世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2017

第1問
 「帝国」は、今日において現代世界を分析する言葉として用いられることがある。「古代帝国」はその原型として着目され、各地に成立した「帝国」の類似点をもとに、古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある。
 以上のことを踏まえて、前2世紀以後のローマ、および春秋時代以後の黄河・長江流域について、「古代帝国」が成立するまでのこれらニ地域の社会変化を論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。(太字は中谷の強調)
  漢字 私兵 諸侯 宗法
  属州 第一人者 同盟市戦争 邑

第2問
 世界史に登場する国や社会のなかで、少数者集団はそれぞれに、多数者の営む主流文化との緊張のうちに独自の発展をとげてきた。各時代・地域における「少数者」に関する以下の3つの設問に答えなさい。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記しなさい。

問(1) ポーランド人の国家は14世紀後半から15世紀に隆盛したが、18世紀後半に至ってロシア、オーストリア、プロイセンによって分割された。ポーランド人はそれぞれの大国のなかで少数者となり、第一次世界大戦を経てようやく独立した。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) ポーランド人の国家が隆盛した時期の状況と、その後衰退した背景について、3行以内で説明しなさい。
 (b) プロイセンの主導でドイツ人の統一国家が成立した際、ポーランド人以外にも有力な少数者集団が、国内の南部を中心に存在した。それはどのような人々であり、当時いかなる政策が彼らに対してとられたか、2行以内で説明しなさい。

問(2) 史上たびたび、アジアには広域支配を行う国家が登場し、民族的に多様な人々を治めるのに工夫をこらした。また、近代に入ると、国民国家の考え方が、多数派を占める民族と少数派の民族との関係にも大きな影響をもたらした。これらは、今日に至るまで民族の統合や衝突の背景となっている。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) 清朝は、藩部を掌握するために、どのような政策をとっていたのか、2行以内で説明しなさい。
 (b) 1965年に独立国家シンガポールが成立した。その経緯について、シンガポールの多数派住民がどのような人々だったかについて触れながら、2行以内で説明しなさい。

問(3) 北アメリカ大陸各地でも、ヨーロッパ人植民以来の発展のなかで様々な少数者集団が生まれた。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えなさい。

 (a) カナダの国土面積の約15パーセントを占めるケベック州では、今日なお半数以上の住民が英語以外のある言語を母語としている。このような状況が生まれる前提となった、17世紀から18世紀にかけての経緯を2行以内で記しなさい。
 (b) アメリカ合衆国では、南北戦争を経て奴隷制が廃止されたが、その後も南部諸州ではアフリカ系住民に対する差別的な待遇が続いた。その内容を1行でまとめ、その是正を求める運動の成果として制定された法律の名称と、そのときの大統領の名前を記しなさい。解答はそれぞれ行を改めて記しなさい。

第3問
 人類の歴史は戦争の歴史であったといっても過言ではない。古代から現代に至るまで世界各地で紛争や戦争が絶えなかった。戦争に関連する以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) パルティアの領土を引き継いだササン朝は、西方ではローマ帝国としばしば戦火を交えた。260年のエデッサの戦いでは、ローマ軍を打ち破ってウァレリアヌスを捕虜とした。このときのササン朝の君主の名前を記しなさい。

問(2) 北部を除くイベリア半島全体を支配下におさめたイスラーム勢力は、ピレネ一山脈を越えて南西フランスに侵攻したが、732年、トウール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の騎馬軍に敗北した。このときのイスラーム勢力およびフランク王国のそれぞれの王朝名を記しなさい。

問(3) 三十年戦争は、ハプスブルク家によるカトリック信仰の強制に対して、ベーメン(ボヘミア)の新教徒が反抗したことから始まった。バルト海に影響力をもっていたある新教国は、当初は参戦していなかったが、皇帝軍の北進に脅威を抱いて途中から参戦した。この新教国の当時の国王の名前を記しなさい。

