世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2019模試(一橋)雑感

A模試
第1問
 次の文章は、8世紀後半にローマの聖職者によって偽造されたと推定されている文書の一部である。この文書を読んで、問いに答えなさい。

 朕は……イタリアまたは帝国の酉側のすべての州と地方と都市を……いと祝福された教皇、我々の父で世界の教皇であるシルヴェステル(1世)に譲与し、そしてそれらを彼及び彼の後継者たちの教皇位の権力と支配に遺贈し、……それが聖なるローマの教会の権利の下に永遠にとどまることを承認する。
……そして属州ビザンツの最高の場所に朕の名において都市が建骰され、そこに朕の帝権が打ち立てられることが適切だと判断した。それは天上の皇帝によって聖職者の首位とキリスト教の頭が設置された所で、地上の皇帝が権力を掌握することは正しくないからである。
(「コンスタンティヌス帝の寄進状」宮松浩憲、久留米大学産業経済研究48巻1号より引用。)

問い この文書は15世紀の人文主義者が偽書であることを証明するまでローマ=カトリック教会で真正文書として扱われ、ローマ教皇レオ3世がフランク王カールを西ローマ皇帝に戴冠する根拠となったと推定されている。また、10世紀後半に確立した神聖ローマ皇帝権に対し、教皇権が対抗していく際にも主要な根拠として使用された。10世紀後半の神聖ローマ皇帝権の確立過程と、10世紀後半から11世紀における教皇権の神聖ローマ皇帝権への対抗を、文書の内容を踏まえ、神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域への展開を視野に入れて説明しなさい。(400字以内)

答案例
ドイツ王オットー1世は、マジャール人の侵入を撃退し. イタリアに遠征して教皇から空位だった皇帝に戴冠された。以降ドイツ王が皇帝となる慣行が生じ、神聖ローマ帝国が成立した。オットー1世は聖職者の叙任権を確保して教会を王権の統制下に置き統治に活用する帝国教会政策をとり、東部に辺境伯領を設置して東方への伝道を図った。以後の皇帝もその政策を継承し、ベーメンが帝国に編入された。一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した。11世紀後半に教皇グレゴリウス7世は、クリュニー修道院の粛正運動に乗じて聖職売買や聖職者の妻帯を禁止し、皇帝による叙任も聖職売買として否定した。皇帝ハインリヒ4世の反発で叙任権闘争が始まると皇帝を破門し、カノッサ事件で屈服させた。この過程で、西ローマ皇帝権がコンスタンティヌス帝により教皇に譲与されたとする寄進状は、教皇権優位の根拠とされた。

▲解答の異常なところは「一方教皇は、皇帝からの独立維持を図るポーランド王・ハンガリー王に加冠して提携した」という部分。これは教科書・参考書には見られない記事です。資料から必然的に出てくる史実でもない。これが一橋の過去問から一橋向きに必須の知識であるというなら頷けるが、過去問にこうした類題は見られない。問いの中にある東欧に関することがらは「神聖ローマ皇帝権の帝国の東方地域」であって教皇がどうしたかではない。解説にはこの教皇の加冠という行為について一切言及していないのはなぜでしょうか?
 もうひとつ疑問になるのは、「11世紀」とあるのに十字軍を提唱したウルバヌス2世のことが何も書いてないことです。一橋の過去問(2002)に叙任権闘争とこの教皇との関わりについて、「十字軍が提唱されたのも、聖地の解放を目指すとともに、ローマ教皇がキリスト教世界の指導者であることを示すためだった」と説いてから、叙任権闘争について書かせています。半田元夫・今野國雄『キリスト教史ⅰ・宗教改革以前』(山川出版社、p.384)に「クレルモン教会会議は第一回十字軍を宣布したことで有名であるが、それに先立ってこの会議は聖職売買の禁止(第六条)、姦淫聖職者の罷免(第九条)、俗人叙任の禁止 (第一五、一六条)、聖職者の国王ないし世俗領主への忠誠宣誓の禁止(第一七条)など二八カ条にわたる決議を採択し、教会改革に新たな段階を画した」とあります。

