世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

23年度合格メール

23年度合格メール

Aくん
中谷先生の世界史教室を夏休みごろから利用し、40年分の過去問をこなすことができました。中谷先生の解答例や講評を自分の答案との乖離や、知識の補充に利用することでかなりの実力がついたと自負しています。
また、中谷先生の基本60字は第3問の対策に非常に役立ちましたし、中国史の年号は全て中谷先生の語呂で覚えました。
私の合格、特に世界史の点数は全て中谷先生の著作によると言っても過言でありません。
本当にありがとうございました。
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Bくん
筑波大学に合格しました。
入試で世界史を選択しないことになったため、途中で添削指導をキャンセルしたのですが、その際にご丁寧にメールをいただき感激しました。先生のキャリアから学ぶところが多くありました。
これからは筑波大で教育学や障害科学を中心に学びたいと思います。
これまで、論述構成力や世界史の知識など多くのことを教わりました。お世話になりました。ありがとうございました。何かの形で先生の教えを活かせるよう精進していきます。
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Cくん
一橋大学法学部合格しました!
10月からの約半年間世界史の添削をしていただきありがとうございました。数学で失敗したと思うので、確実に世界史のおかげで受かったと思います。これも中谷先生が私の拙い解答を詳らかに見て、一橋に通用する世界史を私に教えていただいたおかげです。
改めて添削ありがとうございました!
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Dくん
お久しぶりです、添削でお世話になっておりました。一橋大学商学部合格していました!!拙い文章で恐縮ですが、お読みいただけると幸いです。
数ヶ月の間、添削をお受けくださり、本当にありがとうございました。先生の論述練習帳のおかげで、論述で何を書くべきなのかが明確になり、少しずつ論述問題への免疫もついてきました。そして、先生の添削のおかげで、自分のできていないこととできていることがはっきりし、少しずつ論述問題への対処法が確立していきました。先生の解法は論理的で、かつ「なぜこれを書くのか」「なぜこれを書かないのか」も明確で、先生の模範解答には非常に納得感がありました。
できていることはしっかり褒めてくださり、できていないことも優しくご指摘いただいたおかげで、添削も嫌にならずに続けることができました。
先生の添削のおかげで、(第二問は多分0点ですが...)知っている知識を、設問に適合する形でよく書けたと思います。
数ヶ月の間、本当にありがとうございました!
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Eくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
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Fくん
おかげさまで一橋大学社会学部に合格できました!!
過去問の添削の際にアドバイスに加え、褒めて頂いたことがとても励みになりました。
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Gくん
本日合格発表があり、東京大学文科Ⅲ類に合格していました。
先生の丁寧な指導のおかげで題意に沿った解答ができるようになり、
合格に必要な世界史の力をつけることができたと思っています。
本当に添削ありがとうございました。
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Hさん
こんばんは。
おかげさまで東京大学文科二類に合格することができました。世界史は塾に行かないで、学校の授業だけで勉強していたため、このような形でたくさん添削していただけたのは、本当にありがたかったです。たくさん頼らせて頂きました。
得点開示が出たら、また連絡させて頂きます。
本当にありがとうございました。
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Iさん
ご無沙汰しております。
東京大学文科III類に無事、合格しました。
12月から3ヶ月間、東大の添削を見てくださり、ありがとうございました。
質問にも丁寧に対応していただき、論述力を格段に伸ばすことができました。
本番も直前まで先生の添削をプリントしたものを読んで、自分が間違えやすいポイントや、論述の構成を復習し、心を落ち着かせることができました。
本当にご指導ありがとうございました。
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Jくん
東京大学文科Ⅲ類に合格しました。長い間のご指導ありがとうございました。この合格は学生の視点の把握を追求する、先生の添削のお陰かと思います。質問対応もある双方向的な添削指導のお陰で自分の納得がいく唯一の答案作成を重ねていくことができ、これを復習することで過去の演習で培った知識・技術(テクニック)を自分の血肉として蓄えていくことができたと感じています。本番でも45/60点を下らない自信があったのは、先生のご指導の下でこうして身に着けた問題把握能力・史的論理力があったからです。本当にありがとうございました。
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Kくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
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Lさん
この度東京大学文科三類に合格することができました。2ヶ月間、第1問を添削していただきありがとうございました。また、世界史論述演習帳newと基本60字にも大変お世話になりました。添削いただいたおかげで、問題文の要求に素直に過不足なく答えることの重要さを強く意識することができました。短い期間でしたが、本当にありがとうございました。

2023年度の再現答案

2023年度再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
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東大2023
第1問
Aさんの答案
ヨーロッパ。仏では専制君主制が革命により倒れ、共和政が成立した。以後幾度か王政・帝政が復活することがあったものの、19世紀末の第三共和制成立後は議会制民主主義が成熟していった。英では先の仏革命の影響を受けた自由主義的な改革の中で選挙法改正が行われ、第一次大戦後には仏とは異なり女性も参政権を持つまでに、議会制民主主義が発展した。一方、統合の遅れた伊・独は二月革命の影響を受けて統一運動が高揚し、ハプスブルク家との対決の末、統一された専制的な立憲君主国家となった。第一次大戦に敗れた独はヴェルサイユ体制の中、変革を強いられ、共和制に転換し、帝国議会も共和国議会に改称された。またロシアでは専制君主制が採られていたが、革命を経て社会主義国ソ連が成立した。南北アメリカ。13植民地では、アメリカ独立革命を経て、合衆国が成立した。合衆国では三権分立と州権主義の下、民主主義の基盤が拡大し、白人男性のみならず、女性の普通選挙権が認められる州もあった。一方南アメリカでは植民地支配から、シモン=ボリバルらが主導し、白人植民地人層らによって多くの独立国が誕生したが、その多くが地主層基盤の軍事政権化した。東アジア。列強の進出を受けた清朝立憲君主制国家を目指す光緒新政を試みたが、革命が勃発した。これにより共和制の中華民国が成立した。日本は独に倣った大日本帝国憲法を定めて専制的な立憲君主制国家を目指した。

Bさんの答案
日本。武士政権の江戸幕府だったが、1868年に立憲君主制明治維新になり、大日本帝国憲法を制定、議会を開設したが、制限選挙だった。中国。皇帝独裁の王朝だったが、光緒親政で議会開設、責任内閣制を導入し、辛亥革命で共和政となった。アメリカ。英植民地下で自治を行っていたが、アメリカ独立革命で独立して共和国となり、三権分立主権在民に基づく合衆国憲法を制定した。1830年代に白人普通選挙が実現し、1920年に女性に参政権が与えられた。南アメリカ。シモンボリバルなどクリオーリョが中心となって、絶対王政のスペインから独立して多くが共和国となったが、地主の寡頭政治だった。メキシコは革命によって1917年に民主的な憲法を制定した。イギリス。立憲君主制の下で責任内閣制が発達し、選挙法改正によって選挙権が拡大した。フランス。絶対王政だったが、革命で倒され、共和政、帝政、七月王政を経て、2月革命で共和政となるもの帝政になり、普仏戦争後第三共和制となり、憲法が制定された。ドイツ。帝国議会があったが、首相が実権を握る帝政で、1923年にヴァイマル憲法が制定されて共和政となり、男女普通選挙が実現した。ロシアは帝政から社会主義に、オーストリアは帝政から共和政となった。二つの帝国崩壊によって、ベルサイユ体制で民族自決が適用され、スラブ人が独立し、王政や共和制になったが、議会政治は安定しなかった。

 

一橋2023
第1問
百年戦争発生直後、ヴァロワ朝は成立したばかりで国内には敵対する諸侯も存在した。特に北部にそのような諸侯が多く、ブルゴーニュ公とフランドル伯がその筆頭であった。この2領は15世紀初めにイングランドと同盟を結びフランス国王を攻撃した。一方で国王側にはアルマニャック公などがつき、この間フランスは内戦状態だったといえる。またイングランドボルドー周辺に領地を持っており、フランスの諸侯と言うこともできる。故に百年戦争は単なるイギリス対フランスではなく、フランス内部の対立も考えねばならない。百年戦争の結果、フランスが勝利したため反国王諸侯の勢力は大きく後退した。加えてカレーを除くイングランドの大陸領を排除したことで、中央集権化が大きく進んだ。フランス王権が国内をほぼ統一したため、王国は拡張先を求めイタリアに向かうこととなる。
第2問
Aポルトガルでは1930年代からサラザールによる独裁が続いており、アフリカやアジアの植民地も保持され続けた。しかし1970年代に軍の無血クーデターが成功し民主化が達成されると、他の欧州国家に倣い植民地が解放され、モザンビークは独立した。その後ソ連が支援する共産勢力が内戦で勝利した。Bイギリス領南アフリカでは南アフリカ連邦と同様にアパルトヘイト政策が行われていたが、国際的な非難から撤回することとなった。これに対し現地の白人は反発しローデシアとして独立して、アパルトヘイト政策が実施された。白人の勢力が衰えると、黒人の発言力が増した。その後ローデシアは分裂し、その後ローデシアは分裂し、ジンバブエが独立した。
第3問 
17世紀から18世紀に結ばれたネルチンスク条約とキャフタ条約は両国の国境問題に対処するためであり、両国の立場は対等だった。しかし19世紀になるとロシアは南下政策を推進し、愛琿条約・北京条約はロシアに有利な形で結ばれ、アムール川流域を獲得した。また三国干渉で日本に遼東半島を清に返還させ、同地の大連・旅順を租借した。しかしロシア革命でソヴィエト政権が誕生するとカラハン宣言が発され、帝政ロシア時代の清との不平等条約の撤回が宣言された。中国では『新青年』を通し民衆の共産主義への関心は高まっていたが、孫=ヨッフェ会談で孫文共産主義には反対したものの党による統治が国家統一の手がかりになると感じた。孫文は連ソ・容共・扶助工農を宣言し第一次国共合作を形成すると共に、黄埔軍学校にソ連式の軍教育を施した。また在華紡での中国人労働者殺害への抗議でのデモやストライキのように労働運動が反帝国主義運動の一つとなった。

東大世界史2023

第1問
 近代世界は主に、君主政体や共和政体をとる独立国と、その植民地からなっていた。この状態は固定的なものではなく、植民地が独立して国家をつくったり、一つの国の分裂や解体によって新しい独立国が生まれたりすることがあった。当初からの独立国であっても、革命によって政体が変わることがあり、また憲法を定めるか、議会にどこまで権力を与えるか、国民の政治参加をどの範囲まで認めるか、などといった課題についてもさまざまな対応がとられた。総じて、それぞれの国や地域が、多様な選択肢の間でよりよい方途を模索しながら近代の歴史が進んできたといえる。
 以上のことを踏まえて、1770年前後から1920年前後までの約150年間の時期に、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアにおいて、諸国で政治のしくみがどのように変わったか、およびどのような政体の独立国が誕生したかを、後の地図Ⅰ・Ⅱも参考にして記述せよ。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、以下の8つの語句を必ず一度は用いて、それらの語句全てに下線を付すこと。

 アメリカ独立革命 ヴェルサイユ体制 光緒新政 シモン=ボリバル 選挙法改正* 大日本帝国憲法 帝国議会** 二月革命***
 *イギリスにおける4度にわたる選挙法改正
 **ドイツ帝国の議会
 ***フランスニ月革命

第2問
 水は人類にとって不可欠の資源であり、水を大量に供給する河川は、都市や文明の発展に大きく寄与した。また河川は、交通の手段となって文化や経済の交流を促したり、境界となったりすることもあった。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) 長江は、東アジアで最も長い河川であり、新石器時代から文明を育み、この流域の発展は中国の経済的な発展を大きく促してきた。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) 中国では3世紀前半に、3人の皇帝が並び立つ時代を迎えた。このうち、この川の下流域に都を置いた国の名前とその都の名前、および3世紀後半にその国を滅ぼした国の名前を記せ。
 (b) この川の流域の発展は、「湖広熟すれば天下足る」ということわざを生み出した。このことばの背景にある経済の発展と変化について、3行以内で記せ。

問(2) 西アジアは一部を除いて、雨が少なく乾燥しており、大河が流れる地域がしばしば農業の中心地となった。そこには、ときに王朝の都が置かれ、政治や文化の中心地にもなった。これに関する以下の(a)·(b)·(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。
 (a) 次の資料は、ある王朝における都の建設の経緯を説明したものである。その王朝の名前と都の名前を記せ。

資料
 言うには、「ここは軍営地にふさわしい場所である。このティグリス川は我々と中国との隔てをなくし、これによってインド洋からの物品すべてが我々のもとにまたジャジーラやアルメニアまたその周辺からは食糧が至る。このユーフラテス川からは、それによってシリアやラッカまたその周辺からのあらゆるものが到着する」。こうしてマンスールはこの地に降り立ち、サラート運河周辺に軍営地を設営し、都のプランを定め、区画ごとに武将を配置した
    タバリー『預言者たちと諸王の歴史』
   (歴史学研究会編『世界史史料2』より、一部表記変更)

