世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1997

第1問

 20世紀の民族運動の展開を考えるさい、第一次世界大戦の前後の時期は大きな意味をもっている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家も生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら、解答欄(イ)に15行(1行30字)以内(450字)で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した箇所には必ず下線を付せ。

 民族自決、三民主義、少数民族、シオニズム、アラブ、モンゴル、オーストリア・ハンガリー、バルト三国

 

第2問 

 世界の海洋の歴史に関する以下の(A)~(C)を読み、設問(1)~(6)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(6)の番号を付して記せ。

 

(A)ギリシア人のオリエントとの交流は、紀元前8世紀にはいるといちだんと盛んになっていった。他方で、南イタリア、ナポリ湾の小島で出土した陶製杯には、ホメロスの叙事詩にちなむ韻文がギリシア文字で書かれていた。杯の製作年代は前8世紀後半で、文字も同時期に刻まれたものらしい。

設問(1)杯がこの島で用いられるにいたった歴史的背景を、下線部に注意しながら5行以内で記せ。

 

(B)ペルシア湾と紅海は、インド洋世界と西方世界を結ぶ海上交通路として、古くから競合関係にあった。ところで、10世紀後半にイスラム世界に起こった変革の影響を受けて、それ以降は、従来栄えていたペルシア湾ルートに代わって、紅海ルートの方がよく利用されるようになった。またそれとともに、ペルシア湾沿岸のムスリム商人が、アラビア半島南岸やアフリカ東岸に移住することも起こった。

設問(2)ペルシア湾ルートに代わって紅海ルートが栄えるようになった歴史的要因を、3行以内で説明せよ。

設問(3)アフリカ東岸には、移住したムスリム商人によって多くの海港都市が築かれた。そのような都市の名を二つ記せ。

設問(4〕それらの海港都市を中心に広く用いられるようになった、アラビア語の影響を受けて成立した言語の名を記せ。

 

(C)モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配していた13~14世紀は、東シナ海から地中海に至る海上交易が飛躍的に発展した時代でもあった。その後、明の永楽帝は勘合貿易を推進し、数回にわたって大艦隊を東南アジア諸国、インド、西アジア、東アフリカに派遣して、豊かな海上交易路を把握しようとした。

設問(5)この艦隊を率いたムスリムの名を記せ。

設問(6)この艦隊は、マレー半島のある海港都市を拠点とした。この海港都市は、当時成立したばかりのある国家の中心地であったが、その後長い間、中国、東南アジア、インドを結ぶ海上交易の拠点として繁栄した。14世紀末から16世紀前半までのこの海港都市の変遷を3行以内で記せ。

 

第3問 

 物質文化と技術は、精神文化や制度と同じくらい、人類史の展開にとって重要な意味と役割をもつ。「もの」と「わざ」にかかわるつぎの設問(1)~(10)に答えよ。解答は解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記せ。

(1)図版Aは中国の青銅貨幣で、農具をかたどったものである。この貨幣が使われていた時期における農業技術上の大きな変化を1行以内で記せ。

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(2)図版Bは『天工開物』という書物からとったものである。この図は何から何を作っているところか、1行以内で記せ。また当時の中国におけるこうした産業の中心地域を記せ。

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(3)10世紀以降の中国では窯業が発達し、その生産品は外国にもさかんに輸出された。ほぼ同じ時期から朝鮮半島でも特徴ある陶磁器が作製されたが、その特徴を記せ。またその後、明清時代にいたるまで窯業の中心地として栄えた江西省の都市の名を記せ。

(4)図版Cにある機器の使用は、海図や船尾舵の発明とならんで、ヨーロッパ人の大航海事業を準備した。この技術の発祥地といわれる中国で、それが実用化されたのはいつか。王朝名で記せ。またこの技術の改良が実現されたのは、ヨーロッパのどこでか。国名または地域名で記せ。

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(5) 8世紀以降、サハラの塩と西アフリカの金とを交換する長距離交易が発展した。このころ金の取引で栄えたニジェール河畔の王国の名を記せ。その後この地域はイスラム化するが、11世紀以降、西アフリカの経済と文化の中心地となったニジェール河畔の都市の名を記せ。

(6)16世紀のヨーロッパに「価格革命」と呼ばれる現象をひきおこし、またこの時から18世紀まで、ヨーロッパからアジアに向けて大量に輸出された物資の名を記せ。またこの輸出量を減らす目的で、オランダやイギリスの商人が組織した貿易はどのようなものか。10字以内で記せ。

(7)17~18世紀には、ヨーロッパの輸入するアジア産品のなかで、インド製綿布が重要になった。この綿布の一部は、武器や火薬とともに、ヨーロッパから西アフリカに再輸出され、ある特殊な商品との交換に用いられた。この商品の名を記せ。またこの商品の販売によって栄えた西アフリカの王国名をひとつ記せ。

(8)ヨーロッパの18世紀には、アジア・アメリカなど非西欧からもたらされた文物を整理分類し、新しい知の体系に総合するための模索がみられた。博物館や植物園が整備されたのも、この時代である。このころ植物の分類法を確立した博物学者の名を記せ。また、ディドロたちの編集刊行したある出版物には、非西欧の文物を含む当時の先端的な知識が集大成されている。この出版物を記せ。

(9)技術の実用化は、ふつうに考えられているよりも長い年月を要した。イギリスで従来から用いられていたある機械を、1769年にワットが改良して特許を取得したが、これは生産の実用には役立たなかった。その機械がさらに改良されてある都市の紡績工場に設置されたのは、ようやく1789年のことである。この機械と、この都市の名を記せ。

(10)19世紀から20世紀への転換期にヨーロッパや合衆国などでは、石炭・石油・電気などを用い、精密な科学技術を応用して、冶金・化学をはじめとする重化学工業が発達した。このころ生まれて工業に用いられた合成素材をひとつ記せ。また、この工業の高度化を何とよぶか、その名称を記せ。

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[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について」、副問(副次的要求)は「とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら」です。主問はなんとか書けそうですが、副問がやっかいです。450字で相違なんて書けないよ、という声が聞こえてきそうです。主問を書いたら、おのずと相違が現れてくるよ、というのは、しかし甘いですよ。それだったら、この副問なしの問題でよかったはずです。わざわざ「とくに」とあればなんらか書かざるをえないところです。考えたら、そんなに難しくはないけれど考えなかったら、たんなる帝国崩壊史の羅列になります。たいていの参考書の答えもそうですが……。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。そのうち第1問の3種の解答例のうちレベル1を下にあげます。

鉄道国有化に対し武昌の革命派が蜂起し、革命軍は帰国した三民主義の孫文を推し中華民国を建国した。宣統帝退位により清朝は滅亡した。民国は清朝の領土を受けついだが、外モンゴルは独立を宣言した。共産党は大戦後に結成される。大戦末期ドイツでは水兵がキール軍港で蜂起すると、皇帝はオランダに亡命し共和国になった。社会民主党は共産党を抑えた。オーストリア・ハンガリー帝国は解体し、帝国内に民族自決の蜂起が戦中から起き、それを戦後承認した。新たな線引の中で少数民族問題がおきる。共産党は成長しなかった。ロシアでは労働者・兵士がソヴィエトを組織して革命を推進、皇帝は退位しロマノフ朝は消滅した。十月革命で共産党が政権を握った。バルト三国は独立したが、帝国領を保持してソ連を形成した。オスマン帝国は敗戦して大幅な縮小をしいられた。ケマルがトルコ大国民議会を組織してたちあがりスルタン=カリフ制を廃止した。大戦前後、アラブ人が半島の東西で独立し、シオニズムのユダヤ人は独立の約束を英国からとりつけた。共産主義は未知であった。

