世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2022

第1問(20点)
 マレー半島南西部に成立したマラッカ王国は15世紀に入ると国際交易の中心地として成長し、東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。15世紀から16世紀初頭までのこの王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 歴史的「シリア」とは、現在のシリアのほか、レバノン、ヨルダン、イスラエルパレスティナの領域を含む、地中海の東海岸およびその内陸部一帯を指す地域名称である。地中海との間を2つの山脈で遮られたダマスクスはシリアの内陸部に位置する古都であり、有史以来じつに様々な勢力がこの町の支配を巡り争った。
  前8世紀の後半、ダマスクスは(1)アッシリア王国支配下に入るが、以後、前7世紀に(2)新バビロニア、前6世紀にアケメネス朝がこの町を征服し、続いて前4世紀後半、町はアレクサンドロスの勢力下に入った。以後、ダマスクスは約千年の長きにわたりギリシア、ローマの支配下に置かれることになった。
  7世紀はこの町の歴史にとって一大転換期であった。この世紀の初め、シリアには(3)一時ササン朝が進出するが、間もなくビザンツ帝国がこの地の支配を回復する。しかし、636年に新興のイスラーム勢力がビザンツ軍を撃破し、シリアの支配を確立すると、この町はイスラーム世界の主要都市の一つとして歩み始めるのである。656年に(4)アリーが指導者の地位に就くと、建設後間もないムスリムの国家は内乱の時代を迎える。この動乱の中でアリーは暗殺され、彼に敵対したシリア総督の[ a ]は、ダマスクスを首都としてウマイヤ朝を創建した。けれども、750年にアッバース朝が成立すると帝国の中心はシリアからイラクヘと移り、同朝のマンスールイラクに新首都(5)バグダードを建設する。
  9世紀になると早くもアッバース朝の求心力には衰えが見え始め、以後、帝国内の各地に(6)独立王朝が次々に成立するようになる。こうした状況の中、10世紀後半からは(7)ファーテイマ朝が、さらに、11世紀後半にはセルジューク朝がシリアに進出し、ダマスクスを含むシリアは動乱の時代を迎えるが、12世紀後半、アイユーブ朝の創建者[ b ]がエジプトとシリアの統一を果たすと、この地には再び政治的安定がもたらされた。1260年、モンゴル軍はダマスクスを征服するが、同年、新興のマムルーク朝がこれを撃退してこの町の新たな支配者となる。(8)1401年には、西方に遠征したテイムールもこの町を一時占領しているが、(9)1516年、オスマン帝国のセリム1世がこの町を征服すると、以後ダマスクスはほぼ四世紀に及ぶオスマン帝国の支配を経験することになった。
  19世紀に入ると、シリアは再び動乱の時代を迎える。オスマン帝国から自立したエジプトのムハンマド=アリー朝は(1O)シリアの領有権を要求してオスマン帝国と戦い1833年にはこの町を含むシリアを支配下に収めた。しかし、1840年に(11)イギリス主導で行われた会議の結果、ムハンマド=アリー朝は[ 10 ]シリア領有を断念せざるを得なくなった。また、第一次世界大戦中の1916年にはメッカの太守、フセインがアラブの反乱を開始し、1918年10月に反乱軍はダマスクスに入城する。戦後の1920年、シリアはフセインの子(12)ファイサルを国王として独立を宣言するが、(13)フランスはこれを認めず同年7月にはダマスクスを占領し、1922年には国際連盟でフランスのシリア委任統治が承認された。歴史的シリアの一部を領土としこの町を首都とするシリアという国家が独立を果たすのは、第二次世界大戦後の1946年を待たねばならなかった。


