世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

京大世界史2023

(4問題100点)
第1問(20点)
 中央ユーラシアの草原地帯では古来多くの遊牧国家が興亡し、周辺に大きな影響を及ぼしてきた。5世紀から12世紀におけるモンゴリア(今日の中華人民共和国内モンゴル自治区およびモンゴル国)の歴史について、遊牧国家の興亡を中心に300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 島嶼(しょ)部東南アジアの複数の国では、マレー語やそれをもとにした言語が国語や公用語のひとつとして使われている。これは、前近代の東南アジア海域で、文化的な共通性を持った「マレー世界」が形成されていたためである。マレー世界が現在のような国家の領域に分かれていったのはヨーロッパによる植民地支配と現地住民による独立運動の結果である。
 17世紀の東南アジア海域の交易活動ではオランダが優位を占めていた。17世紀末になると、オランダはジャワ島内陸部の領土獲得に乗り出した。内乱に介入することで(1)ジャワ島の中・東部を支配していた王国を支配下に置いていった。19世紀前半にはジャワやスマトラで戦争が起こり費用がかさむとともに、(2)ベルギーの独立によってオランダの財政状況が悪化した。財政の立て直しを図るため、オランダは植民地に(3)新たな経済制度を導入した。スマトラ島北部ではアチェ王国が独立を保っていたが、1873年にオランダはこれに侵攻し、長期にわたる攻防戦の末に制圧した。オランダ領東インドの領域が最終的に確定したのは、1910年代のことである。
  他方、(4)インド支配の基盤を確立したイギリスは、18世紀後半になるとマレー半島に進出を始めた。1824年にオランダとの間で条約を結び、ほぼマラッカ海峡を境界とする支配権の分割が取り決められた。その結果、マラッカがオランダ領からイギリス領に移った。現在のマレーシアとインドネシアの国境は、この条約に原形を求めることができる。イギリスは1826年に、マラッ力とシンガポール・[ a ]をあわせて海峡植民地を形成した。1895年にはマレー半島の4つの王国との間で協定が結ばれ、[ b ]が成立した。これと海峡植民地、イギリスが支配下に置いた他の諸国をあわせて英領マラヤという。また、ボルネオ島カリマンタン島)の南部はオランダが支配したが、北部はイギリスの保護領となった。
  イギリスとオランダは植民地統治を進める中で、(5)官吏や企業の職員を育成するために現地住民の間にヨーロッパ式の教育を普及させた。しかし、これは、植民地からの独立を求める民族主義を高揚させる結果をももたらした。インドネシアでは、ブディ=ウトモやイスラーム同盟といった民族主義団体が設立された。1920年代後半、インドネシア共産党による武装蜂起が鎮圧された後に(6)スカルノ独立運動の中心人物として登場した。他方の英領マラヤは、オランダ領東インドと比べても行政区分や民族構成が複雑であった。それでも現地住民の間で民族意識の形成が徐々に進んだ。様々な形の民族主義運動が展開される中で、インドネシアとマラヤの統一を目指す考えもあらわれた。しかし、いずれの植民地でも民族主義運動は独立という目的を達成できないまま、1941年に太平洋戦争が勃発し、(7)日本軍の侵攻という事態を迎えることになった。
  戦後、東南アジア諸国は次々と独立へと向かっていった。オランダ領東インドは、1945年にインドネシア共和国として独立を宣言し、これを認めないオランダとの独立戦争を経て(8)1949年に独立を達成したマレー半島では1957年に[ c ]が独立し、シンガポールや英領ボルネオとともに1963年にマレーシアとなった。この過程で、マラヤとインドネシアなどからなる国家連合の構想も示されたが、実現はしなかった。1965年に(9)シンガポールがマレーシアから分離・独立し、マレーシア結成に参加しなかったブルネイ1984年にイギリスから独立した。
  かつてのマレー世界の一部であるこれらの国々は、現在では、(10)東南アジア諸国連合(ASEAN)という地域協力機構に参加している。東南アジア諸国連合はこの地域の自立性を高めることに貢献し、1999年のカンボジアの参加をもって10か国からなるASEAN10を実現させた。2015年には、政治・安全保障共同体、経済共同体、社会・文化共同体からなるASEAN共同体が発足した。


