世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2021年度夏・東大模試

模試A
第1問
 5世紀以降の形成過程を経て、11世紀にヨーロッパのキリスト教世界は、ローマを中心としてラテン語を教会の公用語とするラテン・カトリック文化圏と、コンスタンティノープルを中心としてギリシア語を教会の公用語とするギリシア・ビザンツ文化圏に決定的に分かれた。このラテン・カトリック文化圏は広義の西ヨーロッバを指すが11世紀以降、さまざまな要因によって拡大した。14世紀にいったん拡大は停止したが15世紀にはさらなる拡大を志向することとなった。
 以上のことを踏まえ、11世紀から13世紀にかけてラテン・カトリック文化圏が拡大し、14世紀に停止し、15世紀に再拡大を志向していく過程をそれぞれの原因及び、拡大や停止がラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会船・文化的変
化を生じさせたかに留意して記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の5つの語旬をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい(再征服運動(レコンキスタ))は、再征服運動またはレコンキスタのいずれかを使えばよい)。また下の史料•A〜Cを読んで例えば「○○は××だった(史料·A)。」や、「史料Bに記されているように、○○が××した。」などといった形で史料記号を挙げて、論述内容の事例としてそれぞれ必ず一度は用いなさい。

  教会大分裂 再征服運動(レコンキスタ)
  シチリア島 中世都市

史科A
 パリの司教座教会の……すべての参事会員は……教会の森林240アルパンを、以下の条件で永久に譲与した。すなわち,今年の洗礼者ヨハネの誕生の祝日[6月24日]から3年の間にそれらを開墾し,耕地にしなくてはならず、また当人やそ相続人は、……参事会に1アルバンあたりパリ貨で2ドゥニエを支払わなければならない。

史料B
 当時イタリアのガレー船が、死を避け商品をイタリアにもち帰ろうとして、大海[黒海]やシリアやロマニア[ビザンツ帝国領]を発った……ガレー船がピサ、ついでジェノヴァに戻ると、この死病は乗員との接触を通じてこれらの地に広まった……して1348年にはイタリア全土が冒された。

史料C
 ペトラルカが古代をいわば身をもって代表していた……ボッカッチョについも,事情はまったく似ている。この人は……ラテン語で書かれた神話や地理や伝記の文集だけで有名になっていた。

解答例──下線なし)
11世紀以降、気候の温暖化と三圃制などの技術革新から穀物生産が増え、人口も増えた。このため各地で開墾運動が起こり(史料A)、エルベ川以東では東方植民が進んだ。またイスラーム勢力に対する戦いが活発化し,イベリア半島では再征服運動が進み、南イタリアではノルマン人がシチリア島を奪い、東地中海沿岸では十字軍運動が展開された。このため遠隔地商業と貨幣経済が発展し、バルト海交易でハンザ同盟が、東方貿品で北イタリアの港市が、両地域を結ぶ交易でシャンパーニュ地方が栄えた。商工業で成長した中世都市は特許状を得て自治を確立し、都市に大学がつくられスコラ学が発展した。シチリア島のパレルモやイベリア半島のトレドでは,ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳されて古典文化が流入した。14世紀に入ると天候不順による凶作や飢饉が多発し、東方貿易から伝来した黒死病が流行して人口が減少した(史料B)。農村では領主の束縛がゆるみ自営農民が生まれる一方、農民の一部が都市に流入し社会不安が増大した。十字軍の失敗から権威が動揺した教皇は中央集権的な教会統治を図ったが、教会大分裂が起こり権威を低下させた。北イタリアの都市では古典古代を模範とする人文主義からルネサンスが始まり(史料c)、15世紀にはメディチ家の保護下で栄えた。また再征服を終えたボルトガルが大西洋経由でアフリカヘ進出し、スペインは西回りのインド航路開拓を目指した。(600字) 