 (1) 紀元前7世紀にこの王国の最大版図を達成した王の名を答えよ。
 (2) この国の最盛期の王であるネブカドネザル2世に滅ぼされ、住民の多くがバビロンに連れ去られたヘブライ人の国の名を答えよ。
 (3) これに先立つ6世紀に、ササン朝のホスロー1世が突厥と結んで滅亡させた中央アジア遊牧民勢力の名称を答えよ。
 (4) この人物および彼の11人の男系子孫をムスリム共同体の指導者と認めるシーア派最大の宗派の名称を答えよ。
 (5) この町は大河川の河畔に位置している。この河川の名を答えよ。
 (6) 9世紀後半から10世紀初頭にかけてエジプトに存在し、シリアにも領土を広げた独立王朝の名を答えよ。
 (7) アッバース朝に対抗するため、この王朝の君主が建国当初から使用した称号を答えよ。
 (8) この時、ティムールはダマスクス郊外で当時の著名な知識人と面会している。『世界史序説』の作者として名高いその人物の名を答えよ。
 (9) この直前の1514年、セリム1世は以後オスマン帝国のライヴァルとなるイランの新興勢力との戦闘に勝利している。この勢力の名を答えよ。
 (10) 1820年代、オスマン帝国は領内のある地域の独立運動を鎮圧するためムハンマド=アリー朝の軍事支援を得ており、これが同朝によるシリア領有権要求の一因となった。この独立運動の結果、独立を達成した国の名を答えよ。
 (11) ムハンマド=アリー朝にシリア領有を断念させたこの会議の名を答えよ。
 (12) この人物は後の1921年、当時イギリスの委任統治領であったある国の国王に迎えられている。1932年に独立を達成したこの国の名を答えよ。
 (13) 大戦中の1916年、イギリス、フランス、ロシアが戦後のオスマン帝国領の処理を定めた秘密協定の名を答えよ。

B 中国の歴代王朝の人口は、のこぎりの歯状に増減を繰り返し、多くても8,000万人ほどであった。王朝の安定期には人口が増加したが、戦争や反乱、王朝交替、伝染病の流行などが起こると、人口は大きく減少したからである。
 そして(14)明代後期に至ると、ようやく1億人を超えて、1.5〜2億人ほどにまで到達した。長江下流域は、(15)南宋の時には「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と呼ばれる穀倉地帯であったが、(16)明代後期には人口の増加とともに、新たな農地(低地)開発のフロンティアが消滅し、次第に家内制手工業へとシフトしていった。また、南の福建省は海岸線まで山が迫り、平野が少ないという地形的な特徴から、海外へと乗り出し、(17)東南アジアに移住する者も出現した。その後、17世紀半ばに至って、(18)2つの民衆反乱をきっかけとして明朝が倒れると、四川省では飢饉(ききん)や虐殺のために大幅に人口が減少したとされ、のちに湖北省湖南省からの多くの移民が流入することになった。
  清朝が成立した後、(19)康煕・[ c ]・乾隆の3皇帝の時に全盛期を迎えると、人口は順調に回復し、18世紀前半には1.5億人、18世紀後半には2.8億人、18世紀末には3億人と、まさに「人口爆発」と呼びうるような状態を呈した。その要因としては、支配が安定し(20)確実に人口が掌握できるようになったこと、大規模な戦争や反乱のない「清朝の平和」が続いたこと、稲作技術が改良されたこと、(21)アメリカ大陸伝来の畑地作物が導入されたこと、漢民族の農耕空間が(22)台湾・モンゴル・新彊・(23)東北などへ拡大したことなどがあげられる。清朝後期に入っても、人口は着実に増加したと考えられ、19世紀前半には4億人に到達した。(24)19世紀後半から20世紀前半には、国内は政治的な混乱に見まわれたが、人口はゆっくりと増加し、中華人民共和国が成立した1949年には約6億人を抱えるようになった。
  戦後中国はいわゆる「第1次ベビーブーム」の到来によって、人口がさらに大きく増加したが、毛沢東が1958年、[ d ]の号令を発すると、(25)政策の失敗や自然災害などが重なり、少なからぬ人びとが餓死したと推定されている。その後は再び増加に転じて「第2次ベビーブーム」を迎え、人口は9億人に迫るが、(26)1980年以降には、いわゆる「1人っ子政策」が開始され、国家による厳しい人口統制が実施されていくことになった少子高齢化が極端に進み、中国が高齢化社会へと突入するようになると、2014年に1人っ子政策は廃止され、2人目まで子供をもうけてよいとされ、現在では3人目まで認められている。ただし現代の若者はこうした政策に、中国政府が期待したような反応を示しておらず、出生率は高まっていないようである。今後、中国の人口がどのように推移するかは、世界の未来を見据えるうえでも無視できない問題である。