(わたしの解答例)
オットー1世はスラヴ人を討ち、マジャール人の脅威を取除いた。また世俗の大諸侯の力を削ぐために帝国教会政策を実施し、王領地を聖職者に寄進して諸侯と同等の権利を与え聖職者を味方につけた。それは叙任権を皇帝が掌握して、教会への統制を強めるためであった。かれは教皇ヨハネス12世から神聖ローマ帝国の帝冠をいただいた。一方、クリュニー修道院は「地上の皇帝が権力を掌握すること」に反対しており、聖職者が叙任権を掌握することで、聖権と俗権を分離する運動をはじめた。当時は私有教会制があり、世俗の諸侯が自領地内の教会・修道院にたいして叙任権を行使していたが、これに挑戦した。その意向を受けた教皇グレゴリウス7世が皇帝の叙任権を否定すると、皇帝ハインリヒ4世はカノッサの屈辱を受けたが、後で教皇を追いつめた。しかしクリュニー修道院出身のウルバヌス2世はクレルモン公会議において世俗権力にたいする忠誠禁止を聖職者に説いた。


第2問 次の文拿を続んで、問いに答えなさい。

戦争教書
合衆国上院及び下院へ。イギリスとの関係においてこれまで受けてきた一連の出来事を示す確かな文書を私は議会に伝達します。イギリスが今、従事している戦争は、1803年の対ナポレオン戦争再開を越えるものではなく、あまり重要ではありませんが正されていない過ちを省こうとするものですが、イギリス政府は、独立国であり中立国である合衆国に対して一連の敵対行為を働いています。イギリス艦船は、国際法上、敵国に対して認められる交戦国の権利を行使するという名目ではなく、自国の臣民に対する国内の特権を行使するという名目の下、公海上でアメリカ船に対して侵害行為を続けていて、その下で航海する人員を拘束のうえ連行しています。
……またイギリス艦船は、我々の海岸における安全と権利に対する侵害を行ってきました。彼らは遊弋(よく)して我々の通商を妨害しています。最も悔辱的な口実で、彼らは我々の港湾に対して無法な行動を取り、我々の神聖な領域内で妄りにアメリカ人の血を瀧しました。
(「ジェームズ・マディソン伝記事典」より引用。但し、一部改変)

問い この教書を機に始まった戦争名を明記し、その背景および開戦までの経緯を、アメリカ合衆国成立の時期から述べなさい。また、この戦争が1820年代の合衆国の社会・経済およぴ対外政策に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)

答案例
米英戦争。アメリカ合衆国建国後、ワシントン大統領は国内の党派対立緩和を優先してフランス革命に対し中立を維持し、ジェファソン大統領もナポレオン戦争に対し中立を続けた。この間合衆国はヨーロッパとの貿易で利益を上げたが、イギリス・フランスは互いの通商を妨害しようと図り、アメリカ東海岸やカリブ海でアメリカ商船を攻撃した。ナポレオンが大陸封鎖令を出すと、これに対抗してイギリスが海上封鎖を強化し、港湾の侵略や先住民への支援を行ったため、アメリカ・イギリス間の関係が悪化して米英戦争が勃発した。戦争中はヨーロッパ諸国からの輸入が事実上途絶えたため、北部では綿工業から機械化が進展し、合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した。またアメリカ・ナショナリズムが高揚し、州を超えた国内の一体化が進んだ。戦争後モンロー大統領は新旧両大陸間の相互不干渉を唱えるモンロー教書を発表し、合衆国の孤立主義の方針が確立した。

▲ 「党派対立緩和」というかんたんな文では、「アメリカ合衆国成立の時期から」という問いの答えとしては、あまりに軽い扱いです。史料にある「敵対行為」「通商を妨害」というイギリスの行為にたいして、強くあたることのできる政府、つまりは中央集権国家をつくるかどうかは、連邦派・反連邦派で対立があり、わずかな差で連邦派の意見が勝ち、合衆国憲法も成立したはずでした。
 また「綿工業から機械化が進展」が「合衆国はイギリスからの経済的自立を実現した」というのは誇張です。わずかな工場が建てられただけなのに「自立実現」は無理があります。合衆国は第一次世界大戦まで、高関税政策をとり、資金は英国に頼って経済繁栄してきた国であり、自立はできていません。用語集の「アメリカ産業革命」は「1830年代、木綿工業・金属機械工業を中心に産業革命が本格化し、60年代南北戦争によって国内市場が統ーされ、一応、産業革命が完成した」と説明しています。2014年版の用語集では「1830年代から北部の工業化が本格化」と。

