世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

ある模試

第1問
 次の文章は、12世紀頃の西ヨーロッパの社会・経済発展に関する講義録の一部である。この文章を読み、また史料を参照して問いに答えなさい;(問1、問2をあわせて400字以内)

 (特色ある経済発展が見られた地域の一つが)パリ盆地と、その東南にあります。シャンパーニュと呼ばれる地域であります。ここは、シャンパーニュ伯が、商人を呼び寄せる政策をとったということもあり、その他いろいろな理由で、ここが北と南との交易が落ち合うのに非常に適していて、しかも商取引を保護してくれるというので、そこの小都市で定期的な大市が開かれる場所になるわけです。もちろんパリ盆地もそれとの関連で、先進地域に組み入れられたことは、言うまでもありません。(増田四郎「ヨーロッパ中世の社会史」(岩波書店)より引用。但し、一部改変)

■史料 ノートルダム寺院の写真

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問1 史料は文章が取り扱っている時期にパリに建てられた教会の写真である。この教会の名前を答えなさい。

問2 12世紀から13世紀にかけての時期に、パリは「先進地域」に組み込まれ、中世ヨーロッパにおける国際都市の一つとなったが、そこに至る過程はどのようなものだったのだろうか。紀元前後から13世紀にかけてパリがたどった歴史を、この都市が果たした政治・経済・文化上の役割、および文章や史料から読み取れる内容と関連付けながら論じなさい。

解答文
1ノートルダム大聖堂
2古来パリはルテティアと呼ばれ、ケルト族などが居住していたが、カエサルのガリア遠征以降ローマ領となり、以後ローマ化が進んだ。メロヴィング朝では首都となりキリスト教化も進んだがカロリング朝ではアーヘンに王国の主な拠点が置かれたためその璽要性は相対的に低下した。カペー朝期には、フィリップ2世などの中央集権化策により首都パリは政治・社会の中心地となった。さらに、この時代には技術革新や開墾によりフランスの農業・商業が発展し、大市場が開かれるようになったパリは国際都市に成長した。その背景にはセーヌ川沿いという交通の利便性や、南北ヨーロッパ各地の商品が集まる大規模な定期市で栄えたシャンパーニュ地方との密接な交易関係があった。こうした経済成長を背景にノートルダム大聖堂が建てられた。その付属学校を起源とするパリ大学は神学研究の一大拠点とされ、パリは各国の知識人が交わる場となった。(398字)
▲ 一橋の本番の問題の傾向に合った奇問です。このパリ市史の問題で書けるのは、解答文から抜粋すると、

ルテティアと呼ばれ(ローマ時代にルテティアと呼んだことは教科書の地図には載っています)、ケルト族などが居住していたが、カエサルのガリア遠征以降ローマ領となり……メロヴィング朝……カペー朝……(史料から)セーヌ川沿いという交通の利便性や、南北ヨーロッパ各地の商品が集まる大規模な定期市で栄えたシャンパーニュ地方との密接な交易関係……(写真から)ノートルダム大聖堂が建てられた。その付属学校を起源とするパリ大学は神学研究

 という事くらいでしょうか。
 これに追加するとすれば、東南のシャンパーニュの他に、西北のフランドルの毛織物工業、西南のワインの産地(ボルドー)の交差点にあったこと。
 また「フィリップ2世……国際都市に成長」とあるが、地理的に「国際的」にならざるを得ない位置にあり、古代からそれは確認できることです(ウィキペディアの「パリの歴史」参照)。

第2問
 16世紀以降新大陸では商品作物の栽培が主要産業であった。しかし、18世紀後半に独立したアメリカ合衆国は19世紀を通して工業化に成功し、19世紀末には世界最大の工業国となった一方、19世紀前半に独立したラテンアメリカ諸国は、19世紀を通して経済的に列強に従属するようになった。こうした違いがなぜ現れたのか、経済発展の違いに着目しつつ、史料を参考にして説明しなさい。(400字以内)

