世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

山川か東京書籍か

山川か東京書籍か

 教科書の良し悪しを判断するといっても、ここでは受験参考書の一つとしてどちらが良いか、という観点から判断するのであって、歴史叙述のあり方を問題にするわけではありません。
 また受験用にどちらか、ということであり、その場合どの大学に適合するのか、という観点も必要です。千差万別の大学の入試問題をここで網羅することは出来ません。そこで観点を東大に絞ります。そうすれば、東大タイプの問題でない他の出題のあり方からは、ちがう教科書の方が良い、という判断も出てきます。

 それと東大には東京書籍の方が良い、という評判があるので、いろいろ調べてみても、なぜ東京書籍が良いのか根拠を示したものはなく、良いらしい、という評判の評判しかありません。
 特にこの東京書籍を薦める論述の参考書としては山下厚『東大合格への世界史』(データハウス)があり、その引用した文章も含めて何も推薦する理由にならないことを明かしています(http://www.ne.jp/asahi/wh/class/goukaku_critic.html)。このわたしの記事の末尾に「著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。」
 この「明らかに」がこの文章の果たす役割です。
 そこで実際に出題された入試問題と教科書を付き合わせる、という方法をとります。いろいろな出版社の教科書はあるものの、ここでは山川の詳説世界史(2008年発行、以下「詳説」と略)と東京書籍の『世界史B』(2007年発行、「東書」と略称)を比較の対象とします。大中論述にあたる第1問と第2問が主たる対象です。

1.東大入試問題と教科書

 2011年度・第1問
 異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった……13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動き

 という課題に対して、山川はインドへの影響として、「仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用……ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設」と述べ、イベリア半島へは「高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった」と述べていて、「生活様式の多様化や変容に大きく貢献し」たことを書いてます。
 このうち東京書籍では、仏教衰退や建築への言及は一切なく、「サトウキビ、バナナ、オレンジ」については西アジアに入ってきたものとして述べているが、影響としては書いてない。もちろん「棉(木偏の原綿)」のことも記事はない。

 2011年度・第2問
 問(2) 明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら

 という課題に対して、山川は明朝の対応を「明は海禁をゆるめざるをえず」と書いているのに、東京書籍は「明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」とまちがった説明をしてます。緩和が正しいのであり、解除はしてません。明清が朝貢貿易という制限のきつい対策(海禁)をなくしたことは一度もなく、アヘン戦争敗北まで基本的には存続しました。

 2010年度の問題については、第1-3問のすべてで特にどちらが有利ということはなかった。双方とも書いてあるものと書いてないものは同じでした。

 2009年度の第1問(国家と宗教団体・信徒)に関して、中国・チベット関係の部分は「詳説」がピッタリの文章になっていることは以下の記述比較で判断できます。

「詳説」清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは,中国内地・東北地方・台湾であり,モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が,チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが,新疆ではウイグル人有力者(ベク)が,現地の支配者として存続し,清朝の派遣する監督官とともに,それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず,とくにチベット仏教は手あつく保護して,モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。
「東書」清帝国の広大な版図は,本部(直轄地)と藩部に分けて統治された。本部とは,首都圏の直隷省と地方の各省から構成され,藩部は,つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり,藩部を管理する理藩院が設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が,今日の「中国」という地域名称と重なり,また清朝の風俗や文化が,「中国人」のイメージのもととなった。

 ルター派・領邦教会制の説明でも「詳説」の方が合ってます。また「詳説」は「諸侯は……領内の教会」と分かりやすく書いているのに対して、「東書」は「領邦では,国家が」と分かりにくい。

「詳説」ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ,領内の教会の首長となって(領邦教会制),修道院の廃止,教会儀式の改革などをすすめた。
「東書」ルター派の領邦では,国家が信教を監督する領邦教会制が成立して,君主の支配権が強化された。

 2009年度第2問(a)「殷王朝の政治の特徴」という課題に対しては雲泥の差があります。
「詳説」殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。
「東書」殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 2008年度第1問に関して、指定語句の「第1回万国博覧会」は、
「詳説」19世紀のなかば,イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄の絶頂にあった。1851年には,のべ600万人以上が入場したロンドン万国博覧会がひらかれ,人びとに近代工業力の成果を誇示した。
「東書」本文に記述なし。右下にクリスタル=パレス(水晶宮)の内部を描いた絵があり、「1851年ロンドン開催の第1回万博は、鉄とガラスの巨大建築で、新しい工業中心の時代の開幕を告げた」と注があります。

 指定語句「総理衙門」について、
「詳説」朝貢体制のもとでは,外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため,特別に外交を扱う役所は設けられていなかったが,1861年にはじめて,外務省にあたる総理各国事務衙門が設置された。従来清朝の支配が名目的・間接的にしかおよんでいなかった地域に諸外国が手をのばし,19世紀の後半にこれらの地域はつぎつぎと清朝の影響圏から分離していった。
「東書」清朝は,外国使節の北京駐在を許し,外務事務をあつかう総理各国事務衙門(総理衙門)を設置して,対等な外国の存在を認める外交をはじめた。

 2007年度第1問(農業生産の変化とその意義)に関して、課題は「11世紀から」とあるのが何故か分かりますか? 「東書」で勉強しているひとはこの教科書の時代区分が曖昧なために判断できにくい。

