世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024一橋世界史

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 社会経済史的にみた中世北欧都市*の特色は、何よりもまず、それが「一つの大きな家計」単位として自覚せられ、「市民的生活全体の統一」として把握されうる点に存すると思う。そのわけは、市民の経済生活は、すでに相当程度の職業分化を前提としており、各家族のオイコス(家・家政)的・自給自足的理念を克服した点において、またランドゲマインデ(村落共同体)的・地縁的因習に束縛されぬ意味において、さらには領主的封建支配の桎梏を断ちきった意味において、原理的におよそ村落団体とは異なる形成体となり得たからである。
 すぐれて結晶的な景観を示すあの都市の中央に設けられた市場は、市民全体の経済活動の核心をなしていた。市場の繁栄は、ただちにもって「一つの家計」としての同質社会たる市民全体の福祉に影響する。(中略)それゆえ、極言が許されるならばこの家計の構成員たる市民は、文字通り一つの“Stadtvolk”*であり、いうところの「都市経済」とは、“Stadtvolkswirtschaft”*にほかならないとも考えられる。
  「都市経済」がこのような基盤と性格とを前提とするものとするならば、そこには必ずこの経済単位を規制する何らかの経済意欲が誕生しなければならない。すなわち、マックス・ウェーバーのいわゆる“wirtschaftsregulierender Verband"*としての意識は、「都市」または「市民」というものをば、まったく新しい経済政策のトレーガー(担い手)として登場せしめることとなる。ここからまたわれわれはいわばパトリモニアル(家産的)な封建領主のそれとは質的に異なった高次の政策意欲を指摘することができよう。
  では都市の経済政策は、いかなるかたちをもってあらわれるのであろうか。われわれはこれを、あの有名なビュッヒァーの経済発展段階説がしめすが如き、単に封鎖的なものとして一方的に規定するのではなしに、「封鎖的な面」と「開放的な面」との統合として考察すべき十分の理由をもっている。というわけは、中世社会において、都市が果たした経済的役割の重要性を as such として評価し、他方、中世市民がもっていた経済心理を考慮する場合、どうしてもこの両面の性格が矛盾なく並存していた事実を認めざるを得ないからである
(増田四郎『増補西欧市民意識の形成』より引用。但し、一部改変)
 *北欧都市:ここではアルプス以北の都市を指す。
 *Stadtvolk:「都市住民の総体」等を意味するドイツ語。 
 *Stadtvolkswirtschaft:「都市住民全体の経済」等を意味するドイツ語。  
 *wirtschaftsregulierender Verband:「経済的規制団体」等を意味するドイツ語。

問い 文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して考察しなさい。(400字以内)

史料
 中世都市市場の搬入及び供給区域は地誌学的に精確に区画され得ないことは、その搬入及び供給の区域は市場貨財の異なるに従って自然にその延長を異にしていたがためではあるが、それにもかかわらずこの区域は経済的意味よりいえば、一箇の閉鎖的区域を形作っていたのである。すなわち各都市は、その周囲の「地方」と共に、自主的なる一経済単位を形成し、この範囲内において、経済生活の全過程がその地特有の規範に準じて、独立的に完遂されていた。
 (ビュヒァー(ビュッヒァー)『増補改訂 国民経済の成立』より引用。但し、一部改変)

 

第2問
  大西洋奴隷貿易により始まった南北アメリカ大陸・カリブ海域における奴隷制は、19世紀にそのほとんどが廃止された。19世紀における一連の奴隷解放の動きは、リンカンが「奴隷解放の父」として顕彰されるなど、各国の歴史において偉業と位置づけられ、また近年ではUNESCOなどが、奴隷解放を記念する国際年のイベントを開催している。
  しかし、2020年に米国で燃え上がり、世界各地へと広がったブラック・ライヴズ・マター運動では、黒人たちの貧困や黒人への日常的な人種差別、暴力が問われ、彼らは「黒人の命も大切」と訴えた。奴隷解放から一世紀以上が経つのに、なぜ不平等な扱いをいまも強いられるのかと、ブラック・ライヴズ・マター運動ではあらためて奴隷制という負の遺産の大きさと、奴隷解放のプロセスの問題点に注目が集まった。
  奴隷貿易や奴隷制の廃止に必ずしも「偉業」とは評価できない側面があり、それが現在の黒人たちの不遇な境遇と結びついているとすれば、それはどのような点だろうか。奴隷を解放した側からではなく、解放された側、すなわち、元奴隷や黒人社会、アフリカ各国の側からみた場合、奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策は、どのように評価することができるか。19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら論じなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

