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疑問教室・中国史〔元朝まで〕

中国史〔元朝まで〕問Qと答A

Q1 あるブログに、「鉄製農具の出現によって「耕地は従来の山麓の湧水地帯や氾濫の恐れのない河岸の低地から、広大な黄土平原に拡大された」この点で、中谷臣『世界史論述練習帳 new』(パレード)の資料編(p.176)の京大1991年に対するコメント「天水高地農耕→灌漑平地農耕」という指摘は、灌漑平地農耕への変化はいいとしても、その前を「天水高地農耕」とまとめるのには少々疑問……とあるのですが、「天水高地」はまちがいではありませんか?

1A そのブログと引用された文章は狭い見方ですね。「天水高地」は言い換えれば、旱地(乾地)農法による黄土台地(黄土高原)ということです。この広大な高原(標高約1000〜1500m)で、「湧水地帯……河岸の低地」だけで生きていけるかどうか考えたらいいのです。
 たとえば、「周の支配領域である華北の地は雨量が少なく、大規模な灌漑工事の行なわれる戦国時代までは、降水による水分を最大限維持して畑作を行なう旱地農法が主で」(堀敏一他著『概説東洋史』(有斐閣選書)の中の「中国古典文化の形成」(p.19)とあります。また「黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活のできる場所ではなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵が選ばれた」(ニッポニカ「黄河文明」の項)のです。
 また中国人研究者の著した本には「古代の北方畑作地帯は、主として秦嶺と淮河以北の広大な領域を指す。この地帯の降雨量は少なく、その分布は不均衡で、常に旱魃の脅威を被り、これらの特色が、この地帯の土壌耕作の中心課題が保沢防旱であることを決定した。われわれの先人たちはこれらの特色を熟知し、長期にわたる旱魃との闘いの中から豊富な経験を蓄積してきた」(郭・曹・宋・馬共著、渡辺武訳『中国農業の伝統と文化』(農文協))と記して、土地に則した耕作・時期に則した耕作・作物に則した耕作と種々の方法を詳述しています。粟・黍という華北の作物は乾燥・半乾燥地帯に適した作物でした。「仰韶文化期の社会では、アワを主として、一部では稲や野菜を作る乾地農耕を行なう」(『アジアの歴史と文化1 中国史─古代』同朋舎出版、このシリーズは京大教授たちの執筆)。
 また黄土台地を畑としてつかったことが結果的に黄土を砂漠化したことを明らかにしたのが上田信著『森と緑の中国史』(岩波書店)でした(p.106)。
 これはなにも中国でなくても、日本でも西アジアでも、初めの農耕は天水・高地であることは常識的なことです。たとえば、「日本の灌漑」については、「水田開発がもっとも早く行われたのは、現在のような大河川下流部の平たん地ではなく、きわめて単純、小規模な、あるいは自然のままでも容易に引水しうるような谷間の小平地や山麓部であり、以後、時代が下るに従って平地に進出した。……天水や谷間の渓流を利用しての水田であったことが多い」(平凡社百科事典)。人類最初の農耕遺跡といわれるイェリコやジャルモも高地(標高約800m)にあります。仰韶文化の代表的な遺跡・半坡村は厚い黄土からなる台地の上にあります。これは東大の過去問もあります(1970年第3問)。教科書(詳説)では「初期農耕は雨水にたよる乾地農法であり、肥料をもちいない略奪農法であった」と“文化から文明へ”に書いてあります。


Q2 中国ではいつ頃から絹織物、綿織物を作っていたのですか? あと、毛織物は作ってなかったのですか?

2A 絹織物は仰韶文化のときからつくっていますから古い。中国はほんとに古くから絹の国なのです。
 綿織物は宋の時代からですが、政府が大々的につくらせたのは元朝のときです。北の寒いモンゴル人が中国の綿織物が気に入りつくらせました。また明朝の永楽帝が漠北親征のときにつくらせて兵士の寒さを防いでいます。絹織物とともに大衆的な商品としてつくりだすのは、明朝の後半16世紀からです。
 毛織物は動物の「毛」を編んでつくるものですから、毛織物のない人間の世界はないといってもいいでしょう。モンゴル人やインディオなどでも、かれらの歴史とともに古いでしょう。中国もいつとはわかりませんが、古くからあるようで、記録には南北朝からあります。唐代の実物が出土していますし、正倉院には唐や新羅製の毛織物が保存してあります。


Q3 「万里の長城」はほんとに「万里」あったのですか?

3A 始皇帝のころの長城は調査の結果では、約5000kmあったことが分っています。現在の1里=4000mで換算すると「万里」はなかったことになりますが。しかし始皇帝の時代は1里が400mです。「0」がひとつ少ないのです。これで計算すると約1万2000里になり「万里」であったことになります。


Q4 讖緯(しんい)説・五行説とむすびつく赤眉の乱は宗教的農民反乱とみなすべきですか、みなさないべきですか、また、農民の反乱といってよいでしょうか。

4A 一般には農民反乱ととるはずです。東大の教授たちが書いた新版の『世界史小辞典』にも農民反乱と書いてあります。宗教的かどうかは読んだことがありません。もともと海賊から始まってそれが陸の内乱に発展しているので宗教はないようにおもいます。なにかまとまった宗教組織とかかわるとはおもえません。


Q5 南北朝以前の大土地所有者への課税です。漢代のころから、徐々に大土地所有が始まっていくように思えますが、漢代に大土地所有を拡大していった者への課税は行われなかったのでしょうか。

5A もちろんあります。始皇帝の時代の過酷な税制(泰半の税は3分の2)を改めて、所有面積に応じた基本原則はずっとあり、地主に対して、平均して高祖は15分の1にし、景帝のときには30分の1、後漢になると、100分の1となり、結果的には豪族優遇税制であったということです。資産別でありながら、ほとんど意味のないくらい安いものだったようです。一般農民はこうした田租は安くても、算賦(口賦、人頭税)・徭役(兵役も含む)が加わり没落したようです。土地を借りている小作人は収穫の半分は取られましたから、いくら免税でもやっていけない。ここらあたりが豪族が大きくなる背景のようです。


Q6 「魏は後漢の正統な後継者をもって任じ、」とありますが、意味がわかりません。

6A 「正統な後継者」とは、三国に分かれて、それぞれが後漢の後継者を名乗っている状態があり(とくに蜀の劉備は漢をうけつぐ劉家、真偽は不明ですが)、禅譲の儀式をおこない幼い皇帝から皇帝の位を譲りうけたと。中国の支配者は一人でなくてはならないと思っているからです。他はまちがって皇帝を名のるケシカラン奴だと。


Q7 絹の道はいつ頃から繁栄しいつ頃まで続いたのですか? 張騫が契機となり甘英頃から繁栄したと思うのですが……

7A 張騫のときからは中国側としてはそうですが、もう少し前の戦国時代からあるようです。絹の需要が高いことを帰国した張騫が述べているのですから。13世紀のモンゴルの時代も栄え、16世紀の海の道の方に物資が運ばれるようになって衰えます。オアシス・ルートのことを日本では絹の道と言っていますが、絹は海路でも運ばれた商品なので、ビザンチン帝国に蚕(かいこ)が伝わり、西欧にも中世に伝わって絹織物の製造もおこなわれ(15世紀にジェノヴァ・ヴェネツィア、16世紀にフィレンツェ)、中国の絹の需要がなくなります。しかし中国の絹織物は技術的に高いため高級な貿易品としては18世紀くらいまで取引されました。


Q8 後漢末から地方の豪族が力をつけはじめたのはなぜですか?

8A 農民反乱に中央政府がどうすることもできないため自衛しなくてはならなかったことが一番大きいでしょう。各地に強大な私兵をもつ豪族が割拠しました。中央政府は宦官と外戚の争いに明け暮れていたことが、この背景にあります。


Q9 中国の三国時代の時代に、魏について教科書には「司馬炎が国をうばった」とあるのに、晋は魏帝から禅譲をうけたと書いてあるのですが?

9A 司馬炎が国をうばった、が実質で形式的に「禅譲をうけた」という儀式をします。つまり同じです。


Q10 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何「系」と判断しているのでしょうか? 