「詳説」 封建社会は11〜13世紀に最盛期をむかえた。農業生産が増大し人口が急増すると西ヨーロッパは拡大を開始する。

 「詳説」も「東書」も各章のはじめに概説を説いているところがあります。「詳説」はワクでかこんであり、「東書」はカラーの写真の中で白抜きの字のところです。「詳説」のp.126にある「ヨーロッパの形成と発展」のところ、そして「東書」はp.138-139「ヨーロッパ世界の成立と変容」のところを開いてください。読むと詳説の明快さがわかるはすです。
 「東書」では、p.138-39の時代区分のところでは「10世紀を中心とする民族移住の激動のなかから,西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明らかな姿をあらわした。さらに,農業の発展や人口の増加を背景に,西ヨーロッパ世界は外部への膨張に転じるようになる」と書いていながら、時代区分ではないところでは(p.150)、「11世紀になると,気候が温暖になり,外部勢力の侵入による混乱もおさまって,西ヨーロッパの社会も安定してきた。……人口は増大し,包囲され萎縮していたヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる」と書いています。つまり10世紀と11世紀とでずれています。
 この曖昧さは他にも見られます。「東書」p.203に「明代の社会と経済」とありますが、「詳説」はp.169に「明後期の社会と文化」という題になっています。「東書」に書いてある内容は明朝約300年間全体に該当するかのように書いてありますが、実は明朝後半からの社会経済の変化を書いているのです。「詳説」が正しい題名で説明しています。この違いは軽くありません。1983年度の第1問「16〜17世紀の中国の新しい動き」が書けるかどうかに関わってきます。

 2007年度第2問・問(1)
 設問は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」でした。
 この問に「東書」に「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い」とあり、「詳説」には書いてない、と書いているひとがいました。
 しかし「詳説」にも書いてあります。「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた」とあり、「東書」の方がいくらか分かりやすい説明になっています。これは珍しい例です。

 2007年度第3問・問(10)「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」
「詳説」 ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。
「東書」 記述なし。
 
 2006年度第1問(戦争の助長と抑制)で指定語句「徴兵制」に関して、フランス革命戦争での記載は、
「詳説」ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は,強大な権限をにぎる公安委員会を中心に,徴兵制の実施,革命暦の制定,理性崇拝の宗教を創始するなどの急進的な施策を強行……
「東書」記述なし。

 以上の最近の例をみても分かるように、「東書」は記述量が少なく、適格性にも欠け、何より時代区分が曖昧であることの欠点をもっています。
 この内、記述量は少なくといっても「東書」独自の記述量の多い記事もあります。それはこの教科書が東西交流に重点を置いているためです。
 たとえば、「港市国家」という用語は「詳説」では1回しか出てきませんが、「東書」になると、なんと35回も出てきます。「海域」という用語は「詳説」では1回、「東書」では15回出てきます。東西交易に重点を置いている、特に海に置いている、という傾向が分かります。しかしこんなに必要はないですね。しつこすぎます。

 「詳説」p.120-122の「アフリカのイスラーム化」と「東書」p.120-121の「アフリカの古王国とイスラーム化」という題の記事とは同内容の記事ですが、前者は651字、後者は1067字で書いてあります。後者の「東書」にはアクスム王国の詳しい説明、ラクダの利用が前者にはない説明です。ここでも交易路のことや商品のことが強調されています。
 この記事の前の「詳説」p.119-120「イスラーム勢力の進出とインド」と「東書」o.120「イスラーム勢力のインド浸透」は同類の記事ですが、前者の「詳説」には「東書」にはない、ハルジー朝の地租金納化、そのムガル帝国への継承、仏教の消滅、ヒンドゥー寺院の破壊、バクティ、ヨーガ、都市民・カースト下層民へのイスラーム教浸透、ペルシア語への翻訳など、ほぼ同字数(「詳説」676字、「東書」570字)なのに豊かな内容が盛り込まれています。中でも仏教消滅とイスラーム教浸透は重大事のはずですが「東書」には載っていません。

 しかし「東書」に長所もあります。コラム記事です。女性参政権というコラム記事は2010年度の一橋第2問にぴったりです。また東西交流、中でも東南アジア史をよく出題する阪大の問題にも適合しています。東大には合わない。
 「東書」には写真・絵が「詳説」よりたくさん載っていて楽しそうです。「詳説」より大判であり、本文記事の左右にコラム以外の小さい囲み記事や写真が付いています。見る世界史としてはとても良いものです。

2.入試問題の特色と教科書
 東大の問題は広くグローバルな問題を出しているため、そういう点をよく説明しているのが「東書」だと勘違いした教師や学生達が「東書」を推薦しているとおもわれます。確かに「東書」は東西交流をさかんに説明していて著者たちが序文で強調していることも世界の一体化ということです。また港市国家についての記述が異様に多いこともこれを傍証しています。しかし東大の過去問は「交流(交易)史」ではありません。
 問題の特色がつかめていないために「東書」を推薦していると、わたしは見ています。


 2010年度
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。
 この問題は東西交流史ではありません。もちろん「国家をこえた」とあるように、他国との関係、他国への影響なしに「役割」は書けません。対等に二つの国々の関係だけを問うのなら交流史ですが、これはあくまでオランダを視点に置いて、かつオランダを影響の起点に置いて他国のほうが受身で影響を受ける姿があって、オランダの「役割」・貢献が言えます。それに、「中世末から……現代まで」と長い歴史を問ういるため、ヨコ(交流)でなくタテ(時間順)にある程度比重をかけないと完結しない問題です。

 2009年度
 世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して……
 この問題を交流史ととるひとはいないでしょう。比較です課題は。