問(4) ナポレオンは、1798年、イギリスのアジアへの通商路を遮断するためエジプトに遠征し、在地のマムルークをカイロから追放し、さらにエジプトの奥地やシリアにも転戦した。その後、フランス軍は1805年にイギリス艦隊に大敗した。ジプラルタル付近で起こったこの戦いの名称を記しなさい。

問(5) 清では、1860年代から、西洋の軍事技術などを導入して富国強兵をめざす政策が推進され、兵器工場なども建てられた。この政策において、曾国藩、左宗裳とともに中心的役割を果たした人物の名前を記しなさい。

問(6) 19世紀後半、南下政策を進めるロシアは、オスマン帝国からの独立をめざすバルカン地域を支援し、オスマン帝国と戦い、勝利した。このとき、締結された条約によって、ロシアはひとたびはバルカン地域での勢力を大幅に強めた。この条約の名称を記しなさい。

問(7) 19世紀末のスーダンでは、アフリカ縦断政策を進めるイギリスと、アフリカ横断政策を進めるフランスが対立し、軍事衝突の危機が生じたが、フランスの譲歩により衝突は回避された。この事件の名称を記しなさい。

問(8) インドシナでは、1941年に共産党を中心として、統一戦線が結成された。この組織は、植民地からの独立をめざして日本やフランスと戦った。この組織の名称を記しなさい。

問(9) 1963年に3か国の間で調印された部分的核実験禁止条約(PTBT)は、地下実験を除く核兵器実験を禁じている。この3か国の名称を記しなさい。

問(10) 17世紀の前半に活躍したある法学者は、戦争の悲惨さに衝撃をうけて『戦争と平和の法』と題した書物を著し、軍人や為政者を規制する正義の法を説いた。この法学者の名前を記しなさい。

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第1問
 この問題を作ったひとはフランシス・フクヤマ著『政治の起源 上・下』(講談社)を読んで刺激を受けたとおもわれます。この本は始皇帝のつくった帝国が西欧で19世紀になって実現する中央集権国家をすでに実現していた、と主張するものです。西欧のギリシア・ローマに見られる古代帝国の形成についてはわずかにしか説明されていませんが、ちょこちょこ比較しつつ指摘するだけです。ならば、ローマ帝国の形成と比較する問題を出してみよう、と。
 フクヤマは序文で「国家は、その過去にとらわれ続けるわけではない。ただ、数百年、あるいは数千年も前に起きたことが、政治の本質に大きな影響を与え続けていることが、往々にしてある。今ある諸制度の機能を理解しようとするなら、その起源と、制度を生みだした偶然の力を考えてみる必要がある。……私は中国の国家形成を一つの基本的な枠組みと考え、他の文明がなぜ中国のたどった道をたどらなかったのか考えてみたい」と述べていて、世界史を学ぶひとには頭の体操になる面白い書です。

 この第1問のポイントは「大きな違いがある。以上のことを踏まえて」とある部分です。フクヤマと同様に帝国形成過程を書かせて、二つの帝国がどういう違った帝国を形成してしまったかを探させようとしています。
 ある予備校が発表している次の解答例を読んでみてください。

重装歩兵を担う市民団を基盤とする都市国家ローマは、ポエニ戦争に勝利し属州を広げたが、市民団を支える中小農民が長期の従軍と属州の安価な穀物流入によって没落した。一方、同盟市戦争でローマ市民権がイタリア半島の全自由民に認められ、ローマ市民団は拡大し公用語のラテン語も広がった。没落した無産市民を私兵化して台頭した実力者の内乱は激化し、有力軍人による三頭政治・カエサルの独裁を経て、オクタウィアヌスが勝利し地中海地域を統一した。その後、市民の第一人者を意味するプリンケプスを称して市民共同体の理念を尊重しつつ、元老院からアウグストゥスの称号を受け、軍事・政治の最高指導者となった。春秋時代から戦国時代にかけて、宗法を基盤とする血縁的なの連合体が存在していたが、鉄製農具や牛耕の普及などで農業生産力が向上すると、家族単位の農業が可能となり、氏族共同体の結束は失われて封建制は崩れていった。諸侯は新県を設け開発を進めて小農民を統率し、商業を振興し有能な人材を実力本位で登用するなど富国強兵策を推進し、地域的な領域国家が形成された。周王の権威は失われ各国君主が王を称していたが、諸子百家のうち法家思想を採用した秦が中国を統一すると、光り輝く天の支配者を意味する皇帝を称し諸王の上に君臨した。郡県制による支配が各地に拡大し、篆書に統一された漢字は、長江流域を含む各地での集権的な官僚統治に役立てられた。

