.jp/teacher/high/history_world/pdf/200804/17.pdf 
 ここに、「中国へもたらされたのは、16世紀。海路福建や広東から、あるいは西北のシルクロードを通って甘粛から、インド洋からビルマを経由して雲南などから伝わったようだ。しかし、伝来してすぐ爆発的に広がるようなことはなかった。中国全土でトウモロコシの栽培が確認されるのは18世紀に入ってからのことである」とあります。
 センター試験1993年度に、17〜18世紀のグラフが出て、18世紀が際立った人口増加を示していて、「人口増大にともなって、耕地の開発が行われ、トウモロコシなどの新大陸作物が普及した」(問題番号34)という文章が正文として出ていました。

第4問
A
問(1) スパルタ独自の国家制度は、軍事中心の市民生活を規制したもので、文化の発展がなかった理由にもなりました。それを定めた王リュクルゴスとともにその規制の詳細は『プルターク英雄伝』(岩波文庫・第一巻)にあります。

問(2) 「市民の両親から生まれた子でない限り市民権は与えられなくなった」という法律を提案しアテネ民主政の黄金期を築いた政治指導者の名……易しすぎます。市民権法は前451年につくられましたが、この法に刺激されたのかどうかどうか定かではないですが、ローマ市から使節が訪問しており、帰国してこの年に十二表法を定めています。

問(3) 平民を守るために前5世紀に設置された公職……これも易しい。ラテン語で、tribunus plebis、英語で Tribune。新聞名によくあるトリビューンという名はこれからきています。

問(4) 前1世紀の初め……ローマ市民権付与をめぐって生じた戦争……易しい。同盟市というローマ市民権を与えられなかった都市がよこせと抗議して蜂起したのを、鎮圧する側から呼んだ呼び方です。

問(5)(ア) 「属州で逮捕されたが、ローマ市民権を有したために首都ローマの皇帝の裁判に上訴することができた」という部分について知らなくても、「キリスト教を世界宗教とするために最も大きな役割を果たした人物」とは異邦人の使徒と呼ばれたパウロです。なおパウロ逮捕の部分は新約聖書『使徒行伝』22章25〜29節にあります。こちら→http://ja.wikisource.org/wiki/使徒行伝(口語訳)#22:25

問(5)(イ) 「ローマ市民権が与えられた。この措置がなされた当時の帝国の状況」というセンター試験のような問題です。じっさいセンター試験でこのことはよく出されてきました(88、91、95、99追、01追、11)。カラカラ帝(マルクス=アウレリウス=セウェルス=アントニヌス)が生きていたのは荒々しい時代、軍人皇帝時代(3世紀の危機)といわれる時代です。

問(6) カルタゴなどの植民市を建設した民族の名……いやに易しい。センター試験でも、どの民族がカルタゴをつくったかは何度も出ています(90追、92追、94、97、99追、2000追、01追、06、08、10、11、12)。

問(7) 3軍団敗北の戦いは、センター試験で出たことはないが、ローマ帝国の国境線を決めた戦いとして名高いものです。教科書本文になくても地図にはライン川のすぐ東に載っている場所。17、18、19の3軍団の約2万人が戦死した戦いです。

問(8)(ア) ラ・テーヌ文化とは細かいが、しかし設問はセンター試験並です。ラ・テーヌ文化はスイスの鉄器遺跡です、その前のハルシュタット青銅器文化をうけついだケルト人のものです。ケルト人のセンター試験出題歴は90、94、96追、2002年です。

問(8)(イ) ガリア戦記のセンター試験出題歴は、94追、95、98追、99、2001追、03、11年です。京大の第2問・第4問はセンター試験並で7〜8割は取れるといえます。

B 
 空欄(a) 「バルカン半島ではトルコ系……7世紀末」という三つの限定の中では、ブルガール人、後のブルガリア人しかないでしょう。センター試験(1993年)でも中世の東欧に移動してきた民族と国を組み合わせた問題にブルガリア人が出ています。少々細かいが。

問(9) 「9世紀末にノルマン人の一派デーン人を破」った王の名前です。ならアルフレッドしかないでしょう。『ワン』(前掲書)では「アルフレッドの馬8声71」とかんたんな語呂で出ています。

問(10) 「12世紀前半にイタリア南部に」とあれば両シチリア王国しかないでしょう。「建国」というよりナポリ王国と両シチリア王国の合体でした。これも前掲書の語呂では「漁師、ト1ト1さん3を0(トト=魚)」とかんたんです。

 空欄(b) アイユーブ朝の建国者、という易問です。センター試験(2004年度、問題番号20)では「(クルド)民族の出身者に,サラーフ・アッディーン(サラディン1138〜93年)がいる。サラーフ=アッディーンについて……」として出ています。

