世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

2021年度再現答案

阪大
第1問
1 A1、B2.C3
2 異端者とは、ローマ教皇であり、免罪符での集金や、ラテン語による知識の独占を行っていた。それに対して(A)は聖書を英訳を教会の批判をした。(B)もチェコ語への翻訳を行った。(C)もドイツ語への翻訳を行い、また宗教改革によって信仰義認論の新教を生んだ。
3 11世紀では、ドミニコ派やフランチェスコ派の托鉢修道会は妻帯を禁止したり、自給自足する厳格なものであった。またベネディクトゥス修道会も戒律を作りきびしい修行をして、叙任権闘争に勝利し、聖職売買を行った教皇を批判した。13世紀では、異端派の清貧を目指すカタリ派に対して、アルヴィジョア十字軍を送り弾圧した。
第2問
1 背景として、内政的に文治主義や電子、また中小文科省牛耳っており、皇帝の権力が強かった。外生的に、モンゴルやベトナムへの遠征を行い、北陵南はに対抗した。軍事的にはキングや都護府による軍備の向上が西南の辺手手端による海外遠征がなされた。その遠征によって長江黒をアフリカまで広げ、冊封体制をした。超広告であるインドからの施設は抜けて優れていると言う意味でキリンを皇帝に送った。
2 イタリアルネサンスによって、人文主義を重視しして、絵画、書物等の美術品を保護した。それはギリシア、ローマ、イスラムの文化を復興させるものであった。その背景は、十字軍やレコンキスタによるギリシア文化の流入や、メディチ家から先導して行った香辛料の東方貿易によってそうした文化の流入につながった。また、イベリア半島のトレドやアフリカ北部のアレクサンドリアギリシアイスラム文化の成熟がなされていたためである。
第3問
預言者であるムハンマドの後継者である4人のカリフの正当性を重視するシーア派とそうではないスンナ派に分かれた。四人目のカリフであるアリーからウマイヤ朝が開かれた。そこではそスンナ派が権力を握り、それはアッバース朝でも受け継がれ、シーア派は少数派となりイランの国教となりスンナ派は多数派でサウジアラビアにはワッハーブ派として引き継がれた。

東大
第1問・解答例1(下線無し)
ゲルマン人の移動後西欧ではゲルマン人国家が成立した。多くの国がキリスト教異端のアリウス派を信仰する一方でフランク王国クローヴィスはアタナシウス派に改宗しカトリック教会との結びつきを強めた。ゲルマン布教に聖像画(イコン)を用いていたローマ=カトリックビザンツ帝国による聖像禁止令で打撃を受けたが、フランク王国がトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力を破ると教皇フランク王国に近づいた。フランク王国ピピン教皇ラヴェンナ地方を寄進し、教皇領の起源となった。カールの戴冠で皇帝と教皇が並立すると、ゲルマン・キリスト教が融合した西ヨーロッパ世界が成立した。ゲルマン移動の影響が小さかった東欧ではビザンツ帝国ギリシア語を公用語とした、西欧に対して先進的な文化圏をつくった。西欧とは異なり、皇帝教皇主義が採用された。ユスティニアヌス帝の時代にハギア=ソフィア聖堂の建立などビザンツ文化の最盛期を迎えた。イスラム教を創始したムハンマドアラビア半島に支配を強め、正統カリフ時代ウマイヤ朝はジハードを進めイスラーム世界を拡大していった。マワーリーにもジズヤを課していたウマイヤ朝に対しイスラム教の平等を唱えるコーランに反しているとしてアバース朝が成立した。アッバース朝はマワーリーへのジズヤを廃し、改宗者も要職につけるなどムスリムの平等を実現したイスラーム世界を成立させた。
解答例2
西欧ではローマ教会が、メロヴィング朝を創始して正統のアタナシウス派に改宗したゲルマン人のクローヴィスを支持し、グレゴリウス1世の治世からゲルマン人カトリックの布教を積極的に進めた。カロリング朝を創始したピピン教皇領を寄進してローマ教皇に接近し、その子カール大帝教皇から戴冠を受けたことで、ローマ・ゲルマン的西欧社会が政治的・文化的・宗教的に統一された。その中でラテン語を基調とした文化が発達し、スロヴェニア人やクロアティア人がカトリックに改宗した。東欧ではビザンツ帝国コンスタンティノープル教会を支配し、ギリシア正教を広めた。6世紀にはユスティニアヌス帝がローマ法大全の編纂、ハギア・ソフィア聖堂の建設を行った。726年の聖像禁止令を機にローマ教会との関係悪化が深刻化した一方、ギリシア語を基調としてイコンやモザイク壁画を特徴にもつビザンツ文化がバルカン半島にも広まり、ブルガール人やセルビア人がギリシア正教に改宗した。7世紀には西アジアイスラーム勢力が生まれたが、ウマイヤ朝ではアラブ人優遇政策がとられた。8世紀に生まれたアッバース朝ではイスラムに改宗した非アラブ人のマワーリーもジズヤが免除されたため、イスラーム教が更に広まった。北アフリカを支配したウマイヤ朝後ウマイヤ朝イベリア半島に侵攻してカトリック勢力を圧迫したが、ゲルマン人に撃退され、以後レコンキスタが続いた。

京大
第1問
商人の要求により明皇帝が海禁を緩和したため、様々な人々が中国に来た。また、欧州での対抗宗教改革の一環としてイエズス会が結成され海外での布教を進めた。活動と影響。イエズス会士はキリスト教を布教したが、中国の慣習を認めるかどうかで教皇と対立し典礼問題が起こり、康熙帝イエズス会以外の布教を、雍正帝キリスト教自体の布教を禁止した。また彼らは造園術や幾何学などの実学も教えたため、中国では様々な実用書が作られ、実証性を求める陽明学考証学も発達した。彼らは新大陸の作物も伝えた一方で、中国文化を持ち帰ったため欧州ではシノワズリが流行した。
第3問
1815年に、普は四国同盟に加わり、墺はドイツ連邦を結成し盟主となった。その後ドイツ関税同盟が結成されドイツの経済的統一がなされた。仏での二月革命を受けて墺ではメッテルニヒが失脚した。フランクフルト国民議会が開かれ、墺を除いて普中心の統一を目指す小ドイツ主義的憲法が採択され、普王をドイツ王にしようとしたが、普王は拒否し一方的な欽定憲法を発布した。その後統一は地主貴族であるユンカー層が中心となり、ビスマルクの下で普はデンマークに勝利して領土を拡大した。その後普墺戦争で破れた墺はハンガリーと二重帝国を結成し、勝利した普は盟主となって北ドイツ連邦を結成した。その後普仏戦争で勝利しヴィルヘルム一世が即位してドイツを統一した。

ある京大模試、これでいいのか?

  ある京大模試の第3問に以下のような問題と解答がありました。

 古代ローマにおける政体の特徴を、身分闘争の時代、「内乱の1世紀」、パクス=ロマーナ、専制君主政の各時期に分けて、具体的な事例を挙げながら、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
解答
ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。

コメント
 「政体」とは、誰が支配者か、一人の支配者でなければ、どういう集団が権力・決定権を握りものごとを決定しているか、というあり方です。かんたんな言葉では、このローマ史なら共和政・帝政というのがそれに該当しますが、もっと誰・集団が決定権をもっているか、という点であれば、ローマ史の場合は貴族の集団である元老院がにぎり、それが次第に地位が落ちて、有力将軍がものごとを決めるようになり、とうとう生き残った一人が専制君主になる過程があります。とくにローマ史の場合は4つの時期の元老院の位置付けが違っています。
 またローマ史はギリシア史とともに古代の特異な構造をもっていて、それは市民権をもつ市民が支えており、かれらがどのような位置にあるか、ということも古代的な政体のあり方に関わってきます。
 「特徴」とはかんたんには「違い」です。前の政体がどう違った体制に変わったのかを書く、ということです。一般に「特徴」という言葉を出題者は安直に使うものなので、知っていること、関連事項をなんでも書いたらいい、と言えるのですが、ただこの問題の場合は、4つの時期に分けて「特徴」を求めているので、時期ごとの相違点を指摘していく、ということになります。
 解答例を検討していくと、こういうローマ史の基本的な変化が分かっていないことが判明します。解説では「局所的な学習ばかりでなく、大局観を持って細部に迫ろう」と書いてありますが、大局が分かっているとはとても思えないものです。

▼批判
1 ローマ共和政では当初、貴族で構成される元老院が権限を握っていた。身分闘争が進むと、ホルテンシウス法で平民会の議決が国法とされ、貴族と平民の法的平等が達成された。……これは初め元老院、次に平民会と書いて「法的平等が達成された」と結論づけています。すると元老院と平民会は同等になったということでしょうか? 支えている市民の貴族と平民も同等になったということでしょうか? ありえません。教科書は必ずこのホルテンシウス法の後に「だがローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け、しかも非常時には独裁官(ディクタトル)が独裁権を行使する(詳説世界史)」とか、「現実には元老院を構成する少数の貴族集団に強大な権限が集中した寡頭政の国家であった(詳解世界史──三省堂)」とかの限界を書いています。
 この「身分闘争の時代」は平民会の向上はあっても、その法が国法になると規定しても、決めることのできる内容は軽いもの(下級官僚・軽罪)に限られており、「法的平等」は形式に過ぎませんでした。むしろ元老院支配、といってよいローマの政体が確立した時期でした。寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制ができあがりました。
 ローマ史の政体変化の基本は元老院の位置がどう変わるか、という点を軸に書くことです。そうすれば特徴が表せます。

2 「内乱の1世紀」では、有力者が三頭政治を行い、元老院を抑えて実権を得た。一時的にカエサルが事実上の独裁者となって改革を進めたが、共和派に暗殺された。……ここは寡頭支配、つまり少数貴族の元老院支配体制が動揺した時期であり、「元老院を抑えて実権を得た」のは事実ですが、もっと具体的には元老院が支配していた属州の担当地域を3人で分け、それが2回つづいて、最終的に一人支配に帰結する、という点が書いてあるべきで、カエサルの独裁と暗殺はなくてもいいものです。元老院で決めるのでなく3人の有力者で帝国全体について決めます。  
 あるいは同盟市戦争の結果、共和政ローマを支えていたローマ市民権が半島全域に拡大し、市民権のあるイタリア半島と市民権のない属州の区別がついた、と帝国全体の政治体制を書くべきでしょう(帝国と書きましたが、もちろんまだ皇帝のいない帝国です)。

3 帝政が始まると、パクス=ロマーナの時期に皇帝は多くの権限を有した。一方で、初代皇帝アウグストゥスは自らを「市民の第一人者」と称し、元首として元老院や平民会に譲歩した。……ここのミスは末尾の「譲歩した」のところです。なぜ歴史家がこの時期からを帝政・元首政と呼んでいるか無意味になります。これでは「内乱の一世紀」とどう違うのか特徴が表せません。有力者が「元老院を抑えて実権」と皇帝が「元老院や平民会に譲歩」はどう違っていると言いたいのでしょうか? 「皇帝は多くの権限」と「譲歩」は釣り合うでしょうか?
 この時期は皇帝・元老院の共同統治、という政体ですが、「共同」といっても、皇帝に元老院召集権・発案権があり、完全に皇帝が元老院を牛耳っています。確かに皇帝の種々の地位(護民官・最高軍司令官・大神官・コンスル)はいちいち元老院の承諾を得なければなりませんが、これも形式的なものになります。この帝政の初期になぜ狂った皇帝たちが登場しても、なかなか辞めさせることができなかったのかの原因は、それ程の力を皇帝が持ち始めているからです。
 アウグストゥスという「尊厳者」という神にささげる称号をオクタウィアヌスに贈ってから、かれ以降の皇帝は死後すべて神として崇められ、そのためにパンテオンも造られました。属州も元老院属州と皇帝直轄属州に二分し、皇帝は最高軍司令官として辺境と豊かなエジプトを管轄しました。
 またカラカラ帝が属州の自由民に市民権を拡大したため、政治的にはかえって市民権は軽いものなっていきます。

4 専制君主の時代には元老院を排除し、皇帝は強力な権限を有した。ディオクレティアヌス帝は官僚制維持のため、皇帝崇拝を強制した。……上の文3の「多くの権限」とこの文の「強力な権限」はどう違うのでしょうか? 「元老院を排除」とはどういう意味でしょうか? 元老院という組織は残りましたが、ローマ市の市役所になるのです。つまり他の都市の市役所と同等で、それまで帝国全体ににらみを効かしていた長老たちの集まりではなくなり、ローマ市という狭い空間だけの問題を討議する機関に成り下がりました。属州も全てが皇帝属州になり、元老院属州は廃止され、特別区であったイタリア半島全体も属州の一つに成り下がります。決定的に元老院の地位は落ちた、といっていいでしょう。そして皇帝が官僚を文武に分け、皇帝が任命・派遣するかたちをとりました。皇帝崇拝は軍人皇帝時代から強制がはじまり、コンスタンティヌス帝がディオクレティアヌス帝の皇帝崇拝を止めても、皇帝にたいする跪拝礼はつづきました。超越した存在としての皇帝に市民がみな服従しなくてはならなくなります。

わたしの解答例
身分闘争期は平民を平民会・護民官の設置でかれらの不満・力を吸収したが、貴族が官職を独占し、それらの地位に就いたひとたちが終身の元老院議員となり、国政を牛耳った。内乱の一世紀では、元老院議員でもある将軍たちの勢力が高まり、元老院委を無視して3人で決定する三頭政治を2回経験する。その中から一人の独裁者が登場してくる。また同盟市戦争の結果、市民権は半島全域に拡大した。パクス=ロマーナ期は元首の集権化がすすみ、元老院を牛耳り、属州を元老院と二分した。市民権も全属州に拡大した。専制君主政期には皇帝は元老院ローマ市市役所に縮小し、元老院属州を廃止して、全属州を皇帝の支配下においた。市民は臣民となった。