 この答案の中で「大きな違い」にあたるものを指摘しなさい、と問われて指摘できるとひとはどれだけいるでしょう?
 歴史の名称がちがうことは相違点を意味しません。たんにラベルが違うことを制度の意味の違いとは言わない。インドのヴァルナ制と新羅の骨品制はどちらも身分制度ですが、名称がちがうことは中身の違いを指摘していない。イクター制はイスラーム世界の封建制で、ビザンツ帝国のプロノイア制も封建制ですが、それは中身がどう違っているのか名称だけでは何も示していません。こんなに当り前のことを言わなくてはならないくらい、思考が劣化している答案です。答案の作者は違いを書いたつもりでしょう。たんに羅列しただけなのに、比較して「大きな違い」を表わしたとおもっているようです。
 も少し具体的に見てみましょう。ローマではしきりに「市民団」という語句を使ってますが、これは中国では何に当たるのか? 家族でも氏族でもない。何か個人の権利を指している「市民」とその団体という言葉「市民団」は中国古代には存在しない。なぜこの市民という概念、個人の権利の上に立つ国家という、ギリシア以来の西欧独特の語句を使いながら、中国にそれがないことを指摘しないのでしょうか? 指定語句に「同盟市戦争」があるのになぜ気づかないのか? 過去問に「ローマの市民権の拡大について2行以内で説明しなさい。(2011)」というのもあったのに?
 ローマで農民の没落と私兵化が書かれていますが、これは中国ではないのか、あるのか? 中国の鉄製農具と牛耕農法が書いてありますが、ローマでは農業技術の革新はない? 比較・対比は同じ分野・テーマで比べる、という比較する際の基本が分かっていないようです。ローマでA・B・Cを書いて、中国でD・E・F・Gという風にちがう分野のことを書いても比較したことにならない、A-A'、B-B'、C-C'、D-D'と分野毎に比較しないと比較したことにならない、という基本のことです。
 ローマでは都市国家ということから出発していますが、中国の都市とローマの都市はどう違うのか? 統一への過程において都市はどう変化したのか? 中国では法家思想が統一への思想となっていますが、ローマの思想は何か? 万民法と法家思想はどうちがうのか? 中国の漢字・諸子百家という文化的なことがらはローマではどれが該当するのか?
 「公用語のラテン語も広がった」と「統一された漢字」とどう違うと言いたいのか? 言語と文字?
 君主の称号「アウグストゥス」は「尊厳者」という神にささげる尊称であり、じっさい死後ローマ皇帝はみな神として礼拝されることになります。この称号と「光り輝く天の支配者を意味する皇帝」とどう違うのか? 同じではないのか? アウグストゥス帝が残した自身の記録は『神皇アウグストゥス業績録』と呼ばれています(桜井・木村共著『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論社 p.322)。

 これほど「大きな違い」を何も書かない答案を採点官はどう評価するのか聞いてみたいものです。この「大きな違い」が必要ないのであれば、第2問の(a)・(b)のように分けて別々に書いたらいい問題になります。なぜ同一の問題の中で、同時代の二つの帝国形成について書かせているのか出題意図が分からなくなります。
 この問題だけでなく、比較の問題になるとどの予備校(講師)もまともな解答文が書けません。例年のことなので何も驚くことではないですが。東大はこれまでにも「奴隷制廃止前後の差異に留意しながら(2013)」「差異を考えながら(2012)」「特徴を比較して(2009)」「対照的な性格に留意しつつ(1998)」「解体過程の相違に留意(1997)」と比較の思考を要求してきた過去があり、比較文が書けることは必須の論術です。これではいつまで経っても進歩がないですね。進歩のなさが、怖いところです。