 課題を分解してみます。(  )内は時間です。
  (11世紀から13世紀にかけて)ラテン・カトリック文化圏が拡大し、(14世紀に)停止し、(15世紀に)再拡大を志向していく過程を、それぞれの原因及び、拡大や停止がラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会的・文化的変化を生じさせたかに留意して記述しなさい。
……問いの前半は「拡大→停止→拡大[過程]」を、後半は「原因」と「ラテン・カトリック文化圏にどのような経済的・社会的・文化的変化を生じさせたか」です。この問いの変なところは「(1)拡大→(2)停止→(3)拡大」の3段階のどれも①原因と②経済的・③社会的・④文化的変化を書くのか、という点です。まともに採れば、12個の課題があることになります。「それぞれの」とあるので、そうなのでしょう。
 本当に、そうなのでしょうか?
 「模範」答案で検討してみます。
(1)拡大
(原因→)11世紀以降、気候の温暖化と三圃制などの技術革新から穀物生産が増え、人口も増えた。
(経済的な変化→)このため各地で開墾運動が起こり(史料A)、エルベ川以東では東方植民が進んだ。
(社会的な変化→)またイスラーム勢力に対する戦いが活発化し,イベリア半島では再征服運動が進み、南イタリアではノルマン人がシチリア島を奪い、東地中海沿岸では十字軍運動が展開された。(←これは「社会的」というより政治的な影響)
(経済的な変化→)このため遠隔地商業と貨幣経済が発展し、バルト海交易でハンザ同盟が、東方貿品で北イタリアの港市が、両地域を結ぶ交易でシャンパーニュ地方が栄えた。商工業で成長した中世都市は特許状を得て自治を確立し、
(文化的な変化→)都市に大学がつくられスコラ学が発展した。シチリア島のパレルモやイベリア半島のトレドでは,ギリシア語やアラビア語の文献がラテン語に翻訳されて古典文化が流入した。
(2)停止
(停止原因→)14世紀に入ると天候不順による凶作や飢饉が多発し、
(社会的変化→)東方貿易から伝来した黒死病が流行して人口が減少した。
(経済的変化→)農村では領主の束縛がゆるみ自営農民が生まれる一方、農民の一部が都市に流入し社会不安が増大した。
(社会的な変化より政治的だが→)十字軍の失敗から権威が動揺した教皇は中央集権的な教会統治を図ったが、教会大分裂が起こり権威を低下させた。
(文化的変化→)北イタリアの都市では古典古代を模範とする人文主義からルネサンスが始まり、15世紀にはメディチ家の保護下で栄えた。
(3)拡大
(原因→)また再征服を終えたボルトガルが大西洋経由でアフリカヘ進出し、スペインは西回りのインド航路開拓を目指した。
 この(3)拡大の部分では、「経済的・社会的・文化的変化」は書いてない。その余裕もない。

 「変化」という語句を使っているが、ここで問うている内容は変化より、「影響」がふさわしい。変化は以前の状態が、ある事件・大きな出来事のために、以後ちがった状態に変わり様相が一変するはずですが、そのような内容が書かれていない。
 たとえば、前半(1)の文化的な変化にあたる「大学がつくられ……スコラ学が発展……トレドでは……に翻訳されて古典文化が流入」とあるが、以前の10世紀まではどういう状況であったかの言及がなく、「変化」は表されていない。大学・スコラ学・古典文化流入がどういう「変化」を表しているのか分からない。大学のない10世紀までの学問機関は何か、スコラ学の前は何か、流入のない時期の古典の位置は?

 この問題の類題として一橋の過去問(1982,2018)では「中世中期のヨーロッパにおいても著者のいう空間像の変化・空間革命に対応する現象があった。それはどのようなきっかけによるものであったか。またその空間革命の内容をそれ以前の空間意識と対比しながら経済、政治、文化の諸側面について説明せよ」と。この革命と呼ぶくらいの変化の「きっかけ(原因)」は十字軍・東方植民・レコンキスタです。本問の解答者は、変化の原因を経済(温暖化、三圃制拡大、人口増加)だけにしていて、経済的原因からすべての変化が起きたかのように書いていますが、無理な原因論です。封建制の安定、軍事行動を唱導するローマ教皇の台頭、巡礼熱、11世紀までにノルマン人が開いた通商路などが必要です。