京大世界史2022

第1問(20点)
 マレー半島南西部に成立したマラッカ王国は15世紀に入ると国際交易の中心地として成長し、東南アジアにおける最大の貿易拠点となった。15世紀から16世紀初頭までのこの王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響に言及しつつ、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第2問(30点)
 次の文章(A、B)を読み、[  ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(26)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A 歴史的「シリア」とは、現在のシリアのほか、レバノン、ヨルダン、イスラエルパレスティナの領域を含む、地中海の東海岸およびその内陸部一帯を指す地域名称である。地中海との間を2つの山脈で遮られたダマスクスはシリアの内陸部に位置する古都であり、有史以来じつに様々な勢力がこの町の支配を巡り争った。
  前8世紀の後半、ダマスクスは(1)アッシリア王国支配下に入るが、以後、前7世紀に(2)新バビロニア、前6世紀にアケメネス朝がこの町を征服し、続いて前4世紀後半、町はアレクサンドロスの勢力下に入った。以後、ダマスクスは約千年の長きにわたりギリシア、ローマの支配下に置かれることになった。
  7世紀はこの町の歴史にとって一大転換期であった。この世紀の初め、シリアには(3)一時ササン朝が進出するが、間もなくビザンツ帝国がこの地の支配を回復する。しかし、636年に新興のイスラーム勢力がビザンツ軍を撃破し、シリアの支配を確立すると、この町はイスラーム世界の主要都市の一つとして歩み始めるのである。656年に(4)アリーが指導者の地位に就くと、建設後間もないムスリムの国家は内乱の時代を迎える。この動乱の中でアリーは暗殺され、彼に敵対したシリア総督の[ a ]は、ダマスクスを首都としてウマイヤ朝を創建した。けれども、750年にアッバース朝が成立すると帝国の中心はシリアからイラクヘと移り、同朝のマンスールイラクに新首都(5)バグダードを建設する。
  9世紀になると早くもアッバース朝の求心力には衰えが見え始め、以後、帝国内の各地に(6)独立王朝が次々に成立するようになる。こうした状況の中、10世紀後半からは(7)ファーテイマ朝が、さらに、11世紀後半にはセルジューク朝がシリアに進出し、ダマスクスを含むシリアは動乱の時代を迎えるが、12世紀後半、アイユーブ朝の創建者[ b ]がエジプトとシリアの統一を果たすと、この地には再び政治的安定がもたらされた。1260年、モンゴル軍はダマスクスを征服するが、同年、新興のマムルーク朝がこれを撃退してこの町の新たな支配者となる。(8)1401年には、西方に遠征したテイムールもこの町を一時占領しているが、(9)1516年、オスマン帝国のセリム1世がこの町を征服すると、以後ダマスクスはほぼ四世紀に及ぶオスマン帝国の支配を経験することになった。
  19世紀に入ると、シリアは再び動乱の時代を迎える。オスマン帝国から自立したエジプトのムハンマド=アリー朝は(1O)シリアの領有権を要求してオスマン帝国と戦い1833年にはこの町を含むシリアを支配下に収めた。しかし、1840年に(11)イギリス主導で行われた会議の結果、ムハンマド=アリー朝は[ 10 ]シリア領有を断念せざるを得なくなった。また、第一次世界大戦中の1916年にはメッカの太守、フセインがアラブの反乱を開始し、1918年10月に反乱軍はダマスクスに入城する。戦後の1920年、シリアはフセインの子(12)ファイサルを国王として独立を宣言するが、(13)フランスはこれを認めず同年7月にはダマスクスを占領し、1922年には国際連盟でフランスのシリア委任統治が承認された。歴史的シリアの一部を領土としこの町を首都とするシリアという国家が独立を果たすのは、第二次世界大戦後の1946年を待たねばならなかった。


 (1) 紀元前7世紀にこの王国の最大版図を達成した王の名を答えよ。
 (2) この国の最盛期の王であるネブカドネザル2世に滅ぼされ、住民の多くがバビロンに連れ去られたヘブライ人の国の名を答えよ。
 (3) これに先立つ6世紀に、ササン朝のホスロー1世が突厥と結んで滅亡させた中央アジア遊牧民勢力の名称を答えよ。
 (4) この人物および彼の11人の男系子孫をムスリム共同体の指導者と認めるシーア派最大の宗派の名称を答えよ。
 (5) この町は大河川の河畔に位置している。この河川の名を答えよ。
 (6) 9世紀後半から10世紀初頭にかけてエジプトに存在し、シリアにも領土を広げた独立王朝の名を答えよ。
 (7) アッバース朝に対抗するため、この王朝の君主が建国当初から使用した称号を答えよ。
 (8) この時、ティムールはダマスクス郊外で当時の著名な知識人と面会している。『世界史序説』の作者として名高いその人物の名を答えよ。
 (9) この直前の1514年、セリム1世は以後オスマン帝国のライヴァルとなるイランの新興勢力との戦闘に勝利している。この勢力の名を答えよ。
 (10) 1820年代、オスマン帝国は領内のある地域の独立運動を鎮圧するためムハンマド=アリー朝の軍事支援を得ており、これが同朝によるシリア領有権要求の一因となった。この独立運動の結果、独立を達成した国の名を答えよ。
 (11) ムハンマド=アリー朝にシリア領有を断念させたこの会議の名を答えよ。
 (12) この人物は後の1921年、当時イギリスの委任統治領であったある国の国王に迎えられている。1932年に独立を達成したこの国の名を答えよ。
 (13) 大戦中の1916年、イギリス、フランス、ロシアが戦後のオスマン帝国領の処理を定めた秘密協定の名を答えよ。

B 中国の歴代王朝の人口は、のこぎりの歯状に増減を繰り返し、多くても8,000万人ほどであった。王朝の安定期には人口が増加したが、戦争や反乱、王朝交替、伝染病の流行などが起こると、人口は大きく減少したからである。
 そして(14)明代後期に至ると、ようやく1億人を超えて、1.5〜2億人ほどにまで到達した。長江下流域は、(15)南宋の時には「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」と呼ばれる穀倉地帯であったが、(16)明代後期には人口の増加とともに、新たな農地(低地)開発のフロンティアが消滅し、次第に家内制手工業へとシフトしていった。また、南の福建省は海岸線まで山が迫り、平野が少ないという地形的な特徴から、海外へと乗り出し、(17)東南アジアに移住する者も出現した。その後、17世紀半ばに至って、(18)2つの民衆反乱をきっかけとして明朝が倒れると、四川省では飢饉(ききん)や虐殺のために大幅に人口が減少したとされ、のちに湖北省湖南省からの多くの移民が流入することになった。
  清朝が成立した後、(19)康煕・[ c ]・乾隆の3皇帝の時に全盛期を迎えると、人口は順調に回復し、18世紀前半には1.5億人、18世紀後半には2.8億人、18世紀末には3億人と、まさに「人口爆発」と呼びうるような状態を呈した。その要因としては、支配が安定し(20)確実に人口が掌握できるようになったこと、大規模な戦争や反乱のない「清朝の平和」が続いたこと、稲作技術が改良されたこと、(21)アメリカ大陸伝来の畑地作物が導入されたこと、漢民族の農耕空間が(22)台湾・モンゴル・新彊・(23)東北などへ拡大したことなどがあげられる。清朝後期に入っても、人口は着実に増加したと考えられ、19世紀前半には4億人に到達した。(24)19世紀後半から20世紀前半には、国内は政治的な混乱に見まわれたが、人口はゆっくりと増加し、中華人民共和国が成立した1949年には約6億人を抱えるようになった。
  戦後中国はいわゆる「第1次ベビーブーム」の到来によって、人口がさらに大きく増加したが、毛沢東が1958年、[ d ]の号令を発すると、(25)政策の失敗や自然災害などが重なり、少なからぬ人びとが餓死したと推定されている。その後は再び増加に転じて「第2次ベビーブーム」を迎え、人口は9億人に迫るが、(26)1980年以降には、いわゆる「1人っ子政策」が開始され、国家による厳しい人口統制が実施されていくことになった少子高齢化が極端に進み、中国が高齢化社会へと突入するようになると、2014年に1人っ子政策は廃止され、2人目まで子供をもうけてよいとされ、現在では3人目まで認められている。ただし現代の若者はこうした政策に、中国政府が期待したような反応を示しておらず、出生率は高まっていないようである。今後、中国の人口がどのように推移するかは、世界の未来を見据えるうえでも無視できない問題である。


 (14) この頃、各種の税と係役(義務労働)を一本化し銀納させる新しい税制が設けられた。その名称を答えよ。
 (15) この頃、長江下流域では、湖沼や河道など低湿地を堤防でかこい込み新たな農地を開拓した。その名称を答えよ。
 (16) 徐光啓は明代後期に中国の農業技術や綿などの商品作物を解説し、ヨーロッパの農業に関する知識・技術を導入した農書を編纂(へんさん)した。その書物の名を答えよ。
 (17) このように明代後期から清代にかけて、東南アジアの各地に移住した人々は何と呼ばれるか。その名称を答えよ。
 (18) 2つの民衆反乱のうち、明朝最後の皇帝を自殺に追い込んだ農民反乱軍の指導者は誰か。その名を答えよ。
 (19) この皇帝の時、人頭税を廃止し、土地税に一本化する税制が始まった。その名称を答えよ。
 (20) この時代に治安維持や戸籍管理のために行われていた制度は、名称の上では、北宋王安石が行った新法の一つで兵農一致の強兵策を引き継いだといわれている。その名称を答えよ。
 (21) サツマイモとともにアメリカ大陸から伝来し、山地開発にも重要な役割を果たした備蓄可能な食物をカタカナで答えよ。
 (22) 福建や広東から台湾へと移住した人々の中には、客家と呼ばれる集団があった。この客家出身で1851年に太平天国をたてた人物は誰か。その名を答えよ。
 (23) 1644年、清は中国本土に入ると北京に遷都した。その直前まで、清が都を置いていた東北地方の都市はどこか。その当時の名称を答えよ。
 (24) 19世紀末には、華北山東省において武術を修練し、キリスト教排斥をめざす宗教的武術集団が勢力を伸ばし、宣教師を殺害したり鉄道を破壊したりした。この集団が掲げた排外主義のスローガンを何というか。
 (25) この時、集団的な生産活動と行政・教育活動との一体化を推進するために農村に作られた組織を何というか。その名称を答えよ。
 (26) 同じ頃、鄧小平の指導のもとで行われた外国資本・技術の導入などの経済政策を何と呼ぶか。その名称を答えよ。

第3問(20点)
 民主政アテネ共和政ローマでは、成人男性市民が一定の政治参加を果たしたとされるが、両者には大きな違いが存在した。両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。

第4問(30点)
  次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(24)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。

A (1)ヨーロッパで今日の「大学」の原型が誕生したのは、12世紀から13世紀にかけてのことである。当時、ヨーロッパの各地にはカトリック教会の司教座や修道院に付属する学校や、法律や医学を教える私塾が存在した。イタリアのボローニャでは、法律を学ぶ学生たちが出身地ごとに「ナチオ」(同郷会)と呼ばれる自律的な団体を組織し、やがてこれらの「ナチオ」が結集して「ウニウェルシタス」(大学)が形成された。他方、ヨーロッパ北部のパリやオックスフォードでは、教師たちが自治組織を結成し、これが大学の起源となった。中世ヨーロッパの大学では、自由七学科(文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、音楽、天文学)を基礎的な教養として身につけたうえで、神学、(2)法学、(3)医学などを学んだ。
  (4)14世紀以降もヨーロッパ各地で新たな大学の創設が進んだが、ルネサンス期の人文主義者のなかには、大学で教えられる伝統的な学問に批判を唱える者もあらわれた。(5)古典古代の原典に立ち返って新しい解釈をおこなう営みは、しばしば大学の外で展開された。16世紀以降になると、大学は、政治権力の影響をより強く受けるようになり、学生や教師たちがもっていた自治的な権限は弱められていった。(6)宗教改革以降の宗派間の対立も、高等教育のあり方に影響をおよぼした。既存の大学はプロテスタントカトリックいずれかの立場に分かれ、(7)新しい大学もそれぞれの宗派の布教方針にしたがって設置された。他方で、ヨーロッパ諸国の一部では、大学の外で新しい学術団体が組織された。フランスでは、1635年にフランス語の統ーなどを目的としてアカデミー・フランセーズが、1666年にはバリに王立科学アカデミーが創設された。(8)イギリスでは、1660年にロンドンで民間の学術団体が設立された。この団体は2年後に国王の勅許をえて「ロイヤル・ソサエティ」(王立協会)と呼ばれるようになる
  18世紀にヨーロッパの高等教育はさらなる変革の時代を迎えた。ドイツでは、1730年代に(9)ハノーファー選帝侯領ゲッティンゲン大学が創設された。領邦国家の意向に沿って新設されたこの大学では、歴史学応用数学、官房学などの新しい科目が開講され、ゼミナール形式の授業が導入された。国家が主導するこのような大学教育のモデルは、(1O)1810年プロイセン王国で創設されたベルリン大学でさらなる発展をとげ、19世紀から20世紀にかけて日本を含む世界各国の大学で採用されていった。このように、大学という制度には歴史的にみて、学生・教師の自治的団体としての起源に由来する自由・自律と、国家権力や宗教的権威による管理・統制という2つの側面が存在する。ヨーロッパで生まれた大学制度は近現代にグローバルに普及していくが、この制度を受け入れた多くの地域で、大学は、この2つの側面のあいだに生じる緊張関係のもとで揺れ動く歴史を歩むことになるのである。