第3問  (1)木製から鉄製の農具に変わり、手作業から牛耕に変化した。 (2)まゆを生糸から紡いでいる姿、江南 (3)うすい青色の表面に繊細な模様が浮彫りになっている、景徳鎮 (4)宋、イタリア (5)ガーナ王国、トンブクトゥ (6)銀、アジア内貿易(三角貿易) (7)黒人奴隷、アシャンティ王国 (8)リンネ、百科全書 (9)蒸気機関、マンチェスター (10)ナイロン、第二次産業革命

東大世界史1996

第1問

 18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス=ローマーナ」(ローマの平和)になぞらえて「パクス=ブリタニカ」と呼んだ。しかし、「パクス=ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った。現代世界はこのような対抗関係を重ねるなかで形作られたとも言えよう。そこで、19世紀中ごろから20世紀50年代までの「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について、下に示した語句を一度は用いて、解答(イ)に15行(1行30字)以内(450字)で述べよ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

  自由貿易、南京条約、アラービー=パシャ、3C政策、マハトマ=ガンディー、宥和政策、マーシャル=プラン、スエズ運河国有化

 

第2問

 世界史における異文化の出会いについて、下記のA・Bを読み、設問(1)~(6)に答えよ。解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(6)の符号を付して記せ。

 

 A コロンブスは1492年にカリブ海に到達した。これがいわゆる「新大陸の発見」であるが、先住民の側からすれば、それはヨーロッパあるいはキリスト教文明の「発見」でもあった。次の文章は、コロンブスの航海を後援していたスペイン王室に向けて、彼が書き残した日誌の一部である。

 

 奥地には王が居て、連れてきた男達が手真似でいうところによれば、王はこの近辺の島々を領有しており、衣服をまとい、その自らの身体にたくさんの黄金を身につけているということであります。それで夜が明けたなら、集落の見つかるところまで行って、その王に会うなり、話をするなりしたいと考えております。彼らは利口なよい使用人になるに違いありません。私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。彼らはどんな宗教も持っていないようなのであります。神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下のもとへ連れていこうと考えております。

 両陛下は、短期間に多数の民を我らの聖なる教えに改宗させることができましょうし、広大な領土と、富と、これらすべての民を、スペインのものにしてしまうことができるものと考えます。と申しますのも、この地に莫大な量の黄金が産することは疑いもないことだからであります。(『コロンブス航海誌』より)

 

設問(1)下線部の「両陛下」とは具体的に誰と誰のことを指しているのか。その人名を記せ。

設問(2)この航海誌に見られるコロンブスの先住民へのまなざしの中に、新大陸にくり広げられたその後の悲劇がすでに暗示されている。この悲劇の実例として、16世紀前半にスペイン人が行ったことについて、3行以内で説明せよ。

設問(3)この「発見」の年、イベリア半島ではキリスト教徒がある都市を征服し、彼らによって展開されてきたある運動が完了した。この運動は一般に何と称されているか。また、その都市はどこか。運動の名称と都市名を記せ。

 

B 中国の明朝末期から清朝の初期には、ローマ・カトリックの東アジアヘの布教が盛んに行われた。次の文章は、ローマ教皇クレメンス11世が中国に派遣した特使に対して、清の康熙帝が与えた指示の一部である。

 近来西洋から来る者ははなはだ雑多である。いま特使が来たのを機会に、一定の規定を定めなかったならば、将来誤解を生じ、教皇をもまきこむことになるのを恐れる。以後西洋から来る者は二度と西洋に帰らない者にかぎって内地に居住することを許すべきである。さらに、面倒なる事件を起こしたり、商人でありながら商業を妨げたりする者たちは、居留させるわけにはいかない。各国のそれぞれの修道会の人はみなひとしく天主を敬っているのに、どうして議論が分かれるのであろうか。一同ともに居住して永く争うことのないようにせよ。(『康熙与羅馬使節関係文書』より)

 

設問(4)下線部に関連して、『崇禎暦書』を作成した宣教師の名を記せ。

設問(5)上の文章からうかがわれるさまざまな紛争のうち、布教をめぐって発生した紛争について、それ以後なにが問題になり、また清の政府はどのように対応したか、3行以内で説明せよ。

設問(6)清代の後期にも、キリスト教の布教に関連して大きな事件が起こっている。キリスト教の影響を受けて洪秀全が作った宗教結社の名を記せ。

 

第3問 

 次の地図(A)はユーラシア大陸西部・北アフリカ、地図(B)はユーラシア大陸東部にある都市の位置を示したものである。地図上のaからpの都市に関する設問(1)~(18)に答えよ。解答は解答欄を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(18)の番号を付して記せ。

(1)aの都市には、14世紀初めから約一世紀にわたって教皇庁が置かれた。教皇庁をこの都市に移転させた君主の名を記せ。

(2)bの地にあった古代都市国家について、モンテスキューは「商業によって成り立つ強国は、凡庸な状態では長く存続しうるが、きわだって繁栄したまま永統することはない」(『ローマ人盛衰原因論』)と語り、その滅亡を説明している。この都市国家の滅亡を招いた戦争の名を記せ。

(3)ボッカチオはcの都市について、「1348年、どの都市よりもはるかに美しいこの町に、恐るべき悪疫が襲来した。一日に何千人も発病し、看護も世話も受けられないまま、全員空しく死んでいった」(『デカメロン』)と述べている。この悪疫は、またたくまに近隣諸国に広がり、人口を激減させた。これも一因となり西ヨーロッパの農村では、どのような変化が生じたか、1行で述べよ。

(4)次の記述は、古代に繁栄したdの都市国家の政治について触れたものである。文中の[  ]に入る適当な制度名を記せ。

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「ある人の権力が国家や国民の力に釣り合わないほど大きくなったとき、それによって内乱が生じ、そこからさらに独裁制や門閥制が出現する。そのために、この都市では、過度に力をもった人々を[  ]によって排斥する習慣があった」(アリストテレス『政治学』)

(5)中世においてeを首都とした国家の支配者は、しばしば文書のなかで「太陽」としてあがめられた。このことは、当時の西ヨーロッパ世界でインノケンティウス3世が「教皇は太陽、皇帝は月」と言ったことに比べて対照的である。前者の国家を支えた固有の政教関係の理念は何か、それを記せ。

(6)fの都市では、西アジアやインドなどの説話を融合した文学作品が16世紀ごろにまとめられた。この文学作品の名を記せ。

(7)9の都市について述べた次の文章(ア)(イ)を読み、ともに正しければ○、ともに誤まっていれば×、片方だけが正しければその文章の記号を記せ。

(ア)この都市は十字軍がイスラム勢力から奪回を試みたことで有名である。その原因の一つは、この都市がセルジューク朝の征服によって初めてイスラム勢力の支配下に置かれたことにある。

(イ)イギリスは、第一次世界大戦中、この都市を合む地域にアラブ人の独立国家を認めると約しながら、後にはフサイン・マクマホン協定によってユダヤ人の建国をも支持し、今日まで続くパレスティナ問題の一因を作った。

(8)hの都市で新たなる一神教の教えが生まれたころ、北インドではある王の保護の下で仏教文化が花を咲かせていた。中国人の高名な仏僧がインドに向けて旅立ったのも、ほぼ同じ時期である。仏教を保護したこの王の名を記せ。

(9)iの都市がある王朝の都であったころ(16世紀末-18世紀初め)、この王朝が支配する社会では、宗教上の大きな変化が起こった。この変化とは何か。1行で述べよ。

(10)の都市がルネサンスの最盛期を迎えていたのと同じころ、jの都市でもある王朝の治下で特色ある高度な文化が発展していた。この王朝の名を記せ。

(11)中東や中央アジアの都市には紀元前からの長い歴史を有するものが多いが、中にはイスラムの勃興後、新たに建設された都市もある。地図上でこの地域に位置するfからjの五つの都市のうちで、後者の例を一つ選び、その記号を記せ。

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(12)kの都市の郊外、小屯を中心とする一帯が『史記』に見える「殷墟」に当たる。この河南省の都市の名を記せ。