■史料 カリプ海におけるサトウキビ収穫の様子

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解答文
アメリカ合衆国は独立後、アメリカ=イギリス戦争によって工業製品の輸入が途絶えたため、北部で工業化が進行した。19世紀中頃北部は工業製品の保護のために保護貿易を掲げる一方、南部はイギリスヘの綿花輸出が主要産業であるために自由貿易を掲げて対立した。北部が南北戦争で勝利した結果アメリカ合衆国では北部を中心とした工業化・都市化が進んだ。また、解放された黒人や、アジア・東欧・南欧からの移民も経済発展を支えな一方、ラテンアメリカ諸国の独立の担い手となったのは大農園を営むクリオーリョで、海外市場進出を狙うイギリス外相カニングの支持の下、独立が達成された。独立後は地主が政治を独占し、自由貿易政策を採用した。このため、独立後もプランテーション経営が存続し、工業化が進まなかった。この結果コーヒーなど単ー作物に依存するモノカルチャー経済が進行しラテンアメリカ諸国のイギリスへの経済的従属が強まっていった。

▲ 課題は「アメリカ合衆国は19世紀を通して工業化に成功し、19世紀末には世界最大の工業国となった一方、19世紀前半に独立したラテンアメリカ諸国は、19世紀を通して経済的に列強に従属するようになった。こうした違いがなぜ現れたのか、経済発展の違いに着目しつつ、史料を参考にして説明しなさい」でした。
 比較の問題です。
 解答文では、①(原因)米国は米英戦争から工業化、②(発展)保護貿易政策、南北戦争で工業化した北部が勝利、移民の支え、とし、ラテンアメリカ諸国は①担手はクリオーリョ、②自由貿易政策、工業化すすまずモノカルチャー経済、という内容。
 ①の比較が変です。米国は戦争が原因で、ラテンアメリカは担手に帰しています。違うものを比較しています。米国独立の担手もクリオーリョと同様に地主(大プランター)たちです。
 またラテンアメリカと違って、米国は西部(フロンティア)に領土・市場・金鉱(ゴールドラッシュ)を拡大・獲得しています。こういう違いは書いてありません。
 米国は労働者も移民としてどんどん増えていき、西部に鉄道も拡大していきます。労働力はラテンアメリカではどうであったのか、書いてありません。一方で書いて、他方で書かないと、比較が成り立ちません。

第3問
  次の文章を読んで、問いに答えなさい。
 A 李朝期には、300名以上の文科合格者をだした同族集団が5つも存在した。(中略)これら5つの集団だけで、全文科合格者の15%を占めてしまう勘定になる。さらに100名以上の合格者をだした同族集団に枠をひろげると、38の集団がこれに該当する。その文科合格者の合計は7502名で、全体の半数をうわまわってしまう。李朝時代に同族集団がいくつ存在したのか不明であるが現在の3000あまりという数字を基準にすると、1%強の同族集団が、全文科合格者の半数以上を輩出したわけだ。
(岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代」(中央公論社)より引用。但し、一部改変)

 B 宣祖*は士林派*の名誉を回復させた。ところが勲旧派*と士林派との対立抗争とは別次元の、士林派内部の朋党争いがはじまった。東人と西人との分裂と対立がそれである。(中略)両派の朋党争いが、いかに不毛なものであったかの事例として、例えば、1590年に、朝鮮通信使が、日本側の要請によって、豊臣秀吉の天下統一を祝賀するために訪日した。通信使の正使黄允吉は西人派であり、副使金誠ーは東人派であった。秀吉の謁見をうけて「探情」した結果黄允吉はかれを、侵略の野望をいだいている油断ならない人物と報告した。ところが金誠ーは、その見解は不当に人心を惑わすもので、それほどの人物でないと反論した。中央政府の柳成竜は金誠ーとは同門で、もちろんその意見を支持した。
(姜在彦「朝鮮儒教の二千年J(講談社)より引用。但し、一部改変)
*宜祖朝鮮王朝の第14代国王(在位1567~1608)。
*士林派 性理学を中心とした学問を究め、地方を基盤とした儒者の一派。
*勲旧派守旧派として士林派に批判された儒者集団。