 (14) この頃、各種の税と係役(義務労働)を一本化し銀納させる新しい税制が設けられた。その名称を答えよ。
 (15) この頃、長江下流域では、湖沼や河道など低湿地を堤防でかこい込み新たな農地を開拓した。その名称を答えよ。
 (16) 徐光啓は明代後期に中国の農業技術や綿などの商品作物を解説し、ヨーロッパの農業に関する知識・技術を導入した農書を編纂(へんさん)した。その書物の名を答えよ。
 (17) このように明代後期から清代にかけて、東南アジアの各地に移住した人々は何と呼ばれるか。その名称を答えよ。
 (18) 2つの民衆反乱のうち、明朝最後の皇帝を自殺に追い込んだ農民反乱軍の指導者は誰か。その名を答えよ。
 (19) この皇帝の時、人頭税を廃止し、土地税に一本化する税制が始まった。その名称を答えよ。
 (20) この時代に治安維持や戸籍管理のために行われていた制度は、名称の上では、北宋王安石が行った新法の一つで兵農一致の強兵策を引き継いだといわれている。その名称を答えよ。
 (21) サツマイモとともにアメリカ大陸から伝来し、山地開発にも重要な役割を果たした備蓄可能な食物をカタカナで答えよ。
 (22) 福建や広東から台湾へと移住した人々の中には、客家と呼ばれる集団があった。この客家出身で1851年に太平天国をたてた人物は誰か。その名を答えよ。
 (23) 1644年、清は中国本土に入ると北京に遷都した。その直前まで、清が都を置いていた東北地方の都市はどこか。その当時の名称を答えよ。
 (24) 19世紀末には、華北山東省において武術を修練し、キリスト教排斥をめざす宗教的武術集団が勢力を伸ばし、宣教師を殺害したり鉄道を破壊したりした。この集団が掲げた排外主義のスローガンを何というか。
 (25) この時、集団的な生産活動と行政・教育活動との一体化を推進するために農村に作られた組織を何というか。その名称を答えよ。
 (26) 同じ頃、鄧小平の指導のもとで行われた外国資本・技術の導入などの経済政策を何と呼ぶか。その名称を答えよ。

