世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史2024

第1問
 次の文章は、1964年3月に国際連合の事務総長ウ・タントが、ある会議でおこなった演説の一部である。これを読んで下記の2つの設問に答えよ。解答は、解答欄(イ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)(2)の番号を付して記せ。

 世界では二つの変化が並行して進みつつあり、戦争いらい、重要性を増してきました。一つはおもに政治的な、もう一つはおもに経済的な変化です。(中略)
 戦後には、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放が、すみやかに進みました。第二次世界大戦後、アジアの諸民族の大半は独立した存在として世界の舞台に登場してきました。1960年代になると、アフリカの台頭がみられました。より最近では、ラテンアメリカ諸国のなかで、重要な変化にはずみがついているようです。(中略)
 すでに言及した政治動向は世界の広範な部分でみられるでしょう。国際連合では発展途上地域と普通よばれているところです。しかし、これらの地域は実際には発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していません。程度はさまざまですが、深刻かつ持続的な低開発の状態に苦しんでいます。これらの地域は、工業化された社会に比べて、ますます遅れをとっています。それだけでなく、とくに人口増加を考慮に入れれば、生活水準が絶対的に悪化している場合もあります。ここから現代のジレンマをみてとることができます。政治的な解放が得られてもそれにともなって、期待どおりの経済的な進歩が生じるわけではないのです。

問(1) 演説で述べられているように、諸民族の政治的解放が進んだが、独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、道のりが容易ではない場合も多かった。1960年代のアジアとアフリカにおける、このような戦乱や対立について、12行(1行30字─中谷の注)以内で記述せよ。その際、以下の4つの語句を必ず一度は用い、その語句に下線を付すこと。

 アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線

問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて、5行以内で記述せよ。

第2問
 ある書物が、なぜ、どのように、書かれ、読まれ、伝えられてきたのかを問うこと、あるいはそれが葬り去られたり忘れ去られたりした理由を考えることは、歴史をみる一つの有効な視点となりうる。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) キリスト教の正典の一つである『新約聖書』は、1世紀末から4世紀末にかけての時期に次第に現在の形になったとされる。このことに関連する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行以内で説明せよ。
(b) 325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら3行以内で説明せよ。
(c) 『新約聖書』などの正典のほかにも、キリスト教の歴史において重要な意味をもった書物は多く挙げられる。そこにはキリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ。

問(2) 史上初のトルコ語・アラビア語辞書とされるカシュガリー著『トルコ諸語集成』は、1077年頃にバグダードで書かれた。この本は20世紀前半に①イスタンブルで初めて刊行されたが、その際に使われた写本は、②セリム1世の治世以降に彼の征服地からもたらされたものと考えられている。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

(a) 『トルコ諸語集成』の著者序文には、トルコ人が広く権力を握る執筆当時の様子が記されている。その頃の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を記せ。

(b) 下線部①に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行以内で記せ。

(c) 下線部②に関連して、セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について、2行以内で記せ。

問(3) 17世紀半ばに中国の支配王朝となった清は、従来の制度や慣習を認めつつ、満洲人による支配の徹底をはかった。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。

(a) 書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら、3行以内で説明せよ。

(b) 清の支配のもとでは、儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ。

第3問
 人類の歴史において、軍事的征服や領土の拡大が新しい統治の形態を生み出したり、支配された人々の抵抗運動が当該地域における政治意識を形成したりする現象は、時代や地域を問わず、みることができる。征服と支配、それに対する抵抗など
に関する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) ローマは第1回ポエニ戦争でカルタゴに勝利し、シチリアを獲得した。ローマはこれ以後も征服戦争を進め、地中海周辺地域を中心に多くの地域を支配下においていった。こうしたローマによるイタリア半島以外の支配地は何と呼ばれているかを記せ。

問(2) 衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝は、その領域一帯に4つの郡を設置した。このうち現在の平壌付近を中心とする地域に設けられた楽浪郡は、中国から派遣された官僚により統治され、400年あまり存続した。4世紀初めに楽浪郡を滅ぼした国の名称を記せ。

問(3) 13世紀初めにハン位についたチンギス=ハンは、モンゴル系・トルコ系の諸部族を統合するとともに周辺の諸地域も次々に征服した。その後もモンゴル帝国の膨張は続いたが、広大な帝国内の交通を円滑にするために整備された駅伝制の名称を記せ。

問(4) モスクワ大公として東北ロシアを統一し、「タタールのくびき」と呼ばれたキプチャク=ハン国によるロシア支配を15世紀後半に終わらせた人物の名前を記せ。

問(5) 18世紀のアラビア半島においで[   ]派はイスラーム教の教えの厳格な解釈を目指す改革運動をおこない、サウード家と協力してイスラーム法に基づく国家建設を主導した。文中の空欄に入る適切な語を記せ。

問(6) イギリスの植民地となったインドでは西洋的教養を身につけたインド知識人による社会変革の運動が起こった。そのなかには、妻が夫の遺体とともに焼かれて死ぬという慣習の禁止を求める運動もあった。この寡婦殉死の慣習の名称を記せ。

問(7) 19世紀後半、ベトナムでは、フランスが軍事的進出を企て、支配を強めていった。この動きに対して、黒旗軍を組織して抵抗運動をおこなった人物の名前を記せ。

問(8) ヨーロッパ列強がアフリカでの領土獲得競争に本格的に乗り出すなかで、1898年、アフリカを横断して領土拡大をめざしていた国(a)と縦断政策を進めていた国(b)との間で軍事衝突の危機が発生した。この2国の名称を、冒頭に(a)・(b)を付して記せ。

問(9) ディアス大統領による長期にわたる独裁体制がしかれていたメキシコでは、1910年、自由主義者マデロの呼びかけによりメキシコ革命が起こり、ディアス政権は打倒された。この時、北部出身の指導者ビリャとともに農地改革の推進をめざした農民運動指導者の名前を記せ。

問(10) 20世紀後半、非西洋に対する西洋のまなざしを批判的に検討する動きが活発化する。このような潮流のなかで、ポスト=コロニアル研究の代表作の一つである『オリエンタリズム』(1978年)を著し、東洋に対する西洋の見方を批判的に論じた人物もいる。その人物の名前を記せ。

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コメント

第1問
 導入文の「国際連合の事務総長ウ・タント」という変わった発音の名前が登場して、1960年代の世界を概観した文章から始まりました。この人物ウ・タントはミャンマー(ビルマ)出身の抗日運動家でしたが、戦後首相であるヌーの秘書を務め、その後国連事務(1961〜71年)に選ばれました。
 かれの演説では、世界では二つの変化が並行して進みつつあり、政治的な変化は、植民地および半植民地とされていた諸民族の政治的解放であり、経済的な変化は、発展していないか、あるいは十分な速さでは発展していない、「発展途上地域」と呼ばれている国々がある。深刻かつ持続的な低開発の状態、工業化できず、人口増加があり、生活水準の悪化が見られる、と説明しています。
 
問(1) 独立を得る過程では戦乱が起こっただけでなく、独立した国どうしが対立を深めるなど、このような戦乱や対立について、(指定語句→アルジェリア コンゴ パキスタン 南ベトナム解放民族戦線)でした。つまり独立したものの、それは戦乱を通して、かつ独立国同士の対立も生んだ、という、独立してもすんなり平和な関係ができない状況です。
 
問(1)の構想メモとして、まず1960年代(1961〜1970年)におきた出来事を想起しなくてはなりません。指定語句(以下「指」と略字)がヒントてはありますが、課題に応じるには足らないので、補充しなくてはなりません。やってみましょう。
 
1960 「指」コンゴ動乱・「指」南ヴェトナム解放民族戦線(『世界史年代ワンフレーズnew』(以下『ワン)』と略称、の語呂→今後、南ヴェトナム1960)
1962 「指」アルジェリア独立(主人=あるじ[アルジェリア]独立、19、62())
1964 PLO設立(パレスチナ1964)
   UNCTAD(国連貿易開発会議)(あん食たど1964)
1965 第二次印パ(インド・「指」パキスタン)戦争
  北爆(『ワン』北爆1965)
  シンガポール独立(『ワン』シンガポール、1965れから)
 67 第三次中東戦争(『ワン』67しき3次)
  EC(欧州共同体)(『ワン』67しきは医師EC)
 68 アラブ石油輸出機構、ASEAN(東南アジア諸国連合)(『ワン』汗あー[ひ]1967)
 
 これらから言える1960年代の世界は、①冷戦の激化の頂点としてのベトナム戦争の泥沼化、②核開発による冷戦激化(仏中)、とくに毛沢東・中国の台頭、③中東戦争・PLOは独立した国同士の抗争、などです。新教科書の「歴史探究・世界史」では、「1960年代」という表現をよく使っています。そこに示されている、この問題と関連する記事は「冷戦体制の動揺」という題で、何よりベトナム戦争をとりあげ、かつベトナムのカンボジア(ポルポト政権)への軍事介入(70年代からなので答えにできない)、ラオス内戦(1960年代前半から)を挙げています。ベトナム側がパテト・ラオ軍と組んでラオス北部に侵入したのが1970年なので、書いてもいいです。
 東南アジア
 ベトナム戦争と関連した周辺国との戦争がありました。ラオスはベトナム戦争に巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われました。1970年に北ベトナム軍とパテト・ラオ軍がソ連製戦車を先頭に立てラオスの要地ジャール平原を制圧しています。
 また「マレー半島では、1963年にマラヤ連邦がシンガポールなどと合体してマレーシアとなったが、マレー系住民と中国系住民の対立がやまず、65年に中国系住民を中心としてシンガポールが分離した(詳説世界史)」とも書いていて、ここにも独立後の対立が挙げてあります。シンガポールのマレーシアからの独立を書いた答案は予備校では皆無でした。
 マレーシアとフィリピン間では北ボルネオの東部(サバ、スールー王国の一部)に対するフィリピン側からの要求をめぐる紛争(1963〜1964年)がおきていました。
 南アジア
 中印国境紛争 1959〜62年にダライ=ラマのインド亡命以降、国境地帯での緊張が高まり、62年には中印で大規模な戦闘がおきます。中国が圧倒的に優勢の中で停戦しました。
 西アジア
 この60年代にかかわる出来事として、今進行中の紛争・戦争でもあるガザ地区がイスラエルの侵攻を受けています。東大のホームページにも、このガザについて「ガザ危機と中東の激動」と題して記事を載せています(掲載日:2024年2月9日→https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0405_00026.html)。これは昨年10月7日のハマスの攻撃から書きはじめ「1967年の第3次中東戦争ではヨルダン領のヨルダン川西岸地区とエジプト領のガザ地区がイスラエルに占領され、以降、この両地区に住むパレスチナ人はイスラエルの占領下で暮らすことになりました」と書いています。この第3次でガザ地区住民は陸海空の境界のすべてを管理されることになりました。    
 1948年から始まった占領者イスラエルは、この地域の豊かな自然・資源を収奪し、西岸には入植地を拡大して、今はパレスチナ人の住む土地はどこにもないような青色一色の旗をかかげて、(

https://www.ynetnews.com/article/b1oibyxgt

パレスチナ人の抹殺を図っています。

 ユダヤ人抹殺を測ったナチスを見習っています。またパレスチナ人の殺害とブルドーザーで運び砂に埋める動画があります。→ https://www.youtube.com/watch?v=DvghyDRrzK0 
 AIをつかって皆殺しを実行している
Lavenderマシンについては以下。https://www.972mag.com/lavender-ai-israeli-army-gaza/
 イスラエルの初代首相ベン・グリオンの言葉「我々(ユダヤ人)は彼ら(パレスチナ人)の国を奪った……しかし、それは彼ら(パレスチナ人)の過ちによるものでしょうか? 我々はここへ来て、彼ら(パレスチナ人)の国を盗んだ。なぜそれを受け入れるべきなのでしょう?」(ウィキペディア)とまで言っていました。現在のイスラエルの指導者はこの初代首相のような謙虚さ(?)はありません。
 予備校の答案では、第3次中東戦争に言及した答案は一つ(代ゼミ)しかありませんでした。ましてガザへの言及は皆無でした。
 アフリカ
 1960年の「アフリカの年」以降も独立は次々とつづき、70年までに30カ国が独立しています。
 指定語句のアルジェリアで、ひどい流血の独立戦争が終わり、エヴィアン協定でド=ゴールは独立を承認します。フランスはアルジェリアを植民地化する際に住民の殺戮(ジェノサイド)を行ないましたが、最後までこれを繰り返しました。
 このアルジェリアの南では、ビアフラ戦争がありました。1963年にナイジェリアが独立する同時に内戦に入り、東南部のビアフラ軍が共和国を宣言して独立。1967年からナイジェリア政府軍に糧道を絶たれてビアフラは飢餓状態に陥り、70年までに200万人が餓死したと見られています。