 「大きな違い」という語句を無視した、問題文が読めなかった、比較文が書けない、というだけでなく、出題者の意図がまったく読めなかった、という欠陥もあります。まったく違うタイプの帝国を比較するという課題がなぜ捉えられなかったのか?
 他人の答案を批判したので、自分の答案を下の方で載せておきました。
 予備校だけでなく、受験生も中国とローマの統一なんてなんとか書けるととおもい、それぞれの流れをずらずら書いて終わったでしょう。ちょっとでも踏ん張って構想メモをつくったひとは居るでしょうか。流れに埋没して「大きな違い」なんて独りでに現れるはず、と甘く考えたでしょう。しかし受験生が書いてくれた再現答案の中では、少しでも違いを書いた受験生が合格しています。上の予備校講師の解答を越える解答です。

 さて、出題意図を探ってみます。政治・経済・文化の三つの分野に分けます。課題は「ニ地域の社会変化」といいながら、この「社会」は一番広い使い方です。一般には「社会」とあれば政治以外のすべてですが、たいていは経済を書けばいいものの、この導入文の「社会」の使い方は政治も文化もみな入っているようです。というのは、「「古代帝国」……古代社会……「古代帝国」の成立」と「帝国」は明らかに政治用語であり、ここでは政治と社会が等価で扱われています。「法則」という議論にまで言及すると、政治と経済がからむことは自明でしょう。

 導入文にある「古代社会の法則的な発展がしばしば議論されてきた。しかしながら、それぞれの地域社会がたどった歴史的展開はひとつの法則の枠組みに収まらず、「帝国」統治者の呼び名が登場する経緯にも大きな違いがある」という部分についての考察です。マルクス主義の法則的な階級闘争的史観(唯物史観)では「古代」は奴隷制社会のはずでした。しかしこの単純な「法則」ではすべての古代帝国は捉えられないとして「法則の枠組みに収まらず」と述べ、その実例として君主の「呼び名」にも現れていると指摘しています。
 上の疑問点をあげたところで、オクタウィアヌスはアウグストゥスと元老院から授けられた称号を自らは名乗りませんでした。かれの強調点は指定語句になっている市民の中の「第一人者」、「第一の市民」という意味のプリンケプスです。権力は集中していて後世の史家は皇帝政の開始ととっていますが、この表現は避けて市民の中の「第一人者」と呼ぶことで独裁者カエサルの二の舞になりたくない、という意志が働いていました。カエサルのように地位を終身にせず、毎年更新するかたちをとったのも、その慎重さを表わしてます。皇帝は元老院で選ばれる地位であり、その元老院議員はパトロヌス(保護者)とクリエンテス(被保護者)という庇護関係(パトロネージ)の親分たちでした。元首政を皇帝と元老院の共同統治と表現します。元老院はまだ無視できない権威をもっていました。アウグストゥス帝とて「護民官」という平民を守る官職と義務を負っています。本来、アウグストゥス帝はパトリキなので、パトリキはプレブスだけが就けるこの官職に就けなかったのに、わざわざ元老院に法案を通過させて就任しています。
 この問題の場合は専制君主政(ドミナートゥス)まで言及する必要はないでしょう。後者の場合は元老院の意味がなくなるからです(拙著『世界史論述練習帳new』別冊のp43「元首政と専制君主政のちがい」参照)。

