世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史2023

第1問
 ジャンヌ・ダルクの活躍によっても有名ないわゆる英仏百年戦争(1337〜1453年)を、イギリスとフランスという二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切ではないとすれば、その理由は何か答えなさい。また、この戦争が結果的にフランス王国にどのような変化をもたらしたかを、上述の理由と関連付けて説明しなさい。(400字以内)

第2問
 次の地図を見て、問いに答えなさい。

 問い 1963年アフリカ統一機構(OAU)が創設された。しかし、地図中のAとBがOAUに加盟したのは、それぞれ1975年と1980年であった。OAU加盟が10年以上後となった経緯について、AとBの内外の状況に言及しつつ、説明しなさい。その際AとBそれぞれの宗主国と独立後の国名を明記すること。(400字以内)

第3問
 次の文章を読み、問いに答えなさい。(400字以内)
 孫逸山博士とロシア駐華特命全権代表A·A・ヨッフェ氏は、以下の声明の公表を承認した。
(1) 孫逸山博士は共産主義的秩序、あるいはソビエト制度でさえも実際に中国に導入することはできないと考える。なぜなら、共産主義であれソピエト主義であれ、その確立に成功しうる条件が存在しないからである。この見解は、ヨッフェ氏も完全に共有するもので、さらに中国の最も重要かつ緊急の問題は、国家的統ーの実現と完全な国家的独立の達成だと、同氏は考える。そして、この偉大な任務をめぐって中国は、ロシア人民の衷心からの共感を得ており、ロシアの支援を期待することができると同氏は孫逸山博士に確約した。

(2) 情況を明らかにするため、孫逸山博士はヨッフェ氏に対して、ロシアの1920年9月27日付け中国政府宛通達(第2次カラハン宜言〕に定められた諸原則を、再確認するように求めた。そこでヨッフェ氏は、それらの諸原則を再確認するとともに、帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取を、ロシアが放棄することを基本原則として、ロシア政府は中国との交渉を開始する準備があり、またその意思を有する旨を、孫逸山博士は断言した。これには、中東鉄道(その慣例は上記通達の第7条で特に言及された課題である)に関する一連の条約や協定も含む。
   上海1923年1月26日
  (深町英夫編訳『孫文革命論集』より、一部改変)

問い 下線部のような情況に陥った歴史的経緯を説明した上で、この声明がなされた時期の両国関係の変化が中国に与えた影響を論じなさい。

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コメント
第1問
 課題は「英仏百年戦争……二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切ではないとすれば、その理由は何か答えなさい。また、この戦争が結果的にフランス王国にどのような変化をもたらしたかを、上述の理由と関連付けて」でした。課題は二つ(1)二国間戦争でない理由、(2)戦争による変化、でした。

(1) たんなる英仏間の二国間の戦争ではない理由を述べよ、ということです。ということはフランス内の問題とかかわっている、ということになります。
 理由1。イギリス王家は自領をフランスに持っている中世的な領主の典型でした。つまりフランスの貴族の一人でもある、ということです。過去にたどれば、ウィリアム1世かせ始まるノルマン朝というのもフランスのノルマンディー公国から来て征服したひとたちの王朝でした。さらにプランタジネット朝がその領地を受け継ぎましたが、この王朝の出身地がアンジューというロワール川の北部をさす地域から来ています。こうした形は、英国王がフランスの一部を領地として持っている、ということより、フランスの大貴族が英国という島をも所有している、という感覚だっとおもわれます。史家がプランタジネット朝アンジュー帝国とも呼ぶのは、フランスからの視点でしょう。フランス西部のほとんどとイングランドを両方とも持っている「帝国」のごとき存在でした。
 フランスのカペー朝6代目の国王ルイ7世が17歳のときに、15歳の南仏アキテーヌの大領主アリエノール(エレオノール)と結婚したことが「帝国」になった理由でした。
 理由2。英国王エドワード3世の母はカペー家出身であり、それでカペー家で継承者がいなければ、エドワード3世が継承してもいいのであり、フランスの王家の問題でもあった、ということです。もっともそれはフランスの貴族にとっても分かっていたことなので、3世と相談なしにヴァロア家に継承させることをフランス側で勝手に決めてしまいました。これは英国国王でありながらもフランス王の家臣でもあることから来ています。
 理由3。またアルマニャック公のようにフランス王家に味方する者(赤いスカーフをつけた)がおれば、イギリスに味方するブルゴーニュ公派貴族(緑の頭巾をかぶっていた)がいました。つまりフランス内の大貴族間の戦争でもあり、内戦の様相を呈しています。
 理由4。二国間戦争という政治的な対立だけでなく、経済戦争でもありました。当時西欧でもっとも栄えた毛織物工業地帯のフランドル(現在のベルギー北部)にはアントワープ・イープル・ブリュージュという工業都市があり、このフランドルにイギリスは原毛を輸出していました。イギリスは植民地のように原料供給地でした。またフランス西南部ギュエンヌ・ガスコーニュ地方は長くイギリス領であり、ここはボルドー市を代表として赤ワインの名産地であり、イギリスの軍艦が護衛してこのワインをイギリスに持ち去っていました。フランスにとってこの経済の二大繁栄地をなんとか奪い返したいという経済戦争を戦いました。