 また東部の角では、エチオピアとソマリアの国境紛争があり、1964年アフリ力統一機構が即時停戦呼びかけをしています。
 コンゴはベルギー領でしたが、60年の独立とともに内乱に発展します。東南部のカタンガ州はウラン・コバルト・銅など重要鉱物資源の宝庫です。広島・長崎の原爆原料はこのコンゴのウランでした。この分離独立闘争をベルギー・アメリカが支援しました。
 
 あれもこれもは想起して書けませんが、想起できる範囲で書いてみてください。
 
 全体構図としては、アジアは……、アフリカは……、もっと細かくは上で挙げたような東南アジア、南アジア、……と地域の分割して、順に書いていくのが妥当かとおもいます。アフリカを先にして、アジアは後でもいいですね。
 
問(2) 演説で述べられている経済的な問題は、どのような歴史的背景をもち、その解決のため1960年代に国際連合はいかなる取り組みをおこなったのかについて
 ……ここで問うている不発展・低開発の経済的状況は指定語句からは何も判りません。
 上に挙げた事件史で関連するのは、UNCTAD(国連貿易開発会議)と、アラブ石油輸出機構、ASEANです。
 歴史探究の教科書では「アフリカ諸国をはじめとする新興独立国では、従来、植民地宗主国の利益にそって、輸出向けに限定された種類の農作物栽培や原料生産にかたよった開発がなされてきた(モノカルチャー経済)。そのため経済基盤が弱く、また、交通網や電気・水道などの社会的インフラストラクチャー(基本的生活基盤)、教育・医療などの社会制度もほとんど整備されていなかった。さらに、圧倒的多数の現地住民は、行政運営や政治に参加する機会も奪われてきた。これらを背景に、独立後の政治・経済は不安定で、部族相互の対立による内戦やクーデタが繰り返され、軍事独裁政権がしばしば登場した。豊かな先進国と、アジア・アフリカの開発途上国との経済格差は、南北問題と呼ばれるようになった。(引用終了)」と歴史的背景を述べています。
  対策として「1964年には、77カ国の開発途上国が国連貿易開発会議
(UNCTAD)を結成し、南北の経済格差の是正をめざしたが、十分な成果はあがらなかった」と悲しい結論にしています。
 この教科書で書くべき内容は尽きています。
 追記すると、UNCTADが「不平等及び脆弱性から全ての人の繁栄へ」のための会議ですが、その前に国連は需要な決議を出しています。1960年12月14日、「植民地と人民に独立を付与する宣言(Declarationon the Granting of Independence to Colonial Countries and Peoples)」を採択した(決議1514(XV))です。この宣言は、「外国による人民の征服、支配および搾取は基本的人権を否認するもので、国連憲章に違反し、世界平和と協力の促進にとっての障害である」と述べています。植民地の完全な否定です。植民地というものがどういうものであるか、「支配および搾取は基本的人権を否認するもの」と定義しています。これは独立したら、それで「おしまい」ということではなく植民地化した宗主(支配)国にたいして植民地支配責任についても問うているのです。日本による東アジア・東南アジアの植民地支配責任も問うています。イスラエルのパレスチナ支配も植民地支配です。もともとイスラエルも日本もヨソ者でしたから。
 旧植民地だった国々は、資源はあっても旧宗主国が経営権をにぎっているため自営できないため、イランが石油を国有化したり、インドネシアも全外国石油企業を政府の管理下に置くと発表したりしています(1965年)。
 
第2問
問(1) 
(a) 課題は「1世紀から4世紀末にかけてのローマ帝国におけるキリスト教と政治権力との関係の推移について、4行(120字)以内で説明せよ」でした。
 国家と宗教の関係はどんな時代でも重要な歴史的テーマです。過去問1986年第3問、2013年第2問でも問われました。
 「1世紀から4世紀末」キリスト教という問題は拙著『世界史論述練習帳new』に問7の「紀元1世紀後半から4世紀末に至るまでのローマ帝国におけるキリスト教の発展について、200字以内で説明せよ。説明に当たっては、下記の2つの語句を適切な箇所で、必ず一度は用い、用いた箇所には下線を施せ。(指定語句→ディオクレティアヌス三位一体)」という類題がありました。この問題自体は京大1996年の問題でした。
 1世紀のネロ帝から4世紀のテオドシウス帝による国教化まで、という易問です。ポイントは2〜3世紀をど書くか、という点です。
 この2世紀間の迫害は厳しいものではなく、この間に下層市民や奴隷から上層市民へ普及していきました。また新約聖書が200年頃にできあがります。
3世紀「軍人皇帝」は不安定であり、そのためかえって皇帝崇拝を強制し、迫害は激化します。信徒はカタコンベ(地下墓所集会所)で秘密の集会を聞き、聖職制度(ヒエラルヒー)をつくりあげていきました。
 
(b) 「325年、キリスト教の教義形成にとって重要な会議が開催された。この会議について、その名称に触れながら」……「325年」ですぐ想起できなくてはらないのはニケーア公会議です(『ワン』逃げや光32子5)。「教義形成」とは「神の子=神」か人間にすぎないのか、という神人の判定です。前者の神、人にして神、というアタナシウス派の主張が承認されました。(三位一体説ともいうのは、父なる神・子なる神・聖霊なる神の三神が一体である、という教義です。議長であったコンスタンティヌス帝がこれを正統説として公表します。皇帝が教義の問題に関わるのは皇帝教皇主義のスタートにもなりました。
 
(c) 課題は「キリスト教成立以前の書物も含まれる。その著作やそれへの注釈が翻訳されることを通じて中世のスコラ学者たちに多大な影響を与えた、「万学の祖」とも呼ばれる古代ギリシアの哲学者の名前を記せ」で、スコラ学に影響したギリシアの「万学の祖」なので、アリストテレスしかありません。アリストテレスには哲学以外に政治学・詩学(演劇)・生物学・倫理学・論理学と数えられ、アリストテレスを学ぶことは万学を学ぶことに等しい、といわれます。逆にいえば、キリスト教には宗教教義と歴史はあっても他がなかったためでした。
 
問(2) 
(a) 課題は「その頃(1077年頃)の西アジアー帯はあるトルコ系王朝の支配下にあったが、その王朝の初代スルタンの名前を」でトゥグリル=ベク。
 
(b) 課題は「下線部①(イスタンブル)に関連して、13世紀初めにこの地に建てられた国家の成立の経緯を、国家の名称を挙げながら2行(60字)以内で」でした。第四回十字軍の建てた国・ラテン帝国です(『ワン』ラテン? ワン1 ツー2、お0尻4ふる)。
 
(c) 課題は「セリム1世治下のオスマン帝国による対外戦争の成果について」でした。要するに16世紀初めの戦争の成果です。オスマン帝国を西アジアの大国にしました。それまで小アジアとメソポタミアの支配をしていたのを南部に拡大したスルタンです。シリア全土・エジプト・アラビア半島の沿岸(メッカ・メディナ)を領域にしました。半島内の砂漠地帯をなぜ征服しなかったのか、という疑問もありますが、ここにはアラブ遊牧民が住んでいて、この地域を征服して支配する軍事的・政治的・宗教的な意味はなかったからでしょう。
 
問(3) 
(a) 課題は「書物に関して、清はどのような政策を展開したか。書物や編纂物の名称を挙げながら」でした。
 編纂事業と文字の獄という言論統制を挙げたら完結する易問です。
 
(b) 課題は「儒学の経典や歴史書を厳密に校訂・検討する学問が発展した。この学問の名称と、清初にこの学問の基礎をつくった学者のうち、1名の名前を記せ」でした。
 「厳密に校訂・検討する学問」は考証学、「基礎をつくった学者」は顧炎武か黄宗羲です(拙著『各駅停車』[このブログ内で販売]の覚え方→(考証学は顧炎武・黄宗羲の二人が先駆者→考証学は「こ・こう」から)p.51)。
 
第3問
問(6) これは2010年でも問うています。
問(10) サイード(エドワード・サイード)については『詳説世界史』に「先住民文化の影響をうけた……こうした傾向は、第二次世界大戦後のアジアやアフリカ諸国の独立によっていっそう強まり、1960年代末頃からはサイードらによる西洋思想の批判など、第三世界に対する西洋側の偏見を批判するポスト=コロニアル研究が注目されるようになっていった(p.414)」と書いています。
 用語集(2013年)でもサイードという項目をもうけ「Said 1935~2003 パレスチナ生まれのアメリカ人文学研究者。ヨーロッパのオリエントに対する見方・偏見を鋭く指摘した1978年の著作『リエンタリズム』は36カ国の言語に翻訳された。そのなかでサイードは、ヨーロッパが自己と正反対のものとしてのオリエントに、後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけた、とした。サイードの著作により提起された批判はポスト=コロニアル研究の起点となった」と。
 このうち「後進性や停滞といったイメージを画ー的に押しつけ」は今でもヤフーニュースで見られる対韓コメント欄でも見られます。コメントしている日本人は現代の日本人です。
 作家・大江健三郎とサイードの交流は親密なものでした。『暴力に逆らって書く: 大江健三郎往復書簡』朝日文庫(2006年)参照。
 
第3問の解答
問(1)属州
問(2)高句麗
問(3)ジャムチ(站赤)
問(4)イヴァン3世
問(5)ワッハーブ
問(6)サティー
問(7)劉永福
問(8)(a)フランス(b)イギリス
問(9)サパタ
問(10)サイード

新作論述問題

 
 太平洋戦争と現行のウクライナ戦争の共通点と相違点を述べよ。その際、次の語句を1回は使用せよ。全部で500字以内で述べよ。
 
 満州国 石油 クリミア半島 常任理事国 NATO プロパガンダ 枢軸国  

 解答例
共通点は、ともに広大な土地をもつ隣国に侵略したこと、それは当時の第一次大戦と第二次大戦後の国際秩序を力で現状変更を迫る暴挙であること、戦争の始まる以前に一定の成功例があり、それを拡大した点でも共通している。満州国の樹立、チェチェン・クリミア半島侵攻である。侵略国が短期に征服が可能と誤算した点も似ている。また両国は、侵攻を戦争と呼ばず、内外の批判にたいしてプロパガンダを駆使して戦争を正当化した。共に連盟常任理事国、安保理常任理事国でもある。世界を2極化した点でも共通している。枢軸国と民主国、旧共産主義の権威主義国と民主国の対立である。侵略された国々は他国の援助で対抗した点も共通している。中国は国共合作だけでなく欧米の支援を受け、ウクライナ側もNATO他の支援を受けて戦ってる。共に大量の戦死者・負傷者をうみ、各国の軍拡を促した。相違点は、プーチンはソ連を再現しようとしたのに対し、日本は過去に帝国はなく帝国形成の最中であった。石油を豊富にもつロシアにたいして、日本は石油を奪いにいった。日本は世界的な大恐慌に発する危機を大陸の支配圏拡大で解決しようとしたが、ロシアに経済危機はなかった。
………………………………………
 この問題はわたしの創作問題とは言いがたいもので、前田朗・明治大学教授が今年7月にされた講演「ウクライナ戦争と太平洋戦争」がヒントになっています。共通点が多いのですが、相違点は語られなかったので、わたしが追加しました。


(わたしの解答例)に書いてないこととしては、次のようなことも言えます。

共通点………………………………
侵略にたいする国際的な非難(リットン調査団/国連決議)
侵略する国の混乱(国共内戦/親欧と日欧の対立)を利用した
傀儡政権(南京政府/東部自治政府)の樹立
核の使用と使用危機

相違点………………………………
共産勢力の勢いがあった/共産勢力は衰えている
連盟脱退した/連合を脱退していない

 指導者について言及する方もあるとおもわれます。つまりプーチンと昭和天皇のことです。たぶんプーチンという独裁者と昭和天皇は同列におけないという考えがあるとおもいます。「天皇制ファシズム」は政治学者・丸山真男の造語ですが、ここに「制」という語句が付いていて、天皇個人に責任を当てはめていない曖昧な言葉です。これは丸山を含めて、戦争中に天皇がどういう役割を果たしたかが不明であったこと、というより勝手な推測で天皇は「象徴/人形」に過ぎず、戦争指導者ではなかった、という認識をしていたためです。これはマッカーサーの進駐軍も同じで、天皇は戦争に関わらなかったと信じていました。