(13)「魏志倭人伝」の景初三年(239年)六月の条に「倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。大守劉夏、吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都に詣らしむ」とある。ここでの「京都」の遺跡は1の都市の郊外に残る。この都市の名を記せ。

(14)mの都市の一帯は古くから水田の開拓が進み、秦漢時代からは人口が集中する地区の一つとなった。後漢末に、この地域に入って政権を樹立したのは誰か。その名を記せ。

(15)『入唐求法巡礼行記』によれば、日本の求法僧円仁は、「朝貢使」に随行して渡海し、各地の仏跡を訪ねたのち、nの都市にあった国都に入った。ここでいう「朝貢使」は一般に何と称されるか。その名称を記せ。

(16)12世紀に、首都が占領されて皇帝たちが捕虜になり、ついに0の都市へと都が移された。この遷都にさいして起こった一連の事件は、何と呼ばれるか。その名称を記せ。

(17)pの都市は、イブン=バットゥータが「世界で最も大きい港の一つであるザイトゥーン」(『三大陸周遊記』)として紹介している。宋代には、この都市にも対外貿易関係の事務をあつかう役所が置かれた。この役所の名を記せ。

(18)マルコ=ポーロは、大運河の南端に位置するある都市について、おおよそ「城内すみずみまでも幅広い街路や運河が通じ、アーチ式の石橋が数限りなくある」(『東方見聞録』)と伝えている。このような景観をもつその都市を、k~pのうちから一つ選び、その記号を記せ。

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[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「19世紀中ごろから20世紀50年代までの「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について」です。山のように、はじめは上り坂で、後半は下り坂で表現します。書くデータが、はじめは「展開=パクス=ブリタニカの形成・拡大」となり、次は「衰退=帝国の動揺・離脱」を表すようにします。指定語句をいちいち説明していたら、とてもじゃないがマス目がすぐ埋まってしまいます。すべての文章を簡潔に書くことができるかどうか、日頃の練習成果が試されます。

わたしの解答例

第1問

 解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。 

第2問  

(1)イサベル、フェルナンド(5世) (2)アステカ・インカ文明の破壊と、住民の虐殺、ポトシ銀山における酷使、エンコミエンダ制による貢納強制や信仰の強制があり、この地にアフリカから大量の奴隷を輸入し酷使した。 (3)レコンキスタ、グラナダ (4)アダム=シャール (5)イエズス会は中国人信者に上帝・孔子の崇拝や祖先の祭祀などの典礼を容認した。康煕帝は、イエズス会宣教師以外の布教を禁じ、雍正帝は1724年にキリスト教の布教を全面的に禁止した。 (6)上帝会

第3問  

(1)フィリップ4世 (2)ポエニ戦争 (3)生き残った農民の価値が高まり農奴解放を促し反乱が頻発した。 (4)陶片追放 (5)皇帝教皇主義 (6)千夜一夜物語(アラビアン=ナイト) (7) × (8)ハルシャ=ヴァルダナ (9)サファヴィー朝は十二イマーム派を国教とし住民に強制した。 (10)ティームール朝(帝国) (11) f  (12)安陽 (13)洛陽 (14)劉備 (15)遣唐使 (16)靖康の変 (17)市舶司 (18)○

東大世界史1995

第1問

 1453年、オスマン帝国のメフメト2世は、コンスタンティノープルを陥れてビザンツ帝国を滅ぼし、その結果、地中海世界は東西二つの文明の対立するところとなった。西アジア世界と東ヨーロッパおよび西ヨーロッパ世界は、ローマ帝国の成立以後、地中海を舞台にしてたがいに長い交流と対立の歴史を重ねてきた。この間に新しい宗教や文明がおこり、これらの世界の間で人と物と文化の交流が活発に行われた。では、ローマ帝国の成立からビザンツ帝国の滅亡に至るまで、地中海とその周辺地域では、どのような文明がおこり、また異なる文明の間でどのような交流と対立が生じたのか、下に示した語句を一度は用いて、600字以内で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

  ヘレニズム、聖像禁止令、カール戴冠、ムスリム商人、

  十字軍、ギリシア語、アラビア語、イスラム科学

 

第2問

 アジアでは、国家と地域の関係には時代によってさまざまな形があった。地域支配のあり方に関連する、以下の設問(A)~(C)に答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(C)の符号を付して記せ。

(A)18世紀中期以降の東トルキスタンは、モンゴル・チベットなどとともに、清朝の間接的統治を受けていた。これらの地域を統括していた中央官庁の名称を記せ。次に改行して、当時の東トルキスタンの民族的・宗教的特徴、およびこの地域が清朝統治下に入った事情を、90字以内で記せ。

(B)東シナ海周辺諸地域は古くから内部でさまざまな関係を結んできたが、1868年に日本が明治新政府を樹立すると、この関係は大きく変動することになる。1870年代に朝鮮および琉球にとって日本との関係が政治的にどのように変動したのか、その内容を、120字以内で記せ。

(C)ベンガル地方はイギリスによるインド植民地支配上の重要地域で、そこではイギリスのインド支配全体の成立と変遷の上で画期となる事柄や事態が生じている。この点に留意して、植民地支配との関係や独立の仕方を中心に、18世紀なかばから1947年までのベンガル地方の歴史を、120字以内で記せ。

 

第3問 

 人々の移動は、政冶・経済・宗教問題その他、さまざまな原因で生じ、その範囲も国内から国際的規模にまで及び、移住先の社会に及ぼす影響もまた多様である。人々の移動に関連する以下の(A)~(J)を読み、設問(1)~(18)に答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(18)の番号を付して記せ。

 

(A)ナントの勅令は、フランスに信仰の自由をもたらしたが、その後、この勅令が廃止されると、多くの新教徒は国外に移住先を求めた。

設問(1)この勅令を廃止した国王は誰か、その名を記せ。

設問(2)この新教徒の主な移住先を一つ記せ。

 

(B)ロシアのシベリア進出は、16世紀後半イヴァン4世(雷帝)のころから本格化したが、これにはコサック集団が大きな役割をはたした。

設問(3)最初のシベリア征服の過程で、1582年シビル・ハーン国の首都を制圧したコサックの長の名を記せ。

設問(4) コサック集団は、主にどういう人々から構成されていたか、1行で記せ。

 

(C)17世紀のイギリスでは、商業資本の発展にともない、商人が会社を組織して北アメリカの植民活動に乗り出した。さらに宗教的対立も政治的抗争と絡み合って、移住をうながす一因となった。

設問(5)ロンドンの商人を中心として、1607年に北アメリカにおけるイギリス最初の恒久的植民地が建設された。その地名を記せ。

設問(6)17世紀前半、ピューリタンの一派は、信仰の自由を求めて北アメリカに渡り、植民地を建設した。その地名を記せ。

 

(D)北方戦争直後の1724年に、ロシア帝国では、国民の移動を制限する国内旅券制度が勅令によって導入された。

設問(7)この勅令を出したロシアのツァーリ(皇帝)の名を記せ。

設問(8)国民の移動をなぜ制限したのか、その理由を1行で記せ。

 

(E)人々の移動には自由意志による移民もあったが、黒人奴隷のように強制的に大西洋を横断して運ばれたこともあり、こうして西半球に送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人を超えると推定されている。

設問(9)奴隷制プランテーションが発展をみたカリブ海におけるフランスの植民地はどこか、その地名を記せ。

設問(10) アメリカ合衆国の北部では、奴隷から解放された黒人をアフリカに送り返す動きが生じ、その結果1840年代にアフリカ西海岸に黒人国家が建設された。その国名を記せ。

 

(F)人々の移動には、人々の流出を生み出すプッシュ要因と流入をうながすプル要因となる出来事が顕著に認められる場合がある。以下の場合の移動の主な要因と考えられる出来事を記せ。

設問(11)1840年代後半のアイルランドからの流出

設問(12) 1860年代後半から70年代にかけてのアメリカ合衆国への流入

設問(13) 1880年代後半から90年代にかけての南アフリカへの流入

設問(14) 1960年代後半から70年代にかけての南べトナムからの流出

 