(b) 資料中の下線部に関連して、のちの9世紀に活躍するようになったマムルークの特徴と、彼らがこの王朝で果たした役割とについて、2行以内で記せ。

(c) 資料に記されている都が建設されたのは、西アジアの政治的中心地として栄えたクテシフォンの近くにおいてであった。クテシフォンを建設した国の名前に言及しつつ、その国で起こった文化的変容について、言語面を中心に、2行以内で記せ。

問(3) ナイル川はその流域に暮らす人々の生活を支えるとともに、人々の行きかう場ともなった。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。


(a) 地図中のAで、ナセル政権下に作られた公共建造物は、この川の自然特性を利用した農業のあり方を決定的に変えることとなった。近代以前において、この川の自然特性を利用する形で展開した農業について、2行以内で説明せよ。

(b) 地図中の都市Bはこの川の河口近くにあり、12世紀から15世紀頃、国際的な東西交易の一翼を担う商人たちが、この都市と都市Cとの間で活発な交易を行った。この交易で扱われた物産と取引相手について、2行以内で説明せよ。

第3問
 健康への希求および病気は、まさに現在進行形でわれわれが経験しつつあるように政治・経済・文化などさまざまな方面において、人類の歴史に影響を与えてきた。そして人類はそれらに対応するために、医学を発達させてきた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) 歴史上、影響力の大きい政治家が疫病に倒れることもあった。紀元前5世紀、アテネペリクレスは全ギリシアを二分する戦争の最中に病死し、その後アテネの民主政は混乱していくことになる。この戦争の名称を記せ。

問(2) 14世紀半ばのヨーロッパは、ペストの流行に見舞われた。このペスト流行を経験した作者が、これを背景として人間の愛や欲望などをイタリア語で赤裸々につづった物語の名称を記せ。

問(3) 明代の中国では、科学技術への関心の高まりとともに医学・薬学が発達した。16世紀末に李時珍が編纂し、江戸時代初期に日本に伝来した、薬物に関する書物の名称を記せ。

問(4) 18世紀にジェンナーによって考案された種痘は、牛痘苗を用いて天然痘を予防するものであり、19世紀には、ジャワ島のオランダ東インド会社の根拠地から日本の長崎にもたらされた。この根拠地であった都市の当時の名称を記せ。

問(5) 19世紀には世界各地でコレラの流行が繰り返されたが、同世紀後半には細菌学が発達し、様々な病原薗が発見された。結核菌やコレラ菌を発見したドイツの医師のもとには日本の北里柴三郎が留学して破傷風菌の純粋培養に成功し、破傷風の血清療法を確立した。このドイツの医師の名前を記せ。

問(6) 1980年代以降、温室効果ガスによる地球温暖化の危険性が強く認識されるようになった。温暖化の影響には、低緯度地域の感染症がより寒冷な地域へ広がることも含まれる。1990年代後半、日本で開催された国際会議で、温室効果ガス削減の数値目標が設定された。この取り決めの名称を記せ。

問(7) 今日の嗜好品は、過去においてしばしば薬品としての意味をもった。ある嗜好飲料は唐代に民衆に普及し、後に欧米にも広がり、これに関する貿易問題がアヘン戦争の原因にもなった。この飲料の名称を記せ。

問(8) 仏教では病が生・老・病・死という四苦の一つとされる。その経典の編纂やスリランカヘの布教を行った王が統治し、インド亜大陸を最初にほぼ統一した王朝の名称を記せ。

問(9) イスラーム医学は古代ギリシアの医学をもとに発展した。アリストテレスの著作にもとづいて哲学を追究するのみならず、医学者として『医学典範』を著し、ラテン語名アヴィケンナとして中世以降のヨーロッパの医学に影響を与えた人物の名前を記せ。

問(10) 漢代の医学書には、天体の運行と人間生活との関係を議論する思想がしばしば見られる。その思想を唱えた集団の名称を記せ。

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コメント

第1問
 問われている「政治のしくみ/政体」は導入文に「政体が変わることがあり、また憲法を定めるか、議会にどこまで権力を与えるか、国民の政治参加をどの範囲まで認めるか」と説明しています。憲法・議会・政治参加できるのは誰か、といったことです。
 これを今はやりの「チャットGPT」で問うてみました。字数(600字)制限なしで問うと、次のような回答が出てきました。ウィキペディアのような段落分けしながらの回答で、段落をとって提示するので、ここでは分かりやすく①〜③、(a)〜(d)という番号を振りました。

1770年前後から1920年前後までの約150年間にわたって、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアで政治のしくみが大きく変化しました。以下にその主な変化を示します。①ヨーロッパ:(a)フランス革命(1789年)により、封建主義的な支配から民主主義的な共和制への移行が始まり、他の国々にも影響を与えた。(b)19世紀半ばには、イギリスを中心に産業革命が起こり、これによって社会や経済の変化がもたらされた。(c)ドイツやイタリアなどの多くの国々で、19世紀後半に国家統一が実現された。(d)第一次世界大戦(1914年-1918年)により、ヨーロッパの「」た。②南北アメリカ:(a)アメリカ合衆国では、独立戦争(1775年-1783年)によって英国からの独立が達成され、合衆国憲法1787年)によって政治のしくみが定められた。また、南北戦争1861年-1865年)により奴隷制が廃止された。(b)中南米の多くの国々では、19世紀にスペインやポルトガルからの独立が実現され、それに伴って政治や社会の変化がもたらされた。③東アジア:(a)中国では、19世紀半ばにアヘン戦争1839年-1842年)が勃発し、西欧列強による中国の支配が始まった。20世紀に入り、辛亥革命(1911年)によって清朝が倒れ、中華民国が誕生した。(b)日本では、明治維新(1868年)によって封建的な支配が終わり、西洋化・近代化が進められた。また、第一次世界大戦に参戦し、国際社会での地位を確立した。以上のように、1770年前後から1920年前後までの約150年間にわたって、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアの多くの国々で政治のしくみが変化し、現代の政治体制や社会の基盤が形成されたと言えます。(725字)

 この回答の前段と末尾の結論はほぼ同じことを繰り返しているので、無意味な部分です。問題文の言い換えにすぎません。
 ①〜③の部分がまともな解答になっています。①(b)では産業革命を書いていますが、ここで問われている政体(政治のしくみ)変化であり、経済変動は問われていません。不要な文章です。政体変化になっているのはフランスくらいで、後は政体変化らしいのは統一だけです。(d)の第一次世界大戦後は「政治や社会に大きな影響を与え」と無意味な内容になっています。
 ②アメリカ大陸は独立だけで、後は「それに伴って政治や社会の変化がもたらされた」とまた無意味なことを書いています。
 ③は革命と維新を書いてます。しかし政体の説明になっている文章は見られません
 課題の「憲法・議会・政治参加」のうち合衆国憲法以外は一言もなく、まして「政治参加」の説明はどこにもありません。大雑把すぎます。
 アメリカの大学ではリポートに使われると困るので、このアプリを使うことを禁止しているところもあるそうです。イーロン・マスク氏が「さらば、宿題」とツイートしたことも話題になっていますが、こんなもの使い物になりません。
 このブログに載せた合格者の再現答案(→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2023/04/30/2023年度の再現答案 )を読んでいたいただければ、受験生の頭がいかに綿密・適確であるかが判ります。
 「600字以内で」と制限して、もう一度チャットGPTに問うてみたら、ほぼ似た回答と、アフリカ・オセアニア・アジアの植民地化の話題が新たに加わって、ますます要らないものが増えてしまいました。なんじゃ、これ。チャットGPTの背景にどれだけ膨大なデータが揃っていても、問いに対して適確な解答文が出せなければ、こんなアプリは時間のむだです。わたしはこんなにたくさんのことを知っているのだ、と空騒ぎしている図体だけ大きく脳みその小さい恐竜のようです。空振りバッター、とでも名づけるか。

 問題として得点は取りやすい易問ですが、綿密さがどれだけ出せるかで点差がひらくものでした。チャットGPTのAI技術レベルと同じような「ぼけた」答案を予備校の「模範」答案でも見ることができます。君が添削してあげてください。

第2問
問(1)(a) 「3世紀前半に、……この川の下流域に都を置いた国の名前とその都の名前、および3世紀後半にその国を滅ぼした国の名前を記せ」
 易問ですが、迷ったひともいるかもしれない。黄河流域に魏、長江下流に呉ができ、上流四川のほうに蜀ができます。順に都は洛陽、呉は建業、蜀は成都と、濁る発音同士の呉(ご)と建業(ぎょう)と覚えます。「滅ぼした国」を魏と覚えるとまちがいです。拙著『センター世界史B各駅停車』(絶版、pdfでは販売→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)に「★呉は魏によってでなく晉に滅ぼされた」と注意を喚起しています。

 (b) 「湖広熟すれば天下足る」の背景にある経済の発展と変化。
 これも易問でした。「経済の発展」としては過去問(1983)の「16・17世紀の中国に生じた新しい動きについて、経済と思想の分野を中心」の経済、2007年第1問に指定語句として「湖広熟すれば天下足る」が出題されていました。「発展」はとくに商工業で、陶磁器・絹織物で、「新興工業都市として綿布の松江、生糸の湖州、絹織物の蘇州、陶磁器の景徳鎮が栄えます。とくに景徳鎮では華やかな赤絵という陶磁器がつくられました。絵の赤色がめだつ陶磁器です」と『各駅停車』で説明しています(p49)。
 「変化」はこの商工業発展の江南がもともとは農業発展地帯であったのが、工業化したため都市の周辺では商工業の原料供給地になり、桑・藍(あい)・棉花(原料の場合は木編)、米はもっぱら湖広(長江中流域の湖北省湖南省)でつくることになりました。
 この変化がもたらした更なる変化は、両税法から一条鞭法へ、その原因となった日本銀・墨銀の流入、地主・佃戸の格差拡大、政商としての山西商人・新安商人の登場なども挙げられます。

問(2)(a) 「次の資料……王朝の名前と都の名前」
 この資料は文中のアッバース朝2代目マンスールが新首都の建設候補地を定める際の地理の説明をしている場面です。ティ「グ」リス川沿いにバ「グ」ダードあり、と覚えましょう。

(b) 「下線部(区画ごとに武将を配置した)に関連……9世紀に活躍するようになったマムルークの特徴と、彼らがこの王朝で果たした役割」………黒人でない白人の奴隷で、トルコ人・モンゴル人・などのを指してこのように呼びます。軍人奴隷とも訳します。奇妙な組み合わせです。奴隷が付きながら農業の奴隷ではなく、マムルーク朝ができるように、時には君主にもなる軍事専門の奴隷です。アッバース朝から多用していて、カリフの親衛隊となり、カリフの権力を強化し、領土拡大の戦力ともなりました。中には官僚になる者もあります。

(c)「クテシフォンを建設した国の名前に……その国で起こった文化的変容について、言語面を中心に」……パルティアが建設し、それをササン朝が受け継いだ都です。歴史地図を見ましょう。バグダードの近くです。
 「文化的変容」については、過去問(1995)に「1〜15世紀地中海世界と周辺の文明」というテーマで出題があり、このうち「周辺の文明」に該当するのがパルティアとササン朝で養成されたイラン文明でした。教科書(詳説)では「イラン文明の特徴」という題で、「初期のパルティアの文化はヘレニズムの影響を強くうけ、王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおびていた。しかし紀元1世紀ころ、イランの伝統文化が復活しはじめると、ギリシアの神がみとイランの神がみとが、ともにまつられるようになった。またつぎのササン朝の時代に、イランの民族的宗教であるゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編集された。……ササン朝時代には建築・美術・工芸の分野が大いに発達した。」と記されています。「言語」は、ギリシア語からペルシア語(あるいはパルティア語)へ、という変化です。
 
問(3)(a) 「近代以前において、この川(ナイル川)の自然特性を利用する形で展開した農業について」……必要なのは、定期的な洪水(増水と氾濫)、肥沃な土(を運んでくれる)、灌漑、小麦栽培などです。過去問(2007)に「暦の歴史」として「古代メソポタミア古代エジプトにおける暦とその発達の背景」として問うています。この背景が類題です。

(b) 「地図中の都市B(アレクサンドリア)……12世紀から15世紀頃、……都市C(アデン)との間で活発な交易を行った。この交易で扱われた物産と取引相手について」……「物産」は東から香辛料・薬品・象牙・絹織物・綿布・宝石、西欧からは金銀・毛織物・奴隷・武器などです。「取引相手」はカーリミー商人というムスリム商人たちが中継し、西にヴェネツィア商人を中心のイタリア商人、東にインドのグジャラート商人がいました。

第3問
(1)ペロポネソス戦争 (2)デカメロン 
(3)本草綱目 (4)バタヴィア
(5)コッホ (6)京都議定書
(7)茶 (8)マウリヤ朝 (9)イブン=シーナー
(10)陰陽家

