世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2024年度・合格者の再現答案

2024年度・合格者の再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)

東大

第1問
(1)アジア。ベトナム。インドシナ戦争終結後も東西対立を基軸として南北が対立した。南ベトナムではジエム政権に対抗して南ベトナム解放民族戦線が結成され北ベトナムと合同でゲリラ戦を展開した。これに対し北は米の援助で対抗したが戦況不利に陥った。南アジア。ヒンディーのインドとムスリムのパキスタンが対立した。1965年にはカシミール領有問題から戦争が発生した。朝鮮半島。日本からの独立後も南北の対立が続いた。西アジア。ユダヤ人のイスラエルとパレスチナ・エジプトが対立し六日戦争が起きた。アフリカ。「アフリカの年」1960年以来政治的独立が相次いだが旧宗主国への経済的従属は変わらなかった。仏領アルジェリアはコロンとの泥沼の戦いを経て独立したが、仏に石油輸出を続け経済的従属が続いた。コンゴでは独立後も旧宗主国ベルギーが地下資源を求めて介入し内戦が起きた。
(2)歴史的背景。植民地が原料の輸出地域にとどまり工業化が遅れたこと、プランテーション作物栽培の強要によって自給自足的な伝統社会が崩壊し、慢性的な飢餓状態に陥ったこと、相次ぐ内戦やクーデタによる混乱などがある。これに対し国連は1964年UNCTADを創設し、発展途上国地域の開発や経済成長を支援し格差是正を試みた。

一橋
第1問
神聖ローマ皇帝から特許状を得て自立し、城壁を築いて封建諸侯からの自由を守った中世都市は、ギルドが厳しい経済統制をしき、親方・職人・徒弟の厳格な身分秩序の下自立的経済体制を整えた点で「封鎖的」であった。一方、領主という個人に富が集中せず、遠方都市との交易を行っていた点で「開放的」であった。リューベックを盟主としたハンザ同盟は北海商業圏を形成し、ロンドンやノヴゴロドにも商館を築いて交易を行い、日用品を取り扱った。またアウクスブルクは銀をイタリアに運び、東方貿易の一端を担った。社会経済史的意義は、中世都市が自給自足理念を克服し、地縁的因習を超え他地域と連携した点で村落共同体とは異なる共同体を形成したこと。また貨幣経済の浸透を促し封建諸侯の影響力を低下させ、国王の中央集権化の道を開いたこと、市民の共同体意識を育て近代市民の先駆となったことである。
第2問
13植民地の喪失後、イギリスでは産業資本家層が砂糖プランターへの対抗や人道的観点から奴隷制廃止を求め、奴隷制・奴隷貿易が廃止された。黒人共和国ハイチが独立し奴隷解放を行った後、ラテンアメリカのクリオーリョも英国の圧力で奴隷を解放した。また米国では南北戦争での北部勝利を受け憲法修正で奴隷解放がなされたが、解放奴隷はシェアクロッパー制の下白人地主の経済的従属化に置かれた。各国内では人種差別法が制定され、高等教育から退けられた黒人は最低賃金労働者に留め置かれた。19世紀末になると列強が国力を競い帝国主義政策を推進し、アフリカ分割で黒人国家を支配下に置いた。結果黒人国家の工業化は進まず、宗主国のためのモノカルチャー経済に依存することとなった。こうして奴隷解放は人権という内実の伴わないものとなり、植民地支配に形を変えたに過ぎなかった。経済的支配は西半球の最貧国の経済状況として残り黒人差別もいまだ根強い。
第3問
朝鮮半島では王建が新羅を倒して918年に高麗を建国した。契丹族は遼を立て、渤海を滅ぼし、雲南では大理が南詔を滅ぼした。中国内部では五代十国の争乱が起こり、権勢を誇っていた貴族が没落し、新興地主の形勢戸や武人の節度使が台頭した。960年には北宋が建国されたが、北宋では異民族への歳幣で農民・小商人が没落した。そこで王安石は1069年に新法を提案したが、旧法党と新法党の対立で北宋の没落を早めた。また、儒学が道徳的内容や政治的理念を説くものから周敦頤により哲学的な内容を説く宋学へと変わり、上下定分の理や華夷の別を説く朱子学へと発展した。北宋は1115年に成立した金により靖康の変で滅ぼされ、高宗が建国した南宋は金と屈辱的な講和条約を結び、中国北部を異民族に奪われた。こうして唐滅亡に伴い中国を中心とした東アジアの秩序が崩壊し、実力本位の異民族王朝が台頭した。

筑波大
第1問
セレウコス朝シリアから独立したイラン人国家パルティアは都をクテシフォンに移し、ローマや漢と季節風貿易を行った。3世紀パルティアを倒しササン朝が成立すると、シャープール1世は帝政ローマと戦って皇帝を捕虜にし、ホスロー1世は突厥と組んでエフタルを滅ぼしたりビザンツ皇帝と争うなど強い力を持った。7世紀成立したウマイヤ朝、8世紀ウマイヤ朝を倒し成立したアッバース朝はどちらもメソポタミア含む広大な地域を支配した。アッバース朝最盛期の王ハールーン=アッラシードは『千夜一夜物語』のモデルにもなっている。10世紀にかけてアッバース朝が弱体・分権化するとイラン人がシーア派のブワイフ朝をたてバグダード入城し、アッバース朝カリフから大アミールの称号を獲得。これによりカリフを名目上保護し実権を握った。11世紀にセルジューク朝が成立し巨大化、宰相トゥグリル=ベクがブワイフ朝を倒しバグダード入城してスルタンの称号を得た。
第2問
中国北方には契丹の国家である遼があったが、遼から女真人が独立し、完顔阿骨打が金を建国した。また金は北宋の皇帝と上皇を捕虜とする靖康の変をおこし、北宋と関係を結んで毎年大量の絹などの送らせた。北宋皇帝の弟の高宗は亡命し、臨安を都に南宋を建てることとなる。13世紀にモンゴル帝国が出現し、金は2代目ハンのオゴタイに滅ぼされる。モンゴル国はナイマンやホラズム=シャー朝などを次々滅ぼし広大な地域を得たため、色目人や南人など、人種や民族によって扱いを分けており女真人もその中に漢人として組み込まれた。14世紀末から中国におこった明が衰退の道をたどるころ、女真人のヌルハチは後金を建国する。さらにその次のホンタイジは国号を清に変え、自らの民族名を満州と称した。ホンタイジは内モンゴルと、明代に成立した朝鮮王朝である李氏朝鮮を属国化した。
第3問
スペインの支配下にあったオランダだが、商業を生業とする新教徒ゴイセンが多く、フェリペ2世の旧教政策に反発しオランダ独立戦争がおこる。スペインの懐柔策で南部は脱落したが北部7州はユトレヒト同盟を結んで連邦共和国の独立を宣言した。スペインはアルマダをイギリスに破られ手を引く。オランダは東インド会社を設立してバダヴィアを拠点とし、アンボイナ事件でイギリスをインドネシアから駆逐して東南アジアの香辛料貿易を独占した。また対日貿易や台湾など、東アジアとの交易も独占し利益を上げた。しかしイギリスが航海法を施行、中継貿易が一大産業であったオランダは大打撃を受け英蘭戦争をおこすが敗北した。敗戦の影響に加え中継貿易に依存し国内産業が発達していなかったオランダは衰退する。17世紀後半名誉革命がイギリスでおこり、ジェームズ2世の次の皇帝としてオランダからオレンジ公ウィリアムが迎えられウィリアム3世として即位した。
第4問
17世紀より東アジア貿易を展開していたオランダが、台湾にゼーランディア城を建て勢力を持っていた。その後鄭氏が台湾のオランダ人を駆逐し支配していたが、清が康煕帝時代に台湾を平定し直轄領として統治することになる。1840年代よりヨーロッパ列強が中国侵略を始め、中国がアヘン戦争後の南京条約やアロー戦争後の天津・北京条約など不平等条約を飲まされ弱体化していくと、目をつけた日本が1870年代の台湾出兵をきっかけに台湾支配のための干渉を始める。1894年日清戦争が朝鮮半島でおこり日本が勝利すると、台湾は下関条約で遼東半島・澎湖諸島とともに日本に割譲され、その後日本による同化政策がすすめられた。第二次世界大戦後日本は敗戦国となり、1951年日本と連合国の間で開かれたサンフランシスコ講和条約において締結されたサンフランシスコ平和条約では、日本が主権を回復したと同時に台湾を正式に放棄した。

2024年度の合格メール

2024年度の合格メール

Aさん
先ほど筑波大の合否が出たのですが、合格してました!!
先生が沢山見てくださったおかげです、本当にありがとうございました泣凄く嬉しいです泣
この一年誰かにご指導いただく機会が少なかったので、勉強になっただけでなく添削という形で人と関われたのが心の安定にも繋がったと思います。2ヶ月ほどの短い間でしたが本当にお世話になりました、ありがとうございました。

Bくん
 一年間世界史の添削ありがとうございました。
おかげさまで第一志望の東京外国語大学に合格することができました。本番の世界史では短答で満点をとって、論述では先生に添削してもらったこと、アドバイス等を思い出しながら必死に推敲し、今までになくうまくかけました。もし、一人で添削をし、やった気になったまま試験会場に向かっていたらと考えると、本当にゾッとします笑。本当に一年間支えてもらいました。ありがとうございました。

Cさん
中谷先生、先ほど合格発表があったのですが、無事に一橋大学に合格いたしました。
中谷先生の力がなかったら、とても掴み取れない合格でした。本当に、ありがとうございました。
毎日のように添削をお願いしても、毎回丁寧に返してくださり、教科書には載っていない事柄なども教えていただいて、世界史論述の力とともに自分の中の世界史の知識が広がっていくようでとても楽しかったです。

Dさん
昨日、国立大学の合格発表がありまして、第一志望の「一橋大学法学部」に合格したことをご報告致します。
今まで先生の添削で論述の考え方や書き方について、非常に役立ちました。
改めて添削ありがとうございました!

Eくん

東京大学文科二類に合格しました。度々添削してくださり、また私の失礼な質問にも答えてくださりありがとうございました。中谷先生の添削や解説、著作は誤魔化しがなく情報が正確で重宝しました。
1年間本当にありがとうございました。 

Fくん
今日、合格発表が出て、東京大学文科一類に合格していました。世界史については先生の『世界史論述演習帳new』『東大世界史解答文』『世界史年代ワンフレーズ』を利用させていただきました。前2冊は論理的で分かりやすい解答解説が大変役に立ちました。塾・予備校の「知識を駆使(ひけらか)し」た解答とは一線を画した著作であり、私の東大合格の力強いサポーターとなりました。また『世界史年代ワンフレーズ』は事柄→年号という論述に最適な形式を取っており、ユーモラスなフレーズで覚えることができました。また質問のメールにも迅速かつ丁寧にお返事いただき大変ありがたかったです。

筑波大学の過去問一覧

○筑波大学の過去問一覧

●1980 (300字で以下のテーマを説明せよ) 
1 1848年 
2 パナマ運河 
3 新羅 4 敦煌──なぜ重要か
●1981 (300字) 
1 大乗と小乗の比較 
2 ヘンリ8世とアンリ4世との宗教改革を比較 
3 ニュー=ディール政策と他の政策を比較 
4 五・四運動の意義
●1982 (300字) 
1 陽明学の特質と役割 
2 重商主義の定義・意義 
3 ナチスの台頭の背景とその主張 
4 三角貿易の変化
●1983 (300字) 
1 王安石と司馬光を比較 
2 コンスタンティノープルの役割 
3 合衆国とラテンアメリカの関係 
4 ヤルタ会談の内容と意義
●1984(この年度以降すべて400字) 
1 キリスト教の発展 
2 中国仏教の成立 
3 元・明の交替期の東アジアの動き 
4 合衆国史
●1985 
1 古代オリエント文明の影響下に形成した地中海文化 
2 元朝成立前後の東アジア世界の動き 
3 バルト海の意義 
4 三民主義の変化
●1986 
1 ガンダーラ美術までの成立 
2 アメリカ先住民の歴史 
3 17世紀後半欧州の国際政治 
4 東南アジアの華僑
●1987 
1 古代文明の発展における地中海の役割 
2 前6〜後7世紀のインド文化 
3 4人の政治家の世界観の相違点 
4 洋務運動の展開と問題点
●1988 
1 8〜14世紀内陸アジアの諸民族の動と中国の関係 
2 黒海の意義 
3 1812年前後の大西洋両岸地域の政治的・文化的状況 4 台湾、琉球、朝鮮をめぐる近代日本と中国との関係
●1989 
1 1920年代の大西洋両岸地域の政治経済的、文化的状況 
2 イスラムが世界史に与えた政治的、文化的影響 
3 唐王朝の領土的発展と意義 
4 19世紀漢民族の移住原因と子孫の現在
●1990 
1 前2千年紀末の東地中海地域における諸語族の動き 
2 18世紀におけるウィーンとパリ 
3 西安とその周辺 
4 中国とロシアの関係

▲1991 
1 秦の統一前後の政治状況と思想 
2 キリスト教の成立から国教まで 
3 国語の成立事情
4  14世紀末以降の朝鮮と中国との政治関係
▲1992 
1 古代オリエント文化のヨーロッパへの伝播 
2 10〜12世紀前半までの東・北アジアの国際関係 
3 合衆国史の黒人の役割 
4 1930年代の中国史
▲1993 
1 江南開発 
2 反宗教改革運動 
3 清朝の周辺民族統治政策 4 1848年はどのような年
▲1994 
1 18世紀以前の海の道と中国史の展開との関連 
2 アケメネス朝ペルシアの支配 
3 プロレタリア文化大革命の内容と歴史的背景 
4 フランス革命・古代ローマの共和政・ロシア革命の連続性
▲1995
 1 ローマ帝国の最大領土まで 
2 唐とアッバース朝 3 オスマン帝国史 
4 19世紀英国の自由主義から帝国主義の時代への移行
▲1996 1 アテネの政体の変遷 2 20世紀前半までのモンゴル民族の歴史 
3 19世紀末〜20世紀前半の中国国際関係 4 歴史家たちの「現代」
▲1997 
1 ローマが征服した民族 
2 19世紀末から1979年までのイランの歴史 
3 大西洋三角貿易と各地への影響 
4 近代と前近代中国の対外関係、その相違と共通点
▲1998 
1 4〜7世紀のローマ帝国史 
2 16〜20世紀初頭までの中国におけるキリスト教布教の歴史 
3 1840〜1870年代の時期の大陸国家としてのアメリカ合衆国の発展 
4 1956〜1960年前半までに、社会主義諸国の諸国間の国際関係および西側諸国との関係
▲1999 
1 アケメネス朝ペルシアの興亡 
2 中国史軍制の性格 
3 8〜16世紀にかけてのイラン高原におけるイスラム勢力の浸透 
4 フランスとドイツのナショナリズムの特徴