 しかし現在は天皇の側近たちの著作・メモ・日記が次々と発表され、どういう主張・行動をしていたかが判ってきました。天皇の側近たちの記録が次々と出版されているからです。
 ①侍従長だった百武三郎の日記『百武三郎日記』2019年から閲覧可能
 ②内大臣だった木戸幸一の日記『木戸幸一日記』1966年
 ③軍令部総長だった永野修身の『大本営政府連絡会議議事録』2000年
 ④参謀総長だった杉山元の『杉山メモ』2005年
 ⑤宮内庁長官だった田島道治の『拝謁記』2021年
 ⑥侍従次長だった木下道雄の『側近日誌』2017年
 ⑦宮内省御用掛の寺崎英成の『昭和天皇独白録』1995年

 これらはみな戦後もだいぶ経ってから出版されたもので、戦争中の日本人、戦後の多くの日本人も、まったく知らなかった内容です。天皇は軍部の方針・作戦を17回も変更させており、これらの記録では天皇が軍のトップを叱りつけている姿も出てきます。詳しくは山田朗『天皇と戦争責任』(新日本出版社)の第二部「天皇の戦争指導」に書いてあります。一日おきに陸軍と海軍の軍令部長が天皇に会い、戦争の進捗状況を報告に来ていて、天皇は戦争の全体をもっとも知っている唯一の人物でした。この会見の際に、疑問を出したり、怒鳴りつけたりして戦争の動向を操ろうとしました。御前会議でほとんど喋らなかったのはポーズにすぎず、根回ししていて結論は天皇にとって自明でした。
 ということなので、プーチンと同列に置いても、わたしなら加点します。

『世界史論述練習帳new』への質問

世界史論述練習帳 new』の別冊基本60字についての質問です。「……」の後がわたしの回答です。また、わたしのミスの指摘もしています。

A 「60字問題集」の別解がある問題とない問題はどのような違いがあるのでしょうか。……同問でも内容に幅のある問いとそうでなて問いとの違いです。

p2 問4 の別解に「騎兵の戦争から歩兵の戦争に変わり」とありますが、政治上の変化としてよいのですか。(毛沢東の言葉でしたっけ...)……騎兵ということは位が高く豊かなひとたちを意味し、歩兵は一般に貧しい農民の兵士という上下関係なので、政治的な上下とも関連してきます。これは西欧古代(ギリシア・ローマ)でも同じです。また軍事・兵制は政治の制度の一つです。問題によっては、軍事・兵制だけを切り取って出題される場合もありますが。

p7 問25 の直接民主政から間接民主政というのがよく分かりません。中国で直接民主政を主張したのがあまり現実的でない感じを受けます。……確かにそうです。しかし孫文は西欧を見学して西欧がたいてい「間接」であり、有力有産の一部のひとたちが政権を独占していると見たので、「直接」を唱えました。孫文も後では無理と分かって変えました。

p13 唐末五代に紙幣が流通とありますが、教科書は紙幣は北宋が初めてで飛銭は唐代に流通していたというようなことが書いてありました。前頁の問題8のように唐末五代宋を想定していらっしゃったのでしょうか。……そうです。飛銭が紙幣として使われ出したので、宋の交子・会子に繋がっていきました。飛銭は唐代だけ使う用語ではなく「銭送銭手形制度(為替業)をさす唐宋時代の用語。便換・便銭ともいう」と京大東洋史辞典では説明しています。

p19 問3 に六朝に仏図澄の布教・鳩摩羅什の訳経とありますが、北朝ではないのですか。……この「六朝」は文化史の時代表現として「六朝時代」の意味で使ったものです。初め布教の時は華北ですが、華中華南にも仏教は伝わりました。後の説明文で北朝が国家、南朝が個人と普及の仕方がちがったことを指摘しています。

p21 問10 注にp67参照とありますが、本冊にも別冊にも関連する項目が無いのですがどこでしょうか。……これはわたしのミスです。p.71の図が該当します。

p22 問16 にその帝国主義政策がはワシントン会議の9か国条約でも確認されたとありますが9か国条約は抑制的な物ではないのですか。……確かに目立ったかたちでは「帝国主義」政策は主張していないのですが、中国に関する条約だけでなく、セットとして結ばれた四ヶ国条約でフィリピンの安全保障を確保するとともに、日英同盟を廃棄させることに成功した点で、アメリカなりにすでに得ている地域(フィリピンに日本を侵出させない)は列国に認めてもらうことに成功しています。文章の中に「四カ国条約」も入れとけばよかった。わたしのミスです。

p22 問17 にイリ地方を奪取したとありますが、イリ条約で返還したのではないですか。……ヤクブ=ベクの反乱からイリ地方を領土にしていたイスラーム教徒をロシアが承認して保護国化していました。そこへ左宗棠が半分奪い返して再び清朝の領土にします。イリ地方の全部ではなく半分の東側を清朝領とするかわりに、西側は賠償金とともにロシアも取りました。歴史地図を見ると分かりやすい。清朝はバルハシ湖までもっていたのですが、天山山脈の方まで条約では後退しているのです。用語集では「(イリ条約)イリ地方は清朝に返還されたが、ロシアに貿易上の利権が与えられた」と書いていますがまちがいです。返したのは半分ですから、以前からすれば半分奪われているのです。

p23 問18 について、中国の、集団化の前の土地分配までの段階は、フランスのものとどう違うのでしょうか。解答を見ると言葉は違いますが同じようなことを表しているように見えます。……革命当初は似ています。中国共産党は土地調査をやり、家族の数も計り、貧しい者ほど多くの土地が取れるようにし、地主の多くを殺害しました。フランス革命ではここまでやっていません。また土地改革、つまり土地分配(フランスの場合は保有地を私有にしただけ)が、後の私有化のままのフランスと公有化した中国が違っている、という点もあります。

問8で、朴正煕時代にはその最初に第二共和国を打倒した他には民主化運動に関連することは起きていないのではないでしょうか。また、盧泰愚以降の大統領の記述が具体的に何を表しているのかよく分かりません。解答が全体として民主化運動に関することばかりではないように見えます。……確かに。民主化がメインではありますが、暗殺が民主化への希望を生みます。しかし独裁化も来たし、盧泰愚は大統領直接選挙を認めたことが、後の大統領選挙で軍人でない候補が立ち、軍人ではないひとたちが当選していきました。今はそれが慣例になっています。民主化という観点から戦後韓国史を書いてほしい、という問題です。

p26 問1 を普通に書いていると政治史ばかりになってしまいますが、文化面の活動も書いた方がいいということですか。……政治史として課題を出す大学もあり、文化史も伴う変遷を書いてほしい、という出題もあります。双方とも書けるとベターです。

p26 問2(1) はソグド人は書かなくて良いのですか。……書いてもいいですが、字数からトルコ人に限定したほうがいいです。ソグド商人はイラン系ですから。仲介的なことはしているので、字数がもっとあれば書いて良いとおもいます。

p27 問5 の革命干渉戦争の終息とともに、というのがよく分かりません。もともと人民党が主導していたのではないですか。……(注)でも書いていますように、人民革命党単独では軍事的な平定は無理でした。援助によって独立したので、ソ連の衛星国とも採られるのはそのためです。

p28 問1 注にモン人たちの国々にペグーが挙げてありますが、ピューではないでしょうか。……ペグー朝の民族も言語もモン人・モン語です。ピューは別名モン王国ともいうようにモン語を使うひとたちもいました。ともにミャンマーの南部にいた民族なので、重なっています。

p28 問3 タイ人の南下は元に大理が滅ぼされて起こったと書いてあるものがありましたが、それは間違いですか。……いいえ。正しいです。大理はビルマ(ミャンマー)人・タイ人の故郷です。今の中国領雲南省にあった国ですが、蒙古人が初めて中国領にしました。それまで中国領ではなく「南詔→大理」と代わった非中国の地域です。

p29 問5 香料貿易と香辛料貿易は違うのでしょうか。……香料の中に香辛料があります。一般に香料貿易といったら香辛料の取引をさしますが、香料はこの香辛料の他に油・木・樹脂なども入ります。

p29 問6 華僑の小王国とは何のことですか。……東南アジアの島々の各地に華僑の住む王国が築かれました。実例としては、タイにトンブリー朝を興したのは華僑の子、別にインドネシアのデマック王国などです。これらは教科書に載っていません。

p29 問7 海外の熱帯産品を内陸に運ぶというところの熱帯産品とはどういうものですか。また港市国家は内陸から香辛料等を運び出して輸出するのだと思っていましたが、違うのですか。……熱帯産品とは熱帯で採れる果実・香料・油・ゴム・コーヒー・バナナ・カカオなどです。
 港市国家はたいてい東南アジアの島々の沿岸に位置していて、河口があればそこから内陸に運びますし、内陸のものを河口から輸出するので、どちらも使われます。シュリーヴィジャヤ王国の首都パレンバンは内陸にありますが、川で海とつながっていました。

p30 問9 オランダがインドネシアを独占したことは含めなくて良いのですか。……ボルネオ島はイギリスが北部をとり、ポルトガルティモール島を取るので完全ではないです。

p30 問10 イギリスがマレーを獲得したことは重要ではないのですか。……書いてもいいです。字数が許せば。

p35 問6 問題文にヘブライ人とあってもユダヤ人と言い換えても良いのですか。また、どちらの表記でも大きな違いは無いですか。……ないです。

p37 問15 2行目に11世紀前半の事が書いてあるのはなぜですか。……正確を期すために「前半」としました。当然ながらその状態は「後半」も続きますから。後ウマイヤ朝のアブド=アッラフマーン3世は929年にカリフを名乗り、ファーティマ朝も909年に建国当初から名乗りました。

p37 問18 指定語句がミッレト"制"だと文章構成が少し変わると思うのですが、どうするのが良いですか。……指定語句の通りでないのは、わたしのミスです。「ミッレト」を構成し→(正)はミッレト制を認められ

p40 問2 法前平等の前提にたたずとはどういうことですか。……「たたず」は「立たず」と同じで、そういう原則を前提にしない、制度化していない、という意味です。

p41 問6 工場とは手工業者の仕事場という意味ですか。また、市民が数家族をもちとありますがどういう意味ですか。……仕事場は、奴隷なので集団で働かせているため工場の形態をとっています。陶器・金細工・オリーブなどの工場です。
 奴隷は家族を持たないのではないですか。……「数家族」とは一人のスパルタ市民が、征服した先住のギリシア人を農家の数家族まとめて所有することを指しています。アテナイのように購買奴隷ではなく、一人一人別々に所有するのと違います。
 「奴隷は家族を持たない」はアテナイでは該当しますが、スパルタでは違います。先住民全体の支配ですから。
 「征服された先住民……第3身分がへイロータイ(へロットhelot)で、彼らはスパルタに抵抗して征服された隷属民で、スパルタ市民の土地に分属させられ、貢納の義務を負わされた。しかしへイロータイは自分たちの集落と家族をもち、財産も有していたから、奴隷とはことなる隷属民であった」(『詳説世界史研究』から)。スバルタの奴隷を奴隷としないで「隷農」と訳す学者もいるのはこのためです。

p42 問11 教科書等だと大土地所有が進んだというような記述がありますが、解答に含まれていないのは戦争前から大土地所有の進行の傾向があったからですか。……そうです。イタリアはギリシアと違いポー川、ティベル川、アルノ川などオールシーズンの川があり、周辺に平野が広がっていて、初めから大土地所有があり、貧富差が大きく、その点でも民主主義は不可能という土地柄です。もちろん戦争のたびにこの差は拡大しましたから、大土地所有が広がった、と書いても間違いではありません。

p42 問12 弟ガイウスは自殺した…兄弟ともに大土地所有者により殺された、と言っているようにも解釈できるのではないですか。
 ……確かにそうも採れます。わたしは弟のガイウスも追い詰められた殺されたに等しいとおもってます。かたちは自殺とも他殺ともとれる死に方をしています。本能寺の信長は自殺ですが、追い詰められて殺されたに等しいのと似ています。
  ウィキペディアの「ガイウス・グラックス」のところに次のような解説があります。
「奴隷の機転でガイウスは一旦は逃げ遂せるが、敵対者に捕まりそうになり、別の奴隷に自分を殺すよう命令。ガイウスは死亡、その奴隷も自ら命を絶ち、ガイウスの支持者たち3,000人が殺された。」

p44 問17 地方の有力者の大所領が帝国から独立するとはどういう意味ですか。……初めに経済的に独立し、後にゲルマン大移動とともに政治的にも独立します。ゲルマン人の諸小王国がたくさんできます。

p44 問19 最後の文は農奴の社会とコロヌス制が並列してありますが、この二つは違うものではありますが、貨幣政策の結果として対照をなすほどの違いがあるのでしょうか。……自然経済とは貨幣のない経済です。物々交換といってもいい社会になり、農民(コロヌス)への領主による圧力・閉鎖性が強まります。コロヌスではまだ小作人ではあっても領主の圧力が小さい状態をさしますし、ビザンツ帝国貨幣経済を維持します。

p46 問5 東にはポーランド王国ができ、とありポーランド王国が外圧の一つになっています。参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容したということが書いてありましたが違うのですか。また、聖俗最高の支配者とありますが聖俗としてよいのですか。……「王国ができ」を外圧ととるのはオットー1世側の方で、「外圧・脅威」は侵略側の口実です。
 「参考書にポーランド王国はドイツからの干渉を防ぐためにキリスト教を受容」は古い説で、オットーの支配を受けないために、教皇と直接交渉してキリスト教化した、と今は新説があります。
 「聖俗」がまさに帝国教会政策です。教皇の就任に皇帝の認可を必要としました。ビザンツの皇帝教皇主義の西側の言い換えです。

p52 問4 ルピー銀貨について書いてあるものが見つけられなかったので少し教えてください。……デリー=スルタン朝末期にインドで発行され、ムガル帝国でも受け継いで発行しました。イギリスとの貿易でも使われた品質の良い貨幣です。

p55 問4 議会主権の共和制とありますが、議会は途中で解散されたのに議会主権としてよいのですか。……確かに変転はしましたが、革命派は議会派であり、議会を拠点に戦い国王を処刑したのであれば、決定機関としての「議会主権」は共和制の土台です。