 「市民」という政治的な権利については、中国史では現代にいたるまで認められた歴史がありません。始皇帝は個人の生殺与奪の権利をもつ、いわば唯一自由な地位にありました。現・中華人民共和国憲法の第二章に市民の権利を定めたものがありますが、それらは「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」という条項によって無意味にされます。同じように自民党改憲案・第13条では「全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福求に対する国民の権利」としながら、その後に「公益及び公の秩序に反しない限り」と条件を付けることで前文を反古にしてしまいます。自民党は市民の権利を削ることに余念がない。ローマ史には平民が貴族の権利をつかみとる長い歴史がありました。個人の権利を認めた上での帝国、という西欧近代国家に近いものです。

 また官僚制の発展も帝国形成には不可欠の事柄であり、中国の場合は能力主義の官僚制を発展させることと連動していました。それは封建制度・血縁の関係の強い社会のつながりを切り裂くものでした。諸子百家といわれる有能者たちは、各国に誘われ、自ら求めて遊説して回りました。孔子が遍歴した国は故郷の魯から周→斉→魯→衛→陳→宋→鄭→蔡→楚→衛と回って魯に帰国しました。孟子は梁→斉→宋→藤→魯→鄒と遍歴しました。商鞅の遍歴は衛→魏と回って秦で落ち着きました。呉起の遍歴は衛→魏→楚でした。これらのうち商鞅・韓非・李斯の法家グループが官僚制の必要性を説いて、法家に学んだ始皇帝が統一に成功しました。この点についてフクヤマは「中国では知識人と官僚の役割の融合が行われたが、これは世界のほかの文明では見られなかったことだ」と指摘しています(p.176)。これは新しい指摘ではなくエチアヌ・バラーシュの『中国文明と官僚制』(みすず書房)で明解に説いていることでした。
 ローマ帝国の官僚制はどうだったでしょう? 専制君主政になって「巨大な官僚体制をきずいた。官吏の力は強大となり、皇帝が官吏を使って帝国を専制支配する体制ができあがった(詳説世界史)」とあるのであれば、それ以前の元首政においては官僚制は発展していなかった、と推理できます。もっと詳しく説明しているのは東京書籍の教授資料(先生用のアンチョコ)です。以下。

 ローマ皇帝は、帝国の細部にわたって綿密な管理をほどこすといった体制をとらず、各地の都市に広範な自治を与えていた。皇帝の公務は、午前中いっぱいと午後の一部であった。また、一日の政務の多くは裁判が占め、巨大帝国の統治者のわりには、行政そのものを行う時間が少なかった。皇帝が行政に励まなくとも、帝国は麻痺しなかった。その理由は、皇帝は一切を集中管理せず、各官僚に裁量権を与え、行政決定を任せていたからである。官僚も多大な時間を公務に割いたわけではなかった。勤務時間は、夏至ならば午前7時から10時半すぎまで、冬至ならば9時から11時すぎの午前中のみであった。また、官僚の定員も帝国の人口約6000万人に対して、ただの300人であった。
 このように帝国は驚くほど少数の官僚で運営され、皇帝も行政のすべてを陣頭指揮したわけではなかった。巨大帝国がなぜ「官僚制なき小さな政府」で統治できたのだろうか。その理由をあげると、中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね、最低限の干渉にとどめたこと、各地の秩序が維持され徴税が確保されれば行政の目的を達成したとみなしたこと、などであった。ローマ帝国は、地方の都市を帝国行政の歯車に利用することで、帝国存立に最低限必要とされた各地の秩序維持と徴税が確保できたのである。

 時期は少しずれますが、ローマが「人口約6000万人」だった頃、前漢末の人口数も約6000万人弱(5959万4978人)でした。ローマの官僚が300人だったのに対して、前漢の官僚数は約13万人と見積もられています(鈴木正幸他三氏編『比較国制史研究序説』の中の渡辺信一郎「中国古代専制国家論」)。秦の人口数は前漢より半分以下と見られていますが、それでも官僚比率の差は大きいといえるでしょう。

 こうした事柄を知らなくても、ローマが征服地の統治に関して、徴税請負制をとったことは習うでしょう。請け負ったものたちが財産を蓄え、「騎士(エクイテス)」と呼ばれるようになることも習いますね。かれらが本来ローマが国家としてやらねばならない仕事を請け負いました。仕事の内容は広範です。