(わたしの解答例)
米英戦争。独立革命のさい、通商面でイギリスに負けないように経済統制のできる中央政府をつくる連邦派が反連邦派に勝って合衆国憲法ができた。ところがナポレオン戦争中にイギリスが海上封鎖を行って合衆国の通商を妨害したために、この戦争が勃発した。戦争の終結で講和し、互いの戦争中の領土は返したが、戦争中にイギリス商品の流入がとだえ、合衆国の綿工業の発展が促進された。独立革命時は母国にたいする躊躇が見られたが、この戦争のときはそれがなくなり、対等な国として戦争をたたかう国民主義がおきた。しかし戦争中から始まったラテンアメリカ諸国の独立運動に介入しようとするウィーン体制があり、これをモンロー宣言で拒否した。この宣言は合衆国が欧州に介入しない代わり、西欧がアメリカ大陸に介入するのを拒否する孤立主義で、合衆国の経済を守ろうとするものであった。保護関税政策でイギリスに対抗し、産業革命が本格化する準備をととのえた。


第3問 1885年に書かれた次の文章を続んで、問いに答えなさい。(問1、問2をあわせて400字以内)

 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、ーを支那と云ひ、ーを朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国民に異ならずと雖ども、其人種の由来を殊にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟(か)、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、ーより十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文とて明東漸の風潮に際し、辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず。
(歴史学研究会編「日本史史料4J より引用。)

問1 この文章は前年に朝鮮半島で起こったあるクーデタで、朝鮮の近代化を目指したグループが敗れたことを背景に書かれたものである。このグループの指導者は誰か。
問2 この文章の筆者がこのような主張を展開したのは東アジアにおける歴史的伝統性の維持を模索する中国や朝鮮の為政者の態度が、「固陋」なものにみえたためであろう。1870年代から1895年にかけて中国を中心とした東アジアの歴史的伝統性、即ち国際秩序がどのように推移したかについて説明しなさい。その際下記の語句を必ず使用し、その語句に下線を引くこと。
 
  日清修好条規 琉球 閔氏

答案例
1 金玉均。2 1870年代の清は、欧米諸国とは対等外交を認めて洋務運動による近代化を進めたが、アジア諸国に対する冊封体制は維持しようとした。朝鮮は大院君政権のもと清との冊封関係を維持し、鎖国政策をとった。日本は明治新政府が近代化を進める一方、清・朝鮮に対して対等外交を求め、清とは日清修好条規を結んでこれを実現した。しかし日清両属であった琉球の帰属は解決せず、日本は台湾出兵を経て琉球を沖縄県として編入した。また朝鮮では大院君を排除した閔氏政権に対して江華島事件を起こして日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させ、清から独立させようとした。このため日清間で朝鮮を巡る対立が起こり、壬午軍乱・甲申政変では清による朝鮮への宗主権が維持された。その後甲午農民戦争を機に日清戦争が起こり、敗れた清は日本と下関条約を結び、朝鮮の独立と台湾の割譲を認めた。これにより冊封体制に基づく東アジアの国際秩序は崩壊した。

▲ まちがいはないですが、(日清間で朝鮮を巡る対立が)起こり、(日清戦争が)起こり、と自然発火したかのように「起こり」を繰りかえしている文章が気になります。
 2007年の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……この結果、日本は大陸侵略の足場を朝鮮にきずくこととなり、極東で南下をめざすロシアとの対立を深めていった。

と書いていましたが、2018年発行の『詳説世界史』は、

戦いに敗れた清は、翌95年の下関条約で……はじめての植民地経営に乗り出した。また、「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて大陸侵略の足場を築こうとし、極東で南下をめざすロシアと対立を深めていった。

 前者の教科書になかった「「朝鮮の独立」という名目とは裏腹に、日清戦争後の日本は朝鮮への支配を強めて」という語句が加わっています。つまり「対等外交を求め」は名目、つまり嘘で、大陸(中国)進出の足がかりとして朝鮮を植民地化することを初めから狙っていた、ということを明らかにしています。歴史学の進歩がここに反映されています。自然発火したのでなく、能動的に日本が侵略したということです。解答文もそれを反映してほしいものです。せめて教科書に近づいてほしい。
 しかし教科書とて、歴史学の進歩をささやかに示しているだけで、まだまだです。この程度のことは、すでにインドのネルーが1930年代に娘に語っていたことでした。以下。

 中日戦争(日清戦争)……中国にたいして、日本を西洋列強と同等の地位におく条約〔下関条約〕の締結を強要した。朝鮮の独立は宣言されたが、これは日本の支配をごまかすヴェールにすぎなかった。(ネルー『父が子に語る世界歴史 4』みすず書房、p.170)