P55 問5 近代的土地所有と営業の自由に関する記述がまとまっているものが無いので教えてください。……近代的土地所有とは、封建的土地所有という国王の上級所有権・諸侯の下級所有権・農民の保有権と重層的で相対的な所有権であったものを廃止したこと。国王の所有権と農民の保有権を廃止して地主の所有権=私有権=近代的土地所有権だけを認めました。一(いち)土地に一人の所有権(私有権)しか認めない。これにより私有地の売買が自由になった。ために土地は商品に転化します。
 国王の上級所有権……①
 諸侯の下級所有権……②
 農民の保有権…………③
という三層構造になっている状態が封建的土地所有(重層的土地所有)で、このうち誰か一人だけの所有を認めると近代的・絶対的な、つまりは私的な所有になります。私一人で上下の承認なしに土地の売買ができるようになり、これが土地売買の自由を生み、経済・営業が動き出しやすくなります。

p60 問8 注にメキシコ革命とあるのは誤植ではないかと思うのですが、革命の二文字を削除すればよいのかあるいは他の二文字の言葉を当てはめればよいのか分かりません。……そのとおりで、わたしのミスです。革命は要りません。

p63 問7 1922年に自治法が通過とありますがそうなのですか。1920年アイルランド統治法が成立というのは見たことがありますが。……これは私のミスです。形式的にはそのとおりなのですが、20年に調印しても英国政府と反乱側が対立した状態のままで、1922年に双方で「イギリス・アイルランド条約」を結ぶことで、やっとアイルランド自治が実現します。しかし法は1920年です。

p65 問10 ネップの自由化から五カ年計画で再統制という流れは必要ないのですか。……「集団化」が統制にあたる政策です。

p67 問17 共産主義対反対派という構図は強調されるほど第二次世界大戦に当てはまるわけではないように思えますがどうなのですか。……もちろん第二次世界大戦がいろいろな側面をもっているのですが、スペイン内戦でもいろいろな側面があり、すべての面を書くのが課題ではないです。

p67 問2 天皇を決意させというのは意味内容が曖昧になってしまわないでしょうか。……敗戦しても権威者・天皇が生き残ったのが3国では日本だけであり、かれの決定により敗戦となりました。「曖昧」より特異性を示したつもりです。3国比較の問題なので。

p68 問6 マーシャルプランに対抗してコミンフォルムを結成という記述は他でも見られますが、なぜですか。マーシャルプランに対抗するのはコメコンであるような感じがするのですが。……確かに経済には経済ですが、この時期の経済は原爆を所有する米国が第一の軍事力をもち、それが背後にいてマーシャル・プランを提示されると、軍事力と同じように東側には脅威ととられました。

B 本冊について、
p12 問1 1910年までの段階でシンフェイン党は武装闘争をしているのですか。またイースター蜂起〜アイルランド自由国までの過程のシンフェイン党の関与が教科書等だとはっきりしないので教えてください。……武装闘争はIRA(アイルランド共和軍)といって別の組織で、かれらは19世紀中頃から武装闘争はやっていました。それが1905年に結成された政治的な組織であるシンフェイン党と1907年に合体し闘争に入ります。第一次世界大戦中のイースター蜂起は名高い武装闘争です。それが1920年自治法(統治法)で認められながらも上であげたように納得しておらず、闘争は続きましたが、やっと22年に妥協します。

p13 問2 エカチェリーナ2世は宗教寛容策を採ったのですか。……そうです。新旧のキリスト教イスラーム教の信仰の自由を認めています。啓蒙専制君主の一人とみなされるようにロシアでの『百科全書』の発売を認めて啓蒙思想を尊ぶ姿勢をとりました。宗教だけでない各種学校の設立も進めました。ディドロダランベールと文通をしていました。もっともこれらの政策は西側の評判がほしいためのジェスチャーともいわれています。

C 東大の問題について
1 パクス・ブリタニカという言葉か色々な物事を指すのに使われていて、意味がよく分からないので教えてください。……大英帝国が世界の大半の政治・経済を動かすような覇権状態が「イギリスの平和」です。イギリスの世界支配といってもいい状態です。すこし誇張気味ですが。

2 世界史の入試対策について、また東大の世界史について質問があります。
 東大2011-1の添削を受けたり『東大世界史解答文』を読んだりして気づいたのですが、イスラム文化に関して引用されている教科書の記述の多くが手持ちの山川教科書には記載がありませんでしたがどうすると良いでしょうか。……指定語句は東大ですから教科書に載っているものを出してくるので、大半は教科書に書いてあるか、用語集に書いてあります。たとえば私の解答例の「カナート・カレーズ」のうちカナートは東京書籍にあり、持っていなければ山川の用語集に載ってます。中国の絵画技法とは細密画に応用されているものです。アスパラガス・オレンジは教科書も用語集も載っていませんが、私の添削を通して覚えてください。
 
3 東大の世界史の得点分布がどういった様子かご存じの範囲で教えてください。2022年度の出題意図を見るとその年はあまりよくなかったのは分かりました。……年度によって違うと見ています。第1問が難しく白紙が多いとか、字数が埋まっていない、という時は第2問・第3問の得点配分を高めにする、という具合に。固定していない、という根拠は、開示された得点を合否のいろいろな年度の受験生が教えてくれるので、その全体を見ての推理です。

4 先生のブログで東大は採点が厳しいという記述を拝見しましたが、もう少し詳しく教えてください。……課題から外れた内容であれば、どんなにマス目が埋まっていても得点はない、ということです。厳しいのは採点官の裁量次第という点もあります。日本語の文章としてどうかと判断する教授もいて、そのひとの目に適わなければ、低く採点される、という場合もあります。似た答案でも採点官によって違った評価が有り得る、ということてす。何も東大は名文を求めていないのに。これは運です。

5 加点方式の場合、例えば20点満点の問題は加点ポイントは20を超えて用意されているのですか。……もちろん用意は2倍も3倍もあります。東大の採点にかかわった方の東大実戦での基準を見せてもらいましたが、いろいろな解答例を挙げて得点差をつけた詳しい基準でした。ただし、これはその方の基準であり、今はもっと簡略な基準に堕落・劣化しているようです。

6 東大の世界史は1989年に大きく傾向が変わったということを読みましたが、どう変わったのですか。……わたしには分かりません。何も「大きく」は変わっていないので。

2023年度・共通テストの解き方

2023年度・共通テストの解き方
問題文は以下のサイトから手に入れてください。
https://edu.chunichi.co.jp/site_home/center/pdf/2023sekaishi-B_q.pdf

第1問
 女性参政権について、第一次世界大戦に出征した男性に代わって女性が工場などで働く→女性参政権、という文脈で選挙権が実現したことを語るのが日本の教科書の筋書きです。しかしこれは女性たちが18世紀末からこの選挙権獲得の運動をしてきており、それを無視した失礼な内容です。 
 一橋の2010年の過去問に「女性たちの参政権運動は、1848年にセネカ・フォールズにて開催されたアメリカ女性の権利獲得のための集会から始まったといわれる。19世紀後半には女性団体が運動を展開し、1920年になってようやく憲法修正19条により「合衆国市民の投票権は、性別を理由として、合衆国またはいかなる州によっても、これを拒否または制限されてはならない」と定められ、女性の連邦政治への参加が可能となった」」という導入文がありました。この1848年から始まって、各州で実現しました。ワイオミング州の1869年、ユタ準州の1870年、ミシガン州ミネソタ州は1875年、ワシントン準州が1883年、コロラド州1893年とつづきます。「1920年」は連邦憲法で定められたので、合衆国全体での実現になります。この修正19条は総仕上げ、最終段階としてあったということです。
 18世紀末はフランス革命中にオランプ=ド=グージュがおり、『人権宣言』の中の「人間」には女性が含まれていないと抗議し、『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』を書いて発表したひとです。
 2010年の東大の第1問「19〜20世紀の男性中心の社会の中で活躍した女性の活動について、また女性参政権獲得の歩みや女性解放運動について」というものでした。20世紀だけの運動しか知らないのでは、東大の問題は解けません。この問題では、先生と生徒の会話も20世紀に限定されています。出題自体が時代遅れです。
 日本でも19世紀に運動家がいました。楠瀬喜多さんです。→
https://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm

問1(解答番号[1]) 文章中の空欄[ ア ]の国とは、導入文が「フィンランドは19世紀に、当時帝国だった[ ア ]の領土」とあるので、隣のロシア・ソ連の領土ということになります。
 ① 北方戦争の敵は「イギリス」ではなくスウェーデンです。フィンランドはロシアがウィーン会議で得ています。
 ② 「両公国を失った」という歴史はデンマーク戦争の歴史(両公国へのデンマークの南下を阻止した普墺の抗戦)です。
 ③ ピウスツキ独裁とあればポーランドの歴史。
 ④ 21世紀に入ると、中国などとともにBRICS(BRICs)と呼ばれた。……これが正解BRICSとは、Brazil, Russia, India, China に南アフリカ共和国 (South Africa) を加えた表現です。この語句を知らなかったとしても①〜③の消去法で解けます。 

問2[2] 下線部(a)「多くの国や地域を巻き込んだ第一次世界大戦」についての正誤問題。
 ① オスマン帝国が、協商国(連合国)側でなく、同盟国側でした。独墺ブルガリアの3国につづくオスマン帝国は「斜め」につらなる4国が同盟国側です。地図で確かめましょう。
 ② フランス軍でなくドイツ軍が、タンネンベルクの戦いでロシア軍の進撃を阻んだ、です。あるいは、マルヌの戦いでフランス軍がドイツ軍の進撃を阻んだ。
 ③が正解。インドに自治の空約束をして徴兵し、インド兵は犬死にとなりました。
 ④「レーニンが」でなく「米大統領ウィルソンが」です。十四か条の平和原則は民族自決を唱えたので有名ですが、レーニンはウィルソンの言う前の17年に「平和に関する布告」ですでに唱えていました。

問3[3] 生徒たちがまとめた次のメモの正誤。
 室井さんのメモ
 ニュージーランドでは、自治領となった後に女性が全国レベルの参政権を獲得した。……白人支配が明白なところから自治が認められていきますが、最初はカナダ(1840)、次はオーストラリア(1901)、そしてニュージーランド(1907)、南アフリカ(1910)という順です。地理的にはジグザグです。オーストラリア(1901、語呂は「オーストラリア、人ひと1901」これは中谷まちよ著『世界史年代ワンフレーズnew』パレード、以降『ワン』で省略)の後だろうなという予想はできます。
 渡部さんのメモ
 第一次世界大戦……1918年に初めて女性参政権が認められた。この文章は問題ないです。なにしろ「佐藤:1918年にはイギリス」と発言しています。これは第四次選挙法改正で、男子は21歳以上の全員が持てました。だから②が正解。戦争中にもかかわらず女性たちは、19世紀につづいて選挙権獲得運動を行ないました。
 佐藤さんのメモ
 アメリカ合衆国では第一次世界大戦末期のキング牧師による公民権運動……キング牧師の運動は第二次世界大戦後の1960年代です。公民権法が成立したのは1964年です(『ワン』語呂→「公民、1964)