▲2000  [実際の問題文はここ]
1 メソポタミアとエジプトの歴史と文化の比較 
2 インドのイスラム化の過程 
3 1783年〜1823年までのアメリカ合衆国の拡大・発展 4 儒教の変遷

■2001 
1 共和政期におけるローマの拡大と変質 
2 李氏朝鮮と中国の明朝・清朝との関係 
3 ヴェルサイユ体制の意図と限界 
4 ヨーロッパ列強のアジア・アフリカ進出
■2002 
1 ローマ帝国史 
2 中国仏教史 
3 七年戦争の意義 
4 太平天国とマフディーの乱の共通点
■2003 
1 明朝以降の華僑 
2 前17〜前12世紀エジプトとシリアとの関係 
3 ロシアの東方進出 
4 (1)ローマ教皇に対するカール大帝とナポレオンの態度の差 (2)ナポレオンの「革命的英雄」面と「侵略者」面
■2004 
1 前5世紀のアテネの盛衰 
2 13〜16世紀の東南アジア史 
3 オランダの興隆と衰退 
4 国共合作・対立
■2005 
1 アケメネス朝の東地中海支配の進展と衰退 
2 ムスリム商人の海上交易活動によるイスラム世界の拡大 3 ウィーン体制とラテンアメリカ諸国独立運動との関係 
4 アヘン戦争から辛亥革命までの清朝の体制改革とその問題点
■2006 
1 唐から清の徴税・労役制度 
2 476〜800年のイタリア政治史 
3 五代十国から現代までの5都市の特徴 
4 アルザス=ロレーヌ史
■2007 
1 門閥貴族の形成と盛衰 
2 15世紀末までの神聖ローマ帝国 
3 19世紀の英米独の貿易政策 
4 イスラーム世界の植民地化
■2008 
1 十字軍までの西欧形成 
2 唐宋文化の違い 
3 合衆国のカリブ海政策 
4 東アジアの冷戦
■2009 
1 前8-前4世紀の西アジア史 
2 13-18世紀までの内陸アジア・中国の政権とチベット仏教の関係 
3 19世紀ドイツ史 
4 近代東北アジア史
■2010 
1 古代ローマ帝国とゲルマン人の関係  
2 9-14世紀トルコ人史  
3 社会主義発展史 
4東南アジア植民地化と解体

○2011 
1 アレクサンドロス大王の東方遠征の経過 
2 7世紀-11世紀シーア派とスンナ派との対立 
3 中世-18世紀末ポーランド・ロシア史 
4 1790年代から1860年代中国の危機
○2012
1 インドにおける仏教の成立から衰退
2 12~13世紀、近代科学の基礎の経緯
3 4~8世紀における中国諸王朝の変遷
4 19世紀前半のアメリカにおける領土の拡大
○2013
1 紀元前6世紀までのギリシア人の都市文化
2 ティムール朝の歴史
3 18〜19世紀欧州と南北アメリカの革命・独立運動
4 1960年代まで中華人民共和国の国際関係
○2014
1 7〜11世紀末までのイベリア半島政治勢力の変遷
2 元・明・清の学問・思想と支配体制と社会情勢
3 委任統治の実態と問題点
4 16〜20世紀までのフィリピン史
○2015
1 4〜8世紀前半までビザンツ帝国史
2 6〜13世紀初めタリム盆地の諸勢力の動向
3 ドイツ連邦のナショナリズム
4 中華人民共和国における政治・経済の歴史的展開
○2016
1 アレクサンドロス帝国の分裂からイスラーム勢力の台頭までの西アジア
2 14〜18世紀にかけての明・清の海上貿易管理体制
3 教皇権の拡大と衰退
4 19世紀末から20世紀前半までの朝鮮半島
○2017
1 前11〜後10世紀の唐末五代十国までのの土地制度史
2 11〜13世紀のイタリアとイベリア半島の歴史的状況
3 キリスト教の中国布教と諸問題
4 冷戦構造の成立期におけるヨーロッバの動向
○2018
1 メソボタミアにおける都市文明誕生と盛衰
2 6〜14世紀までの朝鮮の興亡
3 17〜19世紀初頭の黒人奴隷貿易
4 第二次世界大戦後の台湾をめぐる国際情勢
○2019
1 4〜13世紀における江南経済発展と中国王朝の興亡
2 7〜10世紀後半、カリフ制度の変遷
3 19世紀半ば〜20世紀初頭までの露清関係
4 19世紀末〜20世紀半ばシオニズムの展開
○2020
1 9〜11世紀のトルコ系諸集団の中央アジアへの流入とイスラーム化
2 14〜17世紀までのモンゴル系諸勢力の歴史
3 14世紀末〜20世紀初頭までのポーランド史 
4 東インド会社のインドにおける活動
●2021
1 貴族から科挙官僚に統治の担い手が代わった経緯
2 7〜16世紀前半までのエジプトにおける諸国家の興亡
3 ルネサンス期の技術が16世紀初頭のヨーロッパに与えた影響
4 19世紀〜20世紀半ば中米関係
●2022
1 ヘレニズム時代のエジプトとその周辺の歴史
2 17世紀から第二次世界大戦物発前までのオランダの東南アジア進出
3 1910年代から1930年代の中国共産党史
4 1920年代のアメリカ社会の特徴
●2023
1 ローマにおける共和政の成立と変遷
2 10〜14世紀末中国ける国内商業と対外貿易
3 13〜17世紀半ばまでの北インドの歴史
4 1910〜1980年代のチェコスロヴァキアの歴史
●2024
1 前4世紀後半〜11世紀メソポタミアの興亡
2 1110年代から1630年代の女真・満州の歴史
3 海洋国家としてのオランダの台頭から没落
4 17世紀半ば〜20世紀半台湾史

筑波大学・世界史B・過去問

筑波大学・世界史B・過去問

●2024年度
 次の各問について、それぞれ400字以内で解答しなさい。なお、解答文中では指定された語句に下線を施すこと。(以下この序文は省略)
第1問
 前4世紀後半から11世紀までのメソポタミアにおける政権の興亡について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  クテシフォン シャープール1世 スルタン
  大アミール ハールーン=アッラシード

第2問
 1110年代から1630年代までの女真・満州の歴史について、周辺諸勢力との関わりに留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  オゴタイ 靖康の変 朝鮮王朝 ヌルハチ 
  完顔阿骨打

第3問
 海洋国家としてのオランダの台頭から没落までの過程について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  英蘭戦争 東インド会社 フェリペ2世 
  名誉革命 ユトレヒト同盟

第4問
 台湾の統治と対外関係をめぐる17世紀半ばから20世紀半ばまでの歴史について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  康煕帝 サンフランシスコ講和条約 
  下関条約 台湾出兵 天津・北京条約


2023年度
第1問
 紀元前6世紀から紀元前1世紀までのローマにおける共和政の成立と変遷について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  エトルリア人カエサル ホルテンシウス法 
  グラックス兄弟 元首政

第2問
 10世紀半ばから14世紀末までの中国王朝における国内商業と対外易の展開について、流通のネットワークに留意しながら、以下の句を用いて説明しなさい。
  駅伝制 開封 泉州 草市 朝貢貿易

第3問
 13世紀から17世紀半ばまでの北インドの歴史について、諸王朝による支配のあり方および宗教・芸術・言語における文化融合に留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アクバル カースト制度 シク教 タージ゠マハル  
  デリー゠スルタン朝

第4問
 1910年代から1980年代までのチェコスロヴァキアの歴史について、以下の語句を用いて説明しなさい。
 共 産党によるクーデタ ズデーテン地方 
 ハブスブルク帝国 「プラハの春」 ペレストロイカ


●2022年度
第1問
 ヘレニズム時代におけるエジプトとその周辺の歴史について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アントニウス カルタゴ 属州 ディアドコイ   
  ムセイオン
 
第2問
 17世紀から第二次世界大戦物発前までのオランダの東南アジア進出について、他のヨーロッパ諸国や現地勢力との関係に言及しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  インドネシア国民党 オランダ東インド会社 
  強制栽培制度 ポルトガル マレー半島

第3問
 中国共産党に関係する1910年代から1930年代にかけての歴史について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  延安 上海クーデタ 帝国主義的特権の放棄 
  李大釗

第4問
 1920年代のアメリカ社会の特徴について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  移民法 クー=クラックス゠クラン 孤立主義 
  債権国 フォード


2021年度
第1問
 中国王朝において、科挙官僚(科挙出身の官僚)が統治の担い手として段階的に貴族に代わった経緯について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  九品中正 五代十国 新興地主層 則天武后 
  文治主義

第2問
 7世紀から16世紀前半までのエジプトにおける諸国家の興亡について、隣接する勢力との関係に留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アナトリア サラディン シーア派 
  ビザンツ帝国 モンゴル軍

第3問
 ルネサンス期に発達した技術が16世紀初頭のヨーロッパに与えた影響について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  グーテンベルク サン=ピエトロ大聖堂 宗教改革    
  人文主義 ドイツ語訳

第4問

 19世紀半ばから20世紀半ばまでの中国とアメリカ合衆国にかかわる諸問題について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  カイロ会談 ジョン=ヘイ 朝鮮戦争 望厦条約
  ワシントン会議


2020年度
第1問 
 9世紀から11世紀までのトルコ系諸集団の中央アジアへの流入とイスラーム化について以下の語句を用いて説明しなさい。
  ウイグル カラ=ハンン朝 トルキスタン 
  ホラズム朝 マニ教

第2問
 14世紀から17世紀までのモンゴル系諸勢力の歴史について.以下の語句を用いて説明しなさい。
  永楽帝 紅巾の乱 ジュンガル 土木の変 
  ホンタイジ

第3問
 14世紀末から20世紀初頭までのポーランドについて.以下の語句用いて説明しなさい。
  サン=ジェルマン条約 ドイツ騎士団 ナポレオン    
  ポーランド分割 ヤゲウォ朝

第4問
 イギリス東インド会社のインドにおける活動の歴史的展開について、イギリス本国との関係に留意しながら.以下の語句を用いて説明しなさい。
  ザミンダーリー制 産業革命 シク教 
  シパーヒーの反乱 プラッシーの戦い


2019年度
第1問
 4世紀から13世紀における江南(長江下流域)の経済発展と中国王朝の興亡との関連について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  朱全忠 隋 占城稲 大都 東晋 

第2問
 7世紀から10世紀後半までのイスラーム世界におけるカリフ制度の変遷について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アブー=バクル ムアーウイヤ イベリア半島  
  エジプト 大アミール

第3問
 19世紀半ばから20世紀初頭までのロシアと清朝の国際関係について、それぞれの国内の情勢に留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  義和団事件 太平天国の乱 東清鉄道 北京条約  
  ムラヴィヨフ
 
第4問
 19世紀末から20世紀半ばまでのシオニズムの展開について、当時の政治情勢と関連づけながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  イスラエル ドレフュス事件 バルフォア宣言
  パレスチナ ホロコースト


2018年度
第1問
 メソボタミアにおける都市文明誕生の経緯と、その後、前18世紀までの都市王朝の盛衰を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  ジッグラト 粘土板 農耕・牧畜 
  ハンムラビ メソポタミア南部

第2問
 6世紀から14世紀までの朝鮮半島における諸国家の興亡について、隣接する勢力との関係に留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  元 高麗 新羅 白村江 李成桂

第3問
 17世紀から19世紀初頭にかけて大西洋で行われた黒人奴隷貿易について、以下の語句を用いて説明しなさい。
 ヴァージニア植民地 産業革命 西インド諸島 プランテーション 綿繰り機

第4問
 第二次世界大戦後の台湾をめぐる国際情勢と台湾の政治経済について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  新興工業経済地域(NIES) ニクソンの中国訪問
  日中国交正常化 李登輝 「冷戦」


2017年度
第1問
 紀元前11世紀の周から10世紀の唐末五代十国までの
中国の土地制度史について.国家による政策および土地を所有する社会階展の変遷に留意しながら.以下の語句を用いて説明しなさい。
  均田制 豪族 荘園 佃戸 封建制

第2問
 11世紀後半から13世紀末までの約200年間7回にわたる十字軍が行われた。この時代におけるイタリアとイベリア半島の歴史的状況について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アラゴン 教皇党 シチリア 神聖ローマ帝国
  ビザンツ

第3問
 キリスト教の中国への布教と中国での受容に関する
諸問題について、因果関係に留意しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アロー戦争 義和団 対抗宗教改革 典礼問題  
  マテオ=リッチ

第4問
 第二次世界大戦後世界はアメリカとソ連という二つの超大国を軸に西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営に分断され、相互に激しく対立した。このいわゆる冷戦構造の成立期におけるヨーロッバの動向について以下の語句を用いて説明しなさい。
  北大西洋条約機構(NATO) 経済相互援助会議(COMECON) ドイツ民主共和国
  トルーマン=ドクトリン マーシャル=プラン


2016年度
第1問
 アレクサンドロス大王の帝国の分裂からイスラーム勢力の台頭までの西アジアの歴史と文化について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アラム文字 クテシフォン セレウコス朝 
  ゾロアスター教 ローマ

第2問
 14世紀なかばから18世紀にかけての明・清の海上貿易管理体制について、それに対する国家・集団の動向に注目しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  海禁政策 後期倭寇 公行 台湾 琉球王国

第3問
 中世ヨーロッパにおける教皇権の拡大と衰退について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アナーニ事件 インノケンティウス3世 教会大分裂  
  コンスタンツ公会議 叙任権闘争

第4問
 19世紀末から20世紀前半までの朝鮮半島をめぐる歴史の展開について、国際関係に留意しつつ、以下の語句を用いて説明しなさい。
  三・一独立運動 下関条約 大韓帝国 義兵闘争   
  ポーツマス条約


2015年度
第1問
 395年のローマ帝国の東西分裂の後、4世紀末から8世紀前半までの時期を経て、ビザンツ(東ローマ)帝国は小アジアとバルカン半島を主たる領土とした独自の世界を形成するに至る、その歴史的過程について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  イスラーム ササン朝ペルシア 
  スラヴ人 ユスティニアヌス帝

第2問
 6世紀なかばから13世紀初めにかけてのタリム盆地周縁部のオアシス都市をめぐる諸勢力の動向について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  カラハン朝 契丹 チンギス=ハン 唐 突厥

