世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2022年度再現答案

東大
第1問(下線なし)
8世紀。東トルキスタンは唐の支配下にあり、保護されたイラン系ソグド人が西方の宗教や様々な文物を東方にもたらした。西トルキスタンにはアッバース朝が進出し、タラス河畔の戦いで唐を破り、中国からイスラームに製紙法が伝播。トルキスタンに移住したウイグルは、安史の乱で唐の内乱の鎮圧に貢献。9・10世紀。キルギスの侵入で、ウイグルは四散。西ではイラン系のサーマーン朝が自立したが、トルコ系イスラーム王朝のカラハン朝が倒し、東西を併せてイスラーム化を促進。東に成立した西ウイグル王国では仏教文化が繁栄し、ソグド文字をもとにしたウイグル文字も誕生。12世紀には、宋と結んだ金に敗れた遼の一族がカラハン朝を滅ぼし、西遼を建国して東西を支配。13世紀にホラズム朝は、モンゴルに征服されて滅亡し、東西はチャガタイ=ハン国が支配。14・15世紀。西ではティムール朝イル=ハン国を支配し、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利。イランなどを支配してトルコ=イスラーム文化が発展した。16世紀にティムール帝国ウズベク人に滅ぼされ、ティムールの一族バーブルが、北インドムガル帝国を建国。17・18世紀。モンゴル系のジュンガル部が東で勢力を拡大したが、清の乾隆帝に滅ぼされ、この地は清の藩部となり新疆と称された。19世紀にロシアは、イリ条約で新疆での通商活動を清朝に認めさせ、またブハラ・ヒヴァ両ハン国を保護国とした。

第2問
⑴⒜前18世紀。「目には目を、歯には歯を」の同害復讐法の原則に基づき、身分ごと異なる刑罰が与えられ、宗教による差別はない。
⒝イブン=ハルドゥーン。
🄒アメリカの支援の下、パフレヴィー2世は土地改革や女性参政権の実施など西欧化を進める白色革命を行い、貧富差を拡大させた。
⑵⒜イングランド王のジョン王は、財政難の克服や戦費の調達のために重税を課したために、貴族や国民の反抗を招いた。そのため大貴族や高位聖職者らは、徴税権や財産没収などの王の権限を制限すべく大憲章を作成し、議会での承認を義務付けた。
⒝諸外国の侵攻に対処すべくイタリアの統一の重要性を説き、中央集権化とそれを実行するための啓蒙専制君主の必要性を主張した。
⑶⒜康有為・梁啓超
⒝西洋技術を導入し政治改革は行わない洋務運動は、日清戦争での敗北で方針の転換を迫られたので、日本の明治維新を模範とし、光緒帝らを中心に議会政治を基礎とする立憲君主政の樹立を目指す変法運動を行ったが、西太后ら保守派の反対で失敗した。

第3問
アクスム王国。⑵マムルーク王国。⑶アチェ。⑷ラス=カサス。⑸フィヒテ。⑹イギリス・フランス。⑺大陸横断鉄道。⑻ヒンデンブルク。⑼スカルノ。⑽インティファーダ

一橋大学

ローマ時代以来の司教座都市は、十字軍以降に遠隔地貿易が発展し貨幣経済が浸透すると、力をつけた商人たちが司教を追放し、自治都市となることを求めた。イタリアにコムーネが登場し、神聖ローマ帝国では皇帝が特許状を与えて帝国都市が生まれた。都市の空気は自由にすると言われ、諸侯から政治的に自立した都市が成立していた。一方文化面では、十字軍で東方貿易が発展し、イスラームビザンツから文物が流入した。トレドやパレルモアラビア語からラテン語に翻訳されて、失われていた古代ギリシア・ローマ古典が流入した。宮廷や修道院での神学に限られていた学問がアリストテレス哲学・医学・スコラ学を交えた。ボローニャ大学は、法学で名をはせた。都市の繁栄の中、学問が教会の付属学校から大学という自治組織へと移り、振興された結果、学生保護の勅法発布に影響した。