京大世界史2023

(4問題100点)
第1問(20点)
 中央ユーラシアの草原地帯では古来多くの遊牧国家が興亡し、周辺に大きな影響を及ぼしてきた。5世紀から12世紀におけるモンゴリア(今日の中華人民共和国内モンゴル自治区およびモンゴル国)の歴史について、遊牧国家の興亡を中心に300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 島嶼(しょ)部東南アジアの複数の国では、マレー語やそれをもとにした言語が国語や公用語のひとつとして使われている。これは、前近代の東南アジア海域で、文化的な共通性を持った「マレー世界」が形成されていたためである。マレー世界が現在のような国家の領域に分かれていったのはヨーロッパによる植民地支配と現地住民による独立運動の結果である。
 17世紀の東南アジア海域の交易活動ではオランダが優位を占めていた。17世紀末になると、オランダはジャワ島内陸部の領土獲得に乗り出した。内乱に介入することで(1)ジャワ島の中・東部を支配していた王国を支配下に置いていった。19世紀前半にはジャワやスマトラで戦争が起こり費用がかさむとともに、(2)ベルギーの独立によってオランダの財政状況が悪化した。財政の立て直しを図るため、オランダは植民地に(3)新たな経済制度を導入した。スマトラ島北部ではアチェ王国が独立を保っていたが、1873年にオランダはこれに侵攻し、長期にわたる攻防戦の末に制圧した。オランダ領東インドの領域が最終的に確定したのは、1910年代のことである。
  他方、(4)インド支配の基盤を確立したイギリスは、18世紀後半になるとマレー半島に進出を始めた。1824年にオランダとの間で条約を結び、ほぼマラッカ海峡を境界とする支配権の分割が取り決められた。その結果、マラッカがオランダ領からイギリス領に移った。現在のマレーシアとインドネシアの国境は、この条約に原形を求めることができる。イギリスは1826年に、マラッ力とシンガポール・[ a ]をあわせて海峡植民地を形成した。1895年にはマレー半島の4つの王国との間で協定が結ばれ、[ b ]が成立した。これと海峡植民地、イギリスが支配下に置いた他の諸国をあわせて英領マラヤという。また、ボルネオ島カリマンタン島)の南部はオランダが支配したが、北部はイギリスの保護領となった。
  イギリスとオランダは植民地統治を進める中で、(5)官吏や企業の職員を育成するために現地住民の間にヨーロッパ式の教育を普及させた。しかし、これは、植民地からの独立を求める民族主義を高揚させる結果をももたらした。インドネシアでは、ブディ=ウトモやイスラーム同盟といった民族主義団体が設立された。1920年代後半、インドネシア共産党による武装蜂起が鎮圧された後に(6)スカルノ独立運動の中心人物として登場した。他方の英領マラヤは、オランダ領東インドと比べても行政区分や民族構成が複雑であった。それでも現地住民の間で民族意識の形成が徐々に進んだ。様々な形の民族主義運動が展開される中で、インドネシアとマラヤの統一を目指す考えもあらわれた。しかし、いずれの植民地でも民族主義運動は独立という目的を達成できないまま、1941年に太平洋戦争が勃発し、(7)日本軍の侵攻という事態を迎えることになった。
  戦後、東南アジア諸国は次々と独立へと向かっていった。オランダ領東インドは、1945年にインドネシア共和国として独立を宣言し、これを認めないオランダとの独立戦争を経て(8)1949年に独立を達成したマレー半島では1957年に[ c ]が独立し、シンガポールや英領ボルネオとともに1963年にマレーシアとなった。この過程で、マラヤとインドネシアなどからなる国家連合の構想も示されたが、実現はしなかった。1965年に(9)シンガポールがマレーシアから分離・独立し、マレーシア結成に参加しなかったブルネイ1984年にイギリスから独立した。
  かつてのマレー世界の一部であるこれらの国々は、現在では、(10)東南アジア諸国連合(ASEAN)という地域協力機構に参加している。東南アジア諸国連合はこの地域の自立性を高めることに貢献し、1999年のカンボジアの参加をもって10か国からなるASEAN10を実現させた。2015年には、政治・安全保障共同体、経済共同体、社会・文化共同体からなるASEAN共同体が発足した。


(1) この王国は1580年ごろに建国された。この王国の名称を記せ。
(2) ベルギー独立は1830年にフランスで起こった政変が要因となった。この政変の名称を記せ。
(3) この経済制度は、オランダが植民地の住民に世界市場向けの特産物を栽培させ、低い価格で買い上げるというものである。この制度の名称を記せ。
(4) 1757年の戦いでイギリスはフランスとベンガル太守の連合軍を破り、インドにおける優位を確立した。この戦いの名称を記せ。
(5) 20世紀初頭からオランダは植民地の住民の福祉向上などを骨子とする政策をとり、教育が普及した。この政策は何と呼ばれるか。
(6) 1927年にスカルノが結成した政党の名称を記せ。
(7) 中国や東南アジアの支配を正当化するため、日本は欧米列強による植民地支配からの解放をスローガンとしてうたった。このスローガンを記せ。
(8) 初代大統領のスカルノは1965年の九・三〇事件を機に失脚する。その後、1968年にインドネシア共和国の第2代大統領に就任した人物の名前を記せ。
(9) (ア)シンガポールが分離・独立した理由として住民構成の違いがあげられる。簡潔に説明せよ。
(イ)分離・独立後のシンガポールは韓国、香港、台湾、メキシコなどとともに輸出産業を軸に目覚ましい発展を遂げた。これらの国や地域は何と呼ばれたか。
(10) (ア)東南アジア諸国連合は、インドネシア、マレーシア、シンガポールに加え2つの国によって1967年に結成された。この2つの国名を記せ。
(イ)東南アジア諸国の中で、東ティモールは現在まで東南アジア諸国連合に加盟していない。東ティモールを1975年まで植民地支配していたヨーロッパの国名を記せ。

 中国とアメリカの本格的な関係は19世紀に始まる。イギリスがアヘン戦争の結果、清に5都市を開港させ、領事裁判権や協定関税制度、片務的最恵国待遇などの権利を得ると、アメリカも1844年に清と[ d ]条約を結び、イギリスと同様の権利を得た。
  清では18世紀の急激な人口増加により、南部の広東省福建省から東南アジアに出稼ぎに行く労働者が増加した。1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されると、アメリカにも多くの移民が渡った。(11)第二次アヘン戦争(アロー戦争)後に結ばれた北京条約で、清からの海外渡航が合法化された。
  日清戦争に清が敗れると、ヨーロッパ列強は清から港湾などを租借して極東の根拠地とするとともに、周囲の鉄道敷設権や鉱山開発権を取得した。一方、アメリカ・スペイン戦争(米西戦争)でフィリピンを獲得したアメリカは、(12)清については門戸開放・機会均等を唱えた
  アメリカで中国人移民を排斥する動きが広まると、清ではアメリカ製品ボイコットなどの反対運動が起きた。しかし、清国内に持つ利権が相対的に少ないアメリカに対し、清の世論は全体としては好意的だった。広東省出身で、ハワイや香港で英米式の教育を受けた(13)孫文は、共和制国家の樹立を目指して清に対する革命運動を展開した。(14)1912年には共和制の中華民国が成立し、清の皇帝が退位した
  アメリカは義和団戦争の賠償金を中国における教育事業に用いることとし、北京にアメリカ留学のための予備校である清華学校を設立した。(15)胡適に代表されるアメリカ留学生たちは、中華民国の政治、経済、文化などさまざまな分野で活躍した。
  第一次世界大戦中にアメリカ大統領[ e ]が提唱した十四か条は、非ヨーロッパ地域にも民族自決をもたらすものと受け取られたことから、中国でも支持を集めた。五・四運動の際には、北京の学生のデモ隊がアメリカ公使館に陳情書を提出して支持を訴えた。1921年から翌年にかけてアメリカで開かれた[ f ]会議では、中国の主権尊重と領土保全を約する条約も締結された。
  1920年代半ば、(16)中国国民党中国共産党員の個人資格での入党を認め、ソ連の支援の下に国民政府と国民革命軍を組織し、北伐を開始した。しかし、急進化した国民革命軍が外国人を襲撃し、報復として英米の砲艦が南京を砲撃する事件が起きると、(17)国民党の蔣介石はクーデターを起こして急進的な共産党員を弾圧・排除しソ連と断交して英米との関係改善を図った。蔣介石の国民革命軍が北京を占領すると、英米は国民政府を承認し、また中国の関税自主権を認めた。
  日中戦争が始まると、英米は国民政府を援助した。1941年に日本と英米が開戦すると、日中戦争第二次世界大戦の一部となり、中国も連合国の一員となった。中国における領事裁判権が撤廃され、1943年には蔣介石がローズヴェルトチャーチルとの[ g ]会談に出席して、日清戦争以降日本に奪われた領土の回復が認められた。戦後に中華民国は新設の国際連合安全保障理事会常任理事国となった。
  しかし、その後に再開された内戦で国民党は共産党に敗れ、台湾に逃れて中華民国を存続させた。このため中華民国と大陸で(18)共産党が樹立した中華人民共和国のどちらを中国を代表する政権と見なすかという問題が生じた。米ソ冷戦が本格化する中、アメリカは引き続き台湾の中華民国を支援したため、(19)ソ連が支援する中華人民共和国アメリカの関係は悪化した。さらに1950年に朝鮮戦争が起きると、アメリカを中心とする国連軍が韓国側、中華人民共和国が派遣した義勇軍北朝鮮側で参戦して、両者が実際に砲火を交えた。ベトナム戦争でも、ソ連中華人民共和国が支援する(20)北ベトナムアメリカの間で戦火が交わされた。
  しかし、イデオロギーや国境問題をめぐってソ連との関係が悪化すると、中華人民共和国アメリカとの関係改善に方針を転じた。1971年には国連で中華人民共和国の代表権が可決され、台湾の中華民国は国連を脱退した。翌年にアメリカ大統領が訪中し、後に米中間で条約が締結された。ただ、アメリカは台湾の中華民国と正式な国交は断絶したものの、実質的な関係はその後も維持し続けている。
  1989年に(21)天安門事件が起きると、アメリカをはじめとする西側諸国は中国を強く批判した。しかし、アメリカは中国の封じ込めではなく、市場経済化の推進によって民主化を促す方針をとった。その後、中国は急速な経済成長を遂げたが、共産党一党独裁体制に変化は起こらなかった。貿易や先端技術をめぐる摩擦も高まり、米中はふたたび対立を深めて今日に至っている。


(11) この頃、太平天国から上海を防衛するためにアメリカ人ウォードが組織し、西洋式武器を装備した、外国人と清国人からなる軍隊の名を答えよ。
(12) この時のアメリカの国務長官の名を答えよ。
(13) 孫文らが1905年に東京で組織した革命団体の名を答えよ。
(14) 清から革命の鎮圧を命じられたものの、革命側との交渉を経て、孫文から臨時大総統の位をゆずり受け、以後の中華民国の実権を握った人物の名を答えよ。
(15) 陳独秀が中心となって1915年に創刊し、胡適魯迅らが編集に加わった、新文化運動を代表する雑誌の名を答えよ。
(16) この時に中国国民党の改組が行われ、国民政府・国民革命軍が組織された都市の名を答えよ。
(17) 1927年4月12日に蔣介石がクーデターを起こし、共産党員の大規模な弾圧を開始した都市の名を答えよ。
(18) 中国共産党の指導者で、中華人民共和国の初代主席となった人物の名を答えよ。
(19) 中華人民共和国ソ連が1950年に締結し、1980年に失効した軍事同盟条約の名を答えよ。
(20) この国の1976年以前の正式国名を答えよ。
(21) ちょうどソ連指導者の訪中と重なり、各国の報道陣が北京に集まっていたため、この事件は広く世界に報道された。中ソ関係を回復させ、国内ではペレストロイカと呼ばれる改革政策を推進していたこのソ連指導者の名を答えよ。

第3問 (20点)
 イベリア半島にはキリスト教世界とイスラーム世界の境域としての長い歴史がある。イベリア半島におけるイスラーム勢力の支配領域をアンダルスと呼ぶ。アンダルスの成立から消滅に至るまでのこの半島における諸国家の興亡と、それに伴う宗教的状況の変化および文化の移転について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第4問 (30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(23)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 地中海の島で三番目に面積の大きいキプロス島は、(1)エジプト、シリア、小アジアを結ぶ交通の要衝に位置し、古くからさまざまな民族が活動した痕跡が残されている。キプロス島からは、(2)アッシリア語、フェニキア語、エジプト語ギリシア語、ラテン語といった言語による刻文が、多数発見されている。ギリシア人は、(3)ペルシア帝国の影響を受けつつ島内の各地に都市国家の形成を進めたが、これらは民主政アテネとは大きく異なり王が統治する国家だった。(4)アレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシア帝国が滅び、大王の死後に後継者戦争がおこなわれた結果、キプロス島はエジプトを拠点とする[ a ]朝の支配下に置かれた。この後[ a ]朝の守備隊勤務のために各地のギリシア人が傭兵として移住してきたことで、バルカン半島南部・小アジア西部のギリシア都市の政治と文化に、キプロス島が本格的に結び付けられることになった。
  [ b ]の海戦でオクタウィアヌスが勝利を収めると、キプロス島は最終的にローマ帝国支配下に入り、(5)元老院議員が総督として統治する属州となった。(6)帝国内外での交易が盛んとなったローマ支配下で、キプロス島は広域の経済圏に組み込まれると同時に、島内の有力者は次第に(7)ローマ市民権を獲得していった。一方で、ヘレニズム期以降に明確に姿を現すようになったギリシア都市はローマ帝政期にも存続し、剣闘士競技や浴場などのローマやイタリア半島の文化を受容しつつも、ギリシア風の政治的、文化的生活が営まれた。こうしたギリシア都市は、初期の(8)キリスト教伝道の拠点ともなった。キプロス島キリスト教会の活動は、後期ローマ帝国・(9)ビザンツ帝国でも活発に継続したが、(10)イスラーム世界拡大の影響を逃れることはできなかった。島出土のある刻文は、7世紀半ばにアラブ人と考えられる集団がキプロス島を襲撃し、多数の捕虜を連れ去ったことを克明に伝えている。