(1) この王国は1580年ごろに建国された。この王国の名称を記せ。
(2) ベルギー独立は1830年にフランスで起こった政変が要因となった。この政変の名称を記せ。
(3) この経済制度は、オランダが植民地の住民に世界市場向けの特産物を栽培させ、低い価格で買い上げるというものである。この制度の名称を記せ。
(4) 1757年の戦いでイギリスはフランスとベンガル太守の連合軍を破り、インドにおける優位を確立した。この戦いの名称を記せ。
(5) 20世紀初頭からオランダは植民地の住民の福祉向上などを骨子とする政策をとり、教育が普及した。この政策は何と呼ばれるか。
(6) 1927年にスカルノが結成した政党の名称を記せ。
(7) 中国や東南アジアの支配を正当化するため、日本は欧米列強による植民地支配からの解放をスローガンとしてうたった。このスローガンを記せ。
(8) 初代大統領のスカルノは1965年の九・三〇事件を機に失脚する。その後、1968年にインドネシア共和国の第2代大統領に就任した人物の名前を記せ。
(9) (ア)シンガポールが分離・独立した理由として住民構成の違いがあげられる。簡潔に説明せよ。
(イ)分離・独立後のシンガポールは韓国、香港、台湾、メキシコなどとともに輸出産業を軸に目覚ましい発展を遂げた。これらの国や地域は何と呼ばれたか。
(10) (ア)東南アジア諸国連合は、インドネシア、マレーシア、シンガポールに加え2つの国によって1967年に結成された。この2つの国名を記せ。
(イ)東南アジア諸国の中で、東ティモールは現在まで東南アジア諸国連合に加盟していない。東ティモールを1975年まで植民地支配していたヨーロッパの国名を記せ。

 中国とアメリカの本格的な関係は19世紀に始まる。イギリスがアヘン戦争の結果、清に5都市を開港させ、領事裁判権や協定関税制度、片務的最恵国待遇などの権利を得ると、アメリカも1844年に清と[ d ]条約を結び、イギリスと同様の権利を得た。
  清では18世紀の急激な人口増加により、南部の広東省福建省から東南アジアに出稼ぎに行く労働者が増加した。1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、アメリカにも多くの移民が渡った。(11)第二次アヘン戦争(アロー戦争)後に結ばれた北京条約で、清からの海外渡航が合法化された。
  日清戦争に清が敗れると、ヨーロッパ列強は清から港湾などを租借して極東の根拠地とするとともに、周囲の鉄道敷設権や鉱山開発権を取得した。一方、アメリカ・スペイン戦争(米西戦争)でフィリピンを獲得したアメリカは、(12)清については門戸開放・機会均等を唱えた
  アメリカで中国人移民を排斥する動きが広まると、清ではアメリカ製品ボイコットなどの反対運動が起きた。しかし、清国内に持つ利権が相対的に少ないアメリカに対し、清の世論は全体としては好意的だった。広東省出身で、ハワイや香港で英米式の教育を受けた(13)孫文は、共和制国家の樹立を目指して清に対する革命運動を展開した。(14)1912年には共和制の中華民国が成立し、清の皇帝が退位した
  アメリカは義和団戦争の賠償金を中国における教育事業に用いることとし、北京にアメリカ留学のための予備校である清華学校を設立した。(15)胡適に代表されるアメリカ留学生たちは、中華民国の政治、経済、文化などさまざまな分野で活躍した。
  第一次世界大戦中にアメリカ大統領[ e ]が提唱した十四か条は、非ヨーロッパ地域にも民族自決をもたらすものと受け取られたことから、中国でも支持を集めた。五・四運動の際には、北京の学生のデモ隊がアメリカ公使館に陳情書を提出して支持を訴えた。1921年から翌年にかけてアメリカで開かれた[ f ]会議では、中国の主権尊重と領土保全を約する条約も締結された。
  1920年代半ば、(16)中国国民党中国共産党員の個人資格での入党を認め、ソ連の支援の下に国民政府と国民革命軍を組織し、北伐を開始した。しかし、急進化した国民革命軍が外国人を襲撃し、報復として英米の砲艦が南京を砲撃する事件が起きると、(17)国民党の蔣介石はクーデターを起こして急進的な共産党員を弾圧・排除しソ連と断交して英米との関係改善を図った。蔣介石の国民革命軍が北京を占領すると、英米は国民政府を承認し、また中国の関税自主権を認めた。
  日中戦争が始まると、英米は国民政府を援助した。1941年に日本と英米が開戦すると、日中戦争第二次世界大戦の一部となり、中国も連合国の一員となった。中国における領事裁判権が撤廃され、1943年には蔣介石がローズヴェルトチャーチルとの[ g ]会談に出席して、日清戦争以降日本に奪われた領土の回復が認められた。戦後に中華民国は新設の国際連合安全保障理事会常任理事国となった。
  しかし、その後に再開された内戦で国民党は共産党に敗れ、台湾に逃れて中華民国を存続させた。このため中華民国と大陸で(18)共産党が樹立した中華人民共和国のどちらを中国を代表する政権と見なすかという問題が生じた。米ソ冷戦が本格化する中、アメリカは引き続き台湾の中華民国を支援したため、(19)ソ連が支援する中華人民共和国アメリカの関係は悪化した。さらに1950年に朝鮮戦争が起きると、アメリカを中心とする国連軍が韓国側、中華人民共和国が派遣した義勇軍北朝鮮側で参戦して、両者が実際に砲火を交えた。ベトナム戦争でも、ソ連中華人民共和国が支援する(20)北ベトナムアメリカの間で戦火が交わされた。
  しかし、イデオロギーや国境問題をめぐってソ連との関係が悪化すると、中華人民共和国アメリカとの関係改善に方針を転じた。1971年には国連で中華人民共和国の代表権が可決され、台湾の中華民国は国連を脱退した。翌年にアメリカ大統領が訪中し、後に米中間で条約が締結された。ただ、アメリカは台湾の中華民国と正式な国交は断絶したものの、実質的な関係はその後も維持し続けている。
  1989年に(21)天安門事件が起きると、アメリカをはじめとする西側諸国は中国を強く批判した。しかし、アメリカは中国の封じ込めではなく、市場経済化の推進によって民主化を促す方針をとった。その後、中国は急速な経済成長を遂げたが、共産党一党独裁体制に変化は起こらなかった。貿易や先端技術をめぐる摩擦も高まり、米中はふたたび対立を深めて今日に至っている。


