世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

疑問教室・朝鮮史

朝鮮史の疑問
Q1 高麗では10世紀に武人、豪族に代わって両班が台頭したとありますが12世紀末に軍人(武人)が政治の実権を握ると教科書に書いてありますが両班が衰えてしまったのですか?
武臣と武人はちがうのですか?

1A 高麗は科挙を採用しますが、科挙の合格者たる両班はまだ実権をにぎっていません。科挙を採用しても新羅以来の有力者・貴族の子弟でなければ官吏になる道は閉ざされていました。さらに高麗政府の信仰は仏教(禅宗)であり儒教ではなかったのです(『高麗版大蔵経』)。
王建は豪族連合政権として出発したため、4代目の光宗(位949〜975)になって豪族・軍人を抑制するために科挙を始めました。しかし5代目の景宗(位975〜981)になると、豪族たちは合格した高官たちを殺し、豪族の子弟を高官にして実権を握り、高官は恩蔭(朝鮮では恩叙といいました)といって無試験で高官になれるようにしました。表向き文班の支配ですが、中身は豪族で、これらが特権層になるので韓国の教科書では高麗を「貴族社会」と説明しています。この表向き文治主義の支配も12世紀には武班(武人)に奪われることを日本の教科書はどれも書いています。つまり中国的な文官支配はほぼなかったといっていいのです。日本の専門家も高麗時代は李朝で両班の支配が確立するまでの過渡期ととらえています。旗田という朝鮮史の専門家は高麗は新羅と李氏朝鮮の間に位置する「未熟な官人国家」と呼んでいます。荒巻著『世界史の見取り図』(ナガセ)の中には、高麗の科挙採用を、「新たな支配層となる科挙官僚=両班が登場します」として両班支配ができたかのように書いてしまっています。そのことを後でも、「李氏朝鮮の支配層は両班です。高麗と変らないんだね」と念を押しています。これは、まちがいです。
 武臣と武人は同じです。武班でも同じです。ただ高麗時代はまだ武科挙(武術・戦術の試験)はなく、文人だけの科挙しかなかったようです。文科挙に合格した者が官僚になる機会は生まれました。儒教の伝統で文班がいばりだすと武人としては我慢ならなかったのでしょう。


Q2 『論述練習帳』の知識篇の朝鮮史の3番に、日本は不平等な日朝修好条規を強制して開国させ、従属関係に変えたと書いてありますが、どのような点から従属関係といえるのですか?教えてください。

2A 日朝修好条規の、「第一款 朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」と書きながら、この第一款と矛盾する「不平等」とされるものは、(1)日本の領事裁判権(第10款)、(2)無関税(日朝往復書翰)、(3)開港場における日本貨幣の使用(付録第7款)の三つです。第一款にしてもねらいは何も平等に朝鮮とこれからつきあいましょうという確認ではなく、中国の支配を排除することがホンネです。だから日清戦争の下関条約でも、日朝修好条規に反発していた中国に対して、まず何よりも、第一条でこのこと(朝鮮自主)をくりかえさねばなりませんでした。日本の軍艦6隻を江華島に突き付けて結ばせた条約が平等であるはずはありません。 


Q3 なんで朝鮮の政権が上海に樹立されるるんですか。ある解説に「大韓民国臨時政府の初代大統領に就任したのは若き李承晩で上海で樹立宣言が行われたが、戦後の大韓民国にはつながらなかった。」と。ん〜っわかったようなわからんような……。

3A 当時は日本の植民地だったからです。亡命地でつくったということでしょう。三・一独立運動に刺激されて、国内外の独立運動家たちが上海に参集してつくった亡命政府です。李承晩はこの臨時政府の国務総理に推され、ついで大統領にも就任します。またワシントンに臨時政府欧米委員部を開設しています。外から、日本の支配を認めないぞ、いずれわたしたちの時代が来るのだと待ち構えていたわけです。


Q4 一橋1992年の第3問(イ)で、「05年から抗日義兵闘争が激化」と先生の解答にありますが、旺文社の『世界史事典』には、「1905年の第二次日韓協約以来の日本の対韓植民地政策に対する朝鮮官民の反抗が、1907年の韓国軍解散を契機に激化し」とありました。

4A どちらで書いても問題ないです。というのは義兵闘争は19世紀末からあり、それは併合後も続いてたので、どこで「激化」を言うかは諸説あるからです。大学教授は「諸説」を知っていますから、どちらで書いても可としてくれます。

 東京書籍の教科書では、
1905年ソウルに韓国統監府を設置して、露骨な内政干渉を開始した。そのため韓国では義兵闘争(反日武装闘争)が激化した。1907年に日本が韓国の軍隊を解散させる(第3次日韓協約)と、義兵闘争は全国に広がり……

 山川の用語集では、
反日義兵闘争 ⑨ 朝鮮民衆の反日武装闘争。閔妃殺害事件後の1896年に初期義兵闘争がおこった。1905年以降にふたたびおこり、07年の朝鮮軍解散の強制でいっそう激化した。朝鮮全土に広がり、ほぼ10年間各地でゲリラ戦を展開して、日本の統治を困難にした。

 2014年に出た新用語集では次のように書き換えています、
義兵闘争 ⑦ 朝鮮民衆の反日武装闘争。朝鮮では、1895年の閔妃暗殺と開化派政権による断髪令への反発から、翌年、各地で儒学者を指導者とする義兵闘争がおこった。一般民衆をも指導者とする義兵闘争は1905年の斡国保護国化後に始まり、07年の第3次日韓協約による韓国軍解散に抗して兵士が合流し、全土で14年頃まで統いた。

 ここには激化ということばはありませんが、指導者が誰かということに重点をおいた説明になってます。


Q5 植民地化した朝鮮の近代化のために、多額の日本の資金を投入したので、それを返してほしい、という講師がいましたが、先生はどうおもわれますか?

5A 「朝鮮の近代化のために」というところが怪しいですね。植民地にした国のために、という目的は植民地化した国の第一の目的であるはずがないでしょう。イギリスはインドを第一に考えて植民地化したおもいますか? フランスはアルジェリアの近代化のために植民地化したのですか? どこも自国のためでしょう? 「植民地」は自国に利益をもたらすはずとして植民地化する、という当たり前のことが分かりませんか?
 次のサイトに朝鮮近代化と日本の関係について説明しています。お読み下さい。

Q&A 4 日韓関係・植民地支配 | Fight for Justice 日本軍「慰安婦」―忘却への抵抗・未来の責任 - 東アジアの永遠平和のために

疑問教室・中国〔明朝以降〕

Q38 明清間に貿易の発展と農民の没落が東南アジアへの移民につながったとありますが、農民はどうして没落したのですか?

38A 経済発展はすべてのひとが豊かになることを約束しません。発展のためにアップ・ダウンが激しくなるのが人間の世界です。二つ原因があります。
 まず明朝の里甲制の崩壊があります。里甲制の中では、たとえ土地所有に格差があっても負担(里甲正役雑役といいます)は同額となっており、それは小土地所有者に重くのしかかります。納税ができなくなると、土地を牛を妻を売りにだすことになり、とうとう逃亡か自殺かという末路が待っていました。小作人になったとして、1年の収穫は家族が1年分くっていくぐらいしか取れないのに、小作料は半分以上というきびしさです。副業の棉花栽培・養蚕(ようさん)・絹織物などを兼業してなんとかしのいでいる。棉花も一部は地主に小作料として取られ、残りを棉花商人に売るのです。綿糸をつくるものは綿糸を売り、その金で棉花を買ってかえる、という自転車操業(働いただけしか収入がない)です。蓄積する余裕がありせん。農民はますます商人への依存度を深め、ピンはねされる額も多くなっていきます。農民は商人たちを「殺荘」と呼びました。また国家への負担がこれに加わります。「税や徭役を銀で換算し、一括して納入する一条鞭法が普及し、これが農村の商品生産に拍車をかけた。農民は銀を手にいれるために商人への依存を強め、……農民の生産を圧迫して中小農民の没落をまねくとともに、地主への土地の集中をうながした。」(詳解世界史)。この銀納のために不利な条件であっても生産物を銀に交換しました。収穫物・土地を担保にしてでも借りねばならないものもおり、結果として収穫物・土地もとりあげられます。


Q39 軍機処と理藩院はどうちがうのですか?

39A 軍機処は参謀(さんぼう)部(作戦・用兵の計画を協議する機関)でありジュンガル部を討伐するために雍正帝(ようせいてい)が設けた軍需房(ぐんじゅぼう)が発展したものです。ただ後に内閣の上にだんだん位置づけられ、内閣に代わる組織として内政問題も話す実質皇帝の諮問(しもん)機関(アドヴァイス機関)、かつ国政の最高機関となります。内閣や六部の大官から任用された4〜5人の軍機大臣がでむいて皇帝のもとで下問(かもん)に答えたものです。ここでも満漢偶数官制の原則は保たれたらしい。
 理藩院はそこまで上昇することはなく、あくまで藩部(はんぶ、間接統治地区である蒙古・新疆(しんきょう)・青海・西蔵(せいぞう、チベットのこと))を統括するための外務省です。はじめはホンタイジ(清の2代目の太宗)が蒙古を平定して蒙古衙門(もうこがもん)を設けたのが起源です。1638年に理藩院と改称されます。1659年には礼部(外交と教育を担当)の管轄下にはいり、1661年には独立の官庁となります。1861年に設けられた総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん)は欧米との外交をあつかう官庁で、藩部とはまた別の外務をあつかうことになりました。


Q40 教科書によると「蒙古衙門が後に理藩院になった」とあったんですけど、ホンタイジの頃に作られた蒙古衙門と乾隆帝の頃の理藩院とでは、名前が違うだけなんですか? あと、理藩院は誰の頃に作られたか?ってな質問の答えって、乾隆帝。でイイんですか?

40A 蒙古衙門がのちに理藩院と名前を変えます。はじめはチャハル部を平定して、そこだけを管理するためにつくった役所です。のちに4藩部(蒙古・青海・新疆 ・西蔵)の四つを統括します。
 理藩院は誰の頃に作られたかの答えはホンタイジです。
 立命館の問題に「理藩院は藩部を治める役所という意味で、1638年に設置されたが、当時の藩部は今日のどこにあったか。地域名を記せ。」というのがあります。つまり「1638年」はホンタイジの期間です。ホンタイジで理藩院ということばを使って出題しています。


Q41 清の時代に、女真人が辮髪を漢民族に強制してましたが、辮髪って、髪の毛が足りなかったらどうしてたんでしょうか???
資料集とか教科書とか見たら、めちゃくちゃ髪がないとできそうも無い髪型なんですが。
相撲の大銀杏は、髪がたりなくて結えなくても、そのせいで引退ということはないらしいですが。

41A 面白い質問ですね。
 魯迅のいろいろな小説の中には、かつらを使ったという話しは出てきます。足りない分を結んで追加することもできますし、頭のうすい人でも天辺がうすいだけで、周辺の髪の毛は普通人と同じように生えるはずですから大丈夫だったのでは……と想像しますが、知りません。次の辮髪のことを詳しく書いているHPでお尋ねになられではどうでしょう?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/benpatu/bebebebenpatu.html


Q42 中国人宣教師によって中国からヨーロッパにあたえた影響について、①朱子学→啓蒙思想 ②科挙→文官任用制度 ③シノワリズムの流行 ④中国美術→ロココ美術へ影響を与えた これ以外にもあるのでしょうか? あと飲茶の風習もこのときにつたわったのですか?

42A 他には、ライプニッツは易経の内容から単子論をおもいついたとのこと、ヴォルテールが孔子崇拝(理性的性格)をしたことも有名です。ケネーは中国は農業を重視している知り、それに刺激をうけて重農主義を唱えたとのことです。また陶磁器はマイセン磁器として模倣されます。 ロココ宮殿にシナ風庭園がつくられたことも影響です。茶はイエズス会士ではありません。名誉革命のときにオランダ(日本と貿易)からメアリ2世とウィリアム3世の夫婦がイギリスの宮廷にもちこんでからです。もちろん18世紀にイエズス会士が茶について言及はしているとおもいますが。
 清水書院の教科書の記事に次のようなものがありました。
コラム21 中国と西欧の文化交流
 アジア・アフリカ諸国は、19世紀以降になると、ヨーロッパの軍事力の侵略的脅威に直面し、西洋化を軍事面からうけいれざるをえなくなる。軍事面から始まった西洋化は、制度・政治・社会・思想などの変革に進む。しかし、アヘン戦争が始まる前の中国とヨーロッパは、文化面で互いに刺激しあう関係を保ってきた。
 明末、マカオを基地としたイエズス会の宣教師マテオ・リッチは、科挙を通じて官僚となる知識階層(士大夫)に、数学・暦法等の自然科学の知識を紹介して信頼を得、キリスト教が中国で布教できる道をひらいた。明の高官徐光啓など改宗した士大夫は、自然科学の本を漢訳し、当時近代自然科学を確立しつつあった西欧の科学知識を伝えた。以来、学才優れた宣教師が明末清初に訪れ、暦法を司る天文台の長官に抜擢され、ユークリッド幾何学などの数学、医学・鋳砲術・機械学・地図・絵画・音楽を宮廷に伝えた。康煕帝、乾隆帝は彼らの才能を愛した。乾隆帝が新疆征服を記念して宣教師カスティリオーネらに戦勝図を描かせ、それをパリで銅版印刷させたことなどは当時の中国と西欧の緊密な文化交流を示す一例である。しかし、宣教師のもたらした知識も宮廷内にとどまり、近代的な社会発展の方へとは結びつかなかった。
 一方、ヨーロッパには宣教師が多くの報告書を書き、マルコ・ポーロ以来情報が閉ざされてきた中国を紹介する本が出版されるようになった。フランスを初めとする絶対主義の宮廷・サロンでは、中国への憧れからシノワズリー(シナ趣味)が流行した。ただし、江戸時代の浮世絵が印象派に大きな衝撃を与え、美術の新主張(ジャポニスム)を生んだような影響にはいたらなかった。また、中国・日本陶磁器への需要・模倣からオランダのデルフト陶器、ドイツのマイセン磁器が重要な地場産業として発達した。それ以上に、理性と倫理性を説く孔子の中国思想が、理性を重んじた当時の中心思想である啓蒙思想にあい通じ、ドイツ人哲学者ライプニッツや、フランスの啓蒙思想家の大立者ボルテールらの哲学・思想形成に少なからず影響を及ぼした。


Q43 清朝の支配に打撃を与えたイスラーム教徒の反乱って何すか?