第3問
 フランス革命以降のヨーロッパ社会では、いわゆるナショナリズム運動が吹き荒れた。この運動のドイツ連邦における展開についで以下の語句を用いて、説明しなさい。 
  小ドイツ主義 ビスマルク
  ワフンクフルト国民議会 ブルシェンシャフト    
  メッテルニヒ

第4問
 中華人民共和国における政治・経済の歴史的展開を、因果関係に留意しつつ、下の語句を用いて説咀しなさい。
  改革・開放政策 第1次五カ年計画 「大躍進」
 (第2次)天安門事件 文化大革命 


2014年度
第1問
 7世紀末から11世紀末までのイベリア半島における政治勢力の変遷について、隣接地域の動向と関連付けながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アッバース朝 ムラービト朝 カリフ
  シーア派 ファーティマ朝

第2問
 元・明・清の各時代における儒教を中心とする学問・思想の変遷について、支配体制と社会情勢に関連させて、以下の語句を用いて説明しなさい。
  王陽明 科挙 考証学 康有為 『四庫全書』

第3問
 第一次世界大戦後に設立された国際連盟は、その規約に基づいて委任統治という制度を導入し、敗戦国であるドイツやオスマン帝国の領土を治めることになった。
 この委任統治の実態と問題点について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  太平洋 パレスチナ 東アフリカ植民地 フランス   
  民族自決

第4問
 16世紀から20世紀までのフィリピンの歴史について、国際情勢に留意しつつ、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アギナルド アメリカ=スペイン(米西)戦争 
  マゼラン メキシコ銀


2013年度
第1問
 ミケーネ時代から紀元前6世紀までのギリシア本土と地中海におけるギリシア人の都市文化について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アゴラ オリンピア 集住(シノイキスモス)
  植民市 線文字B

第2問
 ティムール朝の歴史を、以Fの語句を用いて説明しなさい。
  イラン=イスラーム文化 チャガタイ=ハン国
  ウズベク族 ヤジット1世 ウルグ=ベク

第3問
 18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパと南北アメリカで起こった一連の革命・独立運動について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アメリカ独立宣言 七年戦争 ハイチ 
  ラ=ファイエット ロック

第4問
 中華人民共和問の成立から1960年代までの中国をめぐる国際関係について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  中印国境紛争 中華民国政府 中ソ対立
  中ソ友好同盟相互援助条約 平和五原則

2012年度
第1問
 インドにおける仏教の成立から衰退までの歴史、および周辺地域に対するその影響について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アショーカ王  ガンダーラ  クシャトリア     
  ナーランダー僧院 ボロブドゥール

第2問
 12~13世紀のヨーロッパにおいて、後の近代科学の基礎が築かれるに至った歴史的経緯を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アラビア語 アリストテレス 十字軍 ゼロの概念
  ロジャー=ベーコン

第3問
 4~8世紀における中国諸王朝の変遷について、北方諸民族との関係を中心に以下の語句を用いて説明しなさい。
  安史の乱 建康 柔然 都護府 楊堅

第4問
 19世紀前半のアメリカにおける領土の拡大について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  インディアン強制移住法 カリフォルニア   
  ジェファソン テキサス
  マニフェスト=ディスティニー 

2011年度
第1問
 アレクサンドロス大王の東方遠征の経過について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アレクサンドリア インダス川 
  ダレイオス3世 バクトリア マケドニア

第2問
 7世紀から11世紀におけるイスラーム教シーア派の歴史について、スンナ派との対立を中心に、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アリー カリフ セルジューク朝 
  ファーティマ朝 ブワイフ朝

第3問
 中世から18世紀末までのスラヴ民族の歴史について、東スラヴ(ロシア)人と西スラヴ(ポーランド)人を中心に以下の語句を用いて説明しなさい。
  イヴァン3世 キエフ公国 北方戦争 
  ポーランド分割 ヤゲウォ朝(ヤゲロ一朝)

第4問
 1790年代から1860年代までの時期に中国が直面した国内の混乱や対外的危機について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アロー戦争 湘軍 南京条約 白蓮教徒の乱
  林則徐 


2010年度
第1問
 紀元前1世紀から紀元後376年までのローマとゲルマン人の関係について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  カエサル 軍人皇帝時代 『ゲルマニア』
  東ゴート族フン族

第2問
 6世紀から9世紀にかけて突蕨・ウイグルといった大国家を建設し、中央コーラシアを支配したトルコ系民族は、ウイグルの滅亡後さらに西方へ移動し、中東イスラーム世界の主要民族の一つとなった。9世紀中頃から14世紀までのトルコ系民族の歴史について、イスラームとの関わりを中心に、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アナトリア バグダード アフガニスタン
  バルカン

第3問
 ヨーロッパ近・現代における社会主義の発展を、以下の語句(人名)を用いて説明しなさい。なお、彼らが関わった歴史的出来事について言及し、その年代も示しなさい。
  オーウェン トロツキー バブーフ
  マルクス ミュンツァー

第4問
 東南アジアの近・現代史について、外国勢力による植民地支配の展開とその解体過程とを、以下の語句を用いて説明しなさい。
  オランダ領東インド 海峡植民地
  強制栽培制度 スカルノ「大東亜共栄圏」


2009年度
第1問
 紀元前8─7世紀のアッシリア帝国の確立から紀元前4世紀のアレクサンドロスの東征までの西アジア世界における広域支配国家の興亡について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  イッソスの戦い 新バビロニア
  ダレイオス1世 ニネヴェ メディア

第2問
 チベット仏教の起源、および13世紀から18世紀までの内陸アジア・中国の政権とチベット仏教の関係について以下の語句を用いて説明しなさい。
  アルタン=ハーン 乾隆帝 ジュンガル 吐蕃
  フビライ

第3問
 19世紀初頭の神聖ローマ帝国解体から19世紀後半のドイツ帝国誕生までのドイツについて、以下の語句を用いて説明しなさい。なお連邦・同盟の成立およびヴェルサイユ宮殿での出来事について、その年代も示しなさい。
  ヴェルサイユ宮殿 北ドイツ連邦
  ドイツ連邦 ライン同盟 ドイツ関税同盟

第4問
 中国東北地方は、中国の政治の中心部から離れているが、北は黒竜江(アムール川)を境としてシベリアと接し、東は鴨緑江を経て朝鮮半島に連なることから、中国内地だけでなく、周辺地域との関係が深い。このような地理的特徴をもつ東北地方の近代の歩みについて日本との関わりを念頭に以下の語句を用いて説明しなさい。
  張作霖 日ソ中立条約 日露戦争 溥儀
  南満州鉄道


2008年度
第1問
 十字軍の運動が始まる頃には、西ヨーロッパ世界はローマ=カトリック教会の下で統合され、独自の文明として自己を主張し始めたように見える。だがキリスト教会は古代ローマの時代から着々とその組織づくりをおこなってきていた。このキリスト教会の動きに注目しながら、十字軍が開始されるまでの西ヨーロッパ世界の形成について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  イスラム教徒 クローヴィス 聖像禁止令
  ニケーア公会議 800年

第2問
 文化の担い手と対外関係の変化に留意して、中国史における唐の文化と宋の文化の違いを、以下の語句を用いて説明しなさい。
  華夷の別 『五経正義』 司馬光 朱子学
  マニ教

第3問
 19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国はヨーロッパ諸国の中南米への干渉を排除し、この地域への支配を強めた。この時期のアメリカ合衆国とカリブ海諸国との関係について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  セオドア=ローズヴェルト パナマ運河
  パン=アメリカ会議 米西戦争 モンロー主義

第4問
 第二次世界大戦終了後から1950年代前半にかけての東アジア諸国の情勢について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  国連軍 サンフランシスコ講和会議
  中華人民共和国 朝鮮戦争 日本国憲法


2007年度
第1問
 唐末五代までの官吏任用制度に留意しながら、中国における門閥貨族の形成と盛衰を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  豪族 荘園 曹丕 南朝 楊堅

第2問
 現代のドイツ領士は、かつての神聖ローマ帝国を拮盤としている。神聖ローマ帝国の名称の由来、その15世紀末までの変遷について、以下の語句を用いて説明し
なさい。
  オットー1世 金印勅書 皇帝による統一
  領邦 イタリア政策

第3問
 19世紀にイギリスが自由貿易を世界に拡大しようとしたのに対し、後発資本主義のドイツ、アメリカは強く抵抗した。その情況を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  穀物法撤廃 南北戦争 ドイツ関税同盟
  リカード リスト

第4問
 19世紀後半から20世紀初頭におけるイスラーム世界の植民地化について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アチェー王国 英仏協商 スーダン
  ブハラ=ハン国 スエズ運河


206年度
第1問
 中国史上の唐から清に至るまでの徴税・労役制度について、以下の語句を用いてどのような変遷が見られたかをまとめなさい。
  両税法 魚鱗図冊 地丁銀 租庸調 一条鞭法

第2問
 西ローマ帝国滅亡後から8世紀後半までのイタリアの政治情勢について以下の語句を用いて述べなさい(なお、以下の語句のうちランゴバルドはロンバルドと表記される場合もある)。
  ピピン ユスティニアヌス ランゴバルド
  カール大帝

第3問
 10世紀の五代十国の分裂時代を統一した北宋から現代に至る中国の歴史を、下記に掲げる王朝・政権の都(臨時も含む)となった5つの都市名を使い、それぞれの都市の特徴にふれながら、述べなさい。なお5つの都市名は現在の地名である。
  開封 杭州 重慶 南京 北京

第4問
 アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)地方は地理的にはフランスとドイツの中間に位置し、言語的にはドイツ系であるが、文化的にはフランスヘの帰属意識が強い。鉱物資源が豊富であったため、フランスとドイツのあいだで抗争の原因ともなった。近世から現代までのアルザス・ロレーヌ地方をとりまく歴史を以下の語句を用いて述べなさい。
  ウェストファリア条約 ブーランジェ将軍
  フランス革命 ビスマルク
  ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体


2005年度
第1問
 ァケメネス朝ペルシアによる東地中海沿岸地域の支配の進展と衰退を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  イッソスの戦い キュロス2世 エジプト
  リディア ペルシア戦争

第2問
 イスラムの伝播には海上交易が大きな役割を果たした。ムスリム商人の海上交易活動によるイスラム世界の拡大について、以下の語句を用いて述べなさい。
  スワヒリ語 海の道 広州 マラッカ インド洋

第3問
 19世紀前半にヨーロッパで成立したウィーン体制とラテンアメリカ諸国で興隆した独立運動との関係を、以下の語句を用いて述べなさい。
  モンロー宣言 シモン=ボリバル
  クリオーリョ サン=マルティン
  ジョージ=カニング

第4問
 アヘン戦争、アロー戦争と続けてヨーロッパ列強との戦争に敗北した清朝は、体制の立て直しのため諸政策を打ち出していった。アヘン戦争から辛亥革命までの清朝の体制改革とその問題点を、以下の語句を解説しながら用いて説明しなさい。
  科挙制 憲法大綱 総理衛門 変法運動
  洋務運動


2004年度
第1問
 紀元前5世紀における都市国家(ポリス)アテネの盛衰を、以下の年代を用いて述べなさい。
  前495頃〜429年 前490年 前487年 前477年
  前431〜404年

第2問
 元の東南アジアヘの遠征を一つの契機として.大きな歴史的変化が起こり.今日の政治と文化の原型が確立された13世紀から16世紀にかけての東南アジアの歴史について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  アユタヤ朝 マラッカ王国 
  マジャパヒト王国(マジャパイト王国)
  ヴェトナム クメール人

第3問
 16世紀から17世紀にかけて世界の商業的覇権を握ったのはオランダだった。オランダの興隆と衰退を以下の語句を用いて説明しなさい。
  バタヴィア 新教徒 ニュー・アムステルダム
  中継貿易 ユトレヒト同盟

第4問
 中華民国期(1912~49年)における中国の政治的課題は、地方政治勢力による割拠を打破し、強力な中央集権国家を樹立して、外国による圧迫や侵略に対抗することにあった。当該時期の二大政治勢力である中国国民党と中国共産党とは1949年までに、上記の政治的課題を追求しつつ、どのように、また、なぜ連携と対立を繰り返したのか、以下の語句を用いて述べなさい。
  中華人民共和国 軍閥政権 日中戦争
  国共合作 北伐


2003年度
第1問
 中国人の海外移住の歴史は古いが、明代以降、多くの中国人が海外に移住していった。明代以降の中国人の海外移住の歴史と中国本土との関係を以下の語句を用いて述べなさい。
  海禁 華僑 シンガポール 孫文 鄭和

第2問
 紀元前17世紀から紀元前12世紀にかけてのエジプトとシリア地方との関係について、以下の語句を用いて述べなさい。
  テル=エル=アマルナ 戦車と馬 
  アメンホテプ4世 「海の民」 ヒクソス

第3問
 16世紀後半から19世紀末までのロシアの東方進出について、以下の語句を用いて述べなさい。
  アラスカ イリ条約 コーカンド=ハン国 
  ネルチンスク条約 ムラヴィヨフ

第4問
 以下のテキストを読み.下線部に注意しながら、問(1)および問(2)に答えなさい。

 1804年12月2日、パリのノートル=ダム寺院で戴冠式がおこなわれた。ナポレオンはたしかにシャルルマーニュ〔カール大帝〕を追憶した。しかし 大帝はローマに行って儀式をおこなったが、ナポレオンは教皇ピオ7世をパリに招いた。その効果をかれは計算していた。しかも教皇の手で加冠することになっていたのに、その瞬間かれは帝冠をとりあげ、自分で頭上にのせた。このふるまいはナポレオンをいかにもよくあらわしている。そのあとで、ひざまずくジョゼフィーヌに冠をおこうとした。ルーヴル博物館のダヴィドの絵はこの瞬間をとらえている。ナポレオンの母方の叔父フエシュ枢機官とならぶ教皇は、不興げな表情をしている。
 ベートーヴェンの伝記のなかで、第三シンフォニーについて、かれの苦悶するすがたは、感動的な偉大さをもっている。
 ……………………
 もともと共和的な思想をいだいていた芸術家には、故国の敗戦とはべつの問題として、ナポレオンが自由精神、人間解放の選手として新しい時代をつげる英雄のようにおもわれた。フランスとオーストリアの講和後、ヴィーンにはベルナドットが公使としてのりこみ、ベートーヴェンにナポレオンに対する関心をかきたてた。ナポレオンの終身執政就任の報は音楽家の不安をかきたてたが、理想化された英雄の像はまだくずれなかった。1803年、ベートーヴェンはやむにやまれぬ芸術的意欲を第三シンフォニーの作曲にそそぎ翌年にいたって完成し、表紙にボナパルトと記入した。フランス軍は解放の革命的軍隊であり、ナポレオンは革命的英雄でなけれはならなかった。これが『エロイカ』のテーマである。しかしナポレオンの皇帝に即位したという報告は、まもなく全ヨーロッパにつたえられた。ベートーヴェンは大きな衝撃をうけ、はじめて ナポレオンの侵略者、独裁者としての存在に限をひらいた。 (井上幸治『ナポレオン』岩波新書)