 
問4[4] 文章中の空欄[ イ ]に入れる語句として最も適当なものを選べ。……「6世紀後半」に中国北部にあった王朝はどれ? という問いでもあります。またこれは資料の「平城に都が置かれていた時代」という語句もヒントになります。
 ① 西晋を滅ぼした匈奴の風習……確かに匈奴は4世紀に洛陽を都にしていた西晋永嘉の乱で陥落しますが、五胡十六国時代(316〜439)には鮮卑に支配者は代わっています。
 ② 北魏を建国した鮮卑の風習……初めは史料の「平城」に都を置いていたのが5世紀に洛陽に遷都し、6世紀には西魏東魏に分裂し、それが北周北斉に受け継がれます。6世紀前半までは、華北の統一が保たれていました。北魏華北統一(『ワン』語呂、北魏439)か、孝文帝の均田制(『ワン』語呂、均田は485)を覚えておくと良いです。これが正解
 ③ 貴族が主導した六朝文化……南朝中心の文化を指します。
 ④ 隋による南北統一は6世紀末です(初めは華北統一、そして華中華南も征服して統一、『ワン』語呂、隋こ5わ8い1、こ5わ8く9ないと統一)。

問5[5] 「中国に女性皇帝が出現する背景」とは、という問に妥当な文章は、
 ① 唐を建てた一族が、北朝の出身であった……が正解。というのは隋唐両王朝とも鮮卑系だからです。則天武后鮮卑系です。
 ② 古い家柄の貴族から科挙官僚へ移るという移行を進めたのは則天武后ですが、といって官僚が皇帝になるわけではありません。(『詳説世界史』→則天武后が帝位についた際、科挙官僚を積極的に任用したことは、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚へと移ってくる一つの転機となった)
 ③ 隋の大運河の完成によって、江南が華北に結び付けられた……これは女性の地位低下につながるかどうか不明です。
 ④ 北魏で、都が洛陽へと移され、漢化政策が実施されたのですが、「漢化」は男性優位をもたらすはずです。第二の武后になるべく、毛沢東亡き後は江青が後継者になろうと武后を褒めたたえる運動を展開しましたが、皇帝にはなれませんでした。武后が稀な例であったことが判ります。

問6[6] 下線部(b)「この時代以降の儒学」について述べた文として最も適当なもの……ということは唐以降の儒学ということです。
 ① 世俗を超越した清談が流行した。……魏晉南北朝時代なら該当します。
 ② 董仲舒の提案……前漢武帝代の儒者です。
 ③ 寇謙之が教団を作り、仏教に対抗した。……北魏・太武帝の顧問で道教国教化につくした人物。
 ④ 『五経正義』が編纂され……これが正解。孔穎達が太宗の命で編纂したもの。

第2問 

問1[7] 家系図を参考に。
 ① 右の図柄は、上の対話中「左の図柄は、……クレシーの戦いの図版」と百年戦争初期の戦いであるクレシーの戦い(1346)と説明しているので、左右が逆になっています。
 ② 左の図柄は、アンリ4世カペー朝とつながりがあることを表している。……これは上段の先生の説明「この図はアンリ4世から始まる王朝で使用されるようになる紋章」とあるので、これが正解です。対話文をなぞるだけの問題で、これは思考力と関係しているのか疑問。
 ③ 二つの王家の「統合」ではなく、「血筋」の繋がりを表している、とは言えます。
 ④「ナバラ王位」は系図では「ジャンヌ=ダルブレ
(1572年までナバラ女王)」という母方を継承したことを表しているので「父から」は間違いです。

問2[8] 下線部(a)「ユグノー」に関連……プロテスタントについて、という問題。
 ① サン=バルテルミの虐殺により、多くの犠牲者が出た。……この文章が正解ユグノー戦争中の出来事として教科書に必ずといっていいほどに虐殺図が載っています。
 ② ツヴィングリはスイスの改革者。ドイツ農民戦争はミュンツァーが指導者。
 ③ 国王至上法(首長法)の制定はヘンリ7世でなく「8世」が正しい。
 ④ イグナティウス=ロヨラが.イエズス会を結成した……これはプロテスタントでなくカトリック側の反宗教改革の一環。パリで結成されました。

問3[9]
 [ ア ]に入れる人物の名は対話文の「宰相マザランが死去した後親政を始めた」とあるのでルイ14世ルイ13世の宰相リシュリューと区別するために、★ザコンの14世、と覚えます(拙著『センター世界史B各駅停車』以降は『各駅』と省略、→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)。
 [  イ  ]に入れる文、とは「国家財政の問題を解決する手段として使います。当時、」とあるので、「X ネッケルによる財政改革」というフランス革命直前のことではありません。「
Y 度重なる戦争によって戦費が膨れ上がっていました」が該当します。正解は②
 ルイ13世ルイ14世ルイ15世ルイ16世の時に革命です。

B 
問4[10] 空欄[ ウ ]の王朝が10世紀に支配していた半島の歴史の空欄は「半島(イベリア半島)」や、資料1の「私たちウマイヤ家」から「後」ウマイヤ朝だと推理できます。これがハッキリしないと問題は解けません。
 ① ルーム=セルジューク朝ができた場所は、現在のトルコ、アナトリア地方です。スペインのあるイベリア半島ではありません。「ルーム」=セルジューク朝とはセルジューク族の一派で、後にオスマン帝国をつくる起源となった王朝です。
 ② この半島における最後のイスラーム王朝となるのは「ムラービト朝」ではなく、ナスル朝グラナダ王国です。
 半島のイスラーム王朝は、ウマイヤ朝後ウマイヤ朝ムラービト朝ムワッヒド朝ナスル朝の順です。覚え方は★ウウ、ムム何するん?(拙著『各駅』p.150に載っています)
 ③ ベルベル人によって建てられたムワッヒド朝が、この半島に進出した。……これが正解
 ④ この半島はアラビア半島です。

問5[11] 下線部(b)「カリフ」の歴史。
 ① 預言者ムハンマドが死亡すると、アブー=バクルが初代カリフとなった。これが正解。アブー=バクルはムハンマド(53歳)の幼妻アイーシャ(6歳)の父親です。
 ② アブデュルハミト2世(在位が1876〜1909)は、カリフ制を廃止(1924)したカリフではありません。カリフがカリフを廃止することもありえません。ハミト2世はミドハト憲法が制定されたときのスルタン=カリフです。覚え方は「★ミドハミト2世」です。19世紀中頃のタンジマート(恩恵改革)のときのスルタン=カリフであるアブドゥル=メジト1世と区別できないといけませんが、かれの覚え方は「★タンジト(タンジマートはアブドゥル=メジト1世の改革)」です。
 ③ ブワイフ朝の君主はバグダードに入った後、カリフとして権力を握ったのではなく、「スルタン」称号をもらいます。
 ④ サファヴィー朝は1500/01年に成立した王朝で(『ワン』語呂→サファリ、イン1501)、アッバース朝は750年からの王朝であり、事実上1258年に滅亡しています(『ワン』語呂→あっ、バス、1258れたの)。

問6[12] ファーティマ朝の歴史とそのカリフについて
  ① ファーティマ朝アッバース朝成立以前に成立した王朝……以前がまちがい。アッバース朝の成立は750年(『ワン』語呂→あっ、バスならも750ろ)で、ファーティマ朝チュニジアできたのが909年ですが、この王朝が大事なのはエジプトに入った時点の969年です(『ワン』語呂→不安定、969)。
 ② ファーテイマ朝はスンナ派でなく、シーア派シーア派の王朝名は「フ」が多い。★「フ」の付く王朝はシーア派:ブワイフ朝・ファー ティマ朝・サファヴィー朝・パフレヴィー朝──『各駅』p.145)。
 ③ ファーティマ朝はカイロを首都とした、のは正しい。建国の翌年に建設しています(970)。しかし、「シリアやエジプトを取り戻せない」というよりエジプトが根拠地であり、シリアにも進出して十字軍と戦っています。
 ④ 正解

第3問 

問1[13] 図は「フランスに帰還する様子が象徴的に描かれている」ナポレオンのですね。ということは一旦追放されてから、今は君臨している前の王朝と対決することになります。「統治していた国王」のルイ18世についての選択問題です。
 ① アルジェリアを占領した(1830)、ときはルイ18世の弟シャルル10世のときでした(『ワン』語呂→あるじ、1830)。
 ② 恐怖政治を敷いた、のはロベスピエールジャコバン政権のとき(1793〜94)、まだ革命中です。
 ③ 国外逃亡を図り、ヴァレンヌで捕らえられたのは、ルイ16世国王夫妻でした(1791)。
 ④ 王位に就いて、ブルボン朝が復活したのが1814年ウィーン会議開催と共にでした。これが正解で、ルイ18世の就任です。

問2[14] 空欄[ ア ]は「トゥサン=ルヴェルチュールが指導する」とあるのでハイチだから左図のa、[ イ ]は「対仏同盟軍に敗れて[ イ ]に流され 」とあるのでエルバ島で、右図bです。中図のcはナポレオンが最後に流された大西洋の島でセント=ヘレナ島です。正解は②です。 

科挙に関する授業。
問3[15] 文章中の空欄[ ウ ]は前文に「宋代には……新しい学問」とあるので朱子学(宋学)のことです。
 ① 科挙が創設された時代は隋なので、隋代「書院を中心に新しい学問」はありえないです。隋代に「新しい学問」はおきていません。また隋代に「宋代には私立学校の書院が各地にでき」ていません。
 ② 金の支配下で、儒教・仏教・道教の三教の調和を説いたのは王重陽の全真教の説明文です。
 ③ 臨安が都とされた時代は、南宋の時代ということで、朱熹によって「大成され、儒学の経典の中で、特に四書を重視した」となります。これが正解
 ④ 実践を重んじる王守仁が、知行合一の説を唱えた。……明末、1500年前後のひとで陽明学の大成者。

問4[16] 文章中の空欄[  エ  ]は「同時代……書院を拠点とした争い」とあるので儒学の派閥争い、明末では東林党党と非東林党党の争いです。
 ① 太平道黄巾の乱後漢末の反乱です(『ワン』語呂→黄巾の乱、黄色い184)。
 ② 南宋初期に、対金政策をめぐって争った秦檜と岳飛(『ワン』語呂→何艘、1127出か)。
 ③ 土木の変で.皇帝が捕らえられたのは、明朝初期です(『ワン』語呂→土木、石14敷4く9)
 ④ 東林派の人々が.政府を批判した……これが正解

問5[17] 下線部(a)「中国で科挙の開始より古い時代に行われた人材登用制度」は推薦制の九品官人法です。
 下線部(a)について述べた文
 あ 豪族が政界に進出、が正しい説明。
 い 貴族の高官独占が抑制、がまちがい。

 朝鮮や日本で見られた人材登用制度に関する考え
 X この文章は先生の発言どおりで、正しい。
 Y 日本の儒学者が……科挙の導入を提唱、がまちがいだから、正解は①

 中国における書籍分類の歴史。
問6[18] [ オ ]は「18世紀の中国で編纂」とあり清朝と判ります。
 ① 『四書大全』の大全は永楽帝の編纂書を表しています。『永楽大典』『四書大全』『五経大全』と「★「大」がつく作品は永楽帝(『各駅』)」と覚えましょう。
  「皇帝に権力を集中させるため、中書省を廃止した」は正しいぶんですが、これは明朝創始者朱元璋洪武帝の政策。
 ② 漢人男性に辮髪を強制した、のは清朝
 ③ 中書省を廃止したのは明朝。
 ④ 正解

問7[19] 次の書籍あ・いが『漢書』芸文志の六芸略に掲載されているかどうか。これは「資料2『漢書』芸文志で六芸略に掲載されている書籍の一部は『易経』『尚書書経)』『春秋』」とあり五経の三つが書いてあり、欠けているものはどれか、という問い。もちろん「あ『詩経』」です。「い『資治通鑑』」は時代が北宋司馬光によるもので、時代的にも『漢書』に記されている可能性はゼロ。①が正解
 四書と五経の区別はできますか?
 四書:孟子論語・大学・中庸
 五経:春秋・礼記易経詩経書経
 覚え方は(★四書→もちろん、ダッチューの五経春に礼、易しく詩を書く(『各駅』p.8))

 ちなみにチャットGPTで「四書と五経の区別がしやすい覚え方は?」と問うたら、
 ……(前半省略)つまり、「大中論孟」と「詩書礼易春」の2つのフレーズを覚えることで、四書と五経を簡単に区別することができます。

 とのお答えでした。覚えられますか?