(2)戦争による変化
 ①英仏合体国家が否定されました。上の理由であったように、他国に自国の王族・貴族が領土をもつことが当たり前であった中世がここで終わりを迎えました。言いかえれば、フランス人だけのフランスになった、ということです。「国民国家(一民族一国歌)」という近世・近代の指標となる国家の登場です。
 ②フランス(ヴァロア朝)王家の領土が拡大した、とも言えます。長い戦争を通して没落する貴族も多く、それを吸収していったのがフランス王家の拡大になりました。一種の内戦でもあったので、江戸時代の日本と同様に、徳川幕府が完全に領土統一をなしとげていないように、フランス王家もルイ14世になって完成する統一にはほど遠いものの、「拡大」は始まった、と言えます。百年戦争が終わった時点で現在のフランスの5分の3くらいは持てました。どれくらいかは、ウィキペディアの英語版「Burgundian Wars」を献策すると(
https://en.wikipedia.org/wiki/Burgundian_Wars)、下のほうに「Burgundian territories 」という地図が出てきます。王領地の色を確かめてください。他の地域は16〜17世紀になって征服していきます。
 またこのブルゴーニュ戦争という項目でも推理できるように、まだ国内諸侯との内戦が百年戦争後もつづいています。イギリスでも薔薇戦争がおきています。
 ③集権化の進展も言えます。税制・常備軍・官僚制の整備がすすみます。『西洋中世史料集』(東京大学出版会)によれば、

個々の貴族の軍隊召集や武装の権利が否定されて、国王が軍事力を独占するようになったことである。国王が任命した隊長の指揮下に置かれる部隊の設置が定められたが、それは具体的には、 1445年に実現された.そこで創設された「王令部隊(シパニー・ドルドナンス)」は、15の騎兵部隊からなり、それぞれの部隊は、騎兵100騎、騎乗 弓兵200人、クティーユという剣をもつ従者100人、各種従卒200人から構成され、9,000人の全員が騎乗した。こうして官僚制と並んで、将来の絶対王政を支える柱となる国王常備軍が誕生した。さらに1439年の王令の第36条から第44条には、各貴族が所領に対する税以外の 保護税(夕イユ)、御用金(エード)や流通税を徴収することを禁止する規定も含まれている.これは、これらの税の徴収が武装権や軍事費調達と直結していたことを示している。(引用終了)

 絶対王政を準備した、とも言えます。
 ④ガリカニズム(国家教会主義)もできあがります。「ガリカ」はガリア(フランス人)のことで、教会・教皇の上に国家権力を置くことで、それまで普遍的な権威であった教皇の権威を国家権力の下に位置づけることです。すでにフィリップ4世のときにアナーニ事件(1303)でフランス王の権力は示され、さらに教皇庁アヴィニョン移転を強行して教皇支配下においた点でできあがっていましたが、シャルル7世は「ブールジュの詔勅(国事詔書、1438)」を出して教皇公会議の下におき、聖職者の叙任権が国王にあることを表明するものでした。これは教科書に載っていません。

第2問
 課題は「次の地図……AとBの内外の状況に言及しつつ、説明しなさい。その際AとBそれぞれの宗主国と独立後の国名を明記」でした。
 これは1960年「アフリカの年」より遅く独立した国に関する知識を問うた問題です。マダガスカル(島)の西に位置する二つの国Aモザンビーク南アフリカのすぐ北にあるBジンバブエのことを知っていますか、という問いです。地図を見て勉強してないと第1問と同様に苦労する、いや解けない問題ではないでしょうか? 

モザンビーク
 ある程度、まとめてアフリカ史のポイントを勉強していたら知っていたかもしれない国です。教科書では西欧独裁政権の崩壊とともに説明しています。拙著『センター世界史B各駅停車』(pdf化したもの→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)のアフリカ史では次のように説明しています。

ポルトガル領のモザンビーク(「東アフカ」とよんでいました)と南西アフリカとよんでいたアンゴラとその南の南アフリカ領のナミビアは、現地民族の 解放闘争と国際的な非難の結果、それぞれ独立を実現します(1975、1990)。 とくにアンゴラモザンビークポルトガル独裁政権が倒れるという本国の 変化が、独立の契機になっています。

 このようにポルトガルの植民地でしたから、今でもブラジルと同様に公用語ポルトガルごです。ブラジルの投資家がモザンビークの土地・鉱山を買いあさりました。
 「内外の状況」の「内」は解放闘争であり、社会主義モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が主となり、「外」は本国における「リスボンの春(カーネーション革命)」で1930年代来の独裁政権の崩壊があり、中ソの支援がありました。
 