10A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴は居るのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系と言います。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q11 均田法にかんして豪族に優遇したものではない、というのは分かりますが、この場合、豪族というのはどういったものなんでしょうか? たんに大土地所有者というイメージしかありませんが。

11A 荘園という広大な敷地に屋敷をかまえ、周囲に高い垣をもうけ、そのまわりに深い堀をめぐらします。さらにそのまわりにこの豪族たる地主の土地・畑が広がり、そこには地主に頼る農民の小屋がたっています。大豪族になると、この土地の中にいくつもの山や川が流れています。穀物・野菜など多くの農産物が栽培され自給自足ができました。また牛・馬・羊・豚・ニワトリなどが飼われています。手工業もあります。酒・醤油・砂糖・染色・機織りもでき農具も兵器もつくりました。多くの農民・職人がここに住んでいました。数万人という農民・奴婢をかかえた豪族がいました。これを守るための私兵も養っています。いずれ後漢末期の騒乱時には、この私兵軍団が大きくなり400年の分裂(魏晉南北朝)のもととなります。こうした豪族がゆっくり育っていくのが後漢時代でした。


Q12 「華北仏教は鎮護国家的性格が強く、……」とありますが、『鎮護国家的性格』とはどんなんでしょうか。

12A これは異民族王朝(とくに北魏)が漢人を支配するさい、仏教の平等・平和の考えを利用して支配思想とした、ということです。鎮護国家(思想)とは、乱をしずめて外敵・災難からまもる役割を仏教がはたすという考えです。北魏が漢人のみなさんを守ります、と宣伝しているのです。そのため僧侶も政府の保護にこたえて、国を守るための法会(ほうえ)や祈祷(きとう)を行います。雲崗石窟・龍門石窟をつくったのも、ときの皇帝の顔に似せて彫り、皇帝即(そく)如来(にょらい)といって仏を拝むように皇帝も拝ませる、と支配のために政府は利用し、仏教側も利用されることで国家とむすびつき、廃仏を逃れようという魂胆です。こういう権力にすりよることを否定する仏僧もいました。ただ北魏の仏僧は「すりよる」性格をもっていた、ということです。


Q13 中国で、たとえば隋の楊堅っているじゃないですか? この人は文帝とも呼ばれてますよね? この、別名みたいな、〇帝や〇宗とかも関関(関西学院大学・関西大学)には問われるのですか?

13A 問われます。とくに魏の文帝(曹丕)と隋の文帝(楊堅)はカッコの中だけで出すとすぐ分かるためにわざと文帝という謚(おくりな、死んでから付ける名前)で出ます。たとえば、関学の次の例のように。
 隋の文帝の時に施行されなかった事項はどれか。
 a.科挙制 b.均田制 c.府兵制 d.囲田制(解答 d)


Q14 教科書の唐のところで、三省の中書省・門下省・尚書省が書いてあったのが、明になり「中書省の廃止」ということが唐突に書いてあります。門下省や尚書省はどうなったのですか?

14A 教科書はどこの出版社であれ、系統だった説明をしている歴史書ではありません。ポツポツとその時期ごとの重要事項を羅列しているだけです。こういう質問がでても不思議ではありません。途中の宋や元の時期はどうだったかを省いたためです。宋のところで「宰相の権限を分散して、軍事・行政・財政のすべての政策決定権を皇帝がにぎる君主独裁政治」と説明している(第一学習社の『世界史B』)ものはありますが門下省・尚書省のことに言及しない点は他の教科書と変りません。元について「元は、中央に中書省(行政)……、地方には中書省の出張機関として行中書省を置き」と書いている教科書(三省堂の『詳解世界史』)もあります。宋になり貴族がいなくなると貴族の牙城(がじょう)であった門下省の存在意義がなくなり、中書省に吸収されてしまいます。名称も中書門下省となり、その長である宰相を同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)といいます。尚書省は元のとき廃止されます。明清のときも尚書省はなく、六部の長官を尚書といいました。したがって明の中書省廃止は三省の廃止を意味し、三省のしごとをぜんぶ皇帝がひとり担うことになります。忙しすぎるので永楽帝のとき内閣大学士をおきます。
 唐 中書省 門下省 尚書省──六部
 宋 中書門下省 尚書省──六部
 元 中書省 六部
 明 六部


Q15 都護府と折衝府はどうちがうのですか?

15A 唐代の都護府は辺境においたもので、折衝府は国内の軍事訓練の場所です。


Q16 唐の貴族に課税はあったのですか?

16A 農民には租庸調ですが、といって貴族に免税特権はありませんでした。貴族に地税・丁税がかかります。農民への租庸調が国家の主たる税ですが、農民にも地税・丁税が同時に課せられていました。このあたりは教科書・参考書に書いてないことですね。租庸調よりは軽いものではあったようですが、いずれ租庸調が崩れてくると、この二つの税が顔を出してきて、両税法となります。
 以下は、『世界歴史事典』平凡社(昭和31年版)の隋唐時代の税制の項目にありました。

 隋開皇5年毎年秋に戸ごとに粟黍1石以下を出して義倉(凶作のときに無償で配布するための貯え)を維持させることとし、ついで16年改めて州県に社(村落)倉を設け、各戸より上戸は粟1石、中戸は7斗、下戸は4斗を限度として納めさせ、これを貯えて凶歳の賑貸に備えることとしたが、唐でも太宗の貞観2年(628)同じく義倉を設けその維持のために、今度は「青苗の畝頃(耕地面積)」をはかって毎畝2升の粟か麦か稲かを徴した。のち商戸や田無き戸からも9等の戸等に応じて5石から5斗(下戸は免除)を徴した。これがしだいに義倉米の意味を失って地税という政府の正式の税収となってきた。……特別会計に属するものであったが、ところが一般会計ともいうべき租庸調による収入が国家財政を賄えない状態になると、ようやくこの2税(地税・丁税)が一般会計にくり入れられ、やがて租庸調とその位置を転倒するにいたった。すでに有名無実の存在と化してしまった租庸調を廃棄したのが、一般に徳宗の建中元年(780)における両税法の発布として理解されている改革である。(引用終了)

 義倉を設ける必要は、農民の余剰分はほとんど取られてしまうくらいだったので、一度凶作にみまわれると餓死・逃亡・盗賊化・反乱があいついでおこる危険性があった、という厳しいものであったためでした。耕地面積をはかって、というところが両税法の資産別と同じです。


Q17 山川の教科書には『白楽天は唐末の詩人』と書いてあって、山川の資料集には『中唐の詩人』とあったのですけど、どっちなのでしょう? あと、盛唐はいつですか?初唐?中唐?唐末?

17A 初唐は高宗まで、中唐・盛唐は玄宗皇帝のころ、安史の乱の終わった以降は唐末とすることが多いですが、それほど固定した時代区分ではありません。だから白楽天が双方で書いてあってもまちがいとはできないでしょう。安史の乱以降のひとなので唐末が一般的でしょう。時間的には乱は755〜763年で唐のど真ん中ですが。


Q18 鎮市ではなく、よく「鎮・市」と中点がふってあるが、「鎮」と「市」はそれぞれ別のものですか? 草市は草市でひとつなのか?