(11) この頃、太平天国から上海を防衛するためにアメリカ人ウォードが組織し、西洋式武器を装備した、外国人と清国人からなる軍隊の名を答えよ。
(12) この時のアメリカの国務長官の名を答えよ。
(13) 孫文らが1905年に東京で組織した革命団体の名を答えよ。
(14) 清から革命の鎮圧を命じられたものの、革命側との交渉を経て、孫文から臨時大総統の位をゆずり受け、以後の中華民国の実権を握った人物の名を答えよ。
(15) 陳独秀が中心となって1915年に創刊し、胡適魯迅らが編集に加わった、新文化運動を代表する雑誌の名を答えよ。
(16) この時に中国国民党の改組が行われ、国民政府・国民革命軍が組織された都市の名を答えよ。
(17) 1927年4月12日に蔣介石がクーデターを起こし、共産党員の大規模な弾圧を開始した都市の名を答えよ。
(18) 中国共産党の指導者で、中華人民共和国の初代主席となった人物の名を答えよ。
(19) 中華人民共和国ソ連が1950年に締結し、1980年に失効した軍事同盟条約の名を答えよ。
(20) この国の1976年以前の正式国名を答えよ。
(21) ちょうどソ連指導者の訪中と重なり、各国の報道陣が北京に集まっていたため、この事件は広く世界に報道された。中ソ関係を回復させ、国内ではペレストロイカと呼ばれる改革政策を推進していたこのソ連指導者の名を答えよ。