第3問(20点)
 民主政アテネ共和政ローマでは、成人男性市民が一定の政治参加を果たしたとされるが、両者には大きな違いが存在した。両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
  次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A (1)ヨーロッパで今日の「大学」の原型が誕生したのは、12世紀から13世紀にかけてのことである。当時、ヨーロッパの各地にはカトリック教会の司教座や修道院に付属する学校や、法律や医学を教える私塾が存在した。イタリアのボローニャでは、法律を学ぶ学生たちが出身地ごとに「ナチオ」(同郷会)と呼ばれる自律的な団体を組織し、やがてこれらの「ナチオ」が結集して「ウニウェルシタス」(大学)が形成された。他方、ヨーロッパ北部のパリやオックスフォードでは、教師たちが自治組織を結成し、これが大学の起源となった。中世ヨーロッパの大学では、自由七学科(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学)を基礎的な教養として身につけたうえで、神学、(2)法学、(3)医学などを学んだ。
  (4)14世紀以降もヨーロッパ各地で新たな大学の創設が進んだが、ルネサンス期の人文主義者のなかには、大学で教えられる伝統的な学問に批判を唱える者もあらわれた。(5)古典古代の原典に立ち返って新しい解釈をおこなう営みは、しばしば大学の外で展開された。16世紀以降になると、大学は、政治権力の影響をより強く受けるようになり、学生や教師たちがもっていた自治的な権限は弱められていった。(6)宗教改革以降の宗派間の対立も、高等教育のあり方に影響をおよぼした。既存の大学はプロテスタントカトリックいずれかの立場に分かれ、(7)新しい大学もそれぞれの宗派の布教方針にしたがって設置された。他方で、ヨーロッパ諸国の一部では、大学の外で新しい学術団体が組織された。フランスでは、1635年にフランス語の統ーなどを目的としてアカデミー・フランセーズが、1666年にはバリに王立科学アカデミーが創設された。(8)イギリスでは、1660年にロンドンで民間の学術団体が設立された。この団体は2年後に国王の勅許をえて「ロイヤル・ソサエティ」(王立協会)と呼ばれるようになる
  18世紀にヨーロッパの高等教育はさらなる変革の時代を迎えた。ドイツでは、1730年代に(9)ハノーファー選帝侯領ゲッティンゲン大学が創設された。領邦国家の意向に沿って新設されたこの大学では、歴史学応用数学、官房学などの新しい科目が開講され、ゼミナール形式の授業が導入された。国家が主導するこのような大学教育のモデルは、(1O)1810年プロイセン王国で創設されたベルリン大学でさらなる発展をとげ、19世紀から20世紀にかけて日本を含む世界各国の大学で採用されていった。このように、大学という制度には歴史的にみて、学生・教師の自治的団体としての起源に由来する自由・自律と、国家権力や宗教的権威による管理・統制という2つの側面が存在する。ヨーロッパで生まれた大学制度は近現代にグローバルに普及していくが、この制度を受け入れた多くの地域で、大学は、この2つの側面のあいだに生じる緊張関係のもとで揺れ動く歴史を歩むことになるのである。


 (1) 「大学」の成立の背景のひとつとして、この時期、ヨーロッパの各地で商工業の拠点として都市が発展したことがあげられる。
  (ア) イタリアでは神聖ローマ皇帝の介入に抵抗してミラノを中心に都市同盟が形成された。この都市同盟の名称を記せ。
  (イ) カトリック教会では、13世紀から、フランチェスコ修道会やドミニコ修道会のように、都市の民衆のなかに入って説教することを重視する修道会が活動を始める。これらの新しいタイプの修道会を総称して何と呼ぶか。その名称を記せ。
 (2) 中世ヨーロッパの法律学において重視されたのは、6世紀に東ローマ帝国の皇帝が編纂(へんさん)させた文献であった。今日、この文献は総称して何と呼ばれているか。その名称を記せ。
 (3) (ア) 中世ヨーロッパの医学は、イスラームの医学から大きな影響を受けている。ラテン語に翻訳されてヨーロッパの医学教育で教科書として用いられた『医学典範』を著したムスリムの医学者の名を記せ。
 (イ) イスラーム世界を介して古典古代から中世ヨーロッパに伝えられた医学理論に対して、17世紀にはいると、解剖や実験をふまえた新しい学説が唱えられるようになった。イギリスの医学者ハーヴェーが古代ギリシア以来の生理学説に反論して発表した学説の名を記せ。
 (4) ヨーロッパ東部では、1348年にプラハに大学が創設された。この大学の創設を命じた神聖ローマ皇帝の名を記せ。
 (5) 15世紀のフィレンツェでは、フィチーノらの人文主義者を中心とする学芸サークルが活動し、前5世紀から前4世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者の著作のラテン語訳をおこなった。『ソクラテスの弁明』や『国家』などの著作で知られるこの哲学者の名を記せ。
 (6) 九十五カ条の論題によってカトリック教会の悪弊を批判したルターは、ドイツ中部にある大学で神学教授を務めていた。この大学が所在した都市の名を記せ。
 (7) 16世紀以降アメリカ大陸の植民地にも大学が創設されている。
   (ア) アメリカ大陸で最初の大学は、インカ帝国征服後の1551年にリマに建設された。インカ帝国を征服した人物の名を記せ。
  (イ) ハーヴァード大学の起源は、イギリス領北米植民地で最初の高等教育機関として1636年にマサチューセッツ州に創設された「ハーヴァード・カレッジ」である。17世紀にマサチューセッツ州を含むニューイングランド植民地に入植したのは、ピューリタンと呼ばれる人びとであった。彼らは宗教的には総じてどのような立場にたっていたか、簡潔に説明せよ。
 (8) (ア) この団体に勅許を与えた国王は、父王が処刑されたために大陸に逃れていたが、1660年に帰国してイギリス国王に即位した。この国王の名を記せ。
  (イ) 『プリンキピア』を著して力学の諸法則を体系化した科学者が、この団体の会長を務めている。近代物理学の創始者とされるこの科学者の名を記せ。
 (9) 1714年からハノーファー選帝侯がイギリス国王を兼ねたため、イギリス史ではこの時期の王朝はハノーヴァー朝と呼ばれる。この王朝の最初の2代の国王の時代に、実質的な首相として、内閣が議会に責任を負う体制の確立に貢献した人物の名を記せ。
 (10) ベルリン大学の初代学長となった哲学者フィヒテは、1807年から翌年にかけて、ナポレオン軍占領下のベルリンで、教育による精神的覚醒を訴える連続講演をおこなったことで知られる。この講演の題目を記せ。

