世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

ある京大模試、これでいいのか?

  ある京大模試の第3問に以下のような問題と解答がありました。

 古代ローマにおける政体の特徴を、身分闘争の時代、「内乱の1世紀」、パクス=ロマーナ、専制君主政の各時期に分けて、具体的な事例を挙げながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
解答
ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。

コメント
 「政体」とは、誰が支配者か、一人の支配者でなければ、どういう集団が権力・決定権を握りものごとを決定しているか、というあり方です。かんたんな言葉では、このローマ史なら共和政・帝政というのがそれに該当しますが、もっと誰・集団が決定権をもっているか、という点であれば、ローマ史の場合は貴族の集団である元老院がにぎり、それが次第に地位が落ちて、有力将軍がものごとを決めるようになり、とうとう生き残った一人が専制君主になる過程があります。とくにローマ史の場合は4つの時期の元老院の位置付けが違っています。
 またローマ史はギリシア史とともに古代の特異な構造をもっていて、それは市民権をもつ市民が支えており、かれらがどのような位置にあるか、ということも古代的な政体のあり方に関わってきます。
 「特徴」とはかんたんには「違い」です。前の政体がどう違った体制に変わったのかを書く、ということです。一般に「特徴」という言葉を出題者は安直に使うものなので、知っていること、関連事項をなんでも書いたらいい、と言えるのですが、ただこの問題の場合は、4つの時期に分けて「特徴」を求めているので、時期ごとの相違点を指摘していく、ということになります。
 解答例を検討していくと、こういうローマ史の基本的な変化が分かっていないことが判明します。解説では「局所的な学習ばかりでなく、大局観を持って細部に迫ろう」と書いてありますが、大局が分かっているとはとても思えないものです。

▼批判
1 ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。……これは初め元老院、次に平民会と書いて「法的平等が達成された」と結論づけています。すると元老院と平民会は同等になったということでしょうか? 支えている市民の貴族と平民も同等になったということでしょうか? ありえません。教科書は必ずこのホルテンシウス法の後に「だがローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け、しかも非常時には独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使する(詳説世界史)」とか、「現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった(詳解世界史──三省堂)」とかの限界を書いています。
 この「身分闘争の時代」は平民会の向上はあっても、その法が国法になると規定しても、決めることのできる内容は軽いもの(下級官僚・軽罪)に限られており、「法的平等」は形式に過ぎませんでした。むしろ元老院支配、といってよいローマの政体が確立した時期でした。寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制ができあがりました。
 ローマ史の政体変化の基本は元老院の位置がどう変わるか、という点を軸に書くことです。そうすれば特徴が表せます。

2 「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。……ここは寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制が動揺した時期であり、「元老院を抑えて実権を得た」のは事実ですが、もっと具体的には元老院が支配していた属州の担当地域を3人で分け、それが2回つづいて、最終的に一人支配に帰結する、という点が書いてあるべきで、カエサルの独裁と暗殺はなくてもいいものです。元老院で決めるのでなく3人の有力者で帝国全体について決めます。  
 あるいは同盟市戦争の結果、共和政ローマを支えていたローマ市民権が半島全域に拡大し、市民権のあるイタリア半島と市民権のない属州の区別がついた、と帝国全体の政治体制を書くべきでしょう(帝国と書きましたが、もちろんまだ皇帝のいない帝国です)。

3 帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。……ここのミスは末尾の「譲歩した」のところです。なぜ歴史家がこの時期からを帝政・元首政と呼んでいるか無意味になります。これでは「内乱の一世紀」とどう違うのか特徴が表せません。有力者が「元老院を抑えて実権」と皇帝が「元老院や平民会に譲歩」はどう違っていると言いたいのでしょうか? 「皇帝は多くの権限」と「譲歩」は釣り合うでしょうか?
 この時期は皇帝・元老院の共同統治、という政体ですが、「共同」といっても、皇帝に元老院召集権・発案権があり、完全に皇帝が元老院を牛耳っています。確かに皇帝の種々の地位(護民官・最高軍司令官・大神官・コンスル)はいちいち元老院の承諾を得なければなりませんが、これも形式的なものになります。この帝政の初期になぜ狂った皇帝たちが登場しても、なかなか辞めさせることができなかったのかの原因は、それ程の力を皇帝が持ち始めているからです。
 アウグストゥスという「尊厳者」という神にささげる称号をオクタウィアヌスに贈ってから、かれ以降の皇帝は死後すべて神として崇められ、そのためにパンテオンも造られました。属州も元老院属州と皇帝直轄属州に二分し、皇帝は最高軍司令官として辺境と豊かなエジプトを管轄しました。
 またカラカラ帝が属州の自由民に市民権を拡大したため、政治的にはかえって市民権は軽いものなっていきます。

4 専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。……上の文3の「多くの権限」とこの文の「強力な権限」はどう違うのでしょうか? 「元老院を排除」とはどういう意味でしょうか? 元老院という組織は残りましたが、ローマ市の市役所になるのです。つまり他の都市の市役所と同等で、それまで帝国全体ににらみを効かしていた長老たちの集まりではなくなり、ローマ市という狭い空間だけの問題を討議する機関に成り下がりました。属州も全てが皇帝属州になり、元老院属州は廃止され、特別区であったイタリア半島全体も属州の一つに成り下がります。決定的に元老院の地位は落ちた、といっていいでしょう。そして皇帝が官僚を文武に分け、皇帝が任命・派遣するかたちをとりました。皇帝崇拝は軍人皇帝時代から強制がはじまり、コンスタンティヌス帝がディオクレティアヌス帝の皇帝崇拝を止めても、皇帝にたいする跪拝礼はつづきました。超越した存在としての皇帝に市民がみな服従しなくてはならなくなります。

わたしの解答例
身分闘争期は平民を平民会・護民官の設置でかれらの不満・力を吸収したが、貴族が官職を独占し、それらの地位に就いたひとたちが終身の元老院議員となり、国政を牛耳った。内乱の一世紀では、元老院議員でもある将軍たちの勢力が高まり、元老院委を無視して3人で決定する三頭政治を2回経験する。その中から一人の独裁者が登場してくる。また同盟市戦争の結果、市民権は半島全域に拡大した。パクス=ロマーナ期は元首の集権化がすすみ、元老院を牛耳り、属州を元老院と二分した。市民権も全属州に拡大した。専制君主政期には皇帝は元老院ローマ市市役所に縮小し、元老院属州を廃止して、全属州を皇帝の支配下においた。市民は臣民となった。