18A 鎮も市も州県の下にくる半公認の地方行政区です。もとはいえば唐末からの経済発展の結果でてきた新しい地方町です。分けて、鎮とも市とも言います。まとめて言ってもいいわけです。草市は「粗末な地方の」という形容で、行政区でなく、漠然と呼んだ形容なので「草市」は「草」「市」と分けることはできません。この草市が大きくなれば鎮や市になります。
 『詳解世界史』では「定期市はいたるところに設けられ、草市が発達して鎮・市とよばれる郷村の小都市が数多く出現した。」と書いています。『詳説世界史』でも「さらに地方には小規模な交易場の草市が発展し、鎮・市とよばれる小商業都市も発生した」と表現しています。
 州──県──鎮・市←……草市


Q19 漢時代の市と草市、宋時代の市・鎮と草市は同じ名前で別物ですか。

19A 別物です。「市」はいつの時代でも「市場 market」を意味しますが、これは都市のなかの一ヶ所に集中している市場です。つまりは役人に管理されている市場です。「草市」の「草」は「地方の」「粗末な」という意味です。漢代の草市は地方の末端行政区分の「県」のなかにある市場を言ったり(これも管理されています)、ときに県城の外にできた城門外の臨時の市を草市と呼んでいます(これは管理されなかったみたい)。唐末五代からは役人の管理がなくなり、「市」はどこでも店が並べば市場になり、もう一ヶ所に限定された場所ではなくなります。また「鎮」「鎮市」はもともと唐末から節度使(藩鎮)たちが割拠したとき、地方の軍事、商業の要所に軍事基地(鎮)をおいたものが経済的に発展したものです。明らかに唐末五代から登場した新しい都市です。景徳鎮などのように今もその名をのこしているものがあります。唐末五代の「草市」は商業経済の発達によって地方農村に無数の市が発生し、それらぜんぶを総称して草市といったそうです。具体的にある特定の市場をさしていない表現です。ただ入試上は漢代の表現は出ませんから、内容的には唐末五代のだけでいいのです。役人の規制がなくなり、あちこちに市場ができた、と。


Q20 貨幣経済が普及するとどうして貧富の差が出てくるんですか?

20A 貨幣経済でないときの取引は物々交換です。物々交換だと、取引は小規模で利益も大きくありません。ところが貨幣で取引するともののやりとりは活発になります。交換の手段としての貨幣が物と物の交換をスムーズにしてくれるからです。物々交換だと、欲しいひとをさがすのが大変です。ところが貨幣経済の場合は取引がさかんになり、経済が活況になると、だれでも利益をあげるわけではなく、富の配分がかたよるのです。一様に貨幣が平均にまわる、ということは難しい。失敗するひとたちもたくさんできます。だまされるひとも多くなります。賢いひとほどもうけが大きい。豊かになるときは平均して豊かにならない、というのが人間社会の避けられない法則のようです。


Q21 労役とは具体的に何をさせられるのか? 

21A 唐代を例にとれば、租庸調の「庸」は中央政府にかんする労働奉仕で、20日間と決まっていました。仕事がないときはそれに代る納税(布・絹)をしなくてはならず、ときに留役といって30日を限度として、つづけて働かされることもありました。中央の役は正役ともいいます。プラスアルファの「雑徭(ぞうよう)」は地方の労働奉仕で、その内容は40〜50日の門夫の役(門役ともいい門番として、城門・倉庫門の出入りを守り、監視する)、水手(すいしゅ、橋梁の番兵や船こぎ)、駅家(関所のしごと諸々)、防閤(ぼうこう、役所の守りと貴族・役人の身辺護衛)、庶僕(しょぼく、いろいろな雑務)、白直(はくじき、当直・宿直・巡回)、貴族・官人の身辺雑務にあたる士力(しりき)・執衣(しつい)など召し使いのしごとです。なにか雑徭の項目を見ていると、貴族の「こらあーッ」、庶民の「へい」という声が聞こえてきそうです。
 雑徭という労働ができない場合は代償として課税されます。逆に租調が納められない場合は、すべてこの庸・雑徭に換算して働いても良かった。その場合、年間150日分になり、国家のために150日もただ働きをしなくてはならなかった! 日本でもこうした労役を経験することはできます。犯罪を犯して、懲役何年と判決が下ればいいのです(^^;)。


Q22 宋代の士大夫と形勢戸の違いがよくわからないので教えて下さい。

22A 士大夫は科挙を受験しようとする知識のある人、受かって官僚になったひとです。形勢戸はたんに経済的に豊になった新興地主の意味です。科挙とは関係がありません。ただ科挙の勉強は大変なので長い時間がかかり、たいてい形勢戸のような豊かな家のおぼっちゃましか受験勉強はできないものですから、形勢戸の子弟が受験して士大夫になります。受かれば形勢官戸という名でよばれたりします。ただし形勢戸の家の子はみな優秀であるはずはなく、形勢戸イコール官戸ではないし、士大夫でもありません。


Q23 どうも新法の募役法がよくつかめません。労役をしてくれる人にお金(山川の用語集でいう雇銭)を払ったら、何の利益も残らない……?

23A  農民が担当しなくてはならない役(えき、労働して払う税のこと、お金の税金以外に必ず払わなくてはならないものだった)は負担が重く、破産する農民も多かった。そのめための農民救済法です。というのは、税としての米を運ぶさいその運賃を払ったり、自分で運ぶとすれば、役所のある都市までの費用・宿泊費も負担しなくてはならず、ときに役人に必要以上のお金を用意しなくてはならない。税としての米を決まった額だけ集めれなかったらその分を自分が負担しなくてはならない。その間の農作業は休まなくてはならない。また土木工事にもかりだされるが、その間の食費も自分で用意しなくてはならない。治安は住む村・町の犯罪調査告発・見回りなど警察のしごとです。もちろんこれをやったからとて国から給料をもらうわけではない。
 そこで、役を基本的には農民からとらないことに(免除)し、その代わり、ある程度のお金を払わせてお役御免にし、役をやってくれる人民を募って給料を与える方式に改めます。運搬・土木などを、たいていは失業しているものが応募して担当したので仕事を与えたことになります。また役のもともと免除されている偉いさん(官戸=たいていは地主、寺観=仏教の寺、道教の寺を道観といいます、他に住所の定まらない商人)などからも助役銭を徴集して、給与の財源にあてます。差引ゼロになったとしても、運搬・土木・治安のしごとははかどります。農民の没落を防げます。三省堂の教科書『詳解世界史』の注には「募役法(徭役免除の特権をもつ官吏や僧侶らには助役銭を、一般農民には免役銭を課し、それを財源として労役に従事する人を雇う策)」と説明してあります。


Q24 五代十国・金のときは科挙はどうなっていたのですか?

24A どの時代も実施しています。五代十国時代は武断政治といわれますが、軍人の危なさを軍人出身の皇帝たちほどよく知っており、集権的官僚制をつくりあげるべく、文治主義を徹底しようとしました。皇帝が節度使出身であるために「武断」と言われるのであって、官僚制は文治主義なのです。宋代の歴史家が五代の武人支配を必要以上に悪しき時代として描いたことから野蛮な時代のイメージがつくられました。この科挙によって新興の地主・富豪・豪商たちの子弟を吸収しています。しかしこれは華北の五代政権に該当しますが、中部・南部の十国では、あまり科挙は実施されませんでした。難民として南下してきた唐代の貴族の子孫、儒者たちを積極的に採用したため科挙が必要なかったといわれるくらい文治主義的だったためです。
 異民族の遼金でも科挙は実施されています。遼で50回以上おこなったとの記録があり、1036年には殿試も加わり、四試制となっています。宋より早く殿試が行なわれています。というよりまだ北宋が成立していない段階ですね。漢人のための試験であって契丹族は別でありながら、いずれ西遼(カラ=キタイ)を建国する耶律大石が1115年に受験して合格し、進士となっています。金では36回行なわれたことの記録があります。ここも猛安謀克の女真族は受験対象外です。異民族が漢人を文官として採用するための試験としてあったためです。しかし女真族のための科挙が設けられたときもあります。


Q25 なぜ西夏は征服王朝に入らないのですか?

25A 征服王朝の定義は故地(北アジア地域)と中国領の双方をもつことと、二重統治の体制をしいたことにあります。西夏がもっていた甘粛省の地域がいつも中国領だったわけでなく、漢唐のときくらいだけで、また二重統治体制をとった訳でもないことから征服王朝としません。


Q26 『燕雲十六州を遼に譲ったのは五代後晋』とあったのですけど、後晋は三代じゃないのですか?

26A 中国には王朝名が教科書に書いてある以上にたくさんありますから、区別するために、五代十国時代の後晋ですと説明的にいっているのです。たとえば戦国時代にも魏という国があり、三国時代にも魏という国がありました。この場合、三国魏という言い方をすれれば、三国時代の方の魏なんだと分かります。戦国魏、といえば戦国時代の魏となります。


Q27 ワールシュタットの戦いと、バトゥがオゴタイが死んだので引き返した時の戦いって違うものなんですか?