 事実はこうでした。
 参謀本部第二局長の小川又治・陸軍大佐は、二度にわたる清国視察のうえにたち「清国征討対策案」(1887)を書いていました。ここには5年後の戦争開始、作戦、講和内容に奪うべき地名(遼東半島・澎湖島・台湾・揚子江沿岸・杭州湾の舟山群島など)も記していました。参謀本部次長の川上孫六は「このさい支那(中国)を片づけてしまわなくてはならぬ」と言っていました。侵犯行為の計画です。
 明治政府が日清戦争開戦のさいに 「清国及朝鮮国 」の「両国」 を相手にした戦争を考えていました。甲午農民戦争を鎮圧できず、李氏朝鮮が清国に軍隙の派兵を要請したのに対抗して、日本も陸海軍約8000名の兵士を派遣します。表向きは「公使館および居留民保護」でしたが、朝鮮政府は日本兵の撤退を要求してきました。ここで朝鮮と清朝が組むことが予想できます。
 大島公使が考え、日本政府に提案した「開戦の口実」案は、朝鮮王宮を軍事占領し、朝鮮国王を「わが手中におき、軍事的威圧を加えて国王に「我が国の要求に応従」させ、国王から朝鮮に駐留している清国兵を「朝鮮国外に駆逐すること」をわが国に「要請」させる、というものでした。朝鮮政府はこれを拒絶します。ここで朝鮮に対する戦争危機がせまります。この段階では宜戦の対手国は清国と韓国でした。
 当時の参謀本部による「日清戦史草案」では、王宮占領→国王逃亡防止→国王を手込めにする、でした。これを実行して高宗を捕虜同然にしたのですが、戦後に参謀本部が出版した『日清戦史』は、日朝両国軍の衝突は「韓兵より突然射撃を受け」たことによる偶然のできごととする捏造が記されました。
 清軍を追撃して戦争はおわるはずでしたが、計画案では渤海・黄海の制海権、河北省(当時は直隷、北京市・天津市を含む)もとる予定でした。中国のっとり作戦です。じっさい南満州・遼東半島に進軍しました。もともと戦争を朝鮮半島に限定するつもりはありません。まして「朝鮮独立」のためでないことは計画どおりでした。

(わたしの解答例)
1 金玉均。2朝鮮は清国に服属し、琉球は清日に両属していた。日本は中国に服属せず、日清修好条規を結んで対等外交をはじめ、軍事的に琉球を鹿児島県に編入した。漁民殺害を機に台湾に出兵し華夷秩序の解体を試みた。翌年、雲揚号が徴発して江華島を占領し、不平等な日朝修好条規を結ばせた。閔氏がにぎる朝鮮政府を壬午軍乱が倒し大院君が政権を奪回しようとした事件は清朝の介入でついえた。その結果、清朝と朝鮮の関係が密となったが、親日の開化派と親清の事大党という官僚の対立も生まれた。前者が日本の武力をかりたクーデタは失敗した。李朝政府に甲午農民戦争が挑戦すると、政府は清軍に援軍を依頼、日本軍はこれを機に朝鮮宮廷を襲い、高宗を捕らえ日清戦争を起した。つづく農民戦争は弾圧した。下関条約で朝鮮の「独立」を認めさせ、台湾は台湾民主国独立を宣したが日本軍が鎮圧した。さらに親露になった閔妃を日本の外交官が主導して焼殺した。

 なお引用文の福沢諭吉という扇動家が、甲申事変の黒幕として失敗したことを棚に上げて、「改進の辺を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々するの情は百干年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ」という中韓を蔑視した文章は、当時の日本人の傲慢さをよく表していています。日本自体もこの文章内容と同じであったのに、西欧化という点で時間的に遅れた国々を「辿(とて)も其独立を維持するの道ある可らず」との極論は、視野の狭さを示しています。同時に大陸進出という強欲を隠しています。出題者も「「固陋」なものにみえたためであろう」と福沢の主張に賛同しているような書き方をしています。いかがなものか。

 

B模試
第1問・第2問
 史料がたくさん載っている問題ですが、3問どれも特に読まなくては解けない問題ではなく、なぜこれほどの史料が必要であったのか疑問がのこります。一橋の過去問にもこれほどの史料を読ませた問題はないですね。史料を出した場合は、もっと設問と密接な関連をもっていましたが、どれも密接度は薄い。次の第3問もそうでした。