 2008年度
 1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか……
 これは交流史ともとれますが、あくまでイギリスと関わった国々が、イギリスに「組み込まれ」また「対抗した」かを紋って編集することが課題です。「東書」の交流は経済に比重のかかったものですが、この問題は政治と宗教です。また「対抗」することを「交流」ととるひとはいないでしょう。

 2007年度
 11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。
 これは交流史ではありません。農業技術や生産の変化と意義です。

 2006年度
 戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて……
 3つの戦争について一つ一つ助長と抑制を書きます。交流史ではありません。

 と最近のものを読まれたら、広い問題ではありながら交流史でないことがわかります。ばらばらなデータを一つのテーマに合わせて編集する能力を見ようとしています。ちがう国や時間のものを比較したり意義づけたりする編集能力です。こういう問題に対応するために交流史の多い「東書」を学んだから強くなる、ということはありません。わたしが添削して合格していった学生たちは「東書」をもっていない学生もいました。

アマゾンの汚い操作

 これは『世界史年代ワンフレーズnew』の現在の表示画面ですが、下段の表示写真は2月23日のものです。このように操作して売れないようにしています。スマホでも同じ表示にしています。これはO社がアマゾンに金を払って配置換えをしているものです。なぜO社なのかはここでは明かしません。腐敗した会社同士の馴れ合ったすがたです。拙著『世界史論述練習帳new』も同じ操作をして販売の妨害をしています。アマゾンは大手出版社と組んで自費出版本をつぶそうとしています。大企業のすることですかね?

 またまた動かしました。以下。古い物をトップにもっていく理由は何でしょう?(3月9日)。パソコンでは直しましたが、スマホでは以下のままです(3月11日)。

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阪大2018世界史(外国語+外国語以外の第3問)

(Ⅰ)
(1) 次の文章は古代インドの世界観を伝えた、玄奘の『大唐西域記』の一節を抜粋したものである。これを読んで、以下の問1〜問4に答えなさい。

 時によって、転輪王(古代インド思想における理想的な王を指す概念)が世に出てこない場合は、贍部洲(ぜんぶしゅう、人間世界)の地には四人の君主が出る。南方には象主がおり、その地は暑さがきびしく湿気が多くて、象の生育に適している。西方には宝主がおり、そこでは海に臨み、財宝が充満している。北方には馬主がおり、その地には寒さがきびしく、馬の飼育に適している。また東方には人主がおり、気候は穏やかで人が多い。
 故に、象主の地は、人々が剛直で気骨があるとともに学問に熱心であり、様々な技芸をよく身につけている。また、服装は布きれを横ざまに巻きつけ、右肩にを露わにしている。(中略)
 宝主の地では、形式や儀式が重んじられずに、人々は財宝を貴んでいる。服は短く左襟前にし、髪を切り髭をのばしている。城郭をそなえた居所をつくり、①商取引のを利を追っている
 馬主の地の習俗は、生まれつき粗野で荒々しく、人情は殺戮を意に介さない。フェルトの帳(とばり)に、穹廬(テント)に住まいし、鳥の如く此処(ここ)かしこと居を移し、草を追い牧畜をしている。
 人主の地は、その気風は機知に富んで賢く、仁義がはっきりしている。人々は冠をつけ帯をしめ、右襟前の衣服を着る。(中略)②君臣上下の礼、③法度典章・文字車軌のとりきめに至っては、人主の地はもはや加えるものがないほどである。(水谷真成訳『大唐西域記』平凡社、1971年を一部改変して引用。)

問1 歴史上、「世界」に対する多様な見方が存在するが、中でも左記の世界観はアジアを客観的に風土によって4つの地域に分類している。玄奘がインドに出発した当時(629年ころ)、「人主」の地は唐朝が支配していた。その他の3種[象主・宝主・馬主]の地は、それぞれどのような王朝ないし国家によって統治されていたか。その名前を書きなさい。

問2 「四主」からなるアジアでは、他民族・他宗教からなる帝国がしばしば成立し、そこでは「内部」と「外部」にまたがって、いろいろな強さや形態の支配が行われていた。
 (1) 下線部②の規範を持つ「人主」の地では、どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し、また外交関係を結んで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に述べなさい(150字程度)。

 (2) 下線部③に関して、北朝期から唐代にかけて形成された諸制度は、周辺国家にも継受された。こうした制度のうち、日本に取り入れられたものを具体的に1つ挙げよ。

問3 「宝主」の地では、7世紀後半に新たな帝国が成立し、それまでと異なる世界観が広まるとともに、その社会や国家のあり方も大きく変化した。どのような社会や国家となったか述べなさい。その際、解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)
   シャリーア  ウンマ  カリフ

問4 「馬主」の地では、「宝主」の地の周縁より下線部①の特徴をもつ人々が移住し、彼らのコロニーが形成された。そうした彼らの7〜9世紀の「馬主」の地における政治・宗教・文化面での貢献について述べなさい(120字程度)


(Ⅱ)
 次の文章は、とある世界史の授業での芸術好きなAくん、中国好きなBさん、先生の会話である。その内容をたどりながら、以下の問1と問2に答えなさい。

先生:今日の授業では、みんなの知識を活かしながら、異なる時代、異なる場所で描かれたふたつの孔子の像を比べて、描かれ方の違いを議論してみましょう。図1は8世紀頃の中国で活躍した呉道玄が描いた《先師孔子教像》と題された孔子像で、図2は1687年にパリで出版された Confucius Sinarum Philosophus という本の挿絵にある孔子像です。この本の名前はラテン語で「中国の哲学者孔子」という意味です。

 

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Aくん:図1は版画のようだね。中国や日本の絵画に似たような絵があるから、たくさん複製されたのだろうね。この図には孔子だけが描かれているけれども、右上には「徳侔天地 道冠古今 刪述六経 垂憲万世」という漢文が書かれているね。Bさん、どういう意味か教えてくれない?