 13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割

 

第3問

 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

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コメント

第1問

 一橋らしい大学の授業をそのまま反映したような問いです。資料・史料は受験生が読んだこともない研究書を引いてきて、たぶん大学・大学院で出したテストをそのまま使っているような問い方です。
 しかし諦めないで、教科書で学んだこと、過去問で学んだことを基に推理すれば、ある程度は的を得(射)た答案はできます。
 課題は「文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して」でした。
 過去問にこの問題に類するものは、1983-1 中世都市の自由(300)
1988-1 中世から近世の経済的国民主義(400)
1994-1 中世都市の自由(200)、自由の維持方策(200)
2006-2 中世都市市民(250)
2016-1 古代都市と中世都市の比較(400)

 このように伝統的に中世都市は頻出テーマです。
 「アルプス以北」と限定しているのは南欧のイタリア都市はコムーネと呼び、違うタイプの都市なので、中世都市といえば、「アルプス以北」と限定していなくても中世都市の代表的・典型的な都市としてあつかいます。

 課題の「開放的な面」は書きやすいでしょう。「社会経済史的意義」とともに農奴解放(権)・商工業者(同職ギルド)にも市政解放(ツンフト闘争)・特許状に書いてある立法権・貨幣鋳造権・居住権・市場権・交易権・自治権などがあり、近代市民社会の基となった種々の自由・権利が与えられました。また海外に進出して商館を設け、他都市との同盟を結んでいます。これは皇帝に対抗する軍事同盟でもありました。
 「封鎖的な面」は城壁・ギルド規制・身分制・市政は親方のみ参加が挙げられます。
 これに加えられるのが禁制圏です。これは史料の「一箇の閉鎖的区域」のことですが、受験生にとっては違和感があるでしょう。閉鎖性に該当する部分の説明になっているのですが、これを教科書や参考書で説明したものを見たことがありません。わたしは添削しているので、その際の添削文にはかならず説明するようにしています。この「閉鎖的区域」とは禁制圏ともいい、
次のような説明します。
 都市の商業と工業を守るために禁制圏を設けました。禁制圏とは都市の周辺のいくつかの農村や都市と協定を結んで、じぶんの都市で作っているものは協定した農村・都市では作らない、その代わり周辺の都市・農村で作っているものは自都市では作らない、という共存の協定です。またよそからくる商人はこの禁制圏に来ると荷物を降し、都市の商人に運んでもらいます。そうすることで都市の商人の利益を守り、都市に入って、持ってきたものを売る権利を与えます。もちろん売る商品は自都市で作っていないものに限ります。売れ残ったものを、都市の商人がはこんで禁制圏の境界までもっていき渡します。
 この禁制圏について書いた予備校の「模範」答案は一つもありませんでした。
 この禁制圏のことは引用された増田四郎の文章のつづきにも出てきますので、以下にそのまま載せておきます。