(1) 前13世紀にカデシュでヒッタイト王と戦ったエジプト王の名前を記せ。
(2) アッシリア帝国の崩壊後に分立した4つの王国の1つで、はじめて貴金属製の打刻貨幣を作ったとされる王国の名前を記せ。
(3) この帝国の中央集権体制について簡潔に説明せよ。
(4) この遠征の東限となったとされる大河の名前を記せ。
(5) 「内乱の1世紀」に元老院の権威の尊重を主張した政治家の一群は何と呼ばれたか。
(6) ローマの貨幣は、東南アジアの扶南の遣跡からも発見されている。この遺跡の名前を記せ。
(7) 3世紀初頭におこなわれたローマ市民権拡大に関して、それを命じた皇帝の名をあげて、簡潔に説明せよ。
(8) 『新約聖書』の「使徒言行録」は、パウロらのキプロス島での伝道を伝える。回心前のパウロは、キリスト教徒を迫害するユダヤ教のある教派に属していた。サドカイ派エッセネ派とともに当時のユダヤ教の三大教派に数えられる、この教派の名前を記せ。
(9) 726年に聖像禁止令を発布したビザンツ皇帝はだれか。
(10) 8世紀初め、イスラーム勢力下のダマスクスで、キリスト教の教会を一部再利用して建設されたモスクの名前を記せ。

B 40年以上にわたって継続した東西冷戦には国際的な緊張が相対的に高まった時期とそれが緩和した時期が存在した。東西冷戦は、緊張の高揚期と緩和期が交互に入れ替わる形で進行したのである。
  第二次世界大戦後、東ヨーロッパや(11)中東ソ連が影響力を拡大する構えを見せたことを大きなきっかけとして始まったアメリカとソ連の対立は、1940年代末までにヨーロッパの東西分断に帰結した。朝鮮戦争で東西陣営が軍事的に衝突したことによって、最初の緊張高揚期は頂点を迎えた。しかしまもなく、ソ連が(12)その指導者の死去の後に東西陣営の平和共存を呼びかけたことがきっかけとなり、1950年代中葉に最初の緊張緩和期が訪れる。この時期には(13)第一次インドシナ戦争の解決などを話し合う国際会議と戦後初めての米・英・仏・ソ首脳会談が同じ都市で開催された。その後、(14)ベルリン危機や(15)キューバ危機に象徴される緊張高揚期を経て、1960年代前半に訪れた短い緊張緩和期には(16)部分的核実験禁止条約が締結された。
  冷戦が進行するにつれて、国際関係は多極化し、東西各陣営内部における米ソの相対的な地位は低下していった。東側陣営の内部では、中国がソ連の対外政策を批判するなどして独自の路線を歩み始めたほか、(17)東ヨーロッパ諸国ではソ連の事実上の支配から離脱しようとする動きが生じた。西側陣営の内部ではアメリカの政治的・経済的な地位が低下するのに伴い、アメリカは多くの分野で西側先進国の協力を必要とするようになったが、西ヨーロッパ諸国の中にはアメリカの方針に異を唱える動きも生じた。(18)アメリカは、みずからの政治的・経済的な責任を一方的に縮小する大胆な政策を採用することにより、西側陣営内における指導的地位を再建しようとした。
  このような国際関係の変化を背景として、1960年代末から1970年代には、広く「デタント」として記憶される緊張緩和期が訪れた。アメリカはソ連に圧力を加えることなどを目指して中国に接近し、(19)米中の首脳は両国間関係の正常化を目指す声明を発表した。米中の接近を警戒したソ連アメリカとの関係改善に動き、米ソ間の軍備管理交渉が進展した。東西陣営間の経済的交流が拡大し、東西ヨーロッパ間でも緊張緩和が進展した。(20)西ドイツは、ソ連や東欧諸国との関係改善を進め、東ドイツを国家として承認した。また、(21)全欧安全保障協力会議(CSCE)に参加した東西のヨーロッパ諸国と米ソなどは、主権・領土・国境の尊重、東西の経済・技術協力の推進、人権の尊重などをうたう文書に1975年に署名した
  1970年代末に米ソの緊張緩和は行き詰まり、「新冷戦」と呼ばれる新たな緊張高揚期が訪れたが、ヨーロッパ諸国が東西交流の縮小に消極的であったことや、まもなくソ連で改革が進行したことなどから、緊張の高揚は限定的かつ短期的であった。(22)1989年に米ソの首脳が冷戦の終結を宣言し、(23)東欧諸国の共産主義政党の一党支配体制を崩壊させた「東欧革命」を経てヨーロッパの東西分断が解消に向かったことで、東西冷戦は急速に終結した。


(11) 第二次世界大戦後にソ連が影響力を拡大しようとした中東のある国は、1951年にイギリス籍の石油会社の石油利権を国有化した。国有化を断行した首相の名を記せ。
(12) この指導者の下で導入された経済政策により、ソ連は、多大な犠牲を出しつつも、急速な重工業化と農業の集団化を推し進めた。1928年に導入されたこの経済政策の名称を記せ。
(13) この都市はどこか。
(14) ベルリン危機の焦点となった西ベルリンは、東ドイツ政府の支配を受けぬ陸の孤島として存続していた。このような状況が生じるに至った理由を簡潔に説明せよ。
(15) この島を含むカリブ海地域では、17世紀以降、ある商品作物の栽培への特化が進んだ。この商品作物は何か。
(16) この条約の内容を簡潔に説明せよ。
(17) ソ連は、ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキアヘの軍事介入を正当化するための対外政策の方針を示した。この対外政策の方針は何と呼ばれるか。
(18) アメリカが1971年に金とドルの交換を停止した背景を説明せよ。
(19) このときの米中交渉で重要な役割を担った中国の首相は、中国がインドと平和五原則に合意する際にも主導的な役割を果たした。この中国の首相の名を記せ。
(20) この政策を推進した首相の名を記せ。
(21) この文書の名を記せ。
(22) この米ソ首脳会談が行われた地名を記せ。
(23) 「東欧革命」では、多くの国で無血の体制転換が実現したが、転換過程が暴力化し、失脚した指導者が処刑された国もあった。この国はどこか。

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コメント

第1問
 課題は「5世紀から12世紀におけるモンゴリアの歴史について、遊牧国家の興亡を」でした。
 遊牧国家の歴史をたどるという易問でした。ただ教科書はこの「5世紀から12世紀」までを一連のまとまった記事としておらず、紀元前の匈奴から鮮卑までの興亡を書いて、中国の隋唐の歴史に入り、その後に「北方の諸勢力」として契丹からモンゴル帝国まで、つまり13〜14世紀まで物語るという構成になっています。この問題は、5世紀の柔然から始めて12世紀で切れており、モンゴル帝国が現れる前の、金朝の登場までとなります。
 これらの国家が世紀を間違わないでキッチリ綴ることができれば高得点が望めます。(  )の中は『世界史年代ワンフレーズnew』(中谷まちよ)の語呂です。

 5世紀 柔然(やわらで402)
    北魏華北統一(北魏、439
 6世紀 突厥突厥、突然 552)
 8世紀 ウイグルウイグル744)
 9世紀 ウイグル西走(ウイグル 840)
 10世紀 耶律阿保機契丹(アホは916)
     燕雲十六州割譲(雲十六州 936)
 11世紀 澶淵の盟(1000円に1004円の送・宋・料・遼)
 12世紀 完顔阿骨打の金(ワンヤン1115) 
 たんに「興亡」ということであれば、これで尽きていますが、導入文にある「周辺に大きな影響を及ぼしてきた」ことも書かないと、歴史の文章になりません。もちろんその内容は教科書に書いてある事柄でよく、難しくはありません。しかし根幹は上の年表の興亡史がしっかり書けないと、どうしようもないブレた流れになり易いです。
 年代ととともに、興亡史は捕まえてください。拙著『センター世界史B各駅停車』(わたしのこのブログでpdf販の購入ができます→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)では、北アジア史は3・3・3で捉えることを勧めています。つまり、民族系統不明の3民族(匈奴鮮卑柔然)、次3民族はトルコ系で突厥ウイグルキルギス、次3民族は漢人王朝も入れて、遼元・宋明・金清の興亡です。これは無料の「先史・中国史(1)」でも見ることができます。

第2問
A 容易な問題がほとんどなので、一部だけの解説。 
問(5) 20世紀初頭からオランダは植民地の住民の福祉向上などを骨子とする政策をとり、教育が普及した。この政策は何と呼ばれるか。……この答えは「倫理政策(Ethical Politics)」ですが、これは教科書に載っていません。強制栽培制度に対する批判が内外からあり、その批判をかわすために設けた政策で、問いの文章にあるとおり、「教育が普及」になるよう学校の設立をおこなったものです。併合した韓国で三・一独立運動(約6000人の殺戮)が起きたため、「文化政治」という名前で武断政治の転換を図った日本の姿勢とよく似ています。支配を徹底するための一種の懐柔策です。これが書けなくても1問だけです。無視しましょう。

第3問
 課題は「アンダルス(イスラーム勢力の支配領域)の成立から消滅に至るまでのこの半島における諸国家の興亡と、それに伴う宗教的状況の変化および文化の移転について」でした。
 これも容易な問題でした。第1問と同様に、これも興亡史でした。
 8世紀 西ゴート王国滅亡(強盗に襲われたセブン7イイ11レブン)
     トゥール=ポワティエ間の戦い(通る(10)7・3人2)
     後ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝 756で警備)
 11世紀 ムラービト朝(村人・1056)
 12世紀 ムワッヒド朝(むわっ酷、1130)
 15世紀 スペイン王国(スペイン国、1479)
     レコンキスタ完了(レンコン切った、01492る)

 アンダルス(ヴァンダル人の地の意味)では、レコンキスタというイスラーム教徒とキリスト教徒の戦いが展開します。まず半島北端にキリスト教徒がアストゥリアス王国(後のレオン王国)を建国したことから数えて始めます(718)。
 この後にトゥール=ポワティエ間の戦い(732)があっても、すぐ半島にイスラーム教徒が後退したのではなく、フランス南部での戦闘はつづきました(ナルボンヌの戦い 720〜737)。リヨン市まで戦いは伸びました。
 半島の東北にカール1世の半島侵入(778)とスペイン辺境伯領の設置(795)、バルセロナ占領(801)があり、ムスリムに圧力を強めていきます。
 キリスト教徒側はいくつかの王国が乱立しますが、北の東部から台頭したカスティリャ王国が成長します。カスティリャは城のことで、ムスリムと戦うためにたくさんの要塞を築いたことからきた名前です。この王国は西部のレオン王国も併合して南下に成功していき、トレド市を陥落させます(1085)。ここで半島の北部はキリスト教、南部はイスラーム教という棲み分けができます。インノケンティウス3世の呼びかけで諸国が連合してムワッヒド朝を敗りました(1212)。後は南下したムスリムナスル朝グラナダ王国が残ります。
 「宗教的状況の変化および文化の移転」はこの戦いの変転に伴って動いています。イスラーム教が入ってきて、レコンキスタキリスト教徒側が逆襲する、しかしイスラーム教徒の支配下イスラーム文明が花開く、という展開で、代表的にはコルドバで活躍したイブン=ルシュドがおり、アルハンブラ宮殿が残されました。逆襲したキリスト教徒側では、トレドの東方学院における「12世紀ルネサンス」という大翻訳時代が来ます。
第4問
問(2) 「打刻貨幣を作った」という表現は正しい。中国・朝鮮・日本は貨幣を「鋳造」しましたが、一個ずつ解かした金属にハンコのように上からたたいて刻印を付けるのが「打刻」貨幣です。教科書(東京書籍)では「リディアではじめて貨幣が鋳造され、ギリシア人もそれにならうことになった」と書いてありますが、「鋳造」はまちがいで、「打刻」です。わたしが持っているアレクサンドロスの銀貨の姿を見ればよく判るでしょう。