問8[20] 前中国における書籍分類の歴史について。
 ① 1世紀には……史部という分類も定着していた、はまちがい。これは「1世紀にはまだ四部分類がなかったのですか。教授:そのとおりです。当時は史部という分類自体、存在しませんでした」に反します。
 ② 「木版印刷の技術が普及した」のは「3世紀から6世紀にかけて」ではなく、唐代です。
 ③ 7世紀の書籍目録において、『史記』と同じ分類に本紀と列伝を主体とする形式の書籍が収められた。これが正解
 ④ 「18世紀……四部分類は用いられなくなっていた」は内藤くんの質問にたいする教授の解答「18世紀……、四つに分類されているためです。これを四部分類と言い」とあり、これと矛盾します。

第4問
A 
問1[21] 「貨幣1を発行した国」は「コンスタンティノープルで造られた金貨です。ソリドゥスと呼ばれ」でビザンツ帝国であり、「貨幣2を発行した王朝」は鈴木さんの発言「ムアーウィヤが開いた王朝」でウマイヤ朝と判断できます。
 ① ゾロアスター教が国教とされた、のはササン朝だからまちがい。
 ② パルティアはササン朝に代わられています(ササン朝226年から『ワン』語呂→笹で226)。
 ③ 貨幣1の発行国では、ローマ法の集大成が行われた。これはユスティニアヌス帝が作らせたものでしたから、正解
 ④ バグダードに都を置いたのはアッバース朝ウマイヤ朝の都はダマスクス

問2[22] 
 佐々木さんのメモ
 初めは「各地で使われていた言語を行政において用いることを認めていたが」後で「アラビア文字のみが刻まれた独自貨幣の発行」となったので、正しいメモ。
 鈴木さんのメモ
 「貨幣2を発行した王朝は」は佐々木さんの説明文の後半をより説明していて、正しい。
 広田さんのメモ
 「ソリドゥス金貨は、ヴァンダル王国を滅ぼした皇帝」はユスティニアヌス帝ですが、かれは6世紀の皇帝です(『ワン』語呂→ユスティニアヌス527い)。ローマが東西に分裂する前から発行しています。遅すぎます。したがって正解は②

 古代ギリシアについて
 資料二つと対話文がごっちゃになっていて分かりにくいものになっています。
 整理してみると、
 資料1・2ともに「二人とも、五賢帝の時代(96〜180年『ワン』語呂→五賢帝は賢9六6〜言1わ8れ0)を中心に活躍」したひとたちの書いたもの。つまりマラトンの戦い(前490年『ワン』語呂→マラソン490)はペルシア戦争(前500〜前449)より相当後の言説です。
 資料1の「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で」、アリストテレスアレクサンドロス大王の師であり(前334年東征開始『ワン』語呂→アレクサンドロスで、334)、前4世紀のひと、マラトンの戦いに時間が近くなります。

 前490年 マラトンの戦い…………………………①
 前4世紀 ヘラクレイデスのテルシッポス……②
 後96〜180 五賢帝、『対比列伝』……………③
 対話文・資料が長いと判別しにくくなるので、このように①〜③のように時間順に番号をメモっていきましょう。

問3[23] 
[ ア ]に入れる語句
 「ヘラクレイデスはアリストテレスの下で学んでいた人物……松山:ということは[ ア ]ことになりますね」
 あ 資料1・2の著者は二人とも、ヘラクレイデスよりもマラトンの戦いに「近い時代」に生きていた、の「近い時代」がまちがいです。
 い ヘラクレイデスは、資料1・2の著者たちよりもマラトンの戦いに近い時代に生きていた……正しい。
 [ イ ]に入れる人物の名は「マラトンの戦いに時代が近い人物……使者の名前は[ イ ]」とあるので、「Yテルシッポス」になります。したがって正解は⑤

問4[24] 文章中の空欄[ ウ ]は「マラトンの戦いを含む」とあるのでペルシア戦争です。
 ① イオニア地方のギリシア人の反乱が、この戦争のきっかけとなった。……ミレトス市の反乱からスタートが通説です。これが正解
 ② エフタルは突厥ササン朝で挟撃した民族・国ですが、時代が5〜6世紀でずれすぎてます(『ワン』語呂→F樽、5〜6がす)。
 ③ この戦争の後に、アテネを盟主としてコリントス同盟(ヘラス同盟)が結成された。……この「戦争」はアレクサンドロスの父フィリッポス2世の勝利したカイロネイアの戦いの後に結ばれたもの。ペルシア戦争ではない。
 ④ ギリシア軍が、この戦争中にプラタイアイの戦いで敗北した。……敗北でなく勝利した(前479)。

問5[25] マラトンの戦いの勝利をアテネに伝えた使者について
 ① アテネで僭主となったペイシストラトスは使者の話を知っていた可能性がある。……この人物は戦争前の僭主として知られています(前561『ワン』語呂→ペイシス561)
 ② トゥキデイデスの『歴史』はペロポネソス戦争
 ③ プルタルコスは.使者の名前について異なる説を併記している、から「対比」の列伝です。これが正解。上の資料のように二人を挙げました。
 ④ 使者についての資料2の記述は.ヘロドトスの『歴史』を正確に反映している。……これは後段で先生が「紀元前5世紀の歴史家の著作には、資料2にあるフィリッピデスという名前が、マラトンの戦いの後ではなく、その前にスパルタに派遣された使者」とあり、これをそのまま反映していません。

 ベーダが、731年頃に執筆した著作
問6[26] 文章中の空欄[ エ ]に入れる語句と、資料1と資料2が示す「アングル人」について。
空欄は「歴史的出来事……[ゲルマンの三つの民」」とあり、ゲルマン人の大移動であることは容易です。
 あ 大陸から渡来してきた民の一つで、サクソン人やジュート人(ユート人)と並置される集団のことである。……これが資料1の「三つの民」。
 い サクソン人やジュート人(ユート人)をも含めた、共通の言語を話す集団の総称である。……資料2には「アングル人の言語」しか書いてないが、資料3の(注5)に「発音の類似性から.「アングル人」」と書いてあります。したがって正解は③

問7[27] 資料1〜3……古いものから順に正しく配列
 資料1「カルケドン公会議」は細かいですが、正当か異端かを決める公会議が何回も開かれていた(初めのニケーア公会議、325年、次はエフェソス公会議、431年)、そしてこのカルケドン公会議は単性論を異端とした会議でした。年代は451年でカタラウヌムの戦いと同年(『ワン』語呂→語らぬ、451さん)。
 資料2の初めに「私ことベーダが執筆している今のブリテン島」と問題文の初めに「ベーダが、731年頃に執筆した著作」とあります。
 資料3はグレゴリウス1世で、ゲルマン人布教につくした教皇として名高く、かれが派遣したブリテン島は七王国が成立する頃(600年)でもありました(教皇就任が590年『ワン』語呂→グレゴ5グ9レ0)。よって正解は②

問8[28] 下線部(a)「布教対象の民」はイギリスです。
 ① フランク王国
 ② ジョン=ボールが……農民一揆を指導、これがイギリス史で、正解
 ③ コンスタンティヌス帝は、勢力を増したキリスト教徒を統治に取り込むためには統一法ではなくミラノ勅令、統一法はエリザベス1世
 ④ ボニファティウス8世ではなくウルバヌス2世が「提唱した第1回十字軍」、ボニファティウス8世はアナーニ事件の危なかった教皇(1303年『ワン』語呂→穴にむ、1さん303)。

第5問
A 
問1[29] 下線部(a)「マラヤの宗主国」の歴史
 ① シンガポールを獲得はイギリスだから正解
 ② 19世紀後半でなく前半の1833年
 ③ 公行の廃止は南京条約。北京議定書は義和団事件の条約。
 ④ 廃止でなく成立した。

問2[30] 文章中の空欄[ ア ]と線部(b)「統計が取られた時点で、[ ア ]において、ゴムの需要が高まっていた」の背景

 [ ア ]に入れる国の名は表のフィリピンの宗主国アメリカが書けているので合衆国だと判定できます。
 下線部(b)「ゴムの需要」の背景は、ベルトコンベアー方式の自動車生産ですね。アウトバーンの建設はその後です。よく「ヒトラーアウトバーンを建設して失業者に職を与えた」とのプロパガンダが知られています。ナチス政権以前からあった政策をナチス政権の成果として宣伝したことが今も響いています。
 正解は③。  

問3[31] 1929年当時の東南アジア各地の経済
 ① コーヒー栽培……インドネシアは、宗主国(オランダ)向けの輸出額の割合が4地域の中で最も低かった、ではなく2番目の高さ。
 ② ゴムプランテーション(ゴム園)の労働者として移民が流入したマラヤは、インドシナの輸出額上位5地域の中に入っていた。……これが正解。文章中の「インドシナ」は東南アジア全体を意味することもあります。「仏領」を付けるべきでしたが、そうすると宗主国が分かっちゃうので付けられなかった。
 ③ フィリピンでは強制栽培制度はオランダがインドネシアでやった政策です、フィリピンではない。
 ④ インドシナの輸出額において最大であった地域は、インドシナと同じ宗主国の植民地であった。……この「インドシナ」は表の仏領「インドシナ」連邦のことでしょう。とすれば、香港が最大輸出先で、香港の宗主国アヘン戦争で奪ったイギリスです。

 歴史統計。
問4[32] 空欄[  イ  ]と[  ウ  ]
 ① イー表1を見ると、都市人口比率が上昇している……1600年335000人→1801年2380000人だから正しい。
  ウー土地が囲い込まれ(第2次囲い込み)、新農法が導入された……「食料の供給が安定していた」のはエンクロージュアと四圃制・改良三圃制が新農法です。これが正解
 ② イー「都市人口比率が減少」が誤文。
  ウー全国的に鉄道の輸送網が完成はまだ。完成は19世紀末。
 ③ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が上昇している……これは合っている。
  ウー農業調整法(AAA)が制定され、農産物の生産量が調整された……これは合衆国の恐慌対策。
 ④ イー表2を見ると、農村農業人口100人当たりの総人口が減少している……まちがい。
  ウー穀物法の廃止により、穀物輸入が自由化された……穀物法廃止は1846年(『ワン』語呂→穀物ひと1846)。「18世紀後半の時期」ではない。

問5[33] 空欄[  エ  ]の前後文は「移民の送り出し国や受け入れ国で起こった出来事が移民数の変動に影響」とあり、「先生:よく勉強していますね」の内容は何か、という問い。アイルランドの点線が1845〜55年の間が山になってます。
 ① 大飢饉(ジャガイモ飢饉)ですね。これが正解
 ② クロムウェルにより征服は、17世紀のピューリタン革命(『ワン』語呂→ピューと1642)。
 ③ 1870年代初め……南北戦争が始まった、がまちがい。1861年から(『ワン』語呂→南北戦争1861)。「移民は、1870年よりも減少している」は正しいが。
 ④ 移民は、1890年よりも増加していない。

問6[34] 下線部(c)「世界初の産業革命は、イギリスで起こりました」
 ① 「大西洋」の三角貿易を通じて、綿製品、茶、アヘンが取引された。ではなくインド洋/アジア。
 ② ダービーによって開発された、コークスを使用する製鉄法が利用された。これが正解
 ③ ラダイト運動は「選挙権の拡大を目指して、」ではない。産業革命への反発運動でした。
 ④ 1833年の工場法は「大気や水の汚染問題の改善が図」るものでなく、子ども労働者の夜業禁止。