Bさん:「孔子の徳は天地に等しく、彼の教えは古今に比べられるものはない。彼は六経を編んで、永遠に手本となるものを残した」といった意味かな。六経というのは儒教の経典のこと。唐朝の時代になると、そのうち五つの経典の解釈が『五経正義』にまとめられたと習ったわ。

Aくん:図1は孔子を褒め称えた絵のようだね。そういえばインターネットで中国や台湾のホームページを見ていたときに、「徳侔天地 道冠古今」といった言葉が掲げられている寺院のような建物の写真を見たことがあるよ。

Bさん:その建物は孔子を祀っている霊廟の事じゃない? 孔子廟といって、中国や台湾だけでなく、韓国やベトナム、そして日本にもあるのよ。建物といえば、図2の孔子は図1と違って建物の中に描かれているわ。

Aくん:僕もそのことが気になっていたんだ。なんとなくルネサンスに活躍したラファエルが描いた《アテネの学堂》と似ている気がするんだよ。

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Bさん:《アテネの学堂》は、プラトンやアリストテレスを中心に古代ギリシアの哲学者たちが一堂に会している上だったよね。そういえば図2をよく見ると、孔子の字(あざな)である「仲尼」と言う文字を中心に、壁画の面には儒教の経典や孔子の弟子たちの名前も漢字で書かれているわ。

Aくん:もしその弟子たちが人として描かれていたら、図2は《アテネの学堂》の中国版といった感じになるかのかな? 先生、図2の「国学」という漢字の下に“Gymnasium Imperij”と書かれていますが、どういう意味ですか?

先生:Aくん、いきなり答えだけを求めないように。現代社会の授業で世界の教育制度を調べたときに、ヨーロッパの中等教育機関にギムナジウムという学校があったことを覚えていませんか? それから英語には“Imperial”や“empire”といった単語がありますよね?

Aくん:だとすれば、《帝国の学堂》といった意味かな。それにしても図1は孔子が崇拝の対象のように描かれているのに、図2は古今の知識が集まる「帝国の学堂」の中に孔子が描かれている。図2の頃のヨーロッパではアジアとの交流も盛んになり、フランスでは学士院のような組織もつくられていたことを思うと、図2は当時のヨーロッパの学問を反映した孔子像なのかもしれないね。

Bさん:それはヨーロッパの文化に詳しいAくんらしい意見ね。でも中国でも清朝では『四庫全書』が編纂されて、漢字で書かれた古今の書物が集められたと習ったわ。古今の知識を集めたのは近世のヨーロッパだけではないのよ。でも不思議ね。『四庫全書』がまとめられた清朝にせよ、『五経正義』がまとめられた唐朝にせよ、異民族の王朝だと習ったのに、なぜ中国古来の書物をまとめたのかしら?

先生:良い質問ですね。清朝だけを例にとっても「異民族の王朝」という非中華的なイメージと「歴代中華王朝の最後のもの」というイメージの両方がありますよね。それでは宿題として、このような二つのイメージの共存がどのような清朝の特徴から導き出されるかについて調べてきてください。これで今日の授業は閉じることにしましょう。

問1 この会話の内容を踏まえながら、図1が描かれたころのアジア、図2が描かれたころのヨーロッパ、それぞれの学問・思想をめぐる文化的な背景について述べなさい(200字程度)

問2 下線部で先生が与えた宿題に対する答えを述べなさい(180字程度)。

 

(Ⅲ) 次の資料1と資料2を参照し、以下の問1と問2に答えなさい。

 資料1 ドイツ連邦共和国大統領ワイツゼッカーの演説(1984年6月11日)からの抜粋
 今日、私たちには挑むべき挑戦が二つあります。一つは、第三世界に関するものです。マーシャルは、飢餓、貧困、絶望そして混乱に立ち向かうと述べました。彼の計画は、被援助国が自力では困難を乗り越えられるように手助けをしました。彼が述べた「ヨーロッパ」という言葉は、ほぼ現在の「第三世界」という言葉に置き換えて理解することができます。(中略)今日のもう一つの挑戦は、ヨーロッパ人として、ドイツ人として、特に私たちの心と責任に迫る問題──東西関係に関するものです。(中略)それは、東も西も単独では解決できない、世界の人口問題、飢え、自然破壊、科学技術の発展に伴う倫理上の問題、東西の平和な関係の構築に関する多くの問題です。マーシャルの時代とは違い、巨額の贈与や借款の供与は不可能ですが、今日の東西関係には質的に全く新しい協力が可能です。(中略)私たちは、40年前にマーシャルが世界に送ったメッセージの遺産に恥じないような行動をとることを求められているのです。

 資料2 1990年国債ドル表示の1人当たり実質GDPの推移

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(アンガス・マディソン著、金森久雄監訳『世界経済の成長史 1820〜1992年』東洋経済新報社、2000年より作成。)

問1 マーシャルプランによる巨額の贈与や借款の供与は、西ヨーロッパ諸国の戦後復興のために大きな役目を果たしたが、資料1には、プランの実施が後世に及ぼした多様な影響が述べられている。その影響とは何であったか。資料1と資料2から情報を読み取って、1947年〜1970年のヨーロッパにおける経済と国際関係に焦点を絞り説明しなさい(150字程度)。