問(3) 「中央集権」のあり方は、サトラップという知事を派遣し、「王の目・王の耳」という監督官も巡回させたこと。ペルシア人を高官として、その下に現地の人間を下級官吏としてつかったことが挙げられます。
問(10) 「8世紀初め…ダマスクス」というウマイヤ=モスクの名前の建物も教科書に載っていません。無視しましょう。
問(14) エルベ川沿いにあるこのベルリン市に向かって東西からソ連軍と米軍が侵入してきて、英・仏・米・ソの4カ国で分割することを決めたことから特異な位置が成立します。ソ連が占領している東ドイツ側に全体の首都であるベルリン市がいちすることになり、「赤い海の孤島」と呼ばれました。
問(15) これは教科書(詳説)では三角貿易の説明文の中にある「アメリカ大陸や西インド諸島でサトウキビ・タバコ・綿花などの大農園(プランテーション)がさかんになる」という記事に該当します。
問(18) 米国のブレトン・ウッズで締結されたブレトン・ウッズ協定が前提です(ブレトン・ウッズ体制)。これは世界の金保有額の3分の2を米国が持っていて、この大量の金準備に裏打ちされて、金とドルの交換比率が決まりましたが、戦後の世界の警察たる米国が世界各地に駐留し、多くの戦争にかかわり、特にベトナム戦争での費用が膨大になり、金保有量が減っていき、この交換比率が保てなくなり体制は崩壊しました。英仏が貿易収支の赤字を金で要求してきたため交換停止を告げます。ニクソン大統領の発表だったのでニクソン・ショックといいました。変動相場制に移行します。
問(14) 東方外交をすすめたのは誰? という問いです。
問(21) 「指導者が処刑」とあればチャウシェスク大統領のルーマニア

解答例
第1問 (君の解答)
第2問
A a ペナン b マレー連合州 c マラヤ連邦
(1) マタラム王国 (2) 七月革命 (3) 強制栽培制度
(4) プラッシーの戦い (5) 「倫理政策」 
(6) インドネシア国民党 (7) 大東亜共栄圏 (8) スハルト
(9)(ア) マレーシアはマレー人が多く、シンガポールは中国系住民が多い。 (イ) 新興工業経済地域NIES
(10)(ア) フィリピン タイ (イ) ポルトガル
B d 望厦 e ウッドロー=ウィルソン
f ワシントン g カイロ
(11) 常勝軍 (12) ジョン=ヘイ (13) 中国同盟会
(14) 袁世凱 (15) 『新青年』 (16) 広州
(17) 上海 (18) 毛沢東 (19) 中ソ友好同盟相互援助条約
(20) ベトナム共和国(21) ゴルバチョフ
第3問 (君の解答)
第4問
A a プトレマイオス b アクティウム
(1) ラメス(ラムセス)2世 (2) リディア(リュディア)
(3) 全国を州に分けて知事サトラップを派遣し、監督官「王の目・王の耳」に巡回させた。
(4) インダス川 (5) 閥族派 (6) オケオ
(7) カラカラ帝が、ローマ帝国属州内の全自由民にローマ市民権を付与した。
(8) パリサイ派 (9) レオン3世 (10) ウマイヤ=モスク

(11) モサデグ (12) 第1次五カ年計画 (13) ジュネーヴ
(14) 戦争末期、東西からソ米軍が侵入して独軍を追放し英仏米ソの4カ国で分割・占領した。ソ連占領地区にあるベルリン市が首都でありながら東ベルリンと西ベルリンに分かれた。
(15) サトウキビ
(16) 大気圏内外および水中の核実験を禁止した。
(17)ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)
(18) 金・ドル交換のブレトン=ウッズ体制が、ベトナム戦争の負担、世界各地での基地負担が重くなり、交換停止に追い込まれた。
(19) 周恩来 (20) ブラント (21) ヘルシンキ宣言
(22) マルタ島 (23) ルーマニア

一橋世界史2023

第1問
 ジャンヌ・ダルクの活躍によっても有名ないわゆる英仏百年戦争(1337〜1453年)を、イギリスとフランスという二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切ではないとすれば、その理由は何か答えなさい。また、この戦争が結果的にフランス王国にどのような変化をもたらしたかを、上述の理由と関連付けて説明しなさい。(400字以内)

第2問
 次の地図を見て、問いに答えなさい。

 問い 1963年アフリカ統一機構(OAU)が創設された。しかし、地図中のAとBがOAUに加盟したのは、それぞれ1975年と1980年であった。OAU加盟が10年以上後となった経緯について、AとBの内外の状況に言及しつつ、説明しなさい。その際AとBそれぞれの宗主国と独立後の国名を明記すること。(400字以内)

第3問
 次の文章を読み、問いに答えなさい。(400字以内)
 孫逸山博士とロシア駐華特命全権代表A·A・ヨッフェ氏は、以下の声明の公表を承認した。
(1) 孫逸山博士は共産主義的秩序、あるいはソビエト制度でさえも実際に中国に導入することはできないと考える。なぜなら、共産主義であれソピエト主義であれ、その確立に成功しうる条件が存在しないからである。この見解は、ヨッフェ氏も完全に共有するもので、さらに中国の最も重要かつ緊急の問題は、国家的統ーの実現と完全な国家的独立の達成だと、同氏は考える。そして、この偉大な任務をめぐって中国は、ロシア人民の衷心からの共感を得ており、ロシアの支援を期待することができると同氏は孫逸山博士に確約した。

(2) 情況を明らかにするため、孫逸山博士はヨッフェ氏に対して、ロシアの1920年9月27日付け中国政府宛通達(第2次カラハン宜言〕に定められた諸原則を、再確認するように求めた。そこでヨッフェ氏は、それらの諸原則を再確認するとともに、帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取を、ロシアが放棄することを基本原則として、ロシア政府は中国との交渉を開始する準備があり、またその意思を有する旨を、孫逸山博士は断言した。これには、中東鉄道(その慣例は上記通達の第7条で特に言及された課題である)に関する一連の条約や協定も含む。
   上海1923年1月26日
  (深町英夫編訳『孫文革命論集』より、一部改変)

問い 下線部のような情況に陥った歴史的経緯を説明した上で、この声明がなされた時期の両国関係の変化が中国に与えた影響を論じなさい。

………………………………………

コメント
第1問
 課題は「英仏百年戦争……二つの国家間の戦争と捉えることが必ずしも適切ではないとすれば、その理由は何か答えなさい。また、この戦争が結果的にフランス王国にどのような変化をもたらしたかを、上述の理由と関連付けて」でした。課題は二つ(1)二国間戦争でない理由、(2)戦争による変化、でした。

(1) たんなる英仏間の二国間の戦争ではない理由を述べよ、ということです。ということはフランス内の問題とかかわっている、ということになります。
 理由1。イギリス王家は自領をフランスに持っている中世的な領主の典型でした。つまりフランスの貴族の一人でもある、ということです。過去にたどれば、ウィリアム1世かせ始まるノルマン朝というのもフランスのノルマンディー公国から来て征服したひとたちの王朝でした。さらにプランタジネット朝がその領地を受け継ぎましたが、この王朝の出身地がアンジューというロワール川の北部をさす地域から来ています。こうした形は、英国王がフランスの一部を領地として持っている、ということより、フランスの大貴族が英国という島をも所有している、という感覚だっとおもわれます。史家がプランタジネット朝アンジュー帝国とも呼ぶのは、フランスからの視点でしょう。フランス西部のほとんどとイングランドを両方とも持っている「帝国」のごとき存在でした。
 フランスのカペー朝6代目の国王ルイ7世が17歳のときに、15歳の南仏アキテーヌの大領主アリエノール(エレオノール)と結婚したことが「帝国」になった理由でした。
 理由2。英国王エドワード3世の母はカペー家出身であり、それでカペー家で継承者がいなければ、エドワード3世が継承してもいいのであり、フランスの王家の問題でもあった、ということです。もっともそれはフランスの貴族にとっても分かっていたことなので、3世と相談なしにヴァロア家に継承させることをフランス側で勝手に決めてしまいました。これは英国国王でありながらもフランス王の家臣でもあることから来ています。
 理由3。またアルマニャック公のようにフランス王家に味方する者(赤いスカーフをつけた)がおれば、イギリスに味方するブルゴーニュ公派貴族(緑の頭巾をかぶっていた)がいました。つまりフランス内の大貴族間の戦争でもあり、内戦の様相を呈しています。
 理由4。二国間戦争という政治的な対立だけでなく、経済戦争でもありました。当時西欧でもっとも栄えた毛織物工業地帯のフランドル(現在のベルギー北部)にはアントワープ・イープル・ブリュージュという工業都市があり、このフランドルにイギリスは原毛を輸出していました。イギリスは植民地のように原料供給地でした。またフランス西南部ギュエンヌ・ガスコーニュ地方は長くイギリス領であり、ここはボルドー市を代表として赤ワインの名産地であり、イギリスの軍艦が護衛してこのワインをイギリスに持ち去っていました。フランスにとってこの経済の二大繁栄地をなんとか奪い返したいという経済戦争を戦いました。

(2)戦争による変化
 ①英仏合体国家が否定されました。上の理由であったように、他国に自国の王族・貴族が領土をもつことが当たり前であった中世がここで終わりを迎えました。言いかえれば、フランス人だけのフランスになった、ということです。「国民国家(一民族一国歌)」という近世・近代の指標となる国家の登場です。
 ②フランス(ヴァロア朝)王家の領土が拡大した、とも言えます。長い戦争を通して没落する貴族も多く、それを吸収していったのがフランス王家の拡大になりました。一種の内戦でもあったので、江戸時代の日本と同様に、徳川幕府が完全に領土統一をなしとげていないように、フランス王家もルイ14世になって完成する統一にはほど遠いものの、「拡大」は始まった、と言えます。百年戦争が終わった時点で現在のフランスの5分の3くらいは持てました。どれくらいかは、ウィキペディアの英語版「Burgundian Wars」を献策すると(
https://en.wikipedia.org/wiki/Burgundian_Wars)、下のほうに「Burgundian territories 」という地図が出てきます。王領地の色を確かめてください。他の地域は16〜17世紀になって征服していきます。
 またこのブルゴーニュ戦争という項目でも推理できるように、まだ国内諸侯との内戦が百年戦争後もつづいています。イギリスでも薔薇戦争がおきています。
 ③集権化の進展も言えます。税制・常備軍・官僚制の整備がすすみます。『西洋中世史料集』(東京大学出版会)によれば、

個々の貴族の軍隊召集や武装の権利が否定されて、国王が軍事力を独占するようになったことである。国王が任命した隊長の指揮下に置かれる部隊の設置が定められたが、それは具体的には、 1445年に実現された.そこで創設された「王令部隊(シパニー・ドルドナンス)」は、15の騎兵部隊からなり、それぞれの部隊は、騎兵100騎、騎乗 弓兵200人、クティーユという剣をもつ従者100人、各種従卒200人から構成され、9,000人の全員が騎乗した。こうして官僚制と並んで、将来の絶対王政を支える柱となる国王常備軍が誕生した。さらに1439年の王令の第36条から第44条には、各貴族が所領に対する税以外の 保護税(夕イユ)、御用金(エード)や流通税を徴収することを禁止する規定も含まれている.これは、これらの税の徴収が武装権や軍事費調達と直結していたことを示している。(引用終了)

 絶対王政を準備した、とも言えます。
 ④ガリカニズム(国家教会主義)もできあがります。「ガリカ」はガリア(フランス人)のことで、教会・教皇の上に国家権力を置くことで、それまで普遍的な権威であった教皇の権威を国家権力の下に位置づけることです。すでにフィリップ4世のときにアナーニ事件(1303)でフランス王の権力は示され、さらに教皇庁アヴィニョン移転を強行して教皇支配下においた点でできあがっていましたが、シャルル7世は「ブールジュの詔勅(国事詔書、1438)」を出して教皇公会議の下におき、聖職者の叙任権が国王にあることを表明するものでした。これは教科書に載っていません。

第2問
 課題は「次の地図……AとBの内外の状況に言及しつつ、説明しなさい。その際AとBそれぞれの宗主国と独立後の国名を明記」でした。
 これは1960年「アフリカの年」より遅く独立した国に関する知識を問うた問題です。マダガスカル(島)の西に位置する二つの国Aモザンビーク南アフリカのすぐ北にあるBジンバブエのことを知っていますか、という問いです。地図を見て勉強してないと第1問と同様に苦労する、いや解けない問題ではないでしょうか? 