(G)19~20世紀の交通革命は、人やものの移動をうながし、また列強の帝国主義的政策の手段ともなった。

設問(15) 次の事項を時代順に並べよ。解答は古い順から記号(a~d)で記せ。

a.ドイツのバグダード鉄道敷設権獲得

b.シベリア鉄道の着工

c.パナマ運河の完成

d.イギリスのスエズ運河株式買収

 

(H)ナチス・ドイツの政治的抑圧や人種主義政策によって、多くの人々が国外への亡命を余儀なくされた。この中には.著名な科学者や作家も少なくなかった。

設問(16)亡命した代表的な科学者の名を一人記せ。

 

(I)南アフリカ政府は、第二次世界大戦後、少数白人の利益を守るために、黒人に居住区を指定したり、移動を制限する政策を導入した。

設問(17)この政策の名称を記せ。

 

(J)国際的対立も人々の移動の重要な原因となることがある。イスラエル建国をめぐる紛争の場合にも、難民として移住を強いられる人々が生じた。

設問(18) これらの人々を政治的に代表するものとして、1964年に結成された組織の名を記せ。

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[第1問の解き方

 (1)政治史になりやすいから気をつけるように。東大が要求するのは政治史でなく文化や経済の広い交流・対立史です。問題は長い時間の興亡史でもあるので、どうしても政治史になりがちな問題です。

 (2)「どのような文明がおこり」とある以上は、○○文明と明示し、かつ「どのような」ということは内容を問うているのですから、ローマ文明ならヘレニズム文化の継承発展で済まさないで、ローマらしい文明の内容(道路・橋・公共建築物などの土木技術、ローマ法(万民法)、キリスト教など)を盛り込むべきです。ここで文明とは、精神的なものや、技術や物質的なものをすべて含めて一定の時代に栄えた諸文化のまとまった総合体であり、多民族に浸透したもの、とみなします。ローマ文明、ビザンチン文明という風に。少なくとも政治体制や王朝の興亡史ではありません。

 (3)「周辺地域」の文明も要求されていることに注意。周辺にイスラーム文明を書いたら地中海以外の文明を書いたことになるのか? そんなことはありません。地中海の南全体がイスラーム文明圏ですから、それ以外の地域でないと「周辺」になりません。イスラーム文明も地中海文明のひとつです。ペルシア・パルチア・東欧のなんらかを書かなくてはならない。

 イスラーム文明は地中海でなくアラビア半島に「おこり」だから、この中に入れなくていいのではないか、と疑問におもうひともいるでしょう。しかしムハンマド自身がメッカだけでイスラーム教をつくったのではなく、北のシリア(地中海沿岸)に隊商貿易に行ってきて、そこのユダヤ人商人・キリスト教徒商人と接触し、また何よりコーランに両宗教の影響が強く表れているように、かれらを通してムハンマドが目覚めて、セム語族の純粋な宗教、アブラハム(ユダヤ人の先祖の一人)のときの宗教を復興しようとしてできたものです。イスラーム教のスタートがアラビア半島だけで起きたのではありません。

 また「イスラーム文明」と言えるようになるためには、地中海世界の文明との接触・影響なくして形成されなかったものです。『詳説』の「イスラーム文明の特徴」という説明の初めに、

 イスラーム帝国は,古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。イスラーム文明は,これらの文化遺産と征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語とが融合してうまれた新しい都市文明である。バグダードやカイロなど大都市に発達したこの融合文明は……

 イスラーム教徒の学問が飛躍的に発達したのは,9世紀初め,ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び,臨床や観測・実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。

 イスラーム教徒はギリシア哲学,とくにアリストテレスの哲学を熱心に研究した。イスラーム思想界は,10世紀以後しだいに神秘主義思想の影響を強くうけるようになったが,信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論を学び,……イブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス)がいる。

 このルシュドはコルドバの出身でした。このようにイスラーム文明は9世紀以降でしか言えない文明です。7-8世紀の段階では征服者として既存の社会に乗っいただけで、9世紀から他文明と接触して文明らしくなってきます。

 また『詳説』の中に地中海世界と周辺地域の文明との密接な関係についてこう書いています。

(東欧)東ヨーロッパではビザンツ帝国(東ローマ帝国)がローマ帝国の伝統を引きつぎ,皇帝はギリシア正教会を服従させて中央集権的一元支配を維持した。スラヴ系諸民族もギリシア正教とビザンツ文化の影響下で自立・建国し,ビザンツ帝国とともにギリシア=スラヴ的世界を形成した。
(イラン文明)初期のパルティアの文化はヘレニズムの影響を強くうけ,王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおびていた。しかし紀元1世紀ころ,イランの伝統文化が復活しはじめると,ギリシアの神がみとイランの神がみとが,ともにまつられるようになった。

 またつぎのササン朝の時代に,イランの民族的宗教であるゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編集された。3世紀の宗教家マニは,ゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合して新しくマニ教をおこした。

 さあ、これらの記事を利用して書いてみましょう。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問 (1)ルイ14世 (2)ブランデンブルク=プロイセン(イギリス、オランダ) (3)イェルマーク (4)農奴制の圧迫をのがれてロシア東南辺境に移住した農民 (5)ヴァージニア (6)プリマス(マサチューセッツ、ニューイングランド) (7)ピョ一トル1世 (8)新設した諸税の脱税を防ぐため (9)ハイチ (10)リベリア (11)ジャガイモの疫病・凶作による飢饉 (12)ホームステッド法と大陸横断鉄道の開通 (13)トランスヴァール共和国での金鉱発見 (14)ヴェトナム戦争 (15)(古い順に)d→b→a→c  (16)アインシュタイン (l7)アパルトヘイト(人種隔離)政策 (18)PLO(パレスチナ解放機構)

東大世界史1994

第1問

 13世紀は「モンゴルの世紀」と呼ばれる。チンギス・ハーンが、モンゴル高原を統一してモンゴル帝国を築くと、続いて各ハーンが度重なる征服戦争をおこなった。彼らは中国を支配したばかりてなく、朝鮮半島、東南アジアまで勢力を伸ばし、さらに中東イスラム世界、ロシア・東欧にいたる大帝国をつくりあげた。

 マルコ・ポーロは、「東方見聞録」の中で、この帝国の多様な性格について、次のように述べている。

 フビライ・ハーンは11月にカンバルック(大都)に帰還し、そのまま2~3月の候までそこに逗留している間に、われわれの復活祭の季節がめぐって来た。……彼は盛大な儀式を催して自ら何回も福音書に焼香した後、敬虔な態度で吻(くちさき)を、これに当て、かつ居並ぶすべての重臣・貴族にも命じて彼にならわしめた。この儀式はクリスマス・復活祭といったようなキリスト教徒の主要祭典に際してはいつも挙行される例であった。しかしハーンはイスラム教徒・偶像教徒(仏教徒)・ユダヤ教徒の主要聖節にも、やはり同様に振る舞うのだった。

 このモンゴル帝国の各地域への拡大過程とそこにみられた衝突と融合について、宗教・民族・文化などに注目しながら論ぜよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に20行(1行30字)以内(600字)で記せ。また使用した語句には下線を付せ。

  ガザン・ハーン、 色目人、 バトゥ、 大理国、 駅伝制、

  モンテ・コルヴィノ、 細密画、 マジャパイト王国、 授時暦

 

第2問

 世界史における農村社会の変動について、下記の設問(A)~(C)に答えよ。解答は解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(C)の符号をつけて記せ。

(A)18世紀イギリスでは、農村社会に大きな変化が起こり、それが工業化にも一定の影響を与えた。この変化について、3行以内で記せ。

(B)ロシアでは、近代になっても土地問題や農民問題が重要な課題でありつづけた。 1860年代はじめから1910年代末までにこの国でとられた代表的な農村社会変革の政策について、5行以内て記せ。