 増田四郎著『増補 西欧市民意識の形成』(講談社学術文庫、P.170〜173)
 すなわち、市民は"Eng Wohnen,weitdenken."(狭く住み、広く考える)ともいうべき特殊な生活感情をはぐくみ、一方においてギルドやツンフトの伝統と旧慣を墨守するところの、その同じ市民が、他方、市壁を越え、領邦を越え、国境をもはるかに越えて、活発な国際交易の波上にのりだし、出来る限り広範な流通場裡に、みずからの属する都市の自主性を確立しようと競いあう。封鎖的な団体的結合と開放的な企業家的精神とは、矛盾するところなくここに両立する。この意味において、中世都市の類型的ないしは本来的な姿を、単に地方農村的な小都市の牧歌的情景のみに求め得るとなす見解は、明らかに誤謬である。中世都市経済のいきいきとした脈搏(みやくはく)は、むしろこうした両面性を最大の極限にまでおしひろげ、しかもなお一種の団体的緊張を保持しつづけた進取的都市の中に鼓動していたと断じなければならない。
  まずその封鎖的な面をみるに、もともと商工業者の集団であるはずの都市にjustum pretuim)の原則は、仲間相互の連帯責任の精神をうえつけた。十三世紀を頂点とするスコラ哲学の社会秩序観、特にその「職分」の思想は、まさしくこの現実にからみあっており、また今日漠然と主張せられる「ギルド独占」の弊害と「旧慣墨守(ぼくしゅ)」の中世的精神は、一部このような部面から湧き出たものであるが、しかし彼等のすべてが姑息な雰囲気にのみ満足していたものでないことは、十四世紀以降、各地の都市にみうけられるあの熾(さか)んな「ツンフト闘争」(Znuftkampf)の政治運動──すなわち富商的パトリチアート(都市貴族)の市政独占に抗して、ツンフトの合理的・平等的な参与を公認せしめようとする下層手工業者の反抗──に照しても極めて明らかである。しかしこの闘争とても、概(おおむ)ね両者の妥協による解決をみたわけで、イタリア都市にティピカルにあらわれるごとき市民階級自体の分裂につぐ分裂──例えばパトリチアート対ポポロ、ポポロ・グロッソ対ポポロ・ミヌートの対立等──、そしてついには独裁的な都市僭主(せんし)制(Stadttyanrnisを)さえうみだした事例とは、およそ根本的に異なる様相をしめしていた事実をみのがしてはならない。すなわち、時に内部のはげしい闘争があったにしても、われわれとしては、中世北欧都市の市民的結合の健全さと、アウタルキー(自給自足)的志向が一面の基調であった内部組織の秩序とを、絶対に無視するわけにはゆかないであろう。
  つぎに開放的・積極的な面であるが、この問題については、例えば、北海およびバルト海を足場に、遠くノヴゴロド、ベルゲン、ロンドン、ヴィスビー等に商館(Kontor)を設けたドイツ・ハンザ都市のめざましい活躍とブルージュの厳たる世界市場的地位を想うのみにて既に充分である。東西両洋、南北両欧の雑多な商品は、ハンザ商人と南方イタリア諸都市の活動・媒介によって、予想外の流通度をしめしていた。帝権ないし王権が、経済政策の重要性にめざめない以前においては、こうした都市の同盟形態が最も適合した有力な経営組織であり、また活動の母胎であった。大空位時代(Iterregnum)以後、中世末期の各地にみうけられる政治的な「都市同盟」(Städtebund)が、いかに熱烈に王国ないし帝国の統一を冀求(ききゅう)して、封建諸侯の分立に執拗に抗しつづけたかは、都市市民の積極的開放面を立証する有力な証左といえよう。一言にしていえば、彼等は外に向っては出来るかぎり自己を主張しようとしたわけで、他都市・他国の商人はひとしく"ailenmerchant"(よそもの商人)と考えられ、"Vaterstadt"(故郷の町)の語は、そのまま今日の「祖国」(Vtaerland)の語の感情をもって理解せられた。このようにして、字義通り世界交易網の中における自己主張であったればこそ、彼等はこぞって「互市強制権」(Stapelrecht)や「交易通路強制」(Strassenzwang)のような諸特権を獲得し、相互に独自の都市的権益として誇り得たわけである。換言すれば、「中世的世界経済」の前提なしにこの権益を保持することは、それ自体無意味にちかいというべきである。
(引用終了)


第2問
 この問題は一橋の過去問(2003-2 奴隷貿易盛衰の政治的・経済的要因(300)、2017-2 奴隷解放と独立運動(400))の類題です。
 課題は「19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら(指定語句→13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割)」でした。
 「廃止の概説」「奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目」と二つの課題があります。
 「廃止の概説」は教科書なら、
奴隷貿易・奴隷制(奴隷労働)の廃止(英の1807年、1833年)、フランス革命(1794年)、ラテンアメリカ独立の際の解放(ハイチ1804年)、北米の南北戦争後の解放(修正13条、1865年)とあります。この中でも指定語句の西半球の最貧国はハイチのことですが、ここはフランスの植民地でしたが、独立の代償として多額の解放資金を要求され払いつづけ、「西半球の最貧国」と呼ばれることになり、貧困から抜け出せない。これが「問題点」のひとつです。奴隷労働によってフランスは利益を得ているにもかかわらず、「解放」で奴隷という財産を失ったことにたいする補償をせよ、ということです。この横暴さが分かりますか?(→ウィキペディア・ハイチ革命)
 日本も徴用工の問題で韓国と対立していますが、個人への補償・賠償でもない、日本の建設企業に環流する5億ドルを出したということで解決した、とする横暴な日本政府の対応があります。このことでも実はハイチの場合と同様に、帰国した徴用工が居なくなったので、その喪失の補償金を日本企業はすでにもらっていることを知っているひとはほとんどいません。中国人強制連行の判決(2007年)で、日本の最高裁は「中国人労働者の受入れに関して国家補償金を取得するなどして一定の利益を得ている」と指摘していて企業側に救済せよと訴えています(→https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/580/034580_hanrei.pdf)。
 次の文書には企業に支払った会社名と額の詳細が書いてあります。→