43A 問題文にはどんな時間設定がされているのでしょうか? もう少し設問の周辺の文章があれば特定できます。というのは清朝時代のイスラーム教徒の乱はたくさんあり、大きくは西方と南部でありました。甘粛丁国棟の乱(1648〜49、順治5〜順治6)、1781年(乾隆46)と1784年(乾隆49)の甘粛新教徒の乱、道光年間(1821〜50)に頻発した雲南回民の乱、1854〜73年(咸豊4〜同治12)の雲南回民、いわゆるパンゼー(Panthay)の乱、1862〜77年(同治1〜光緒3)の陝西・甘粛・新疆にまたがる反乱、そして1895〜96年(光緒21〜光緒22)の甘粛でのサラール族・回民の反乱がおもなものです。


Q44 「清の時代、銀は便宜上馬蹄形であった。」という記述がありました。この時代の銀は秤量貨幣として重量を一定にした通称「馬蹄銀」という形態での流通が一般的でした。「馬蹄銀」と一口に言っても重量、形状は様々であり一般の感覚の「馬蹄形」とは異なります。いずれも銀を精錬し、検定マークの極印を打ち込んだものでした。何故、馬蹄形にする必要があるのでしょうか。

44A 今ひとつハッキリしません。形の由来はどうやら製造過程と関係しているようです。
 小学館のニッポニカには以下のような部分があります。
 「清代には分銅形の中がへこみ両側の耳とよばれる部分が高くなって馬蹄形が多くなった。これは、坩堝(るつぼ)の中で銀を溶かし攪拌(かくはん)して皺曲(しゅうきよく)をつくり……」と。
 このつくり方にあるようです。さらに、上から製造所の印が押されていますが、この印を押すときにへこみができて周りが盛り上がるのではないか、と見ています。また重さを調整するためにハサミで耳にあたる部分を切り取るのにも便利だったのではないか……。推測にすぎません。もしもっとハッキリしたことが分かればお伝えします。


Q45 南京木綿ってなんですか?

45A  三角貿易の南京木綿は中国で生産されている綿布で、南京港から輸出された商品であることから「南京木綿 nankeen 」と呼ばれました。孫文が「三民主義」の中で土布(どふ、中国で生産された土着の布)と言っているものです。これが安くて強い布であるため、イギリスの綿布を中国人は買ってくれない。でかい中国市場に期待をかけていたのはマンチェスター(産業革命の中心都市)を主とする綿工業の人たちでしたからガックリしていました。貿易業者も綿布を売って、その代金で茶を買って帰るというわけにはいかなかった。それでアヘンの登場となったのです。この後のアロー戦争でえた、より多くの港の開放でも結局イギリスの綿布はこの南京木綿のために売れません。なんとか売れたのは綿布という製品でなく、綿糸という原料にちかいもので、この綿糸は、機械で作ったもののほうが強くもあり次第に中国原産のものより売れだします。


Q46 予備校では、乾隆帝の『広州1港に限定』も経済上の問題という従来の考え方に加えて、典礼問題の一環としても習いました。つまり、雍正帝がキリスト教布教を全面禁止した後、それでも宣教師たちは今度は商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教していたということから、乾隆帝は宣教師らの排外を徹底する意味合いもあり、広州一港に貿易港を限定し、かつ政府管理下の によって監視した、ということでした。おかしいでしょうか?

46A 宣教師の「商人・行商人の格好をして、なりすまして中国国内に入り、布教」は確かめようがありません。中央公論の最新版の解説書には広州一港に限定した理由を、慣習的に広州に来ていた外国船(一番の客は東インド会社船)は関税のほかに広州役人の手数料やつけ届けがばか高くて嫌になり、負担の軽い寧波の港に行ったりしたため、広州役人が訴えたのと、あちこちの港に外国船が自由に出入りするのは治安上よくないということで広州一港に限定した、と説明しています。


Q47 中国の関税自主権はいつ、何の条約で奪われたのですか?

47A 1843年の 虎門寨追加条約によってです。


Q48 上海の租界の支配は「フランス」とあったのですけど、いつイギリスからフランスへ代わったのですか?

48A 上海には各国の租界があり、イギリスだけもっていたのではありません。日本ももっていました。


Q49 この問題文は、「イギリスの進出のもとで、」と、句読点で区切られてはいますが、条件が、19世紀の印・中の歴史の推移という要求に付加されています。なので、清仏戦争・日清戦争・変法運動・義和団事件は、条件である、イギリスの進出のもととは言い難くありませんか。仮に上記の語句が必要ならば設問は「列強の進出のもとで」とあるべきだと思います。

49A たしかにそのような疑問を抱くのは自然です。ただこの条件はあくまで副問であることです。比重はイギリスにはなく、進出された側の歴史がどうなったのかが主問であり、イギリス進出史を書けとの要求ではないことです。両国に共通するイギリスの進出がきっかけ(契機)となって両国はどうなっていったのか、ということです。すべての19世紀の両国の歴史をイギリスとかかわらせよ、という要求の問題ではない、ということです。もしそうであれば、イギリスの進出は両国の歴史とどう「関係」したのか、という問題でいいはずです。もっとイギリスと両国が対等な関係史であれば、疑問のとおりでいいとおもいます。
 それでもしつこくイギリスと中国との「関係」を追求してみてもいいです。インドの場合はイギリスの植民地になりましたからイギリスの進出のもとにあることは明らかですが、中国の場合は明らか、と言うほどではありません。アヘン戦争・アロー戦争はハッキリしていますが。ただ教科書には書いてないですが、いくつかの事例をあげます。
 アヘン戦争以前のアヘンの流入・銀流出は前提としておきますが、この主たる国はイギリスです。これは教科書に書いてあります。
 1843年の虎門寨追加条約以来、イギリスの税関吏(海関の総税務司)が清朝の財政を滅亡まで牛耳っていました。中でも名高いのはハートというひとで、このひとは1908年に交代で帰国するまで1863年からこの職にありました。清朝の貿易の利益を吸い上げ、使い道をアドバイスしていたのはイギリスでした。またハートは事実上の清朝の政治顧問でもありました。清末には李鴻章と対立しましたが。
 太平天国の乱を鎮圧したのは事実上イギリス(ゴードン)でした。これがきっかけで洋務運動、つまり常勝軍をつくりたいという運動がおきます。洋務をあつかう役所として総理各国事務衙門 (総理衙門) が新設されました(1861年)が、 この新設衙門が軍機処などの従前の政治機構を超える地位を占めていきます。 洋務運動の技術の技師と機械はイギリスにたより、その経費は海関からきていました。総税務司ハートは総理衙門の下にいて使われる立場でしたが、実際はこの衙門(役所)から自立していました。
 香港島からはじまる香港形成が19世紀末まであり、このHongkongがアヘンの輸入・銀流出の相変わらずの基地となり、苦力の出発地でもありました。中国に対する最大の投資国もイギリスでした。投資対象はとくに鉄道です。鉄道は中国分割の最大の手段でした。それとともに鉄道附属地(Railway zone)という、鉄道会社が沿線で「絶対的かつ排他的な行政権」を有する区域の設定も認められていました。この附属地の鉱山・港湾の開発もやりました。清朝の借金した最大の貸し手がイギリスでした。
 清仏戦争・日清戦争の賠償金もイギリスを中心とする外国借款でまかないました。
 義和団事件に対する賠償金をあつめ管理・分配をしたのは総税務司ハートです。清朝は「洋人の朝廷」と皮肉られましたが、その洋人とはイギリス人のことでした。


Q50 アヘン戦争後イギリスは、中国に対して南京条約を結んで中国南部の港の開港などを認めさせるとともに、翌年の虎門寨追加条約で協定関税などをも認めさせ、中国に対する貿易の拡大を目指しました。しかしイギリスは、「戦後の交易でも…期待したほどの利益はあがらず、不満をいだい」た(『新課程詳説世界史』p.p.253-254)ためにアロー戦争を起こした、と教科書には説明があります。この部分は、アヘン戦争後にイギリスの機械織りの綿織物製品などが中国に流入したものの、中国ではあまり売れなかったので、これを打開するためにイギリスが中国への更なる戦争に踏み切ったことを意味した文であると小生は理解しております。
 しかし一方で、同じイギリスが植民地化したインドにおいては、よく知られておりますように19世紀前半以降イギリスの機械織綿布がインド製品を圧倒して、インドの綿織物手工業が壊滅的な打撃を受けております。
 こうした中国とインドの相違はどこにあるのか、すなわち、なぜインドでは国内の綿織物手工業が壊滅するほどにイギリスの機械織り綿製品がどんどん流入したのに、アヘン戦争後の中国ではイギリスの機械織り綿製品があまり売れなかったのか、その理由を知りたいというのが質問の内容です。

50A わたしはこの理由をつぎのように説明しています。
 インドではなによりイギリスはインド産の綿布に高関税をかけて輸出を阻止する政策をとったこと、また機械による大量生産品に手織りのインド製品は対抗できないこと、また征服した土地における綿織物工場を破壊したり、腕の良い技術者の腕を文字どおり切っていったり、などの理由で、インド綿工業を壊滅させた、と。『詳解世界史』に「世界に冠たる織物の町」として知られたダッカの人口は15万から3万に激減した。インド総督ベンティンクは、1834年「織工たちの骨がインド平原を白色に化している」と本国に報告している、という記事がのっています。
 中国ではインドのような征服戦争はできませんでしたし、なにより中国にはイギリスに対抗できる南京木綿(ナンキーン nankeen)があり、安価でもあったため、イギリスの商品を中国人は買う気もおこらなかった。綿糸という機械でつくった方が強くていいものができるので綿糸は次第に中国産を圧倒していくが、綿布は結局20世紀にはいっても勝てなかった、ということです。
 だいぶ前に読んだ本ですが、加藤祐三著『イギリスとアジア−近代史の原画』岩波新書にこうしたことが書いてあったはずです。


Q51 太平天国の乱に乗じてアロー戦争…とありますが教科書では両者の関係について書かれていません。アロー戦争の勝因に太平天国の乱は関係していたのでしょうか? あと太平天国の乱では清朝側に常勝軍として欧米の義勇軍が参加していましたがその中にはゴードンという英人も参加していましたが、一方で同時期にはアロー戦争で英は清朝と戦争をしていました。一方では清を助け、もう一方では清と戦争するということに矛盾を感じるのですがどういうことでしょうか? 

51A アロー戦争の勝因に太平天国の乱は直接的には関係していません。もともと軍事的な面で清朝は英仏に対抗できる状態ではありませんから太平天国がなくても勝てません。ただ内乱で困惑しているところを突いたという点は英仏に有利な状況であったでしょう。
 太平天国は1850〜64年で、アロー戦争が1856〜60年という風に間にはさまっています。太平天国をキリスト教的な運動とみなして天国側に参加した西欧人もいました。英仏全体としては中立の立場でした。しかし60年の北京条約で英仏の有利が確定し、そのことを太平天国側も認めるか打診すると、認めない、という回答だったので、中立を止めて弾圧という態度をハッキリさせ常勝軍を使います。


Q52 太平天国は中国的キリスト教とはいえないのでしょうか。だとしたらその理由は、短期間で勢力を失って根付かなかったことや、中国のなかでも異端視されたことにもとめられるのでしょうか。

52A いいえ。内容はキリスト教の影響(洪秀全をキリストの弟とみなす、偶像の否定、男女平等)を受けていますからキリスト教の面はもっていました。一方で中国的性格をもちつづけたのは君主政であり、井田法の復活をねらって天朝田畝制度を云々する点、エホバを上帝と言い換えたりするところです。側室を数人持つとかいうことも。


Q53 軍閥とは軍事産業の会社が国の機能を果たすような組織なのですか? 軍閥が各地に分立している状態とはどのような状態ですか? イメージがつかみにくいのですが……。

53A 会社ではありません。各地に派遣されている軍隊が独立した国のようになった場合をいいます。皇帝や袁世凱のような命令する人物がいなくなると、頭のとれた手足が自立して、実質地方の独立した支配者になり、徴税もして軍隊を養うのです。五代十国時代の節度使たちが各地で皇帝を名乗りだしたのも軍閥といいます。20世紀初めの軍閥は直接的には清朝の滅亡によりますが、起源をたどれば、太平天国の乱のときの地方の自衛軍(郷勇)にまでゆきつきます。湘軍・淮軍が起源です。


Q54 中国内閣は幹線鉄道の国有化を進め地方有力者は民営鉄道建設を進めたと教科書に書いてあるのですが幹線鉄道国有化によって生じる不利益とは何ですか? 国有化を猛反対する基本的な理由がいまいちよくわからないのですが。

54A 国有化は清朝に金がないからウソです。このあたりは拙著の『センター世界史B 各駅停車』で、「革命の原因は幹線鉄道国有化問題でした。西南部の郷紳(官僚出身の地方豪族・豪商)たちが資金をだして民営の鉄道にするはずが、清朝は金がないにもかかわらず国有化すると宣言したのです。実際には鉄道を担保に列強から借金するのが目的でした。この売国政策に対して民族資本家だけでなく、あらゆる階層が反対しました」と。用語集の「幹線鉄道国有化」の下に「四国借款団」とあるのが借金の黒幕です。


Q55 日清戦争の際に旅順虐殺事件が起こりましたがなぜ虐殺が旅順で行われたのか教えてください。後なぜ日本軍は虐殺をしたのかも教えてください。

55A なぜが二つ。第一のなぜは、日清戦争の最中に日本軍が兵士でない市民2万人を殺害したことを指しています。これは日本兵が戦死したことに対する日本側の復讐として行なわれました。第二のなぜは日本軍の特色に関する質問です。
 原田啓一著『日清・日露戦争』岩波新書に「1894年9月、大本営は旅順半島攻略のため第二軍を編成した。……11月21日未明頃から旅順攻撃を始め、正午頃には周囲の砲台等を占領した。午後以降市街と付近の掃討作戦が始まる。そこで捕虜や、婦女子や老人を含む市民を虐殺する事件が起きた。25日頃まで市街の掃討が続き、同時に旅順から金州方面に脱出しようとする敗残兵の掃討も行われた。これらを「旅順虐殺事件」と捉えるのは、戦闘と掃討戦の両方で、捕虜を取る意志がほとんどなく(計232人のみ、『戦役統計』)、軍人と民間人を無差別に殺害する例が多く、捕虜や負傷兵の殺害もあり敗残兵捜索のための村落焼き討ちも行われるなど、容赦ない残酷な戦闘であったことが、参加した兵士らや内外のジャーナリスト、観戦武官などにより明らかであることによる」と記しています(p.75〜76)。
 もっと具体的な様子は、一ノ瀬敏也著『旅順と南京』(文春新書)では、従軍した日本兵の『関根日記』を次のように引用しながら説明しています。