第3問 次の史科を読んで、問いに答えなさい。
史料1〕アメリカの駐清公使による朝鮮問題についての考察(1906年刊)
 朝鮮半島をはさんで、中国と日本は向き合っている。もし、朝鮮が独立国家であれば、日本は朝鮮が望む以上にその内政に干渉し、清はそれに対して腹を立てる権利もなかったであろう。しかし、もし朝鮮が清の属国であれば朝鮮は日本との関係について清にお伺いを立てねばならなくなる。他方、日本は、アメリカが日本の開国に果たしたのと同じ役割を朝鮮に対して担えるという漠然とした考えをもっていたようだ。われわれの日本における成功は驚くべきことであり、またアメリカは日本のために偉大で、強い政府を作った。ある東方の国家が他の東方の国家に対して、アメリカが日本にしたのと同じ役割を果たすという考えが、感情的に日本を魅了しているようである。この問題全体の根本は、要するに朝鮮が清の朝貢国であるか否か、ということである。
 (歴史学研究会編「世界史史料9』より引用)

史料2〕日本の外交官小村寿太郎による極東情勢についての考察(1900年)
 英国は南阿戦役(※注:ブール戦争)で、政府も人民も植民地防御問題に余程(よほど)頭を悩ましたようです。ところが今度の北京事変(※注:義和団事件)で、一層その度を増し来た。英国は実際今度東洋で僅々(きんきん)一万の兵も纏(まと)めることも独力では出来なかった。金ばかりあってもイザというときには、あの通り何の役にも立ちません。どうしても東洋問題は、日本を差し置いては何事も出来ぬと、英国は明らかに今度覚って来たでしょう。これからです。いよいよ日本が世界の舞台に出て仕事の出来るのは。日本の兵隊は初めて文明国の兵隊と肩をならべて戦い、勇気のあること、規律の正しいこと、決して欧米の兵隊に劣らぬことを証明した。諸外国は初めて日本の恐るべきことを悟ったでしょう。……(中略)……何時でも日本が戦争するときは、一度に敵を打ち破って置いて、後は外交の力でやるようにしなければ駄目です。(外務省編『小村外交史』上より引用。但し、一部改変)

史料3〕日本の外務省調書「アジア局関係問題を中心として見たる太平洋会議方針」(1921年7月)
 要乃国際管理(※注:列強による中国の国際共同管理案)はあるいは支那および列国に対し諸提案者の高唱するが如き福利を招来するやも計られず。然れども国際管理は哲学上の議論にあらず。……今回の華府(※注:ワシントン)会議においては北京政府を相手として交渉するの外なきも、現在の中央政府は甚だ無力なること……支那の現状とさきに「パプリック・レジャー(※注:フィラデルフィアで発行されていた新聞の名称)」の発表案に対する支那の世論とに顧み、支那の一般的国際管理案の実行は不可能なるは勿論なり。……従って目下実行しうるべき案は(イ)支那を本位として支那人の自尊心を偽つけざる方式においてすること。(口)地方督軍等の利益に急激なる変化及ぼさず、彼らより激烈なる反対を招かざる程度のものとなること。(ハ)外国援助による改善の道程を除々たらしむること。(二)従ってこれを小仕掛にし、なるべく目立たぬ方法によることを要す。
(酒井一臣「近代日本外交とアジア太平洋秩序Jより引用。但し、一部改変)
 上の文章は、19世紀後半から1920年代初めにかけての、日本の外交に関する史料である。〔史料l〕は19世紀後半の朝鮮半島情勢について、〔史料2〕は義和団事件期の極東をめぐる国際情勢について、〔史料3〕では第一次世界大戦後のアジア・太平洋に関する会議に向けての日本の外務省の方針が記されている。

問い 史料を参考に、19世紀後半から1920年代初めまでの時期において、欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し、また、日本の東アジア進出に対し列強がどのように対応したのかについて述べなさい。その際、次の語句を必ず用い、その語句に下線を引きなさい。国名はわかる範囲で漢字の略記を使用して構わない。(400字以内)

 樺太・千島交換条約 日英同盟 日米修好通商条約

解答例(下線なし)
アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返遠、米英が日本の勢力拡大を抑えた。