(C)中華人民共和国の経済政策においても、農民問題は重要な位置を占めている。中華人民共和国成立後1950年代末までの中国の農村経済政策について、3行以内て記せ。

 

第3問 

 世界史上、一つのくにの中に言語・文化・宗教などの面で異質な複数の集団(民族またはエスニック・グループ)が含まれる場合がしばしば見られる。前近代におけるこのような状況を述べた以下の短文を読み、設問に答えよ。解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して解答を記せ。

(1) 政治的に他民族の支配下に置かれた民族が、文化的には逆に支配者に大きな影響を与えるということが、歴史上しばしば起こっている。その一例として、アケメネス朝ペルシアでは、被支配民族の言語が帝国の共通語となった。この被支配民族の名称と、この民族がまだ独立を保っていた頃の中心都市の名称を記せ。

(2) 政治的な独立を失っただけでなく、異郷への移住を余儀なくされた民族が、その後も長く民族としての一体性を保持するうえで、民族宗教の果たした役割はきわめて大きい。その最も有名な例がユダヤ教である。この宗教が成立する契機となった歴史上の出来事の呼称と、それが起こったのは何世紀かを記せ。

(3) 被支配民はしばしば制度的に社会の最下層に置かれて、差別的な支配を受けた。アーリア人侵入後の古代インドでは、四つの種姓からなる厳格な身分制度が成立し、その最下位に先住民を中心とする隷属民階層が置かれた。この種姓における最上位及び最下位身分を何と呼ぶか。それぞれ記せ。

(4) 中国大陸では、古くから漢民族の文化圏となっていた華北で、4世紀に北方起源の民族が動乱を誘発し、北方や西方から新たにいくつかの民族が移動した。この頃華北で建国し、興亡をくりかえしたこれら諸民族を総称して何と呼ぶか。また、そのうちチベット系の民族名を一つ記せ。

(5) 隣接する民族が文化的に魅力に富む場合、その文化を吸収する際の対応は一様ではない。中国を中心とする文化圏におけるこの種の対応の中で、固有の文化を意識するにいたった結果、漢字風文字を制定した事例がいくつかある。その中で10世紀に中国の北辺地帯を占領した民族が建てた王朝名と、その文字の名称を記せ。

(6) 異民族の大集団を治めるために、支配者自らが意識的に被支配民族の宗教や文化を取り入れる場合もある。例えば、5世紀末のガリアでは、フランク人の王が被支配民族の間で優勢だった宗教に帰依している。この被支配民族と、彼らが信奉した宗教の名称を記せ。

(7) 民族移動ののち、ある民族が新しい定住地に征服者として新しい王朝、あるいは王国、公国を建設し、先住民族がその被支配民となる場合は、民族の共存状態が存在する。9世紀から12世紀にかけてのイングランド、シチリア・南イタリア、バルト海東岸の内陸部・ドニエプル川流域に、こうした新しい王朝、王国、公国を建設した人々は同じ民族に属していたが、その呼称と、彼らの地理的起源を記せ。

(8) (7)の人々により9世紀にドニエプル川のほとりに建設された公国の名称を記せ。また、この征服者たちに大きな文化的影響を与えることになる先住民族の名称を記せ。

(9) イングランドでは、5~6世紀にも外来の民族による征服活動がおこなわれた。その結果、被支配民の地位に置かれることになった先住民族と、新たに支配者の地位におさまった民族の名称を記せ。

(10) 征服や侵入によってではなく、外部の脅威に対抗するために、二つの異なった民族が手を結んで一つの国を形成し、協力しあうようになることもある。例えば、14世紀末にポーランド人とリトアニア人は連合して新しい王朝を建設した。新しく創設された王朝の名称と、この場合脅威となった外部の勢力を記せ。

………………………………………

[第1問の解き方

 課題は(1)拡大過程 (2)衝突と(3)融合です。それが(2)(3)が宗教・民族・文化の分野ごとに注目して書け、ということで、複雑です。また融合は書けても衝突はなかなか書ける受験生がいません。ここで差がつきます。(2)(3)をからませて(1)を主に書いていく方法と、(1)を書いてから(2)(3)を書く方法とがあります。その際

(2)衝突──宗教的衝突・民族的衝突・文化的衝突

(3)融合──宗教的融合・民族的融合・文化的融合 

という構成です。この順で厳密に書くのは難しいですが、衝突→融合という流れで書いていくとある程度は網羅できます。

[第2問の解き方

(A)農村社会の変化として囲い込み(エンクロージャー)を書くのはいいのですが、「工業化」があるため、追い出された農民が全部都市に行ってしまったかのように書かないように。資本主義的農業経営(地主・大借地農・農業労働者の3者による経営)についてどれだけ書けるかがキーポイントでしょう。「農村社会の変動」が主なのであり産業革命ではありません。

(B)1910年代末がロシア革命も含んでいることに気をつけなくてはなりません。

 農奴解放令→ストルイピンの農業改革→ロシア革命による国有化→戦時共産主義の順です。

(C)これも50年代末の人民公社とその失敗(1959年の秋から明らかに)まで書けるかどうか。

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問

(1)アラム人,ダマスクス (2)バビロン捕囚、前6世紀 (3)バラモン,シュードラ (4)五胡、テイ[「低」の人偏がない外字](羌) (5)遼,契丹文字 (6)ローマ人(ラテン人)、アタナシウス派キリスト教(ローマ・カトリック) (7)ノルマン人、スカンディナヴィア・デンマーク  (8)キエフ公国、スラヴ人 (9)ケルト人、アングロサクソン (10)ヤゲロー(ヤゲウォ)朝、ドイツ騎士団

東大世界史1993

第1問

 現在、世界は冷戦の終わりを迎えている。第二次世界大戦後、長期にわたって世界史の流れに大きな影響を与えた冷戦は、世界の各地域で異なった現われかたをした。冷戦下の深刻な問題の一つが分裂国家の出現であったが、これまでにヴェトナムとドイツの二つの分裂国家が統合されている。この二つの分裂国家の形成から統合への過程を、冷戦の展開と関連づけて略述せよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に20行以内(600字)で記せ。また、使用した語句には下線を付せ。

  ゴルバチョフ  ジュネーヴ会議  封じこめ政策  平和共存  ベルリンの壁

 

第2問

 世界史上における宗教的少数派と中央権力の関係について、下記の設問(A)~(C)に答えよ。解答は、解答欄(ロ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(C)の符号をつけよ。

(A) イスラム世界における少数派としてシーア派がある。10世紀のイスラム世界で成立したシーア派の王朝名を二つあげよ。つぎに改行して、これら二つの王朝がスンナ派のアッバース朝カリフにどのように対応したかを、それぞれ2行以内で記せ。

(B) 16世紀にネーデルラントがスペインに対して反乱を起こした原因の一つに、宗教上の争いがあった。ネーデルラントが反乱を起こしてから、独立を宣言するまでの経過に、宗教上の争いがどのように関係していたかを、5行以内で記せ。

(C)清朝は義和団事件に際して、列強と交戦し、敗北して北京議定書を結んだ。民間宗教結社の流れをくむ義和団と清朝との関係について、義和団事件の時期を中心に、3行以内で記せ。

 

第3問

 ローマ帝国および秦漢帝国は、ともに世界帝国の名にふさわしい巨大な支配体制を築いた。それだけに両帝国の解体は、それぞれの世界の内外に大きな変動をもたらした。この事情に関する次の(A)と(B)との文章を読み、下線部についての各設問に答えよ。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(9)の番号を付して記せ。

 (A) 古代ローマは、地中海沿岸地域をその強大な軍事力によって征服し.世界帝国へと発展した。しかし、内政の破綻やゲルマン民族の侵入などによって、5世紀には西のローマ帝国が減亡した。西ヨーロッパ世界では、西のローマ帝国の滅亡後、移動してきたゲルマン諸部族の国家が分立した。だがゲルマン諸部族は、(1)必ずしも現地のローマ系住民と融合できたわけではなく、それらの国家は権力基盤が弱体で、大半が短命に終った。しかしそのなかで、故地を離れず着実に発展したフランク王国が、古代ローマの遺産であるキリスト教思想、古典文化の伝統、(2)帝国の理念を採り入れ、西ヨーロッバに新しい政治体制をつくりあげた。