関根たち戦闘部隊が旅順を陥落させた翌22日、丸木は土城子から旅順市街地に入った。彼は「清の敗兵成るか身なりの様子では分からねど、捕縛され山景あるいハ畑中なぞニて首打たるる者数しれず」などと、旅順市街地及びその近辺での破壊殺裁の様相を丹念に記録している。彼自身、徴発(=略奪)に出かけた先の農家に隠れていた負傷清兵が逃げようとするところを「多勢かけきたり、メチャメチャに切り倒」したり、あるいは翌23日連行してきた清兵を「すぐさま中へ引入れ首はねたり」など、無抵抗の敵兵殺害に直接立ち会っている(p.99)。

 第二の疑問のなぜは、「虐殺」は戦争にかならず伴うものですが、とくに残虐性は日本軍の中世からの伝統です(藤木久志『雑兵たちの戦場』)。


Q56 三国干渉以後、列強が中国を争って分割しているなか、アメリカは大きく”出遅れていた”という表現が教科書にあり、この対策として国務長官ジョン・ヘイは「門戸開放宣言」を出し、ヘイの3原則「門戸開放」「機会均等」「領土保全」を打ち出した、と記憶しています。実際にこの3原則というのはそれぞれどんな内容なのでしょうか。山川の用語集では、この3つについては記述がないのです。

56A  門戸開放について……『高校世界史』という山川の教科書には「当時、アメリカは太平洋に進出し、中国市場への参加を欲していた。このため国務長官ジョン=ヘイは、1899年に中国の門戸開放・機会均等を、翌1900年には領土保全を各国に提案した。各国はこれに同意し、中国分割の手をゆるめたので、アメリカはでおくれていた中国市場への進出を実現することができた。」と書いています。
 日本史の教科書には「国務長官ジョン=ヘイの門戸開放提議を日本をふくむ列国に通告し、各国の勢力範囲内での通商の自由を要求した。」とあります。
 つまり米国は、政治的には領土を中国で得られない代わりに、それぞれの現存する勢力範囲を認めつつも、どこでも経済的交流は閉ざさないでほしい(これが門戸開放)、
 そして経済(貿易)上の壁(関税や港税、鉄道運賃面)にかんしてはどこでも平等なあつかい(等しい関税、運賃)にしてほしい(これが機会均等)、
 勢力範囲は認めるが、中国の領土にかんしてはこれ以上一切どの国も手をつけないでほしい(これが領土保全)。一国だけが中国(清朝)領のどこかをのっとって植民地しないでほしい、という呼びかけです。中国を一国で独占しないでほしいと言いたいわけです。
 これらの内容は、ワシントン会議(1921-22)の九ヵ国条約の中で、はじめて正式に成文化されました。しかし日本は満州国をつくり閉鎖的な経済をはじめたため、条約に違反したと米国が責めてきて対立が深まっていきます。


Q57 参考書によって義和団事件の発生の年代が微妙に違うんですが……1900年と1899の年のどっちなんでしょうか?

57A たしかに二つありますね。世界史では1899年、日本史や他の国では1900年とするようです。
 理由はこうです。
 反キリスト教運動である仇教(きゅうきょう)運動の団体である「義和団」という呼称は、1899年ごろ生まれ山東省からはじまります。つまりこの時点ではまだ列強とは対立していなくて、清朝との対決、いわば内乱です。義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であったことも、いつからはじまったと言えるか正確に決まらない理由です。 
 1899年秋に清軍を破ってから、以後勢力は急激に増大するのですが、1899年の末に袁世凱の徹底した弾圧を受けて山東省の義和団は下火になり、1900年春に義和団は河北(北京市のある省)に中心が移ります。とうとう義和団は北京に入城して全北京市を支配下におくという状態になって、列強の軍隊との対決に入っていきます。一般に日本史では、この1900年からとし、中国史では1899年の発端からをいっています。


Q58 「鉄道敷設などの利権を獲得しようとしていた欧米諸国は、争って自国の勢力範囲拡張にのりだした」とありますが、鉄道を敷設することと「勢力範囲拡張」がどう結びついているのかよくわかりません。

58A 鉄道を敷いたところが勢力圏というのが当時の考え方でした。実際、鉄道を敷く権利とともに、鉄道周辺の土地・山・川(これを「鉄道付属地」といいます)を利用する権利も意味しましたから。鉄道の経営・管理だけでなく、沿線の鉱山・森林・商業・電信などの経営も伴っていました。税関を設けて関税をとり軍隊の駐留・輸送もできます。「満州では1906(明治39)年に関東都督府を旅順におき、ついで長春・旅順間の旧東清鉄道および鉄道沿線の炭坑などを経営するために、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立した。(山川出版社『詳説日本史』)」


Q59 1900年頃の列国の中国分割は1921年の九ヶ国条約で解消されるのですか?

59A 解消されません。1942年の国民政府にたいして連合軍諸国が不平等条約の撤廃をしてからです。


Q60  清が滅んだのは1911年ですか? 1912年ですか?

60A 1912年です。辛亥革命は前年ですが宣統帝退位は翌年2月でした。


Q61 山川のp.309の14行目「国民政府は英・米の援助で……軍閥の力が弱められ……実質的統一はうながされた」なんでやねん!!!って感じです。

61A 軍閥が弱められたのは経済面です。銀を中心に流通している経済のところへ大恐慌がおこり銀という、それ自身が価値をもつものの取り合いがはじまります。中国の銀を外国(とくにアメリカ)が買い占めようとしたので、銀がなくなると中国の経済の信用はがた落ちになるため、銀流出を防止しなくてはならない。そこで一部(4大)銀行だけが発行する紙幣だけを唯一の通貨とし、銀の取引を禁止しました。銀を国有化し銀の流通を禁止します。この4大銀行は浙江財閥の銀行で蔣(外字なし)介石を支援している銀行でもあり、英米の援助も強力に行なわれたため、「法幣」による通貨統一は蔣介石中心の経済体制をつくりあげました。するとこれまで銀に頼り銀を使ってきた軍閥も一般庶民も、銀が使えなくなり、インフレから身を守る手段としての銀を奪われてしまったのと同じになります。これは軍閥の力を経済的に弱めることになりました。


Q62 北伐というのがありますが、なぜそれを始めたのですか?あと、北伐の後に国民党は共産党を弾圧したとありますが、国共合作はどうなったのですか?

62A 各地に軍閥と呼んでいる暴力的な親分たちがいて、これが中国を五代十国時代の節度使皇帝たちのように中国を分割し、その地方毎に税金をとって地方国家のような状態でした。これを破って中国をまとめ、政党政治の新しい政治体制をつくるには、これら軍閥を破る軍事行動(北伐)が必要でした。「北伐の後に国民党は共産党を弾圧し」ではなく1927年に上海クーデタで共産党を弾圧し、合作はつぶれ、翌年に国民党だけで北伐を完成した後は、共産党攻撃に専念していきます。


Q62 Z会の「実力をつける100題」で、「中国経済界の浙江財閥も、国共合作に終止符を打とうと蔣介石に圧力をかけた」という文があるのですが、なんで財閥が「国共合作に終止符を打とう」とするんかわかりません……。

62A これ時期的に北伐をはじめて上海クーデタを説明するところででてくる表現ですね。五・三十事件で労働者の力が示されただけでなく、その後も各地で労働者・農民の運動(ストライキ・土地略奪)がおきたため、産業・金融にかかわる人々が安全な都市に逃げ出すという状態になりました。とくに南の企業が上海に逃避してきました。それは中国経済全体の停滞につながります。共産党と組んで中国の統一をと望んでいた資本家も、これは「行きすぎ」と写り、北伐をやりながら共産党殺しを展開する蔣介石に期待し、浙江財閥は蔣介石に軍資金を提供しました。


Q63 「満州事変で日本軍は内モンゴルを占領した」とあったのですが、本当ですか? 地図を見ても内モンゴルまで侵略してなかったのです。あと、内モンゴル占領は内モンゴル全体という意味ですか?

63A いえ全体であるはずがありません。広すぎます。中国に近い東部だけです。日本国内では「満蒙」(東北三省に内蒙古東部を加えた地域のこと)は日本の「生命線」だと言っていたようにわずかですが侵略しています。


Q64 溥儀の「執政」って、どんな体制ですか。 

64A これは「元首」としたものもあります。首相でもいいのです。政権のトップの地位です。英語ではChief Executive とつづっています。世界史では他にローマのコンスルを執政官と訳したり、1795年のフランス革命中の統領政府(5人の統領)を執政政府と言うこともあります。日本史では「政務をとる人。特に(徳川時代の)老中。家老」を指すことで、ちょっと将軍・王・皇帝より低い地位をさしますが、その代わり、将軍より実務を行うひとだということになります。溥儀さんは、もちろん名前だけのトップですが。


Q65 1927年蔣介石が南京国民政府を立てた。とあるんですが、じゃー1912年に立てられた南京の中華民国はどーなったんですか?

65A 中華民国という名前だけは残っていても、都の南京に袁世凱は来ないで北京に居つづけました。北京で中華民国を廃止して新たな王朝づくりをはじめたのですが、それに失敗しました。そうすると中華民国は宙に浮いてしまったようになり、この後は各地の軍閥の政府と、この全体を表現する虚像の中華民国とが共存します。その中で、「1927年蔣介石が南京国民政府」もあります。外からは中華民国といいつづけ(それ以外に名前がいいようがないこともあり)、蔣介石が改めて南京に都をおき政府をつくったことになります。国の名前(中華民国)と実際(国民政府)に行政を遂行する政府とがかみあっていないのです。


Q66 山川の用語集に、張学良が「第二次世界大戦後、共産党政権の成立の際に台湾に逃れ、蔣介石から長らく自宅軟禁にされた…」と書いてあったのですが、張作良は紅軍と手を組んだにも関わらず、なぜ共産党政権を嫌がったのでしょうか?張作良はあくまで抗日意識が強かっただけで、共産党支持者ではなかったということでしょうか。しかし、台湾に逃れれば、(以前、西安事件の際に監禁した)蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測できたのではないか、と思いました。何故でしょうか?

64A 張学良は何も共産主義に共鳴していたのではなく、中国が日本にのっとられないように、共産党と組むことが必要だとおもっていました。というのは、蔣介石は共産党が心臓の病、日本は皮膚の病、とみなしていて、何より共産党を追放することが第一の課題とおもっていました。しかし張学良からすると中国人同士の戦いをつづけているとオヤジ(張作霖)を日本人に殺されたこともあり、日本がますます中国人同士の内戦を利用して領土を中国に拡大してくる、これはなんとしてでも阻止したい。ところが日本の恐ろしさを知らない蔣介石は反共の戦いばかりつづけている、という危機感から西安事件をおこしました。延安から周恩来に来てもらって3者の和解が、つまり中国人同士の国共対立は止めることにしました。このことを蔣介石は終生くやしがっていて、張学良を囚人として台湾に連れて行き、死後も息子の蔣経国にもうけつがれ、1990年まで幽閉されていました。張学良は2001年10月、ハワイにて100歳で死去しました。
 「蔣介石から何らかの報復を受けることくらい予測」……もちろんしていたとおもいます。ただし中国を救うためにはやむを得ないと覚悟していたのです。政治的なことは何時ひっくり返るか分かりませんし、またおもったよりひどい苦境においこまれることもあります。張学良は自分のしたこと(西安事件)を誇りにおもっていたはずです。代償を払わされましたが。しかし代償なしに大きなことはできませんし……。


Q65 「南京国民政府財政部長として、経済建設の中心人物となった、ハーバード大学卒業生」の名前は何ですか?

65A 宋子文です。用語集にはのっていません。わたしがつくった立命館用語集の現代版の3の42の番号に「28年11月の中国中央銀行の設立、中国中央銀行の総裁に就任したのは誰か。」と問い、答えが宋子文になっています。▲(立命館用語集で無視の印)を付けたようにだれも答えられない人名です。わたしのもっている事典には「妹の宋慶齢、朱美齢は各々孫文、蔣介石の夫人。国民党要人として財政部門、対米接渉の任にあたるなど、蔣介石政権の後援者であった。1915年(民国4)、ハーバード大学を卒業。1928〜31年(民国17〜民国20)、行政院副院長と財政部長を兼職。」とあります。


Q66 国民党を台湾に追放した中国共産党は、どうして香港からイギリスを追放しなかったのですか? 全中国の解放をなしとげたのであれば、容易にできたように思うのですが……。

66A 密約があったためです。1945年、日本の無条件降伏とともに、蔣介石はイギリスに返還を求めました。イギリスは合法性を主張して拒否しました。軍事的に蔣介石の国民政府が香港を占拠する前に、フィリピンにいたイギリス軍300兵が香港に入ってしまいます。国民政府は四川の重慶にいたこともあり素早いうごきは無理でもありました。実は香港の近くに中国人の大部隊1万2000兵がいました。共産党の「東江縦隊」です。ここで周恩来が「中英密約」を提案しイギリスが受けいれます。条件は、香港内における共産党の合法的地位と新聞、出版の自由、中国と香港の往来の自由、共産党幹部の武装許可などです。イギリス人数名がかつて共産党に救助されたこともあり受け入れざるをえない面もありました。ここに周恩来のイギリスを長期的に利用する案が成立しました。戦後の国共内戦のときにも、香港は軍需物資・医薬品・食糧を延安にはこぶ供給基地となります。この密約話は譚(たん)ろ(王偏に路)美(み)著『中国共産党 葬られた歴史』(文春新書)にのっています。この密約成立には、密約にとどまらず、中国共産党の内部抗争ほか、いろいろなものが含まれたできごとであったことが説かれています。


Q67 中華人民共和国史にでてくる「互助組」とか「合作社」ってなんですか?