かれらが請負ったものに、第二次ポエニ戦争中のごとき公共建築・土木請負や戦時の食糧・軍衣供給などのほか、財産税・奴隷解放税・関税等の徴集、公有地とくに共同牧地における放牧税、属州の十分の一税の徴集、さらには塩の専売、鉱山採掘権、森林・漁撈権にまで及んだ。これらの請負契約はローマで戸口調査官との間で結ばれ、初めは個人が契約したが、おそくも前二世紀の初めには一種の会社組織(societas)が現われている。(弓削達『ローマ帝国論』吉川弘文館 p.94)

 上の上の引用文に都市について「中央政府は地方行政を各都市へ丸ごとゆだね」とある点でも中国との違いを示しています。ローマは半島統一戦争の過程で、都市との戦いに勝利しても、その所有地の全てを奪っておらず、3分の1くらいを取りあげて、後は従来通りの自治を認め、その代わりローマ市との関係では市民権格差を設けて分割統治をしました。植民市・自治市・同盟市の3区分です。こうした都市自治の伝統が、6世紀のユスティニアヌス帝のときに起きたニカの反乱でも現れていて、この皇帝のときになってやっと自治を奪いました。
 対して中国の都市は初め「邑」という都市国家(邑制国家)にあたる表現でしたが、戦国時代にこれらの邑は「郡」「県」と名付けられて中央政府の末端基地としての役割を担わされます。新しい開拓地や他国との戦争に勝利すれば、全ての土地を奪い、その中心都市(邑)を郡・県と呼んで王の直轄地とし、家臣には有能な人材を選びかれらを官僚として郡や県に派遣し統治させました。そこにはローマのような自治を認める要素はなく、独立性の乏しいものでした。帝国にとっての都市の位置づけがローマと違っていたのです。

 奴隷制についてはどうでしょう? ローマはラティフンディアが発展したので奴隷制は前提ですが、中国はかつてはマルクス史観(郭沫若)にたって殷周時代を奴隷制としていましたが、今は殷代までしか奴隷制をあてはめていません。ローマは帝国領の拡大とともに奴隷の増大になりましたが、戦国時代の中国が奴隷制を発展させたとは言えないようです。戦争があり、捕虜が奴隷になるのは中国でもありえましたが、あくまで「捕捉的な」労働力でした(貝塚茂樹・伊藤道治『中国の歴史1』講談社 p.382)。
 その点でいえば、ローマでは奴隷労働が要らなくなるような技術革新をしないことになっていて、農業技術の変化は見られません。戦国に鉄製農具・牛耕農法が普及しますが、各国も富国強兵策のため開墾・干拓・灌漑を奨励し、土地の私有制を広めました。「従来、共同体に所属している農民たちは、土地の占有権を持っただけで、所有権は持たなかったが、その土地の売買が自由化していく過程で、しだいに所有権に変わった。共同体の土地を共同で利用していたはずの農地が、小単位に分割され、それに対する所有権をもつことになった結果、地主階級が生まれてくることになった。」(前掲書p.380-382)。そうすると貧富差も出てきますが、大多数の農民は小規模自作農民でした。
 ローマは半島統一戦争の過程で3分の1ほどを取りあげる、と書きましたが、それらは公有地とし、中小農民が参戦して取りあげた土地、すなわち「公」有地でありながら、じっさいには大土地所有者が利用しました。そこでリキニウス法(前367)が制定され、公有地500ユゲラ(約125ha)以上占有禁止、公有地に100頭以上の牛、500頭以上の羊の放牧の禁止、という内容から中小農民が外されていることが分かります。前111年には占有地の私有を認めていき、それはまさに大土地所有の容認でした。大きい例では1人が2万人の奴隷を所有して経営していたことが知られています。中国ではありえない異様な光景です。