第3問 (20点)
 イベリア半島にはキリスト教世界とイスラーム世界の境域としての長い歴史がある。イベリア半島におけるイスラーム勢力の支配領域をアンダルスと呼ぶ。アンダルスの成立から消滅に至るまでのこの半島における諸国家の興亡と、それに伴う宗教的状況の変化および文化の移転について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 地中海の島で三番目に面積の大きいキプロス島は、(1)エジプト、シリア、小アジアを結ぶ交通の要衝に位置し、古くからさまざまな民族が活動した痕跡が残されている。キプロス島からは、(2)アッシリア語、フェニキア語、エジプト語ギリシア語、ラテン語といった言語による刻文が、多数発見されている。ギリシア人は、(3)ペルシア帝国の影響を受けつつ島内の各地に都市国家の形成を進めたが、これらは民主政アテネとは大きく異なり王が統治する国家だった。(4)アレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシア帝国が滅び、大王の死後に後継者戦争がおこなわれた結果、キプロス島はエジプトを拠点とする[ a ]朝の支配下に置かれた。この後[ a ]朝の守備隊勤務のために各地のギリシア人が傭兵として移住してきたことで、バルカン半島南部・小アジア西部のギリシア都市の政治と文化に、キプロス島が本格的に結び付けられることになった。
  [ b ]の海戦でオクタウィアヌスが勝利を収めると、キプロス島は最終的にローマ帝国支配下に入り、(5)元老院議員が総督として統治する属州となった。(6)帝国内外での交易が盛んとなったローマ支配下で、キプロス島は広域の経済圏に組み込まれると同時に、島内の有力者は次第に(7)ローマ市民権を獲得していった。一方で、ヘレニズム期以降に明確に姿を現すようになったギリシア都市はローマ帝政期にも存続し、剣闘士競技や浴場などのローマやイタリア半島の文化を受容しつつも、ギリシア風の政治的、文化的生活が営まれた。こうしたギリシア都市は、初期の(8)キリスト教伝道の拠点ともなった。キプロス島キリスト教会の活動は、後期ローマ帝国・(9)ビザンツ帝国でも活発に継続したが、(10)イスラーム世界拡大の影響を逃れることはできなかった。島出土のある刻文は、7世紀半ばにアラブ人と考えられる集団がキプロス島を襲撃し、多数の捕虜を連れ去ったことを克明に伝えている。


(1) 前13世紀にカデシュでヒッタイト王と戦ったエジプト王の名前を記せ。
(2) アッシリア帝国の崩壊後に分立した4つの王国の1つで、はじめて貴金属製の打刻貨幣を作ったとされる王国の名前を記せ。
(3) この帝国の中央集権体制について簡潔に説明せよ。
(4) この遠征の東限となったとされる大河の名前を記せ。
(5) 「内乱の1世紀」に元老院の権威の尊重を主張した政治家の一群は何と呼ばれたか。
(6) ローマの貨幣は、東南アジアの扶南の遣跡からも発見されている。この遺跡の名前を記せ。
(7) 3世紀初頭におこなわれたローマ市民権拡大に関して、それを命じた皇帝の名をあげて、簡潔に説明せよ。
(8) 『新約聖書』の「使徒言行録」は、パウロらのキプロス島での伝道を伝える。回心前のパウロは、キリスト教徒を迫害するユダヤ教のある教派に属していた。サドカイ派エッセネ派とともに当時のユダヤ教の三大教派に数えられる、この教派の名前を記せ。
(9) 726年に聖像禁止令を発布したビザンツ皇帝はだれか。
(10) 8世紀初め、イスラーム勢力下のダマスクスで、キリスト教の教会を一部再利用して建設されたモスクの名前を記せ。