67A 農業集団化の過程にあったときの段階的なグループ名です。誕生したばかりの中華人民共和国は地主が持っていた土地を農民に分配しましたが、小農(小規模農家、貧農といってよい農民)ばかりができてしまいます。人口の多さのためです。それで農作業を効率よく集団で行わせるため農家を「互助組」という組織にし、役畜・農具・家具を4〜7戸で共同使用することを進めました。土地の私有制は変えないままの協同組織です。それをひと回り大きい10〜40戸による「初級合作社」、さらに大きい平均160〜170戸の「高級合作社」に組織していきます。さらに58年頃から合作社をまたまた集団化して「人民公社」という3000〜5000戸のでかい村に仕上げました。


Q68 現代中国に関する疑問があります。教えてください。
(1) 党首席(現・総書記)、国家主席、首相はどのように役割を分担(?)しているのか。そもそも中国の政治体制自体がよくわかりません。
(2) 後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画していたのか。
(3) 毛は何故、反文革分子とされた人に対して糾弾大会を開いたのみで、スターリンのように銃殺するなどの措置をとらなかったのか。
(4) 中越戦争で一体誰が得をしたのか。

68A (1)学生からよく訊かれる質問のひとつです。
 党主席(首席でなく)(現・総書記)は中国共産党のトップ、国家主席は行政府のトップ、その下で実務をおこなうのが首相で、正式には国務総理(国務院総理)といいます。この国務院総理は、国家主席の提案(推挙)に基づいて全国人民代表大会(国会にあたる)が選出・決定します。
 国家主席が元首(大統領)にあたるのですが、実際は共産党のトップである総書記が国家主席を兼ねていて、最高の権力者です。江沢民は中央軍事委員会主席も兼ねているので、それこそ並ぶものののない地位です。
 中国の最高の行政機関は国務院(中央人民政府)であり、その構成は、国務院総理(首相)、副総理若干名、国務委員若干名、各部部長……とならびます。首相は全国人民大会に責任を負う責任内閣制になっています。
 共産党と行政府(国務院)との関係は密接です。国家主席も国務総理(首相)も中央政治局といわれる共産党の主要メンバーであるからです。共産党の実行組織として国務院があるといっていいでしょう。
 毛沢東もはじめは共産党主席と国家主席を兼ねて出発しました。ところが大躍進の失敗で共産党主席の地位はもちながら、もうひとつの国家主席の地位は劉少奇に譲ったことがありました。これが問題。二つの首ができてしまった。するといままで劉少奇はなんでも毛に相談してきたのが、毛におうかがいをたてなくなり、これを毛は我慢ならず、文革によって国家主席の地位をもぎとったのです。老害というやつです。この辺りの同志抗争は、『毛沢東の私生活』(文春文庫)がいちばん面白い読み物とおもいます。

(2)「後継者に指名されていた林彪は何故毛を暗殺しようと計画」はわたしも分かりません。毛沢東万歳ばかり叫ぶ林彪が大好きだったために毛は林を後継者にしたからです。わたしがもっている『毛沢東語録』の序文にも林彪の毛賛美がのっています。林彪ののった飛行機が撃墜されたというのも怪しく、先の『私生活』はあわてて飛び立ったため不十分なガソリンが切れて墜落したといっています。
 日本の中国現代史家たちによれば、「事件の基本的性格は、文化大革命期の軍官僚と党官僚・行政官僚の対立、という図式においてとらえることができ、林彪ら軍官僚は、その劇的な政治的・軍事的緊張のただなかで、ついに失墜せざるをえず、そうした政治的内戦の血なまぐさい結果が「毛沢東暗殺計画」として描かれているように思われる。」(中島峰雄)とのことです。

(3)「糾弾大会を開いたのみ」でなぜ銃殺でなかったのか、ということですが、この大会のあとに拷問がまっています。拷問で劉少奇が死に追いやられ、精神病になったものは数知れず、というのが現実であったことを考えると、それほど差がないのではないでしょうか? 拷問の具体例と、それを生き抜いた女性の『上海の長い夜』(原書房、上下。文庫は朝日文庫で出版)という記録は稀有の伝記でもあります。

(4)中越戦争で「得をした」のはヴェトナム側ではないでしょうか。
 というのは、中国としては、かつての皇帝政治の名残りとしてまだ周辺地域(チベット、新疆。北朝鮮など)に支配を及ぼしており、この戦争の結果、ヴェトナムへの影響力を失い、ソ連(当時としてはソ連)圏に入ってしまったことを認めたくやしい戦争であったにちがいありませんから。ヴェトナムとしてはこの戦争でハッキリ中国との断絶を言い渡したことになるからです。ヴェトナムからみれば、ベトナム戦争中からの中国の急速な対米接近と大国主義的政策に対する強い不信があったはずです。中国軍は近代戦に慣れたヴェトナム軍によって多大の損害を強いられ、自主的に撤退せざるをえませんでした。


Q69 中国の全国人民代表大会の『大会』ってどういう意味ですか? マラソン大会とかの「大会」とは意味が異なりますよね?
「機関」程度の意味なのかな、とは思ったんですが。教えて下さい。

69A 世界史でも1924年の国民党第一回全国大会を「一全大会」と略称して、出てきます。日本の国会にあたるのがこの大会です。それでいえば「機関」です。地方から積み上げてきて全国大会で決定するというやり方の意味をとれば、マラソンの全国大会とそう変わらないでしょう。スターリン批判のは「ソ連共産党第20回大会」でした。ペレストロイカでも「国内では、1988年にソヴィエト型民主主義が修正され、翌年複数候補者制選挙による連邦人民代議員大会・連邦最高会議制が実行され、90年には強力な権限を持つ大統領制も導入されて、ゴルバチョフが大統領に就任した。」と大会がでてきます(詳説世界史)。
 ある組織のもっとも重要な「会合」を意味し、それがアテネの民会のように三権を兼ねた大事なものであったように定期的な機関にもなっています。平凡社の百科事典では「全国人民代表大会」のことを「中華人民共和国における最高の国家権力機関。人民代表大会制度は、資本主義諸国における議会制度とは異なり、すべての国家権力を人民の代表機関に集中する民主集中制を採用し、三権の分立を否定している。つまり議事機関であると同時に執行機関でもある全国人民代表大会は,3級からなる各地方行政レベルに設置された地方各級人民代表大会の頂点に立つ。」とあります。
 なお http://www.moftec.or.jp/jp/china5_1.htm に詳しくこの機構の権限・経緯が書いてあります。


Q70 清の地丁銀制について、東京書籍「世界史B」に下記の記述があります(p.213 注釈16)。
 ……丁銀の廃止は国庫の充実を誇ったものであるが、人口増に比して耕地がふえないという現実に即したものだった。この「人口増に比して耕地がふえない」のならば、なぜ丁銀を廃止したのでしょうか。税収増を望む国家にとって、「丁銀廃止」は不利な政策ではありませんか。「丁銀を強化して、地銀を廃止する」ほうが理屈にあうと思うのですが…

70A 丁銀(人頭税)廃止といっても、富農には丁銀を地銀に含めて(組みこんで)払わせますから、完全な廃止ではありません。問題なのは小農・貧農の丁銀です。
 中国は大家族なので、一家に数家族も住んでいるという場合があり、5人の丁人(成人男子)が住んでいても全員が払うのでなく、2人だけ1人だけという事例があり、中には役人に賄賂を払って一切払わない家もありました。豊かであればあるほど賄賂が払えますから、貧農には加重になります。この不公平さが問題。貧民に丁銀を支払わせる傾向となり、不作の年には子どもを人買いに売らざるを得ないといった悲惨な状況に陥っています。
 丁銀の支払いを嫌がって逃亡する者もあり、すると土地がほったらかしになり収穫は得られず、徴税もできないという問題。
 逃亡しない場合、支払いができない農民は土地を売り、佃戸(小作人)になりますが、佃戸から徴税は出来なくなります。中国税制の基本は(大・小)地主に課税することですから、課税対象が減るという問題。
 18世紀はとくに清朝中国のベビーブームであり、次男三男の逃亡・移住先は周辺の辺境地や蒙古・チベットになり、漢人との民族的な衝突がおきやすい、という問題。
 以上のような問題があり、丁銀は廃止の方向に向かいました。税の軽減は必ずしも税収の減少とはなりません。重税のほうが没落(佃戸化)・逃亡がおき、かえって得るべき地銀が入ってこなくなる可能性があります。


Q74 アロー戦争の講和条約について質問があります。用語集を見ると、外国公使北京駐在は天津条約で定められたことになっています。しかし、センター過去問の2008年の世界史A追試で、外国公使北京駐在が北京条約で決まったという選択肢が正解になっています。どちらの条約で決まったのでしょうか。

74A 天津条約でいったん決まった事柄は、戦争が再開したため、改めて結び直しています。そのためです。天津条約に書いてあったことが北京条約でも再確認されたからです。じっさい天津・北京条約とくっつけていう表現もあります。

疑問教室・中国史〔元朝まで〕

中国史〔元朝まで〕問Qと答A

Q1 あるブログに、「鉄製農具の出現によって「耕地は従来の山麓の湧水地帯や氾濫の恐れのない河岸の低地から、広大な黄土平原に拡大された」この点で、中谷臣『世界史論述練習帳 new』(パレード)の資料編(p.176)の京大1991年に対するコメント「天水高地農耕→灌漑平地農耕」という指摘は、灌漑平地農耕への変化はいいとしても、その前を「天水高地農耕」とまとめるのには少々疑問……とあるのですが、「天水高地」はまちがいではありませんか?

1A そのブログと引用された文章は狭い見方ですね。「天水高地」は言い換えれば、旱地(乾地)農法による黄土台地(黄土高原)ということです。この広大な高原(標高約1000〜1500m)で、「湧水地帯……河岸の低地」だけで生きていけるかどうか考えたらいいのです。
 たとえば、「周の支配領域である華北の地は雨量が少なく、大規模な灌漑工事の行なわれる戦国時代までは、降水による水分を最大限維持して畑作を行なう旱地農法が主で」(堀敏一他著『概説東洋史』(有斐閣選書)の中の「中国古典文化の形成」(p.19)とあります。また「黄河の本流のほとりなどはとうてい人の生活のできる場所ではなく、黄河の支流に臨む小高い丘陵が選ばれた」(ニッポニカ「黄河文明」の項)のです。
 また中国人研究者の著した本には「古代の北方畑作地帯は、主として秦嶺と淮河以北の広大な領域を指す。この地帯の降雨量は少なく、その分布は不均衡で、常に旱魃の脅威を被り、これらの特色が、この地帯の土壌耕作の中心課題が保沢防旱であることを決定した。われわれの先人たちはこれらの特色を熟知し、長期にわたる旱魃との闘いの中から豊富な経験を蓄積してきた」(郭・曹・宋・馬共著、渡辺武訳『中国農業の伝統と文化』(農文協))と記して、土地に則した耕作・時期に則した耕作・作物に則した耕作と種々の方法を詳述しています。粟・黍という華北の作物は乾燥・半乾燥地帯に適した作物でした。「仰韶文化期の社会では、アワを主として、一部では稲や野菜を作る乾地農耕を行なう」(『アジアの歴史と文化1 中国史─古代』同朋舎出版、このシリーズは京大教授たちの執筆)。
 また黄土台地を畑としてつかったことが結果的に黄土を砂漠化したことを明らかにしたのが上田信著『森と緑の中国史』(岩波書店)でした(p.106)。
 これはなにも中国でなくても、日本でも西アジアでも、初めの農耕は天水・高地であることは常識的なことです。たとえば、「日本の灌漑」については、「水田開発がもっとも早く行われたのは、現在のような大河川下流部の平たん地ではなく、きわめて単純、小規模な、あるいは自然のままでも容易に引水しうるような谷間の小平地や山麓部であり、以後、時代が下るに従って平地に進出した。……天水や谷間の渓流を利用しての水田であったことが多い」(平凡社百科事典)。人類最初の農耕遺跡といわれるイェリコやジャルモも高地(標高約800m)にあります。仰韶文化の代表的な遺跡・半坡村は厚い黄土からなる台地の上にあります。これは東大の過去問もあります(1970年第3問)。教科書(詳説)では「初期農耕は雨水にたよる乾地農法であり、肥料をもちいない略奪農法であった」と“文化から文明へ”に書いてあります。


Q2 中国ではいつ頃から絹織物、綿織物を作っていたのですか? あと、毛織物は作ってなかったのですか?

2A 絹織物は仰韶文化のときからつくっていますから古い。中国はほんとに古くから絹の国なのです。
 綿織物は宋の時代からですが、政府が大々的につくらせたのは元朝のときです。北の寒いモンゴル人が中国の綿織物が気に入りつくらせました。また明朝の永楽帝が漠北親征のときにつくらせて兵士の寒さを防いでいます。絹織物とともに大衆的な商品としてつくりだすのは、明朝の後半16世紀からです。
 毛織物は動物の「毛」を編んでつくるものですから、毛織物のない人間の世界はないといってもいいでしょう。モンゴル人やインディオなどでも、かれらの歴史とともに古いでしょう。中国もいつとはわかりませんが、古くからあるようで、記録には南北朝からあります。唐代の実物が出土していますし、正倉院には唐や新羅製の毛織物が保存してあります。


Q3 「万里の長城」はほんとに「万里」あったのですか?