問(11) 15世紀に「騎士団国家」と戦って優位に立った国、というのは14世紀にすでに出来ている国でポーランドのピアスト朝と合体した国家・ヤゲロー朝(リトアニア=ポーランド王国)のことです。「15世紀」とは両国の戦いが、タンネンベルク(第一次世界大戦と同じ場所、1410年)であり騎士団に勝ったことを指しています。

問(12) 「宗教改革を経て世俗国家となり」とはルター派になって修道服を脱いだことを指します。ドイツ騎士団は正式にはドイツ騎士修道会といい、修道士であり騎士でもあった団体でした。プロテスタントは修道会の存在を認めないため修道服を脱ぎました。ルター自身がアウグスティヌス派の修道僧でしたが、脱いでいます。

問(13) 「15世紀後半」「イベリア半島の政治的統一」ということは、それまで分裂していた国々が合体することです。となればアラゴン王国とカスティラ王国の合同であるスペイン王国の成立です(『ワン』の語呂は、スペイン国、闘1羊4な7く9)。

問(14) 「ウィーンを包囲して当時の神聖ローマ帝国の政治に大きな影響」とは、という問い。カール五世はオスマン帝国の脅威から結束のために第1回シュパイエル国会(1526年)でルター派を認めながら、包囲が解かれると、第2回シュパイエル国会を開き、前の議決を否定するというぶれた対応をとったために、新教派諸侯と帝国都市は抗議(プロテスタツィオン)を行ったので、新教派は「プロテスタント」とよばれることになります。新教派は「教皇がアンチ・キリストであるのと同様に、トルコ人は肉体をもって現れた悪魔である」と非難します。プロテスタント諸侯はシュマルカルデン同盟(1531年)を結び、シュマルカルデン戦争(1546〜47年)がはじまりました。

C 
問(15) 「ピョートル1世、新首都」で「交戦中だったある国」とは北方戦争の相手ということになります。ここで両国の争奪戦になった島がコトリン島で、ロシアはこれを奪いクロンシュタット要塞を築きます。ここにバルチック艦隊の軍港があり、1921年には反ボリシェヴィキの蜂起が起きました。

問(16) 一番女帝が援助した啓蒙思想家はディドロでした。ディドロはお礼にロシアまでやってきて農奴が奴隷化するくらいひどい社会を見て、啓蒙思想に理解のある君主というイメージが砕かれてしまいます。

問(17) 1907年に協商……とあるので英露協商しかありません。

問(18)(ア) 世界大戦の直接の引き金となったサラエボ事件の説明です。
 二つあればいいでしょう。殺すのがセルビアの青年(プリンチプ/プリンツィプという名前までは要らないでしょう)、殺されたのがオーストリア皇太子(皇位継承者)夫妻(フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーは要らないでしょう)。

 (イ)いきなり現在に来て「1990年代……内戦で解体した連邦国家」とあり、これはユーゴスラヴィアしかありません。

問(19) 敗戦の原因を国内の特定の人種に押しつける理論……というほど理論的だったかどうかは怪しいが、人種差別ということなら分かりやすい。人種差別は殺戮し人体実験をいとわない感覚をもたせてくれます。京大医学部も多くの医師を満州国に派遣し人体実験をしました(常石敬一著『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書)。差別観が人殺しを容易にすることを数多の例をあげて証明しているのはデーヴ・グロスマン著『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫)です。世界史なら華夷思想、五胡、脱亜入欧、ローマ帝国によるゲルマン人「蛮族観」、白人優越観(白豪主義)、黄禍論、未開人などの差別表現があります。差別観は殺害に効力を発揮し、殺しても良心の痛みを和らげてくれる薬です。わたしが殺したのはまともな人間ではない、殺してもいいんだあ、と。差別観にあふれた2ちゃんねるというスラム街は殺し薬の培養ビーカーです。 

問(20) ある国の内戦で、両国はそれぞれが支持する勢力に武器援助等をおこなった……はスペイン内戦(スペイン市民戦争)です。パリの日本大使館員がこの内戦を見学して人民戦線側に来ているソ連製の武器の劣悪さを日本に伝えたために、ノモンハン事件(1939年)で痛いめに遭うことになりました。スターリンの裏が読めない外務省のお粗末さです。

問(21) (ア) 「ベルリンの壁」の建設が始まったのは1961(『ワン』壁、ど1け9ろ6土1)年で、翌年の米ソ対決とはキューバ危機と容易な問題です。

問(21)(イ) 「ベルリンの壁」が崩壊した年は、『ワン』の語呂なら「ベルリンの壁、土1空9白89」。