 C(朝鮮儒教における)性理学論争は、哲学的次元のそれにとどまらず、門人たちがその師説を固守して師伝門承し、学縁と地縁とが絡み合って学派と党派とが結合するに至った。その結果、学説上の相違が党派間の対立の原因となり、あるいは反対派を攻撃する党論として利用された。
(姜在彦『朝鮮儒教の二千年』(講談社)より引用。但し、一部改変)

問い 明と朝鮮における儒教の新たな展開と、それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ論じたうえで、こうした政治・社会のもと、16世紀後半から17世紀前半にかけて両国はどのような困難を迎えたのかを、両国の対外関係と関連付けて述べなさい。(400字以内)

解答文
明と朝鮮は朱子学を官学とした。明では『四書大全』『五経大全』の編纂により経典解釈が固定化され、科挙官僚となり政界に進出した士大夫は郷紳として都市での文化形成を担った。また陽明学も庶民を中心に支持を集めた。後期の明は北虜南倭の状況下で軍事費が増大し財政難に陥ったため、張居正が一条鞭法の拡大など中央集権的な改革を行ったが、宦官の専横や東林派・非東林派の対立によって統治は揺らぎ、清が台頭する中で李自成の乱により滅亡した。明への朝貢国として華夷秩序に組み込まれた朝鮮でも高麗に続き科挙が行われたが合格者は有力家門に集中しており、両班を特権階級として固定化する効果を持った。朱子学の理論を重視する士林派は政権掌握後も学派争いと結び付いた党争を統け、農臣秀吉の侵略に際しても党争が情勢判断の誤りにつながった。李舜臣らの活躍と明の援軍により朝鮮は侵略を撃退したが国土は荒廃し、後に清の侵攻を受けて服属した。(399字)

 課題は「(1)明と朝鮮における儒教の新たな展開と、(2)それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ論じたうえで、こうした政治・社会のもと、(3)16世紀後半から17世紀前半にかけて両国はどのような困難を迎えたのかを、両国の対外関係と関連付けて」でした。
▲ (1)これは儒教の「新たな」展開とあるので、思想・宗教たる儒教がどのような新しい潮流が生まれたのか書くことです、が……。解答文の「経典解釈が固定化」が「新たな」展開というのか? まさか「都市での文化形成」が思想の発展? 
 中国の「陽明学も庶民を中心に支持を集めた」は支持層が庶民に増えたということであって思想の「新たな」展開ではないですね。とすると思想の新たな発展はどこにも書いてない。
 陽明学の完成と考証学の勃興(顧炎武・黄宗羲)、そして実学なら「展開」といえるのに、そうは書いてない。朝鮮も実学としては柳馨遠(1622〜73)から始まりが見られます。
 「(2)それが政治・社会にもたらした影響を学派名にふれつつ」と次の課題が指示されているが、(1)を書いてないのに、なぜこれが可能なのか? 史料からはどうもこれを書かせたいという出題の意図が見られるが、中国の東林派・非東林派の対立は教科書で書けるもののも史料にあげられた朝鮮の勲旧派と士林派の対立を書いた教科書は皆無でしょう。そして、これが思想の展開とどう関係しているのか、解答文を読んでもさっぱり分からない。
 陽明学が庶民に支持されたことを苦々しくおもいつつも、庶民の動向はどうでもよく、顧憲成が東林書院において
、むしろ宮廷を専横する宦官にこそ批判の矢を向けたのでした。解答文でも関連づけはされていないが、すると「発展」その後の政治・社会にどんな影響を与えているのか、とんと分からない。
 それは1700年前後の両国の「困難」と関連しているのか、陽明学と李自成の反乱はどう関連しているのか? 清朝の台頭とどう関係しているのか……。関連のないものを無理やり関連づけようとしているとしか思えない。