(朝鮮労務対策委員会活動記録)

 「問題点」は指定語句の「シェアクロッパー制、アフリカ分割」を使って説明ができます。合衆国のシェアクロッパー制は解放奴隷は元々何も持たない道具であったのが、ひのまま何もも持たないで解放されたので、すべては借りて生きていく他はなく、土地も借りて小作人になりました。これがシェアクロッパーです。解放されたといっても、主人側の差別意識は解消されるものではなく、解放後は現在まで長いこと迫害され続けています。戦争では前線に立たされつづけました。 
 独立したアフリカも分割とともに「低開発」のために工業化を阻止されて工業が発しないように、ずっと原料供給地・市場であるように仕組まれました。これを低開発といいます。自然のなりゆきでなく政策的な非工業化です。
 なお奴隷制は21世紀も継続しています。https://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_the_21st_century
 日本の奴隷制としては、「技能実習制度」が国連から指摘されています。実習生からパスポートをとりあげて逃げないようにしているのが、わたしたちの周辺で営業している中小企業のおっさんたちです。松本人志が女性をホテルに集めて、個人情報のつまったスマホを取りあげるのも、一時的な奴隷化です。


第3問
 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

 これは東大の過去問(1974年)「10世紀における東アジア(中国・朝鮮半島・ヴェトナム・日本)の諸国家の興亡・変動を300字以内の文章で説明せよ」と類題です。
 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末付録「60字問題集」の「中国・政治」の中の問15「10世紀初めから12世紀前半までの東・北アジアの国際関係を説明せよ(90字)。(指定語句→兄弟 西夏)」とも共通した問題です。
 問題用語の「変動」は王朝の変化というより王朝の変化を超えた、それ以前や以後の大きな流れも視野に入れて使います。9世紀までの傾向を変えただけでなく、13世紀以降にも影響を与えた変化、つまりは大きな変化=変動のことです。たとえば、気候変動という言い方をするように、数年間の小さな変化より、10〜20年、ときに世紀を超えるような大きな変化を変動と呼びます。10〜12世紀に変わった王朝だけでなく、10世紀以前と12世紀以降にも同様な変化が表れているような大変化です。どの予備校の解答例も、王朝の変化ととった解答文ばかりで、問題を理解していなかった、といいでしょう。征服王朝という語句をつかった解答文がないことでも、これは明らかです。
 この問題では五代十国以前の唐王朝の時期と、五代十国以降の宋以降に現れる元清のような征服王朝が中国全土を支配するといった事態、これは唐以前の五胡十六国時代のような遊牧的で短命な王朝の時代とは相当違った傾向が表れる時代の登場です。
 頭だけでなく、支える社会も、貴族から庶民新興地主層・形勢戸・士大夫が担い手に変わる、文化も貴族的なものに代わり庶民的なものが一般的になります。
 中国はこのように変動しますが、他の地域でも似た現象がないか、と探ってみます。朝鮮なら豪族・貴族から両班層、日本も貴族から武士へ、ベトナムは不明なので社会は書けないけれど政治は中国に従属していた時代から独立した王朝の時代に変わります。実際、ベトナムでは9世紀までは北属期、10世紀から独立期と区分しています。
 その前にベトナムも書いて良いのか、ベトナムは東アジアに入るのか迷ったかたもいるでしょう。入ります。もともと北部は中国の支配下に長いことあり、中国の制度・文化も導入しているので、東アジアに入れて良いのです。