B 40年以上にわたって継続した東西冷戦には国際的な緊張が相対的に高まった時期とそれが緩和した時期が存在した。東西冷戦は、緊張の高揚期と緩和期が交互に入れ替わる形で進行したのである。
  第二次世界大戦後、東ヨーロッパや(11)中東ソ連が影響力を拡大する構えを見せたことを大きなきっかけとして始まったアメリカとソ連の対立は、1940年代末までにヨーロッパの東西分断に帰結した。朝鮮戦争で東西陣営が軍事的に衝突したことによって、最初の緊張高揚期は頂点を迎えた。しかしまもなく、ソ連が(12)その指導者の死去の後に東西陣営の平和共存を呼びかけたことがきっかけとなり、1950年代中葉に最初の緊張緩和期が訪れる。この時期には(13)第一次インドシナ戦争の解決などを話し合う国際会議と戦後初めての米・英・仏・ソ首脳会談が同じ都市で開催された。その後、(14)ベルリン危機や(15)キューバ危機に象徴される緊張高揚期を経て、1960年代前半に訪れた短い緊張緩和期には(16)部分的核実験禁止条約が締結された。
  冷戦が進行するにつれて、国際関係は多極化し、東西各陣営内部における米ソの相対的な地位は低下していった。東側陣営の内部では、中国がソ連の対外政策を批判するなどして独自の路線を歩み始めたほか、(17)東ヨーロッパ諸国ではソ連の事実上の支配から離脱しようとする動きが生じた。西側陣営の内部ではアメリカの政治的・経済的な地位が低下するのに伴い、アメリカは多くの分野で西側先進国の協力を必要とするようになったが、西ヨーロッパ諸国の中にはアメリカの方針に異を唱える動きも生じた。(18)アメリカは、みずからの政治的・経済的な責任を一方的に縮小する大胆な政策を採用することにより、西側陣営内における指導的地位を再建しようとした。
  このような国際関係の変化を背景として、1960年代末から1970年代には、広く「デタント」として記憶される緊張緩和期が訪れた。アメリカはソ連に圧力を加えることなどを目指して中国に接近し、(19)米中の首脳は両国間関係の正常化を目指す声明を発表した。米中の接近を警戒したソ連アメリカとの関係改善に動き、米ソ間の軍備管理交渉が進展した。東西陣営間の経済的交流が拡大し、東西ヨーロッパ間でも緊張緩和が進展した。(20)西ドイツは、ソ連や東欧諸国との関係改善を進め、東ドイツを国家として承認した。また、(21)全欧安全保障協力会議(CSCE)に参加した東西のヨーロッパ諸国と米ソなどは、主権・領土・国境の尊重、東西の経済・技術協力の推進、人権の尊重などをうたう文書に1975年に署名した
  1970年代末に米ソの緊張緩和は行き詰まり、「新冷戦」と呼ばれる新たな緊張高揚期が訪れたが、ヨーロッパ諸国が東西交流の縮小に消極的であったことや、まもなくソ連で改革が進行したことなどから、緊張の高揚は限定的かつ短期的であった。(22)1989年に米ソの首脳が冷戦の終結を宣言し、(23)東欧諸国の共産主義政党の一党支配体制を崩壊させた「東欧革命」を経てヨーロッパの東西分断が解消に向かったことで、東西冷戦は急速に終結した。


(11) 第二次世界大戦後にソ連が影響力を拡大しようとした中東のある国は、1951年にイギリス籍の石油会社の石油利権を国有化した。国有化を断行した首相の名を記せ。
(12) この指導者の下で導入された経済政策により、ソ連は、多大な犠牲を出しつつも、急速な重工業化と農業の集団化を推し進めた。1928年に導入されたこの経済政策の名称を記せ。
(13) この都市はどこか。
(14) ベルリン危機の焦点となった西ベルリンは、東ドイツ政府の支配を受けぬ陸の孤島として存続していた。このような状況が生じるに至った理由を簡潔に説明せよ。
(15) この島を含むカリブ海地域では、17世紀以降、ある商品作物の栽培への特化が進んだ。この商品作物は何か。
(16) この条約の内容を簡潔に説明せよ。
(17) ソ連は、ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキアヘの軍事介入を正当化するための対外政策の方針を示した。この対外政策の方針は何と呼ばれるか。
(18) アメリカが1971年に金とドルの交換を停止した背景を説明せよ。
(19) このときの米中交渉で重要な役割を担った中国の首相は、中国がインドと平和五原則に合意する際にも主導的な役割を果たした。この中国の首相の名を記せ。
(20) この政策を推進した首相の名を記せ。
(21) この文書の名を記せ。
(22) この米ソ首脳会談が行われた地名を記せ。
(23) 「東欧革命」では、多くの国で無血の体制転換が実現したが、転換過程が暴力化し、失脚した指導者が処刑された国もあった。この国はどこか。

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コメント

第1問
 課題は「5世紀から12世紀におけるモンゴリアの歴史について、遊牧国家の興亡を」でした。
 遊牧国家の歴史をたどるという易問でした。ただ教科書はこの「5世紀から12世紀」までを一連のまとまった記事としておらず、紀元前の匈奴から鮮卑までの興亡を書いて、中国の隋唐の歴史に入り、その後に「北方の諸勢力」として契丹からモンゴル帝国まで、つまり13〜14世紀まで物語るという構成になっています。この問題は、5世紀の柔然から始めて12世紀で切れており、モンゴル帝国が現れる前の、金朝の登場までとなります。
 これらの国家が世紀を間違わないでキッチリ綴ることができれば高得点が望めます。(  )の中は『世界史年代ワンフレーズnew』(中谷まちよ)の語呂です。