 (1) 「大学」の成立の背景のひとつとして、この時期、ヨーロッパの各地で商工業の拠点として都市が発展したことがあげられる。
  (ア) イタリアでは神聖ローマ皇帝の介入に抵抗してミラノを中心に都市同盟が形成された。この都市同盟の名称を記せ。
  (イ) カトリック教会では、13世紀から、フランチェスコ修道会やドミニコ修道会のように、都市の民衆のなかに入って説教することを重視する修道会が活動を始める。これらの新しいタイプの修道会を総称して何と呼ぶか。その名称を記せ。
 (2) 中世ヨーロッパの法律学において重視されたのは、6世紀に東ローマ帝国の皇帝が編纂(へんさん)させた文献であった。今日、この文献は総称して何と呼ばれているか。その名称を記せ。
 (3) (ア) 中世ヨーロッパの医学は、イスラームの医学から大きな影響を受けている。ラテン語に翻訳されてヨーロッパの医学教育で教科書として用いられた『医学典範』を著したムスリムの医学者の名を記せ。
 (イ) イスラーム世界を介して古典古代から中世ヨーロッパに伝えられた医学理論に対して、17世紀にはいると、解剖や実験をふまえた新しい学説が唱えられるようになった。イギリスの医学者ハーヴェーが古代ギリシア以来の生理学説に反論して発表した学説の名を記せ。
 (4) ヨーロッパ東部では、1348年にプラハに大学が創設された。この大学の創設を命じた神聖ローマ皇帝の名を記せ。
 (5) 15世紀のフィレンツェでは、フィチーノらの人文主義者を中心とする学芸サークルが活動し、前5世紀から前4世紀に活躍した古代ギリシアの哲学者の著作のラテン語訳をおこなった。『ソクラテスの弁明』や『国家』などの著作で知られるこの哲学者の名を記せ。
 (6) 九十五カ条の論題によってカトリック教会の悪弊を批判したルターは、ドイツ中部にある大学で神学教授を務めていた。この大学が所在した都市の名を記せ。
 (7) 16世紀以降アメリカ大陸の植民地にも大学が創設されている。
   (ア) アメリカ大陸で最初の大学は、インカ帝国征服後の1551年にリマに建設された。インカ帝国を征服した人物の名を記せ。
  (イ) ハーヴァード大学の起源は、イギリス領北米植民地で最初の高等教育機関として1636年にマサチューセッツ州に創設された「ハーヴァード・カレッジ」である。17世紀にマサチューセッツ州を含むニューイングランド植民地に入植したのは、ピューリタンと呼ばれる人びとであった。彼らは宗教的には総じてどのような立場にたっていたか、簡潔に説明せよ。
 (8) (ア) この団体に勅許を与えた国王は、父王が処刑されたために大陸に逃れていたが、1660年に帰国してイギリス国王に即位した。この国王の名を記せ。
  (イ) 『プリンキピア』を著して力学の諸法則を体系化した科学者が、この団体の会長を務めている。近代物理学の創始者とされるこの科学者の名を記せ。
 (9) 1714年からハノーファー選帝侯がイギリス国王を兼ねたため、イギリス史ではこの時期の王朝はハノーヴァー朝と呼ばれる。この王朝の最初の2代の国王の時代に、実質的な首相として、内閣が議会に責任を負う体制の確立に貢献した人物の名を記せ。
 (10) ベルリン大学の初代学長となった哲学者フィヒテは、1807年から翌年にかけて、ナポレオン軍占領下のベルリンで、教育による精神的覚醒を訴える連続講演をおこなったことで知られる。この講演の題目を記せ。

B 石炭は近代ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えてきた。
  燃料としては薪や木炭が古くから用いられているが、経済発展に森林の再生が追い付かず、その枯渇を招くことも歴史上少なくなかった。ヨーロッパでは商業が拡大する16世紀ごろから木材が大量に消費されるようになり、石炭も本格的に利用されはじめる。18世紀前半に(11)石炭を乾留したコークスによって高純度の鉄を精錬する技術が開発されると、石炭の重要性が増大した。18世紀末には石炭をガス化する技術も登場し、19世紀になると大都市では石炭ガスが街灯や暖房にも使われるようになった。
  (12)蒸気機関の普及によって石炭の需要はさらに高まった。18世紀イギリスの綿工業においては、(13)紡績機や織布機の開発による作業の効率化が進んでいた。それらの機械の動力として蒸気機関が採用されると、綿織物の生産量はさらに拡大した。19世紀になると、イギリスは(14)綿織物の輸入国から輸出国へと変貌する。他の産業分野でも蒸気機関の利用が一般化し、蒸気機関車や蒸気船は人や物の流れを加速させた。
  石炭はヨーロッパ各地で採掘が可能である。特にイギリスには豊富な石炭資源が存在していた。イギリスの毛織物工業や(15)綿織物工業の中心地帯で石炭が容易に採掘できたことは、蒸気機関の普及に寄与した。他国の工業化が進むと、イギリスの炭鉱業は輸出産業としても発展した。例えば(16)フランスは、国内産の石炭だけでは工業化で増大する需要を満たせず、イギリスなどの石炭を輸入している。中欧には多数の炭鉱があり、ドイツの工業化を支えた。
  木炭の製造は、周縁的な産業として、衰退しつつも存続した。19世紀初頭の南イタリアでは、(17)ある秘密結社の成員が「炭焼き人」を名乗っている。当時の炭焼き人は山林地帯で独自の共同体を維持しており、その結束力ある組織が模倣されたのである。立憲主義自由主義を掲げるこの結社の運動はイタリア半島各地に、そしてフランスにも広がった。だが炭鉱に乏しいイタリアも19世紀後半には燃料をイギリスからの石炭輸入に依存するようになっていく。
  19世紀後半、内燃機関の実用化などによって石油が石炭に替わるエネルギー源として台頭した。1859年からのオイルラッシュを引き起こした(18)ペンシルヴェニアなどがあるアメリカ合衆国と、バクーや(19)グロズヌイなどで石油を産出するロシアは、20世紀に世界を二分する超大国となった。だが石炭も重要な資源でありつづけた。現在でも製鉄にはコークスを用いるのが主流である。電気エネルギーの利用も20世紀に急速に拡大するが、石炭も火力発電の燃料として利用されつづけている。
  石炭や鉄の産出を背景に発展した鉱工業地帯が国家間の係争の対象となることもあった。(20)フランスが普仏戦争で喪失した地域もそのひとつであった。第一次世界大戦後には、(2l)ドイツの鉱工業地帯のひとつが国際連盟の管理下に置かれ、15年後の住民投票で再びドイツに編入されているヴェルサイユ条約で課せられた義務の不履行を口実に、フランスとベルギーによって(22)鉱工業地帯を抱えるドイツの一地域が占領されたこともある。第二次世界大戦後フランスやイギリスは石炭産業を国有化した。また1952年には西ヨーロッパの石炭等の資源を管理するために(23)6か国からなる組織が発足している。発足の背景には西ヨーロッパにおける戦争の再発を防止する意図もあり、この組織はその後のヨーロッパ地域統合の基礎のひとつとなった。一方、イギリスでは、その後(24)石炭産業の民営化が提唱され、20世紀末までに民営化と一部炭鉱の閉鎖が進められた。


 (11) この技術を開発した父子の姓を記せ。
 (12) 炭鉱の排水などに使われていた蒸気機関を効率的で汎用性の高いものに改良した技術者の名を記せ。
 (13) 蒸気機関が導入される前の、これらの機械の主要な動力は何か。
 (14) 18世紀のイギリスが輸入した綿織物の主要な生産国はどこか。
 (15) この地域の中心的な工業都市の名を記せ。
 (16) 鉄道会社の整理統合や金融機関の育成によってフランスの工業化を上から推進した統治者の名を記せ。
 (17) この秘密結社の名を記せ。
 (18) ペンシルヴェニア州の一都市は独立革命期に政治的中心となっており、ワシントンに連邦議会が設置されるまで合衆国の首都として機能していた。この都市の名を記せ。
 (19) この油田のある地域では19世紀中ごろロシア支配に対する反乱が起こり、ソ連崩壊後にも紛争が2度発生している。この地域の名を記せ。
 (20) この地域の名を記せ。
 (21) この地域の名を記せ。
 (22) この地域の名を記せ。
 (23) (ア) この機関の名を記せ。
   (イ) 6か国のうち2国はフランスと西ドイツである。その他の国を1つ挙げよ。
 (24) 民営化を主導した首相の名を記せ。
………………………………………
第2問・第4問の解説はしていません。解答例だけ。
第1問
 課題は「15世紀から16世紀初頭までのマラッカ王国の歴史について、外部勢力との政治的・経済的関係および周辺地域のイスラーム化に与えた影響」でした。
 難問でした。東南アジア史をどれだけ勉強していたかにかかっています。その中でもマラッカ王国は大事な項目ではあるものの、1世紀にわたって説明する程のデータが果たしてあるか、最終はポルトガルに征服されるまで説明が求められています。
 求められている「外部勢力……関係」と「イスラーム化に与えた影響」という二つの課題に合致するデータをどれだけ集めてこられるか。

 「外部勢力
 当時は北の半島部にタイのアユタヤ朝(1350-1767)が栄え、東の島嶼部(とうしょぶ、諸島部)ではインドネシアマジャパイト王国(1293〜1520頃)というヒンドゥー教の大国がありました。とくに後者のマジャパイト王国マラッカ海峡も支配する商業大国になります。14世紀まではシュリーヴィジャヤ王国(7〜14世紀)がになっていた地位を、マジャパイト王国が奪いました。イスラーム化してからは、西のスマトラ島北部にはアチェ王国(15世紀末〜20世紀初め)ができ、いずれイスラーム化したマタラム王国(16世紀末〜1755)もできます。
 そして「この王国はマジャパヒト王国の商業活動をおさえこみ、インド洋と南シナ海を結ぶ中継貿易によって繁栄した(詳説世界史)」となります。
 もう一つ影響の強い国は北の中国・明朝でした。鄭和チャンパー(占城)とマラッカ海峡に面した港市国家マラッカを根拠地にして、東南アジア、インド洋各国に中国への朝貢をすすめました。それをマラッカ王国のほうは利用して、「マジャパヒト王国やアユタヤ王国の勢力拡大をおさえ、中国と朝貢交易をつづけた(東京書籍)」となります。
 


 最後の強い外部勢力はポルトガルです。1509年にディウ沖海戦でマムルークグジャラート連合軍を破り、1510年にはゴアを占領し、翌年マラッカ王国を征服します。すでに1500年頃、ポルトガル商人はマラッカで胡椒1キンタールを4デュカートで入手して、中国では15デュカートで売れると報告していました(マージョリー・シェファー著『胡椒 暴虐の歴史』(白水社)p.49)。侵攻の様子はこうでした。「1511年、猛将アフォンソ・デ・アルブケルケ指揮するポルトガル艦隊がマラッカを占領した。容赦のない軍事行動であった。絶え間ない砲撃によるポルトガルの侵略を目にしたあるマレーシア人は「フランキ〔西欧人〕のやつらはマラカ人に戦いを挑み、船から大砲を撃ち込んだ。弾が雨あられと降り注いだ……また、大砲の轟音は天の雷のよう、閃光は空の稲妻のようであり、火縄銃の音はフライパンの中ではじけるハマビシの実のようだ。この町を占領したポルトガル人のなかにフェルディナンド・マゼランがいた」と(前掲書、p.69)。マゼランはいずれ逆回りで、このマラッカに到達できると踏んで大西洋・太平洋に挑むことになります。

 「イスラーム化に与えた影響
 イスラーム教が伝わったのが、13世紀以降です(詳説世界史では「13世紀以降、商人や神秘主義教団の活動によってインド・東南アジアのイスラーム化がすすみ」)。マラッカ王国は1400年頃に成立し、イスラーム教改宗は1450年頃とみられています。この王国ができる以前にマルコ=ポーロがマラッカ海峡を通っており(1288年頃)、この地域にイスラーム教徒が多いと書いていて、史家の中にはマラッカ王国イスラーム化する前にいくつもの小王国があったと唱えるものもあります。ただ、このマラッカから周辺一帯にイスラーム教が伝播したという説が一般的です。東京書籍では「マラッカに布教拠点を得たイスラーム教は、香料交易ルートにそってジャワ島北海岸に広がった。ジャワ北岸の交易港をムスリム勢力に奪われたヒンドゥー教マジャパヒト王国は衰退し」と書いています。これは影響も書いています。つまりヒンドゥー勢力の衰退です。
 なぜイスラーム教がこの地に広まったのかの原因は、河部利夫編『東南アジア歴史文化事典』(東京堂出版)の「イスラム」で次のように説明しています。

元来、イスラムヒンドゥー教や仏教にくらべると、より平等主義的で、倫理的に普遍主義的な特質をもっていたが、とくにスーフィズムの場合には、その教団が本来、都市の手工業者のギルドや商人組合と結びついて発達したものであったため、東南アジア島嶼部の沿岸の商業都市国家の商人にも受けいれ易いものであった、さらに、第二に、信仰の面からいっても、スーフィズムは神との瞬間的な合一・没入という直接的・人格的な「悟りの体験」を重視するものであったため、当時のヒンドゥー教・仏教の呪術的・神秘主義的な世界観にも比較的容易に適合しうるものであったのである。とくに、この第二の点は、イスラムがジャワ内陸部のヒンドゥー王国の中心地域にも、時間をかけながらも、ともかくも浸透しえた主要な原因であった。

第3問
 課題は「両者の違いに留意しつつ、アテネについてはペルシア戦争以降、ローマについては前4世紀と前3世紀を対象に、国政の中心を担った機関とその構成員の実態を」でした。
 書けそうで書きにくい難問でした。
 以下のような解答例がネットにあります。

アテネでは、前5世紀、ペルシア戦争で船の漕ぎ手として活躍した無産市民の参政権要求が強まった。これをうけペリクレスの指導で、貴族や富裕な平民に加えて無産市民も含む全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言が認められ、直接民主政が実現した。一方、ローマでは前4世紀にリキニウス・セクスティウス法が制定され、コンスルのうちー名は平民から選出されることが規定された。さらに前3世紀にはホルテンシウス法が制定されて、平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となることが定められ、貴族と平民の法的平等が実現した。しかし、実態としては貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関として政権を独占した。(299字)