モザンビーク
 ある程度、まとめてアフリカ史のポイントを勉強していたら知っていたかもしれない国です。教科書では西欧独裁政権の崩壊とともに説明しています。拙著『センター世界史B各駅停車』(pdf化したもの→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)のアフリカ史では次のように説明しています。

ポルトガル領のモザンビーク(「東アフカ」とよんでいました)と南西アフリカとよんでいたアンゴラとその南の南アフリカ領のナミビアは、現地民族の 解放闘争と国際的な非難の結果、それぞれ独立を実現します(1975、1990)。 とくにアンゴラモザンビークポルトガル独裁政権が倒れるという本国の 変化が、独立の契機になっています。

 このようにポルトガルの植民地でしたから、今でもブラジルと同様に公用語ポルトガルごです。ブラジルの投資家がモザンビークの土地・鉱山を買いあさりました。
 「内外の状況」の「内」は解放闘争であり、社会主義モザンビーク解放戦線(FRELIMO)が主となり、「外」は本国における「リスボンの春(カーネーション革命)」で1930年代来の独裁政権の崩壊があり、中ソの支援がありました。
 
ジンバブエ
 この国は教科書(詳説世界史)では、

アフリカでは、白人少数支配体制が消滅した。1965年、イギリスから一方的に独立したローデシアは、解放運動の武装闘争や国際世論の批判に直面して黒人多数支配をうけいれ、80年国名をジンバブエとする黒人主体の国家になった。

 前掲拙著では、次のように書いています。

ローデシアの北部が戦後の種々の紛争ののちに独立してザンビア(1964) となり、南ローデシアは長い独立闘争の結果、独立にこぎつけジンバブエという古い名前を復活しました(1980)。 

 「古い名前」とは、教科書では「アフリカのイスラーム化」の中に、「ザンベジ川の南では11世紀ころから鉱産資源とインド洋貿易によってモノモタパ王国などの国ぐにが活動し、その繁栄ぶりはジンバブエの遺跡によく示されている」とあることを指しています。世界遺産となっている「グレート・ジンバブエ遺跡」という石造建築遺跡が現在のジンバブエのど真ん中にあり、ここはシバの女王イェルサレムのソロモン神殿を模倣したものらしい。
 このジンバブエ王国の支配下にあったショナ人が自立して、ジンバブエを吸収していき、モノモタパ王国が新たにできます。
 さらに19世紀、セシル=ローズが侵出し「ローデシア」とした地域ですが、第二次世界大戦後、南北に分かれ、先に北が独立し、後で南が独立した、という過程をたどります。 1960年から独立運動が展開し、20年の内戦の末やっと独立できました。

第3問
 課題は「下線部(帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取)のような情況に陥った歴史的経緯を説明した上で、この声明がなされた時期の両国関係の変化が中国に与えた影響を」でした。
 課題は二つ①「歴史的経緯」と②「この声明がなされた時期(1923年)の両国関係の変化が中国に与えた影響」でした。
 ①は「帝政ロシアが中国に強制した全ての条約や搾取」とあり、ネルチンスク条約(1689)から北京議定書(1901)までを考慮すればいいでしょう。1902年に露清間で満洲還付条約、またキャフタ条約といって1727年のものとはちがい、1915年の辛亥革命あとの中華民国とロシアが結んだモンゴルを中華民国宗主国とするという約束もありますが、これらも無視していいものです。
 とすると、1689年から1901年にかけての条約は、国境にかんすることは教科書に書いてあっても、「搾取」というマルクス主義的な経済用語が示すような内容の条約をいつ結んでいるのか? 植民地的な扱いを中国清朝にたいしてとった、ということですが、なんという条約か?
 問い自体は何もこの搾取内容を説明しろとは要求していないので、ネルチンスク条約から北京議定書までズラズラと表面的に書いても得点はあるとおもわれます。
 どうもアロー戦争後の天津条約・北京条約が関連しています。この戦争の条約としての天津条約といえば英仏とだけ結んだようにおもいますが、実はロシア・アメリカとも結んでいます。用語集にそう書いてあります。しかし①港場の増加、②外国人の内地旅行の許可、③外交使節の北京祁駐、④キリスト教布教の自由、とはあっても、不平等条約らしい領事裁判権・関税協定権・治外法権・租界などのことは書いてありません。しかし、これは教科書が省略していて、本当は上記の「不平等」な内容は書いてありました。これを、わたしは『国際法辞典』(鹿島出版会)で調べました。この辞典の「天津条約」には詳しく内容が記載されています。
 声明に登場する「ヨッフェ氏」という名前は知っていましたか? 用語集では「連ソ・容共・扶助工農」の説明文に出てきます。「1923年の孫文ヨッフェ会談で確認し、24年の国民党ー全大会で決定された方針。「ソ連との連携、共産党員の受け入れ、労働者農民の援助」を意味し、三民主義の新しい発展でもあった」と。
 「影響」にあたることとはこの二人の会談・声明の後に出てくる諸々の出来事が解答になります。つまり用語集にもあるように、「国民党ー全大会(国民党第一回全国大会)」で孫文の提案によるソ連と組み、共産党を受け入れ、戦いは一般大衆(労働者・農民)とともに、というスローガン、また「三民主義の新しい発展」は「新三民主義」ともいうもので、かつて1905年に東京で中国同盟会(中国革命同盟会)をつくったときの三民主義とはちがう、辛亥革命後の新たな三民主義が唱えられます。詳しくは拙著『世界史論述練習帳new』の付録「60字問題集」の「中国・政治」25問「孫文三民主義について1905年と1924年とのちがいを説明せよ」のところで解説しています。
 この新方針で第一次国共合作が成立し、国民革命(北伐)のための軍隊養成として黄埔軍官学校が創設されました。共産党員も入学できる兵学校(士官学校)です。蔣介石が校長になります。
 また在華紡(日系資本によって経営された紡績会社)に対する日華排斥運動(1923〜25)がおきます。その大きいものは五・三〇運動(1925)として知られていて、これは教科書にも載っています。 

歴史地図で読むウクライナ史

1 ギリシア

 前8世紀頃からギリシア人の大植民時代に入り、ミレトス市・アテネ市などから黒海北岸に植民者が送り込まれた。地図上の●がかれらの植民都市を表しています。ギリシア人はオリーブ油、大理石、貴金属、宝石、織物類を輸出し、小麦・毛皮・奴隷などを輸入しています。ギリシア本土は小麦が十分採れないので、黒海北岸の小麦に頼っていました。当時からウクライナは「パン籠(かご)」でした。地図上の緑色の地域はギリシア人がつくったボスポラス王国の領域ですが、これは教科書には載っていない王国です。この王国は前1世紀にローマに従属しました。さて、ギリシア人の植民市の名前に、いかにもギリシアらしい名がついています。例えばオデッサ(オデーサ)はオデュッセイアが由来です。

2 スキタイ人の到来
 前8〜7世紀にかけて、黒海沿岸より北部の草原地帯にスキタイ人が現われ、ここにいた騎馬民族キンメリア人を追い立てて支配するようになり、南部沿岸のギリシア人と共存・対立をくりかえしました。北から南へ、森林ステップに居住し農耕に従事していた農耕スキタイの集団、これに従属した同じスキタイ人の農民スキタイ、沿岸に住む王族スキタイ、ステップに住む遊牧スキタイなどがおり、沿岸都市に住み商業や家内工業に従事していたギリシア人がいました。このように何層にも分かれていたようです。

3 ゲルマン人の起点
 印欧語族系のゲルマン人は元々北ドイツから以北に住んでいたのが、各地に南下して住みつきます。ウクライナにはゴート人が来たり、3世紀に東西に分かれて活動するようになります。西のゴート人はドナウ川に行き、ローマ帝国と国境を接し、ボスポロス王国を滅ぼします。4世紀に、フン人(指導者アッティラ)→東ゴート→と押されて、ローマ帝国領内に入り込みます。その後、西ゴート(指導者アラリック)はイベリア半島(スペイン)まで行って建国し、東ゴート(指導者テオドリック)はイタリア半島で建国します。

4 フン人・アヴァール人・ブルガール人
 東から西への民族移動の波は絶えることなく襲ってきます。フン人の西走とともに、6世紀半ば東からアヴァール人、7世紀ころにはヴォルガ川流域からブルガール人がこの地に侵入します。かれらの最大版図を示したのが上の地図で、線が重なっていますが、世紀がちがいます。ただし併存した時期もあります。
 6世紀 アヴァール
 7世紀 ブルガール人
 8世紀 ハザール人
 「ハザール人(ハザール国)」のことは教科書に載っていませんが、これはトルコ系の国でユダヤ教を国教にした国です。
 6世紀から入ってくるアヴァール人は柔然(モンゴル系?)が突厥に倒されて西走してきたものと見られ、7世紀、東ローマ帝国に侵入したが敗れ、8世紀、カール大帝との戦いにも敗れて(799年)他民族に同化したようです。
 ブルガール人はもちろんブルガリアの先祖です。ビザンツ帝国との戦いながら、バルカン半島で建国していきます。第1次ブルガリア帝国(893〜1018)、第2次ブルガリア帝国 1187〜1393)ができます。ゆっくりスラヴ人と同化していきます。

5 東スラヴ人
 ポーランド東南とウクライナの西北部がスラヴ人の原住地と考えられています。それが6世紀頃から西に、南に、東に移動・移住します。6世紀ということは、上の地図4と重なっています。西はポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人です。南はユーゴスラヴィア(南スラヴ)ともいうスロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、スラヴ化したブルガリア人などを指します。
 これらの人々が、上記のアヴァール人、ハザール人、さらに9世紀にはマジャール(ハンガリー)人の襲来を受けながら、この地域に浸透していきました。通り過ぎる遊牧民たちに貢納しながら生き延びたようです。
 遊牧民たちは一時的に強大な軍事的力で押さえつけても、経済的文化的に遅れた民族であり、どの国も永続することもなく、土着の先住民族によって壊滅されたり同化されてしまいました。

6 キエフ(キーウ)・ルーシの成立
 ウクライナを侵略したプーチンは、ロシアの起源は「キエフ・ルーシ」であり、ロシアはウクライナと共通の歴史をもつ兄弟であり、一つの民族である、と侵略を正当化するため、偽りの歴史を述べています。
 偽りの第1点は、この国を建国したのは東スラヴ(ロシア)人でなく、ノルマン人というゲルマン人の一派であること、もっと厳密にはスウェーデンのノルマン人(ヴァイキング)であること(教科書のノルマン人移動図を見よ)、第2に「ロシア」という語句の由来は「ルス(ルーシ)」で、これは外来のノルマン人を呼んだスラヴ人からの呼称であること、つまりロシアという語句は今のロシアを指さず、外国人を意味していたこと、第3に、キエフ・ルーシという国家が建国した頃、モスクワという都市自体が存在しないこと、などを挙げることができます。モスクワはこのキエフ・ルーシが衰退した12世紀後半から初めて歴史に現われてきます。
 東スラヴ人は(大)ロシア人が現在のロシアを構成する人々、ウクライナ人が小ロシア人とも呼び、ベラルーシ白ロシア人とも呼んでいますが、「小」ロシア人というう呼び方は、大ロシア人の「大ロシア主義」による蔑称です。ポーランド分割の後に行政区として「小」を付けた呼び方をします。しかしこの後の歴史を見れば、この小ロシア人に大ロシア人は養われて生きていった、と言えます。
 ヴァイキングの首長リューリクが南下してノヴゴロド国を建て(862)、さらに親族のオレーグがキエフ公国を建国します(882、中谷 まちよ『ワンフレーズnew』(パレード)の語呂→信子862882)。ビザンツ帝国との交易で栄えます。双方の関係は、ウラディーミル大公が正教(東方正教会)に改宗した(988)時点で頂点にたっします。ただ、このキエフ公国(キエフ・ルーシ)は中央集権国家ではなく、諸民族・諸公国の寄せ集めであり、巡回徴貢によって一つにまとまっていました。また少数ノルマン人は、多数の東スラヴ人と混血して民族性は希薄になっていきます。

7 キエフ公国の分裂
 13世紀になると、キエフ公国の諸公国が、ゆるい連帯を組んでいたのが崩れ、分裂が露になります。また諸公国の内部でも紛争がおき、外からの脅威にたいして、一致して対抗することができなくなります。外からの脅威とは、スウェーデンリトアニアドイツ騎士団などです。最後はモンゴル人の侵入に敗れていきました。

8 キプチャク=ハン国
 分裂したキエフ・ルーシにモンゴル人が襲撃してきました。オゴタイ=ハンの命で西征軍総司令官となったバトゥが指揮します。ポーランド西南部のワールシュタットの戦い(1241)に勝ち、バルカン半島まで南下しましたが、オゴタイ=ハン病死の報で撤退し、ウクライナとロシアにキプチャク=ハン国を建国しました。このバトゥの襲撃・殺裁・破壊・略奪のすさまじさは、プラノ=カルピニが『蒙古旅行記』(光風社出版、p.37〜38)で、1240年に陥落したキエフについて、「タルタル人(注:モンゴル人のこと、タルタル/タタールラテン語で地獄の意味)は……ロシアの首都キエフを囲み、長期の包囲攻撃ののち、ここを占領して住民を殺戮しました。わたしどもが旅行の途中その土地を通ったさい、死者の頭蓋骨と骨とが数えきれぬほど地面に散らばっているのに出くわしました」と記しています。
 以後24O年にわたって支配されます。このことを「タタールのくびき」といって、牛馬の首にあてる横木「くびき」で引っ張られる、つまり従属下に置かれたことを意味します。
 従属は、従来通りの諸公の支配は認められたので、間接統治となりますが、監督官バスカク(トルコ語で「抑圧者」の意味)が主となって徴税・徴兵に回ってきます。十分の一税で、財産がその対象となり、基本は土地ないし農産物を徴収されます。人間も労働力・奴隷として連れ去ります。
 諸公たちはカラコルム詣(もうで)、首都サライ詣が義務づけられ、そこで屈辱的な扱いをうけ、抗議すると殺害されます。100年間で20人以上の諸公が殺されました。