3A 始皇帝のころの長城は調査の結果では、約5000kmあったことが分っています。現在の1里=4000mで換算すると「万里」はなかったことになりますが。しかし始皇帝の時代は1里が400mです。「0」がひとつ少ないのです。これで計算すると約1万2000里になり「万里」であったことになります。


Q4 讖緯(しんい)説・五行説とむすびつく赤眉の乱は宗教的農民反乱とみなすべきですか、みなさないべきですか、また、農民の反乱といってよいでしょうか。

4A 一般には農民反乱ととるはずです。東大の教授たちが書いた新版の『世界史小辞典』にも農民反乱と書いてあります。宗教的かどうかは読んだことがありません。もともと海賊から始まってそれが陸の内乱に発展しているので宗教はないようにおもいます。なにかまとまった宗教組織とかかわるとはおもえません。


Q5 南北朝以前の大土地所有者への課税です。漢代のころから、徐々に大土地所有が始まっていくように思えますが、漢代に大土地所有を拡大していった者への課税は行われなかったのでしょうか。

5A もちろんあります。始皇帝の時代の過酷な税制(泰半の税は3分の2)を改めて、所有面積に応じた基本原則はずっとあり、地主に対して、平均して高祖は15分の1にし、景帝のときには30分の1、後漢になると、100分の1となり、結果的には豪族優遇税制であったということです。資産別でありながら、ほとんど意味のないくらい安いものだったようです。一般農民はこうした田租は安くても、算賦(口賦、人頭税)・徭役(兵役も含む)が加わり没落したようです。土地を借りている小作人は収穫の半分は取られましたから、いくら免税でもやっていけない。ここらあたりが豪族が大きくなる背景のようです。


Q6 「魏は後漢の正統な後継者をもって任じ、」とありますが、意味がわかりません。

6A 「正統な後継者」とは、三国に分かれて、それぞれが後漢の後継者を名乗っている状態があり(とくに蜀の劉備は漢をうけつぐ劉家、真偽は不明ですが)、禅譲の儀式をおこない幼い皇帝から皇帝の位を譲りうけたと。中国の支配者は一人でなくてはならないと思っているからです。他はまちがって皇帝を名のるケシカラン奴だと。


Q7 絹の道はいつ頃から繁栄しいつ頃まで続いたのですか? 張騫が契機となり甘英頃から繁栄したと思うのですが……

7A 張騫のときからは中国側としてはそうですが、もう少し前の戦国時代からあるようです。絹の需要が高いことを帰国した張騫が述べているのですから。13世紀のモンゴルの時代も栄え、16世紀の海の道の方に物資が運ばれるようになって衰えます。オアシス・ルートのことを日本では絹の道と言っていますが、絹は海路でも運ばれた商品なので、ビザンチン帝国に蚕(かいこ)が伝わり、西欧にも中世に伝わって絹織物の製造もおこなわれ(15世紀にジェノヴァ・ヴェネツィア、16世紀にフィレンツェ)、中国の絹の需要がなくなります。しかし中国の絹織物は技術的に高いため高級な貿易品としては18世紀くらいまで取引されました。


Q8 後漢末から地方の豪族が力をつけはじめたのはなぜですか?

8A 農民反乱に中央政府がどうすることもできないため自衛しなくてはならなかったことが一番大きいでしょう。各地に強大な私兵をもつ豪族が割拠しました。中央政府は宦官と外戚の争いに明け暮れていたことが、この背景にあります。


Q9 中国の三国時代の時代に、魏について教科書には「司馬炎が国をうばった」とあるのに、晋は魏帝から禅譲をうけたと書いてあるのですが?

9A 司馬炎が国をうばった、が実質で形式的に「禅譲をうけた」という儀式をします。つまり同じです。


Q10 スキタイはイラン系、柔然はモンゴル系、突厥はトルコ系とは言いますが、そもそもイラン系、モンゴル系、トルコ系の定義とは何なのか? 何をもって何「系」と判断しているのでしょうか? 

10A たしかに「系」は漠然とした表現ですね。基本的には、遊牧民の「支配層の民族出身」から言う表現です。支配層という限定をするのは、その下にいる支配されている民族は、いろいろあると考えられるからです。蒙古高原の支配は、匈奴からはじまり、鮮卑、柔然、そして突厥・ウイグルとつづきますが、匈奴の後に鮮卑が支配層になったということであり、それ以前の支配層であった匈奴がまったく居なくなったのではなく、鮮卑族の支配下に匈奴は居るのです。民族がごっそり居なくなることではありません。6世紀からトルコ系の突厥が支配することになったとしても、その下にそれまでの多くの民族は残っているのです。
 たとえば元朝のとき漢人と位置づけられたなかに、それまで華北を支配していた契丹族や女真族が漢人とともにいました。国はなくなっても民族は生き残っています。13世紀にモンゴル人の帝国が蒙古高原からはじまってできますが、実はモンゴル人というのも蒙古族の一派(部族)にすぎず、他にオイラート、タタール、オングート、ケレイトなどと種々の部族がいたのですが、モンゴル族のチンギス=ハンによって部族間戦争の決着がつき統一を実現したので、すべてがモンゴル人の支配下にはいると、以後、モンゴル帝国と呼びならわしています。さもすべてがモンゴル人であるかのように。
 また「系」を印欧語族という表現の代わりに印欧系と言います。これは「系」の前の名詞で語族を表していることが分かるはずです。双方まぜている場合もあるでしょう。


Q11 均田法にかんして豪族に優遇したものではない、というのは分かりますが、この場合、豪族というのはどういったものなんでしょうか? たんに大土地所有者というイメージしかありませんが。

11A 荘園という広大な敷地に屋敷をかまえ、周囲に高い垣をもうけ、そのまわりに深い堀をめぐらします。さらにそのまわりにこの豪族たる地主の土地・畑が広がり、そこには地主に頼る農民の小屋がたっています。大豪族になると、この土地の中にいくつもの山や川が流れています。穀物・野菜など多くの農産物が栽培され自給自足ができました。また牛・馬・羊・豚・ニワトリなどが飼われています。手工業もあります。酒・醤油・砂糖・染色・機織りもでき農具も兵器もつくりました。多くの農民・職人がここに住んでいました。数万人という農民・奴婢をかかえた豪族がいました。これを守るための私兵も養っています。いずれ後漢末期の騒乱時には、この私兵軍団が大きくなり400年の分裂(魏晉南北朝)のもととなります。こうした豪族がゆっくり育っていくのが後漢時代でした。


Q12 「華北仏教は鎮護国家的性格が強く、……」とありますが、『鎮護国家的性格』とはどんなんでしょうか。

12A これは異民族王朝(とくに北魏)が漢人を支配するさい、仏教の平等・平和の考えを利用して支配思想とした、ということです。鎮護国家(思想)とは、乱をしずめて外敵・災難からまもる役割を仏教がはたすという考えです。北魏が漢人のみなさんを守ります、と宣伝しているのです。そのため僧侶も政府の保護にこたえて、国を守るための法会(ほうえ)や祈祷(きとう)を行います。雲崗石窟・龍門石窟をつくったのも、ときの皇帝の顔に似せて彫り、皇帝即(そく)如来(にょらい)といって仏を拝むように皇帝も拝ませる、と支配のために政府は利用し、仏教側も利用されることで国家とむすびつき、廃仏を逃れようという魂胆です。こういう権力にすりよることを否定する仏僧もいました。ただ北魏の仏僧は「すりよる」性格をもっていた、ということです。


Q13 中国で、たとえば隋の楊堅っているじゃないですか? この人は文帝とも呼ばれてますよね? この、別名みたいな、〇帝や〇宗とかも関関(関西学院大学・関西大学)には問われるのですか?

13A 問われます。とくに魏の文帝(曹丕)と隋の文帝(楊堅)はカッコの中だけで出すとすぐ分かるためにわざと文帝という謚(おくりな、死んでから付ける名前)で出ます。たとえば、関学の次の例のように。
 隋の文帝の時に施行されなかった事項はどれか。
 a.科挙制 b.均田制 c.府兵制 d.囲田制(解答 d)


Q14 教科書の唐のところで、三省の中書省・門下省・尚書省が書いてあったのが、明になり「中書省の廃止」ということが唐突に書いてあります。門下省や尚書省はどうなったのですか?

14A 教科書はどこの出版社であれ、系統だった説明をしている歴史書ではありません。ポツポツとその時期ごとの重要事項を羅列しているだけです。こういう質問がでても不思議ではありません。途中の宋や元の時期はどうだったかを省いたためです。宋のところで「宰相の権限を分散して、軍事・行政・財政のすべての政策決定権を皇帝がにぎる君主独裁政治」と説明している(第一学習社の『世界史B』)ものはありますが門下省・尚書省のことに言及しない点は他の教科書と変りません。元について「元は、中央に中書省(行政)……、地方には中書省の出張機関として行中書省を置き」と書いている教科書(三省堂の『詳解世界史』)もあります。宋になり貴族がいなくなると貴族の牙城(がじょう)であった門下省の存在意義がなくなり、中書省に吸収されてしまいます。名称も中書門下省となり、その長である宰相を同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかへいしょうじ)といいます。尚書省は元のとき廃止されます。明清のときも尚書省はなく、六部の長官を尚書といいました。したがって明の中書省廃止は三省の廃止を意味し、三省のしごとをぜんぶ皇帝がひとり担うことになります。忙しすぎるので永楽帝のとき内閣大学士をおきます。
 唐 中書省 門下省 尚書省──六部
 宋 中書門下省 尚書省──六部
 元 中書省 六部
 明 六部


Q15 都護府と折衝府はどうちがうのですか?

15A 唐代の都護府は辺境においたもので、折衝府は国内の軍事訓練の場所です。


Q16 唐の貴族に課税はあったのですか?

16A 農民には租庸調ですが、といって貴族に免税特権はありませんでした。貴族に地税・丁税がかかります。農民への租庸調が国家の主たる税ですが、農民にも地税・丁税が同時に課せられていました。このあたりは教科書・参考書に書いてないことですね。租庸調よりは軽いものではあったようですが、いずれ租庸調が崩れてくると、この二つの税が顔を出してきて、両税法となります。
 以下は、『世界歴史事典』平凡社(昭和31年版)の隋唐時代の税制の項目にありました。

 隋開皇5年毎年秋に戸ごとに粟黍1石以下を出して義倉(凶作のときに無償で配布するための貯え)を維持させることとし、ついで16年改めて州県に社(村落)倉を設け、各戸より上戸は粟1石、中戸は7斗、下戸は4斗を限度として納めさせ、これを貯えて凶歳の賑貸に備えることとしたが、唐でも太宗の貞観2年(628)同じく義倉を設けその維持のために、今度は「青苗の畝頃(耕地面積)」をはかって毎畝2升の粟か麦か稲かを徴した。のち商戸や田無き戸からも9等の戸等に応じて5石から5斗(下戸は免除)を徴した。これがしだいに義倉米の意味を失って地税という政府の正式の税収となってきた。……特別会計に属するものであったが、ところが一般会計ともいうべき租庸調による収入が国家財政を賄えない状態になると、ようやくこの2税(地税・丁税)が一般会計にくり入れられ、やがて租庸調とその位置を転倒するにいたった。すでに有名無実の存在と化してしまった租庸調を廃棄したのが、一般に徳宗の建中元年(780)における両税法の発布として理解されている改革である。(引用終了)

 義倉を設ける必要は、農民の余剰分はほとんど取られてしまうくらいだったので、一度凶作にみまわれると餓死・逃亡・盗賊化・反乱があいついでおこる危険性があった、という厳しいものであったためでした。耕地面積をはかって、というところが両税法の資産別と同じです。


Q17 山川の教科書には『白楽天は唐末の詩人』と書いてあって、山川の資料集には『中唐の詩人』とあったのですけど、どっちなのでしょう? あと、盛唐はいつですか?初唐?中唐?唐末?

17A 初唐は高宗まで、中唐・盛唐は玄宗皇帝のころ、安史の乱の終わった以降は唐末とすることが多いですが、それほど固定した時代区分ではありません。だから白楽天が双方で書いてあってもまちがいとはできないでしょう。安史の乱以降のひとなので唐末が一般的でしょう。時間的には乱は755〜763年で唐のど真ん中ですが。


Q18 鎮市ではなく、よく「鎮・市」と中点がふってあるが、「鎮」と「市」はそれぞれ別のものですか? 草市は草市でひとつなのか?

18A 鎮も市も州県の下にくる半公認の地方行政区です。もとはいえば唐末からの経済発展の結果でてきた新しい地方町です。分けて、鎮とも市とも言います。まとめて言ってもいいわけです。草市は「粗末な地方の」という形容で、行政区でなく、漠然と呼んだ形容なので「草市」は「草」「市」と分けることはできません。この草市が大きくなれば鎮や市になります。
 『詳解世界史』では「定期市はいたるところに設けられ、草市が発達して鎮・市とよばれる郷村の小都市が数多く出現した。」と書いています。『詳説世界史』でも「さらに地方には小規模な交易場の草市が発展し、鎮・市とよばれる小商業都市も発生した」と表現しています。
 州──県──鎮・市←……草市


Q19 漢時代の市と草市、宋時代の市・鎮と草市は同じ名前で別物ですか。

19A 別物です。「市」はいつの時代でも「市場 market」を意味しますが、これは都市のなかの一ヶ所に集中している市場です。つまりは役人に管理されている市場です。「草市」の「草」は「地方の」「粗末な」という意味です。漢代の草市は地方の末端行政区分の「県」のなかにある市場を言ったり(これも管理されています)、ときに県城の外にできた城門外の臨時の市を草市と呼んでいます(これは管理されなかったみたい)。唐末五代からは役人の管理がなくなり、「市」はどこでも店が並べば市場になり、もう一ヶ所に限定された場所ではなくなります。また「鎮」「鎮市」はもともと唐末から節度使(藩鎮)たちが割拠したとき、地方の軍事、商業の要所に軍事基地(鎮)をおいたものが経済的に発展したものです。明らかに唐末五代から登場した新しい都市です。景徳鎮などのように今もその名をのこしているものがあります。唐末五代の「草市」は商業経済の発達によって地方農村に無数の市が発生し、それらぜんぶを総称して草市といったそうです。具体的にある特定の市場をさしていない表現です。ただ入試上は漢代の表現は出ませんから、内容的には唐末五代のだけでいいのです。役人の規制がなくなり、あちこちに市場ができた、と。


Q20 貨幣経済が普及するとどうして貧富の差が出てくるんですか?

20A 貨幣経済でないときの取引は物々交換です。物々交換だと、取引は小規模で利益も大きくありません。ところが貨幣で取引するともののやりとりは活発になります。交換の手段としての貨幣が物と物の交換をスムーズにしてくれるからです。物々交換だと、欲しいひとをさがすのが大変です。ところが貨幣経済の場合は取引がさかんになり、経済が活況になると、だれでも利益をあげるわけではなく、富の配分がかたよるのです。一様に貨幣が平均にまわる、ということは難しい。失敗するひとたちもたくさんできます。だまされるひとも多くなります。賢いひとほどもうけが大きい。豊かになるときは平均して豊かにならない、というのが人間社会の避けられない法則のようです。


Q21 労役とは具体的に何をさせられるのか? 

