世界史探究(4問題100点)
第1問 世界史探究問題(20点)
次の図と表は中華民国初期における産業の発展状況に関するものである。図と表も参照しながら、この時期の中国で見られた工業の発展に関し、いかなる背景のもと、どのように工業化が進んだのか、そしてそうした工業化が、同時期やその後の中国の政治や社会にどのような変化をもたらしたのかについて、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。


第2問 世界史探究問題(30点)
次の文章(A、B)を読み、下線部(1)〜(29)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 15世紀以前の西アジアでは、騎馬遊牧民の軍事力が戦場において圧倒的優位を保っていたが、この状況は16世紀を境に徐々に変化していった。
13世紀前半にモンゴルが(1)西アジアヘの進出を開始すると、この地域の情勢は激変した。モンゴル軍は(2)1243年にアナトリア東部のキョセ=ダグで行われた戦闘で現地の(3)セルジューク朝勢力を撃破し、これを服属させた。また、1258年にはバグダードを占領し、(4)アッバース朝最後のカリフを処刑した。モンゴル軍はさらにシリアヘの進出を目指すが、この企ては(5)新興のマムルーク朝により阻止された。一連の征服活動の結果、イラン、イラクは(6)イル=ハン国の領土となった。以後、およそ1世紀の間、西アジア地域では、西にマムルーク朝、東にイル=ハン国という、いずれも遊牧民に出自をもつ騎兵を(7)軍隊の中核に据えた国家が対峙(じ)することになった。
イル=ハン国は14世紀半ばには崩壊し、その後、イランとその周辺には様々な地方政権が成立した。つづく14世紀後半から15世紀初めにはティムールがイランのほかシリア、(8)アナトリアにまで進出し、一時的にイランは再統一された。しかし、15世紀後半になるとイランの西部は(9)ティムール朝の支配から離脱した。
16世紀に入ると、西アジアの勢力図は再び大きく変化した。この世紀の初め、中央アジア北方の草原地帯で勢力を拡張していた(10)トルコ系遊牧民のシャイバーニー朝が南下してティムール朝を破り、中央アジアからイラン東部へと進出した。滅亡したティムール朝の王族の一人であるバーブルは、南方に活路を見出し、のちにインドで(11)ムガル帝国を建設した。
同じく16世紀の初め、イラン西部では、神秘主義教団に起源を持つサファヴィー朝が、やはりトルコ系遊牧民の軍事力を背景に建国し、1510年にはシャイバーニー朝との戦闘に勝利してイラン東部も奪った。こうして、イランはサファヴィー朝のもとに再び統一された。さらにサファヴィー朝はアナトリアヘの進出をねらったが、1514年にアナトリア東部の(12)チャルディラーンの戦いで(13)火器を有効に活用したオスマン帝国軍に敗れ、その試みは頓挫した。この頃から徐々にではあるが、(14)西アジア地域でも火器を操る歩兵が戦場で重要な役割を果たすようになり、騎兵の地位が相対的に低下してゆく。オスマン帝国は1517年にマムルーク朝を滅ぼし、シリア、エジプトも領有した。こうして、16世紀前半以降、西アジアから南アジアにかけて、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国という3つの大国が並立することになるのである。
問
(1) この進出は、当時中央アジア、イランを支配下に置いた国との対立を直接の原因とするものであった。この国の名を答えよ。
(2) その2年前、モンゴル軍は東欧でドイツ・ポーランド連合軍を破っている。この戦いの名を答えよ。
(3) この王朝の始祖は、アッバース朝カリフから「スルタン」という称号を授与された。スルタンの語義を答えよ。
(4) 4人の正統カリフや、ウマイヤ朝およびアッバース朝の歴代のカリフはすべてイスラーム教の預言者ムハンマドと同じ部族に属していた。この部族名を答えよ。
(5) 次の文章は、マムルーク朝後期の歴史家マクリージー(1442年没)の『諸王朝の知識の旅』に収められる、モンゴル軍とマムルーク朝軍の決戦の模様を伝える箇所の一部である。これを読んで下の問(ア)、(イ)に答えよ。
アミール*たちに命令が下った。彼らが集まると、[スルタンのムザッファル=クトゥズ**は]タタール人***と戦うべく檄(げき)を飛ばした。(中略)それから[スルタンは]アミールのバイバルスに、ー隊を率いて進軍するよう命じた。彼は進軍してタタール人の前衛を発見すると、スルタンに書状でそれを知らせ、攻めては引き返す小競り合いを続けた。そしてついに、スルタンがアイン=ジャールート****に姿を見せた。[ (ア) ]の代官であるキトブガーとバイダラーは、[マムルーク朝の]軍隊が進軍してきたとの知らせが届くと、シリア地方に散らばっていたタタール人を結集し、(イ)ムスリムたちとの戦いに向けて出発した。
(注)*軍団長の意。**当時のマムルーク朝スルタン。