問2 資料1には、第三世界を援助の必要性が示唆されているが、第三世界の中には自力で人々の生活向上を目指そうとする諸国間協力の動きもあった。アフリカ統一機構(OAU)の発足などはその一例である。こうした動きは植民地に一挙に新興独立国が誕生したことにも関連している。資料2にの中でいわゆる「アフリカの年」に植民地から独立した国はどれか国名を一つ答えなさい。

………………………………………

外国語以外の第3問

(Ⅲ) 次の文章を読んで、以下の問1問2に答えなさい。

 1920年、ちょうどハジ・ミスバー*が中央ジャワの砂糖地帯で革命を目指して政治運動を展開していた頃、植民地政府はその地で初めての「学術的な方法に基づくセンサス(人口調査)」を実施したのだ。その実施の時期は同時代の世界と比較すれば、わずかに遅かったことは否めないのだが、そうひどく遅れていたわけでもなかった。かつて新生独立国家アメリカ合衆国が1790年にあたふたと国民的人口統計を行ったことで、学術的手法の萌芽となるような行政府主導のセンサス活動に着手した初めての国家となった。それはフランス、オランダ、イギリスに10年ばかり先立つ出来事であった。
 だが、1850年に至るまで、算出は世帯単位で行われ、世帯主の名前のみが記録されていた。1880年になって初めて、ワシントンに連邦政府の国勢調査室が設置されたが、正式の政府内の部局として改編され、国家の常設専従機関になるのは1902年を待たねばならなかった。しかし、世界を見渡してみるならば、第一回国際統計学会議がブリュッセルで開かれ、センサスで得られた調査データを国家間で比較できるようにし、統一的な調査内容と手法を達成するための基礎となる「学術的」な条件規定を制定する決議を採択したのは、やっとのこと1853年である。つまり、ヨーロッパがナショナリズムの動乱でおおわれた1848年革命の余波の最中のことだったのである。
 (ベネディクト・アンダーソン著、糟谷啓介ほか訳『比較の亡霊─ナショナリズム・東南アジア・世界』作品社、2005年より引用。)
 *ハジ・ミスバー(1876-1926)……オランダ領東インドで活躍したムスリムの共産主義者。

問1 この文章で記された時期に欧米諸国で人口調査が確立されていった背景について、政治体制や社会体制の変化と関連づけながら述べなさい(120字程度)。

問2 本格的人口調査は、西欧諸国の植民地が数多く存在した東南アジアでも、19世紀以降に実施され、民族・人種的分類に基づくデータ収集が行われた。この人口調査が、植民地経営や、その地域におけるのちの政治動向に与えた影響を述べなさい(100字程度)。

2017年11月模試雑感

A模試
第2問
問(3) 在地の伝統文化が、他地域との交疏を通じて、さまざまな変容をみせることがある。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a) ・(b)を付して答えなさい。

(a) 中国を訪れたイエズス会宣教師は、ヨーロッパの天文学・数学・建築などを伝え、明末から清代にかけての中国に文化的影響を与えた。このことについて、3行以内で説明しなさい。

 課題は「などを伝え……影響を与えた。このことについて」でした。つまり宣教師が伝えたことと、中国側の受けた影響の双方が「このこと」です。

①ヨーロッパの天文学をもとに『崇偵暦書』が作成され、清代の時憲暦につながった。……天文学が中国側が与えられた「影響」です。

②マテオ=リッチは徐光啓と共にエウクレイデスの幾何学を翻訳し、カステイリオーネが円明園の設計に加わった。……これは宣教師が伝えたことそのものです。

 ①に書かれたことだけが中国側への影響は変です。教科書(詳説)には「明末文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりである。『本草綱目』(李時珍著)、『農政全書』(徐光啓編)、『天工開物』(宋応星著)、『崇禎暦書』(徐光啓ら編)などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響をあたえた。当時の科学技術の発展には、16世紀なかば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要な役割をはたした」と書いてあります。つまり実学と呼ばれるものの発展は宣教師の影響があります。
 また「中国では、明末清初期以降、イエズス会宣教師の渡来による「西学」の流入が、清朝考証学の生成に対しても一定の影響や作用を及ぼしたが」(辻本雅史、徐興慶 編『思想史から東アジアを考える』)とあるように、イエズス会宣教師がもたらした西欧の広い理知的な学問と技術が、中国人学者を刺激して実証的な考証学を産み出しています。これらのことを解答文に入れるべきでした。

B模試
 問「クリミア戦争後から、2度の革命が勃発したロシア帝政下で採られた農村近代化政策とその影響、およびソヴイエト政権が革命直後に行った経済政策を説明しなさい、その際、次の語句を必ず使用し(指定語句→ミール(農村共同体) 社会革命党 戦時共産主義)」というものでした。
 解答文中に「農民は工業化を支える労働力を提供したが」とあり、
 解説文には「農奴解放令のポイントは次の4点である
①農奴の身分は解放され(自由民となり)、移住も可能となる

 これらの解答と解説にまちがいがあります。
 まず解答に「農民は工業化を支える労働力を提供した」とあるのは、イギリスのエンクロージュアと間違えており、ロシアはこれから工業化を始めようという時(本格的には1890年代から)に、行くべき工場がまだ建っていません。もともと農民は解放令以前から地代を稼ぐために都市に出稼ぎに行っていましたが、その際も、「国内パスポート」を持って行っていましたが都市に定住する権利はありませんでした。なぜならミールから離脱することはできなかったからです。こういう状態を「移住も可能」とは言いません。山川・各国史『ロシア史』p.314には次のように書いてあります。