27A バトゥの本軍は先ずハンガリーに進撃し、副司令官スブタイが指揮する別働隊にポーランド方面(ワールシュタットの戦い)の進出を任せます。その後、この本軍と別働隊の両軍は合流しブダペストを陥落させました。その後で1242年の冬にオゴタイ=ハン(41年に死去)の訃報(ふほう)が伝わってきて全軍が少しずつ帰還していく、という順です。


Q28 科挙が元の時代の何年に廃止されたのですか。

28A 元朝のはじめから実施していないので、廃止された年代というのはありません。復活したのが1315年です。これより過去をたどれば、南宋(滅亡が1279年)で1274年、当時北を支配していた金(滅亡が1234年)で1230年がさいごの各王朝の科挙です。どれもモンゴル人に滅ぼされる直前まで実施していたことになります。


Q29 元朝において、科挙により選抜された人々は、どういった職に就いたのでしょうか? また、科挙に合格する意義のようなものとは、どういったものなのでしょうか?

29A 官僚(役人)です。科挙は官僚になるための試験ですから。官僚といっても、はじめはたいてい地方官をつとめ功績をあげれば中央にとりたてられます。科挙の試験の成績が抜群であれば、はじめから中央の官僚という場合もあります。元朝のときに科挙に合格することは、世襲制でしたから子供にじぶんの地位を受け継がすことができ、一族の繁栄を保証します。もちろん元朝が存在するかぎりのことでしたが。合格しても官僚になれるかどうかはコネ次第でした。


Q30 教科書「新世界史」p.151の5〜8行目に「元は南宋を滅ぼし(1279年)、チベット・朝鮮を服属させた。さらに日本・ヴェトナム・ジャワ・ビルマ(現ミャンマー)にも遠征して威信を示し、服属関係におこうとしたが、これらの遠征は失敗した。」とあるんですが、山川用語集の“フビライ=ハン”の項目(p,83)では「……ビルマを服属させ……」と書いてあるんですが、どちらが本当なのでしょうか?

30A どちらも本当です。少し説明が必要です。引用された『新世界史』の説明はまちがいとも、まちがでないともとれる曖昧な表現です。まず「ミャンマーでは最初の統一王朝パガン朝が、13世紀に元の侵入をうけてほろんだ。」(『詳説世界史』)ことを確認しておきます。これは他の教科書も同じです。『新世界史』はハッキリ書いていませんが。
 この後のビルマはどうなったか、というとシャン人勢力がパガン朝の滅亡した後のビルマの実権をにぎり、元朝に服属します。これを用語集はとっていると好意的にとっておきます。滅ぼした王朝のことを書いてないのは片手落ちですが。しかし他の民族(ビルマ人・モン人・ヤカイン人なども)が抗争をつづけ安定した統一政権をつくれないままでいました。つまり16世紀のトゥングー朝までです。


Q31 山川の教科書のp.93に元代の文化の説明があるのですが、公用語にモンゴル語を使用したのに公文書にウイグル文字やパスパ文字を使ったのは固有の文字がなかったからですか? あと、どうして上のような文字を代わりに選んだのですか?

31A 言語と文字はちがいます。推測は正しく、初め「固有の文字がなかったからです」。後になってモンゴル文字を作成します。他の民族の文字をつかって自分たちの言語を表記していたのです。とくにパスパ文字は使いにくく、作らせたもののほとんど使わなかったようです。官僚として仕えさせたウイグル人(色目人の中心)の文字を一番使ったそうです。


Q32 「宝鈔」という紙幣は元朝でも発行されたのでしょうか? 教科書では元が交鈔、明で宝鈔とありますが?

32A 発行されました。多くの教科書にのっている紙幣の写真の上のほうを見ると「○○○○宝鈔」という字が見えるはずです。「宝鈔」も交鈔のひとつです。『日本大百科全書』の「交鈔」の項には「元は金の制度を受け、1236年以来交鈔を発行した。中統元宝交鈔(10文〜2貫文)、至元通行宝鈔(5文〜2貫文)はその代表である。……明も元の制を受け、大明宝鈔(100文〜1貫文)を1375年に発行した。(斯波義信──山川出版社『新世界史B』の著者のひとり)」とあります。ここには交鈔(総称)として「交鈔」と「宝鈔」が並列されています。「中統元宝」「至元通行」は一般に省略して言うのは慣例(省略表現は京大東洋史辞典にもあります)としてあり、大明を明と省略するのと同じです。『平凡社世界大百科事典』につぎのような記述があります。カラ・ホトの項に「西夏、金、元の貨幣や元の紙幣である宝鈔も見つかっている。(岡崎 敬)」、交子の項に「なお、中国の紙幣は交鈔のほか元・明・清に流通した宝鈔が知られる。(草野 靖)」とあります。省略表現としての宝鈔の例です。


Q33 元時代、元曲を作ったのは当時失業していた儒学者ですか? なんでそういうひとたちが作ったものが流行るのですか?

33A それは適切な説明ではありません。科挙に受かっていない知識人(読書人とも士大夫ともいいます。受験生とも言えます)です。脚本を書けるには文字の読み書きができないといけませんが、だいたい文字の読み書きができるのは限られた人でしたし、脚本はある程度過去の歴史を知らないと書けない。科挙の受験は3年に1回しかありませんから1回失敗したら3年後ということになり、また何度も失敗すると諦めてしまい、塾の教師をしたり、このように脚本書きになったりしました。受験する人たちはだいたい豊かな家の子弟でもあったので、暇仕事でもありました。50歳、60歳になっても受験していた異様な世界です。受験も一種の事業のような、宝くじのような感覚だったのでしょう。当たれば大もうけできる。3年間地方官を勤めたら孫の代まで食える、といわれるくらいワイロが入りました。


Q34 高校の授業で、交鈔の乱発について皇室がチベット仏教に傾倒したことが原因のように聞きましたが、実際元朝は国が傾くほどのお布施をしたのでしょうか? 

34A ラマ教というのは「ラマ(僧侶)」という意味が示すように僧侶中心の宗教です。僧侶が非常にいばっている、あらゆる点に口出しをし、金を巻き上げていくという宗教です。大規模な法会を行い、国家経費の3分の2はラマ教への布施にあてられたようです。


Q35 2009年の東大世界史第1問
・東アジアについて書く際に日本におけるキリスト教弾圧も書くべきか
・儒教を宗教とみなしてもよいか

35A もちろん東アジアの中に日本も入りますから書いて良いです。
 儒教も宗教です。典礼問題が知られているように、典礼とは上帝(中国人が考える宇宙の神)・孔子・先祖を崇拝する儒教の儀礼です。村上重良著『世界の宗教』 (岩波ジュニア新書) に、原始宗教から三大宗教、儒教・道教、ヒンドゥー教にジャイナ教なとど宗教して儒教をあげています。


Q36 東大2007-1の解答に「江南の士大夫文化を支えたこと」とありますが、「文化を支える」とは具体的にはどのようなことをいうのでしょうか。

36A 江南という穀倉地帯に集まった士大夫(読書人・官僚層)は形勢戸という新興地主層でもありました。かれらが宋代以降の文化の担い手でした。朱子学を構想して普及させ、詩・詞をつくり、書・画・散文をこなし、青磁・白磁を楽しむひとびとです。


Q37 魏の時代、九品中正の本来の目的が果たされず、地方豪族が高級官僚を独占した状態、いわゆる門閥貴族の形成を憂い、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉ができたと聞いております。一方で、魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化したことに対して、治安維持・徴税・徴兵などを目的とする改善策であったのだろうと思います。もしこの推測が正しいとするならば、地方豪族の台頭を促進させている九品中正を隋代まで待たずとも早めに廃止すれば良かったのではないかという疑問が生じました。何か廃止できない理由でもあったのでしょうか?