問(1) ローマ教皇に対するカール大帝とナポレオンの態度の差はどこからきているか。それはまた二人の文化政策にどのようにあらわれているか。
問(2) ナポレオンの「革命的英雄」としての側面と、「侵略者」としての側面をもっともよくあらわしていると思われる事例(政策)を各々ひとつ挙げ、説明を加えなさい。


2002年度
第1問
 ローマ帝政の始まりからローマ帝国の東西分裂に至るまでの歴史の流れを以下の5つの語句を用いて説明しなさい。
  アウグストゥス 軍人皇帝
  コンスタンティヌス帝 395年 「ローマの平和」

第2問
 中国における仏教の歴史について、以下の5つの語句を用いて説明しなさい。
  玄奘 禅宗 廃仏 仏図澄 竜門

第3問
 フランスとの七年戦争はイギリス帝国の発展にとって重大な意義を持った。それについて以下の5つの語句を用いて説明しなさい。
  パリ条約 フレンチ=インディアン戦争
  プラッシーの戦い ベンガル ルイジアナ

第4問
 19世紀の帝国主義列強のアジア・アフリカ支配が進む中、イギリスの軍人ゴードン(1833─1885)は2つの大きな抵抗運動の鎮圧に関わったことで知られている。(1)2つの運動とは何を指し、それぞれどのようなものであったか、(2)両者の共通点とは何か、について以下の5つの語句を用いて説明しなさい。
  イスラム 洪秀全 上帝会 スーダン
  ムハンマド=アフマド


2001年度
第1問(*印のついた語句を最初に使用し、他の語句の使用は自由とする)
 共和政期におけるローマの拡大と変質について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  前146年* カエサル 奴隷反乱 グラックス兄弟

第2問
 李氏朝鮮は、中国の明朝・清朝とどのような関係を持っていたか。またその関係が19世紀末の東アジアの歴史にどう影響したかを、以下の語句を用いて説明しなさい。
  朝貢国* 江華島事件 豊臣秀吉 日清戦争
  ホンタイジ

第3問
 第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の意図と限界を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  十四ヶ条原則* ラインラント 
  ワシントン会議 国際連盟 ソ連

第4問
ヨーロッパ列強のアジア・アフリカ進出について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  スエズ運河* シベリア鉄道 東清鉄道 
  バグダード鉄道


2000年度
第1問
 メソポタミアの歴史と文化の特徴を、エジプトの場合と比較しながら、以下の語句を用いて説明しなさい。
  統一国家 アッカド人 ナイル川の氾濫
  都市国家 太陽暦 シュメール人 六十進法
  メネス王 農耕社会 天然の要害

第2問
 インドのイスラム化の過程を、以下の語句を用いて説明しなさい。
  タージ・マハル バーブル
  デリー・スルタン朝 ジズヤ スーフィー教団 

第3問
 1783年〜1823年までの時期におけるアメリカ合衆国の拡大・発展について、以下の語句を用いて説明しなさい。
  パリ条約 ルイジアナ 米英戦争
  モンロー宣言 大陸封鎖令

第4問
 中国の儒教の変遷を、以下の語句を古い順に用いて説明しなさい。
  李贄(李卓吾) 『新青年』 孔頴達
  董仲舒 朱熹

▶1999年以前の過去問はここ

 

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方

2024年度共通テスト・世界史Bの解き方
問題は以下のURLで拾ってください。
① https://www.asahi.com/edu/kyotsu-exam/shiken2024/mondai_day1_jmq2ytbaxq/sekaishi_b.html
② https://www.toshin.com/kyotsutest/sekaishi-b_question_0.html

第1問

問1[ 1 ]
 正解は①、なぜなら「資料1で、李斯は、……周王が制御できなくなったこと」と「文王と武王は、一族や功臣の多くに、封土を分け与えて諸侯としましたが、その後疎遠となって攻撃し合い」と一致しているからです。②のは「手厚く養ったことを戦乱の原因」としておらず、「周王朝が長く続いたのは、一族や功臣に封土を分け与えて」という土地分配を王朝の長期理由をあげています。③では「一族に政治上の権力を持たせない」という点を指摘していますが、資料2にはそのようなことは書いてなく「封土を分け与え」たことを強調しています。④では「一族が帝室を補佐」したことは資料2と合っていますが、「郡県制」は官僚を中央から地方に派遣することで地方支配をすることなのに、資料2は郡県制の説明はないです。それに「封土を分け与えて諸侯と」することは封建制ですね。

問2[ 2 ] 
 資料3の下の説明文では、「臣下であった[ ア ]に魏が皇帝の位を奪われたことに鑑みて採られた方策の弊害」とあり、この文章の「争乱の名との組合せ」は④が正解。というのは「呉三桂」は明末清初の部将の名であり、資料3の時代は「八王の乱」がおきました。三藩の乱は清初の乱です[語呂は『世界史年代ワンフレーズ』(パレード)以下『ワン』と略称、300年の八王の乱→[八王も(54)(-)300]、1673年の三藩の乱「三藩1673藩]。

問3[ 3 ]
 「一族に対する分権の弊害」としては前漢時代の「う 呉楚七国の乱(前154年の呉楚七国の乱は『ワン』→呉楚、i[アイ]1呉5よ4)で、黄巾の乱・赤眉の乱は農民反乱なので該当しない。出来事の朱元璋は紅巾の乱で、農民反乱が成功した事例であり、「一族」の出来事としては建文帝と永楽帝はたがいに朱元璋の子と孫の親族。なので正解は⑥

B 
問4[ 4 ]
 「文章中の空欄[ イ ]の人物」とは「10世紀の王……[ イ ]は後にローマ教皇から戴冠され、これが神聖ローマ帝国の起源」とあればオットー1世と想定できます。すると正解の文章は④の「マジャール人を撃退した」王オットー1世になります。
 ①は小ピピン。カロリング朝を創始します。② のレオ3世によって戴冠されたのはカール1世(シャルルマーニュ)、③はカタラウヌムの戦いに勝利したカール=マルテル。

問5[ 5 ]
 下線部ⓑの人物は「ノルマン人ディー公」とあるので征服者「あ ウィリアム(1世)」。「い クヌート」はウィリアム1世より50年前にデーン朝を築いたひと(『ワン』1016年デーン朝[デーン 1016])。
 X 「王国の有力者によって選出されることもないままに、国王の座についた」はまちがい。「貴族たちによって国王に選ばれた」とありますから。
 Y証聖王(エドワード)は「彼に与えた王国を譲らなかった、ハロルドもそのことを認めて宣誓していたにもかかわらず」とあるので、Yの文は正しい。 
 Z文は資料1=ハロルドは保護者・敬虔、資料2=ハロルドは嘘つき、としているが、征服するノルマンディー側の認識と征服されるイングランド側の認識は逆です。
 正解は②の「あ─Y」となります。
 資料1にあるようにハロルドは国王に就いたのに、資料2で嘘(偽証者)とは、皇太子の時代にノルマンディー沖(フランス北部沿岸)で遭難し、ウィリアムに助けられており、イギリスに帰還する際に、助けてくれたウィリアムに王位を譲る約束をしていたのです。しかしいざとなると王位に就いてしまった。ハロルド王はヘイスティングスの戦いで戦死します。これを描いたバイユー市のタペストリーがたいてい教科書に載っています。

問6[ 6 ]
 下線部ⓒ(イングランド王国の歴史)に関連して、イングランドとヨーロッパの他地域との関係について。
 ① フェリペ2世と結婚したのはエリザベス1世ではなく、姉のメアリ1世。
 ② 羊毛(原羊毛)が、イングランドからフランドル地方へ輸出された。これが正解。百年戦争がこの地方で始まると、この地方の毛織物業者たちがイギリスに亡命したため、たんなる原毛の輸出国だったイギリスは毛織物の生産の地に変貌し、エリザベス1世の繁栄を支えることになります。
 ③ ジョン王が争って敗れた相手は、三部会召集で名高いフィリップ4世ではなく、フィリップ2世でした。
 ④ 大陸封鎖令はナポレオン1世の発布で、英蘭戦争の引き金になった航海法はクロムウェルが出したもの(『ワン』1651年航海法→航海1651)。

C 
問7[ 7 ] 
 ドイツでの老齢年金制度の導入時期は導入文では「「世界政策」の名の下に海軍を増強した皇帝の治世下で,同制度が導入され」とあるのでヴィルヘルム2世の時期、2世は1888年に即位しているが、名高いのはビスマルクを辞めさせて親政というかたちをとった1890年です(『ワン』ヴィルヘルムは189を)。したがって正解は③cです。

問8[ 8 ] 
 イギリスで公的な年金制度の導入を主導した政党。導入文に「年金制度の導入を主導したのは,かつて首相グラッドストンが率いた政党」とあるので自由党です。
 ① アイルランド自治法案を議会に提出した、のは自由党なので、これが正解。
 ② マクドナルドが率いる保守党とともに、連立政権を成立させた。マクドナルドの党は労働党。
 ③ スエズ運河会社の株を買収した、のは保守党ディズレーリ内閣。
 ④ フェビアン協会を基盤の一つとして結成されたのは労働党。

 19世紀 トーリー党→保守党
     ホイッグ党→自由党
 20世紀 労働党(1906年から、『ワン』労働党1906働) 

問9[ 9 ]
 前の文章を参考にしつつ、インタビューで資料は「義務を果たさないならば,権利などというものは存在しない」という権利と義務をセットにした横暴な議論をしたのは誰か、という問い。権利は、義務を果たす・果たさないとは無関係に、人間であることは、それだけで権利をもっているのが「基本的人権」の考え方。義務を多くは果たせない病人・障害者・老人になった場合を考えたら、すぐ判ること。弱者切り捨て論はナチスの思想に近づきます。サッチャーはこの世を体育会のように考えていました。サッチャーを理想とした大阪維新の会の思想がこれ。維新の会自体はチンピラ系・ヤンキー系です。正解は⑥。
 首相アトリーが、第二次世界大戦末期に保守党チャーチルに選挙で勝利した理由でもありました。Xにあるような「ベヴァリッジ報告書」という社会保障制度拡充政策をかかげて勝ちました。脱植民地もかかげて選挙後に実行しています。
 Yの「救貧法」は16世紀エリザベス1世の法。エンクロージュアのため追放されて乞食になる者が増えたため。

第2問
A 
問1[ 10 ]
 ①「自身が滅ぼした王朝によるバビロン捕囚に対抗して」はありえない。ユダヤ人を捕囚したのは新バビロニアのネブカドネザル2世。
 ② 資料2に「子どもたちはソフォクレスやエウリピデスの劇作品を歌うことを学んだ」とあり、これが正解。(悲劇とちがう喜劇の覚え方、アリストファネスの『女の平和』 →アリスト平和ネス[『各駅停車』このブログで販売])
 ③ 「破壊したのは、資料3によればペロポネソス戦争……報復」ではなくペルシア戦争。ペロポネソス戦争はアテネ連合軍とスパルタ連合軍の戦い。
 ④ デロス同盟を率いたのはアテネ。父フイリッポス2世が率いたのはコリント同盟。

問2 [ 11 ]
 資料1〜4がアレクサンドロ大王に対する後世の様々な評価、という問ですが「評価」の中身を正誤判定することは求められていません。時代背景だけ検討したらいい問題でした。
 時代背景の「あ 評価Ⅰの時代にはアジアで成立したマニ教がローマ領内で広がった」の時代は「共和政末期」とあるので前1世紀となり、この前1世紀にまだマニ教はできていません。できるのはササン朝が成立する時期とおなじ3世紀(226年ササン朝→笹で226)。
 「い 評価Ⅱの時代=19世紀後半には、帝国主義によるヨーロッパ列強の植民地獲得が「文明化の使命(文明的使命)」の名目で正当化されました。代表的なプロイセンの歴史家ドロイゼン(1808〜1884)は『アレクサンドロス大王史』を著し、ギリシア文明がアジアを圧倒するように、プロイセンによるドイツ統一を説きました。イギリスの詩人のキプリングも「白人の責務」を煽りました。
 したがって正解は③です。


問3[ 12 ]
 下線部ⓐの地域(ミシシッピ川以西のルイジアナ)をアメリカ合衆国に譲渡した国の名と、文章中の空欄[ ア ]に入れる語との組合せ。この「ルイジアナ」の「ルイ」はルイ14世の名をとって付けられたフランス人探検家ラサールの命名。当然フランスから買収したころ(1803年『ワン』類似穴の1803つけた)。
 また「北緯 36度 30分以北の部分」とあるのはミズーリ協定のことで、「奴隷制度……禁止」(『ワン』ミズーリI1 have82 ゼロ0)。
 正解は④。

問4[ 13 ]
 「作られた理由や背景」が複数とある。法律名「あ」は理由・背景Yの内容(大統領ジャクソン)と合い、「い」は理由のところは、法律名Xと合ってます。Zは南北戦争中のホームステッド法のことなので、該当する法律名はありません。正解は②と④。

問5[ 14 ]
 「きっかけと なって起こった事柄」なので結果とか影響です。[ 13 ]の解答が②の場合は①   がおき、[ 13 ]の解答④の場合→⑤がおきます。②は南北戦争中、③は19世紀末(1886年、『ワン』アメリカ労働1886働)、④セオドア=ルーズヴェルトのカリブ海政策、⑥アメリカにおける1787〜88年に憲法草案に対して賛成する派が連邦派、反対するのが反連邦派。連邦憲法という中央集権的な法を支持するかが問われました。前者で成立します。

問6[ 15 ]
 資料の内容で判らなくても、資料の下の文に「[ ウ ]が派遣されて戦闘に加わることとなった結果、実質的に中国とアメリカ合衆国との間の「熱い戦争」」とあるので中国参加の軍の「人民」の付いた軍となり、空欄[エ]は、これも文「アメリカ合衆国は……阻止しようとして」と米軍が加わった軍事同盟なのでSEATOとなります(1956年『ワン』→シャトー19、54)。ASEANは1967年の経済協力機構(『ワン』汗あー[ヒ]1967)。正解は②。