 共通テストで高得点をとるには、
(1)対話文をよく読んでチェックを入れていくこと、
(2)年代を覚えること。

23年度合格メール

23年度合格メール

Aくん
中谷先生の世界史教室を夏休みごろから利用し、40年分の過去問をこなすことができました。中谷先生の解答例や講評を自分の答案との乖離や、知識の補充に利用することでかなりの実力がついたと自負しています。
また、中谷先生の基本60字は第3問の対策に非常に役立ちましたし、中国史の年号は全て中谷先生の語呂で覚えました。
私の合格、特に世界史の点数は全て中谷先生の著作によると言っても過言でありません。
本当にありがとうございました。
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Bくん
筑波大学に合格しました。
入試で世界史を選択しないことになったため、途中で添削指導をキャンセルしたのですが、その際にご丁寧にメールをいただき感激しました。先生のキャリアから学ぶところが多くありました。
これからは筑波大で教育学や障害科学を中心に学びたいと思います。
これまで、論述構成力や世界史の知識など多くのことを教わりました。お世話になりました。ありがとうございました。何かの形で先生の教えを活かせるよう精進していきます。
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Cくん
一橋大学法学部合格しました!
10月からの約半年間世界史の添削をしていただきありがとうございました。数学で失敗したと思うので、確実に世界史のおかげで受かったと思います。これも中谷先生が私の拙い解答を詳らかに見て、一橋に通用する世界史を私に教えていただいたおかげです。
改めて添削ありがとうございました!
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Dくん
お久しぶりです、添削でお世話になっておりました。一橋大学商学部合格していました!!拙い文章で恐縮ですが、お読みいただけると幸いです。
数ヶ月の間、添削をお受けくださり、本当にありがとうございました。先生の論述練習帳のおかげで、論述で何を書くべきなのかが明確になり、少しずつ論述問題への免疫もついてきました。そして、先生の添削のおかげで、自分のできていないこととできていることがはっきりし、少しずつ論述問題への対処法が確立していきました。先生の解法は論理的で、かつ「なぜこれを書くのか」「なぜこれを書かないのか」も明確で、先生の模範解答には非常に納得感がありました。
できていることはしっかり褒めてくださり、できていないことも優しくご指摘いただいたおかげで、添削も嫌にならずに続けることができました。
先生の添削のおかげで、(第二問は多分0点ですが...)知っている知識を、設問に適合する形でよく書けたと思います。
数ヶ月の間、本当にありがとうございました!
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Eくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
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Fくん
おかげさまで一橋大学社会学部に合格できました!!
過去問の添削の際にアドバイスに加え、褒めて頂いたことがとても励みになりました。
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Gくん
本日合格発表があり、東京大学文科Ⅲ類に合格していました。
先生の丁寧な指導のおかげで題意に沿った解答ができるようになり、
合格に必要な世界史の力をつけることができたと思っています。
本当に添削ありがとうございました。
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Hさん
こんばんは。
おかげさまで東京大学文科二類に合格することができました。世界史は塾に行かないで、学校の授業だけで勉強していたため、このような形でたくさん添削していただけたのは、本当にありがたかったです。たくさん頼らせて頂きました。
得点開示が出たら、また連絡させて頂きます。
本当にありがとうございました。
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Iさん
ご無沙汰しております。
東京大学文科III類に無事、合格しました。
12月から3ヶ月間、東大の添削を見てくださり、ありがとうございました。
質問にも丁寧に対応していただき、論述力を格段に伸ばすことができました。
本番も直前まで先生の添削をプリントしたものを読んで、自分が間違えやすいポイントや、論述の構成を復習し、心を落ち着かせることができました。
本当にご指導ありがとうございました。
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Jくん
東京大学文科Ⅲ類に合格しました。長い間のご指導ありがとうございました。この合格は学生の視点の把握を追求する、先生の添削のお陰かと思います。質問対応もある双方向的な添削指導のお陰で自分の納得がいく唯一の答案作成を重ねていくことができ、これを復習することで過去の演習で培った知識・技術(テクニック)を自分の血肉として蓄えていくことができたと感じています。本番でも45/60点を下らない自信があったのは、先生のご指導の下でこうして身に着けた問題把握能力・史的論理力があったからです。本当にありがとうございました。
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Kくん
一橋大学社会学部に合格しました。世界史の論述に関しては先生のご指導があってこそでした。当日は問題に困惑しましたがベストを尽くせました。ご指導いただいた比較の方法などはこれからも生かしていきたいです。短い間でしたがありがとうございました。
………………………………………
Lさん
この度東京大学文科三類に合格することができました。2ヶ月間、第1問を添削していただきありがとうございました。また、世界史論述演習帳newと基本60字にも大変お世話になりました。添削いただいたおかげで、問題文の要求に素直に過不足なく答えることの重要さを強く意識することができました。短い期間でしたが、本当にありがとうございました。

2023年度の再現答案

2023年度再現答案
再現答案について
 どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者本人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません)
………………………………………
東大2023
第1問
Aさんの答案
ヨーロッパ。仏では専制君主制が革命により倒れ、共和政が成立した。以後幾度か王政・帝政が復活することがあったものの、19世紀末の第三共和制成立後は議会制民主主義が成熟していった。英では先の仏革命の影響を受けた自由主義的な改革の中で選挙法改正が行われ、第一次大戦後には仏とは異なり女性も参政権を持つまでに、議会制民主主義が発展した。一方、統合の遅れた伊・独は二月革命の影響を受けて統一運動が高揚し、ハプスブルク家との対決の末、統一された専制的な立憲君主国家となった。第一次大戦に敗れた独はヴェルサイユ体制の中、変革を強いられ、共和制に転換し、帝国議会も共和国議会に改称された。またロシアでは専制君主制が採られていたが、革命を経て社会主義国ソ連が成立した。南北アメリカ。13植民地では、アメリカ独立革命を経て、合衆国が成立した。合衆国では三権分立と州権主義の下、民主主義の基盤が拡大し、白人男性のみならず、女性の普通選挙権が認められる州もあった。一方南アメリカでは植民地支配から、シモン=ボリバルらが主導し、白人植民地人層らによって多くの独立国が誕生したが、その多くが地主層基盤の軍事政権化した。東アジア。列強の進出を受けた清朝立憲君主制国家を目指す光緒新政を試みたが、革命が勃発した。これにより共和制の中華民国が成立した。日本は独に倣った大日本帝国憲法を定めて専制的な立憲君主制国家を目指した。

Bさんの答案
日本。武士政権の江戸幕府だったが、1868年に立憲君主制明治維新になり、大日本帝国憲法を制定、議会を開設したが、制限選挙だった。中国。皇帝独裁の王朝だったが、光緒親政で議会開設、責任内閣制を導入し、辛亥革命で共和政となった。アメリカ。英植民地下で自治を行っていたが、アメリカ独立革命で独立して共和国となり、三権分立主権在民に基づく合衆国憲法を制定した。1830年代に白人普通選挙が実現し、1920年に女性に参政権が与えられた。南アメリカ。シモンボリバルなどクリオーリョが中心となって、絶対王政のスペインから独立して多くが共和国となったが、地主の寡頭政治だった。メキシコは革命によって1917年に民主的な憲法を制定した。イギリス。立憲君主制の下で責任内閣制が発達し、選挙法改正によって選挙権が拡大した。フランス。絶対王政だったが、革命で倒され、共和政、帝政、七月王政を経て、2月革命で共和政となるもの帝政になり、普仏戦争後第三共和制となり、憲法が制定された。ドイツ。帝国議会があったが、首相が実権を握る帝政で、1923年にヴァイマル憲法が制定されて共和政となり、男女普通選挙が実現した。ロシアは帝政から社会主義に、オーストリアは帝政から共和政となった。二つの帝国崩壊によって、ベルサイユ体制で民族自決が適用され、スラブ人が独立し、王政や共和制になったが、議会政治は安定しなかった。

 

一橋2023
第1問
百年戦争発生直後、ヴァロワ朝は成立したばかりで国内には敵対する諸侯も存在した。特に北部にそのような諸侯が多く、ブルゴーニュ公とフランドル伯がその筆頭であった。この2領は15世紀初めにイングランドと同盟を結びフランス国王を攻撃した。一方で国王側にはアルマニャック公などがつき、この間フランスは内戦状態だったといえる。またイングランドボルドー周辺に領地を持っており、フランスの諸侯と言うこともできる。故に百年戦争は単なるイギリス対フランスではなく、フランス内部の対立も考えねばならない。百年戦争の結果、フランスが勝利したため反国王諸侯の勢力は大きく後退した。加えてカレーを除くイングランドの大陸領を排除したことで、中央集権化が大きく進んだ。フランス王権が国内をほぼ統一したため、王国は拡張先を求めイタリアに向かうこととなる。
第2問
Aポルトガルでは1930年代からサラザールによる独裁が続いており、アフリカやアジアの植民地も保持され続けた。しかし1970年代に軍の無血クーデターが成功し民主化が達成されると、他の欧州国家に倣い植民地が解放され、モザンビークは独立した。その後ソ連が支援する共産勢力が内戦で勝利した。Bイギリス領南アフリカでは南アフリカ連邦と同様にアパルトヘイト政策が行われていたが、国際的な非難から撤回することとなった。これに対し現地の白人は反発しローデシアとして独立して、アパルトヘイト政策が実施された。白人の勢力が衰えると、黒人の発言力が増した。その後ローデシアは分裂し、その後ローデシアは分裂し、ジンバブエが独立した。
第3問 
17世紀から18世紀に結ばれたネルチンスク条約とキャフタ条約は両国の国境問題に対処するためであり、両国の立場は対等だった。しかし19世紀になるとロシアは南下政策を推進し、愛琿条約・北京条約はロシアに有利な形で結ばれ、アムール川流域を獲得した。また三国干渉で日本に遼東半島を清に返還させ、同地の大連・旅順を租借した。しかしロシア革命でソヴィエト政権が誕生するとカラハン宣言が発され、帝政ロシア時代の清との不平等条約の撤回が宣言された。中国では『新青年』を通し民衆の共産主義への関心は高まっていたが、孫=ヨッフェ会談で孫文共産主義には反対したものの党による統治が国家統一の手がかりになると感じた。孫文は連ソ・容共・扶助工農を宣言し第一次国共合作を形成すると共に、黄埔軍学校にソ連式の軍教育を施した。また在華紡での中国人労働者殺害への抗議でのデモやストライキのように労働運動が反帝国主義運動の一つとなった。

東大世界史2023

第1問
 近代世界は主に、君主政体や共和政体をとる独立国と、その植民地からなっていた。この状態は固定的なものではなく、植民地が独立して国家をつくったり、一つの国の分裂や解体によって新しい独立国が生まれたりすることがあった。当初からの独立国であっても、革命によって政体が変わることがあり、また憲法を定めるか、議会にどこまで権力を与えるか、国民の政治参加をどの範囲まで認めるか、などといった課題についてもさまざまな対応がとられた。総じて、それぞれの国や地域が、多様な選択肢の間でよりよい方途を模索しながら近代の歴史が進んできたといえる。
 以上のことを踏まえて、1770年前後から1920年前後までの約150年間の時期に、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアにおいて、諸国で政治のしくみがどのように変わったか、およびどのような政体の独立国が誕生したかを、後の地図Ⅰ・Ⅱも参考にして記述せよ。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、以下の8つの語句を必ず一度は用いて、それらの語句全てに下線を付すこと。

 アメリカ独立革命 ヴェルサイユ体制 光緒新政 シモン=ボリバル 選挙法改正* 大日本帝国憲法 帝国議会** 二月革命***
 *イギリスにおける4度にわたる選挙法改正
 **ドイツ帝国の議会
 ***フランスニ月革命

第2問
 水は人類にとって不可欠の資源であり、水を大量に供給する河川は、都市や文明の発展に大きく寄与した。また河川は、交通の手段となって文化や経済の交流を促したり、境界となったりすることもあった。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) 長江は、東アジアで最も長い河川であり、新石器時代から文明を育み、この流域の発展は中国の経済的な発展を大きく促してきた。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) 中国では3世紀前半に、3人の皇帝が並び立つ時代を迎えた。このうち、この川の下流域に都を置いた国の名前とその都の名前、および3世紀後半にその国を滅ぼした国の名前を記せ。
 (b) この川の流域の発展は、「湖広熟すれば天下足る」ということわざを生み出した。このことばの背景にある経済の発展と変化について、3行以内で記せ。

問(2) 西アジアは一部を除いて、雨が少なく乾燥しており、大河が流れる地域がしばしば農業の中心地となった。そこには、ときに王朝の都が置かれ、政治や文化の中心地にもなった。これに関する以下の(a)·(b)·(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。
 (a) 次の資料は、ある王朝における都の建設の経緯を説明したものである。その王朝の名前と都の名前を記せ。

資料
 言うには、「ここは軍営地にふさわしい場所である。このティグリス川は我々と中国との隔てをなくし、これによってインド洋からの物品すべてが我々のもとにまたジャジーラやアルメニアまたその周辺からは食糧が至る。このユーフラテス川からは、それによってシリアやラッカまたその周辺からのあらゆるものが到着する」。こうしてマンスールはこの地に降り立ち、サラート運河周辺に軍営地を設営し、都のプランを定め、区画ごとに武将を配置した
    タバリー『預言者たちと諸王の歴史』
   (歴史学研究会編『世界史史料2』より、一部表記変更)

(b) 資料中の下線部に関連して、のちの9世紀に活躍するようになったマムルークの特徴と、彼らがこの王朝で果たした役割とについて、2行以内で記せ。

(c) 資料に記されている都が建設されたのは、西アジアの政治的中心地として栄えたクテシフォンの近くにおいてであった。クテシフォンを建設した国の名前に言及しつつ、その国で起こった文化的変容について、言語面を中心に、2行以内で記せ。