37A 初めの「地方豪族による大土地所有化を抑制しようと九品中正を制定した」がまちがいです。九品官人法(これが九品中正より正しい表現です)は大土地所有を抑制するための法ではありません。黄巾の乱以降に埋もれた文人たちを魏という曹家という文人一族が掘り起こしたいと意図して始めたものです。
  次に「魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化した」もまちがいです。これらの政府による土地分配政策は成功していて、それぞれの王朝の経済基盤になりました。この土地政策はあくまで王朝政府が抑えている公有地で行っていて、豪族=大土地所有者の土地に対して実施したものでなく、それらは放置して公有地でおこなったのであり、豪族とは無関係です。というか豪族がこれ以上農民の土地を取り上げないように政府が管理している土地だけで実施したものです。もし青木の実況中継にある、これらの土地政策が豪族に有利だった、という邪説をもとにしてたら青木に依拠しないように警告しておきます。
 末尾の「地方豪族の台頭を促進させている九品中正」は「台頭」させているのは土地のほうでなく政治に関わるようになった、という意味でなら正しいです。
 土地政策(均田法)が隋唐まで続けられたが、則天武后の時代から傾きだしたのは、人口の増加が原因です。政府が管理している土地では増えた人口に合わせて土地を分配できなくなったからです。魏の屯田法の頃の中国全土の人口は約500万人です。つまり土地は余っています。唐初には5000万人に増えています。

 

山川か東京書籍か

山川か東京書籍か

 教科書の良し悪しを判断するといっても、ここでは受験参考書の一つとしてどちらが良いか、という観点から判断するのであって、歴史叙述のあり方を問題にするわけではありません。
 また受験用にどちらか、ということであり、その場合どの大学に適合するのか、という観点も必要です。千差万別の大学の入試問題をここで網羅することは出来ません。そこで観点を東大に絞ります。そうすれば、東大タイプの問題でない他の出題のあり方からは、ちがう教科書の方が良い、という判断も出てきます。

 それと東大には東京書籍の方が良い、という評判があるので、いろいろ調べてみても、なぜ東京書籍が良いのか根拠を示したものはなく、良いらしい、という評判の評判しかありません。
 特にこの東京書籍を薦める論述の参考書としては山下厚『東大合格への世界史』(データハウス)があり、その引用した文章も含めて何も推薦する理由にならないことを明かしています(http://www.ne.jp/asahi/wh/class/goukaku_critic.html)。このわたしの記事の末尾に「著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。」
 この「明らかに」がこの文章の果たす役割です。
 そこで実際に出題された入試問題と教科書を付き合わせる、という方法をとります。いろいろな出版社の教科書はあるものの、ここでは山川の詳説世界史(2008年発行、以下「詳説」と略)と東京書籍の『世界史B』(2007年発行、「東書」と略称)を比較の対象とします。大中論述にあたる第1問と第2問が主たる対象です。

1.東大入試問題と教科書

 2011年度・第1問
 異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった……13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動き

 という課題に対して、山川はインドへの影響として、「仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用……ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設」と述べ、イベリア半島へは「高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった」と述べていて、「生活様式の多様化や変容に大きく貢献し」たことを書いてます。
 このうち東京書籍では、仏教衰退や建築への言及は一切なく、「サトウキビ、バナナ、オレンジ」については西アジアに入ってきたものとして述べているが、影響としては書いてない。もちろん「棉(木偏の原綿)」のことも記事はない。

 2011年度・第2問
 問(2) 明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら

 という課題に対して、山川は明朝の対応を「明は海禁をゆるめざるをえず」と書いているのに、東京書籍は「明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」とまちがった説明をしてます。緩和が正しいのであり、解除はしてません。明清が朝貢貿易という制限のきつい対策(海禁)をなくしたことは一度もなく、アヘン戦争敗北まで基本的には存続しました。

 2010年度の問題については、第1-3問のすべてで特にどちらが有利ということはなかった。双方とも書いてあるものと書いてないものは同じでした。

 2009年度の第1問(国家と宗教団体・信徒)に関して、中国・チベット関係の部分は「詳説」がピッタリの文章になっていることは以下の記述比較で判断できます。

「詳説」清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは,中国内地・東北地方・台湾であり,モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が,チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが,新疆ではウイグル人有力者(ベク)が,現地の支配者として存続し,清朝の派遣する監督官とともに,それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず,とくにチベット仏教は手あつく保護して,モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。
「東書」清帝国の広大な版図は,本部(直轄地)と藩部に分けて統治された。本部とは,首都圏の直隷省と地方の各省から構成され,藩部は,つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり,藩部を管理する理藩院が設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が,今日の「中国」という地域名称と重なり,また清朝の風俗や文化が,「中国人」のイメージのもととなった。

 ルター派・領邦教会制の説明でも「詳説」の方が合ってます。また「詳説」は「諸侯は……領内の教会」と分かりやすく書いているのに対して、「東書」は「領邦では,国家が」と分かりにくい。

「詳説」ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ,領内の教会の首長となって(領邦教会制),修道院の廃止,教会儀式の改革などをすすめた。
「東書」ルター派の領邦では,国家が信教を監督する領邦教会制が成立して,君主の支配権が強化された。

 2009年度第2問(a)「殷王朝の政治の特徴」という課題に対しては雲泥の差があります。
「詳説」殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。
「東書」殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 2008年度第1問に関して、指定語句の「第1回万国博覧会」は、
「詳説」19世紀のなかば,イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄の絶頂にあった。1851年には,のべ600万人以上が入場したロンドン万国博覧会がひらかれ,人びとに近代工業力の成果を誇示した。
「東書」本文に記述なし。右下にクリスタル=パレス(水晶宮)の内部を描いた絵があり、「1851年ロンドン開催の第1回万博は、鉄とガラスの巨大建築で、新しい工業中心の時代の開幕を告げた」と注があります。

 指定語句「総理衙門」について、
「詳説」朝貢体制のもとでは,外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため,特別に外交を扱う役所は設けられていなかったが,1861年にはじめて,外務省にあたる総理各国事務衙門が設置された。従来清朝の支配が名目的・間接的にしかおよんでいなかった地域に諸外国が手をのばし,19世紀の後半にこれらの地域はつぎつぎと清朝の影響圏から分離していった。
「東書」清朝は,外国使節の北京駐在を許し,外務事務をあつかう総理各国事務衙門(総理衙門)を設置して,対等な外国の存在を認める外交をはじめた。

 2007年度第1問(農業生産の変化とその意義)に関して、課題は「11世紀から」とあるのが何故か分かりますか? 「東書」で勉強しているひとはこの教科書の時代区分が曖昧なために判断できにくい。

「詳説」 封建社会は11〜13世紀に最盛期をむかえた。農業生産が増大し人口が急増すると西ヨーロッパは拡大を開始する。

 「詳説」も「東書」も各章のはじめに概説を説いているところがあります。「詳説」はワクでかこんであり、「東書」はカラーの写真の中で白抜きの字のところです。「詳説」のp.126にある「ヨーロッパの形成と発展」のところ、そして「東書」はp.138-139「ヨーロッパ世界の成立と変容」のところを開いてください。読むと詳説の明快さがわかるはすです。
 「東書」では、p.138-39の時代区分のところでは「10世紀を中心とする民族移住の激動のなかから,西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明らかな姿をあらわした。さらに,農業の発展や人口の増加を背景に,西ヨーロッパ世界は外部への膨張に転じるようになる」と書いていながら、時代区分ではないところでは(p.150)、「11世紀になると,気候が温暖になり,外部勢力の侵入による混乱もおさまって,西ヨーロッパの社会も安定してきた。……人口は増大し,包囲され萎縮していたヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる」と書いています。つまり10世紀と11世紀とでずれています。
 この曖昧さは他にも見られます。「東書」p.203に「明代の社会と経済」とありますが、「詳説」はp.169に「明後期の社会と文化」という題になっています。「東書」に書いてある内容は明朝約300年間全体に該当するかのように書いてありますが、実は明朝後半からの社会経済の変化を書いているのです。「詳説」が正しい題名で説明しています。この違いは軽くありません。1983年度の第1問「16〜17世紀の中国の新しい動き」が書けるかどうかに関わってきます。