21A 唐代を例にとれば、租庸調の「庸」は中央政府にかんする労働奉仕で、20日間と決まっていました。仕事がないときはそれに代る納税(布・絹)をしなくてはならず、ときに留役といって30日を限度として、つづけて働かされることもありました。中央の役は正役ともいいます。プラスアルファの「雑徭(ぞうよう)」は地方の労働奉仕で、その内容は40〜50日の門夫の役(門役ともいい門番として、城門・倉庫門の出入りを守り、監視する)、水手(すいしゅ、橋梁の番兵や船こぎ)、駅家(関所のしごと諸々)、防閤(ぼうこう、役所の守りと貴族・役人の身辺護衛)、庶僕(しょぼく、いろいろな雑務)、白直(はくじき、当直・宿直・巡回)、貴族・官人の身辺雑務にあたる士力(しりき)・執衣(しつい)など召し使いのしごとです。なにか雑徭の項目を見ていると、貴族の「こらあーッ」、庶民の「へい」という声が聞こえてきそうです。
 雑徭という労働ができない場合は代償として課税されます。逆に租調が納められない場合は、すべてこの庸・雑徭に換算して働いても良かった。その場合、年間150日分になり、国家のために150日もただ働きをしなくてはならなかった! 日本でもこうした労役を経験することはできます。犯罪を犯して、懲役何年と判決が下ればいいのです(^^;)。


Q22 宋代の士大夫と形勢戸の違いがよくわからないので教えて下さい。

22A 士大夫は科挙を受験しようとする知識のある人、受かって官僚になったひとです。形勢戸はたんに経済的に豊になった新興地主の意味です。科挙とは関係がありません。ただ科挙の勉強は大変なので長い時間がかかり、たいてい形勢戸のような豊かな家のおぼっちゃましか受験勉強はできないものですから、形勢戸の子弟が受験して士大夫になります。受かれば形勢官戸という名でよばれたりします。ただし形勢戸の家の子はみな優秀であるはずはなく、形勢戸イコール官戸ではないし、士大夫でもありません。


Q23 どうも新法の募役法がよくつかめません。労役をしてくれる人にお金(山川の用語集でいう雇銭)を払ったら、何の利益も残らない……?

23A  農民が担当しなくてはならない役(えき、労働して払う税のこと、お金の税金以外に必ず払わなくてはならないものだった)は負担が重く、破産する農民も多かった。そのめための農民救済法です。というのは、税としての米を運ぶさいその運賃を払ったり、自分で運ぶとすれば、役所のある都市までの費用・宿泊費も負担しなくてはならず、ときに役人に必要以上のお金を用意しなくてはならない。税としての米を決まった額だけ集めれなかったらその分を自分が負担しなくてはならない。その間の農作業は休まなくてはならない。また土木工事にもかりだされるが、その間の食費も自分で用意しなくてはならない。治安は住む村・町の犯罪調査告発・見回りなど警察のしごとです。もちろんこれをやったからとて国から給料をもらうわけではない。
 そこで、役を基本的には農民からとらないことに(免除)し、その代わり、ある程度のお金を払わせてお役御免にし、役をやってくれる人民を募って給料を与える方式に改めます。運搬・土木などを、たいていは失業しているものが応募して担当したので仕事を与えたことになります。また役のもともと免除されている偉いさん(官戸=たいていは地主、寺観=仏教の寺、道教の寺を道観といいます、他に住所の定まらない商人)などからも助役銭を徴集して、給与の財源にあてます。差引ゼロになったとしても、運搬・土木・治安のしごとははかどります。農民の没落を防げます。三省堂の教科書『詳解世界史』の注には「募役法(徭役免除の特権をもつ官吏や僧侶らには助役銭を、一般農民には免役銭を課し、それを財源として労役に従事する人を雇う策)」と説明してあります。


Q24 五代十国・金のときは科挙はどうなっていたのですか?

24A どの時代も実施しています。五代十国時代は武断政治といわれますが、軍人の危なさを軍人出身の皇帝たちほどよく知っており、集権的官僚制をつくりあげるべく、文治主義を徹底しようとしました。皇帝が節度使出身であるために「武断」と言われるのであって、官僚制は文治主義なのです。宋代の歴史家が五代の武人支配を必要以上に悪しき時代として描いたことから野蛮な時代のイメージがつくられました。この科挙によって新興の地主・富豪・豪商たちの子弟を吸収しています。しかしこれは華北の五代政権に該当しますが、中部・南部の十国では、あまり科挙は実施されませんでした。難民として南下してきた唐代の貴族の子孫、儒者たちを積極的に採用したため科挙が必要なかったといわれるくらい文治主義的だったためです。
 異民族の遼金でも科挙は実施されています。遼で50回以上おこなったとの記録があり、1036年には殿試も加わり、四試制となっています。宋より早く殿試が行なわれています。というよりまだ北宋が成立していない段階ですね。漢人のための試験であって契丹族は別でありながら、いずれ西遼(カラ=キタイ)を建国する耶律大石が1115年に受験して合格し、進士となっています。金では36回行なわれたことの記録があります。ここも猛安謀克の女真族は受験対象外です。異民族が漢人を文官として採用するための試験としてあったためです。しかし女真族のための科挙が設けられたときもあります。


Q25 なぜ西夏は征服王朝に入らないのですか?

25A 征服王朝の定義は故地(北アジア地域)と中国領の双方をもつことと、二重統治の体制をしいたことにあります。西夏がもっていた甘粛省の地域がいつも中国領だったわけでなく、漢唐のときくらいだけで、また二重統治体制をとった訳でもないことから征服王朝としません。


Q26 『燕雲十六州を遼に譲ったのは五代後晋』とあったのですけど、後晋は三代じゃないのですか?

26A 中国には王朝名が教科書に書いてある以上にたくさんありますから、区別するために、五代十国時代の後晋ですと説明的にいっているのです。たとえば戦国時代にも魏という国があり、三国時代にも魏という国がありました。この場合、三国魏という言い方をすれれば、三国時代の方の魏なんだと分かります。戦国魏、といえば戦国時代の魏となります。


Q27 ワールシュタットの戦いと、バトゥがオゴタイが死んだので引き返した時の戦いって違うものなんですか?

27A バトゥの本軍は先ずハンガリーに進撃し、副司令官スブタイが指揮する別働隊にポーランド方面(ワールシュタットの戦い)の進出を任せます。その後、この本軍と別働隊の両軍は合流しブダペストを陥落させました。その後で1242年の冬にオゴタイ=ハン(41年に死去)の訃報(ふほう)が伝わってきて全軍が少しずつ帰還していく、という順です。


Q28 科挙が元の時代の何年に廃止されたのですか。

28A 元朝のはじめから実施していないので、廃止された年代というのはありません。復活したのが1315年です。これより過去をたどれば、南宋(滅亡が1279年)で1274年、当時北を支配していた金(滅亡が1234年)で1230年がさいごの各王朝の科挙です。どれもモンゴル人に滅ぼされる直前まで実施していたことになります。


Q29 元朝において、科挙により選抜された人々は、どういった職に就いたのでしょうか? また、科挙に合格する意義のようなものとは、どういったものなのでしょうか?

29A 官僚(役人)です。科挙は官僚になるための試験ですから。官僚といっても、はじめはたいてい地方官をつとめ功績をあげれば中央にとりたてられます。科挙の試験の成績が抜群であれば、はじめから中央の官僚という場合もあります。元朝のときに科挙に合格することは、世襲制でしたから子供にじぶんの地位を受け継がすことができ、一族の繁栄を保証します。もちろん元朝が存在するかぎりのことでしたが。合格しても官僚になれるかどうかはコネ次第でした。


Q30 教科書「新世界史」p.151の5〜8行目に「元は南宋を滅ぼし(1279年)、チベット・朝鮮を服属させた。さらに日本・ヴェトナム・ジャワ・ビルマ(現ミャンマー)にも遠征して威信を示し、服属関係におこうとしたが、これらの遠征は失敗した。」とあるんですが、山川用語集の“フビライ=ハン”の項目(p,83)では「……ビルマを服属させ……」と書いてあるんですが、どちらが本当なのでしょうか?

30A どちらも本当です。少し説明が必要です。引用された『新世界史』の説明はまちがいとも、まちがでないともとれる曖昧な表現です。まず「ミャンマーでは最初の統一王朝パガン朝が、13世紀に元の侵入をうけてほろんだ。」(『詳説世界史』)ことを確認しておきます。これは他の教科書も同じです。『新世界史』はハッキリ書いていませんが。
 この後のビルマはどうなったか、というとシャン人勢力がパガン朝の滅亡した後のビルマの実権をにぎり、元朝に服属します。これを用語集はとっていると好意的にとっておきます。滅ぼした王朝のことを書いてないのは片手落ちですが。しかし他の民族(ビルマ人・モン人・ヤカイン人なども)が抗争をつづけ安定した統一政権をつくれないままでいました。つまり16世紀のトゥングー朝までです。


Q31 山川の教科書のp.93に元代の文化の説明があるのですが、公用語にモンゴル語を使用したのに公文書にウイグル文字やパスパ文字を使ったのは固有の文字がなかったからですか? あと、どうして上のような文字を代わりに選んだのですか?

31A 言語と文字はちがいます。推測は正しく、初め「固有の文字がなかったからです」。後になってモンゴル文字を作成します。他の民族の文字をつかって自分たちの言語を表記していたのです。とくにパスパ文字は使いにくく、作らせたもののほとんど使わなかったようです。官僚として仕えさせたウイグル人(色目人の中心)の文字を一番使ったそうです。


Q32 「宝鈔」という紙幣は元朝でも発行されたのでしょうか? 教科書では元が交鈔、明で宝鈔とありますが?

32A 発行されました。多くの教科書にのっている紙幣の写真の上のほうを見ると「○○○○宝鈔」という字が見えるはずです。「宝鈔」も交鈔のひとつです。『日本大百科全書』の「交鈔」の項には「元は金の制度を受け、1236年以来交鈔を発行した。中統元宝交鈔(10文〜2貫文)、至元通行宝鈔(5文〜2貫文)はその代表である。……明も元の制を受け、大明宝鈔(100文〜1貫文)を1375年に発行した。(斯波義信──山川出版社『新世界史B』の著者のひとり)」とあります。ここには交鈔(総称)として「交鈔」と「宝鈔」が並列されています。「中統元宝」「至元通行」は一般に省略して言うのは慣例(省略表現は京大東洋史辞典にもあります)としてあり、大明を明と省略するのと同じです。『平凡社世界大百科事典』につぎのような記述があります。カラ・ホトの項に「西夏、金、元の貨幣や元の紙幣である宝鈔も見つかっている。(岡崎 敬)」、交子の項に「なお、中国の紙幣は交鈔のほか元・明・清に流通した宝鈔が知られる。(草野 靖)」とあります。省略表現としての宝鈔の例です。


Q33 元時代、元曲を作ったのは当時失業していた儒学者ですか? なんでそういうひとたちが作ったものが流行るのですか?

33A それは適切な説明ではありません。科挙に受かっていない知識人(読書人とも士大夫ともいいます。受験生とも言えます)です。脚本を書けるには文字の読み書きができないといけませんが、だいたい文字の読み書きができるのは限られた人でしたし、脚本はある程度過去の歴史を知らないと書けない。科挙の受験は3年に1回しかありませんから1回失敗したら3年後ということになり、また何度も失敗すると諦めてしまい、塾の教師をしたり、このように脚本書きになったりしました。受験する人たちはだいたい豊かな家の子弟でもあったので、暇仕事でもありました。50歳、60歳になっても受験していた異様な世界です。受験も一種の事業のような、宝くじのような感覚だったのでしょう。当たれば大もうけできる。3年間地方官を勤めたら孫の代まで食える、といわれるくらいワイロが入りました。


Q34 高校の授業で、交鈔の乱発について皇室がチベット仏教に傾倒したことが原因のように聞きましたが、実際元朝は国が傾くほどのお布施をしたのでしょうか? 

34A ラマ教というのは「ラマ(僧侶)」という意味が示すように僧侶中心の宗教です。僧侶が非常にいばっている、あらゆる点に口出しをし、金を巻き上げていくという宗教です。大規模な法会を行い、国家経費の3分の2はラマ教への布施にあてられたようです。


Q35 2009年の東大世界史第1問
・東アジアについて書く際に日本におけるキリスト教弾圧も書くべきか
・儒教を宗教とみなしてもよいか

35A もちろん東アジアの中に日本も入りますから書いて良いです。
 儒教も宗教です。典礼問題が知られているように、典礼とは上帝(中国人が考える宇宙の神)・孔子・先祖を崇拝する儒教の儀礼です。村上重良著『世界の宗教』 (岩波ジュニア新書) に、原始宗教から三大宗教、儒教・道教、ヒンドゥー教にジャイナ教なとど宗教して儒教をあげています。


Q36 東大2007-1の解答に「江南の士大夫文化を支えたこと」とありますが、「文化を支える」とは具体的にはどのようなことをいうのでしょうか。

36A 江南という穀倉地帯に集まった士大夫(読書人・官僚層)は形勢戸という新興地主層でもありました。かれらが宋代以降の文化の担い手でした。朱子学を構想して普及させ、詩・詞をつくり、書・画・散文をこなし、青磁・白磁を楽しむひとびとです。


Q37 魏の時代、九品中正の本来の目的が果たされず、地方豪族が高級官僚を独占した状態、いわゆる門閥貴族の形成を憂い、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉ができたと聞いております。一方で、魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化したことに対して、治安維持・徴税・徴兵などを目的とする改善策であったのだろうと思います。もしこの推測が正しいとするならば、地方豪族の台頭を促進させている九品中正を隋代まで待たずとも早めに廃止すれば良かったのではないかという疑問が生じました。何か廃止できない理由でもあったのでしょうか?