 この解答例では、アテネが「全成人男性市民に、最高議決機関である民会での発言」、ローマは「平民会の決議が元老院の承認を得ずに国法となる……貴族と富裕な平民からなる新貴族が、元老院を最高機関」とあります。この「平民会の決議」と「元老院を最高機関」は同等なのかどうかが不明です。書いてあることを文字どおり採れば、最高機関が2つあることになります。また元老院に貴族と新貴族が参加しているのなら、平民は元老院に参加できないというのはどういう状態なのか、不明です。
 ローマの民会に4つあり、兵員会・貴族会・区民会・平民会という組織があることは知っていますか? 教科書に書いてあるのはこの内の一つである平民会についてだけです。もっとも用語集の「コンスル」のところに「行政・軍事を担当した最高政務官。任期1年で無給。民会の一つであった兵員会で2名選出されたが、貴族が独占した」と書いてあります。この兵員会は平民も参加していますが、身分の高いひとや富裕層に多くの票があり、決定権は平民にはありませんでした。他の会も同様で、平民会だけは平民だけの会議ですが、兵員会のような重要な官職、重要な外交案件(宣戦・講和)、重罪裁判は提案されず、下級官職と軽罪しか討議できませんでした。この平民会の議長は護民官ですが、護民官は長い過程の中で新貴族といわれるひとたちが担い、元老院議員たちと近づいていて(だから新貴族)、元老院議員たちが嫌う法案は提出しなくなりました。だからホルテンシウス法は「元老院の承認なしに国法」となり、元老院議員は心配する必要はなく、「身分闘争は終わった」というより、もう闘争は止めにした、諦めた、というほうが正確です。ですが、貴族と平民に政治的な格差がなくなったのではありません。
 ホルテンシウス法の後に詳説世界史は「ローマではつねに元老院が実質的な指導権をもち続け」とあり、この指導権とは何か? 元老院議員はコンスル経験者であるため、後輩のコンスル護民官たちにアドハイス(助言、事実上の命令)するのを常としていており、すべての民会の決議を批准(最終承認)する権限をもっているのです。

わたしの解答例
アテネではペリクレスの下で成人男子全員が参加できる民会が最高決定機関となった。将軍以外は重任禁止とし、抽選で官職に就いた。ローマは半島統一戦争からポエニ戦争の過程で、貴族と平民の身分闘争が展開し、それはリキニウス法でコンスル1名を平民から、ホルテンシウス法で平民会の決議が元老院の承認不要とした。前者では、下層の平民身分も全員が会議に参加できたが、後者では民会が4つあり、身分別に分かれていて富裕者に決定権が限られていた。さらにローマでは、平民は平民会でしか発言権はなく、他の民会では身分の高いものたちに決定権があった。高職は兵員会で貴族・新貴族が独占した。平民会は低い官職しか選出できなかった。

第2問
A a ムアーウィヤ b サラディン
(1)アッシュルバニパル (2)ユダ王国 (3)エフタル (4)十二イマーム派 (5)ティグリス川 (6)トゥールーン朝 (7)カリフ (8)イブン=ハルドゥーン (9)サファヴィー朝 (10)ギリシア (11)ロンドン会議 (12)イラク王国 (13)サイクス=ピコ協定
B c 雍正  d 大躍進
(14)一条鞭法 (15)囲田(圩田・湖田) (16)『農政全書』 (17)華僑 (18)李自成
(19)地丁銀(制)  (20)保甲法 (21)トウモロコシ (22)洪秀全 (23)盛京 (24)扶清滅洋 (25)人民公社 (26)改革・開放政策

第4問
A  (1)(ア)ロンバルディア同盟 (イ)托鉢修道会 (2)ローマ法大全 (3)(ア)イブン=シーナー (イ)血液循環説(4)カール4世 (5)プラトン (6)ヴィッテンベルク (6)(ア)ピサロ (イ)イギリスのカルヴァン派のことで、儀式・僧服・行事が旧教のままであり、改革の不徹底を批判した。 (8)(ア)チャールズ2世 (イ)ニュートン (9)ウォルポール (10)ドイツ国民に告ぐ
B (11)ダービー (12)ワット (13)水力(人力) (14)インド (15)マンチェスター
(16)ナポレオン3世 (17)カルボナリ (18)フィラデルフィア (19)チェチェン
(20)アルザス・ロレーヌ (21)ザール (22)ルール (23)(ア)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) (イ)イタリア(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク) (24)サッチャー

2022年度共通テストの解説

22年度共通テスト・世界史Bの解説
 テスト問題はネットからダウンロードしてください。→https://www.asahi.com/edu/center-exam/shiken2022/mondai0115_uiFshykDfV/sekaishi_b_01.html

第1問 
A 必ず資料から問いを立てる点を別にすれば、センター試験に戻ったかのような問い方と易問です。

問1[ 1 ]
 下線部(a)「解剖学・植物学・薬学」の学問のいずれかに対応する、中国における成果について述べた文として最も適当なものを。
 ①は『本草綱目』の薬学。「本草」とは薬のこと。薬になる植物の絵と薬の効用が書いてあります。これが正解。この薬学書と同時期の明末の技術書として③『天工開物』があり、著者と作品が正しいかどうかの判定が求められています。覚え方は、前者が★珍しい草、後者が★星の天。この覚え方は拙著『センター世界史・各駅停車』に書いてあるもの。②史書、④詩文集。

問2[ 2 ]
 「オランダの拠点だった[ ア ]に到着」は地図のどこか、という位置の問い。
 地図①a はベトナム南部で、フランスの植民地になる地域であり、オランダ領ではない。ホーチミン市(旧サイゴン市)。
 地図②b インドネシアなのでこれが正解。オランダが築いたバタヴィア(現ジャカルタ市)。
 地図③c 中国の広東かポルトガル領のマカオか。
 地図④d フィリピンなのでスペイン領かアメリカ領のマニラ市。

問3[ 3 ]
 下線部(b)「朝鮮王朝(李朝)では、明に倣って自国民の海外渡航を禁じていた」に関連して 中国と朝鮮との関係の歴史について述べた文として最も適当なものを。
 「渡航」とは無関係な外交史です。
 ① 唐が、朝鮮北部に楽浪郡を置いた。……誤文。唐ではなく、前104年に前漢武帝がおいた朝鮮四郡のひとつ。(語呂『ワン(『世界史年代ワンフレーズnew』の略字)』楽浪郡、前108年、→楽、天108)
 ② 隋が、高句麗に遠征軍を送った。……正解。
 ③ 清が、南京条約で朝鮮の独立を認めた。……誤文。日清戦争下関条約で認めたもの。南京条約アヘン戦争の結果。
 ④ 朝鮮が、明で創始された科挙を導入した。……誤文。科挙の創始は隋(選挙)ないし宋(科挙)。

B
問4[ 4 ]
 「[ イ ]として活躍し、特に[ ウ ]の分野で評価された」
 あ「ウラマー」はイスラーム法の学者を指すことばで、イスラーム世界の裁判官はもちろん学者・モスクの礼拝指導者・政治家など幅広い分野で活動している知識人たち。中国でいえば読書人・士大夫にあたる。  
 い「スーフィー」は神秘主義者。「信心深く敬虔」とは書いてあっても、神との合一を求める神秘主義という傾向は資料文には何もない。むしろ「ハディースムハンマドの言行録・伝承集)を講じた」とあるように学者の仕事をしています。正解は②。

問5[ 5 ]
 イランにおける下線部(C)「キリスト教」の宗教の歴史について述べた文、
 ① サファヴィー朝の国教となった。……この王朝の国教はイスラーム教・シーア派のなかの十二イマーム派です。
 ② ネストリウス派が伝わった。これが正解。さらに東伝し唐まで到達したため、「大秦景教流行中国碑」に記されました。
 ③ カニシカ王が保護した。……クシャナ朝の王が保護したのは大乗仏教
 ④ イスラーム教と融合して、シク教となった。……イランではなくパキスタン・インドで融合しました。

問6[ 6 ]
 「アッパース朝の下で起こった出来事の影響」はどれか。
 ① バーブ教徒の反乱が鎮圧された。……この反乱は1848年(『ワン』語呂→ハーブ、一1848)。西欧の二月革命三月革命、米国のゴールドラッシュの年。そのころのイランの王朝はカージャール朝(1796〜1925)。アッバース朝は750〜1258年(『ワン』語呂→あっ、バス、長750入ろ)。
 ② ダレイオス1世によって、ペルセポリスの建設が始められた。……この1世はペルシア戦争の開始(前500)で名高いアケメネス朝の君主。
 ③ アフガーニーによって、パン=イスラーム主義が唱えられた。……この啓蒙家は19世紀に活動した。名高いのはパン=イスラーム主義やイランにおけるタバコ=ボイコット運動とのかかわり。
 ④ アラブ人の特権が廃止され、イスラーム教徒平等の原則が確立された。……地租ハラージュをアラブ人も払い、アラブ人ではない非アラブ・ムスリムイスラーム教徒)はジズヤを払わなくてよくなった。ウマイヤ朝までのアラブ民族主義が否定され、この王朝から平等主義(イスラーム教徒は何民族であれ平等)に転換した。これが正解。

C 
問7[ 7 ]
 前の資料中の空欄[ エ ]の民族の歴史とは、「契丹と[ エ ]……遼史』と『金史』」と対応しているので、金についての問い。
 ① 猛安・謀克という軍事・社会制度を用いた。……金の民族・軍事・行政の制度。正解。
 ② ソンツェン=ガンポが、統一国家を建てた。……のはチベット吐蕃
 ③ テムジンが、クリルタイでハンとなった。……モンゴル人は、契丹もモンゴル人であるものの、「テムジン(後のチンギス=ハン)」は資料の時代の後の13世紀はじめ(『ワン』語呂→チンギス、天1206)。
 ④ 冒頓単干の下で強大化した。……のは匈奴。前209年陳勝呉広の乱も同年(『ワン』語呂→陳勝・冒頓はブ20ーク9)。

問8[ 8 ]
 チベット仏教の歴史。
 ① ワッハーブ派が、改革運動を起こした。……この派はサウディアラビア半島東部でおこったイスラーム原理主義の宗派。
 ② ガザン=ハンが、黄帽派ゲルク派)に改宗した。……ガザン=ハンはイルハン=ハン国の君主。マルコ=ポーロが元朝からコカチン姫を連れてきた。黄帽派チベット仏教の一派であり、ガザン=ハンはイスラーム教に改宗した君主。
 ③ ダライ=ラマ14世が、インドに亡命した。……これは中国の圧力で1959年インドに亡命。これが正解。
 ④ 北魏による手厚い保護を受けた。……のは道教と仏教で、どちらにしろチベットの仏教ではない。

問9[ 9 ]
 別の民族や集団が残した記録を史料とする例。
 あ 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)を用いた邪馬台国についての研究……日本の歴史を中国の史書で研究するのは、「別の民族や集団が残した記録を史料とす」ることになります。もっとも教科書からはずれるが、邪馬台国卑弥呼が「日本」の歴史であるかどうかの問題はあります。
 い パスパ文字(パクパ文字)で書かれたフビライの命令文書を用いた、元朝についての研究……パスパ文字元朝が定めた国定文字であり、「別の民族や集団が残した記録」ではない。なので正解は①。


第2問 これも易問だらけ。
A 
問1[ 10 ]
 「ナポレオンの侵略がもたらした悲惨な苦難の記憶は、スペイン人の心にわだかまったままである。この苦難から100年経った今も[ ア ]とスペインとの間に共感は 生えようがない。[ イ ]にジブラルタルを奪われたこと」……前者はナポレオンのフランス、後者はスペイン継承戦争のさいにこの都市をイギリスに奪われたこと。正解は③。ジブラルタルって海峡の名だけではありませんよ。都市名とし存在します。今でもGBと表記されて大英帝国領になっています。スペインは空しく返せの声を上げつづけています。

問2[ 11 ]
 次の図中に示したa〜dのうち、前の文章中の「スペインの最後の植民地」は?
 ① a アルジェリアはフランスの植民地。独立は1962年。
 ② b タイは植民地にならなかった。
 ③ c フィリピンはスペインの植民地からアメリカの植民地に(1898年の米西戦争)。これが正解。
 ④ d ペルーはスペインの植民地から独立したが(1821)、「最後」ではない。

B
問3[ 12 ]
 キューバの歴史。
 ① 北大西洋条約機構(NATO)に参加した。……欧米(合衆国・カナダ)の軍事同盟。
 ② バティスタ政権が打倒された。……カストロたちが倒した独裁政権キューバ革命、1959)。これが正解。
 ③ フランスから黒人共和国として独立した。……のはハイチ(1804)。
 ④ ナセルを指導者とする革命(クーデタ)が起こった。……王国からの独立(エジプト革命、1952)か、ナギブを追放したクーデタ(1954)か。キューバとは無関係。

問4[ 13 ]
 「交渉相手の首相の国あ・いと、締結した条約の内容X・Yとの組合せ」
 「交渉相手の首相の国」としては資料中に「フルシチョフ第一書記とマクミラン首相」とあり、マクミランがイギリスの首相、「締結した条約の内容」は資料には「包括的な」とあるものの妥協して「大気圏内」と限定しているように、「Y 核実験の部分的な禁止(部分的核実験停止条約)」となります(1963年、『ワン』語呂→部分核停、天1963)。正解は④。

問5[ 14 ]
 下線(a)の国「ソ連」の歴史について
 ① 中国との国境で、軍事衝突が起こった。……中ソ国境紛争として、ウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる衝突(1959)、新疆での国境紛争もおきました(1962)。これが正解。
 ② サンフランシスコ平和会議で、平和条約に調印した。……日本との条約。ソ連ではない。
 ③ クウェートに侵攻した。……イラクフセインの軍事行動に対してアメリカ中止の多国籍軍が侵攻した湾岸戦争(1991)(『ワン』語呂→湾岸イ199ィート1)。
 ④ アメリカ合衆国からアラスカを購入した。……アレクサンドル2世から買収した(1867年、『ワン』語呂→アラスカ氷、火1867)が、ソ連時代ではなく、ロマノフ朝の時代。


第3問 問5のひっかけ問題を別にすれば易問です。
A
問1[ 15 ]
 前の文章中の空欄[ ア ]の時期「[ ア ]と呼ばれる革命の時期に活躍したハンガリー出身のコシュート」に起こった出来事。

 ① ロシアで、立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された。……ロシア革命の二月(三月)革命のころ(1917)はこの党を主に社会革命党・メンシェヴィキの連立政府ができた。ハンガリーではない。
 ② オスマン帝国で、青年トルコ革命が起こった。……1908年の革命。立憲君主政を再現した。
 ③ ドイツで、フランクフルト国民議会が開催された。……ドイツ三月革命の結果、ドイツ諸邦があつまりドイツ統一問題を話し合った。この会議に対抗してスラヴ人も統一できないかプラハでスラヴ民族会議を開催してる。この会議はコシュートのハンガリーオーストリアからの独立に対抗する意味合いももっていた。東欧全体の民族主義的な動きを総称して「諸民族の春」「1848年革命」と呼んでいます。これが正解。
 ④ オーストリアで、市民が蜂起し、ディズレーリが失脚した。……ディズレーリはイギリスの首相。メッテルニヒのまちがい。