問7[ 16 ]
 文「1948年2月に[ エ ]で共産党のクーデタが起こって同党が政権を掌握」とあるように、戦後3年後でも、まだ共産党政権とは決まっておらず、この1948年にクーデタで共産政権になった国はチェコスロヴァキアです。歴史用語として「チェコ=クーデタ」という語句があります(『ワン』チョコ食うで194ーば8る)。このチェコに関連する歴史は後の1968年の「プラハの春」があります(『ワン』ブラ歯1968)。春の指導者はドプチェクです。人間の顔をした社会主義を目指しました。ソ連共産党書記長ブレジネフから、「わしらはどういう顔をしていると言いたいのか」と問われて「醜い顔」と言いたかったと自白していますが、怖い顔の前では言えませんでした。
 正解は④。

問8[ 17 ]
 中国の第1次五か年計画とソ連の第1次五か年計画について正しい文を選ぶ問題。
 グラフから読み取れる内容は、「あ」がまちがいで「い」が正しい。ソ連の第1次五か年計画はYが正しい。Xの戦時共産主義が失敗したからこそ、五か年計画はあり、Zはアメリカのニューディール政策。正解は⑤。 

第3問 
A 
問1[ 18 ]
 空欄[ ア ]統治理念を刻ませた王なのでアショーカ王、彼の治世に起こった出来事は?
 ① サータヴァーハナ朝は前1〜後3世紀であり、アショーカ王のマウリヤ朝(前317頃〜前180頃)は紀元前の王朝で滅びています。サータヴァハナ朝の同時期はユーラシア大陸に4王朝が併存した時代として覚えておくべきことです(『ワン』p.6 ローマ帝国・パルティア・サータヴァハナ朝・前漢後漢、みな前200〜後200年の間400年)。 
 ② エフタルの侵入があった王朝はグプタ朝(320頃〜550頃、『ワン』愚豚に320(る)いも、5〜6世紀エフタルF樽56がす)。
 ③ 仏典結集が行われた。これが正解。
 ④ 東晋から法顕が訪れたのは、399年長安出発してグプタ朝へ(『ワン』法顕さん399)。

問2 [ 19 ]
 下線部ⓐ(デリー)について
 ① 第1回インド国民会議の開催は1885年にボンベイ(ムンバイ)市です(『ワン』ボンベイの1885)。
 ② 4綱領が決議はカルカッタ大会された(『ワン』1906年カルカッタ大会、軽かった1906かった)。
 ③ タージ=マハルがあるのはデリー市の南にあるアグラです。
 ④ 奴隷王朝からはまる王朝はデリー=スルタン朝といいいます。これが正解。

問3[ 20 ]
 メモ1・2の正誤問題。
 メモ1の「南端」まで行っていない。
 図2「黄金の四角形」の中にイギリスの基地三つが入っています(拙著『各駅停車』p.100、英国の基地は BCM の三角形→ボンベイ・カルカッタ・マドラス)。正解は②。


問4[ 21 ]
 年代問題。
 あ 債務国から債権国に転じたのは第一次世界大戦の1914年(『ワン』第一次大戦191418、終戦の18年まで)。
 い イギリスヘの支援を目的とする武器貸与法が成立したのは、1941年(『ワン』武器は1941)。
 う テネシー川流域開発公社(TVA)が設立されたのは1933年のニューディール政策から(『ワン』ニューディーゼル車で1933)。
 正解は②。


問5[ 22 ]
 [ イ ]に入れる語句、「え」はアメリカ本土は第一次世界大戦の戦場にはなっていないので影響は考えられず、「お 自動車の普及」が妥当します。
 [  ウ  ]に入れる文は「X」の文がグラフの説明として正しく、「Y」の「貨物輸送量」は伸びているのに「同様に、旅客輸送量も減少傾向」がグラフと合っていません。したがって正解は③。


問6[ 23 ]
 空欄[ エ ]に入れる国は「あ ドイツ」であることは、資料1の「ヴィルヘルム帝(ヴィルヘルム2世)」と手紙に(1884年)という1882年の三国(独墺伊)同盟を示唆する年代(『ワン』三国1[イチ]1882)が入っていることから、「あ」と推定できます。
 理由は、このフランス孤立化のための三国同盟が資料2の「フランスは、助かるためにはロシアと同盟するしかない」という1891年の露仏同盟(『ワン』ロフトに1[いっ]1891ま0る)を示唆しているので、「X」の「ロシアとの同盟を望むと期待していた」が該当します。正解は①。

問7[ 24 ]
 藤井さんのメモの「1860年代から1870年代にかけて、鉄道の年平均建設距離数が伸びている」がまちがい。70年代は下がっています。西原さんのメモの「アラスカ売却」は正しい(『ワン』1867年、アラスカ氷、1867し)、90年代の伸びと「露仏同盟」も正しい。したがって正解は②。

第4問

問1[ 25 ]
 文章中の空欄[ ア ]の人物は「公認」した皇帝なのでコンスタンティヌス帝とわかり、その事績「あ 軍管区制(テマ制)」はビザンチン帝国の制度なのでありえないし、召集したニケーア公会議で決めたことは「Y アリウス派が異端と」としてアタナシウス派を正統とすることでした。三位一体説とも言います。正解は⑤。
 「X 単性論」はカルケドン公会議(451年)で、「Z ネストリウス派」はエフェソス公会議(431年)で異端と決められました。

問2[ 26 ] 
 下線部ⓐ(地域や王朝を越える文化の伝達)文化や制度。
 ① ゼロの概念は、ローマでなく、インドから、ということは何度も何度も問われてきました。
 ② アマルナ美術はアマルナに遷都したアメンホテプ4世のときに栄えた文化。細密画は、イスラーム世界全体ではなく、イラン地域で普及した絵画。偶像を嫌うスンナ派では普及しなかった。このイラン系の絵画がムガル帝国に普及した。イラン系の官僚たちがインドを支配しました。ムガル帝国の公用語はペルシア語。
 ③ マドラサという学問機関は早い事例はカイロのアズハル大学、バグダード入のニザーミーヤ学院。これが正解。
 ④ イクター制はセルジューク朝から。

問3[ 27 ] 
 ① シュメール時代(前3000年代~前1800年ご)のメソポタミアで用いられた文字は楔形文字。写真のシリア文字は楔形文字ではない。
 ② パルティアとジズヤの時代が合わない。パルティアは前250年頃からササン朝のできる226年までで、まだイスラーム教が存在しない。イスラーム教は610年から(『ワン』ハンマ610)。
 ③ シリア語を使っていたキリスト教徒が、アッバース朝における学術の発展に寄与した。これが正解。会話文の先生「シリア語を経由した翻訳活動は、9世紀には,ギリシア語から直接アラビア語に翻訳するという形が広がっていく学術的基盤となりました」と「12世紀ルネサンス」の説明をしています。これが正解。
 ④ 第1回十字軍の到来=11世紀までに、「失われていた」はまちがい。先生は「11世紀から13 世紀には、シリア語でも再び多くの書物が記されるようになり,モンゴル支配下の西アジアにおいて、様々な学術分野の著作がシリア語で書き残されました」と。

問4[ 28 ]
 誤っているもの
 ① ルターが、『新約聖書』をフランス語に翻訳→ドイツ語に翻訳が正しいから、これが正解。

問5[ 29 ]
 ① コロンブスの時期(1492年『ワン』ころんだブス1492明)にポルトガルのレコンキスタは終わっていた。12世紀にカスティリア王国から独立して、独自にレコンキスタの戦いをしていたが、13世紀半ばに完了しています。
 ② 条約は両国とも利益を得た世界分割なので「侵害」の懸念はない。
 ③ スペイン王がポルトガル王位を継承したのはフェリペ2世の時期(1580年)なのでコロンブスの時期とはずれています。
 ④ バルトロメウ=ディアスの喜望峰に到達は1488年でコロンブス以前。なので、これが正解。

問6[ 30 ]
 「コロンブスはスペイン人である」=思い込みの内容
 「あ」 スペイン語で書く者はスペイン人である。これが正しい。そのように文章では「文書をスペイン語で書いていたことを根拠に」と書いてあります。
 「い」 ジェノヴアはスペインの支配下にあった。この都市はジェノヴァ共和国として、ずっと独立を保っていた。しかし一時スペインに占領されたり(1522)しているが、コロンブスの時期とは噛み合わない。
価値観
 X 国家は同一の言語・文化を共有する均質な国民によって構成されるべきだという国民国家の価値観……この価値観は合っています。
 Y 列強は支配地域の拡大を目指して世界を分割すべきだという帝国主義の価値観……帝国主義の時期は1870年代からなので、時期が合わない。たがって正解は①。

問7[ 31 ]
 空欄[ イ ]の反乱=安史の乱、最も適当なものは、
 ① 塩の密売人が起こした反乱は黄巣の乱なので、まちがい。
 ② 「減退」がまちがい。藩鎮=節度使による鎮圧と、乱後は節度使の派遣拡大となった。
 ③ 鎮圧して、すぐ「新たな王朝を創設し」ていない。安史の乱は唐中期(775年、『ワン』安心755)なので、新王朝は五代十国の時(907年)から(『ワン』907いか)。
 ④ ウイグルの援軍を得て、反乱が鎮圧された。これが正解。


問8[ 32 ]
 空欄[ ウ ]を推奨した韓愈に入れる語は、古文。韓愈(かんゆ)と柳宗元(りゅうそうげん)が簡潔な古文を復興すべきと唱えました(『各駅停車』の覚え方→還(韓)流(柳)する古文古学復興運動)。
 空欄 顔真卿の書の書きぶり[  エ  ]唐代後半期から宋代にかけての文化の流れ、とは古文のような簡潔な文章への復帰と関連しています。つまり「X」が正しい。「Y」の「貴族的……力強さや個性を尊重する」は流れと矛盾します。したがって正解は③。

問9[ 33 ]
 メモ1「乾隆帝は、漢人に対して自由な言論活動」はありえない。文字の獄という言論弾圧は現中国共産党と同じ。まちがい。
 メモ2「北魏の孝文帝」の漢化政策は中国文化に浸透する、自文化を捨てる政策なので、乾隆帝の「文化事業は,中国の伝統的な書道文化が長く保持された一因」に通じるとしても、清朝満州族の自文化を完全否定したのではない。満州語・満州文字・八旗・文字の獄・女真族の名(愛新覚羅)・辮髪・服装など独自のものを捨てなかった。正解は④。

2024一橋世界史

第1問
 次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 社会経済史的にみた中世北欧都市*の特色は、何よりもまず、それが「一つの大きな家計」単位として自覚せられ、「市民的生活全体の統一」として把握されうる点に存すると思う。そのわけは、市民の経済生活は、すでに相当程度の職業分化を前提としており、各家族のオイコス(家・家政)的・自給自足的理念を克服した点において、またランドゲマインデ(村落共同体)的・地縁的因習に束縛されぬ意味において、さらには領主的封建支配の桎梏を断ちきった意味において、原理的におよそ村落団体とは異なる形成体となり得たからである。
 すぐれて結晶的な景観を示すあの都市の中央に設けられた市場は、市民全体の経済活動の核心をなしていた。市場の繁栄は、ただちにもって「一つの家計」としての同質社会たる市民全体の福祉に影響する。(中略)それゆえ、極言が許されるならばこの家計の構成員たる市民は、文字通り一つの“Stadtvolk”*であり、いうところの「都市経済」とは、“Stadtvolkswirtschaft”*にほかならないとも考えられる。
  「都市経済」がこのような基盤と性格とを前提とするものとするならば、そこには必ずこの経済単位を規制する何らかの経済意欲が誕生しなければならない。すなわち、マックス・ウェーバーのいわゆる“wirtschaftsregulierender Verband"*としての意識は、「都市」または「市民」というものをば、まったく新しい経済政策のトレーガー(担い手)として登場せしめることとなる。ここからまたわれわれはいわばパトリモニアル(家産的)な封建領主のそれとは質的に異なった高次の政策意欲を指摘することができよう。
  では都市の経済政策は、いかなるかたちをもってあらわれるのであろうか。われわれはこれを、あの有名なビュッヒァーの経済発展段階説がしめすが如き、単に封鎖的なものとして一方的に規定するのではなしに、「封鎖的な面」と「開放的な面」との統合として考察すべき十分の理由をもっている。というわけは、中世社会において、都市が果たした経済的役割の重要性を as such として評価し、他方、中世市民がもっていた経済心理を考慮する場合、どうしてもこの両面の性格が矛盾なく並存していた事実を認めざるを得ないからである
(増田四郎『増補西欧市民意識の形成』より引用。但し、一部改変)
 *北欧都市:ここではアルプス以北の都市を指す。
 *Stadtvolk:「都市住民の総体」等を意味するドイツ語。 
 *Stadtvolkswirtschaft:「都市住民全体の経済」等を意味するドイツ語。  
 *wirtschaftsregulierender Verband:「経済的規制団体」等を意味するドイツ語。

問い 文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して考察しなさい。(400字以内)

史料
 中世都市市場の搬入及び供給区域は地誌学的に精確に区画され得ないことは、その搬入及び供給の区域は市場貨財の異なるに従って自然にその延長を異にしていたがためではあるが、それにもかかわらずこの区域は経済的意味よりいえば、一箇の閉鎖的区域を形作っていたのである。すなわち各都市は、その周囲の「地方」と共に、自主的なる一経済単位を形成し、この範囲内において、経済生活の全過程がその地特有の規範に準じて、独立的に完遂されていた。
 (ビュヒァー(ビュッヒァー)『増補改訂 国民経済の成立』より引用。但し、一部改変)

 

第2問
  大西洋奴隷貿易により始まった南北アメリカ大陸・カリブ海域における奴隷制は、19世紀にそのほとんどが廃止された。19世紀における一連の奴隷解放の動きは、リンカンが「奴隷解放の父」として顕彰されるなど、各国の歴史において偉業と位置づけられ、また近年ではUNESCOなどが、奴隷解放を記念する国際年のイベントを開催している。
  しかし、2020年に米国で燃え上がり、世界各地へと広がったブラック・ライヴズ・マター運動では、黒人たちの貧困や黒人への日常的な人種差別、暴力が問われ、彼らは「黒人の命も大切」と訴えた。奴隷解放から一世紀以上が経つのに、なぜ不平等な扱いをいまも強いられるのかと、ブラック・ライヴズ・マター運動ではあらためて奴隷制という負の遺産の大きさと、奴隷解放のプロセスの問題点に注目が集まった。
  奴隷貿易や奴隷制の廃止に必ずしも「偉業」とは評価できない側面があり、それが現在の黒人たちの不遇な境遇と結びついているとすれば、それはどのような点だろうか。奴隷を解放した側からではなく、解放された側、すなわち、元奴隷や黒人社会、アフリカ各国の側からみた場合、奴隷解放とその後の解放された黒人に対する政策は、どのように評価することができるか。19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら論じなさい。ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