問(3) ナイル川はその流域に暮らす人々の生活を支えるとともに、人々の行きかう場ともなった。このことに関する以下の(a)·(b)の問いに、冒頭に(a)・(b)を付して答えよ。


(a) 地図中のAで、ナセル政権下に作られた公共建造物は、この川の自然特性を利用した農業のあり方を決定的に変えることとなった。近代以前において、この川の自然特性を利用する形で展開した農業について、2行以内で説明せよ。

(b) 地図中の都市Bはこの川の河口近くにあり、12世紀から15世紀頃、国際的な東西交易の一翼を担う商人たちが、この都市と都市Cとの間で活発な交易を行った。この交易で扱われた物産と取引相手について、2行以内で説明せよ。

第3問
 健康への希求および病気は、まさに現在進行形でわれわれが経験しつつあるように政治・経済・文化などさまざまな方面において、人類の歴史に影響を与えてきた。そして人類はそれらに対応するために、医学を発達させてきた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) 歴史上、影響力の大きい政治家が疫病に倒れることもあった。紀元前5世紀、アテネペリクレスは全ギリシアを二分する戦争の最中に病死し、その後アテネの民主政は混乱していくことになる。この戦争の名称を記せ。

問(2) 14世紀半ばのヨーロッパは、ペストの流行に見舞われた。このペスト流行を経験した作者が、これを背景として人間の愛や欲望などをイタリア語で赤裸々につづった物語の名称を記せ。

問(3) 明代の中国では、科学技術への関心の高まりとともに医学・薬学が発達した。16世紀末に李時珍が編纂し、江戸時代初期に日本に伝来した、薬物に関する書物の名称を記せ。

問(4) 18世紀にジェンナーによって考案された種痘は、牛痘苗を用いて天然痘を予防するものであり、19世紀には、ジャワ島のオランダ東インド会社の根拠地から日本の長崎にもたらされた。この根拠地であった都市の当時の名称を記せ。

問(5) 19世紀には世界各地でコレラの流行が繰り返されたが、同世紀後半には細菌学が発達し、様々な病原薗が発見された。結核菌やコレラ菌を発見したドイツの医師のもとには日本の北里柴三郎が留学して破傷風菌の純粋培養に成功し、破傷風の血清療法を確立した。このドイツの医師の名前を記せ。

問(6) 1980年代以降、温室効果ガスによる地球温暖化の危険性が強く認識されるようになった。温暖化の影響には、低緯度地域の感染症がより寒冷な地域へ広がることも含まれる。1990年代後半、日本で開催された国際会議で、温室効果ガス削減の数値目標が設定された。この取り決めの名称を記せ。

問(7) 今日の嗜好品は、過去においてしばしば薬品としての意味をもった。ある嗜好飲料は唐代に民衆に普及し、後に欧米にも広がり、これに関する貿易問題がアヘン戦争の原因にもなった。この飲料の名称を記せ。

問(8) 仏教では病が生・老・病・死という四苦の一つとされる。その経典の編纂やスリランカヘの布教を行った王が統治し、インド亜大陸を最初にほぼ統一した王朝の名称を記せ。

問(9) イスラーム医学は古代ギリシアの医学をもとに発展した。アリストテレスの著作にもとづいて哲学を追究するのみならず、医学者として『医学典範』を著し、ラテン語名アヴィケンナとして中世以降のヨーロッパの医学に影響を与えた人物の名前を記せ。

問(10) 漢代の医学書には、天体の運行と人間生活との関係を議論する思想がしばしば見られる。その思想を唱えた集団の名称を記せ。

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コメント

第1問
 問われている「政治のしくみ/政体」は導入文に「政体が変わることがあり、また憲法を定めるか、議会にどこまで権力を与えるか、国民の政治参加をどの範囲まで認めるか」と説明しています。憲法・議会・政治参加できるのは誰か、といったことです。
 これを今はやりの「チャットGPT」で問うてみました。字数(600字)制限なしで問うと、次のような回答が出てきました。ウィキペディアのような段落分けしながらの回答で、段落をとって提示するので、ここでは分かりやすく①〜③、(a)〜(d)という番号を振りました。

1770年前後から1920年前後までの約150年間にわたって、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアで政治のしくみが大きく変化しました。以下にその主な変化を示します。①ヨーロッパ:(a)フランス革命(1789年)により、封建主義的な支配から民主主義的な共和制への移行が始まり、他の国々にも影響を与えた。(b)19世紀半ばには、イギリスを中心に産業革命が起こり、これによって社会や経済の変化がもたらされた。(c)ドイツやイタリアなどの多くの国々で、19世紀後半に国家統一が実現された。(d)第一次世界大戦(1914年-1918年)により、ヨーロッパの「」た。②南北アメリカ:(a)アメリカ合衆国では、独立戦争(1775年-1783年)によって英国からの独立が達成され、合衆国憲法1787年)によって政治のしくみが定められた。また、南北戦争1861年-1865年)により奴隷制が廃止された。(b)中南米の多くの国々では、19世紀にスペインやポルトガルからの独立が実現され、それに伴って政治や社会の変化がもたらされた。③東アジア:(a)中国では、19世紀半ばにアヘン戦争1839年-1842年)が勃発し、西欧列強による中国の支配が始まった。20世紀に入り、辛亥革命(1911年)によって清朝が倒れ、中華民国が誕生した。(b)日本では、明治維新(1868年)によって封建的な支配が終わり、西洋化・近代化が進められた。また、第一次世界大戦に参戦し、国際社会での地位を確立した。以上のように、1770年前後から1920年前後までの約150年間にわたって、ヨーロッパ、南北アメリカ、東アジアの多くの国々で政治のしくみが変化し、現代の政治体制や社会の基盤が形成されたと言えます。(725字)

 この回答の前段と末尾の結論はほぼ同じことを繰り返しているので、無意味な部分です。問題文の言い換えにすぎません。
 ①〜③の部分がまともな解答になっています。①(b)では産業革命を書いていますが、ここで問われている政体(政治のしくみ)変化であり、経済変動は問われていません。不要な文章です。政体変化になっているのはフランスくらいで、後は政体変化らしいのは統一だけです。(d)の第一次世界大戦後は「政治や社会に大きな影響を与え」と無意味な内容になっています。
 ②アメリカ大陸は独立だけで、後は「それに伴って政治や社会の変化がもたらされた」とまた無意味なことを書いています。
 ③は革命と維新を書いてます。しかし政体の説明になっている文章は見られません
 課題の「憲法・議会・政治参加」のうち合衆国憲法以外は一言もなく、まして「政治参加」の説明はどこにもありません。大雑把すぎます。
 アメリカの大学ではリポートに使われると困るので、このアプリを使うことを禁止しているところもあるそうです。イーロン・マスク氏が「さらば、宿題」とツイートしたことも話題になっていますが、こんなもの使い物になりません。
 このブログに載せた合格者の再現答案(→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2023/04/30/2023年度の再現答案 )を読んでいたいただければ、受験生の頭がいかに綿密・適確であるかが判ります。
 「600字以内で」と制限して、もう一度チャットGPTに問うてみたら、ほぼ似た回答と、アフリカ・オセアニア・アジアの植民地化の話題が新たに加わって、ますます要らないものが増えてしまいました。なんじゃ、これ。チャットGPTの背景にどれだけ膨大なデータが揃っていても、問いに対して適確な解答文が出せなければ、こんなアプリは時間のむだです。わたしはこんなにたくさんのことを知っているのだ、と空騒ぎしている図体だけ大きく脳みその小さい恐竜のようです。空振りバッター、とでも名づけるか。

 問題として得点は取りやすい易問ですが、綿密さがどれだけ出せるかで点差がひらくものでした。チャットGPTのAI技術レベルと同じような「ぼけた」答案を予備校の「模範」答案でも見ることができます。君が添削してあげてください。

第2問
問(1)(a) 「3世紀前半に、……この川の下流域に都を置いた国の名前とその都の名前、および3世紀後半にその国を滅ぼした国の名前を記せ」
 易問ですが、迷ったひともいるかもしれない。黄河流域に魏、長江下流に呉ができ、上流四川のほうに蜀ができます。順に都は洛陽、呉は建業、蜀は成都と、濁る発音同士の呉(ご)と建業(ぎょう)と覚えます。「滅ぼした国」を魏と覚えるとまちがいです。拙著『センター世界史B各駅停車』(絶版、pdfでは販売→https://worldhistoryclass.hatenablog.com/entry/2017/07/02/『センター世界史B各駅停車』の発売)に「★呉は魏によってでなく晉に滅ぼされた」と注意を喚起しています。

 (b) 「湖広熟すれば天下足る」の背景にある経済の発展と変化。
 これも易問でした。「経済の発展」としては過去問(1983)の「16・17世紀の中国に生じた新しい動きについて、経済と思想の分野を中心」の経済、2007年第1問に指定語句として「湖広熟すれば天下足る」が出題されていました。「発展」はとくに商工業で、陶磁器・絹織物で、「新興工業都市として綿布の松江、生糸の湖州、絹織物の蘇州、陶磁器の景徳鎮が栄えます。とくに景徳鎮では華やかな赤絵という陶磁器がつくられました。絵の赤色がめだつ陶磁器です」と『各駅停車』で説明しています(p49)。
 「変化」はこの商工業発展の江南がもともとは農業発展地帯であったのが、工業化したため都市の周辺では商工業の原料供給地になり、桑・藍(あい)・棉花(原料の場合は木編)、米はもっぱら湖広(長江中流域の湖北省湖南省)でつくることになりました。
 この変化がもたらした更なる変化は、両税法から一条鞭法へ、その原因となった日本銀・墨銀の流入、地主・佃戸の格差拡大、政商としての山西商人・新安商人の登場なども挙げられます。

問(2)(a) 「次の資料……王朝の名前と都の名前」
 この資料は文中のアッバース朝2代目マンスールが新首都の建設候補地を定める際の地理の説明をしている場面です。ティ「グ」リス川沿いにバ「グ」ダードあり、と覚えましょう。

(b) 「下線部(区画ごとに武将を配置した)に関連……9世紀に活躍するようになったマムルークの特徴と、彼らがこの王朝で果たした役割」………黒人でない白人の奴隷で、トルコ人・モンゴル人・などのを指してこのように呼びます。軍人奴隷とも訳します。奇妙な組み合わせです。奴隷が付きながら農業の奴隷ではなく、マムルーク朝ができるように、時には君主にもなる軍事専門の奴隷です。アッバース朝から多用していて、カリフの親衛隊となり、カリフの権力を強化し、領土拡大の戦力ともなりました。中には官僚になる者もあります。

(c)「クテシフォンを建設した国の名前に……その国で起こった文化的変容について、言語面を中心に」……パルティアが建設し、それをササン朝が受け継いだ都です。歴史地図を見ましょう。バグダードの近くです。
 「文化的変容」については、過去問(1995)に「1〜15世紀地中海世界と周辺の文明」というテーマで出題があり、このうち「周辺の文明」に該当するのがパルティアとササン朝で養成されたイラン文明でした。教科書(詳説)では「イラン文明の特徴」という題で、「初期のパルティアの文化はヘレニズムの影響を強くうけ、王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおびていた。しかし紀元1世紀ころ、イランの伝統文化が復活しはじめると、ギリシアの神がみとイランの神がみとが、ともにまつられるようになった。またつぎのササン朝の時代に、イランの民族的宗教であるゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編集された。……ササン朝時代には建築・美術・工芸の分野が大いに発達した。」と記されています。「言語」は、ギリシア語からペルシア語(あるいはパルティア語)へ、という変化です。
 
問(3)(a) 「近代以前において、この川(ナイル川)の自然特性を利用する形で展開した農業について」……必要なのは、定期的な洪水(増水と氾濫)、肥沃な土(を運んでくれる)、灌漑、小麦栽培などです。過去問(2007)に「暦の歴史」として「古代メソポタミア古代エジプトにおける暦とその発達の背景」として問うています。この背景が類題です。

(b) 「地図中の都市B(アレクサンドリア)……12世紀から15世紀頃、……都市C(アデン)との間で活発な交易を行った。この交易で扱われた物産と取引相手について」……「物産」は東から香辛料・薬品・象牙・絹織物・綿布・宝石、西欧からは金銀・毛織物・奴隷・武器などです。「取引相手」はカーリミー商人というムスリム商人たちが中継し、西にヴェネツィア商人を中心のイタリア商人、東にインドのグジャラート商人がいました。

第3問
(1)ペロポネソス戦争 (2)デカメロン 
(3)本草綱目 (4)バタヴィア
(5)コッホ (6)京都議定書
(7)茶 (8)マウリヤ朝 (9)イブン=シーナー
(10)陰陽家