9 キプチャク=ハン国の分裂
 過酷な課税と人間の強制連行のために、各地で衝突がおきました。それでバスカクでなく、諸公に徴税を任せる制度に変ええていき、サライの勢力は衰えていきます。サライに代わって勢力をもちはじめたのがモスクワでした。1330年頃、イヴァン(・カリタ「金袋/徴税者」の意味)1世はモンゴル監督官の代理としてタタール税の徴収者となり、サライの承認を受けて勢力をもちだしました。
 この頃、西方からリトアニアポーランドが台頭し、イヴァン1世のモスクワ大公国ポーランド王国リトアニア大公国とが分立した状態になります。
 この時期に、キエフ中心の「ルーシ」はウクライナ人となり、「大」ロシア人はキエフ公国領北東部のいくつかの諸族から成立し、北には白ロシア人という、東スラヴの三民族の民族意識(アイデンティティ)も言語も成立します。史家は、ウクライナ民族は9〜11世紀、大ロシア民族は12世紀から、ベラルーシ民族は14世紀中ごろから形成されはじめた、と順番に説明しています(『世界史歴史大系・ロシア史2』山川出版社、p.175)。この点でも、モスクワの登場が遅かったように、ウクライナ人が先で、ロシア人は後です。
 この時期、キエフモスクワ大公国領ではなく、リトアニア領にあります。リトアニアキエフを奪ったのは1363年でした。

9 リトアニアとモスクワ
 リトアニアポーランドと合体して、ヤゲウォ(ヤゲロー)朝リトアニア=ポーランド王国(1386年、『ワン』語呂→野下郎はあん1さん386)を築いたのは、対ドイツ騎士団の為でした。騎士団を服属させただけでなく、さらに南下して、14世紀にはリトアニア軍は二度もモスクワにせまっています。15世紀にはウクライナの大半(5分の3)を征服するまでに膨張しました。リトアニア王は「リトアニア人とロシア人の王」と称し、当時のヨーロッパ最大版図をもった国です。
 キエフ・ルーシ時代からの貴族は、リトアニア貴族と婚姻関係を結ぶことで、リトアニアの貴族となり大土地所有者としての地位を維持しました。
 西欧で農奴解放がすすむ中で、この東欧地域はかえって農奴制がすすみ、領主たちは農産物・材木を西欧に売ることで利益をあげました。「東欧の向背地化」といわれる現象です。大農園の経営者としてユダヤ人の移住が奨励されたのはこの頃でした。
 宗教的には正教の力が弱まり、カトリックに改宗するウクライナ人も増えていきます。
 東から膨張するロシアは、1667年にキエフ支配下におきました。

10 コサックの自治国家
 これは教科書に載っていない国家です。「コサック」については主にロシア領のコサックについて、ステンカ=ラージンの乱、プガチョフの乱で教科書は解説していますが、このウクライナ・コサックについては書いてありません(ロシア領であった時代に、北方戦争があり、キエフの東にあるポルタヴァでロシアとスウェーデンの決戦が1709年におきています)。
 このウクライナ・コサックが先に形成されて、一部が東部のロシアに移ったものです。初めはカトリックポーランドの支配から逃れた農民や下層貴族からなる集団で、現在のウクライナの中心部で集団を形成したひとびとです。このコサックたちも度々反乱をおこし、1648年からはじまった反乱は、1649年にポーランド・リトアニア共和国と休戦が成立し、自治政府ができました。これはヘトマン国家(ヘトマンシチナ)と呼ばれる独自の軍隊と外交を備えた自治国家の誕生でした。
 「コサック」という言葉は「群(社会)を離れた者/放浪者」、チュルク語で「自由な人」も意味します。1648年の乱を指導したボフダン・フメリニツキーウクライナの民族的英雄で、首都キエフには彼の銅像の立つ広場があります。彼の方針は「自由と平等」でした。
 しかしこの自治も少しずつ制限されていきました。

11 ポーランド分割
 プロイセンオーストリア・ロシアの三国によるポーランド分割です。第一回は、すでにロシアの属国のようになっていたポーランドにたいして他国も食指を動かして取ろうとしていたので、戦争回避のために「分割」という手段をとりました。サンクト=ペテルブルクで三国協定を結んだ上で、エカチェリーナ2世のロシア軍はポーランド軍の抵抗を打ち砕きながら進撃しました。
 20年後、第二回はフランス革命の影響をうけたポーランド立憲君主国になる可能性が出できて、これを嫌ったロシアのエカチェリーナ2世プロイセン軍とともにコシチュシュの抵抗を破り分割します。
 第三回はオーストリア継承戦争も参加して三国による分割となり、ポーランド国王を強制的に退位させて、ポーランドという国家を抹殺しました。この結果、ウクライナの8割がロシア領となり、2割はオーストリア領となります。
 三回の分割は、1772年、1793年、1795年です(『ワン』語呂→ポーラ、どん17729395)。
 エカテリーナ2世は、農民の移動の自由を禁止して農奴にし(1783年)、コサック将校にはロシア貴族と同様の特権を与えましたが、次第にその権力・土地を削っていき、コサック連隊を解散させて、ついにヘトマン国家も消滅しました。ウクライナ南部に女帝は植民政策を展開し、その小麦はロシア帝国を養いました。
 なおエカチェリーナ2世クリミア半島に残っていたキプチャク=ハン国の後継国家たるクリム=ハン国を併合し、セヴァストーポリ(セバストポール)要塞を築いています(1783)。

12 19世紀ウクライナ
 ナポレオン戦争の最中に、ロシア軍は南西のベッサラビアと北のフィンランドに侵入し、それをナポレオン1世にも、戦後のウィーン会議でも認められました。
 ほぼロシア領となったウクライナにおいて、この19世紀に見られる特徴は、工業化と民族主義です。工業化は世紀末にロシアにも資本主義がおき、ウクライナ東南部は帝国最大の工業地帯を形成し、そのため多くのロシア人も住みつきました。この19世紀も穀物とともに工業面でもロシア経済を支えたことは変わりません。
 前者の民族主義は、西方オーストリア支配下ウクライナは、西欧に近いだけに地域は狭いながらもナショナリズムがおこります。また東部のウクライナ本土でもナショナリズムは盛んでした、1825年のデカブリストの反乱は首都サンクト・ペテルブルグだけでなくウクライナでも起こりましたが鎮圧されました。
 ロシア同様にインテリゲンツィアという新しい階層の下で民族主義は育まれます。1805年にハルキフ大学、次に1834年キエフにも大学ができます(ウクライナ最初の大学は、1661年設立のリヴィウ大学)。
 世紀前半に名をあげたのはウクライナの国民的詩人となるシェフチェンコ(18014〜1861)です。かれはウクライナ民族主義独立運動の象徴的存在となったので、その銅像キエフ大学に建っています。
 かれの刺激で民族主義団体がいくつもできたために、ロシア帝国政府は、ウクライナ語の教科書・宗教書の出版を禁止し、ウクライナ語書物の輸入の全面禁止、講演でのウクライナ語使用の禁止、ウクライナ語新聞の発行禁止、小学校でのウクライナ語による教育禁止、ウクライナ語書物の学校図書館からの追放と締め付けていきました。それだけ民族主義が高まっていることを示しています。
 日露戦争中の1905年1月ウクライナ出身の聖識者ガボン神父に率いられてサンクト・ペテルブルグで平和裏におこなった請願運動は多数が死傷者をだす「血の日曜日事件」となり、各地にストライキが頻発しました。戦艦ポチョムキン号の反乱はハルキフ生まれのマティウシェンコに指導された水兵たち(大部分がウクライナ人)でした。
 教科書はウクライナ民族主義については一言も書いていませんが、民族主義はずっと生きていました。本村凌二(東大名誉教授)はウクライナについて「長きにわたる独立運動の末に勝ち取ったものではありません。言わば、ソ連の崩壊により「棚ぼた式」に国家として独立することになりました。」と発言しています(ダイヤモンド・オンライン、5月8日)。
 だいたい、他民族に支配されて民族主義民族主義運動・独立運動の起きない民族って、どこかに居ますか? これでも歴史家ですかね?

13 ロシア革命ウクライナ
 第一次世界大戦ではオーストリアウクライナ人はロシア領ウクライナ人と戦うことになりました。そして大戦の劣勢からロシア革命が起きます。
 キェフに二月革命のニュースが伝わると、3月ただちにウクライナの諸団体の代表が集まり、「ウクライナ中央ラーダ」を結成します(「ラーダ」は会議、評議会を意味するウクライナ語で、ロシア語の「ソヴィエト」に相当します)。1918年、中央ラーダが定めた国旗である青と黄の二色旗、国歌、ウラディーミル聖公の「三叉の鉾」国章も定められ、これが現在のウクライナの国旗・国歌・国章でもあります。モスクワ大公国の臨時政府が倒れると、「ウクライナ民共和国」の創設を宣言します。
 しかし、このウクライナ民共和国は共産主義の国家ではなく、民族主義的な国家であるため、レーニンの指導するボリシェヴィキと対立、レーニンは武力でウクライナを奪い取ることにします(ソビエトウクライナ戦争)。敗北した国民共和国はオーストリアに亡命したり、白軍に入ったりしました。ロシアに協力した人々はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国をつくります。
 首都がモスクワに遷ったロシア政府に従属した衛星国として再出発します(1922年、『ワン』語呂→ソ連、凍1結92人2)。
 この1922年の時点では、クリミア半島にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国ができており、ウクライナに移管されたのは1954年でした。
 スターリンの権力掌握とともにウクライナ自治は狭まっていき、ついにはモスクワに完全に統制され、ソ連の一行政単位になっていきます。そして豊かな穀倉地帯であるウクライナで大飢饉が起きました。これは人為的な飢饉としてホロドモールと呼ばれます。
 機械輸入に必要な外貨を稼ぐため穀物を輸出する必要があり、その手段が、1928年に始まり1929年から強制的になった「農業集団化」でした。農業の集団化とは、これまで自分の土地を耕して自活していた農民を国営農場(ソフホーズ)または集団農場(コルホーズ)に入れてその一員とすることです。農民を国家の小作人にしてしまう政策でした。
抵抗する者は逮捕され、シベリア送りになり、また自活農が成り立たないよう高率な税を課したり、種々の嫌がらせをしました。さらに「クラーク(富農)」と呼ばれた比較的豊かな農民は、農民の中のブルジョワであり、農民階級ひいては人民の「敵」であるとして土地を没収されたり、収容所(グラーグ)送りや処刑されるなど徹底的な弾圧を受けます。日本人が朝鮮半島でおこなったように、農家の一戸一戸を回り、床を壊すなどして穀物を探しました。飢えていない者は食物を隠していると思われます。食物を隠している者は社会主義財産の窃盗として死刑とする法ができました。その結果、正確な数字は分りませんが、400万から1450万人以上が亡くなった、とみられています。人為的なウクライナ人殺戮でした。今でも死体の大量発掘のニュースが新聞に載ります。

14 独ソ戦
 独ソ戦(1941〜45)でナチス・ドイツを追撃したロシア・ウクライナウクライナの人口の約6分の1にあたる約530万人が死亡という戦禍をもたらしました。対独パルチザン活動はナチス・ドイツウクライナ侵入後まもなく始まっています。いくつもの「ウクライナ蜂起軍」 (UPA)が組織され、43年には統一組織になりました。しかしナチスと戦った後は反撃したソ連軍との戦いもしなければなりませんでした。ソ連はこの抵抗軍をナチスとの手先とみなします。数にまさるソ連軍に撃破され、44年10月にはウクライナ全土がソ連支配下に入ります。
 フランスの歴史家でエマニュエル・トッドは次のように解説しています(『第三次世界大戦はもう始まっている』文春新書)。

 そもそも第二次世界大戦時に、みずから多大な犠牲を払ってドイツ国防軍を打ち破り、アメリカ・イギリス・カナダの連合軍による「フランス解放」を可能にしてくれたのも、ソ連でした。ソ連は、2000万人以上の犠牲者を出しながら、ナチスドイツの悪夢からヨーロッパを解放するのに、ある意味でアメリカ以上に貢献したのです。ところが、冷戦後の西側は、その歴史をすっかり忘却してしまったかのような振る舞いをロシアに対してきました。