 13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割

 

第3問

 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

………………………………………

コメント

第1問

 一橋らしい大学の授業をそのまま反映したような問いです。資料・史料は受験生が読んだこともない研究書を引いてきて、たぶん大学・大学院で出したテストをそのまま使っているような問い方です。
 しかし諦めないで、教科書で学んだこと、過去問で学んだことを基に推理すれば、ある程度は的を得(射)た答案はできます。
 課題は「文章中の下線部について、下の史料に示されたビュッヒァーの見解の批判的検証を通じて都市経済の「封鎖的な面」と「開放的な面」を明らかにしつつ、アルプス以北の地域において中世都市が果たした社会経済史的意義を、12〜14世紀の神聖ローマ帝国領域内の複数の都市の事例に即して」でした。
 過去問にこの問題に類するものは、1983-1 中世都市の自由(300)
1988-1 中世から近世の経済的国民主義(400)
1994-1 中世都市の自由(200)、自由の維持方策(200)
2006-2 中世都市市民(250)
2016-1 古代都市と中世都市の比較(400)

 このように伝統的に中世都市は頻出テーマです。
 「アルプス以北」と限定しているのは南欧のイタリア都市はコムーネと呼び、違うタイプの都市なので、中世都市といえば、「アルプス以北」と限定していなくても中世都市の代表的・典型的な都市としてあつかいます。

 課題の「開放的な面」は書きやすいでしょう。「社会経済史的意義」とともに農奴解放(権)・商工業者(同職ギルド)にも市政解放(ツンフト闘争)・特許状に書いてある立法権・貨幣鋳造権・居住権・市場権・交易権・自治権などがあり、近代市民社会の基となった種々の自由・権利が与えられました。また海外に進出して商館を設け、他都市との同盟を結んでいます。これは皇帝に対抗する軍事同盟でもありました。
 「封鎖的な面」は城壁・ギルド規制・身分制・市政は親方のみ参加が挙げられます。
 これに加えられるのが禁制圏です。これは史料の「一箇の閉鎖的区域」のことですが、受験生にとっては違和感があるでしょう。閉鎖性に該当する部分の説明になっているのですが、これを教科書や参考書で説明したものを見たことがありません。わたしは添削しているので、その際の添削文にはかならず説明するようにしています。この「閉鎖的区域」とは禁制圏ともいい、
次のような説明します。
 都市の商業と工業を守るために禁制圏を設けました。禁制圏とは都市の周辺のいくつかの農村や都市と協定を結んで、じぶんの都市で作っているものは協定した農村・都市では作らない、その代わり周辺の都市・農村で作っているものは自都市では作らない、という共存の協定です。またよそからくる商人はこの禁制圏に来ると荷物を降し、都市の商人に運んでもらいます。そうすることで都市の商人の利益を守り、都市に入って、持ってきたものを売る権利を与えます。もちろん売る商品は自都市で作っていないものに限ります。売れ残ったものを、都市の商人がはこんで禁制圏の境界までもっていき渡します。
 この禁制圏について書いた予備校の「模範」答案は一つもありませんでした。
 この禁制圏のことは引用された増田四郎の文章のつづきにも出てきますので、以下にそのまま載せておきます。

 増田四郎著『増補 西欧市民意識の形成』(講談社学術文庫、P.170〜173)
 すなわち、市民は"Eng Wohnen,weitdenken."(狭く住み、広く考える)ともいうべき特殊な生活感情をはぐくみ、一方においてギルドやツンフトの伝統と旧慣を墨守するところの、その同じ市民が、他方、市壁を越え、領邦を越え、国境をもはるかに越えて、活発な国際交易の波上にのりだし、出来る限り広範な流通場裡に、みずからの属する都市の自主性を確立しようと競いあう。封鎖的な団体的結合と開放的な企業家的精神とは、矛盾するところなくここに両立する。この意味において、中世都市の類型的ないしは本来的な姿を、単に地方農村的な小都市の牧歌的情景のみに求め得るとなす見解は、明らかに誤謬である。中世都市経済のいきいきとした脈搏(みやくはく)は、むしろこうした両面性を最大の極限にまでおしひろげ、しかもなお一種の団体的緊張を保持しつづけた進取的都市の中に鼓動していたと断じなければならない。
  まずその封鎖的な面をみるに、もともと商工業者の集団であるはずの都市にjustum pretuim)の原則は、仲間相互の連帯責任の精神をうえつけた。十三世紀を頂点とするスコラ哲学の社会秩序観、特にその「職分」の思想は、まさしくこの現実にからみあっており、また今日漠然と主張せられる「ギルド独占」の弊害と「旧慣墨守(ぼくしゅ)」の中世的精神は、一部このような部面から湧き出たものであるが、しかし彼等のすべてが姑息な雰囲気にのみ満足していたものでないことは、十四世紀以降、各地の都市にみうけられるあの熾(さか)んな「ツンフト闘争」(Znuftkampf)の政治運動──すなわち富商的パトリチアート(都市貴族)の市政独占に抗して、ツンフトの合理的・平等的な参与を公認せしめようとする下層手工業者の反抗──に照しても極めて明らかである。しかしこの闘争とても、概(おおむ)ね両者の妥協による解決をみたわけで、イタリア都市にティピカルにあらわれるごとき市民階級自体の分裂につぐ分裂──例えばパトリチアート対ポポロ、ポポロ・グロッソ対ポポロ・ミヌートの対立等──、そしてついには独裁的な都市僭主(せんし)制(Stadttyanrnisを)さえうみだした事例とは、およそ根本的に異なる様相をしめしていた事実をみのがしてはならない。すなわち、時に内部のはげしい闘争があったにしても、われわれとしては、中世北欧都市の市民的結合の健全さと、アウタルキー(自給自足)的志向が一面の基調であった内部組織の秩序とを、絶対に無視するわけにはゆかないであろう。
  つぎに開放的・積極的な面であるが、この問題については、例えば、北海およびバルト海を足場に、遠くノヴゴロド、ベルゲン、ロンドン、ヴィスビー等に商館(Kontor)を設けたドイツ・ハンザ都市のめざましい活躍とブルージュの厳たる世界市場的地位を想うのみにて既に充分である。東西両洋、南北両欧の雑多な商品は、ハンザ商人と南方イタリア諸都市の活動・媒介によって、予想外の流通度をしめしていた。帝権ないし王権が、経済政策の重要性にめざめない以前においては、こうした都市の同盟形態が最も適合した有力な経営組織であり、また活動の母胎であった。大空位時代(Iterregnum)以後、中世末期の各地にみうけられる政治的な「都市同盟」(Städtebund)が、いかに熱烈に王国ないし帝国の統一を冀求(ききゅう)して、封建諸侯の分立に執拗に抗しつづけたかは、都市市民の積極的開放面を立証する有力な証左といえよう。一言にしていえば、彼等は外に向っては出来るかぎり自己を主張しようとしたわけで、他都市・他国の商人はひとしく"ailenmerchant"(よそもの商人)と考えられ、"Vaterstadt"(故郷の町)の語は、そのまま今日の「祖国」(Vtaerland)の語の感情をもって理解せられた。このようにして、字義通り世界交易網の中における自己主張であったればこそ、彼等はこぞって「互市強制権」(Stapelrecht)や「交易通路強制」(Strassenzwang)のような諸特権を獲得し、相互に独自の都市的権益として誇り得たわけである。換言すれば、「中世的世界経済」の前提なしにこの権益を保持することは、それ自体無意味にちかいというべきである。
(引用終了)


第2問
 この問題は一橋の過去問(2003-2 奴隷貿易盛衰の政治的・経済的要因(300)、2017-2 奴隷解放と独立運動(400))の類題です。
 課題は「19世紀の奴隷貿易・奴隷制廃止の一連のプロセスを概説した上で、奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目しながら(指定語句→13植民地の喪失、西半球の最貧国、シェアクロッパー制、アフリカ分割)」でした。
 「廃止の概説」「奴隷解放の問題点を中心に当時の国際関係や政治経済情勢に着目」と二つの課題があります。
 「廃止の概説」は教科書なら、
奴隷貿易・奴隷制(奴隷労働)の廃止(英の1807年、1833年)、フランス革命(1794年)、ラテンアメリカ独立の際の解放(ハイチ1804年)、北米の南北戦争後の解放(修正13条、1865年)とあります。この中でも指定語句の西半球の最貧国はハイチのことですが、ここはフランスの植民地でしたが、独立の代償として多額の解放資金を要求され払いつづけ、「西半球の最貧国」と呼ばれることになり、貧困から抜け出せない。これが「問題点」のひとつです。奴隷労働によってフランスは利益を得ているにもかかわらず、「解放」で奴隷という財産を失ったことにたいする補償をせよ、ということです。この横暴さが分かりますか?(→ウィキペディア・ハイチ革命)
 日本も徴用工の問題で韓国と対立していますが、個人への補償・賠償でもない、日本の建設企業に環流する5億ドルを出したということで解決した、とする横暴な日本政府の対応があります。このことでも実はハイチの場合と同様に、帰国した徴用工が居なくなったので、その喪失の補償金を日本企業はすでにもらっていることを知っているひとはほとんどいません。中国人強制連行の判決(2007年)で、日本の最高裁は「中国人労働者の受入れに関して国家補償金を取得するなどして一定の利益を得ている」と指摘していて企業側に救済せよと訴えています(→https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/580/034580_hanrei.pdf)。
 次の文書には企業に支払った会社名と額の詳細が書いてあります。→

(朝鮮労務対策委員会活動記録)

 「問題点」は指定語句の「シェアクロッパー制、アフリカ分割」を使って説明ができます。合衆国のシェアクロッパー制は解放奴隷は元々何も持たない道具であったのが、ひのまま何もも持たないで解放されたので、すべては借りて生きていく他はなく、土地も借りて小作人になりました。これがシェアクロッパーです。解放されたといっても、主人側の差別意識は解消されるものではなく、解放後は現在まで長いこと迫害され続けています。戦争では前線に立たされつづけました。 
 独立したアフリカも分割とともに「低開発」のために工業化を阻止されて工業が発しないように、ずっと原料供給地・市場であるように仕組まれました。これを低開発といいます。自然のなりゆきでなく政策的な非工業化です。
 なお奴隷制は21世紀も継続しています。https://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_the_21st_century
 日本の奴隷制としては、「技能実習制度」が国連から指摘されています。実習生からパスポートをとりあげて逃げないようにしているのが、わたしたちの周辺で営業している中小企業のおっさんたちです。松本人志が女性をホテルに集めて、個人情報のつまったスマホを取りあげるのも、一時的な奴隷化です。


第3問
 10世紀から12世紀頃、唐王朝の滅亡に伴って発生した東アジア世界の政治的・社会的変動を述べなさい。(400字以内)

 これは東大の過去問(1974年)「10世紀における東アジア(中国・朝鮮半島・ヴェトナム・日本)の諸国家の興亡・変動を300字以内の文章で説明せよ」と類題です。
 拙著『世界史論述練習帳new』の巻末付録「60字問題集」の「中国・政治」の中の問15「10世紀初めから12世紀前半までの東・北アジアの国際関係を説明せよ(90字)。(指定語句→兄弟 西夏)」とも共通した問題です。
 問題用語の「変動」は王朝の変化というより王朝の変化を超えた、それ以前や以後の大きな流れも視野に入れて使います。9世紀までの傾向を変えただけでなく、13世紀以降にも影響を与えた変化、つまりは大きな変化=変動のことです。たとえば、気候変動という言い方をするように、数年間の小さな変化より、10〜20年、ときに世紀を超えるような大きな変化を変動と呼びます。10〜12世紀に変わった王朝だけでなく、10世紀以前と12世紀以降にも同様な変化が表れているような大変化です。どの予備校の解答例も、王朝の変化ととった解答文ばかりで、問題を理解していなかった、といいでしょう。征服王朝という語句をつかった解答文がないことでも、これは明らかです。
 この問題では五代十国以前の唐王朝の時期と、五代十国以降の宋以降に現れる元清のような征服王朝が中国全土を支配するといった事態、これは唐以前の五胡十六国時代のような遊牧的で短命な王朝の時代とは相当違った傾向が表れる時代の登場です。
 頭だけでなく、支える社会も、貴族から庶民新興地主層・形勢戸・士大夫が担い手に変わる、文化も貴族的なものに代わり庶民的なものが一般的になります。
 中国はこのように変動しますが、他の地域でも似た現象がないか、と探ってみます。朝鮮なら豪族・貴族から両班層、日本も貴族から武士へ、ベトナムは不明なので社会は書けないけれど政治は中国に従属していた時代から独立した王朝の時代に変わります。実際、ベトナムでは9世紀までは北属期、10世紀から独立期と区分しています。
 その前にベトナムも書いて良いのか、ベトナムは東アジアに入るのか迷ったかたもいるでしょう。入ります。もともと北部は中国の支配下に長いことあり、中国の制度・文化も導入しているので、東アジアに入れて良いのです。