ジンバブエ
 この国は教科書(詳説世界史)では、

アフリカでは、白人少数支配体制が消滅した。1965年、イギリスから一方的に独立したローデシアは、解放運動の武装闘争や国際世論の批判に直面して黒人多数支配をうけいれ、80年国名をジンバブエとする黒人主体の国家になった。

 前掲拙著では、次のように書いています。

ローデシアの北部が戦後の種々の紛争ののちに独立してザンビア(1964) となり、南ローデシアは長い独立闘争の結果、独立にこぎつけジンバブエという古い名前を復活しました(1980)。 

 「古い名前」とは、教科書では「アフリカのイスラーム化」の中に、「ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってモノモタパ王国などの国ぐにが活動し、その繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている」とあることを指しています。世界遺産となっている「グレート・ジンバブエ遺跡」という石造建築遺跡が現在のジンバブエのど真ん中にあり、ここはシバの女王イェルサレムのソロモン神殿を模倣したものらしい。
 このジンバブエ王国の支配下にあったショナ人が自立して、ジンバブエを吸収していき、モノモタパ王国が新たにできます。
 さらに19世紀、セシル=ローズが侵出し「ローデシア」とした地域ですが、第二次世界大戦後、南北に分かれ、先に北が独立し、後で南が独立した、という過程をたどります。 1960年から独立運動が展開し、20年の内戦の末やっと独立できました。

第3問
 課題は「下線部(帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取)のような情況に陥った歴史的経緯を説明した上で、この声明がなされた時期の両国関係の変化が中国に与えた影響を」でした。
 課題は二つ①「歴史的経緯」と②「この声明がなされた時期(1923年)の両国関係の変化が中国に与えた影響」でした。
 ①は「帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取」とあり、ネルチンスク条約(1689)から北京議定書(1901)までを考慮すればいいでしょう。1902年に露清間で満洲還付条約、またキャフタ条約といって1727年のものとはちがい、1915年の辛亥革命あとの中華民国とロシアが結んだモンゴルを中華民国宗主国とするという約束もありますが、これらも無視していいものです。
 とすると、1689年から1901年にかけての条約は、国境にかんすることは教科書に書いてあっても、「搾取」というマルクス主義的な経済用語が示すような内容の条約をいつ結んでいるのか? 植民地的な扱いを中国清朝にたいしてとった、ということですが、なんという条約か?
 問い自体は何もこの搾取内容を説明しろとは要求していないので、ネルチンスク条約から北京議定書までズラズラと表面的に書いても得点はあるとおもわれます。
 どうもアロー戦争後の天津条約・北京条約が関連しています。この戦争の条約としての天津条約といえば英仏とだけ結んだようにおもいますが、実はロシア・アメリカとも結んでいます。用語集にそう書いてあります。しかし①港場の増加、②外国人の内地旅行の許可、③外交使節の北京祁駐、④キリスト教布教の自由、とはあっても、不平等条約らしい領事裁判権・関税協定権・治外法権・租界などのことは書いてありません。しかし、これは教科書が省略していて、本当は上記の「不平等」な内容は書いてありました。これを、わたしは『国際法辞典』(鹿島出版会)で調べました。この辞典の「天津条約」には詳しく内容が記載されています。
 声明に登場する「ヨッフェ氏」という名前は知っていましたか? 用語集では「連ソ・容共・扶助工農」の説明文に出てきます。「1923年の孫文ヨッフェ会談で確認し、24年の国民党ー全大会で決定された方針。「ソ連との連携、共産党員の受け入れ、労働者農民の援助」を意味し、三民主義の新しい発展でもあった」と。
 「影響」にあたることとはこの二人の会談・声明の後に出てくる諸々の出来事が解答になります。つまり用語集にもあるように、「国民党ー全大会(国民党第一回全国大会)」で孫文の提案によるソ連と組み、共産党を受け入れ、戦いは一般大衆(労働者・農民)とともに、というスローガン、また「三民主義の新しい発展」は「新三民主義」ともいうもので、かつて1905年に東京で中国同盟会(中国革命同盟会)をつくったときの三民主義とはちがう、辛亥革命後の新たな三民主義が唱えられます。詳しくは拙著『世界史論述練習帳new』の付録「60字問題集」の「中国・政治」25問「孫文三民主義について1905年と1924年とのちがいを説明せよ」のところで解説しています。
 この新方針で第一次国共合作が成立し、国民革命(北伐)のための軍隊養成として黄埔軍官学校が創設されました。共産党員も入学できる兵学校(士官学校)です。蔣介石が校長になります。
 また在華紡(日系資本によって経営された紡績会社)に対する日華排斥運動(1923〜25)がおきます。その大きいものは五・三〇運動(1925)として知られていて、これは教科書にも載っています。