 2007年度第2問・問(1)
 設問は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」でした。
 この問に「東書」に「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い」とあり、「詳説」には書いてない、と書いているひとがいました。
 しかし「詳説」にも書いてあります。「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた」とあり、「東書」の方がいくらか分かりやすい説明になっています。これは珍しい例です。

 2007年度第3問・問(10)「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」
「詳説」 ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。
「東書」 記述なし。
 
 2006年度第1問(戦争の助長と抑制)で指定語句「徴兵制」に関して、フランス革命戦争での記載は、
「詳説」ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は,強大な権限をにぎる公安委員会を中心に,徴兵制の実施,革命暦の制定,理性崇拝の宗教を創始するなどの急進的な施策を強行……
「東書」記述なし。

 以上の最近の例をみても分かるように、「東書」は記述量が少なく、適格性にも欠け、何より時代区分が曖昧であることの欠点をもっています。
 この内、記述量は少なくといっても「東書」独自の記述量の多い記事もあります。それはこの教科書が東西交流に重点を置いているためです。
 たとえば、「港市国家」という用語は「詳説」では1回しか出てきませんが、「東書」になると、なんと35回も出てきます。「海域」という用語は「詳説」では1回、「東書」では15回出てきます。東西交易に重点を置いている、特に海に置いている、という傾向が分かります。しかしこんなに必要はないですね。しつこすぎます。

 「詳説」p.120-122の「アフリカのイスラーム化」と「東書」p.120-121の「アフリカの古王国とイスラーム化」という題の記事とは同内容の記事ですが、前者は651字、後者は1067字で書いてあります。後者の「東書」にはアクスム王国の詳しい説明、ラクダの利用が前者にはない説明です。ここでも交易路のことや商品のことが強調されています。
 この記事の前の「詳説」p.119-120「イスラーム勢力の進出とインド」と「東書」o.120「イスラーム勢力のインド浸透」は同類の記事ですが、前者の「詳説」には「東書」にはない、ハルジー朝の地租金納化、そのムガル帝国への継承、仏教の消滅、ヒンドゥー寺院の破壊、バクティ、ヨーガ、都市民・カースト下層民へのイスラーム教浸透、ペルシア語への翻訳など、ほぼ同字数(「詳説」676字、「東書」570字)なのに豊かな内容が盛り込まれています。中でも仏教消滅とイスラーム教浸透は重大事のはずですが「東書」には載っていません。

 しかし「東書」に長所もあります。コラム記事です。女性参政権というコラム記事は2010年度の一橋第2問にぴったりです。また東西交流、中でも東南アジア史をよく出題する阪大の問題にも適合しています。東大には合わない。
 「東書」には写真・絵が「詳説」よりたくさん載っていて楽しそうです。「詳説」より大判であり、本文記事の左右にコラム以外の小さい囲み記事や写真が付いています。見る世界史としてはとても良いものです。

2.入試問題の特色と教科書
 東大の問題は広くグローバルな問題を出しているため、そういう点をよく説明しているのが「東書」だと勘違いした教師や学生達が「東書」を推薦しているとおもわれます。確かに「東書」は東西交流をさかんに説明していて著者たちが序文で強調していることも世界の一体化ということです。また港市国家についての記述が異様に多いこともこれを傍証しています。しかし東大の過去問は「交流(交易)史」ではありません。
 問題の特色がつかめていないために「東書」を推薦していると、わたしは見ています。


 2010年度
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。
 この問題は東西交流史ではありません。もちろん「国家をこえた」とあるように、他国との関係、他国への影響なしに「役割」は書けません。対等に二つの国々の関係だけを問うのなら交流史ですが、これはあくまでオランダを視点に置いて、かつオランダを影響の起点に置いて他国のほうが受身で影響を受ける姿があって、オランダの「役割」・貢献が言えます。それに、「中世末から……現代まで」と長い歴史を問ういるため、ヨコ(交流)でなくタテ(時間順)にある程度比重をかけないと完結しない問題です。

 2009年度
 世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して……
 この問題を交流史ととるひとはいないでしょう。比較です課題は。

 2008年度
 1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか……
 これは交流史ともとれますが、あくまでイギリスと関わった国々が、イギリスに「組み込まれ」また「対抗した」かを紋って編集することが課題です。「東書」の交流は経済に比重のかかったものですが、この問題は政治と宗教です。また「対抗」することを「交流」ととるひとはいないでしょう。

 2007年度
 11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。
 これは交流史ではありません。農業技術や生産の変化と意義です。

 2006年度
 戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて……
 3つの戦争について一つ一つ助長と抑制を書きます。交流史ではありません。

 と最近のものを読まれたら、広い問題ではありながら交流史でないことがわかります。ばらばらなデータを一つのテーマに合わせて編集する能力を見ようとしています。ちがう国や時間のものを比較したり意義づけたりする編集能力です。こういう問題に対応するために交流史の多い「東書」を学んだから強くなる、ということはありません。わたしが添削して合格していった学生たちは「東書」をもっていない学生もいました。

アマゾンの汚い操作

 これは『世界史年代ワンフレーズnew』の現在の表示画面ですが、下段の表示写真は2月23日のものです。このように操作して売れないようにしています。スマホでも同じ表示にしています。これはO社がアマゾンに金を払って配置換えをしているものです。なぜO社なのかはここでは明かしません。腐敗した会社同士の馴れ合ったすがたです。拙著『世界史論述練習帳new』も同じ操作をして販売の妨害をしています。アマゾンは大手出版社と組んで自費出版本をつぶそうとしています。大企業のすることですかね?

 またまた動かしました。以下。古い物をトップにもっていく理由は何でしょう?(3月9日)。パソコンでは直しましたが、スマホでは以下のままです(3月11日)。

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阪大2018世界史(外国語+外国語以外の第3問)

(Ⅰ)
(1) 次の文章は古代インドの世界観を伝えた、玄奘の『大唐西域記』の一節を抜粋したものである。これを読んで、以下の問1〜問4に答えなさい。

 時によって、転輪王(古代インド思想における理想的な王を指す概念)が世に出てこない場合は、贍部洲(ぜんぶしゅう、人間世界)の地には四人の君主が出る。南方には象主がおり、その地は暑さがきびしく湿気が多くて、象の生育に適している。西方には宝主がおり、そこでは海に臨み、財宝が充満している。北方には馬主がおり、その地には寒さがきびしく、馬の飼育に適している。また東方には人主がおり、気候は穏やかで人が多い。
 故に、象主の地は、人々が剛直で気骨があるとともに学問に熱心であり、様々な技芸をよく身につけている。また、服装は布きれを横ざまに巻きつけ、右肩にを露わにしている。(中略)
 宝主の地では、形式や儀式が重んじられずに、人々は財宝を貴んでいる。服は短く左襟前にし、髪を切り髭をのばしている。城郭をそなえた居所をつくり、①商取引のを利を追っている
 馬主の地の習俗は、生まれつき粗野で荒々しく、人情は殺戮を意に介さない。フェルトの帳(とばり)に、穹廬(テント)に住まいし、鳥の如く此処(ここ)かしこと居を移し、草を追い牧畜をしている。
 人主の地は、その気風は機知に富んで賢く、仁義がはっきりしている。人々は冠をつけ帯をしめ、右襟前の衣服を着る。(中略)②君臣上下の礼、③法度典章・文字車軌のとりきめに至っては、人主の地はもはや加えるものがないほどである。(水谷真成訳『大唐西域記』平凡社、1971年を一部改変して引用。)

問1 歴史上、「世界」に対する多様な見方が存在するが、中でも左記の世界観はアジアを客観的に風土によって4つの地域に分類している。玄奘がインドに出発した当時(629年ころ)、「人主」の地は唐朝が支配していた。その他の3種[象主・宝主・馬主]の地は、それぞれどのような王朝ないし国家によって統治されていたか。その名前を書きなさい。

問2 「四主」からなるアジアでは、他民族・他宗教からなる帝国がしばしば成立し、そこでは「内部」と「外部」にまたがって、いろいろな強さや形態の支配が行われていた。
 (1) 下線部②の規範を持つ「人主」の地では、どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し、また外交関係を結んで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に述べなさい(150字程度)。