2024京大世界史

第1問(20点)
 乾隆帝の70歳の誕生日を祝賀する行事に参加する朝鮮の使節に随行して熱河の離宮に赴いた朴趾源(ぼくしげん)の『熱河日記』は、その冒頭で年次を記すのに「後三庚(こう)子」(明の崇禎(すうてい)年間より後の三回目の庚子の年)という表記を用いている。ここには、当時の朝鮮と中国の関係の一面が表れている。16世紀末から19世紀末にいたる朝鮮と中国の関係の変化について、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問
 次の文章(A、B)を読み[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(20)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 マンチュリア(今日の中国東北地方および(1)ロシア極東の一部)のうち、今日の遼寧省に相当する地域には、戦国時代に中国本土の農耕民が本格的に入植するようになった。他方、遊牧民もしばしば南下し、やがて農耕民・遊牧民が混在する独自の空間が形成された。
 (2)『史記』匈奴列伝によれば燕は東胡を破り(3)長城を築いて、上谷・漁陽・右北平・遼西・遼東の五郡を設置した。遼西・遼東の二郡が今日の遼寧省にほぼ相当する。(4)漢王朝を開いた高祖劉邦は、盧綰(ろわん)を燕王に封じたが、盧綰はのちに匈奴に亡命した。このとき朝鮮半島に逃れた中国人が今日の平壌を中心に[ a ]を建国した。漢の武帝はこれを征服し、[ b ]・玄菟・臨屯・真番の四郡を設置した。
 後漢末年、[ c ]の乱を契機に、中国は群雄割拠の状態に陥り、遼東では公孫氏が自立した。公孫氏は呉と結んで魏に対抗したが、(5)魏に滅ぼされた
魏はついで高句麗に出兵した。鮮卑慕容(ぼよう)
部は魏の公孫氏・高句麗への遠征に従軍し、遼西に定住した。[ d ]の乱で洛陽が陥落すると、遼西・遼東は混乱に陥り、これに乗じた高句麗が、[ b ]郡を征服した。慕容廆(かい)は西晋の東夷校尉崔毖(さいしつ)を破って遼東を制圧し、高句麗と交戦した。慕容皝(こう)は燕王を自称し(前燕)、(6)龍城(今日の遼寧省朝陽市)に都城を築いた。慕容儁(しゅん)は後趙を滅ぼした冉閔(ぜんびん)を破って中原(北中国の東半)を制圧し、皇帝を称したが、慕容暐(い)は前秦の苻堅(ふけん)に敗れ、前燕は滅亡した。
 北中国をほぼ統一した符堅は、東晋征服を図ったが、淝水(ひすい)の戦いで大敗し前秦は滅亡した。慕容部は独立を回復し、慕容垂が後燕を建国したが、鮮卑[ e ]部の北魏に参合陂(さんごうは)の戦いで敗れ、遼西に退去した。ついで、高句麗が遼東を奪取した。慕容宝・慕容盛ののちに立った慕容煕(き)が暗殺され、慕容宝の養子で高句麗人であった慕容雲(高雲)が擁立されたが、これも暗殺され、馮跛(ふうばつ)が北燕を建国した。馮弘のとき、(7)北魏の侵攻で北燕は滅び、馮弘は高句麗領であった遼東に亡命したが、のちに殺害された。


(1) 17〜19世紀の諸条約によって、今日の中露国境がおおむね画定された。
(ア) 1689年、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)を国境とするネルチンスク条約が締結された。このときの清の皇帝は誰か。
(イ) ロシアは1858年の条約で黒竜江(アムール川)左岸を獲得し、1860年の条約で沿海州を獲得した。1858年の条約の名を記せ。
(2)『史記』匈奴列伝は中国北方の諸民族に関する最初のまとまった記述である。
(ア)『史記』の著者は誰か。
(イ) 長城以北の諸民族の統一を達成し、漢に対峙(じ)した匈奴の君主は誰か。
(3) 秦の始皇帝は戦国時代の中国北辺の長城に基づき万里の長城を築いた。燕の隣国で中国北辺に長城を築いた国の名を記せ。
(4) 高祖はおおむね秦王政(のちの始皇帝)即位時の秦の旧領を直轄領とし、秦以外の六国の旧領に諸侯王を封建した。このような制度は何と呼ばれるか。
(5) このときの魏の遠征軍司令官の孫で西晋を建国した人物は誰か。
(6) 北魏は龍城に営州という州を設け、マンチュリア諸民族との通交の窓口とした。のち営州出身とされる人物が8世紀半ばに起こした大乱は何と呼ばれるか。
(7) 北魏はほどなく北涼を滅ぼして北中国統一を達成した。
(ア) このときの北魏の皇帝は誰か。
(イ) このときの北魏の都の名を記せ。

 人はしばしば特定の場所や地域を神聖視する。そのことが歴史の展開に及ぼした作用、現代の事象に与える影響は無視できない。
 ヒジャーズ地方のイスラームの両聖都は、その保護者にムスリム君主としての威信を付与した。オスマン朝は、[ f ]の治世に両聖都の保護権を入手
した。このことは以後の同朝の君主たちが(8)イスラームの守護者として振舞う上での重要な根拠となった。
 世界中のムスリムが巡礼の義務の遂行や預言者の墓廟への参詣のために両聖都を目指したことは、各地の経済にとって重要な意味を持った。1324年に巡
礼を行った(9)マンサ=ムーサは、その道中に(10)カイロで大量の(11)を気前よく分け与え、当地の金価格を大暴落させたと伝えられる。これは突出した事例だが、ムスリム巡礼者たちの往来が各地に様々な経済効果をもたらしたことは疑いない。
 巡礼の義務は、政争や戦争で敗北が近づいた有力者たちの亡命の口実とされることがあった。彼らの「巡礼」も、それで無用な戦闘・破壊・混乱の継続が回避されたという意味で、経済的意義があったと言えるかもしれない。国共内戦末期、青海の軍閥のムスリム将領、馬歩芳は、蔣介石から惨敗必至の抗戦を命じられたため「巡礼」に発ち、そのまま中国に帰らずカイロに住み、のちアラビア半島の(12)ジェッダに移って同地で没した。
 両聖都へ向かうムスリムの動きは、新たな知の創出にも寄与した。両聖都のうち、北に位置する[ g ]は、17世紀、遠近のムスリム学者が集う、重要なイスラームの学術センターとなっていた。中でも、クーラーニーという(13)クルド系の人物が学者ネットワークのハブ的な存在として活躍した。彼の弟子筋に当たる人々は、世界各地におけるイスラーム思想の発展や政治・社会の動向に多大な影響を与えた。
 クーラーニーの学統に連なるイブン=アブドウル=ワッハーブは、サウード家をイデオロギー面で支え、その台頭を助けた。(14)この際のサウード家の建国運
は結局頓挫したが、のちに同家は、両聖都を支配する王国を建設した。アメリカが(15)この王国の防衛も目的として、その領内に軍隊を駐留させたことは、一部のムスリムから聖地の冒瀆(とく)とみなされ、2001年の同時多発テロ事件の一因になった。聖地は、ときに紛争の種にもなる。
 ムスリムの聖地は、(16)三大聖都以外にも数多くある。例えば(17)セイロン島のアダムズピークには、預言者アダムの足跡があるとされ、ムスリムの参詣地となっている。なお、この足跡を、仏教徒はブッダのそれ、ヒンドゥー教徒は(18)シヴァのそれとみなしている。
 (19)タリム盆地ムスリムたちはそこにイスラームを伝道したと信じられている者たちの墓を、盛んに崇敬し、参詣してきた。その参詣活動は、(20)タリム盆地のトルコ系ムスリム定住民の一体感を育んだとも言われる。


(8) マレー半島と向かい合ってマラッカ海峡を形成する南側の島の北部に、15世紀末に成立したムスリム国家は、19世紀にオスマン朝を宗主と侍んで軍
事支援を求めた。このムスリム国家の名称を記せ。
(9) この王が統治した国の名称を記せ。
(10) 当時この都市を支配していた王朝は、軍人に俸給として一定の土地の徴税権を与える制度を採用していた。この制度の名称を記せ。
(11) 10世紀、建国当初、サハラ砂漠を縦断する塩金交易路の北側の入口をおさえて隆盛し、最盛期にはヒジャーズ地方まで勢力を及ぼした王朝の名称を
記せ。
(12) 彼のジェッダ移住は、エジプトと中華人民共和国がバンドン会議(アジア=アフリカ会議)での外交接触の翌年、国交を樹立したことが契機となっ
たと言われる。当時のエジプトの指導者で、バンドン会議に参加して翌年に大統領に就任した人物は誰か。
(13) サファヴィー朝のタブリーズ再征服(1603年)に始まる戦争を避けて、多くのクルド系の学者たちがシリアなどに移住した。この戦争でサファヴィー朝の旧領を奪還した君主の名前を記せ。
(14) このサウード家の建国運動を挫折させた人物を始祖とする王朝の名称を記せ。
(15) この措置は、ある中東の国家元首が1990年に起こした軍事行動に対するものであった。この国家元首の名前を記せ。
(16) のちにイスラームの聖都となる地で、バビロン捕囚から解放されたヘブライ人が神殿を再興した。バビロンを征服してヘブライ人を捕囚から解放した
王の名前を記せ。
(17) 17世紀半ば、ポルトガルにかわって、この島の一部を支配するようになったヨーロッパの国はどこか。
(18) 南インドのある王朝では、11世紀初めに即位した王が、新都に壮大なシヴァ寺院を築いたり、セイロン島やシュリーヴィジャヤ王国に出兵して海上
交易覇権の掌握を目指したりした。この王朝の名称を記せ。
(19) 19世紀後半の一時期、この地域一帯に独立政権を樹立した、コーカンド=ハン国出身の人物は誰か。
(20) タリム盆地の西部では、10世紀末にサーマーン朝を滅ぼしたある王朝の治下で、住民のイスラーム改宗が進んだ。この王朝の名称を記せ。

第3問
 キリスト教世界がローマ=カトリック教会とギリシア正教会とに分裂していく過程について、8世紀に力点をおいて、教皇領の形成と関連づけながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問
 次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(25)について後の問に答えよ。また、Bについては[  ]中に当てはまる最も適切な語句を答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

 黒海は、地中海につながる内海である。ヨーロッパとアジアが接するところに位置するために、この海とその周辺地域は、言語的・文化的・宗教的に多様な背景をもった集団が出会い、相互に影響を与え合い、ときには激しく衝突する舞台となってきた。
 エーゲ海の北東に位置するダーダネルス海峡からマルマラ海をへてボスポラス海峡を抜けると、黒海に入る。(1)古代ギリシア人は、紀元前8世紀頃から、このルートをつうじて黒海に進出し、その沿岸の各地にポリスを築いた。(2)これらの黒海沿岸のポリスは、ギリシア人と黒海北岸に広がるステップ地帯に住む遊牧民との交易の拠点となった。紀元前1世紀になると、黒海南岸の一帯は、ローマの支配下に組み込まれた。(3)紀元後8年には当時のローマを代表する叙情詩人であったオウイディウスが黒海沿岸に追放されている。4世紀前半になると、(4)コンスタンティヌス帝は、ボスポラス海峡の西岸に、新たな首都となる都市コンスタンティノープルを築いた。
 4世紀末にローマ帝国が東西に分裂すると、黒海の西岸から南岸にかけての地域は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下におかれた。西ローマ帝国の滅亡後も(5)ビザンツ帝国の勢力は衰えず、6世紀には地中悔を取り囲む地域に支配を広げるにいたった。他方、11世紀末に、西方のキリスト教諸国は、ムスリムの支配下に入ったイェルサレムを奪回するために十字軍をおこした。しかし(6)13世紀になると、十字軍は当初の目的から離れて、コンスタンティノープルを占領・略奪した。14世紀からはオスマン帝国がアナトリアから西方に向かって勢力を拡大し、バルカン半島に進出した。(7)1402年、オスマン帝国は、東方からアナトリアに進出した勢力に大敗したが、その後国力を回復し、1453年にはコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼした。
 この頃、黒海北岸のクリミア半島にはクリム=ハン国が成立しており、1475年以降はオスマン帝国の宗主権のもとにおかれた。他方で、(8)バルト海南岸から東南方に勢力を拡大したリトアニア大公国は、1386年にポーランド王国と同君連合を結んだ。ローマ=カトリックの君主が支配するポーランド=リトアニア国家は、黒海北方のステップ地帯で、オスマン帝国を後ろ盾とするクリム=ハン国とたびたび衝突することになった。「ウクライナ」と呼ばれたこのステップ地帯に、15世紀から16世紀にかけて、領主の抑圧を嫌う農民たちが逃げ込み、コサックと呼ばれる集団を形成するようになる。17世紀半ば、ウクライナのコサックは、この地域を支配するポーランドに対して反乱を起こした。1654年、ウクライナ=コサックは(9)モスクワ大公国(ロシア)と協定を結んでその宗主権のもとに入るが、1667年にはロシアとポーランドが協定を結び、ウクライナは、おおむねドニプロ川(ドニエプル川)の東西で分割されることになった。
 18世紀前半、(10)ピョートル1世のもとでロシアは北方戦争に勝利し、バルト海の覇権を握ってヨーロッパの強国の一翼を担うようになる。ピョートル1世は黒海への進出も意図し、アゾフ海の制海権をめぐってオスマン帝国と戦った。18世紀後半になると、ロシアはさらに積極的に黒海北方への進出政策を
展開した。1782年、エカチェリーナ2世はウクライナ=コサックが支配していた領域を直轄領とし、(11)翌83年にはクリム=ハン国を併合してクリミア半島を支配下においた。さらに(12)ポーランド=リトアニアの分割に加わってその領上を併合することによって、ウクライナ中西部を支配下に組み込んだ。こうして黒海の北方に勢力を広げたロシアは、19世紀をつうじて、(13)黒海の覇権と地中海への自由通航権などをめぐって、オスマン帝国や西欧の列強と戦争を繰り返すことになる。


(1) このようにギリシア人が本国から離れて建設したポリスを何と呼ぶか。その名称を記せ。
(2) 紀元前5世紀に、小アジア出身のギリシア人歴史家が、ペルシア戦争を題とする歴史書のなかで、これらの黒海北岸の諸民族についても記述している。この歴史家の名を記せ。
(3) この詩人の追放は、当時のローマを支配する最高権力者の命令によるものであった。この支配者の名を記せ。
(4) この皇帝が発布した命令によって、キリスト教はローマ帝国に公認された。この命令の名称を記せ。
(5) (ア)首都コンスタンティノープルで、6世紀に、当時の皇帝の指導のもとに、ビザンツ様式を代表する大聖堂が再建されている。この大聖堂の名称を記せ。
 (イ)7世紀以降、ビザンツ帝国は異民族の侵入に対処するため、帝国の領域を区分して司令官に軍事と行政の権限を付与した。この制度の名称を記せ。
(6) このときの十字軍がコンスタンティノープルを占領して建てた国家の名称を記せ。
(7) このときの会戦でオスマン帝国に勝利した国家の指導者の名を記せ。
(8) このときに成立した王朝の名を記せ。
(9) このときのロシアの王朝の名を記せ。
(10) この戦争で敗れてバルト海の覇権を失った国の名を記せ。
(11) ロシアはクリミア半島の南端に黒海艦隊の拠点を築いた。この軍事的な要地の名を記せ。
(12) ロシアは、第2次ポーランド分割によってウクライナ中西部を併合した。このときロシアとともにポーランドの分割に加わった国の名を記せ。
(13) (ア)1878年、ロシアはオスマン帝国とのあいだに自国に有利な講和条約を結んだ。この条約の名称を記せ。
(イ)(ア)の条約におけるロシアの南下政策の成功にイギリスとオーストリアが反発し、ベルリンで開かれた国際会議によってロシアの企図は阻止さ
れた。この国際会議で調停役を務めた政治家の名前を記せ。