B 石炭は近代ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきた。
  燃料としては薪や木炭が古くから用いられているが、経済発展に森林の再生が追い付かず、その枯渇を招くことも歴史上少なくなかった。ヨーロッパでは商業が拡大する16世紀ごろから木材が大量に消費されるようになり、石炭も本格的に利用されはじめる。18世紀前半に(11)石炭を乾留したコークスによって高純度の鉄を精錬する技術が開発されると、石炭の重要性が増大した。18世紀末には石炭をガス化する技術も登場し、19世紀になると大都市では石炭ガスが街灯や暖房にも使われるようになった。
  (12)蒸気機関の普及によって石炭の需要はさらに高まった。18世紀イギリスの綿工業においては、(13)紡績機や織布機の開発による作業の効率化が進んでいた。それらの機械の動力として蒸気機関が採用されると、綿織物の生産量はさらに拡大した。19世紀になると、イギリスは(14)綿織物の輸入国から輸出国へと変貌する。他の産業分野でも蒸気機関の利用が一般化し、蒸気機関車や蒸気船は人や物の流れを加速させた。
  石炭はヨーロッパ各地で採掘が可能である。特にイギリスには豊富な石炭資源が存在していた。イギリスの毛織物工業や(15)綿織物工業の中心地帯で石炭が容易に採掘できたことは、蒸気機関の普及に寄与した。他国の工業化が進むと、イギリスの炭鉱業は輸出産業としても発展した。例えば(16)フランスは、国内産の石炭だけでは工業化で増大する需要を満たせず、イギリスなどの石炭を輸入している。中欧には多数の炭鉱があり、ドイツの工業化を支えた。
  木炭の製造は、周縁的な産業として、衰退しつつも存続した。19世紀初頭の南イタリアでは、(17)ある秘密結社の成員が「炭焼き人」を名乗っている。当時の炭焼き人は山林地帯で独自の共同体を維持しており、その結束力ある組織が模倣されたのである。立憲主義自由主義を掲げるこの結社の運動はイタリア半島各地に、そしてフランスにも広がった。だが炭鉱に乏しいイタリアも19世紀後半には燃料をイギリスからの石炭輸入に依存するようになっていく。
  19世紀後半、内燃機関の実用化などによって石油が石炭に替わるエネルギー源として台頭した。1859年からのオイルラッシュを引き起こした(18)ペンシルヴェニアなどがあるアメリカ合衆国と、バクーや(19)グロズヌイなどで石油を産出するロシアは、20世紀に世界を二分する超大国となった。だが石炭も重要な資源でありつづけた。現在でも製鉄にはコークスを用いるのが主流である。電気エネルギーの利用も20世紀に急速に拡大するが、石炭も火力発電の燃料として利用されつづけている。
  石炭や鉄の産出を背景に発展した鉱工業地帯が国家間の係争の対象となることもあった。(20)フランスが普仏戦争で喪失した地域もそのひとつであった。第一次世界大戦後には、(2l)ドイツの鉱工業地帯のひとつが国際連盟の管理下に置かれ、15年後の住民投票で再びドイツに編入されているヴェルサイユ条約で課せられた義務の不履行を口実に、フランスとベルギーによって(22)鉱工業地帯を抱えるドイツの一地域が占領されたこともある。第二次世界大戦後フランスやイギリスは石炭産業を国有化した。また1952年には西ヨーロッパの石炭等の資源を管理するために(23)6か国からなる組織が発足している。発足の背景には西ヨーロッパにおける戦争の再発を防止する意図もあり、この組織はその後のヨーロッパ地域統合の基礎のひとつとなった。一方、イギリスでは、その後(24)石炭産業の民営化が提唱され、20世紀末までに民営化と一部炭鉱の閉鎖が進められた。