 いっぽう東のローマ帝国は、ビザンツ帝国として生きながらえ、6世紀には一時的にではあるが、(3)地中海沿岸のほぼ全城を制圧するほど強大になった。ビザンツ帝国では、古代ローマ以来の専制君主制が受け継がれ、(4)皇帝は政治と宗教の両面における最高権力者であった。また皇帝による中央集権的な支配を維持すべく、7世紀には(5)独特の行政制度がつくられた。

設問

(1) 融合できなかった理由の一つに宗教的な問題がある。それは何か。1行で記せ。

(2) 「帝国の理念」の復活は、とりわけビザンツ帝国からの独立を願う教皇庁にとって、重要な問題であった。この復活を企てた教皇の名を記せ。

(3) このときビザンツ帝国に滅ぼされたゲルマン部族の国家を二つあげよ。

(4) ビザンツ帝国でのこうした政治と宗教のありかたを何と呼ぶか。

(5) こうした制度を何と呼ぶか。

 

 (B)  東アジアの世界帝国は、専制主義的中央集権国家として出現した。秦漢帝国である。この帝国の末期には、耕作地の造成や維持管理がゆき届かなくなり、農民たちは(6)宗教結社にたよりつつ、為政者の交替を求める反抗を始めた。この活動は、やがて全国的な規模での大反乱に発展し、その嵐の中で秦漢帝国は崩壊した。中国はその後、晋朝の一時期をのぞいて、長い分裂の時代に入った。この時代、華北の畑作地帯では、南下した北方の遊牧・狩猟系の諸民族の一つである(7)鮮卑族によって専制主義の体制が再建された。いっぽう稲作地帯の江南では、大土地所有者による荘園の経営が発達し、(8)一部の貴族層が、(9)政府の要職を独占した。しかしこの江南でも、基本的には専制支配の体制が保たれたのであり、中国では、西ヨーロッパ世界とは違った歴史の展開がみられた。

設問

(6) この反抗を導いた宗教結社の名を一つあげよ。

(7) 華北における農業生産の復興は、平均主義に立つ土地制度が基礎となっている。485年にこの土地制度を実施した皇帝は誰か。またこの皇帝は、華北での政権を確立するために遷都を行なっている。どこからどこに遷都したのか。この二つの都の名を、旧と新の順序であげよ。

(8) この貴族層が主導した江南の文化を総称して何と呼ぶか。

(9) この結果を生んだ当時の官吏登用制度を何と呼ぶか。

………………………………………

[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「ヴェトナムとドイツの二つの分裂国家が統合されている。この二つの分裂国家の形成から統合への過程を」です。副問(副次的要求)は「冷戦の展開と関連づけて」です。この副問は指定語句が国際的に書かざるをえない語句になっており、容易な問題になっています。確かに問題文の序文にあたるところで「異なった現われかたをした」とありますが、次の本格的な要求文のところでは、「異なった」ことを示せという比較の要求がありません。要求してもいい訳ですが、そうすると難問化します。避けたのでしょう。過去に「朝鮮戦争とヴェトナム戦争の原因・国際的影響・結果について、両者を比較しながら」という問題がありました(1987年度)。こうした問い方でないことがわかるはずです。

 [第2問の解き方

 (A)易問です。年号を覚えていないとぱっとは分からないかも知れません。年号を覚えているとすぐ出てくるはず。ファーティマ朝が909年にチュニジアに建国。これがエジプトに入りカイロをつくったのが969(黒雲ふってわく)年です。ブワイフ朝が945年にバグダードに入城しています(急進ごんじ(軍事)政権ブワイフ朝)。

(B)「宗教上の争い」というものがどの程度、いやできるだけしつこく追いかけて記述できるかがポイントです。ベルギーとなる南部がはじめからカトリックが多かったという、まちがった前提から書かないように。もともとはベルギーという都市(ブリージュ、ガン、イープル、アントワープ)の発展したところに、カルヴァン派が多かったのです。だからこそスペインによる新教徒弾圧はベルギーにはげしく、南部から北部にむかって逃亡していくひとひどがおおくなりました。アントワープをスペインは焼き討ちしました。結果的に北部が新教徒に多い地域になってしまいます。はじめから北部が新教徒の多い地域だったのではありません。

(C)「清朝との関係」とは西太后の対応が揺れうごい点がちゃんと書けるかがポイントです。義和団を利用して宣戦布告をしても情勢が思わしくなくなると裏切って、連合軍と組んで弾圧せよと命じます。。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問  

(1)ゲルマン人はアリウス派の異端信仰、住民は正統派であったため。 (2)レオ3世 (3)ヴァンダル王国、東ゴート王国 (4) 皇帝教皇主義 (5) テマ制 (6)太平道 (7)孝文帝、平城、洛陽 (8)六朝文化 (9)九品官人法

東大世界史1992

*[東京大学]*[過去問]

第1問 (○の中に数字を入れた記号はOSにより表示できないので、〔 〕の中に数字を入れて示します、1字分のつもりです)

  今日の地球は、ほとんどが独立した主権をもつ国家によっておおわれている。このように国際社会が主権国家によって構成される状態を、主権国家体制と呼ぶことができるが、それは歴史的に形成されたものであった。右ページの、〔1〕南北アメリカ、〔2〕東ヨーロッパ、〔3〕東南アジア、を中心とする概略図は、白い部分が主権国家体制のもとにある地域を表している、これら三組の地図は、主権国家により構成される国際関係の発展にとって画期をなした三つの世界的変動の、それぞれの前後の時期の変化を示したものである。この三組の地図に示された変化の特色に注目して、主権国家体制がそれぞれの段階でいかなる新しい展開を示したかを、20行以内(600字)で論ぜよ。解答は解答用紙の(イ)の欄に記入せよ。 

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第2問

 17世紀から19世紀初頭までの間における、世界的な規模での商業上の覇権争いと植民地争奪戦とについて、下記の設間(A)~(D)に答えよ。解答は解答用紙の(ロ)の欄を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(D)の符号を付けよ。

 (A)17世紀に、オランダとイギリスはアジアにおいても香辛科貿易をめぐって抗争したが、その抗争を示す事件の名称とその事件の結果とを、3行以内で記せ。

 (B) 1651年にクロムウェルは航海法(航海条令)を発布したが、その航海法の目的と結果とを、3行以内で記せ。

 (C) 七年戦争の時期に、イギリスとフランスは新大陸およびアジアで植民地をめぐって抗争したが、その抗争の経緯と結果とについて、5行以内で記せ。

 (D) 1806年にナポレオン1世は大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布したが、その大陸封鎖令の目的と結果とを、3行以内で記せ。

 

第3問 

 東西の世界を結ぶ貿易や交易が実現される背景には、各世界独自の文明と、それぞれの政治・経済の面での動因とがあった。このような事情に関する以下の各設問について、解答用紙(ハ)の欄を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(15)の番号をつけて答えよ。

 

(A)中国の伝統的な対外貿易は、中華思想にもとづいて、他国に対する恩恵とされ、国家の統制のもとにおかれていた。

 設問(1) この独特の国家的な貿易様式を何というか。

 設問(2) 唐代には、南海貿易の繁栄にともない、貿易事務をつかさどる役所が設けられた。その役所とは何か。

 設問(3) 宋代には、江南の開発にともない、東アジア諸国や、のちにはヨーロッパにまで輸出されて、それらの国ぐにの生活習慣に影響を及ぼすことになる作物の栽培が盛んになった。その作物は何か。