ロシアの農奴制は、農民に対する地主の支配と、農民の土地への緊縛という二つの要素のうえに歴史的に発展してきたものであるが、1861年の農奴解放が前者を廃しても、後者を手つかずに残したことは注目しなければならないところである。解放された旧農奴は、従来存在していた共同体を基盤にして組織された村団の一員として、村会の承認なしには村団から脱退も家族の分割も自由にはおこなうことができず、分与地の割替や払い戻し金の支払いも義務づけられたのである。換言するならば、ロシアの農奴制は形をかえて20世紀初頭まで残ったのであった。

 別の研究書(『ソ連経済(構造と展望)第3版』P.R.グレゴリー、R.C.スチュアート共著、教育社 p.34)では、

 農村から都市への移動は制限されていた。都市で働くことのできた小農も彼の主人にその報酬の大きな部分を支払う義務を負うだけでなく、彼の主人から村に帰るよう命令されれば帰村しなければならなかった。これは西欧の慣習で農奴が都市に住む自由を得ていたのとは異なっていた。

 有償の支払いは連帯責任であり、ミールを離脱することは認められていません。教科書に「工場労働者を創出して工業化への道を開こうとするものであった(東京書籍)」とあるため、これをそのまま、すぐ実現したかのように勘違いしたようです。実現するのはストルイピンが借金を棒引きにし、移住の自由を与えた農業(土地)改革(ミール解体、1907)からです。

『センター世界史B各駅停車』の発売

 絶版になっていた『センター世界史B各駅停車』の販売です。資金上のことから自費出版は無理なので、このブログから売りだすことにしました。
 以前の紙の本は、税込み、2880円で販売していました(http://books.parade.co.jp/category/genre05/978-4-434-07159-1.html)が、これをPDF書類で、1000円で販売します。
 まず下の見本ページをご覧になり、気に入ったら、「先史・中国史(1)を送ってください」とメールをください(whnashi〇yahoo.co.jp 〇は@に変換)。送信された36ページを見て、全部手に入れたいと思われたら、1000円を以下に振込んでください。折り返し、つづきの中国史ほか全文をメールに添付して送ります。全部で455ページ、23.2MBあります。PDF書類なので、スマートフォンにダウンロードして見ることもできます。この参考書の評判については、アマゾンにレビューが残っていますから、ご覧ください。

 ゆうちょ銀行の振込番号
  記号 14480-2 番号 29455851
  加入者名 「世界史教室 代表者 中谷 臣」

 紹介してくださったブログも以下にあります。
 http://manaviism.com/analysis/reference_book/center-sekaishi-kakueki/
 内容の基本的な点は以前のものと変わっていませんが、最初の出版から10年以上経っていたるため、気がついた点(誤字脱字、説得的でない文章)、時間の経緯で発見されたり追加しなくてはならないことも現れました。それらを修正・追加しています。

 目次
1:先史時代
2:中国史
3:朝鮮・日本・琉球史
4:インド史
5:東南アジア史
6:西アジア史
7:アフリカ史
8:ギリシア史
9:ローマ史
10:中世西欧とビサンツ
11:近世西欧
12:近代西欧
13:西欧現代史
14:東欧史
15:アメリカ大陸史

 センター試験向きにまぎらわしい用語の覚え方、正誤で問われやすい内容の判定の仕方を教えています。センター試験必須用語は赤字(98%ここから出る)で示し、経済・文化の用語と解説をしています。

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  『東大世界史解答文.txt』も販売しています。25カ年分(2011-1987年)のすべての問題(第1問・第2問・第3問)とその解き方・解答文、それに12〜17年度までの解答文です。振込先は同じです。

東大模試雑感

A模試
 問題

 8世紀頃のユーラシア大陸では、商業ネットワークの拠点でもある大都市を都とする3つの帝国が繁栄した。それぞれの帝国の権力のあり方と、それを支える法体系や宗教・文化は、支配地域のみならず周辺の地域や人々にも影響を与え、特徴ある各地域世界を形成する基盤となった。また、他の地域世界の成立に影響を与えることもあった。3つの帝国を結ぶネットワークも成立し、交易活動を担う勢力が活躍して、帝国の都はさまざまな言語が行き交う国際都市となった。
 以上のことを踏まえて、8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し、必ず次の8つの語句を一度は用いて、その語句に下線を付しなさい。

 儒教 シャリーア コンスタンティノープル
 スラヴ人布教 啓典の民 朝貢
 ダウ船 カール戴冠

 解答

長安を都とする唐は、仏教を保護し国家の安寧を図る一方、儒教を体制教学と定め皇帝を天子とし、律令を整備した。周辺諸国とは君臣関係の冊封や親族関係を結び唐中心の国際秩序を構築し、朝貢を促した。日本や朝鮮は、朝貢使節とともに留学生を派遣し仏教・儒教・律令・漢字を移入し、東アジア文化圏を形成した。バグダードを都とするアッバース朝は、カリフが政教の両権を握り、イスラーム法であるシャリーアを整備した。信徒の平等を実現し非アラブ人ムスリムのイラン人などを登用し、ユダヤ教徒・キリスト教徒を啓典の民として処遇し、アラビア語を共通語とするイスラーム世界を確立させた。コンスタンティノープルを都としギリシア語を公用語としたビザンツ帝国は、皇帝がキリスト教を国教として教会組織を影響下に置き、ローマ法を整備・体系化し、スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立したローマ教会では、教皇がビザンツ皇帝権からの自立を求め、イスラーム勢力を退けたフランク王国に接近し、カール戴冠でラテン語・カトリックを特徴とする西欧世界を形成した。長安とバグダードを結ぶ内陸交通路では、突厥やウイグルの保護下でイラン系ソグド人が活躍し、のちムスリム商人も進出した。ムスリム商人は海の道を通ってダウ船で広州に到来しコンスタンティノープルと東方世界は陸路と海路で結ぼれた。