 (11) この技術を開発した父子の姓を記せ。
 (12) 炭鉱の排水などに使われていた蒸気機関を効率的で汎用性の高いものに改良した技術者の名を記せ。
 (13) 蒸気機関が導入される前の、これらの機械の主要な動力は何か。
 (14) 18世紀のイギリスが輸入した綿織物の主要な生産国はどこか。
 (15) この地域の中心的な工業都市の名を記せ。
 (16) 鉄道会社の整理統合や金融機関の育成によってフランスの工業化を上から推進した統治者の名を記せ。
 (17) この秘密結社の名を記せ。
 (18) ペンシルヴェニア州の一都市は独立革命期に政治的中心となっており、ワシントンに連邦議会が設置されるまで合衆国の首都として機能していた。この都市の名を記せ。
 (19) この油田のある地域では19世紀中ごろロシア支配に対する反乱が起こり、ソ連崩壊後にも紛争が2度発生している。この地域の名を記せ。
 (20) この地域の名を記せ。
 (21) この地域の名を記せ。
 (22) この地域の名を記せ。
 (23) (ア) この機関の名を記せ。
   (イ) 6か国のうち2国はフランスと西ドイツである。その他の国を1つ挙げよ。
 (24) 民営化を主導した首相の名を記せ。
………………………………………
第2問・第4問の解説はしていません。解答例だけ。
第1問
 課題は「15世紀から16世紀初頭までのマラッカ王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響」でした。
 難問でした。東南アジア史をどれだけ勉強していたかにかかっています。その中でもマラッカ王国は大事な項目ではあるものの、1世紀にわたって説明する程のデータが果たしてあるか、最終はポルトガルに征服されるまで説明が求められています。
 求められている「外部勢力……関係」と「イスラーム化に与えた影響」という二つの課題に合致するデータをどれだけ集めてこられるか。

 「外部勢力
 当時は北の半島部にタイのアユタヤ朝(1350-1767)が栄え、東の島嶼部(とうしょぶ、諸島部)ではインドネシアマジャパイト王国(1293〜1520頃)というヒンドゥー教の大国がありました。とくに後者のマジャパイト王国マラッカ海峡も支配する商業大国になります。14世紀まではシュリーヴィジャヤ王国(7〜14世紀)がになっていた地位を、マジャパイト王国が奪いました。イスラーム化してからは、西のスマトラ島北部にはアチェ王国(15世紀末〜20世紀初め)ができ、いずれイスラーム化したマタラム王国(16世紀末〜1755)もできます。
 そして「この王国はマジャパヒト王国の商業活動をおさえこみ、インド洋と南シナ海を結ぶ中継貿易によって繁栄した(詳説世界史)」となります。
 もう一つ影響の強い国は北の中国・明朝でした。鄭和チャンパー(占城)とマラッカ海峡に面した港市国家マラッカを根拠地にして、東南アジア、インド洋各国に中国への朝貢をすすめました。それをマラッカ王国のほうは利用して、「マジャパヒト王国やアユタヤ王国の勢力拡大をおさえ、中国と朝貢交易をつづけた(東京書籍)」となります。
 