▲ 分解コメント
1 アロー戦争で清を破った英仏は北京条約で自由貿易や対等外交を強要、同時期露も沿海州まで進出した。
……課題で「欧米列強の東アジア進出に対し日本がどのように対抗し……列強がどのように対応」というものであるにかかわらず、これは日本とは直接関係のないことがらを書いています。次文の前提として書いたのでしょうが、次文には、この列強の進出がどう日本に響いたのか関連付けた文がありません。日本への圧力になったということを言いたいのであれば、「列強はアロー戦争で自由貿易や対等外交を強要、露も沿海州まで迫った」として、その上で次文ではこれに対抗する日本の体制変革につなげたら良かった。

2 米との交渉で開国した日本は、日米修好通商条約などの不平等条約で自由貿易に組み込まれ、国内不満から明治維新に至った。
……「米との交渉」はアロー戦争のように日本も植民地化の危機を迎えていると「交渉=脅迫」されており、開国と不平等条約は国内分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した、と文1との関連づけをすべきでした。

3 日本は清と対等な国交を結ぴ、露との樺太・千島交換条約などで国境を定めた。
……「清と対等な国交」は解説文にあるように日清修好条規(1871)のことですが、じっさいにはそれを破って台湾出兵(1874)をおこない、ロシアとは樺太千島交換条約(1875)で国境の画定、というより大国同士の領土拡大をしました。幕末から征韓論のわきたつ日本は、国内の抗争を外に向けるべく対外進出の機会をねらっていきます。台湾出兵が欠けています。

4 江華島事件で開国させた朝鮮に進出すると宗主国の清と対立、日清戦争に勝利して遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。
……ここは日本側の侵略と列強の対応が表されています。ただ「開国」は西欧に見習った不平等条約のおしつけであり、「朝鮮の自主独立」は言葉だけの虚偽的なものでした。また台湾をとり、日清修好条規に書いてある「両国は互いの「邦土」への「侵越」を控える」をもう破ってしまいました。「干渉」を受けたのも仕方ないことでした。三国の公使が外務省を訪れ、「日本が遼東半島を領有するのは、直ちに清国の首都北京を脅かすものであるばかりか、朝鮮の独立を有名無実にするものであるから、永く東洋平和を害することになるので、よろしくこれを放棄せられたい」と言ってきました。

5 清の弱体化から列強が中国を分割すると、米は門戸開放宣言で牽制した。
……この中国分割になにも日本が関わっていないようなものになっていますが、日本は福建省不割譲条約を結んでいます(1898)。これも欠けています。

6 義和団事件後、露の満州占領を警戒して日英同盟が成立、日本は英の支援で日露戦争に勝利し韓国併合を進めた。
……ここは問題なくできてますが、義和団事件については、8ヶ国出兵の中では主力であったこと(〔史料2〕で力を示したことが日英同盟につながります)、北京議定書で駐兵権を獲得していることを追記してもいいはずです。〔史料2〕にある「規律の正しい」は真っ赤なウソです。略奪・放火・殺戮・強姦は他国と同様にやっていました。これは書かなくていいことですが。
 露から南満州鉄道をとりあげています。また桂・タフト協定(1905)で韓国にたいする優越権を合衆国に認めさせています。

7 第一次世界大戦で独に宣戦した日本は青島を占領、中国に二十ーか条要求を承認させた。
……ここは日本の侵略のすがただけで特に問題はありません。

8 戦後のワシントン会議では四か国条約で日英同盟を解消し、九か国条約に基づく日中間の条約で日本が山東権益を中国に返還、米英が日本の勢力拡大を抑えた。
……ここも問題なくできています。

(わたしの解答例 ──下線なし)
列強はアロー戦争で自由貿易を強要、露も沿海州まで迫った。脅威に感じた日本は、米国による開国と日米修好通商条約で国内に分裂をきたし、薩長による明治維新に帰結した。対抗して清と日清修好条規を結び、台湾出兵を行ない、露と樺太・千島交換条約を結んだ。幕末からの征韓論を実行し朝鮮を開国した。ここに鉄道・通信施設を建設して中国をねらった。東学農民戦争を利用して日清戦争をおこし、遼東半島・台湾などを得たが、露仏独の三国干渉を受けた。列強による中国分割に日本も相乗り福建省を勢力圏とした。義和団事件で日本は最大の軍を派遣し、議定書により莫大な賠償金と駐兵権を獲得した。英国はこの軍事力を利用しようと日英同盟を結んだ。この同盟を基盤に日本は日露戦争を戦い、桂・タフト協定で米国に韓国に対する優越権を認めさせた。第一次大戦中に青島を占領し、袁政府に二十一カ条要求をつきつけたが、戦後の九ヶ国条約で抑制された。