▲コメント
 課題は「8世紀頃のユーラシア大陸で繁栄した3つの帝国と、それらが各地域世界の形成に果たした役割について、同時代における商業勢力の活動にも言及しつつ」でした。このうち「帝国と、それらが各地域世界の形成」にかかわる内容は導入文の「法体系や宗教・文化」であるらしい。
 解答文で「法体系」にあたるものは、唐「律令」、アッバース朝「シャリーア」、ビザンツ帝国の「ローマ法」とあり、フランク王国には法の言及がありません。それと「3つの帝国……3つの帝国」とあるのにここには4つの帝国が書いてあります。なぜ? 東大過去問に似た時代のものとして、1981年の「9〜10世紀西欧・東ローマ帝国・イスラム世界の対比」というものがありました。しっかり3つの帝国名を指定しています。なぜこの模試はそうしなかったのか? 不明です。「王国」だから「帝国」ではない? 800年も「8世紀」の中に入るし、「戴冠」の後の文章も他の3つの帝国同様のこと書いています。3と4のちがいが分からなかった? もしこの問題文に合わせた解答文にするとすれば、フランク王国のサリカ法典(サリカ法)をあげなくてはならないはず。
 この法とともに唐「皇帝を天子」、アッバース朝「カリフが政教の両権を握り」、ビザンツ「教会組織を影響下に置き」と君主の権力について言及があり、やはりフランク王国の権力については書いておらず、「戴冠」で示唆したつもりかな? どの帝国も戴冠はしているはずですが。
 「宗教」については、唐「仏教を保護……儒教を体制教学」、ビザンツ「キリスト教を国教……ギリシア正教」、フランク王国「カトリック」としています。やはり4つ書かせたかったのか?
 「文化」については、唐「仏教・儒教・律令・漢字」、アッバース朝「アラビア語」、ビザンツ「ギリシア語」、フランク「ラテン語」と唐と比べて言語ばかり書いて「文化」にしています。公用語だけで「文化」? 要するに過大な課題だったということです。フランク王国に言及しなければもっと書けたのに。
 対外関係は「各地域世界の形成に果たした役割……他の地域世界の成立に影響」にあたります。唐「周辺諸国とは君臣関係の冊封……東アジア文化圏を形成」、アッバース朝「信徒の平等を実現し……イスラーム世界を確立させた」、ビザンツ「スラヴ人布教でギリシア正教圏を拡大させ東欧世界の基盤を築いた。一方、聖像問題でコンスタンティノープル教会と対立」、フランクは「西欧世界を形成」の他は書いてありません。
 最後は「同時代における商業勢力の活動」という課題についての解答文です。唐とアッバース朝をつないた「ソグド商人」と「ムスリム商人」、「ダウ船」とし、フランク王国が含まれるのかどうか定かではありませんがコンスタンティノープルは陸路と海路で「結ばれた」として誰が担手「商業勢力」なのか言及していません。
 大風呂敷の課題に小さい中身。自作問題に自ら応えられなかった、という「模範」答案でした。

 

B模試

 問題

 13〜14世紀のユーラシア大陸では、モンゴル帝国のもとで広域的な商業ネットワークが構築されたと考えられているがそれに先立つ時代すでに複数の地域的商業ネットワークが成立していた事実を忘れてはならなし、なかでも11世紀以降の西欧と宋代の中国で農業・商工業が発展した結果、ネットワークの拠点となる商業都市の成長とこれに伴う社会変化がもたらされた。以前とは異なる新たな支配層が台頭し彼らを中心に新しい文化も生まれたのである。
 以上のことを踏まえて11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい。解答は、解答欄(イ)に20行以内で記述し必ず次の8つの語句を一度は用いて、その詩句に下線を付しなさい。

 形勢戸 交子・会子 三圃制 十字軍
 スコラ学 鎮・市 特許状 木版印刷

 解答

西欧では森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した。十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した。都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した。また都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった。中国では長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した。唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した。都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った。北方民族に圧迫された宋が戦費確保のために物資や税を集めたこともあって貨幣経済が発達し銅銭のほか、交子・会子が紙幣として流通した。新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた。

▲コメント

 課題は「11世紀からモンゴル帝国のもとでのネットワーク成立に至る間の西欧と中国を対比させながら、二つの地域の農業・商工業と都市の発展、および新たな支配層の台頭といった社会変化について論じなさい」でした。
 ネットワークを使う必要性がよく分からない問題文ですが、ただ問われている第一のことは「対比させながら」です。
 「対比」とは「二つの物を比べて、その違いを見ること」(新明解国語辞典)です。「対比させながら」ということは西欧と中国を比べて、その違いを説明することです。英語では contrast にあたります。
 解答文を見てみると、西欧は「森林の開墾、三圃制や有輪犁の普及により農業生産力が増大し余剰生産物の取引から商業が発展し、定期市が成立した」にたいして中国は「長江下流械が囲田など干拓地の増加や占城稲の普及で穀倉化し茶や桑などの生産も広まって客商が活躍した」と。
 ここに「違い」が示されているでしょうか? 「森林の開墾」と「長江下流械が囲田など干拓地の増加」は違いでしょうか? 穀物生産地の増加という点で共通しています。それぞれの歴史の名称はラベルであって中身の違いまでは示していません。畑作と水田という違いが示されているわけでもない。「三圃制や有輪犁」と「占城稲」という技術と新品種の導入という内容のちがうことを並べて、どんな違いを示しているのか? 「商業が発展し、定期市」と「客商」はともに遠隔地商業のことで類似点です。どこに違いの説明があるのか?
解説文を見ても違いは示されていません。