 (2) 下線部③に関して、北朝期から唐代にかけて形成された諸制度は、周辺国家にも継受された。こうした制度のうち、日本に取り入れられたものを具体的に1つ挙げよ。

問3 「宝主」の地では、7世紀後半に新たな帝国が成立し、それまでと異なる世界観が広まるとともに、その社会や国家のあり方も大きく変化した。どのような社会や国家となったか述べなさい。その際、解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)
   シャリーア  ウンマ  カリフ

問4 「馬主」の地では、「宝主」の地の周縁より下線部①の特徴をもつ人々が移住し、彼らのコロニーが形成された。そうした彼らの7〜9世紀の「馬主」の地における政治・宗教・文化面での貢献について述べなさい(120字程度)


(Ⅱ)
 次の文章は、とある世界史の授業での芸術好きなAくん、中国好きなBさん、先生の会話である。その内容をたどりながら、以下の問1と問2に答えなさい。

先生:今日の授業では、みんなの知識を活かしながら、異なる時代、異なる場所で描かれたふたつの孔子の像を比べて、描かれ方の違いを議論してみましょう。図1は8世紀頃の中国で活躍した呉道玄が描いた《先師孔子教像》と題された孔子像で、図2は1687年にパリで出版された Confucius Sinarum Philosophus という本の挿絵にある孔子像です。この本の名前はラテン語で「中国の哲学者孔子」という意味です。

 

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Aくん:図1は版画のようだね。中国や日本の絵画に似たような絵があるから、たくさん複製されたのだろうね。この図には孔子だけが描かれているけれども、右上には「徳侔天地 道冠古今 刪述六経 垂憲万世」という漢文が書かれているね。Bさん、どういう意味か教えてくれない?

Bさん:「孔子の徳は天地に等しく、彼の教えは古今に比べられるものはない。彼は六経を編んで、永遠に手本となるものを残した」といった意味かな。六経というのは儒教の経典のこと。唐朝の時代になると、そのうち五つの経典の解釈が『五経正義』にまとめられたと習ったわ。

Aくん:図1は孔子を褒め称えた絵のようだね。そういえばインターネットで中国や台湾のホームページを見ていたときに、「徳侔天地 道冠古今」といった言葉が掲げられている寺院のような建物の写真を見たことがあるよ。

Bさん:その建物は孔子を祀っている霊廟の事じゃない? 孔子廟といって、中国や台湾だけでなく、韓国やベトナム、そして日本にもあるのよ。建物といえば、図2の孔子は図1と違って建物の中に描かれているわ。

Aくん:僕もそのことが気になっていたんだ。なんとなくルネサンスに活躍したラファエルが描いた《アテネの学堂》と似ている気がするんだよ。

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Bさん:《アテネの学堂》は、プラトンやアリストテレスを中心に古代ギリシアの哲学者たちが一堂に会している上だったよね。そういえば図2をよく見ると、孔子の字(あざな)である「仲尼」と言う文字を中心に、壁画の面には儒教の経典や孔子の弟子たちの名前も漢字で書かれているわ。

Aくん:もしその弟子たちが人として描かれていたら、図2は《アテネの学堂》の中国版といった感じになるかのかな? 先生、図2の「国学」という漢字の下に“Gymnasium Imperij”と書かれていますが、どういう意味ですか?

先生:Aくん、いきなり答えだけを求めないように。現代社会の授業で世界の教育制度を調べたときに、ヨーロッパの中等教育機関にギムナジウムという学校があったことを覚えていませんか? それから英語には“Imperial”や“empire”といった単語がありますよね?

Aくん:だとすれば、《帝国の学堂》といった意味かな。それにしても図1は孔子が崇拝の対象のように描かれているのに、図2は古今の知識が集まる「帝国の学堂」の中に孔子が描かれている。図2の頃のヨーロッパではアジアとの交流も盛んになり、フランスでは学士院のような組織もつくられていたことを思うと、図2は当時のヨーロッパの学問を反映した孔子像なのかもしれないね。

Bさん:それはヨーロッパの文化に詳しいAくんらしい意見ね。でも中国でも清朝では『四庫全書』が編纂されて、漢字で書かれた古今の書物が集められたと習ったわ。古今の知識を集めたのは近世のヨーロッパだけではないのよ。でも不思議ね。『四庫全書』がまとめられた清朝にせよ、『五経正義』がまとめられた唐朝にせよ、異民族の王朝だと習ったのに、なぜ中国古来の書物をまとめたのかしら?

先生:良い質問ですね。清朝だけを例にとっても「異民族の王朝」という非中華的なイメージと「歴代中華王朝の最後のもの」というイメージの両方がありますよね。それでは宿題として、このような二つのイメージの共存がどのような清朝の特徴から導き出されるかについて調べてきてください。これで今日の授業は閉じることにしましょう。

問1 この会話の内容を踏まえながら、図1が描かれたころのアジア、図2が描かれたころのヨーロッパ、それぞれの学問・思想をめぐる文化的な背景について述べなさい(200字程度)

問2 下線部で先生が与えた宿題に対する答えを述べなさい(180字程度)。

 

(Ⅲ) 次の資料1と資料2を参照し、以下の問1と問2に答えなさい。

 資料1 ドイツ連邦共和国大統領ワイツゼッカーの演説(1984年6月11日)からの抜粋
 今日、私たちには挑むべき挑戦が二つあります。一つは、第三世界に関するものです。マーシャルは、飢餓、貧困、絶望そして混乱に立ち向かうと述べました。彼の計画は、被援助国が自力では困難を乗り越えられるように手助けをしました。彼が述べた「ヨーロッパ」という言葉は、ほぼ現在の「第三世界」という言葉に置き換えて理解することができます。(中略)今日のもう一つの挑戦は、ヨーロッパ人として、ドイツ人として、特に私たちの心と責任に迫る問題──東西関係に関するものです。(中略)それは、東も西も単独では解決できない、世界の人口問題、飢え、自然破壊、科学技術の発展に伴う倫理上の問題、東西の平和な関係の構築に関する多くの問題です。マーシャルの時代とは違い、巨額の贈与や借款の供与は不可能ですが、今日の東西関係には質的に全く新しい協力が可能です。(中略)私たちは、40年前にマーシャルが世界に送ったメッセージの遺産に恥じないような行動をとることを求められているのです。

 資料2 1990年国債ドル表示の1人当たり実質GDPの推移

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(アンガス・マディソン著、金森久雄監訳『世界経済の成長史 1820〜1992年』東洋経済新報社、2000年より作成。)

問1 マーシャルプランによる巨額の贈与や借款の供与は、西ヨーロッパ諸国の戦後復興のために大きな役目を果たしたが、資料1には、プランの実施が後世に及ぼした多様な影響が述べられている。その影響とは何であったか。資料1と資料2から情報を読み取って、1947年〜1970年のヨーロッパにおける経済と国際関係に焦点を絞り説明しなさい(150字程度)。

問2 資料1には、第三世界を援助の必要性が示唆されているが、第三世界の中には自力で人々の生活向上を目指そうとする諸国間協力の動きもあった。アフリカ統一機構(OAU)の発足などはその一例である。こうした動きは植民地に一挙に新興独立国が誕生したことにも関連している。資料2にの中でいわゆる「アフリカの年」に植民地から独立した国はどれか国名を一つ答えなさい。