 実に馬鹿な解説です。理由は、(1)ドイツ軍を招いた一因は、ナチスと協力して独ソ不可侵条約を結び、それがナチス軍を準備させ、ポーランドソ連領内に入りやすくしたのはソ連です。(2)また「2000万人以上の犠牲者」の一因もスターリンによる赤軍の粛清(しゅくせい)です。元帥・国防担当の人民委員代理・軍管区司令官・師団司令官のほとんどを殺し、将校の半分以上が銃殺しました。軍全体が機能不全に陥ります。(3)また武器貸与法(レンドリース法──ウィキペディアの「レンドリース法」を見よ)による武器供与と食糧援助がなければドイツ軍を追撃することは不可能でした。トッドはさもソ連軍単独でドイツをやっつけたかのように書いていますが、無知です。
 スターリングラード攻防戦時には、ソ連はトラック・ジープなどが徹底的に欠乏しており、アメリカ製のトラック・ジープがなかったら兵站(へいたん)が成立しませんでした。終戦までにソ連軍に配備されたトラックの3分の2はアメリカ製でした(山田順・ヤフーニュース、5/7)。

15 プーチンウクライナ襲撃
 これまでのウクライナ史を見てきて分かるのは、ロシアはウクライナ穀物・機械・精神(キエフ正教)に育てられながら、ウクライナ人を犠牲にして、換言すれば、血を吸って太った吸血鬼にひとしい歴史です。
 1986年4月26日、キエフ北方約100キロにあるチェルノブイリ原発第四号炉が爆発しました。広島型原爆500発分の放射能が広がり、ウクライナ全体が汚染します。
 この原発事故も刺激となってペレストロイカ運動がおき、ソ連邦の解体がすすみ、各共和国の独立が促されました。
 1990年12月1日、ウクライナの完全独立の是非を問う国民投票が行われ、90.2%が独立に賛成します。ロシア人の多いハルキフ、ドネツク、ザボリッジア、ドニプロペトロフスクの各州でも80%以上が賛成、ロシア人が過半数を占めるクリミアでも賛成は54%と過半数を上回りました。ソ連崩壊とともに、正式に1991年独立しました。
 しかしここにソ連の復活をねらうプーチンという吸血鬼が襲ってきました。すでにチェチェン(1999)に、グルジア(2003)に、シリアのアサド独裁政権援助などで軍事介入(2015)をしてきました。彼はグルジアの紛争はアメリカが起こしたものだという嘘で介入しています。
 ウクライナNATO加盟をめぐる粉糾が起きている機会を利用して、ウクライナ東部のドンバス地方(ドネツィク州とルハーンシク州)に親露派に蜂起させ介入をはじめ(2014)、さらにクリミア半島にロシア軍を侵入させて併合しました。そしてクリミア自治共和国の独立を宣言させます。プーチンはロシア軍を派遣していない、地元の自警団だ、と言いましたが誰でも分かる嘘でした。クリミアを併合した後も「ウクライナ国家の領土的統一性を尊重してきました……分裂を望みません」と更なる嘘を重ねました。その上で2022年2月24日、ウクライナ北部から全土におよぶミサイル攻撃を開始しました。
 2022年7月の時点で、民間人の死者5110人、負傷者6752人、攻撃された教育施設は2129件にのぼります(朝日新聞)。
 この攻撃について、ロシアを弁護するひとたちがいます。プーチンを悪人呼ばわりすべきでない、NATOが原因であり、アメリカがやらせている戦争だ、という訳です。オリバー・ストーン映画監督、「ロシアを悪者にすることは簡単」という河瀨直美監督、想田和弘監督、史家のトッド、史家の孫崎享アメリカの言語学者ノームチョムスキー国際政治学者の羽場久美子、豊永郁子、エディターの兼松聡子、政治家の鳩山由紀夫鈴木宗男山本太郎などです。この人たちの言説の特徴は、ウクライナ側の被害(ブチャの虐殺、病院破壊)のことは口にせず、話し合い・停戦交渉をくりかえして言うことです。それをやりつつ抗戦しているのがゼレンスキーなのに。橋下徹のように降伏しないから被害が大きくなった、と頓珍漢なことをわめく吾人もいます。なにかラスプーチンの催眠術にかかっているようで、催眠の内容は、わたしは二項対立に陥らない、わたしは偏っていない、わたしは中立だ、わたしは双方ともよく知っている、わたしは客観的だ、といった態度です。なんのことはない倫理観の欠けた傍観者です。
 この傍観性を暴露するために、この人たちの家を襲うのがいいのではないか……、するとかれらは次のように弁護してくれるに違いない。
 どうぞ好きなようにやってください、わたしの家を襲うなんて、民間施設……もしかして自衛隊のひとが寄ったかもしれません、軍事施設しか攻撃してないとプーチンさまは言っておられますし、ミサイルで家が瓦礫になっても、あなたを告発なんてしません、わたしの家族が難民になっても、あなたを悪人なんて言いません、ああ、正教の神さま助けてください!

(この記事は黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』中公新書から学ぶところが多く書いたもの、著者に深謝)

2022年度再現答案

東大
第1問(下線なし)
8世紀。東トルキスタンは唐の支配下にあり、保護されたイラン系ソグド人が西方の宗教や様々な文物を東方にもたらした。西トルキスタンにはアッバース朝が進出し、タラス河畔の戦いで唐を破り、中国からイスラームに製紙法が伝播。トルキスタンに移住したウイグルは、安史の乱で唐の内乱の鎮圧に貢献。9・10世紀。キルギスの侵入で、ウイグルは四散。西ではイラン系のサーマーン朝が自立したが、トルコ系イスラーム王朝のカラハン朝が倒し、東西を併せてイスラーム化を促進。東に成立した西ウイグル王国では仏教文化が繁栄し、ソグド文字をもとにしたウイグル文字も誕生。12世紀には、宋と結んだ金に敗れた遼の一族がカラハン朝を滅ぼし、西遼を建国して東西を支配。13世紀にホラズム朝は、モンゴルに征服されて滅亡し、東西はチャガタイ=ハン国が支配。14・15世紀。西ではティムール朝イル=ハン国を支配し、アンカラの戦いでオスマン帝国に勝利。イランなどを支配してトルコ=イスラーム文化が発展した。16世紀にティムール帝国ウズベク人に滅ぼされ、ティムールの一族バーブルが、北インドムガル帝国を建国。17・18世紀。モンゴル系のジュンガル部が東で勢力を拡大したが、清の乾隆帝に滅ぼされ、この地は清の藩部となり新疆と称された。19世紀にロシアは、イリ条約で新疆での通商活動を清朝に認めさせ、またブハラ・ヒヴァ両ハン国を保護国とした。

第2問
⑴⒜前18世紀。「目には目を、歯には歯を」の同害復讐法の原則に基づき、身分ごと異なる刑罰が与えられ、宗教による差別はない。
⒝イブン=ハルドゥーン。
🄒アメリカの支援の下、パフレヴィー2世は土地改革や女性参政権の実施など西欧化を進める白色革命を行い、貧富差を拡大させた。
⑵⒜イングランド王のジョン王は、財政難の克服や戦費の調達のために重税を課したために、貴族や国民の反抗を招いた。そのため大貴族や高位聖職者らは、徴税権や財産没収などの王の権限を制限すべく大憲章を作成し、議会での承認を義務付けた。
⒝諸外国の侵攻に対処すべくイタリアの統一の重要性を説き、中央集権化とそれを実行するための啓蒙専制君主の必要性を主張した。
⑶⒜康有為・梁啓超
⒝西洋技術を導入し政治改革は行わない洋務運動は、日清戦争での敗北で方針の転換を迫られたので、日本の明治維新を模範とし、光緒帝らを中心に議会政治を基礎とする立憲君主政の樹立を目指す変法運動を行ったが、西太后ら保守派の反対で失敗した。

第3問
アクスム王国。⑵マムルーク王国。⑶アチェ。⑷ラス=カサス。⑸フィヒテ。⑹イギリス・フランス。⑺大陸横断鉄道。⑻ヒンデンブルク。⑼スカルノ。⑽インティファーダ

一橋大学

ローマ時代以来の司教座都市は、十字軍以降に遠隔地貿易が発展し貨幣経済が浸透すると、力をつけた商人たちが司教を追放し、自治都市となることを求めた。イタリアにコムーネが登場し、神聖ローマ帝国では皇帝が特許状を与えて帝国都市が生まれた。都市の空気は自由にすると言われ、諸侯から政治的に自立した都市が成立していた。一方文化面では、十字軍で東方貿易が発展し、イスラームビザンツから文物が流入した。トレドやパレルモアラビア語からラテン語に翻訳されて、失われていた古代ギリシア・ローマ古典が流入した。宮廷や修道院での神学に限られていた学問がアリストテレス哲学・医学・スコラ学を交えた。ボローニャ大学は、法学で名をはせた。都市の繁栄の中、学問が教会の付属学校から大学という自治組織へと移り、振興された結果、学生保護の勅法発布に影響した。

折からの農業不況とウォール街の株価暴落から世界恐慌が発生し、銀行の倒産や失業者の増大を招いた。F=ローズベルト大統領は、状況打開のため3Rを掲げてニューディール政策を行った。ソ連が五カ年計画で恐慌の影響を逃れ、統制経済が評価されたことや、ケインズ有効需要拡大に基づく理論を完成させたことも背景にある。社会保障法やワグナー法で労働者・組合を保護し、全国産業復興法や農業調整法で産業再興を図り、テネシー川の流域開発公社で失業者を受け入れた。産業の自由放任主義と国政を徴税・軍事に限る夜警国家から転換した政策は、大規模な公共事業と社会保障に基づく大きな政府観の確立に影響した。一方で、財政支出の拡大と市場介入の拡大を意味する修正資本主義は後に双子の赤字を招いたり、自由競争に基づく市場原理の有効性を説く新自由主義の台頭を招くに至り、批判されるようになった。

1朴正煕の開発独裁がその暗殺で終わり、民主化運動が起きた。これを弾圧した光州事件を主導した軍人の全斗煥が大統領に就任した。2壬申・丁酉の倭乱。日本統一後の豊臣秀吉が明遠征を図り朝鮮通行を求めたが拒否され、各大名に朝鮮出兵を命じた。日本軍の侵略は義兵の抵抗を呼び、李舜臣の率いる亀甲船の朝鮮水軍に破れ、明は朝鮮に援軍した。日本は秀吉の死後撤退し、朝鮮から陶治や技術者を連れ帰り、朝鮮は荒廃した。明は、続く遠征で財政が圧迫され、物価が高騰して銀が流入し、一条鞭法の普及に繋がった。3壬午軍乱を親清の閔氏政権が耐えると、親日開化派の金玉均らが日本の支援で甲申政変を起こしたが、清の袁世凱が鎮圧し、日本の朝鮮への影響力が弱まった。日清は天津条約で朝鮮派兵時の事前通告を約した。甲午農民戦争で朝鮮が清に派兵を要請すると、通告に基づき日本も派兵し、到着時には乱は鎮まっていたが両軍が対じし、日清戦争が始まった。

東京外大
第1問・問9
パリ講和会議で、ウィルソンの十四カ条の下、民族自決が唱えられ平和と安全が達成させる可能性があった。また、不戦条約やケロッグ・ブリアン協定が結ばれるなどの平和的な動きもあった。しかし、国際連盟規約で戦争の違法化が表明されたものの、経済制裁のみで武力制裁がなく、強制力が弱かった。加えて、国際連盟には米・露という大国が不参加であり、総会では全会一致の原則が採用されたため、諸問題への対応が遅れた。植民地の戦争協力に対し、列強は自治などを約束していたが、バルフォア宣言サイクス・ピコ協定など矛盾する協定を結んだため、民族対立を悪化させた。インドにも同様の対応をしたことで反感を買った。戦時中に出された二十一カ条の要求はワシントン会議で事実上失効し、ドイツ領南洋諸島は日本の委任統治領となるなど、民族自決の原則は名目的だった。敗戦国への莫大な賠償金は対立感情を生み後のファシズムを用意した。

京大
第1問
15世紀初め明の鄭和の遠征によって明に朝貢し、中国、ムスリム商人との中継貿易として栄えた。マラッカ王国は当初ヒンドゥー教国家であったがムスリム商人、スーフィーの影響でイスラム教が広まった。16世紀になると大航海時代が始まりポルトガルに占領され植民地化した。ここでは陶磁器や香辛料を扱う中国貿易が中国、ヨーロッパの間で行われ銀が流入し繁栄した。キリスト教世界のヨーロッパ貿易拠点を奪われる形になったイスラム教徒は、これに対抗してスマトラ島マタラム王国を建国し周辺地域のイスラム化を促進した。

第3問
アテネではペルシア戦争で市民が三段櫂船のこぎ手として活躍したためペリクレスが民主政を確立した。ここでは成年男性全員が参加する民会で直接選挙によって決議された。ローマ初期、アテネと異なり有力貴族からなる元老院が政治を行った。平民の立場を守る護民官ができ平民会もできたがこれは選ばれた青年男性のみが参加した。ホルテンシウス法で元老院が握ったコンスル元老院・平民会から1人になり、リキニウス=セクスティウス法で平民会の決議がそのまま通るようになり平民会は力をつけた。アテネと異なり間接選挙である。前264年からのポエニ戦争に市民は重装歩兵として参加したが、それは閥族派と平民派の争いにつながった。