模試B
第1問
 ニジェール川は、アフリカ西部を流れる大河である。古来、その流域では多くの国家が興亡し、トンブクトゥなどの交易都市が栄えたように、西アフリカの歴史的な歩みと深く結びついてきた。そのうち、ニジェール川下流域を擁するナイジェリアは、人口と経済において現在のアフリカ最大規模の国家であり、北部の内陸地域ではイスラーム教、南部の沿岸地域ではキリスト教が主に信仰されている。こうした地域性の相違を一因として、1960年の独立後にはナイジェリア南東部の分離独立運動をめぐる内戦を経験し、近年は北部でイスラーム過激派組織の活動に悩まされるなど苦難の途をたどってきた。
 このようなナイジェリアの宗教分布や対立構図には、西アフリカと他地域との内陸交易、I6世紀から19世紀にかけての奴隷をめぐる諸問題や、19世紀に始まるイギリスの沿岸地域からの進出が大きな影響を与えている。
 以上のことを踏まえ、11世紀から19世紀半ばにかけての西アフリカと他の地域との交易関係の変遷と、その交易が西アフリカ社会に与えた影響について、次ページのグラフも参照しつつ記述しなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記し、次の6つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を付しなさい。

 ガーナ王国  岩塩  産業革命
 ベニン王国  ポルトガル

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(解答例──下線なし)
西アフリカでは、ニジェール川流域の金とサハラ砂漠北方の岩塩との交易が行われ、地中海商業圏に金を供給していた。11世紀にマグリプ地方を中心に成立したイスラーム勢力のムラービト朝が、西アフリカに侵攻してサハラ交易で栄えたガーナ王国を衰亡させると、イスラーム教が内陸へ普及し、その後のマリ王国やソンガイ王国では支配層がムスリムとなるなどイスラーム化が進展した。一方、ポルトガルは、15世紀から大航海事業を開始して西アフリカ沿岸地域に至り、金や黒人奴隷を取り引きし、16世紀にブラジルでサトウキビ=プランテーションを経営し、西アフリカから黒人奴隷を持ち込んだ。その後、重商主義政策をとったイギリス・フランス両国もカリブ海や北米でプランテーションを経営し、火器や綿布を西アフリカヘ、黒人奴隷をカリブ海や北米へ、砂糖やタバコなどをヨーロッパヘ運ぶ大西洋三角貿易を行い、奴隷貿易は18世紀に全盛となった。そのため西アフリカ沿岸地域でベニン王国など奴隷狩りを行う黒人王国が台頭し、部族抗争の激化と人口流出による社会の荒廃を招いた。三角貿易の利潤は綿工業を中心としたイギリス産業革命の要因の一つとなり、台頭した産業資本家は、19世紀には自由貿易ヘの転換と奴隷貿易・奴隷制廃止を支持した。イギリスは、パーム油と綿布の貿易拠点の確保などを目的に、奴隷制反対を掲げて西アフリカ沿岸地域の支配を進め、この地域のキリスト教化を促した。
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▲産業革命とパーム油を関連付けることがポイントです。といってパーム油は三省堂の教科書(世界史B)以外には書いてないので異様な問題でした。というか無理な出題ですね。以下がその記事。

西部アフリカとパーム油貿易
 19世紀初頭、西部アフリカでは英仏によって奴隷貿易が禁止され、パーム油・ココアなどのヨーロッパ向けの農作物が注目を集めるようになった。なかでもパーム油は、機械油やせっけんの原料としてさかんに取り引きされた。このため、農民は競って油ヤシを栽培しパーム油を採取した。かつては奴隷貿易で名をはせたダホメでも、奴隷にかわってパーム油が最大の商品となった。
 パーム油の生産地をめぐる争いもはげしくなり、ヨーロッパの商人がこれにくわわると、ヨーロッパ列強は、自国商人を保護するために軍隊などを送りこんだ。これに対して、アフリカ人は抵抗をつづけたが、1874年、アシャンティ王国がイギリスの軍事力に屈服し、西部アフリカは列強間の分割競争にさらされることになった。