………………………………………

外国語以外の第3問

(Ⅲ) 次の文章を読んで、以下の問1問2に答えなさい。

 1920年、ちょうどハジ・ミスバー*が中央ジャワの砂糖地帯で革命を目指して政治運動を展開していた頃、植民地政府はその地で初めての「学術的な方法に基づくセンサス(人口調査)」を実施したのだ。その実施の時期は同時代の世界と比較すれば、わずかに遅かったことは否めないのだが、そうひどく遅れていたわけでもなかった。かつて新生独立国家アメリカ合衆国が1790年にあたふたと国民的人口統計を行ったことで、学術的手法の萌芽となるような行政府主導のセンサス活動に着手した初めての国家となった。それはフランス、オランダ、イギリスに10年ばかり先立つ出来事であった。
 だが、1850年に至るまで、算出は世帯単位で行われ、世帯主の名前のみが記録されていた。1880年になって初めて、ワシントンに連邦政府の国勢調査室が設置されたが、正式の政府内の部局として改編され、国家の常設専従機関になるのは1902年を待たねばならなかった。しかし、世界を見渡してみるならば、第一回国際統計学会議がブリュッセルで開かれ、センサスで得られた調査データを国家間で比較できるようにし、統一的な調査内容と手法を達成するための基礎となる「学術的」な条件規定を制定する決議を採択したのは、やっとのこと1853年である。つまり、ヨーロッパがナショナリズムの動乱でおおわれた1848年革命の余波の最中のことだったのである。
 (ベネディクト・アンダーソン著、糟谷啓介ほか訳『比較の亡霊─ナショナリズム・東南アジア・世界』作品社、2005年より引用。)
 *ハジ・ミスバー(1876-1926)……オランダ領東インドで活躍したムスリムの共産主義者。

問1 この文章で記された時期に欧米諸国で人口調査が確立されていった背景について、政治体制や社会体制の変化と関連づけながら述べなさい(120字程度)。

問2 本格的人口調査は、西欧諸国の植民地が数多く存在した東南アジアでも、19世紀以降に実施され、民族・人種的分類に基づくデータ収集が行われた。この人口調査が、植民地経営や、その地域におけるのちの政治動向に与えた影響を述べなさい(100字程度)。

2017年11月模試雑感

A模試
第2問
問(3) 在地の伝統文化が、他地域との交疏を通じて、さまざまな変容をみせることがある。以下の(a)・(b)の問いに、冒頭に(a) ・(b)を付して答えなさい。

(a) 中国を訪れたイエズス会宣教師は、ヨーロッパの天文学・数学・建築などを伝え、明末から清代にかけての中国に文化的影響を与えた。このことについて、3行以内で説明しなさい。

 課題は「などを伝え……影響を与えた。このことについて」でした。つまり宣教師が伝えたことと、中国側の受けた影響の双方が「このこと」です。

①ヨーロッパの天文学をもとに『崇偵暦書』が作成され、清代の時憲暦につながった。……天文学が中国側が与えられた「影響」です。

②マテオ=リッチは徐光啓と共にエウクレイデスの幾何学を翻訳し、カステイリオーネが円明園の設計に加わった。……これは宣教師が伝えたことそのものです。

 ①に書かれたことだけが中国側への影響は変です。教科書(詳説)には「明末文化の一つの特色は、科学技術への関心の高まりである。『本草綱目』(李時珍著)、『農政全書』(徐光啓編)、『天工開物』(宋応星著)、『崇禎暦書』(徐光啓ら編)などの科学技術書がつくられ、日本など東アジア諸国にも影響をあたえた。当時の科学技術の発展には、16世紀なかば以降東アジアに来航したキリスト教宣教師の活動も重要な役割をはたした」と書いてあります。つまり実学と呼ばれるものの発展は宣教師の影響があります。
 また「中国では、明末清初期以降、イエズス会宣教師の渡来による「西学」の流入が、清朝考証学の生成に対しても一定の影響や作用を及ぼしたが」(辻本雅史、徐興慶 編『思想史から東アジアを考える』)とあるように、イエズス会宣教師がもたらした西欧の広い理知的な学問と技術が、中国人学者を刺激して実証的な考証学を産み出しています。これらのことを解答文に入れるべきでした。

B模試
 問「クリミア戦争後から、2度の革命が勃発したロシア帝政下で採られた農村近代化政策とその影響、およびソヴイエト政権が革命直後に行った経済政策を説明しなさい、その際、次の語句を必ず使用し(指定語句→ミール(農村共同体) 社会革命党 戦時共産主義)」というものでした。
 解答文中に「農民は工業化を支える労働力を提供したが」とあり、
 解説文には「農奴解放令のポイントは次の4点である
①農奴の身分は解放され(自由民となり)、移住も可能となる

 これらの解答と解説にまちがいがあります。
 まず解答に「農民は工業化を支える労働力を提供した」とあるのは、イギリスのエンクロージュアと間違えており、ロシアはこれから工業化を始めようという時(本格的には1890年代から)に、行くべき工場がまだ建っていません。もともと農民は解放令以前から地代を稼ぐために都市に出稼ぎに行っていましたが、その際も、「国内パスポート」を持って行っていましたが都市に定住する権利はありませんでした。なぜならミールから離脱することはできなかったからです。こういう状態を「移住も可能」とは言いません。山川・各国史『ロシア史』p.314には次のように書いてあります。

ロシアの農奴制は、農民に対する地主の支配と、農民の土地への緊縛という二つの要素のうえに歴史的に発展してきたものであるが、1861年の農奴解放が前者を廃しても、後者を手つかずに残したことは注目しなければならないところである。解放された旧農奴は、従来存在していた共同体を基盤にして組織された村団の一員として、村会の承認なしには村団から脱退も家族の分割も自由にはおこなうことができず、分与地の割替や払い戻し金の支払いも義務づけられたのである。換言するならば、ロシアの農奴制は形をかえて20世紀初頭まで残ったのであった。

 別の研究書(『ソ連経済(構造と展望)第3版』P.R.グレゴリー、R.C.スチュアート共著、教育社 p.34)では、

 農村から都市への移動は制限されていた。都市で働くことのできた小農も彼の主人にその報酬の大きな部分を支払う義務を負うだけでなく、彼の主人から村に帰るよう命令されれば帰村しなければならなかった。これは西欧の慣習で農奴が都市に住む自由を得ていたのとは異なっていた。

 有償の支払いは連帯責任であり、ミールを離脱することは認められていません。教科書に「工場労働者を創出して工業化への道を開こうとするものであった(東京書籍)」とあるため、これをそのまま、すぐ実現したかのように勘違いしたようです。実現するのはストルイピンが借金を棒引きにし、移住の自由を与えた農業(土地)改革(ミール解体、1907)からです。

『センター世界史B各駅停車』の発売

 絶版になっていた『センター世界史B各駅停車』の販売です。資金上のことから自費出版は無理なので、このブログから売りだすことにしました。
 以前の紙の本は、税込み、2880円で販売していました(http://books.parade.co.jp/category/genre05/978-4-434-07159-1.html)が、これをPDF書類で、1000円で販売します。
 まず下の見本ページをご覧になり、気に入ったら、「先史・中国史(1)を送ってください」とメールをください(whnashi〇yahoo.co.jp 〇は@に変換)。送信された36ページを見て、全部手に入れたいと思われたら、1000円を以下に振込んでください。折り返し、つづきの中国史ほか全文をメールに添付して送ります。全部で455ページ、23.2MBあります。PDF書類なので、スマートフォンにダウンロードして見ることもできます。この参考書の評判については、アマゾンにレビューが残っていますから、ご覧ください。

 ゆうちょ銀行の振込番号
  記号 14480-2 番号 29455851
  加入者名 「世界史教室 代表者 中谷 臣」

 紹介してくださったブログも以下にあります。
 http://manaviism.com/analysis/reference_book/center-sekaishi-kakueki/
 内容の基本的な点は以前のものと変わっていませんが、最初の出版から10年以上経っていたるため、気がついた点(誤字脱字、説得的でない文章)、時間の経緯で発見されたり追加しなくてはならないことも現れました。それらを修正・追加しています。

 目次
1:先史時代
2:中国史
3:朝鮮・日本・琉球史
4:インド史
5:東南アジア史
6:西アジア史
7:アフリカ史
8:ギリシア史
9:ローマ史
10:中世西欧とビサンツ
11:近世西欧
12:近代西欧
13:西欧現代史
14:東欧史
15:アメリカ大陸史

 センター試験向きにまぎらわしい用語の覚え方、正誤で問われやすい内容の判定の仕方を教えています。センター試験必須用語は赤字(98%ここから出る)で示し、経済・文化の用語と解説をしています。

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  『東大世界史解答文.txt』も販売しています。25カ年分(2011-1987年)のすべての問題(第1問・第2問・第3問)とその解き方・解答文、それに12〜17年度までの解答文です。振込先は同じです。