37A 初めの「地方豪族による大土地所有化を抑制しようと九品中正を制定した」がまちがいです。九品官人法(これが九品中正より正しい表現です)は大土地所有を抑制するための法ではありません。黄巾の乱以降に埋もれた文人たちを魏という曹家という文人一族が掘り起こしたいと意図して始めたものです。
  次に「魏の屯田制・西晋の課田法・北魏の均田制はいずれも、地方豪族による大土地所有化に伴い自作農民が没落・流民化した」もまちがいです。これらの政府による土地分配政策は成功していて、それぞれの王朝の経済基盤になりました。この土地政策はあくまで王朝政府が抑えている公有地で行っていて、豪族=大土地所有者の土地に対して実施したものでなく、それらは放置して公有地でおこなったのであり、豪族とは無関係です。というか豪族がこれ以上農民の土地を取り上げないように政府が管理している土地だけで実施したものです。もし青木の実況中継にある、これらの土地政策が豪族に有利だった、という邪説をもとにしてたら青木に依拠しないように警告しておきます。
 末尾の「地方豪族の台頭を促進させている九品中正」は「台頭」させているのは土地のほうでなく政治に関わるようになった、という意味でなら正しいです。
 土地政策(均田法)が隋唐まで続けられたが、則天武后の時代から傾きだしたのは、人口の増加が原因です。政府が管理している土地では増えた人口に合わせて土地を分配できなくなったからです。魏の屯田法の頃の中国全土の人口は約500万人です。つまり土地は余っています。唐初には5000万人に増えています。

 

山川か東京書籍か

山川か東京書籍か

 教科書の良し悪しを判断するといっても、ここでは受験参考書の一つとしてどちらが良いか、という観点から判断するのであって、歴史叙述のあり方を問題にするわけではありません。
 また受験用にどちらか、ということであり、その場合どの大学に適合するのか、という観点も必要です。千差万別の大学の入試問題をここで網羅することは出来ません。そこで観点を東大に絞ります。そうすれば、東大タイプの問題でない他の出題のあり方からは、ちがう教科書の方が良い、という判断も出てきます。

 それと東大には東京書籍の方が良い、という評判があるので、いろいろ調べてみても、なぜ東京書籍が良いのか根拠を示したものはなく、良いらしい、という評判の評判しかありません。
 特にこの東京書籍を薦める論述の参考書としては山下厚『東大合格への世界史』(データハウス)があり、その引用した文章も含めて何も推薦する理由にならないことを明かしています(http://www.ne.jp/asahi/wh/class/goukaku_critic.html)。このわたしの記事の末尾に「著者は 「圧倒的に『世界史B』(東京書籍)がお勧めである」と宣伝しています(p.31、p224)。しかし上で批評したときに教科書の記事をあげて東京書籍のものと比較しましたが、詳説世界史の方が明快な書き方をしています。この他に時代区分の鮮明さも詳説世界史が優れているのですが、いずれこれは明らかにしようとおもっています(東西関係の歴史は東京書籍が優れています)。」
 この「明らかに」がこの文章の果たす役割です。
 そこで実際に出題された入試問題と教科書を付き合わせる、という方法をとります。いろいろな出版社の教科書はあるものの、ここでは山川の詳説世界史(2008年発行、以下「詳説」と略)と東京書籍の『世界史B』(2007年発行、「東書」と略称)を比較の対象とします。大中論述にあたる第1問と第2問が主たる対象です。

1.東大入試問題と教科書

 2011年度・第1問
 異なる文化間の接触や交流は、ときに軋轢を伴うこともあったが、文化や生活様式の多様化や変容に大きく貢献してきた。たとえば7世紀以降にアラブ・イスラーム文化圏が拡大するなかでも、新たな支配領域や周辺の他地域から異なる文化が受け入れられ、発展していった。そして、そこで育まれたものは、さらに他地域へ影響を及ぼしていった……13世紀までにアラブ・イスラーム文化圏をめぐって生じたそれらの動き

 という課題に対して、山川はインドへの影響として、「仏教拠点が破壊されてインドから仏教が消滅したり、ヒンドゥー教寺院が破壊され、その資材がイスラーム建築に流用……ヒンドゥー教とイスラーム教の両方の要素を融合させた壮大な都市が建設」と述べ、イベリア半島へは「高度な灌漑技術をともなうサトウキビ・棉・オレンジ・ブドウなどの栽培がイベリア半島にひろまったのも、地中海を結ぶ活発な交流の結果であった」と述べていて、「生活様式の多様化や変容に大きく貢献し」たことを書いてます。
 このうち東京書籍では、仏教衰退や建築への言及は一切なく、「サトウキビ、バナナ、オレンジ」については西アジアに入ってきたものとして述べているが、影響としては書いてない。もちろん「棉(木偏の原綿)」のことも記事はない。

 2011年度・第2問
 問(2) 明から清の前期(17世紀末まで)にかけて、対外貿易と朝貢との関係がどのように変化したかについて、海禁政策に着目しながら

 という課題に対して、山川は明朝の対応を「明は海禁をゆるめざるをえず」と書いているのに、東京書籍は「明朝は海禁を解除し、事実上の自由交易を認め」とまちがった説明をしてます。緩和が正しいのであり、解除はしてません。明清が朝貢貿易という制限のきつい対策(海禁)をなくしたことは一度もなく、アヘン戦争敗北まで基本的には存続しました。

 2010年度の問題については、第1-3問のすべてで特にどちらが有利ということはなかった。双方とも書いてあるものと書いてないものは同じでした。

 2009年度の第1問(国家と宗教団体・信徒)に関して、中国・チベット関係の部分は「詳説」がピッタリの文章になっていることは以下の記述比較で判断できます。

「詳説」清朝はその広大な領土をすべて直接統治したわけではない。直轄領とされたのは,中国内地・東北地方・台湾であり,モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統括された。モンゴルではモンゴル王侯が,チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライ=ラマらが,新疆ではウイグル人有力者(ベク)が,現地の支配者として存続し,清朝の派遣する監督官とともに,それぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず,とくにチベット仏教は手あつく保護して,モンゴル人やチベット人の支持をえようとした。
「東書」清帝国の広大な版図は,本部(直轄地)と藩部に分けて統治された。本部とは,首都圏の直隷省と地方の各省から構成され,藩部は,つぎつぎに征服・併合されたジュンガル・回部・チベットなどの地域であり,藩部を管理する理藩院が設置された。本部と藩部からなるこの清朝の大領域が,今日の「中国」という地域名称と重なり,また清朝の風俗や文化が,「中国人」のイメージのもととなった。

 ルター派・領邦教会制の説明でも「詳説」の方が合ってます。また「詳説」は「諸侯は……領内の教会」と分かりやすく書いているのに対して、「東書」は「領邦では,国家が」と分かりにくい。

「詳説」ルターの教えを採用した諸侯はカトリック教会の権威から離れ,領内の教会の首長となって(領邦教会制),修道院の廃止,教会儀式の改革などをすすめた。
「東書」ルター派の領邦では,国家が信教を監督する領邦教会制が成立して,君主の支配権が強化された。

 2009年度第2問(a)「殷王朝の政治の特徴」という課題に対しては雲泥の差があります。
「詳説」殷王朝は,多数の氏族集団が連合し,王都のもとに多くの邑(城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが,王は盛大に神の祭りをおこない,また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し,強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。
「東書」殷王が天帝の神意を占った内容が,漢字の原型となった甲骨文字で記録されており,当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。

 2008年度第1問に関して、指定語句の「第1回万国博覧会」は、
「詳説」19世紀のなかば,イギリスはヴィクトリア女王のもとで繁栄の絶頂にあった。1851年には,のべ600万人以上が入場したロンドン万国博覧会がひらかれ,人びとに近代工業力の成果を誇示した。
「東書」本文に記述なし。右下にクリスタル=パレス(水晶宮)の内部を描いた絵があり、「1851年ロンドン開催の第1回万博は、鉄とガラスの巨大建築で、新しい工業中心の時代の開幕を告げた」と注があります。

 指定語句「総理衙門」について、
「詳説」朝貢体制のもとでは,外国を対等の存在でなく国内の延長のようにみなしていたため,特別に外交を扱う役所は設けられていなかったが,1861年にはじめて,外務省にあたる総理各国事務衙門が設置された。従来清朝の支配が名目的・間接的にしかおよんでいなかった地域に諸外国が手をのばし,19世紀の後半にこれらの地域はつぎつぎと清朝の影響圏から分離していった。
「東書」清朝は,外国使節の北京駐在を許し,外務事務をあつかう総理各国事務衙門(総理衙門)を設置して,対等な外国の存在を認める外交をはじめた。

 2007年度第1問(農業生産の変化とその意義)に関して、課題は「11世紀から」とあるのが何故か分かりますか? 「東書」で勉強しているひとはこの教科書の時代区分が曖昧なために判断できにくい。

「詳説」 封建社会は11〜13世紀に最盛期をむかえた。農業生産が増大し人口が急増すると西ヨーロッパは拡大を開始する。

 「詳説」も「東書」も各章のはじめに概説を説いているところがあります。「詳説」はワクでかこんであり、「東書」はカラーの写真の中で白抜きの字のところです。「詳説」のp.126にある「ヨーロッパの形成と発展」のところ、そして「東書」はp.138-139「ヨーロッパ世界の成立と変容」のところを開いてください。読むと詳説の明快さがわかるはすです。
 「東書」では、p.138-39の時代区分のところでは「10世紀を中心とする民族移住の激動のなかから,西ヨーロッパでは内陸部の農業を基盤とする封建社会が明らかな姿をあらわした。さらに,農業の発展や人口の増加を背景に,西ヨーロッパ世界は外部への膨張に転じるようになる」と書いていながら、時代区分ではないところでは(p.150)、「11世紀になると,気候が温暖になり,外部勢力の侵入による混乱もおさまって,西ヨーロッパの社会も安定してきた。……人口は増大し,包囲され萎縮していたヨーロッパ世界は成長と膨張に転じることになる」と書いています。つまり10世紀と11世紀とでずれています。
 この曖昧さは他にも見られます。「東書」p.203に「明代の社会と経済」とありますが、「詳説」はp.169に「明後期の社会と文化」という題になっています。「東書」に書いてある内容は明朝約300年間全体に該当するかのように書いてありますが、実は明朝後半からの社会経済の変化を書いているのです。「詳説」が正しい題名で説明しています。この違いは軽くありません。1983年度の第1問「16〜17世紀の中国の新しい動き」が書けるかどうかに関わってきます。

 2007年度第2問・問(1)
 設問は「イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か」でした。
 この問に「東書」に「イスラーム教徒の重要な行事、メッカ巡礼を行うと定められた月(12月)も、年によっては暑い時期だったり、寒い時期になったりすることとなる。このため、季節と関係の深い農業には不便で、農民たちは農作業には太陽暦を使うことが多い」とあり、「詳説」には書いてない、と書いているひとがいました。
 しかし「詳説」にも書いてあります。「イスラーム世界では、7世紀に純粋な太陰暦であるヒジュラ暦が定められ、農事の目安となる古来の太陽暦とあわせてもちいられた」とあり、「東書」の方がいくらか分かりやすい説明になっています。これは珍しい例です。

 2007年度第3問・問(10)「モンゴル人民共和国……ソ連崩壊前後のこの国の政治・経済的な変化について」
「詳説」 ソ連社会主義圏に属したモンゴル人民共和国でも、ペレストロイカ・ソ連解体と並行して1990年、自由選挙が実行された。92年には社会主義体制から離脱し、国名もモンゴル国となった。
「東書」 記述なし。
 
 2006年度第1問(戦争の助長と抑制)で指定語句「徴兵制」に関して、フランス革命戦争での記載は、
「詳説」ロベスピエールを中心とするジャコバン派政権は,強大な権限をにぎる公安委員会を中心に,徴兵制の実施,革命暦の制定,理性崇拝の宗教を創始するなどの急進的な施策を強行……
「東書」記述なし。

 以上の最近の例をみても分かるように、「東書」は記述量が少なく、適格性にも欠け、何より時代区分が曖昧であることの欠点をもっています。
 この内、記述量は少なくといっても「東書」独自の記述量の多い記事もあります。それはこの教科書が東西交流に重点を置いているためです。
 たとえば、「港市国家」という用語は「詳説」では1回しか出てきませんが、「東書」になると、なんと35回も出てきます。「海域」という用語は「詳説」では1回、「東書」では15回出てきます。東西交易に重点を置いている、特に海に置いている、という傾向が分かります。しかしこんなに必要はないですね。しつこすぎます。

 「詳説」p.120-122の「アフリカのイスラーム化」と「東書」p.120-121の「アフリカの古王国とイスラーム化」という題の記事とは同内容の記事ですが、前者は651字、後者は1067字で書いてあります。後者の「東書」にはアクスム王国の詳しい説明、ラクダの利用が前者にはない説明です。ここでも交易路のことや商品のことが強調されています。
 この記事の前の「詳説」p.119-120「イスラーム勢力の進出とインド」と「東書」o.120「イスラーム勢力のインド浸透」は同類の記事ですが、前者の「詳説」には「東書」にはない、ハルジー朝の地租金納化、そのムガル帝国への継承、仏教の消滅、ヒンドゥー寺院の破壊、バクティ、ヨーガ、都市民・カースト下層民へのイスラーム教浸透、ペルシア語への翻訳など、ほぼ同字数(「詳説」676字、「東書」570字)なのに豊かな内容が盛り込まれています。中でも仏教消滅とイスラーム教浸透は重大事のはずですが「東書」には載っていません。

 しかし「東書」に長所もあります。コラム記事です。女性参政権というコラム記事は2010年度の一橋第2問にぴったりです。また東西交流、中でも東南アジア史をよく出題する阪大の問題にも適合しています。東大には合わない。
 「東書」には写真・絵が「詳説」よりたくさん載っていて楽しそうです。「詳説」より大判であり、本文記事の左右にコラム以外の小さい囲み記事や写真が付いています。見る世界史としてはとても良いものです。

2.入試問題の特色と教科書
 東大の問題は広くグローバルな問題を出しているため、そういう点をよく説明しているのが「東書」だと勘違いした教師や学生達が「東書」を推薦しているとおもわれます。確かに「東書」は東西交流をさかんに説明していて著者たちが序文で強調していることも世界の一体化ということです。また港市国家についての記述が異様に多いこともこれを傍証しています。しかし東大の過去問は「交流(交易)史」ではありません。
 問題の特色がつかめていないために「東書」を推薦していると、わたしは見ています。


 2010年度
 オランダおよびオランダ系の人びとの世界史における役割について、中世末から、国家をこえた統合の進みつつある現在までの展望のなかで、論述しなさい。
 この問題は東西交流史ではありません。もちろん「国家をこえた」とあるように、他国との関係、他国への影響なしに「役割」は書けません。対等に二つの国々の関係だけを問うのなら交流史ですが、これはあくまでオランダを視点に置いて、かつオランダを影響の起点に置いて他国のほうが受身で影響を受ける姿があって、オランダの「役割」・貢献が言えます。それに、「中世末から……現代まで」と長い歴史を問ういるため、ヨコ(交流)でなくタテ(時間順)にある程度比重をかけないと完結しない問題です。