折からの農業不況とウォール街の株価暴落から世界恐慌が発生し、銀行の倒産や失業者の増大を招いた。F=ローズベルト大統領は、状況打開のため3Rを掲げてニューディール政策を行った。ソ連が五カ年計画で恐慌の影響を逃れ、統制経済が評価されたことや、ケインズ有効需要拡大に基づく理論を完成させたことも背景にある。社会保障法やワグナー法で労働者・組合を保護し、全国産業復興法や農業調整法で産業再興を図り、テネシー川の流域開発公社で失業者を受け入れた。産業の自由放任主義と国政を徴税・軍事に限る夜警国家から転換した政策は、大規模な公共事業と社会保障に基づく大きな政府観の確立に影響した。一方で、財政支出の拡大と市場介入の拡大を意味する修正資本主義は後に双子の赤字を招いたり、自由競争に基づく市場原理の有効性を説く新自由主義の台頭を招くに至り、批判されるようになった。

1朴正煕の開発独裁がその暗殺で終わり、民主化運動が起きた。これを弾圧した光州事件を主導した軍人の全斗煥が大統領に就任した。2壬申・丁酉の倭乱。日本統一後の豊臣秀吉が明遠征を図り朝鮮通行を求めたが拒否され、各大名に朝鮮出兵を命じた。日本軍の侵略は義兵の抵抗を呼び、李舜臣の率いる亀甲船の朝鮮水軍に破れ、明は朝鮮に援軍した。日本は秀吉の死後撤退し、朝鮮から陶治や技術者を連れ帰り、朝鮮は荒廃した。明は、続く遠征で財政が圧迫され、物価が高騰して銀が流入し、一条鞭法の普及に繋がった。3壬午軍乱を親清の閔氏政権が耐えると、親日開化派の金玉均らが日本の支援で甲申政変を起こしたが、清の袁世凱が鎮圧し、日本の朝鮮への影響力が弱まった。日清は天津条約で朝鮮派兵時の事前通告を約した。甲午農民戦争で朝鮮が清に派兵を要請すると、通告に基づき日本も派兵し、到着時には乱は鎮まっていたが両軍が対じし、日清戦争が始まった。

東京外大
第1問・問9
パリ講和会議で、ウィルソンの十四カ条の下、民族自決が唱えられ平和と安全が達成させる可能性があった。また、不戦条約やケロッグ・ブリアン協定が結ばれるなどの平和的な動きもあった。しかし、国際連盟規約で戦争の違法化が表明されたものの、経済制裁のみで武力制裁がなく、強制力が弱かった。加えて、国際連盟には米・露という大国が不参加であり、総会では全会一致の原則が採用されたため、諸問題への対応が遅れた。植民地の戦争協力に対し、列強は自治などを約束していたが、バルフォア宣言サイクス・ピコ協定など矛盾する協定を結んだため、民族対立を悪化させた。インドにも同様の対応をしたことで反感を買った。戦時中に出された二十一カ条の要求はワシントン会議で事実上失効し、ドイツ領南洋諸島は日本の委任統治領となるなど、民族自決の原則は名目的だった。敗戦国への莫大な賠償金は対立感情を生み後のファシズムを用意した。

京大
第1問
15世紀初め明の鄭和の遠征によって明に朝貢し、中国、ムスリム商人との中継貿易として栄えた。マラッカ王国は当初ヒンドゥー教国家であったがムスリム商人、スーフィーの影響でイスラム教が広まった。16世紀になると大航海時代が始まりポルトガルに占領され植民地化した。ここでは陶磁器や香辛料を扱う中国貿易が中国、ヨーロッパの間で行われ銀が流入し繁栄した。キリスト教世界のヨーロッパ貿易拠点を奪われる形になったイスラム教徒は、これに対抗してスマトラ島マタラム王国を建国し周辺地域のイスラム化を促進した。

第3問
アテネではペルシア戦争で市民が三段櫂船のこぎ手として活躍したためペリクレスが民主政を確立した。ここでは成年男性全員が参加する民会で直接選挙によって決議された。ローマ初期、アテネと異なり有力貴族からなる元老院が政治を行った。平民の立場を守る護民官ができ平民会もできたがこれは選ばれた青年男性のみが参加した。ホルテンシウス法で元老院が握ったコンスル元老院・平民会から1人になり、リキニウス=セクスティウス法で平民会の決議がそのまま通るようになり平民会は力をつけた。アテネと異なり間接選挙である。前264年からのポエニ戦争に市民は重装歩兵として参加したが、それは閥族派と平民派の争いにつながった。