 設問(4) 明代初期には、日本との貿易もふくめて、海上貿易が一段と進展した。その事情について、以下の三つの用語をすべて使って、2行以内で記せ。

  鄭和  勘合貿易  倭寇

 設問(5) 中国が対等な「外国」の存在を認めたのは、のちの清朝になってからであるが、この事情を象徴する新設の外交機関は何か。

 

(B) 7世紀から形成されはじめたイスラム世界は、イベリア半島から中央アジアにまで広がるに至り、海上でも、インド洋から東南アジアをへて南中国沿岸部に達する交易ネットワークをつくり出した。

 設問(6) 中国から中央アジアをへてヨーロッパに達する陸の交易路では、隊商(キャラバン)貿易が栄えた。中国から西方に送りだされた代表的な商品の名を一つ記せ。

 設問(7) 13世紀に入ると、新たに台頭した(a)非ムスリムの遊牧民族が、より西方にあって(b)ムスリム化しつつあった別の遊牧民族を圧倒し、この交易路を支配下においた。これら二つの民族の総称を、それぞれ(a)、(b)の符号を付して記せ。

 設問(8) 海の交易路は、中国からの高価な工芸品などを主要な交易品として繁栄した。その工芸品の代表的なものを一つ記せ。

 設問(9) この海の交易路における中継貿易をとおして、15世紀には、マレー半島先端部にムスリム系の港市(港湾都市)が栄えた。この港市名を記せ。

 設問(10) 陸海の東西交易路をムスリムが掌握したことに対抗して、15世紀末にはポルトガル人がインド洋に進出し、これより16世紀にかけて、海上のムスリムの交易ネットワークの分断をはかった。このとき、インド西岸でポルトガル人が中心的拠点とした都市はどこか。その都市名を記せ。

 設問(11) まもなくポルトガル人は、東南アジアでも、この地でのムスリムの交易ネットワークを分断しつつ、中国南部に至る自らの交易ルートの確立をめざした。中国南部でポルトガル人が拠点とした港市名を記せ。

 

(C)ヨーロッパ諸国のアジアへの進出と、18世紀以後のイギリスの経済的変動は、アジアの社会にも大きな変化をもたらした。

 設問(12) 次の表中の商品(a)は何か。また表中の商品(b)は、輸出先の地城で重要な政治的変化をもたらす契機となった。この(b)とは何か。それぞれ(a)、(b)の符号を付して記せ。


設問(13) 19世紀半ばのインド大反乱(セポイの反乱)についての記述として適当なものを、次の⒜〜⒝のうちから選んで符号で答えよ。
(a)この時期には、すでにインドでも近代的な綿工業や鉄鋼業が発展しており、民族資本の要求もこの反乱の背後にあった。
(b)この反乱では、国産品愛用が重要なスローガンとなった。
(c)非イスラム教徒に対する人頭税(ジズヤ)を課したことがヒンドウー教徒を怒らせて、この反乱の原因の一つとなった。
(d)この反乱では、イギリス支配のもとで権利を失った旧来の支配層も重要な役割を果たした。
(e)19世紀前半は、イギリスなどから海外への資本輸出が最も盛んだった時期で、この反乱はこれに対する反発でもあった。

設問(14) 19世紀前半頃より、オランダがジヤワにおいて、コーヒーやさとうきび等の作物を獲得するために採った制度の名は何か。

設問(15) 東南アジアでは、ゴムなどのプランテーションや錫などの生産が拡大するが、国外からの労働者が多数そこで働いた。これらの国外からの労働者の主な供給地域となった国のうち、一つを挙げよ。

………………………………………

[第1問の解き方

 主問(主たる要求)は「この三組の地図に示された変化の特色に注目して、主権国家体制がそれぞれの段階でいかなる新しい展開を示したか」です。このうちの「変化」は左右の2枚の地図上に示されています。左から右への変化をよく見て、他の2枚の地図の変化と比較しながら(比較しないと、「特色(=他とのちがい)」も判りません)、この地図は(あるいは、この時期の)変化はこうこうだったが、それとちがい次の地図(時期)では、こんな「新しい」展開があったと述べることです。「新しい」というのは、前とはちがう変化が起きているということを示す必要があるということです。ところが学生に書かせてみると、地図ごとにそれぞれの変化、たいてい独立の過程を書くだけで、いったい、それぞれにどういう特色があるのか、なにが他の地図と比べて「新しい展開」なのか、さっぱり触れられない答案ばかりです。出版されている参考書も同じです。たんに、それぞれの変化を書きなさいであれば、なにも地図まで必要ではありせん。18~19世紀のアメリカ大陸、第一次世界大戦前後の東欧、第二次世界大戦後の東南アジアのそれぞれについて主権国家の成立を述べよ、でいいはずです。なんでまた、6枚もの地図が必要だったのか? 見つめて(「注目して」)考えることを要求し、特色をつかみだす能力を診断しようとしている問題です。

わたしの解答例

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。この参考書に載っている第1問の4種類の解答例のうちレベル1の解答例を下に示します。


図〔1〕では西欧植民地であったアメリカ大陸が独立した。憲法は、人間の自由・平等、圧政に対する反抗という近代民主政治の基本原理をもち、合衆国は連邦主義と大統領制・連邦議会・最高裁判所の三権分立の政体となった。ラテンアメリカも共和政で、奴隷制を廃止し、近代的な憲法を制定した。ただしクリオーリョの大地主の支配があり、憲法と社会との乖離は大きい。モンローがアメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉をとなえたため、ウィーン体制はこれらの独立運動に干渉することができなかった。多民族であったが大きな混乱もなく国造りができた。図〔2〕では東欧が独立した。原理は民族自決であり、旧帝国内の諸民族が独立した。しかし少数民族問題をかかえて国内のまとまりを欠いていた。議会政治ははやくから混乱し、民主政治を維持できた国は少なかった。むしろ過激な民族主義や強権的独裁政治で国民を統合しようとした。ただ従来の勢力均衡に代わる集団安全保障の国際連盟ができて、主権国家の動きを制限する国際体制を築いた点は新しい。図〔3〕は東南アジアの独立である。この地域への日本の侵略・抗日戦、そして戦前からの西欧諸国に対する抵抗運動も重なって、この地で独立闘争が展開した。どこも共和政になったが社会主義も原理として採用されている点が新しい。この闘争を背後から中ソという社会主義大国が支援し、米国が旧勢力を支援して冷戦という二極体制がこの地域で展開した。

第2問

(A)アンボイナ事件。イギリスが撤退しインド経営に専念した。またオランダは香料貿易を独占した。しかし賠償を要求するイギリスとの対立が深まり英蘭戦争の遠因となった。 

(B)中継貿易を主とするオランダに打撃を与え、イギリスの重商主義を徹底するため。3回にわたる英蘭戦争がおこりイギリスが勝利した。以後海上における覇権をイギリスに奪われることになった。 

(C)まず新大陸でフレンチ=インディアン戦争が勃発、イギリスはフランスの拠点ケベックを攻略して勝利し、パリ条約でカナダとルイジアナを獲得した。インドでは、東インド会社の書記クライヴが活躍、プラッシーの戦いでフランスとベンガル土侯の連合軍を破り、ベンガル地方を獲得しムガル皇帝から地税徴収権を認可された。 

(D)イギリス経済に打撃をあ与えるため大陸諸国にイギリスとの通商を禁じ、フランス産業のために大陸市場を確保するのが目的。結果はかえって各国の経済を圧迫し、ナポレオンの大陸支配を動揺させた。

第3問 

(1)朝貢貿易 (2)市舶司 (3)茶 (4)倭寇制圧を条件に室町幕府と明との間で勘合貿易の制度が確立され、鄭和一行の南海諸国歴訪ににより朝貢貿易国が増加した。 (5)総理各国事務衙門 (6)絹 (7)(a)モンゴル族 (b)トルコ族 (8)陶磁器 (9)マラッカ (10)ゴア (11)マカオ (12)(a)綿布 (b)アヘン (13)d (14)強制栽培制度 (15)中国(インド)