 人類の言語は分化と混交を繰り返している。地域や民族を超えた意思疎通の必要性から、人々は共通語を設定し、時にそれを他者に強要してきた。ヨー
ロッパにおける共通語のあり方は世界の言語状況にも影響を与えた。
 西欧ではローマ帝国で用いられていたラテン語の権威が強固だった。ラテン語が帝国の主要言語だったことに加え、教会でも(14)ラテン語訳の聖書が正典化され、典礼もラテン語でおこなわれるようになったことが大きい。しかし俗語(非ラテン語)による行政文書の作成や文芸活動は宗教改革前から進んでおり、活版印刷の普及や(15)新約聖書の俗語訳などがラテン語の地位低下を加速させた。(16)1492年には初の近代ヨーロッパ言語の文法書とされる『カスティーリャ語文法』が出版された。17世紀頃から大学の講義も徐々に俗語化されている。
 ラテン語は今も多くの国で教養として学ばれており、(17)さまざまな学問分野でラテン語の造語規則に従って新語が作られている。多言語状況の中で中立的とみなされたラテン語を用いる慣行は近代以降にも散見される。例えば、4つの公用語があるスイス連邦は、19世紀後半にラテン語の(18)「コンフェデラティオ=ヘルヴェテイカ(ヘルヴェティア連邦)」を正式国名の一つとした。また、(19)ヴァチカン市国では現在もラテン語が公用語である。しかし、ローマ=カトリック教会も1960年代に典礼の非ラテン語化を容認しており、日常的なラテン語使
用の機会は減っている。
 一方、ローマ帝国の東部地域ではギリシア語が広く用いられていたが、新約聖書はシリア語などにも翻訳されていた。トルコ系遊牧民がバルカン半島に侵
入して[ a ]を建国すると、先住民族であるスラヴ人との混血が進み、9世紀後半のキリスト教受容後に聖書や典礼のスラヴ語化が進められた。教会ス
ラヴ語はキリスト教とともに他のスラヴ系諸民族にも浸透した。加えて東欧ではドイツ語も広められたが、ギリシア語も教会スラヴ語もドイツ語も、西欧に
おけるラテン語ほどの地位を獲得することはなかった。
 17世紀には、フランスの国力を背景に、さまざまな分野でフランス語が広く使われるようになった。1635年には(20)フランス語の整備を主目的とする組織が設立された。(21)18世紀にフランス語はヨーロッパの共通語の地位を獲得した。神聖ローマ帝国の一部やロシアやオランダなどの上流階級はフランス語を常用した。しかし19世紀にはフランス語の地位も徐々に低下した。例えば1856年のパリ条約はフランス語を正文としたが、(22)1919年のヴェルサイユ条約の正文は英語とフランス語である。
  一方で16世紀以来、ヨーロッパの諸言語は植民地化を通じて話者を増加させた。この増加はときに暴力的に成し遂げられたが、(23)脱植民地化以降も、ヨーロッパの言語が非ヨーロッパ地域で使われつづけている例は多い。20世紀後半には旧植民地諸国での話者の多さや、アメリカ合衆国の超大国化などを要因として、英語が次第に優位になっていった。
  他方、既存の特定の言語ではなく人工言語を共通語にする試みもあった。ラテン語が衰退しつつあった17世紀後半には多くの人工言語が構想された。例えば、単子論を提唱し積分記号や二進法でも有名な[ b ]は漢字を参考にしつつ、概念的に整理された普遍記号を構想した。フランス語の権威が揺らぎつつあった19世紀後半にも第二の人工言語ブームがあった。特に、(24)ロシア帝国領生まれのユダヤ系ポーランド人であるザメンホフによるエスペラント語の普及活動は一定の広がりを見せた。しかし(25)国際連盟の作業言語にエスペラント語を採用する試みはフランスの反対によって実現されず、ソ連邦でもエスペラント語の普及活動は弾圧された。
 [ b ]の普遍記号構想の一部は電子計算機に受け継がれたといえる。現代では機械翻訳による言語習得の負担減も試みられつつあるが、複雑な情報の正確な伝達のツールとしてはまだまだ課題も多い。


(14) 典礼のラテン語化と前後して正統教義も確立された。三位一体説について簡潔に説明せよ。
(15) 神聖ローマ帝国のベーメン(ボヘミア)では、ルターに先駆けて聖書の俗語訳や教会改革運動がおこなわれていた。
 (ア) 改革を提唱し火刑となった人物の名を記せ。
 (イ) コンスタンツ公会議でこの人物とともに異端宣告を受けたイングランドの神学者の名を記せ。
(16) このときのカスティーリャ王国の女王は誰か。
(17) 18世紀に動植物の学名の命名法を確立したスウェーデン人学者の名を記せ。
(18) 1798年から数年間、ヘルヴェティア共和国という国家が存在していた。スイスに侵攻し、この国家を建てさせた国の名を記せ。
(19) イタリア王国と教皇庁は長らく対立状態にあった。最終的にヴァチカン市国の独立を認めた時のイタリアの首相の名を記せ。
(20) この組織の名を記せ。
(21) この時期の代表的なフランスの啓蒙思想家で『哲学書簡』(『イギリス便り』)などを著した人物の名を記せ。
(22) この条約で非武装化された地域の名を記せ。
(23) アフリカの植民地が多数独立し「アフリカの年」と呼ばれたのは何年か。
(24) ザメンホフは1870年代後半ごろから人工言語を構想していたとされるが、その後ロシアにおけるユダヤ人の状況は急激に悪化した。ある皇帝の暗
殺が大規模な反ユダヤ暴動の引き金となった。その皇帝の名を記せ。
(25) ある国はこの組織に参加しなかったが、1920年代には国際平和を求める活動を主導するようになった。1928年の不戦条約に、この国の代表として
署名した人物の名を記せ。
………………………………………
コメント

第1問
 課題は「16世紀末から19世紀末にいたる朝鮮と中国の関係の変化について、300字以内で説明せよ」でした。
 拙著『世界史論述練習帳new』p.48の問題10に次のような問題が載っています。
 17世紀以来続いてきた朝鮮と日本、清との外交関係は、19世紀後半に大きく変化した。19世紀後半にどのように変化したのかを、簡潔に説明しなさい。その際、下記の語句を必ず使用し(重複してもよい)、その語句に下線を付すこと。(200字以内)
 藩属国 朝鮮国王 下関条約(一橋 1998)
 この問題は指定語句が付いていること、京大は「16世紀末から」と少しだけ時間のずれがありますが、ほとんど同問といっていい問題です。200字と300字の違いもあります。日本も範囲である点も違いますが、この時期は日本を入れないで説明することのほうが難しい。約3世紀間の時間といっても一橋の問題文が指摘しているように「19世紀後半に大きく変化し」ていることがポイントです。

 16世紀末は明朝の末期で女真族が東北で台頭しています。朝鮮・李氏朝鮮では秀吉の侵略である壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱に悩まされています(『世界史年代ワンフレーズnew』以下『ワン』、の語呂→秀吉は1592、97)。これにたいして明朝は宗主国として援軍をしています。「宗主」とは同盟関係諸国の中で盟主の地位にあることを意味しますが、この場合は中国皇帝が盟主=宗主であり、関係諸国は家臣の立場をとる「属国」です。属国といっても中国が内政・外交に干渉することは原則としてしない平和な関係です。現状を変更するような戦闘行為はしませんよ、と互いの国を尊重する「礼」を大事にします。しかし秀吉は尚武(武力賛美)の日本なので(侍・ジャパン!)、これら尚文(文治主義)の国々のありかたを無視して侵略します。秀吉の要求は、朝鮮半島南部の割譲、朝鮮王子を人質に、明朝皇女を天皇の妃に、といった横暴なものでした。それでも平和な礼を重んじる外交にこだわった明朝は、明の使者(楊方亭・沈惟敬)を大坂城におもむかせて、秀吉に会い、勅諭の伝達、国王としての金印と冠服を授けます。しかし秀吉は要求が無視されたため激怒し講和は決裂しました。この時に使わなかった冠服は京都・東山の妙法院という寺に今も保存されています。
 明朝は李自成の反乱(『ワン』語呂→李自制せず1631高)によって滅亡します(滅亡年は1644年、『ワン』語呂→明るさ滅亡1644)。すでに後金を大清と国号を変えていた清朝は呉三桂と共に北京に入城してきました。
 この清朝と李氏朝鮮との関係は、2代目ホンタイジが国境を襲い、事大の礼=清朝の冊封を受けて「大」=清朝に仕える(服属する)関係を結びます。これ以降は国境紛争はしません、という約束です(1637年)。これが東アジアの平和的な外交関係です。
 しかし中国聖王の国土は夷狄(いてき)=野蛮人に蹂躙された、聖王の制度を守るのは朝鮮のみ、儒教的儀礼を尊ばない国に中国は堕落した、ととりと朝鮮だけが孔孟の道を継承する国=小中華思想、殷に対する東周が朝鮮、と考えました。
 秀吉のときの危機が再び19世紀になって再訪します。襲ってきたのは明治日本でした。「朝鮮を日本が領有するときはますます日本は国の基礎が強くなり、世界に飛雄する第一歩になります」と意見書を出していた井上良馨(よしか)が雲揚号艦長となって朝鮮を挑発し、永宗島・江華島を占領しました。水の補充は後になって国際的非難を避けるための言い訳でした(『史学雑誌』111巻12号 鈴木淳の論文)。つづく武力の脅威を背景に日朝修好条規(江華条約)を結ばせます。そこには「朝鮮の自主独立」が書いてありますが、これは清朝から離す意図と、日本がコントロールしたいという二重の意図が込められています。これらを解説するYouTubeがありました→江華島事件 https://youtu.be/SZgBpyfOAAo
日朝修好条規 https://youtu.be/aiboVdAr12o
 この後が壬午軍乱(1882年、『ワン』痔後1882かしい)で中国が介入し、朝鮮王室は親清派・閔妃(びんひ)一派が支配します。反発した開化派が福沢諭吉と組んで甲申事変(1884年、『ワン』→神仏(清仏)交信1884る)をおこしましたがクーデタは3日で挫折します。清軍の介入でした。日清間で天津条約を結び和解します。
 そして10年間の準備をしてきておこした日清戦争(1894年、『ワン』日清焼きそば1894)と、下関条約となります。
 朝中関係では、大韓帝国・皇帝と国号・王号を変えたことも欠かせないでしょう(1897年、『ワン』大寒帝国1897ず)。中国からの独立を示しました。

第2問
 説明を要するものだけ。
(3) 秦の始皇帝は戦国時代の中国北辺の長城に基づき万里の長城を築いた。燕の隣国で中国北辺に長城を築いた国の名を記せ。七国の地図は、右回りで、韓魏趙・燕斉楚・秦と3字・3字・秦と覚えるといい(拙著『各駅停車』、このブログで販売。以下『各駅』と略称、p.9→真ん中に 韓魏趙があり、これは時計まわりで、ぐるっと韓魏趙燕斉楚 秦とイッキにおぼえます)。
(12) ジェッダ(ジッダ)はメッカ市の西にあり、巡礼はアラビア半島のこの港町からメッカ市に向かいます。

(14) このサウード家の建国運動を挫折させた人物を始祖とする王朝の名称を記せ。これはオスマン・サウジ戦争(1811〜18年)のことで、1805年、ワッハーブ派が聖地のメッカとメディナを占領した。これを奪回するためにオスマン帝国は、アリーに進軍を命じます。オスマン帝国の狙いは、持つアリーもワッハーブ派のサウード家も滅びてくれば両得と踏んでいましたが、アリーが勝ってしまいます。
(19) 「独立政権を樹立した、コーカンド=ハン国出身の人物」とはヤクブ=ベクで、「ヤクブ=ベクの反乱」としても知られています。かれの進撃を破ったのが左宗棠(さそうとう)ですが、結果のイリ条約は、挽回した清朝が領土を取り返した、ととってしまう受験生がおおいですが、まちがいです。清朝はこの乱を利用して入ってきたロシアと領土を半分とりかえしただけです。歴史地図を見ると判ります。

第3問
 課題は「キリスト教世界がローマ=カトリック教会とギリシア正教会とに分裂していく過程について、8世紀に力点をおいて、教皇領の形成と関連づけながら」でした。
 「8世紀に力点」とあるので、8世紀前後の関連史実を集めてみます。

 476 西ローマ帝国滅亡(『ワン』西ローマ476)
 726 聖像崇拝禁止令(『ワン』聖像726)
 732 トゥール=ポワティエ間の戦い(『ワン』通る1077332)
 751 カロリング朝(『ワン』カロリー、ピンピン751王朝)
 780 カール大帝即位 (『ワン』軽〜い768ン)
 800 カール、西ローマ皇帝戴冠(『ワン』西老婆八百800歳)
 1054 東西教会分裂(『ワン』東西教会1054ない)

 これらのデータを説明しつつ書けば300字はかんたんに埋められそうです。「教皇領の形成と関連づけながら」とあるので、ピピン(3世)のラヴェンナ寄進(756)は不可欠です。

第4問

(2) ギリシア人歴史家は「ペルシア戦争」で判るものの「小アジア出身」とはハリカルナッソスという現トルコの西南部にある都市の出身であるため。
(7) このときの会戦でオスマン帝国に勝利した国家の指導者はティムールですが、1402年は、このティムールが勝利するアンカラの戦い、プラハ大学のフスが宗教改革を始め(下のB問題15)、永楽帝が即位する、どれも同年で、14、02)。
(8) 1386年にポーランド王国と同君連合のときに成立した王朝の名でした。ポーランド側の王朝は断絶したので、リトアニア側の王朝は、ヤギェウォ(ヤゲロー)朝です(『ワン』野下郎はあん1さん386)。
(12) 第2次ポーランド分割だけはオーストリアが加わっていない。

(14) 三位一体説の説明とは信徒なら必要だが……、と違和感のある設問。父なる神、子なるイエス、聖霊の3者は等質で不可分、ということですが、判りますか? 3X=X、ということです。
(18) ヘルヴェティア共和国は教科書に載っていないデータですが、ヒントは「1798年」のフランス革命が進行中。後でナポレオンも入ってきます。
(19) 1929年、ヴァチカン市国の承認を必要トしたイタリアの首相の名を記せ、という問い方でもいい問題。
(21) 『哲学書簡』(『イギリス便り』)などを著した人物の名。拙著『各駅停車』での覚え方→★ヴォルテール『哲学書簡(イギリス便り)』 →惚れて便り
(24) 「ロシアにおけるユダヤ人の状況は急激に悪化」は、ホロコーストでなく、ポグロムといいます。イスラエルに移住したユダヤ人の大半がこのときに移住したひとたちです。