問2 [ 16 ]
 前の文章中の空欄[ イ ]の人物「1881年にエジプトで民族運動を起こしたもの」について述べた文あ・いと その人物が主導した民族運動を鎮圧した国との組合せ。

 [ イ ]の人物について述べた文、あ「エジプト総督に就任した」のは1805年に民衆の支持をえた総督に就いたムハンマド=アリー(『ワン』語呂→アリー、アン1パン8、05)。
 い 「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げた。のはアラービー(オラービー)=パシャで、年代「1881年(『ワン』語呂→裏ー火、火1881)」でも分かるはず。民族運動を鎮圧した国は、Yイギリスなので、正解は④。

問3[ 17 ]
 「1880年代というと、領事裁判権を含む、日本に有利な[ ウ ]を結んだ後の時期である一方、[ エ ]に向け、西洋列強と交渉が進められる時期」という文相、語句の組合せ。
 「日本に有利な」とあるので江華島事件の後に8隻の軍艦で威圧して結ばせた日朝修好条規になります。日清修好条規は対等な条約でした(1876年、『ワン』語呂→日朝、嫌1876条規)。時間的にも「1880年代というと、……[ ウ ]を結んだ後の時」もヒント。「西洋列強と交渉」は岩倉使節団が「不平等条約の改正」が目的でした。正解は②。①③にある「南樺太」は日露戦争ポーツマス条約によって日本が獲得した地域です。

B
問4[ 18 ]
 「前の表を参照……人口の動きについて説明している文として最も適当なものを。

 ① マラッカ王国が繁栄していた1850年の東南アジアの人口は、1800年よりも増加している。……マラッカ王国の繁栄は14世紀なので、誤文。この王国はポルトガルが来て1511年に滅亡している。
 ② インドでは、ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位した19世紀前半に人口増加が見られた。……皇帝就任は1877年だから誤文(1877年は露土戦争インド帝国の年、『ワン』語呂→露土、インド、印1877)。
 ③ 中国本土では、トウモロコシやサツマイモの栽培の普及が人口増加を支え、1800年の人口が1700年の2倍を超えている。……表の数字もこれが正解と示しています。
 ④ 18世紀後半以降のヨーロッパでは、産業革命の進展に伴って人口が増加し、1900年のヨーロッパの人口は 同じ年のインドの人口を超えている。……表では超えていない。

問5 [ 19 ]
 前の文章から読み取れる事柄あ・いと、日本と東南アジアとの関係の歴史について述べた文X・Yとの組合せとして正しいものを 後の①〜④のうちから一つ選べ。
 この問題のように、表だけでなく、表の中にない新しいデータ、ここでは先生が説明している日本のこと、日本のデータは表にないが、この先生の解説(現在の日本の面積は約37.8万km12で、東南アジアのおよそ11分の1なのですが)が重要な役割を果たしている場合は注意しなくてはならない。

 文章から読み取れる事柄
 あ 1850年の東南アジアの人口密度は、同じ時期の日本と比べて低い。……数字だけ見ると、「1850年の日本……3071万人」と先生の発言にあり、表では東南アジアの1850年の密度が4200万人なので、「低い」のでなく高い。
 しかし面積は東南アジアは日本の11倍もあるので、結局、密度は「低い」ことになります。この文章「あ」が正しい。
 日本と東南アジアとの関係の歴史について述べた文。
 X 第二次世界大戦中にドイツがフランスに侵攻する前に、日本がフランス領インドシナ北部に進駐した。……逆です。独の仏侵攻で仏が降伏した(1940年6月22日)ので、日本の仏印侵攻は、9月23日。
 Y 朱印船が東南アジアに来航し、日本町(日本人町) ができた。……正文。なので②が正解。

C
問6[ 20 ]
 オーストリアの先住民とニュージーランドの先住民。
 正解は④。「オーストラリア・アボリジニー」と「★アア」で覚えましょう。ロマ人は西欧にいるインド系少数民族ナチスも彼らを殺しました。   

問7[ 21 ]
 メモの正誤。
 「小野さんのメモ」も「本田さんのメモ」も正しい。正解③。

問8[ 22 ]
 オセアニアの歴史
 ① オーストラリアは第二次世界大戦以前に白豪主義を廃止した。……廃止は1973年に制限法を撤廃してから。誤文です。
 ② カメハメハが王国を建てたハワイは フランスに併合された。……フランスでなく米西戦争の最中にアメリカが併合した。
 ③ 現在のオセアニアにあたる地域が、クックによって探検された。……18世紀に太平洋のほぼ全域を探検した。これが正解。
 ④ ニュージーランドは カナダよりも前に自治領となった。……カナダは1867年、ニュージーランドは1901年なので、誤文。


第4問
A これも容易な問題でした。ただ現代史の出来事がたくさん出てくるので、年代がハッキリ分かるかどうかが決めてです。
問1[ 23 ]
 日本軍が関わった出来事。
 「日本人の望むままの行動が容認されてしまった」とはスペイン内戦(1936〜39)の時期の近くで実現している事柄を探すことになります。
 ① ノモンハン事件で、ソ連に勝利した。……このノモンハン事件は、1939年の出来事(『ワン』語呂→野茂はん、一19サン3キュ9ー)。スペイン内戦との関連は、日本人の駐仏武官が内線の観察にいき、ソ連が人民戦線側に供給した武器がポンコツばかり、という報告を東京に打電していて、それを満州国に伝えると、それを真に受けてモンゴルにいるソ連軍を攻撃した事件です。スターリンがどいう人間か知らなかったため、大敗を喫しました。戦中はずっと、このことを隠していて、戦後になって初めて事件が明らかになりました。
 ② 満州国満洲国)を建国した。……1932年の建国(『ワン』語呂→まんじゅう、一19さん32)、これが正解。
 ③ 台湾を獲得した。……日清戦争(1894〜95)で獲得したことになっていますが(『ワン』語呂→日清焼きそば、人1894)、条約締結の後に台湾征服戦争をやり、台湾民主国を征服して取ったのが実情でした。これも「日本人の望むままの行動が容認」ではあるものの、時期がずれています。
 ④ 真珠湾を攻撃した。……1941年で内線の後(『ワン』語呂→真珠湾、天1941)。

問2[ 24 ]
 ヒトラーが「虐殺」しようとした[あらゆる党派の政敵」と表現されている組織の一つと、下線部(b)に関連した出来事について述べた文との組合せ。
 資料文の「アビシニア人」がエチオピア人を指し、①②の選択文にも書いてあります。ナイル川の源流アビシニア高原に住むひとびと、ということです。
 ① 共産党──国際連盟はイタリアの行為を非難したが エチオピアに対する侵略を阻むことができなかった。……ナチスが撲滅したかった政党として共産党は正しいし、ムッソリーニエチオピア侵攻は止められなかったのも事実。これが正解。
 ② 共産党──九か国条約に基づいて その締結国がイタリアを非難するにとどまり エチオピアは植民地化された。……「九か国条約」は中国(中華民国)に関するワシントン会議の条約(1921〜22)で、エチオピアと無関係です。九か国条約を★中華国条約と覚えると忘れないでしょう。
 ③④ 第1インターナショナル……1864年にロンドンでポーランド農民反乱を支援すべく集まった組織でした。不戦条約(1928、『ワン』語呂→1864)、国際連盟(1920)は第2インターナショナル(1889)、第3インターナショナル(1919)の前にできたもの。

問3[ 25 ]
 異なる見方あ・いと、それぞれの根拠として最も適当な文W〜Zとの組合せ。
 「異なる見方」は
あ 日本の政権は、ファシズム体制
い 日本の政権は、ファシズムとは区別される体制だったと言える。
 「それぞれの根拠」
W ソ連を脅威とみなし、共産主義運動に対抗する陣営に加わった。……これは反共という点で各国共通のファシズムの主張です。
X 国民社会主義を標榜(ひょうぼう)し、経済活動を統制した。……反共でありながら、労働者の見方ですよ、ということを示すための標語で、国家が社会主義または社会主義的諸政策をすすめるもので、ナチス国家社会主義ドイツ労働者党)が代表例で、日本は該当しない。
Y 政党の指導者が、独裁者として国家権力を握ることがなかった。……独伊はヒトラーとムソリーニという政党の独裁者がいたので、明快ですが、天皇は独裁者じゃないといえるのか? 疑問はわきますが、通説では独裁者じゃないことになっていますから、これは日本に該当します。しかし最近は天皇の側近たちの日記が公表され、じきじきに軍に対して種々の命令をし、戦争の行方を左右していたことが明らかになってきました。政党の党首のように、表立って演説はしなかったのですが、神とされた天皇、かつ大元帥であり、毎日陸海軍のトップと会い、戦況報告を受けて指示を出しており、たびたび怒鳴りつけています。「独裁者」でないことは難しい。
Z 軍事力による支配圏拡大を行わなかった。……これはファシズム国がみな行ったことであり、行わなかったことではない。なので正解は①。

B
問4[ 26 ]
 [ ア ]の人物の治世に、ロシアで起こった出来事[ 26 ]人物名は記してありませんが、「初めて正式にツアーリ(皇帝)を称した……雷帝」とあるので、イヴァン4世と分かります。
 ① ステンカ=ラージンの反乱が起こった。……ロシアの反乱で名高いものは、どれもコサックたちの反乱で、第一がこの17世紀の反乱と、18世紀のプガチョフの反乱です。もちろんイヴァン4世の治世(1533〜84)の後になります(『ワン』語呂→ステンカにボ16シチ70)。
 ② ギリシア正教が国教化された。……のは10世紀(989年、『ワン』語呂→裏でみても、ケ989)、ウラディーミル1世のときです。現代のウラディーミル=プーチンが錯覚しているキエフ・ロシアの起源らしい。
 ③ キプチャク=ハン国に服属した。……13世紀。
 ④ イェルマークの協力により、シベリアに領土が広がった。……1581年にシビル=ハン国を征服して(『ワン』語呂→シベリア抑留、人1581)、この皇帝に献上したことで知られています。その後の紆余曲折は無視しましょう。これが正解。

問5[ 27 ]
 「明を建国した彼」[ イ ]の人物が徴税のために始めた政策あ・いと、世界史上の税制の歴史について述べた文X〜Zとの組合せ。

徴税のために始めた政策
 あ 一条鞭法の導入……16世紀の政策なので合わない(16世紀、『ワン』語呂→一条、一16)。
 い 賦役黄冊の作成……これは朱元璋洪武帝)の政策なので該当します。

税制の歴史について述べた文
 X イギリス東インド会社は、インドの農民から直接に徴税を行うザミンダーリー制を整備した。……「直接」がまちがい。これはザミンダールという領主まかせた間接徴税で、直接農民から徴税する制度はライヤットワーリー制といいます。誤文。
 Y 共和政ローマでは、騎士身分(騎士階層)が属州の徴税を請け負って、富を積した。……問題なく正解。かれらはエクイテス(騎士)と呼ばれ、政商となって得た利益を土地に投資し、ラティフンディウムを営みます。
 Z イギリス政府は、北アメリカ植民地の抵抗にもかかわらず、印紙法を撤回しなかった。……1764年に出された法に対する激しい反対運動から、翌年に撤回して、代わる法としてタウンゼント諸法を課しました(1767)。誤文。なので正解は⑤。

問6[ 28 ]
 下線部(d)「ドイツ騎士団を撃退した……この映画は1939年から41年までソ連で上映が禁止」の要因です。
 ① 世界恐慌の影響で経済的打撃を受けたため、国民の生活を引き締めようとしたのだろう。……打撃を受けていないというのが定説。
 ② 独ソ不可侵条約を締結したため、ドイツを刺激したくなかったのだろう。……これが正解。41年から独ソ戦が始まります。
 ③ ドイツをコメコンに加盟させるため関係悪化を避けようとしたのだろう。……COMECONは第二次世界大戦後の組織(1949)。ドイツは東西に分断されています。
 ④ 十月革命後に反革命軍との内戦が続いていたため 映画を上映する余裕がなかったのだろう。……十月革命は1917年以降のことになり、時間差が大きい。


第5問 いやに年代の問題が多い。
A
問1 [ 29 ]
 「800年にローマ皇帝」[ ア ]の人物の事績
 ① フン人を撃退した。……カール大帝が撃退したのはアヴァール人。
 ② イングランド王国を征服した。……のはノルマンディー公ウィリアム。
 ③ アルクインらを集め、学芸を奨励した。……カロリング・ルネサンスを推進したのはこの「皇帝」、これが正解。過去のセンター試験でもなんども問われてきた人物です。
 ④ フランク国王として初めて、アタナシウス派キリスト教に改宗した。……メロヴィング朝のクローヴィスのこと(496年、『ワン』語呂→クローイ、ほ496)。

問2[ 30 ]
 「王ジョンと戦って大陸所領」空欄[ イ ]と[ ウ ]は、……空欄[ ウ ]に入れる人物の名の組合せ
 「王ジョンと戦っ」たのはフィリップ2世、[ ウ ]は「南の墓はメロヴイング家とカロリング家」とあるので、ピピンしかいない。ロロはデンマークから南下してきたノルマンディー公、ユーグ=カペーはカペー朝創始者。なので正解は②。

問3[ 31 ]
 年代の問題です。下線部(a)「カロリング・カペー両家の血筋を引く[ イ ]からルイ9世まで」の出来事……消去法で解けるかも。カロリング朝は751年からで、ルイ9世は第6回(1248)と第7回十字軍(1270)の指揮官。モンゴルにルブルックを派遣したのもこの国王でした。
 ① アナーニ事件が起こった。……1303年(『ワン』語呂→穴に、坊1さん303)。
 ② ジャックリーの乱が起こった。……1358年(『ワン』語呂→ジャック、貧1358)。
 ③ アルビジョワ十字軍が組織された。……1209〜29年。1200年頃に在位していたインノケンティウス3世(1198〜1216)が提唱したもの(『ワン』語呂→インノケンティウス3さん(恐竜みたいな名)、い1198)。これが正解。
 ④ トリエント公さん会議が開催された。……1545年、宗教改革の時期に開催された反宗教改革会議(ポトシ銀山と同年、『ワン』語呂→銀ポト、十(とう1)545)。