東大世界史1991

第1問

 西アジアのイスラム世界では、9世紀半ばを過ぎるとカリフの権威はしだいに失われ、官僚と軍隊にたいして現金俸給を支払う体制を維持することがむずかしくなった。西ヨーロッパではフランク王国の分裂後、諸侯が割拠し、南アジアでもハルシャ・ヴァルダナの死後、地方政権が乱立する状態になった。

 まず西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、解答欄に20行(600字)以内で記せ。

  カリフ制、イクター制、マムルーク、スルタン制、封建制度、教皇権
  絶対主義(あるいは絶対王政)、ヒンドゥー教徒、人頭税

 

第2問

 中国史上の移住に関する以下(A)~(D)の文章を読み、おのおのの文章に対応する設問に答えよ。解答は冒頭に(A)~(D)の符号を付し、解答欄(ロ)に記せ。

 

(A)殷・周から春秋時代の半ばまで、黄河の中流域を本拠とする漢族の支配域のなかにも、またその周辺にも、多くの少数民族が住んでいた。

 設問

  春秋時代の半ばから戦国時代にかけて、漢族の有力な諸侯の国々はこうした少数民族をしだいに征服・同化し、広域国家をつくり上げていった。この時期の漢族の拡大に関係する技術上ならびに経済上の主要な変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

(B)秦漢の統一から三国、魏晋南北朝にかけて、政府がすすめた移住や開墾、あるいは遊牧民の侵入からの避難などにより各地方で移住が活発になり、しだいに空白地が埋められて中国本土の地理的一体性と文化的同質性が促進された。

 設問

 華北においては、三国時代から北朝の時代にかけて、政府が開墾定住をうながすとともに、豪族の大土地所有をおさえる目的でおこなった三つの制度名が知られている。それぞれにつき実施した王朝名および制度名を時代順に挙げよ。

 

(C)唐の半ばから、政情の不安を避け、より安定した生活を求めて、中国の北方から南方に向けて大量の移民が生じ、宋代には南方の人口は北方のそれをこえるようになった。

 設問

 南方での人口増加に関係の深い技術上ならびに経済上の変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

(D)明の半ばから清代にかけて、経済が大いに発達した。農業移民がさかんになったほか、遠隔地を遍歴する商人集団がおこり、また海外に進出する華僑が多くなった。

 設問

 国内諸都市や華僑居留地で、会館や公所とよばれる組織が発達した。この組織の特色と役割を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

第3問 

(A)以下の設問(1)~(5)につき、解答欄(ハ)を用いて答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(5)の番号を付して記せ。

 

 (1)紀元前8世紀から紀元前4世紀にいたる古代ギリシアでは、おのおののポリスが小規模ながら独立の国家としての機能を発揮したが、しかし時には強力なポリスを中心に都市同盟が形成され、それらが歴史の移り行きに大きな役割を果たすこともあった。アテネを盟主とするその代表的な事例の名称と、この同盟が深くかかわったギリシア世界を二分する戦争の名称とを、それぞれ記せ。

 

 (2)共和政ローマは、紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて地中海周辺の諸国家の統一に努め、それを達成した。この地中海世界統一の過程でローマと最後に戦い敗北したヘレニズム国家の名と、その時の国王の名とをともに記せ。

 

 (3)北欧を原住地とするゲルマン民族の一派ノルマン人は、9世紀頃からヨーロッパ各地に侵入し、政治的にも経済的にも混迷の時期にあったヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。彼らの一部は遠く地中海にまで達し、教皇の認可により王国を建設している。その国名を記せ。

 

 (4)ヨーロッパ中世において神聖ローマ帝国は、ドイツ人以外の民族をも包摂するものであった。チェコ人はそのひとつであるが、彼らは帝国内でべーメン(ボヘミア)王国を形成していた。15世紀はじめにこの地で、カトリック教会を痛烈に批判する改革運動が生じたが、それはチェコ人の民族運動の側面ももっていた。この当時のべーメン(ボヘミア)における教会改革派の中心人物の名と、この人物を異端として断罪した公会議の名を、それぞれ記せ。

 

 (5)中世後期にイギリスとフランスの間で戦われた百年戦争は、それまでの入り組んだ封建的知行関係を整理し、あらたに民族を中心単位とする国民国家形成への道を開いた。百年戦争の原因のひとつとしては、フランスがフランドル地方へ支配権を及ぼそうとしてイギリスの利害と衝突し、その反発を招いたことがあげられる。当時イギリスにとり、フランドル地方が非常に重要な地域であったのはなぜか。1行以内で記せ。

 

(B)次の文章を読み、下線部(1)~(4)に応じた設問(1)~(4)に答えよ。(A)と同じく解答(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(4)の番号を付して答えを記せ。

 1848年、(1)パリに勃発した二月革命は、ヨーロッパ各地に波及した。まずウィーンでは、3月、市民・学生・労働者などが反乱を起こし、軍隊と衝突。ウィーン体制の立役者メッテルニヒは、亡命を余儀なくされた。ベルリンでも、同じころ、大規模な民衆による蜂起が発生した。5月には、フランクフルトで(2)ドイツ史上初の(3)国民議会が開かれた。(4)ハンガリー、べーメン(ボヘミア)、北イタリアなどでは、おさえつけられていた諸民族の独立運動が一気に高揚した。

設問

(1)この革命は、パリの民衆が掲げた要求を政府が退けたことを契機に起こったものである。民衆の要求のなかで特に重要なものを一つ記せ。

(2)ドイツ生まれのマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が、1848年2月ロンドンで発表されている。これは最初ドイツ語で書かれたが、やがてフランス語、英語、ポーランド語、ロシア語など各国語へ翻訳されていった。1848年前後のドイツ、フランス、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランド、ロシアの政治状況に関する以下の文章(a)~(f)のうち、不適当なものがあれば(a)~(f)の符号で記せ。ないと思う場合は「なし」と記せ。

(a)ドイツでは、フランクフルト国民議会に多くの社会主義者が進出した。しかし、自由主義者のきびしい抵抗にあい、十分な労働者救済政策を打ち出すことはできなかった。

(b)フランスでは、二月革命によって成立した臨時政府に、労働者を代表する社会主義者が加わった。この政府は、国立作業場(国立工場)を設置するなど労働者救済政策を展開した。

(c)イギリスでは、チャーティスト運動が最後の高まりを見せていた。しかし、農業労働者にまで選挙権が拡大するのは、1867年の第2回選挙法改正を待たなければならなかった。

(d)アメリカ合衆国は、西部開拓の最終段階を迎えていた。領土の西への拡大にともない、奴隷制の存続や自由貿易を要求する南部と、これに反対する北部との対立が激化した。

(e)ポーランドは、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国によって分割統治されていたが、民族独立運動は二月革命以前からすでに表面化していた。

(f)ロシアでは、依然として農奴制が強固で、地主層にささえられたニコライ(ニコラス)1世の専制政治が行なわれていた。農奴の人格的な解放はクリミア戦争敗北以後のこととなる。

(3)ここで論じられた主題は何か。1行以内で記せ。

(4)ここでの民族運動は、当時どの国からの独立をめざしていたか。以下(a)~(e)のうちから一つ選び、解答を(a)~(e)の符号で記せ。

 (a)神聖ローマ帝国  (b)プロイセン王国 (c)ロシア帝国 (d)オーストリア帝国 (e)オスマン帝国

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第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。
第3問(A)(1)デロス同盟、ペロポネソス戦争 (2)プトレマイオス朝エジプト、クレオパトラ(7世) (3)ナポリ王国(シチリア王国/両シチリア王国) (4) フス、コンスタンツ公会議 (5)毛織物工業の発展するこの地方へイギリスは羊毛原料を輸出していた。  (B) (1)選挙法改正 (2)a(「多くの社会主義者」がまちがい)、c(農業労働者が選挙権を得るのは第3回) d(最終段階は1890年) (3)統一をめぐる大小ドイツ主義と統一憲法の制定 (4)d