 中国統一の原動力となった法家思想とローマの万民法はどう違うのでしょう? 
 戦国時代に『法経』を著わした李克(李悝 りかい)から法家思想が始まり、商鞅、韓非、李斯と受け継がれ、富国強兵・信賞必罰の徹底で統一を実現しました。人間を信用せず、並ぶ者のない専制君主の下で法の施行(法治主義)こそ統治の基本と考えるひとたちです。
 ローマの法は十二表法から始まりますが、これは市民にだけ通用する法であり、万民法はローマの支配地域が拡大すると必然的に現れました。ストア哲学から受け継いだ法の前の平等の考えが影響したようです(福田歓一『政治学史』東京大学出版会 p.62-75)。前242年の外国人との商法を定めたのが最初とみられていて、中国のように国内の集権化や統一のための政治的な法ではありません。万民法は非市民である外国人との関係法として発展し、これが増えていき、212年のカラカラ帝のアントニヌス勅令で、帝国内全自由民に市民権を与えたため、市民法と万民法の区別がなくなりました。これはしかしアウグストゥス帝の登場のあと約250年後のことです。帝国成立までに果たした役割は小さかったと言えるでしょう。

 指定語句となっている「漢字」は始皇帝が統一とともに小篆に統一したことも名高いできごとです。七雄が官僚制を拡大していく際に、それぞれの余り違いのない文字(金文)を使用していて、統一後に秦の使用していた大篆を簡略化した小篆に統一しました。上に書いた知識人たちの全国遊説も漢字の拡大につながったでしょう。官僚は、徴税記録、認可証明書などの事務処理のために漢字を多用したはずです。
 ローマの場合は、東方属州はギリシア語とギリシア文字、西方属州はラテン語が公用語で、ラテン文字が使われています。これだけでなく、帝国内にはゲルマン人たちのそれぞれの言語にルーン文字、フェニキア人のアルファベット、シリア人のシリア文字、ユダヤ人のヘブライ語とヘブライ文字、アラム語は当時の西アジア公用語で、アラム文字はアラム商人を通して東方に伝わります。旧約聖書の一部はアラム語で書かれています。200年頃に編纂された新約聖書はギリシア語で書かれました。マルクス帝のようなストア哲学者たちはギリシア語で著作しました。バイリンガルであることがローマ知識人の常識でした。このように中国との違いは大きい。

 長くなったので、第2問・第3問の解説は省略です。

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(わたしの解答例)

第1問

黄河・長江流域の氏族共同体は宗法で維持されていたが、をもつ諸侯たちが互いに覇を争い、それは七雄の抗争に発展し、秦が統一帝国を形成した。その間、奪った国・土地・都市に官僚を派遣して直接統治をした。ローマは半島以外の征服地を属州としたが、都市の土地を全土奪わず、市民権を3段階に分けて分割統治をした。同盟市戦争が市民権格差をなくし、都市自治を認め、官僚制は徹底しなかった。次第に私兵を養う将軍たちが台頭し政治を左右した。三頭政治を勝ち抜いた将軍のオクタウィアヌスが元首政を始める。始皇帝は神・上帝に等しくなったが、元首は元老院で選ばれ、護民官も兼ね、市民の第一人者を自称した。経済面。中国では鉄製農具の導入以降から共同体経営が崩れ、家族経営の小地主たちが戦国の各国を支えた。ローマは戦争の捕虜が奴隷として売買され、奴隷制立脚のラティフンディウムが発展した。そのため中小農民が没落した。奴隷がローマを支えたため、奴隷労働が要らなくなるような技術革新は抑えられた。中国にはこのような奴隷制は発展しなかった。文化面。七雄君主は諸子を招いて富国強兵を図ったが、法家が集権化に貢献した。また金文から発展した各国の漢字は似通っていて統一とともに秦の小篆にまとめられた。ローマではラテン語を公用語としたが、多くの異言語・異文字と共存した。万民法は市民法以外の法として徐々に整えられたが統一に寄与することはなかった。