B
問4[ 32 ]
 下線部(b)「中国人の移民」の歴史。
 ① アメリカ合衆国で、19世紀末に中国人移民の制限が撤廃された。……撤廃は1860年の北京条約。「末」ではない。
 ② 東京で、華僑を中心に興中会が結成された。……日清戦争の敗北に国亡を痛感してハワイで結成(1894)。東京は中国同盟会が1905年に結成されます。
 ③ 福建・広東の人々が、清の禁令を犯して東南アジアに移り住んだ。……正解。
 ④ マラヤ連邦を中心に成立したマレーシアで、中国系住民を優遇する政策が採られた。……1957年のマラヤ連邦を中心に、1963年に成立。「中国系住民を優遇する」はシンガポール

問5[ 33 ]
 次の図中に示したa〜dのうち、文章中の空欄[ エ ](乾隆帝は[ エ ]を征服しましたが ムスリムが多く住む[ エ ])の地域の位置。
 地図中の①aは北京周辺だからありえない。②bは信教ウイグル自治区でこれが正解、③cは台湾なので康熙帝のときに征服、④dベトナムの南部まで征服した中国王朝はない。   

問6[ 34 ]
 空欄[ オ ](山西商人の活躍した時代)に入れる語あ・いと 空欄[  カ  ](商業活動を展開した[ オ ]の時代[  カ  ]ことも)に入れる文X・Yとの組合せ。
[ オ ]に入れるのは「い 明」 
[  カ  ]に入れる文は「 X 同業・同郷者の互助・親睦のために会館や公所が設けられた」なので正解は③。
 Y 黄河と大運河とが交わる地点に都が置かれ、商業の中心となった……北宋開封が該当します。

 対策は前年度(2021年共通テスト)の解説の末尾にあげたものと同じです。

東大世界史2022

第1問
 内陸アジアに位置するパミール高原の東西に広がる乾燥地帯と、そこに点在するオアシス都市は、ユーラシア大陸の交易ネットワークの中心として、様々な文化が交錯する場であった。この地は、トルコ化が進むなかで、ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンの名で呼ばれるようになった。トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼすこともあった。
 以上のことを踏まえて、8世紀から19世紀までの時期におけるトルキスタンの歴史的展開について記述せよ。解答は解答欄(イ)に20行以内で記し、次の8つの語句をそれぞれ必ず一度は用い、その語句に下線を引くこと。

 アンカラの戦い カラハン朝 乾隆帝 宋
 トルコ=イスラーム文化 バーブル 
 ブハラ・ヒヴァ両ハン国 ホラズム朝

第2問
 支配や統治には、法や制度が不可欠である。それらは、基盤となる理念や思想と、それを具体化する運動を通じてつくられることが多い。このことに関連する以下の3つの設問に答えよ。解答は、解答欄(口)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(3)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教が支配宗教となった地域や国家では、民族や出自にかかわらず、宗教を第一とする統治体制が敷かれることが多かった。そこでは、啓典『クルアーン(コーラン)』と預言者ムハンマドの言行がもとになったイスラーム法が重視された。このことに関する以下の(a)・(b)・(c)の問いに、冒頭に(a)・(b)・(c)を付して答えよ。

 (a) 最古の成文法の一つであるハンムラビ法典は、イスラーム法にも影響を与えたとされる。この法典が制定された時期と、その内容の特徴を、2行以内で説明せよ。

 (b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』を著して王朝の興亡の法則性を説いた学者の名前を記せ。

 (c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法に通じた宗教指導者(法学者)ホメイニらが中心となり、それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策について、2行以内で説明せよ。

問(2) 中世から近世にかけてのヨーロッパでは、多くの国が君主を頂点とする統治体制のもとにあった。君主の権力に関しては、それを強化することで体制を安定させようとする試みや、それが恣意的にならないよう抑制する試みがみられた。このことに関する以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) 大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に、4行以内で説明せよ。

 (b) マキアヴェリが『君主論』で述べた主張について、2行以内で説明せよ。

問(3) 19世紀末の清では、日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動について、以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a)·(b)を付して答えよ。

 (a) この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前を記せ。
 (b) この運動の主張と経緯を4行以内で説明せよ。

第3問
 戦争や軍事的な衝突は、国際秩序や権力のあり方を大きく変えただけでなく、人々の生活や意識にも多大な影響を与えてきた。このことに関連する以下の設問(1)〜(10)に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記せ。

問(1) イスラーム教成立以前のアラビア半島には、エチオピア高原を拠点とする王国が紅海を渡ってたびたび侵攻し、イエメン地方に影響力を及ぼしていた。4世紀にキリスト教を受容したこの王国の名称を記せ。

問(2) 1096年に遠征を開始した十字軍は、イェルサレム王国などの十字軍国家を建設した。当初、イスラーム勢力の側は地方勢力の分立により、十字軍に対抗することができなかった。しかし、13世紀末になって十字軍の最後の拠点ァッコン(アッコ、アッカー)が陥落し、十字軍勢力はシリア地方から駆逐された。このときアッコンを陥落させた王朝の名称を記せ。

問(3) 1511年にポルトガルはマラッカを占領した。マラッカは東南アジアの海上交易の一大中心拠点であったため、ムスリム商人たちは拠点をマラッカから移動させて対抗し、東南アジア各地の港に新たな交易中心地が発展することになった。こうして新たに発展した交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前を記せ。

問(4) 16世紀、アメリカ大陸に進出したスペイン人征服者たちは、多数の先住民を殺害し、現地の社会を破壊した。また、彼らは征服地の農園や鉱山などで先住民に過酷な労働を強制した。スペイン人征服者のこのような行為を告発し、先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物の名前を記せ。

問(5) プロイセンは、ナポレオン軍に敗れて首都を制圧され、フランスとの過酷な内容の講和条約の締結を余儀なくされた。国家存亡の危機を目の当たりにして、連続講演「ドイツ国民に告ぐ」をおこない、国民意識の覚醒を訴えた哲学者の名前を記せ。

問(6) ヨーロッパ諸国も加わった多国間戦争のさなか、ナイティンゲールは38名の女性看護師とともにオスマン帝国に派遣され、その首都イスタンブルの対岸にある傷病兵のための病院で、看護体制の改革に尽力した。この戦争でオスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名を記せ。

問(7) 南北戦争後のアメリカ合衆国では、北部を中心に工業発展がめざましく、西部も開拓によって農業が発展した。合衆国の東西を結んで人・物・情報の流れを促し、経済発展に大きく寄与した鉄道は何と呼ばれるか。その名称を記せ。

問(8) 第一次世界大戦に敗れたドイツでは、帝政が崩壊し、当時、世界で最も民主主義的といわれたヴァイマル憲法を擁する共和国が成立した。この憲法は、代議制民主主義の弱点を補うというねらいから、国民に直接立法の可能性を与え、同時に国民の直接選挙で選ばれる大統領に首相任免権や緊急措置権など大きな権限を与えていた。世界恐慌のさなか、1932年に大統領に再選され、翌年にヒトラーを首相に任命した人物の名前を記せ。

問(9) 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。翌15日には昭和天皇がラジオを通じてポツダム宣言受諾を国民に明らかにした。その日本の占領下にあったインドネシアでは、8月17日にインドネシア共和国の成立が宣言されたが、この宣言を読み上げ、インドネシア共和国の初代大統領となった人物の名前を記せ。

問(10) 第3次中東戦争の結果、イスラエルは占領地をさらに拡大させ、それによって多数の難民が新たに発生した。一方、占領地に残ったパレスチナ人住民のあいだで、1987年末から投石などによるイスラエルに対する抵抗運動が始まった。この抵抗運動の名称をカタカナで記せ。
………………………………………

第1問
 一つの地域での民族・国家の興亡、とくに東大らしく一定の地域で、文化が交錯する場、という設定は、過去問でも、キリスト教文化圏がイスラーム世界からうけた影響(1986)、地中海世界と周辺文明(1995)、イベリア半島史(1999)、エジプト5000年史(2001)、オランダの世界史的役割(2010)、きわめて広い地域でしたが、ロシアの対外政策と西欧列強の対応(2014)も入れてもいいでしょう。5〜9世紀の地中海世界(2021)も入ります。まさか来年度はウクライナを軸にした民族興亡史を出すでしょう……か。
 東西から次々と諸民族が入ってきたり、ここを根拠地に周辺に侵出したり、の東西トルキスタンの歴史です。流れ(時間経過)の問題でもありますから、タテに8〜19の数字を出来事のあるなしにかかわらず書くのが構想メモの原則です(なぜかは拙著『世界史論述練習帳new』参照)。その上で、興亡したトルコ人を初めとした民族、勢力(国家・王朝)、文化、事件などを書き込みます。もちろん文化が主役でなく、「興った勢力」という民族的政治的な勢力を書くことが第一で、文化の諸相はそれに付随するものです。このやり方と同じことを出題者が書いていて、びっくりしました。もっとも、ありきたりのやり方ではあります。→https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400186951.pdf
 
8 突厥ウイグル(744) ←唐の都護府設置
9 キルギスウイグル西走(840)、サーマン朝(874)
10 カラハン朝(940)、イスラーム教信仰、宋(960)
11 西夏セルジューク朝成立(1038)、ホラズム朝(1077)
12 西遼(カラ=キタイ、1132)
13 モンゴル帝国(1206)
14  チャガタイ=ハン国、オゴタイ=ハン国
  ティムール帝国(1370)
15 アンカラの戦い(1402)、ティムールのこの地域進出、ティムール帝国滅亡(1500) 
16 トルコ=イスラーム文化(ティムール帝国)、バーブルはここからインド進出・ムガル帝国
17 康熙帝のこの地域進出
18 乾隆帝の新疆(1759)、ロシアがこの地域進出
19 ロシアのブハラ・ヒヴァ両ハン国保護国化、イリ条約(1881)

 あちこちカッコ(  )の中に年代を入れましたが、こんなこと書けませんか? でも正確には書こうとしたら、これくらいは必要です。『世界史年代ワンフレーズnew』でかんたんに覚えられますよ。
 ウイグル74(なし)4
 ウイグル840
 サーマン朝は、874
 カラハン朝 カラカラ、940
 宋 宋、堅960
 ホラズム朝 ほーらず、入1077い
 西夏セルジューク朝 成果競る、父10さん38
 西遼(カラ=キタイ) 空期待、い1132
 チンギス(モンゴル帝国の成立) チンギス、天1206
 ティムール帝国 ティー・ルーム、ジュ1ーサ3ー慣70
 アンカラの戦い(永楽帝・フス) 1402 
 ティムール帝国滅亡 ティー・ルーム滅亡、イチ15ノー0ノー0
 ムガル帝国 無我〜一1526
 康熙帝(ルイ14世親政) 康煕・ルイはヒ1ーロ6ー・ル61
 イリ条約 イリリイ、イ1881

 さて以上ですが、読むだけで、もういくつか覚えたでしょう。
 課題は簡単にいえば「トルキスタン興亡史」です。導入文に「トルキスタンの支配をめぐり、その周辺の地域に興った勢力がたびたび進出してきたが、その一方で、トルキスタンに勃興した勢力が、周辺の地域に影響を及ぼす」と。これを8〜19世紀の長期で描くことです。
 8世紀はこの地域の支配者であった突厥が、同じトルコ系のウイグルに交代する時期でした。突厥が支配していた時代は、隋唐との対決があり、服属して唐の都護府支配下に置かれています。東西に分かれた東突厥はまず唐に滅ぼされ、再建した者たちはウイグルに滅ぼされました(744)。どうしてか、この突厥のことは予備校の解答例に書いたものはありませんでした。トルコ系による支配はかれらから始まるのに。
 しかしウイグルキルギスに追い立てられ、かれらの西走(840)が、西トルキスタンをトルコ化し、ここにカラハン朝を建て(940)、すでに進出していたイラン系のサーマン朝を滅ぼします(999)。このカラハン朝は、また、トルコ人として初めてイスラーム化した王朝でもあります。
 このカラハン朝を追撃しに来るのが、東方の勢力でした。宋と金が結び、遼は西方に追い立てられ、このトルキスタン地域に西遼(カラ=キタイ)が耶律大石によってつくられます。キタイ族はモンゴル系ですが、13世紀のモンゴル時代を準備します。
 この間、トルコ系民族はこの地域から西アジア世界に軍人奴隷「マムルーク」としてアラブ人・イラン人の王朝に雇われていき、かれらの王朝も各地でできることになります。このマムルークの浸透を書いた答案例もありませんでした。「周辺の地域に影響」として書いてあってもいいものです。
 東大は2012年度の第2問・問2でかれらのことを問うています。アッバース朝西トルキスタンに進出した際に戦争捕虜としたり奴隷として買ったことが起源となり、次第にイスラーム世界に入ってきたものです。とくに第8代カリフのムウタスィム (ムータシム、在位 833-842) が親衛隊として使い始めてからです。
 このマムルークたちが、サーマン朝のマムルークであった者がガズナ朝をつくってインドに侵出し、インドイスラーム化の道をひらき、デリー=スルタン朝(奴隷朝)も開くことになります。またカイロのアイユーブ朝を奪いマムルーク朝をつくったのもかれらでした。
 11世紀、カラハン朝から西に移動したトルコ人はシル川下流セルジューク朝を興しました。この王朝は南下してバグダードに入城した後、部下がホラズム朝としてこの地域で独立します(1077)。
 西遼に話しをもどすと、モンゴル人に追い立てられたナイマンが、西遼を奪い、その短い支配もチンギスが襲っています。そしてその西を支配していたホラズム朝も、チンギスは滅ぼします。
 チンギスは奴隷朝へも攻撃をしていますが成功していません。これは細かいので書かなくてもいいでしょう。
 チンギス死後は、チャガタイ=ハン国の支配下にはいり、これが東西に分裂して、西チャガタイ=ハン国からティムール帝国が登場してきます。このティムールもデリー=スルタン朝のうちトゥグルク朝を攻撃し、部下を置いてきましたが、この部下がつくる王朝がサイイド朝(1414年、コンスタンツ公会議)です。
 さらにティムールはアンカラの戦いでオスマン帝国をいったん滅ぼします。モスクワの近くまで行き、東はサマルカンドからシル川中流のオトラルで病死するまで荒らし回りました。現代のプーチンのようです。しかしこの荒ぶれた男は都のサマルカンドに多くの文化人を集め、文化振興につとめ、指定語句にある「トルコ=イスラーム文化」が成立した、と評価します。この「トルコ=イスラーム文化」をどこで使ったかが評価の対象になるでしょう。
 1500年ちょうどに滅亡したティムール帝国はトルコ系ウズベク族がここを支配します。今もそれは変わっていません。かれらがつくる国々が、ブハラ(ボハラ)=ハン国、ヒヴァ=ハン国、コーカンド=ハン国です。今は、北からカザフスタンウズベキスタントルクメニスタンと呼んでいる地域です。
 このティムール帝国の滅亡は、サマルカンドで復興策に失敗したバーブルをインドに向かわせ、インドでムガル帝国を建てることにつながりました。
 どちらかといえば、西トルキスタンの興亡が多いですが、東トルキスタン清朝による侵出が康熙帝から始まっていて、乾隆帝の段階で天山山脈の北部のジュンガル(準部)と東トルキスタン(回部)を合わせて新疆(new frontier)と呼ぶことになります。
 19世紀になると「ブハラ・ヒヴァ両ハン国」も保護国化し、コーカンド=ハン国も保護国化します。その目的はシベリアの毛皮とちがい、棉花です。さらにイリ事件を利用して新疆に入ってきました。左宗棠の抵抗はありながら国境を削られてイリ条約が結ばれます。