 2009年度
 世界各地の政治権力は、その支配領域内の宗教・宗派とそれらに属する人々をどのように取り扱っていたか。18世紀前半までの西ヨーロッパ、西アジア、東アジアにおける具体的な実例を挙げ、この3つの地域の特徴を比較して……
 この問題を交流史ととるひとはいないでしょう。比較です課題は。

 2008年度
 1850年ころから70年代までの間に、日本をふくむ諸地域がどのようにパクス・ブリタニカに組み込まれ、また対抗したのか……
 これは交流史ともとれますが、あくまでイギリスと関わった国々が、イギリスに「組み込まれ」また「対抗した」かを紋って編集することが課題です。「東書」の交流は経済に比重のかかったものですが、この問題は政治と宗教です。また「対抗」することを「交流」ととるひとはいないでしょう。

 2007年度
 11世紀から19世紀までに生じた農業生産の変化とその意義を述べなさい。
 これは交流史ではありません。農業技術や生産の変化と意義です。

 2006年度
 戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争,フランス革命戦争,第一次世界大戦という3つの時期にどのように現れたのかについて……
 3つの戦争について一つ一つ助長と抑制を書きます。交流史ではありません。

 と最近のものを読まれたら、広い問題ではありながら交流史でないことがわかります。ばらばらなデータを一つのテーマに合わせて編集する能力を見ようとしています。ちがう国や時間のものを比較したり意義づけたりする編集能力です。こういう問題に対応するために交流史の多い「東書」を学んだから強くなる、ということはありません。わたしが添削して合格していった学生たちは「東書」をもっていない学生もいました。

アマゾンの汚い操作

 これは『世界史年代ワンフレーズnew』の現在の表示画面ですが、下段の表示写真は2月23日のものです。このように操作して売れないようにしています。スマホでも同じ表示にしています。これはO社がアマゾンに金を払って配置換えをしているものです。なぜO社なのかはここでは明かしません。腐敗した会社同士の馴れ合ったすがたです。拙著『世界史論述練習帳new』も同じ操作をして販売の妨害をしています。アマゾンは大手出版社と組んで自費出版本をつぶそうとしています。大企業のすることですかね?

 またまた動かしました。以下。古い物をトップにもっていく理由は何でしょう?(3月9日)。パソコンでは直しましたが、スマホでは以下のままです(3月11日)。

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阪大2018世界史(外国語+外国語以外の第3問)

(Ⅰ)
(1) 次の文章は古代インドの世界観を伝えた、玄奘の『大唐西域記』の一節を抜粋したものである。これを読んで、以下の問1〜問4に答えなさい。

 時によって、転輪王(古代インド思想における理想的な王を指す概念)が世に出てこない場合は、贍部洲(ぜんぶしゅう、人間世界)の地には四人の君主が出る。南方には象主がおり、その地は暑さがきびしく湿気が多くて、象の生育に適している。西方には宝主がおり、そこでは海に臨み、財宝が充満している。北方には馬主がおり、その地には寒さがきびしく、馬の飼育に適している。また東方には人主がおり、気候は穏やかで人が多い。
 故に、象主の地は、人々が剛直で気骨があるとともに学問に熱心であり、様々な技芸をよく身につけている。また、服装は布きれを横ざまに巻きつけ、右肩にを露わにしている。(中略)
 宝主の地では、形式や儀式が重んじられずに、人々は財宝を貴んでいる。服は短く左襟前にし、髪を切り髭をのばしている。城郭をそなえた居所をつくり、①商取引のを利を追っている
 馬主の地の習俗は、生まれつき粗野で荒々しく、人情は殺戮を意に介さない。フェルトの帳(とばり)に、穹廬(テント)に住まいし、鳥の如く此処(ここ)かしこと居を移し、草を追い牧畜をしている。
 人主の地は、その気風は機知に富んで賢く、仁義がはっきりしている。人々は冠をつけ帯をしめ、右襟前の衣服を着る。(中略)②君臣上下の礼、③法度典章・文字車軌のとりきめに至っては、人主の地はもはや加えるものがないほどである。(水谷真成訳『大唐西域記』平凡社、1971年を一部改変して引用。)

問1 歴史上、「世界」に対する多様な見方が存在するが、中でも左記の世界観はアジアを客観的に風土によって4つの地域に分類している。玄奘がインドに出発した当時(629年ころ)、「人主」の地は唐朝が支配していた。その他の3種[象主・宝主・馬主]の地は、それぞれどのような王朝ないし国家によって統治されていたか。その名前を書きなさい。

問2 「四主」からなるアジアでは、他民族・他宗教からなる帝国がしばしば成立し、そこでは「内部」と「外部」にまたがって、いろいろな強さや形態の支配が行われていた。
 (1) 下線部②の規範を持つ「人主」の地では、どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し、また外交関係を結んで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に述べなさい(150字程度)。

 (2) 下線部③に関して、北朝期から唐代にかけて形成された諸制度は、周辺国家にも継受された。こうした制度のうち、日本に取り入れられたものを具体的に1つ挙げよ。

問3 「宝主」の地では、7世紀後半に新たな帝国が成立し、それまでと異なる世界観が広まるとともに、その社会や国家のあり方も大きく変化した。どのような社会や国家となったか述べなさい。その際、解答には以下の語句をすべて用いること(100字程度)
   シャリーア  ウンマ  カリフ

問4 「馬主」の地では、「宝主」の地の周縁より下線部①の特徴をもつ人々が移住し、彼らのコロニーが形成された。そうした彼らの7〜9世紀の「馬主」の地における政治・宗教・文化面での貢献について述べなさい(120字程度)


(Ⅱ)
 次の文章は、とある世界史の授業での芸術好きなAくん、中国好きなBさん、先生の会話である。その内容をたどりながら、以下の問1と問2に答えなさい。

先生:今日の授業では、みんなの知識を活かしながら、異なる時代、異なる場所で描かれたふたつの孔子の像を比べて、描かれ方の違いを議論してみましょう。図1は8世紀頃の中国で活躍した呉道玄が描いた《先師孔子教像》と題された孔子像で、図2は1687年にパリで出版された Confucius Sinarum Philosophus という本の挿絵にある孔子像です。この本の名前はラテン語で「中国の哲学者孔子」という意味です。

 

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Aくん:図1は版画のようだね。中国や日本の絵画に似たような絵があるから、たくさん複製されたのだろうね。この図には孔子だけが描かれているけれども、右上には「徳侔天地 道冠古今 刪述六経 垂憲万世」という漢文が書かれているね。Bさん、どういう意味か教えてくれない?

Bさん:「孔子の徳は天地に等しく、彼の教えは古今に比べられるものはない。彼は六経を編んで、永遠に手本となるものを残した」といった意味かな。六経というのは儒教の経典のこと。唐朝の時代になると、そのうち五つの経典の解釈が『五経正義』にまとめられたと習ったわ。

Aくん:図1は孔子を褒め称えた絵のようだね。そういえばインターネットで中国や台湾のホームページを見ていたときに、「徳侔天地 道冠古今」といった言葉が掲げられている寺院のような建物の写真を見たことがあるよ。

Bさん:その建物は孔子を祀っている霊廟の事じゃない? 孔子廟といって、中国や台湾だけでなく、韓国やベトナム、そして日本にもあるのよ。建物といえば、図2の孔子は図1と違って建物の中に描かれているわ。

Aくん:僕もそのことが気になっていたんだ。なんとなくルネサンスに活躍したラファエルが描いた《アテネの学堂》と似ている気がするんだよ。

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Bさん:《アテネの学堂》は、プラトンやアリストテレスを中心に古代ギリシアの哲学者たちが一堂に会している上だったよね。そういえば図2をよく見ると、孔子の字(あざな)である「仲尼」と言う文字を中心に、壁画の面には儒教の経典や孔子の弟子たちの名前も漢字で書かれているわ。

Aくん:もしその弟子たちが人として描かれていたら、図2は《アテネの学堂》の中国版といった感じになるかのかな? 先生、図2の「国学」という漢字の下に“Gymnasium Imperij”と書かれていますが、どういう意味ですか?

先生:Aくん、いきなり答えだけを求めないように。現代社会の授業で世界の教育制度を調べたときに、ヨーロッパの中等教育機関にギムナジウムという学校があったことを覚えていませんか? それから英語には“Imperial”や“empire”といった単語がありますよね?

Aくん:だとすれば、《帝国の学堂》といった意味かな。それにしても図1は孔子が崇拝の対象のように描かれているのに、図2は古今の知識が集まる「帝国の学堂」の中に孔子が描かれている。図2の頃のヨーロッパではアジアとの交流も盛んになり、フランスでは学士院のような組織もつくられていたことを思うと、図2は当時のヨーロッパの学問を反映した孔子像なのかもしれないね。

Bさん:それはヨーロッパの文化に詳しいAくんらしい意見ね。でも中国でも清朝では『四庫全書』が編纂されて、漢字で書かれた古今の書物が集められたと習ったわ。古今の知識を集めたのは近世のヨーロッパだけではないのよ。でも不思議ね。『四庫全書』がまとめられた清朝にせよ、『五経正義』がまとめられた唐朝にせよ、異民族の王朝だと習ったのに、なぜ中国古来の書物をまとめたのかしら?

先生:良い質問ですね。清朝だけを例にとっても「異民族の王朝」という非中華的なイメージと「歴代中華王朝の最後のもの」というイメージの両方がありますよね。それでは宿題として、このような二つのイメージの共存がどのような清朝の特徴から導き出されるかについて調べてきてください。これで今日の授業は閉じることにしましょう。

問1 この会話の内容を踏まえながら、図1が描かれたころのアジア、図2が描かれたころのヨーロッパ、それぞれの学問・思想をめぐる文化的な背景について述べなさい(200字程度)

問2 下線部で先生が与えた宿題に対する答えを述べなさい(180字程度)。

 

(Ⅲ) 次の資料1と資料2を参照し、以下の問1と問2に答えなさい。

 資料1 ドイツ連邦共和国大統領ワイツゼッカーの演説(1984年6月11日)からの抜粋
 今日、私たちには挑むべき挑戦が二つあります。一つは、第三世界に関するものです。マーシャルは、飢餓、貧困、絶望そして混乱に立ち向かうと述べました。彼の計画は、被援助国が自力では困難を乗り越えられるように手助けをしました。彼が述べた「ヨーロッパ」という言葉は、ほぼ現在の「第三世界」という言葉に置き換えて理解することができます。(中略)今日のもう一つの挑戦は、ヨーロッパ人として、ドイツ人として、特に私たちの心と責任に迫る問題──東西関係に関するものです。(中略)それは、東も西も単独では解決できない、世界の人口問題、飢え、自然破壊、科学技術の発展に伴う倫理上の問題、東西の平和な関係の構築に関する多くの問題です。マーシャルの時代とは違い、巨額の贈与や借款の供与は不可能ですが、今日の東西関係には質的に全く新しい協力が可能です。(中略)私たちは、40年前にマーシャルが世界に送ったメッセージの遺産に恥じないような行動をとることを求められているのです。

 資料2 1990年国債ドル表示の1人当たり実質GDPの推移

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(アンガス・マディソン著、金森久雄監訳『世界経済の成長史 1820〜1992年』東洋経済新報社、2000年より作成。)

問1 マーシャルプランによる巨額の贈与や借款の供与は、西ヨーロッパ諸国の戦後復興のために大きな役目を果たしたが、資料1には、プランの実施が後世に及ぼした多様な影響が述べられている。その影響とは何であったか。資料1と資料2から情報を読み取って、1947年〜1970年のヨーロッパにおける経済と国際関係に焦点を絞り説明しなさい(150字程度)。

問2 資料1には、第三世界を援助の必要性が示唆されているが、第三世界の中には自力で人々の生活向上を目指そうとする諸国間協力の動きもあった。アフリカ統一機構(OAU)の発足などはその一例である。こうした動きは植民地に一挙に新興独立国が誕生したことにも関連している。資料2にの中でいわゆる「アフリカの年」に植民地から独立した国はどれか国名を一つ答えなさい。

………………………………………

外国語以外の第3問

(Ⅲ) 次の文章を読んで、以下の問1問2に答えなさい。

 1920年、ちょうどハジ・ミスバー*が中央ジャワの砂糖地帯で革命を目指して政治運動を展開していた頃、植民地政府はその地で初めての「学術的な方法に基づくセンサス(人口調査)」を実施したのだ。その実施の時期は同時代の世界と比較すれば、わずかに遅かったことは否めないのだが、そうひどく遅れていたわけでもなかった。かつて新生独立国家アメリカ合衆国が1790年にあたふたと国民的人口統計を行ったことで、学術的手法の萌芽となるような行政府主導のセンサス活動に着手した初めての国家となった。それはフランス、オランダ、イギリスに10年ばかり先立つ出来事であった。
 だが、1850年に至るまで、算出は世帯単位で行われ、世帯主の名前のみが記録されていた。1880年になって初めて、ワシントンに連邦政府の国勢調査室が設置されたが、正式の政府内の部局として改編され、国家の常設専従機関になるのは1902年を待たねばならなかった。しかし、世界を見渡してみるならば、第一回国際統計学会議がブリュッセルで開かれ、センサスで得られた調査データを国家間で比較できるようにし、統一的な調査内容と手法を達成するための基礎となる「学術的」な条件規定を制定する決議を採択したのは、やっとのこと1853年である。つまり、ヨーロッパがナショナリズムの動乱でおおわれた1848年革命の余波の最中のことだったのである。
 (ベネディクト・アンダーソン著、糟谷啓介ほか訳『比較の亡霊─ナショナリズム・東南アジア・世界』作品社、2005年より引用。)
 *ハジ・ミスバー(1876-1926)……オランダ領東インドで活躍したムスリムの共産主義者。

問1 この文章で記された時期に欧米諸国で人口調査が確立されていった背景について、政治体制や社会体制の変化と関連づけながら述べなさい(120字程度)。

問2 本格的人口調査は、西欧諸国の植民地が数多く存在した東南アジアでも、19世紀以降に実施され、民族・人種的分類に基づくデータ収集が行われた。この人口調査が、植民地経営や、その地域におけるのちの政治動向に与えた影響を述べなさい(100字程度)。