 5世紀 柔然(やわらで402)
    北魏華北統一(北魏、439
 6世紀 突厥突厥、突然 552)
 8世紀 ウイグルウイグル744)
 9世紀 ウイグル西走(ウイグル 840)
 10世紀 耶律阿保機契丹(アホは916)
     燕雲十六州割譲(雲十六州 936)
 11世紀 澶淵の盟(1000円に1004円の送・宋・料・遼)
 12世紀 完顔阿骨打の金(ワンヤン1115) 
 たんに「興亡」ということであれば、これで尽きていますが、導入文にある「周辺に大きな影響を及ぼしてきた」ことも書かないと、歴史の文章になりません。もちろんその内容は教科書に書いてある事柄でよく、難しくはありません。しかし根幹は上の年表の興亡史がしっかり書けないと、どうしようもないブレた流れになり易いです。
 年代ととともに、興亡史は捕まえてください。拙著『センター世界史B各駅停車』(わたしのこのブログでpdf販の購入ができます→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)では、北アジア史は3・3・3で捉えることを勧めています。つまり、民族系統不明の3民族(匈奴鮮卑柔然)、次3民族はトルコ系で突厥ウイグルキルギス、次3民族は漢人王朝も入れて、遼元・宋明・金清の興亡です。これは無料の「先史・中国史(1)」でも見ることができます。

第2問
A 容易な問題がほとんどなので、一部だけの解説。 
問(5) 20世紀初頭からオランダは植民地の住民の福祉向上などを骨子とする政策をとり、教育が普及した。この政策は何と呼ばれるか。……この答えは「倫理政策(Ethical Politics)」ですが、これは教科書に載っていません。強制栽培制度に対する批判が内外からあり、その批判をかわすために設けた政策で、問いの文章にあるとおり、「教育が普及」になるよう学校の設立をおこなったものです。併合した韓国で三・一独立運動(約6000人の殺戮)が起きたため、「文化政治」という名前で武断政治の転換を図った日本の姿勢とよく似ています。支配を徹底するための一種の懐柔策です。これが書けなくても1問だけです。無視しましょう。

第3問
 課題は「アンダルス(イスラーム勢力の支配領域)の成立から消滅に至るまでのこの半島における諸国家の興亡と、それに伴う宗教的状況の変化および文化の移転について」でした。
 これも容易な問題でした。第1問と同様に、これも興亡史でした。
 8世紀 西ゴート王国滅亡(強盗に襲われたセブン7イイ11レブン)
     トゥール=ポワティエ間の戦い(通る(10)7・3人2)
     後ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝 756で警備)
 11世紀 ムラービト朝(村人・1056)
 12世紀 ムワッヒド朝(むわっ酷、1130)
 15世紀 スペイン王国(スペイン国、1479)
     レコンキスタ完了(レンコン切った、01492る)

 アンダルス(ヴァンダル人の地の意味)では、レコンキスタというイスラーム教徒とキリスト教徒の戦いが展開します。まず半島北端にキリスト教徒がアストゥリアス王国(後のレオン王国)を建国したことから数えて始めます(718)。
 この後にトゥール=ポワティエ間の戦い(732)があっても、すぐ半島にイスラーム教徒が後退したのではなく、フランス南部での戦闘はつづきました(ナルボンヌの戦い 720〜737)。リヨン市まで戦いは伸びました。
 半島の東北にカール1世の半島侵入(778)とスペイン辺境伯領の設置(795)、バルセロナ占領(801)があり、ムスリムに圧力を強めていきます。
 キリスト教徒側はいくつかの王国が乱立しますが、北の東部から台頭したカスティリャ王国が成長します。カスティリャは城のことで、ムスリムと戦うためにたくさんの要塞を築いたことからきた名前です。この王国は西部のレオン王国も併合して南下に成功していき、トレド市を陥落させます(1085)。ここで半島の北部はキリスト教、南部はイスラーム教という棲み分けができます。インノケンティウス3世の呼びかけで諸国が連合してムワッヒド朝を敗りました(1212)。後は南下したムスリムナスル朝グラナダ王国が残ります。
 「宗教的状況の変化および文化の移転」はこの戦いの変転に伴って動いています。イスラーム教が入ってきて、レコンキスタキリスト教徒側が逆襲する、しかしイスラーム教徒の支配下イスラーム文明が花開く、という展開で、代表的にはコルドバで活躍したイブン=ルシュドがおり、アルハンブラ宮殿が残されました。逆襲したキリスト教徒側では、トレドの東方学院における「12世紀ルネサンス」という大翻訳時代が来ます。
第4問
問(2) 「打刻貨幣を作った」という表現は正しい。中国・朝鮮・日本は貨幣を「鋳造」しましたが、一個ずつ解かした金属にハンコのように上からたたいて刻印を付けるのが「打刻」貨幣です。教科書(東京書籍)では「リディアではじめて貨幣が鋳造され、ギリシア人もそれにならうことになった」と書いてありますが、「鋳造」はまちがいで、「打刻」です。わたしが持っているアレクサンドロスの銀貨の姿を見ればよく判るでしょう。