第2問
問(1)(a) 「ハンムラビ法典……が制定された時期と、その内容の特徴」という問題。時期は前18世紀、内容は「刑法・民法・商法など多方面」、特色は「刑法……同害復讐の原則、身分によって刑罰に差がつけられていることに特色がある(かんたんには同害刑法と身分法)」(どちらも東京書籍)で十分ですが、「王は神の代理として統治(詳説世界史)」とも注があり、スーサ出土の写真には神から王が法典をいただくレリーフが付いているので、「神授」である、という点を指摘してもよい。

(b) 14世紀に北アフリカの諸王朝に仕え、『世界史序説(歴史序説)』の著者は、イブン=ハルドゥーン。

(c) 1979年のイラン革命では、イスラーム法……それまでのイランで推進されていた政策を批判した。このとき批判された政策、という問い。「政策」とはパフレヴィー国王の白色革命を説明したらいい。土地改革・文盲率低下・女性参政権・工業化・教育振興・西欧型の商店導入など。とくに土地改革は重要ですが、農地分配をしても農民に灌漑をつくる資力がなく、貧農より地主層に土地が買い取られるまずい結果を生みます。嫌われたのが掛け合いで値段を決める従来の商人の方法を止めさせ、公定価格を決めたことでした。

問(2)(a) 「大憲章(マグナ=カルタ)が作成された経緯を、課税をめぐる事柄を中心に」といろいろな課税要因を挙げることです。まずフランスに敗北し続けたため軍事費の増額の必要性、この費用を貴族たちへの課税でまかなおうとしたため貴族の反発がおき、そのため国王が勝手に課税を決めるな、貴族会議の承認が必要だ、と要求したことでした。
 下のイギリスの教科書の図がよく表しています。

(b)「マキアヴェリが『君主論』で述べた主張」とは、あまり教科書では書いてありません、せいぜい「政治を宗教や道徳とは別個のものとして論じ」という程度で、これは「主張」になるでしょうか? 強力な君主になるためには、どのような術策を用いるべきかを論じたもので、権謀術数を使え、信仰厚く慈悲深くある必要はないが、信仰厚く慈悲深いひとだと見られるために、その振りをせよ、運命の女神の頬をぶちたたいてでも、強引にものごとを遂行せよ、愛されるより恐れられるほうが安全だ、イタリアは統一されるべきだ、などとと説きました。

問(3) 「日清戦争における敗北を契機に、国家の存亡をめぐる危機意識が高まった。この結果生じた運動」
(a) 「この運動の中心となり、後に日本に亡命した2名の人物の名前」は、中心人物で康有為と梁啓超。この二人ですが、ただ日清戦争の危機意識の中で動いたのは変法運動をおこなった二人だけでなく、戦争中にハワイで興中会をつくった孫文も該当します。ただ次の問題(b)からは、変法運動だけなのだろうと推理できます。
(b) 「この(変法)運動の主張と経緯」。主張は、洋務運動が富国強兵の技術導入にすぎず、それでは不十分であり、日本の明治維新にならって立憲と議会政治の導入を説いた。経緯は、光緒帝とわずかの官僚にしか支持は得られず、西太后が戊戌の政変で改革を挫折させます。「百日維新」と揶揄するくらいに短いものでした。寝ている光緒帝を西太后が「起きなさい」と叩き起こして、「今やっていることを止めなさい」と怒鳴りつけ、皇帝を幽閉しました。

第3問
問(1) 教科書(詳説)ではクシュ王国滅亡の原因として「4世紀にエチオピアアクスム王国によってほろぼされた」と出てきます。東京書籍では「アクスム王国は、4世紀に、クシュ王国を征服してナイル川中流域に進出したが、このときキリスト教を受容した」と。

問(2) 「アッコンを陥落させた王朝」はカイロの王朝です。初め十字軍はセルジューク朝と戦いましたが、イェルサレム占領後は、その南を支配していたカイロの3王朝と戦うことになりました。

問(3) 「交易港のうち、スマトラ島北西部にあり、インド洋に面した港市の名前」とはアチェ王国のこと。世界史は歴史地図を見ながら勉強しましょう、という教訓。

問(4) 先住民の救済を訴えて『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著した人物(ラス=カサス)はカール5世に訴えていて、恐ろしいのは犬たちの記録です。「彼らを狩り出すために猟犬を檸猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを食い殺した」(岩波文庫、p.28)。日本軍が南京で生きた人間を捜索するために使ったのも、このような犬でした(笠原十九司『体験者27人が語る南京事件』高文研、p.214)。  

問(5) センター試験でも何度も問われたフィヒテ

問(6) クリミア戦争で「オスマン帝国側に立って参戦した国のうち、サルデーニャ以外の2か国の名」は英仏。

問(7) 南北戦争後の」とは1869年の大陸横断鉄道の開通です(『ワンフレーズ』語呂→(スエズ)運河・鉄道で、ひと1869ット)。

問(8) 「ヒトラーを首相に任命した人物」は第一次世界大戦の英雄とたたえられたヒンデンブルク大統領。

問(9) 「インドネシア共和国の初代大統領」は宗主国オランダに留学し、帰国してインドネシア国民党を創設したスカルノ

問(10) 「投石などによるイスラエルに対する抵抗運動」は主に青年・子どもたちが戦う戦い方(インティファーダ)。

2022年合格メール

2022年合格メール

Aくん 3.6 13.58
本日、東京外大英語科の合格が決まりました。
12月頃から約10年分の過去問を添削していただき、心より感謝致しております。
今年の外大は「第一次世界大戦後の国際秩序における可能性と限界」についての400字論述が出題されましたが、これは2009年の過去問と被る部分があり、比較的スムーズに書けました。これも中谷師のおかげです。
今まで本当にありがとうございました。

Bくん 3.10 10.13
今、一橋大学法学部の合格発表があり 一橋大学法学部に合格してました。 
11月からの3ヶ月ほどの間でしたが 先生の丁寧な添削指導のおかげで日に日に、世界史の論述力が向上して行くのが実感出来ました。 
先生には感謝してもしきれないです。

Cくん 3.10 15.43
合格です。東京大学文一。
過去問演習(『東大世界史解答文』で正しい方向性を身につけること)による実践力の蓄積と最後まで「世界史力」そのものを伸ばそうとする努力が、合格への近道だと再確認できました。本当にありがとうございました。 


Dくん 3,10 10.37
一橋大学に合格しました。
短い期間でしたが添削本当にお世話になりました。自分は周りに添削してもらえる環境がなかったため、先生の添削が頼りでした。自分だけでは気付かないところまで細かく見て頂いたことで論述力がどんどんついていくのを実感できました。
本来は直接お礼をいうべきなのですが、メールという形となってしまいすみません。本当にありがとうございました。

Eくん 3.10 19.17
受験の際には、世界史の論述の添削・採点をしていただいて、ありがとうござい ました。
この度、京都大学文学部に合格をいただきました。
先生の参考書・添削のおかげで点に繋がる論述が書けるようになったと思います。
本当にありがとうございます。

Fくん 3.10 20.27
一橋大、合格しました。
社会学部に無事合格することができました。
再現答案をお送りします。

Gさん 3.10 20.58
本日合格発表があり、京都大学総合人間学部に合格することができました。
全く世界史が頭に入っていなかった9月から添削をお願いし、先生に提出すると思って、定期的に世界史の勉強ができるようになり、添削問題を調べながら解いて学習して力をつけられたと思います。添削もとてもわかりやすく、毎回楽しみにしていました。前日から当日にかけても全部の添削を復習し、不安はあるものの自信を持ってテストに挑めました。本当にご指導ありがとうございました。

Hさん 3.12 11.34
中谷先生、お久しぶりです。昨年秋頃から添削をお願いしていたHです。
無事、一橋大学社会学部に合格することができましたのでご報告させていただきます。先生の丁寧な添削のおかげで合格できたと思っています。本当にありがとうございました。

I  くん 220313 1128
阪大医学部、合格でした。共通テスト社会は、直前期まで手付かずの場合が多いのですが、『各駅停車』を勉強して、自然に仕上げることができました。おかげさまで、共通テスト世界史、92点でした。

Jくん 220608 1735
東京大学文科三類に合格しました。本当にありがとうございました。
当日は、世界史の解答欄をずらして書き終えるミスをしてしまい、消して書き直すのに大幅に時間を奪われてしまいました。しかし、それでも合格できたのは先生の添削を通じて世界史論述の枠組みが仕上がっていたからだとおもいます。
添削に加え、先生の世界史論述練習帳の60字の記述が東大第2問に非常に役立ちました。これを何度も染み込ませるように読んだことで自分のアウトプットする表現の正確さに対する自信が尽きましたし、なによりスピードが出ました。
これからも邁進します。

東京外国語大学・世界史2022

第1問
 次の[A]〜[F]は、第一次世界大戦後の国際秩序をめぐって、1918年以降に書かれたものの抜粋である。これらの史料を読み、以下の問に答えなさい。〔60点〕

[A] ウィルソン大統領のアメリカ合衆国議会宛教書(14カ条)(1918年1月8日)
 われわれが、この戦争の結末として要求することは、われわれに特殊なことではまったくありません。それは、世界が健全で安全に生活できる場となることであり、とりわけ、すべての平和愛好国家にとって安全となることです。〔中略〕世界中のあらゆる人々は、実質的に〔中略〕利害を共にする盟友であり、われわれは他の人々に正義が行われない限り、われわれにも正義はなされないということを明確に認識しています。世界平和の実現のための計画は、したがって、われわれの計画でもあります。そして、われわれの考える唯一可能な計画とは、以下のようなものです。〔中略〕

第5条 すべての①植民地に関する要求は、自由かつ偏見なしに、そして厳格な公正さをもって調整されねばならない。主権をめぐるあらゆる問題を決定する際には、対象となる人民の利害が、主権の決定をうけることになる政府の公正な要求と平等の重みをもつという原則を厳格に守らねばならない。〔中略〕
第14条 大国と小国とを問わず、政治的独立と領土的保全とを相互に保障することを目的とした明確な規約のもとに国家の一般的な連合が樹立されねばならない。

〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。なお、一部の表現を改めた。〕


[B] ②ホー=チ=ミン反革命的な軍隊」(1923年9月7日付、フランス労働総同盟の機関紙『ラ・ヴィ・ウーヴリエール』(パリ)に掲載)
 植民地紛争が1914〜18年の帝国主義戦争の重要な一因だったことを、われわれは知っている。〔中略〕フランスの労働者階級の認識せねばならぬことは、植民地主義が労働者階級の側の解放のあらゆる試みを打ち敗るため、植民地に依存しているという事実である。多かれ少なかれ階級意識に感染した白人の兵にはもう絶対的信頼がおけないので、③フランスの軍国主義はその代わりにアフリカやアジアの原住民を使っている。フランス陸軍の159連隊のうち、10は植民地の白人、すなわち半原住民、30はアフリカ人、39は他の植民地出身の原住民から成っており、こうしてフランス陸軍の半分は植民地から徴募されているのである。
〔出典:ベルナール・B・ファル編、内山敏訳『ホー・チミン語録─民族解放のために─』河出書房新社、1968年。〕

[C] 国際連盟規約(1919年6月28日調印)
 締約国は、戦争に訴えないという義務を受諾し、各国間の開かれた公明正大な関係を定め、各国政府間の行為を律する現実の規準として④国際法の原則を確立し、組織された人々の間の相互の交渉において正義を保つとともにいっさいの条約上の義務を尊重することにより、国際協力を促進し各国間の平和と安全を達成することを目的として、この国際連盟規約に合意する。
〔中略〕
第11条 戦争または戦争の脅威は、連盟加盟国のいずれかに直接の影響がおよぶか否かを問わず、すべて連盟全体の利害関係事項であることをここに声明する。連盟は、国際的平和を擁護するために適当かつ有効と認められる措置をとる。(中略〕
第16条 第12条、第13条または第15条における約束を無視して戦争に訴えた連盟加盟国は、当然他のすべての連盟加盟国に対して戦争行為を行ったものとみなされる。他のすべての連盟加盟国は、⑤その国とのいっさいの通商上または金融上の関係の断絶[中略]をただちに行う。
(出典:歴史学研究会編「世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。)