 最後の強い外部勢力はポルトガルです。1509年にディウ沖海戦でマムルークグジャラート連合軍を破り、1510年にはゴアを占領し、翌年マラッカ王国を征服します。すでに1500年頃、ポルトガル商人はマラッカで胡椒1キンタールを4デュカートで入手して、中国では15デュカートで売れると報告していました(マージョリー・シェファー著『胡椒 暴虐の歴史』(白水社)p.49)。侵攻の様子はこうでした。「1511年、猛将アフォンソ・デ・アルブケルケ指揮するポルトガル艦隊がマラッカを占領した。容赦のない軍事行動であった。絶え間ない砲撃によるポルトガルの侵略を目にしたあるマレーシア人は「フランキ〔西欧人〕のやつらはマラカ人に戦いを挑み、船から大砲を撃ち込んだ。弾が雨あられと降り注いだ……また、大砲の轟音は天の雷のよう、閃光は空の稲妻のようであり、火縄銃の音はフライパンの中ではじけるハマビシの実のようだ。この町を占領したポルトガル人のなかにフェルディナンド・マゼランがいた」と(前掲書、p.69)。マゼランはいずれ逆回りで、このマラッカに到達できると踏んで大西洋・太平洋に挑むことになります。

 「イスラーム化に与えた影響
 イスラーム教が伝わったのが、13世紀以降です(詳説世界史では「13世紀以降、商人や神秘主義教団の活動によってインド・東南アジアのイスラーム化がすすみ」)。マラッカ王国は1400年頃に成立し、イスラーム教改宗は1450年頃とみられています。この王国ができる以前にマルコ=ポーロがマラッカ海峡を通っており(1288年頃)、この地域にイスラーム教徒が多いと書いていて、史家の中にはマラッカ王国イスラーム化する前にいくつもの小王国があったと唱えるものもあります。ただ、このマラッカから周辺一帯にイスラーム教が伝播したという説が一般的です。東京書籍では「マラッカに布教拠点を得たイスラーム教は、香料交易ルートにそってジャワ島北海岸に広がった。ジャワ北岸の交易港をムスリム勢力に奪われたヒンドゥー教マジャパヒト王国は衰退し」と書いています。これは影響も書いています。つまりヒンドゥー勢力の衰退です。
 なぜイスラーム教がこの地に広まったのかの原因は、河部利夫編『東南アジア歴史文化事典』(東京堂出版)の「イスラム」で次のように説明しています。

元来、イスラムヒンドゥー教や仏教にくらべると、より平等主義的で、倫理的に普遍主義的な特質をもっていたが、とくにスーフィズムの場合には、その教団が本来、都市の手工業者のギルドや商人組合と結びついて発達したものであったため、東南アジア島嶼部の沿岸の商業都市国家の商人にも受けいれ易いものであった、さらに、第二に、信仰の面からいっても、スーフィズムは神との瞬間的な合一・没入という直接的・人格的な「悟りの体験」を重視するものであったため、当時のヒンドゥー教・仏教の呪術的・神秘主義的な世界観にも比較的容易に適合しうるものであったのである。とくに、この第二の点は、イスラムがジャワ内陸部のヒンドゥー王国の中心地域にも、時間をかけながらも、ともかくも浸透しえた主要な原因であった。

第3問
 課題は「両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を」でした。
 書けそうで書きにくい難問でした。
 以下のような解答例がネットにあります。

アテネでは、前5世紀、ペルシア戦争で船の漕ぎ手として活躍した無産市民の参政権要求が強まった。これをうけペリクレスの指導で、貴族や富裕な平民に加えて無産市民も含む全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言が認められ、直接民主政が実現した。一方、ローマでは前4世紀にリキニウス・セクスティウス法が制定され、コンスルのうちー名は平民から選出されることが規定された。さらに前3世紀にはホルテンシウス法が制定されて、平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となることが定められ、貴族と平民の法的平等が実現した。しかし、実態としては貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関として政権を独占した。(299字)