問(3) 「中央集権」のあり方は、サトラップという知事を派遣し、「王の目・王の耳」という監督官も巡回させたこと。ペルシア人を高官として、その下に現地の人間を下級官吏としてつかったことが挙げられます。
問(10) 「8世紀初め…ダマスクス」というウマイヤ=モスクの名前の建物も教科書に載っていません。無視しましょう。
問(14) エルベ川沿いにあるこのベルリン市に向かって東西からソ連軍と米軍が侵入してきて、英・仏・米・ソの4カ国で分割することを決めたことから特異な位置が成立します。ソ連が占領している東ドイツ側に全体の首都であるベルリン市がいちすることになり、「赤い海の孤島」と呼ばれました。
問(15) これは教科書(詳説)では三角貿易の説明文の中にある「アメリカ大陸や西インド諸島でサトウキビ・タバコ・綿花などの大農園(プランテーション)がさかんになる」という記事に該当します。
問(18) 米国のブレトン・ウッズで締結されたブレトン・ウッズ協定が前提です(ブレトン・ウッズ体制)。これは世界の金保有額の3分の2を米国が持っていて、この大量の金準備に裏打ちされて、金とドルの交換比率が決まりましたが、戦後の世界の警察たる米国が世界各地に駐留し、多くの戦争にかかわり、特にベトナム戦争での費用が膨大になり、金保有量が減っていき、この交換比率が保てなくなり体制は崩壊しました。英仏が貿易収支の赤字を金で要求してきたため交換停止を告げます。ニクソン大統領の発表だったのでニクソン・ショックといいました。変動相場制に移行します。
問(14) 東方外交をすすめたのは誰? という問いです。
問(21) 「指導者が処刑」とあればチャウシェスク大統領のルーマニア

解答例
第1問 (君の解答)
第2問
A a ペナン b マレー連合州 c マラヤ連邦
(1) マタラム王国 (2) 七月革命 (3) 強制栽培制度
(4) プラッシーの戦い (5) 「倫理政策」 
(6) インドネシア国民党 (7) 大東亜共栄圏 (8) スハルト
(9)(ア) マレーシアはマレー人が多く、シンガポールは中国系住民が多い。 (イ) 新興工業経済地域NIES
(10)(ア) フィリピン タイ (イ) ポルトガル
B d 望厦 e ウッドロー=ウィルソン
f ワシントン g カイロ
(11) 常勝軍 (12) ジョン=ヘイ (13) 中国同盟会
(14) 袁世凱 (15) 『新青年』 (16) 広州
(17) 上海 (18) 毛沢東 (19) 中ソ友好同盟相互援助条約
(20) ベトナム共和国(21) ゴルバチョフ
第3問 (君の解答)
第4問
A a プトレマイオス b アクティウム
(1) ラメス(ラムセス)2世 (2) リディア(リュディア)
(3) 全国を州に分けて知事サトラップを派遣し、監督官「王の目・王の耳」に巡回させた。
(4) インダス川 (5) 閥族派 (6) オケオ
(7) カラカラ帝が、ローマ帝国属州内の全自由民にローマ市民権を付与した。
(8) パリサイ派 (9) レオン3世 (10) ウマイヤ=モスク

(11) モサデグ (12) 第1次五カ年計画 (13) ジュネーヴ
(14) 戦争末期、東西からソ米軍が侵入して独軍を追放し英仏米ソの4カ国で分割・占領した。ソ連占領地区にあるベルリン市が首都でありながら東ベルリンと西ベルリンに分かれた。
(15) サトウキビ
(16) 大気圏内外および水中の核実験を禁止した。
(17)ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)
(18) 金・ドル交換のブレトン=ウッズ体制が、ベトナム戦争の負担、世界各地での基地負担が重くなり、交換停止に追い込まれた。
(19) 周恩来 (20) ブラント (21) ヘルシンキ宣言
(22) マルタ島 (23) ルーマニア