[D] 中華民国全権代表団がヴェルサイユ講和条約調印拒否を本国に報告する電文(1919年6月28日)
 ヴェルサイユ講和条約の調印について。〔中略〕⑥山東問題の件で、我が国はつぎつぎに譲歩しました。最初は条約の本文に〔山東権益の返還を〕明記することを主張しましたが認められず、ついで条約のうしろに付記することを主張しましたが認められず、条約外に改めても認められず、わずかに声明するだけで文字にとどめるにはおよばないと主張しましたが、それでも認められませんでした。〔中略〕この件は、我が国の領土の完全および前途の安定ときわめて大きく関わっております。〔中略〕弱小国の交渉は、最初は争っても最後は譲歩するしかないというのが、ほとんど慣例となっております。今回、もしさらにこらえて調印すれば、我が国の前途はさらにいうべきものがなくなってしまうでしょう。〔中略〕詳しく検討しましたが、やむを得ず、当日は調印に行くのをやめました。
〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。なお、一部の表現を改めた。〕

[E] ヤップ島及他ノ赤道以北ノ太平洋委任統治諸島二関スル日米条約(1922年7月14日)
 日本国およびアメリカ合衆国は〔中略〕、ドイツ国ヴェルサイユ条約にいう主たる同盟および連合国たる諸国〔中略〕のために、その海外属地に関する一切の権利および権原を放棄したることを思い、〔中略〕⑦4つの国〔中略〕は、ヴェルサイユ条約により太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ領諸島群につき、以下の条項に準拠してその施政を行う〔こと〕の委任を日本国皇帝陛下に付与することに一致したることを思い、
第1条 日本国皇帝陛下(以下受任国と称す)に委任を付与したる諸島は、太平洋中赤道以北に位する旧ドイツ領諸島の全部を含む。
第2条 受任国は本委任統治条項による地域に対し、日本帝国の構成部分として施政および立法の全権を有すべく、かつ情況に応じ必要なる地方的変更を加えて、本地域に日本帝国の法規を適用することを得。
 受任国は、本委任統治条項による地域の住民の物質的および精神的幸福ならびに社会的進歩を極力増進すべし。
〔出典:アジア歴史資料センターHP。なお、条文を現代仮名遣いに変更したほか、一部の表現を改めた。〕

[F] ⑧パリ不戦条約(1928年8月27日)
第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することをその各々の人民の名において厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争または衝突の処理または解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。
〔出典:歴史学研究会編『世界史史料⑩20世紀の世界I』岩波書店、2006年。]

問1 下線部①に関連して、イギリスは戦争遂行にインドの協力が必要不可欠であるとの認識のもと、第一次世界大戦中、インドに戦後の自治を約束した。それを受けて制定された1919年インド統治法は、実際には部分的な自治を定めるにとどまった。さらにイギリスは、反英運動を弾圧する法律をこの年に制定した。この法律の通称を答えなさい。[5点]

問2 下線部②の人物に先立ち、ベトナムの独立を目指す運動を展開し、維新会を結成してドンズー(東遊)運動を提唱した人物の名を答えなさい。〔5点〕

問3 下線部③に関連して、19世紀末フランスで、反ドイツ感情や排外的愛国主義の高まりを受けて元陸軍大臣か政権奪取をもくろみ、未遂に終わった。この出来事が何とよばれるかを答えなさい。〔5点〕

問4 下線部④に関連して、『戦争と平和の法』(1625年)などの著作により国際法の発展に貢献した人物の名を答えなさい。〔5点〕

問5 下線部⑤に関連して、この規定にもとづく制裁が唯一発動されたのは、1935年に軍事侵攻を行ったイタリアに対してであった。しかしムッソリーニ政権による侵略行動が止まることはなく、その実効性の低さが露呈する結果となった。このときイタリアが侵攻した独立国の名を答えなさい。〔5点〕

問6 下線部⑥に関連して、山東権益の返還などを求める中華民国の訴えが退けられたことに抗議して、北京から全国に拡大した運動の名を答えなさい。〔5点〕

問7 下線部⑦の4つの国は、国際連盟の当初の常任理事国である。この4つの国名をすべて答えなさい。〔5点〕

問8 下線部⑧の条約をフランス外相の提案にこたえるかたちで提唱したアメリカの国務長官の名を答えなさい。〔5点〕

問9 ウィルソンが史料[A]で提示した、第一次世界大戦後の国際秩序には、どのような可能性と限界があったか。史料[A]〜[F]と、その後の歴史的経過をふまえて、400字以内で説明しなさい。また、以下の語句を必ず用い、使用した箇所すべてに下線を引きなさい。〔20点〕

 植民地の戦争協力 二十ーカ条の要求 パリ講和会議 経済制裁

 戦争の違法化 ドイツ領南洋諸島


第2問
 われわれの生きる21世紀の世界は、一体化と相互依存をますます深めつつある。これまで人類は無尽蔵と思われた天然資源に大きく依存し発展してきたが、その行き過ぎた収奪と乱用による環境破壊の現実をまえに、人類の発展のあり方そのものを根本から問い直さざるを得ない状況へと追いやられている。ここ半世紀間に顕在化してきた地球規模のさまざまな環境問題は深刻さを増しており、諸国・諸地域の協同によるこれまで以上の対処を必要としている。
 グローバル・ヒストリーの観点から地球環境問題の歴史を概述する次の文章を読み、以下の問に答えなさい。〔40点〕

 一体化が進行する現代世界における我々の日常生活は、科学技術の発展により消費物資や情報サービスの面で格段に豊かになった。この豊かな消費生活は、発展途上国からの膨大な天然資瀕の輸入にささえられているが、他方で世界各地の環境破壊をひきおこしている。
 たとえば、日本の年間丸太輸入量3000万立方メートルのうち、約3分の1は南洋材で、丸太切り出しだけで、年に7500平方キロメートル、大阪府の面積の4倍もの熱帯雨林を伐採・破壊していることになる。また、世界のえび取引の40パーセント、1日10億円におよぶえびの輸入は、東南アジア諸国マングローブ林を犠牲にした過剰養殖をまねいている。安価に輸入されているバナナは、フィリピンや中米諸国での①モノカルチャー的な農業構造と農民を犠牲にした大農場経営のもとで生産されており、農薬による土壌汚染もおこっている。 
 ところで、こうした②大量生産・大量消費型の産業社会の展開は、産業革命以降の先進諸国による資源の独占的支配と技術開発にささえられてきた。しかし1970年代になると、一次産品を生産・輸出する発展途上国のあいだで、自国の資源を国有化して経済開発に積極的に活用しようとする資源ナショナリズムが台頭してきた。③1973年の第4次中東戦争の際に、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国が発動した石油戦略がその典型であり、先進諸国の高度経済成長政策は大きくゆさぶられた(石油危機)。
 こうした途上国の経済的自立の動きにより、先進工業国は1980年代に省資源や省エネルギーに努力し、新素材や石油代替エネルギーの開発に取り組んだ。特に原子カエネルギーに対する期待は高いが④1986年4月のソ連チェルノブイリ原子力発電所での大事故と、2011年3月の東日本大震災による東電福島第一原発メルトダウンは、原子力発電の安全性、環境保全放射性廃棄物の処理問題について再検討を迫っている。福島原発事故は、現在でも、完全な収束の見込みはたっておらず、太陽光発電風力発電など代替エネルギー源の確保も含めて、長期の粘り強い取り組みが求められている。
 20世紀の第4四半世紀は、工業化をすすめる先進国が、化石燃料やエネルギーを大量に消費して国境・地域をこえて汚染物質をもたらし、地球の自然環境を破壊してきた。石油の大量消費によって排出される二酸化炭素などの温室効果ガスは、地球の温暖化をひきおこす主要な原因と考えられており、その排出量の削減が急務である。⑤温暖化により南極や北極の氷河が融けて海水面が上昇するとともに、エルニーニョ現象(東太平洋における海水温の上昇にともなう気候変動)の頻発は、とりわけ発展途上国における食糧生産に打撃を与えている。
 北米や北ヨーロッパでは、大気汚染が原因の酸性雨によって森林や湖沼が被害を受けている。東アジアでも、経済発展をつづける中国の大気汚染は深刻で、日本で降る酸性雨にも影響している、とみられている。また、冷房設備などに使用されるフロンガスオゾン層を破壊し、地上に達する有害な紫外線の増加によって、生態系や健康への影響が心配されている。
 現在、我々は環境を地球的規模で保全する必要に迫られている。1972年に「かけがえのない地球」をスローガンに国連人間環境会議が開催されて以来、国連を中心に様々な取り組みがなされ、⑥1992年には[ A ]の[ B ]で、国連環境開発会議(地球サミット)が開催された。そこでは、経済成長を優先したい発展途上国と環境問題重視の先進国とのあいだで意見の対立があった。10年後の2002年には南アフリカヨハネスブルクで、持続可能な開発に関する世界首脳会議(環境・開発サミット)が開かれた。
 ⑦1997年に開かれた地球温暖化防止会議では、先進国に温室効果ガスの排出量削減を求める[ C ]が採択された。[ C ]は、国内経済への制約をおそれるアメリカが2001年に離脱したが日本・EU・ロシアなどの批准により2005年に発効した。21世紀は、地球環境の保全と持続的な経済開発(持続可能な開発(sustainable development)のバランスをとりながら、貧富の格差を解消していくことが重要な課題になっている。2015年9月の国連サミットでは、「持続可能な開発目標」(SDGs)が採択された。「貧困や飢餓の根絶」「再生可能エネルギーの利用」「気候変動への対策」など17の目標が設定され、「だれひとり取り残さない」をスローガンに2030年までの目標達成をめざした様々な取り組みが展開されている。
〔出典:秋田茂編『グローバル化の世界史』ミネルヴァ書房、2019年。なお、一部の表現を改めた。〕

問1 下線部①に関連して、17世紀から18世紀の大西洋を舞台とする三角貿易では、アメリカ大陸やカリブ海域の植民地において特定の農産物がプランテーションで生産されるようになった。産業革命の進展にしたがって、これらの農産物の需要が高まると、生産地域のモノカルチャー化が進んだ。こうした農産物のうち、その加工が技術革新を促し、産業革命の開始と進展のきっかけとなった一次産品の名を答えなさい。〔5点〕

問2 下線部②に関連して、1903年に設立されたアメリカの自動車会社が組み立てライン方式の導入により実現した工場のシステム化は、大量生産・大量消費時代の呼び水となった。生産の効率化が販売価格を低減する一方、部分的には高賃金に還元されて消費者の購買力を高めたからである。自動車を大衆化させたこの会社の名を答えなさい。〔5点〕

問3 下線部③について、この石油戦略とはどのようなものだったのか、40字以内で説明しなさい。〔10点〕

問4 下線部④に関連して、原発事故後の当局による被害状況の隠蔽は世論の大きな反発を招き、これはゴルバチョフ指導下で情報公開が進展するきっかけとなった。ソ連末期に言論の自由化をうながしたこの情報公開政策の名をカタカナで答えなさい。[5点〕

問5 下線部⑤に関連して、近年の温暖化による海氷の融解現象は、北極圏における資源や航路をめぐる国家間の競争に拍車をかけている。今から1世紀余り前には、国家の威信をかけた極地探検がちょうどピークを迎えていた。1909年アメリカの探検家が北極点に最初に到達すると、これに遅れをとったノルウェーの探検家は目標を切り替え、1911年に南極点への初到達に成功した。このノルウェーの探検家の名を答えなさい。〔5点〕

問6 下線部⑥に関連して、この会議では温室効果ガスの排出量削減に関する気候変動枠組み条約が採択されるとともに開発と環境保全の両立を目指す理念が宣言で示され、その後の環境問題への取り組みに一つの道筋がつけられた。空欄[ A ]にあてはまる国の名と空欄[ B ]にあてはまる都市の名を答えなさい。〔5点〕

問7 下線部7について、この会議で採択された空欄[ C ]にあてはまる文書の名を答えなさい。〔5点〕

………………………………………

コメントは第1問・問9だけです。
 課題は「ウィルソンが史料[A]で提示した、第一次世界大戦後の国際秩序には、どのような可能性と限界があったか。史料[A]〜[F]と、その後の歴史的経過をふまえて(指定語句→植民地の戦争協力 二十ーカ条の要求 パリ講和会議 経済制裁 戦争の違法化 ドイツ領南洋諸島)」でした。
 名高い「14カ条」の「可能性と限界」という問いでした。
 この2つの課題を史料から読み取れること(史料[A]〜[F]……をふまえて)と、「その後の歴史的経過」の2つで考えてみます。
(1)可能性
 ①史料から
 [A]の第5条で、植民地の主張、公正な要求と平等の重みと説き、第14条で大国と小国とを問わず、と公平・平等なあつかいを主張しています。
 [C]国際連盟規約:開かれた公明正大な関係といい、第11条では、戦争……すべて連盟全体の利害関係事項になるとし、第16条では、戦争に訴えた連盟加盟国……関係の断絶する、と強制力をもたせています。

(2)(史料にある)限界
 [B]ホー=チミンは列強の軍隊は植民地原住民を兵士として構成されている、と植民地を土台に戦争をおこなっている点を指摘しており、[D]の史料で、半植民地国・中国の訴えは拒否される、弱小国の交渉は譲歩するしかない、と嘆いています。ために中国は条約の調印を拒否しています。また史料[E]では、連盟は結局、植民地の再配分を実行しています。

(3)後の歴史的経過
 「可能性」としては、この集団安全保障の国際機構の構想は発展して、[F]パリ不戦条約となり、戦争の否定・放棄、平和的手段以外で求めない、というアピールまで行っています。ここまでは可能性を持たせました。
 [A]の公平・平等に期待して18〜19年世界各地で独立運動が展開しましたが、東欧は実現してもアジア・アフリカでは実現しませんでした。インドのアムリットサル虐殺に見られるような運動弾圧もおきます。
 [C]現実には、日本の満州事変・満州国設立を阻止できず、イタリアのエチオピア侵略に対しての経済制裁も石油を除外するという無意味なものにおわり、ヒトラーの周辺国侵略を抑えることはできませんでした。
 史料に書いてないことでは、連盟の組織自体のこと(全会一致、米ソの不参加、軍事力をもたない)、連盟で決めたドイツに対する巨額の賠償金は戦勝国への復讐熱をもたせ、ファシズムを醸成します。また世界恐慌に対処できず、枢軸国の侵略を開放しました。