 この解答例では、アテネが「全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言」、ローマは「平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となる……貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関」とあります。この「平民会の決議」と「元老院を最高機関」は同等なのかどうかが不明です。書いてあることを文字どおり採れば、最高機関が2つあることになります。また元老院に貴族と新貴族が参加しているのなら、平民は元老院に参加できないというのはどういう状態なのか、不明です。
 ローマの民会に4つあり、兵員会・貴族会・区民会・平民会という組織があることは知っていますか? 教科書に書いてあるのはこの内の一つである平民会についてだけです。もっとも用語集の「コンスル」のところに「行政・軍事を担当した最高政務官。任期1年で無給。民会の一つであった兵員会で2名選出されたが、貴族が独占した」と書いてあります。この兵員会は平民も参加していますが、身分の高いひとや富裕層に多くの票があり、決定権は平民にはありませんでした。他の会も同様で、平民会だけは平民だけの会議ですが、兵員会のような重要な官職、重要な外交案件(宣戦・講和)、重罪裁判は提案されず、下級官職と軽罪しか討議できませんでした。この平民会の議長は護民官ですが、護民官は長い過程の中で新貴族といわれるひとたちが担い、元老院議員たちと近づいていて(だから新貴族)、元老院議員たちが嫌う法案は提出しなくなりました。だからホルテンシウス法は「元老院の承認なしに国法」となり、元老院議員は心配する必要はなく、「身分闘争は終わった」というより、もう闘争は止めにした、諦めた、というほうが正確です。ですが、貴族と平民に政治的な格差がなくなったのではありません。
 ホルテンシウス法の後に詳説世界史は「ローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け」とあり、この指導権とは何か? 元老院議員はコンスル経験者であるため、後輩のコンスル護民官たちにアドハイス(助言、事実上の命令)するのを常としていており、すべての民会の決議を批准(最終承認)する権限をもっているのです。

わたしの解答例
アテネではペリクレスの下で成人男子全員が参加できる民会が最高決定機関となった。将軍以外は重任禁止とし、抽選で官職に就いた。ローマは半島統一戦争からポエニ戦争の過程で、貴族と平民の身分闘争が展開し、それはリキニウス法でコンスル1名を平民から、ホルテンシウス法で平民会の決議が元老院の承認不要とした。前者では、下層の平民身分も全員が会議に参加できたが、後者では民会が4つあり、身分別に分かれていて富裕者に決定権が限られていた。さらにローマでは、平民は平民会でしか発言権はなく、他の民会では身分の高いものたちに決定権があった。高職は兵員会で貴族・新貴族が独占した。平民会は低い官職しか選出できなかった。

第2問
A a ムアーウィヤ b サラディン
(1)アッシュルバニパル (2)ユダ王国 (3)エフタル (4)十二イマーム派 (5)ティグリス川 (6)トゥールーン朝 (7)カリフ (8)イブン=ハルドゥーン (9)サファヴィー朝 (10)ギリシア (11)ロンドン会議 (12)イラク王国 (13)サイクス=ピコ協定
B c 雍正  d 大躍進
(14)一条鞭法 (15)囲田(圩田・湖田) (16)『農政全書』 (17)華僑 (18)李自成
(19)地丁銀(制)  (20)保甲法 (21)トウモロコシ (22)洪秀全 (23)盛京 (24)扶清滅洋 (25)人民公社 (26)改革・開放政策

第4問
A  (1)(ア)ロンバルディア同盟 (イ)托鉢修道会 (2)ローマ法大全 (3)(ア)イブン=シーナー (イ)血液循環説(4)カール4世 (5)プラトン (6)ヴィッテンベルク (6)(ア)ピサロ (イ)イギリスのカルヴァン派のことで、儀式・僧服・行事が旧教のままであり、改革の不徹底を批判した。 (8)(ア)チャールズ2世 (イ)ニュートン (9)ウォルポール (10)ドイツ国民に告ぐ
B (11)ダービー (12)ワット (13)水力(人力) (14)インド (15)マンチェスター
(16)ナポレオン3世 (17)カルボナリ (18)フィラデルフィア (19)チェチェン
(20)アルザス・ロレーヌ (21)ザール (22)ルール (23)(ア)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) (イ)イタリア(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク) (24)サッチャー