 西欧の「十字軍などの影響で毛織物を中心に遠隔地商業が盛んになると、領主の許可を得た商人や手工業者の移住により定期市が中世都市へと発展し金貨や銀貨による貨幣経済が普及した」と、中国の「唐末に商業統制が崩れて以降、草市と呼ばれる定期市が域外に現れ、商業都市である鎮・市に発展した」とあります。西欧では遠隔地商業の発展要因として十字軍があげてあり、中国ではそういう外的要因がなく、市内の規制が崩れたといきなり書き、西欧では中世都市への発展と金貨・銀貨の流通が書いてあり、中国では鎮・市のことを書いています。どういう「対比」がここで成立しているのか? 西欧の金貨・銀貨に対して下の方で「交子・会子が紙幣として流通した」としていて対比にしているようですが、本来、解答文は上に書いた順に下でも書かないと、採点官に「対比させる」つまり対比しているかどうか探させることになり、こういう順を乱した書き方はマイナスです。解説文に「分野別に順を追って書く」と自ら書いているのに。
 金貨銀貨の西欧と紙幣の中国の対比は成り立ちますが、中国は銅銭の流通が主であり、西欧の金貨銀貨とてその純度は低く銅貨に変わらないものでしたから、対比するほどのものでもない、と言えます。中国でも宋代には「銅銭のほか金銀も地金のままもちいられ(詳説世界史)」とあり、それほどの違いはないでしょう。中世西欧でも金貨銀貨を使ったのは一部の人たちでしたから。
 また「十字軍に対比できる、物資の流通を促した宋代の軍事行動は、遼・西夏などの遊牧国家に対抗する戦費や物資の調達である」と解説文にありますが、これは「対比=相違点」になるでしょうか? 類似の軍事行動です。このあたりでこの作問者が「対比」という言葉を「対応 correspond」「類似現象 similar phenomenon」と混同していることが次第に分かってきます。

 西欧では「都市では商人ギルドが市政を掌握し同業組合であるギルドが商工業を規制した。領主から特許状を得て自治権を獲得した都市は同盟を結んで領主に対抗しイタリアでは周辺部まで支配するコムーネが、ドイツでは皇帝直属の帝国都市が成立した」に対して中国では「都市では陶磁器や絹織物などの手工業も発展して、商人は行、手工業者は作という同業組合を作った」とあります。西欧では生産した物が何か書いてなく、中国では「陶磁器や絹織物」と商品名をあげているのは、どういう対比なのか? 組合は「ギルド」と「行、……作」とあげ、西欧では「自治権を獲得」と書いていても中国の行・作がそれを得られなかったことは、解説文には書いてあるものの、この解答文に書かなかったら「違い」にならなのではないか? それは読み取ってくれよ、という言い訳は解答文として失格です。対比は鮮明さが大事です。
 都市同盟は中国の場合はどうなのか、何も言及がありません。中国と対比しようがないコムーネや帝国都市をなぜ書いているのか? 対比しにくいものは省くべきです。

 西欧の「都市では聖職者がラテン語でスコラ学研究や写本制作を行い、彼らの学ぶ場が大学の起源となった」にたいして中国では「新興地主層の形勢戸が佃戸を使役して土地経営を行う一方、その子弟は科挙に合格して徭役免除などの特権を持つ士大夫となり、宋学を発展させた。木版印刷の普及が科挙や宋学の発展を支えた」とあり、これは対比でしょうか? 
 「支配層」として聖職者と形勢戸をあげていますが、この対比は適格でしょうか? 中世西欧の支配層の大半は剣をもった領主層であり、聖職者を兼ねる領主もいますが、たいていは文盲の「戦う者」たちです、それと形勢戸は対比できますが、一部の聖職者で対比は無理でしょう。
 スコラ学と宋学は対比に解説文ではしていますが、いったい二つの学問にどういう相違点があるのでしょうか? ラベルが違うことは中身の違いを表わしません。骨品制とヴァルナ制と並べて、違いを示したことになる? そんなことはありません。スコラ学も宋学も既成の身分秩序を正当化する封建思想であることは共通しているのでは?
 解説文では「宋代の木版印刷に対応できる西欧の出版は写本である」と書き、やはり「対比」と「対応」を混同しているようです。この解説文はむしろ「対応」のところは「対比」がかえって良いとおもいますが。宋代には活版印刷術の発明もありましたが、木版印刷が主流でした。

 解説文の終わり頃に「以下のような要素が並べられるだろう」と採点基準らしいものが33個書いてありますが、不思議なことに「対比」したかどうかを検討する箇所はどこにもなく、それを採点するつもりもないことが分かります。だらだら西欧と中国について指定語句をちょっと説明しながら書いたら、ある程度の得点にたっすることが分かります。そんなことでいいんですかね?