***ここでは「モンゴル人」を意味する。
****パレスチナに位置する両軍の決戦の地の名称。
(出典歴史学研究会編『世界史史料2』岩波書店、2009年、197ページ。出題に際して一部改変)
(ア) 空欄(ア)には、当時モンゴル西征軍を委ねられていたチンギス家の人物の名が入る。その人物の名を答えよ。
(イ) 下線部(イ)について、著者マクリージーはこの箇所で、マムルーク朝軍を「ムスリムたち」と表現している。マクリージーがこのような表現を選択した理由として最も適切と考えられるものを簡潔に述べよ。
(6) この国の宰相であったラシード=アッディーンは、歴史書『集史』を著した。この作品が書かれた言語の名称を答えよ。
(7) 両国はともに、軍隊を維持するため、俸給の代わりに一定の土地の徴税権を軍人に与える制度を採用していた。イスラーム史上、この制度を最初に導入したとされる国の名を答えよ。
(8) この時ティムールと戦って敗れたオスマン帝国君主の名を答えよ。
(9) ティムールにより首都とされ、繁栄した中央アジアの都市の名を答えよ。
(10) この国を建設し、ティムール朝を滅ぼした集団の名称を答えよ。
(11) この国の第3代君主はイスラーム法で非ムスリムに課されるものと規定されていた税を廃止した。この税のアラビア語の名称を答えよ。
(12) この戦いで敗れたサファヴィー朝の君主の名を答えよ。
(13) この戦いにおいては、鉄砲で武装したスルタン直属の歩兵常備軍が活躍した。この常備軍の名称を答えよ。
(14) サファヴィー朝でも16世紀末に即位した君主が、銃兵隊、砲兵隊を新設している。この君主の名を答えよ。
B 黄河と(15)長江は、いずれも現在の青海省に源流を発し、大陸東方に広がる海へと注いでいる。この両大河にはさまれた地域を流れる河川を利用して運河を建設し、水路で往来しようとする試みは古く(16)春秋・戦国時代から行われてきた。ただ、建設した運河の維持は容易でなく、河底に堆積する泥土により運河が使用不能となることも珍しくなかった。
いわゆる「大運河」が完成したのは、隋の時代である。6世紀末、(17)禅譲により北周に替り王朝を建てた楊堅は、春秋時代に開かれた運河を利用して(18)山陽瀆(とく)を建設した。次いで即位した揚帝は(19)通済渠を開鑿(さく)、さらに(20)高句麗出兵の準備として永済渠を建設した。しかし、矢継ぎ早に行われた大運河の建設は、民衆に多大の負担をかける結果となり、各地で(21)反乱が続発することとなった。
大運河が物資輸送の大動脈として活用されるようになるのは、8世紀以降のことである。8世紀半ば、(22)安禄山らが起こした反乱により財政危機に瀕(ひん)した唐王朝は塩の専売を実施したが、このことは、(23)華北から江南地方へと穀物生産の重心が移動しつつあったことと相侯って、大運河の果たす役割を飛躍的に高めた。
(24)五代から北宋時代にかけて、大運河による物資輸送(漕[そう]運)は一層盛んとなった。(25)帝都を貫いて流れる大運河沿いの風景を活写したとされる絵画からも、その繁栄ぶりをうかがい知ることができる。しかしその栄華も、12世紀初めに(26)女真の建てた金の軍隊が華北を占領したことによりあっけなく終(えん)を迎え、漕運は衰退し大運河も荒廃してしまった。
大運河が復活したのは、元が(27)南宋を滅ぼした後のことである。元は(28)陸路や海路を利用して世界中の富を都の大都に集めようとした。中国でも当初は海運による物資輸送を試みたが、やがて会通河を建設して漕運の復活を試みた。15世紀初め,永楽帝により会通河は改修され,大運河は江南地方と北京を結ぶ大動脈として(29)清代まで盛んに利用されることとなった。
問
(15) 長江文明を代表する遣跡の一つに河姆渡遺跡がある。発掘調査の結果、そこではある作物が人工的な施設により栽培されていたことが明らかとなった。その栽培作物の名を答えよ。
(16) 春秋・戦国時代には新たな農具を使用することにより農業生産力が格段に向上したとされる。その農具の材質を答えよ。
(17) 「禅譲」に対して、武力により政権を奪取することを何というか。漢字2文字で答えよ。
(18) 587年に山陽瀆が建設された目的について、簡潔に説明せよ。
(19) 通済渠が結んでいた二つの河川の名を答えよ。
(20) 高句麗は7世紀半ばに唐王朝の攻撃を受けて滅亡する。その後、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した国家の名を答えよ。
(21) 隋末の反乱勢力の中から台頭し、唐王朝を建てた人物の名を答えよ。
(22) 反乱の原因は、玄宗の寵(ちょう)妃の一族に連なる人物と安禄山が朝廷で対立したことにあるとされる。その寵妃の呼び名を答えよ。
(23) 北宋から南宋時代にかけて、長江下流域が農業生産の中心となったことを端的に言い表したことばに「〇〇熟すれば天下足る」がある。〇〇に当てはまる最も適切な語句を漢字で答えよ。
(24) 五代から北宋にかけての時代には、科学技術の面でも大きな革新が見られた。次の史料で蘇麒が言及している技術とは何か。
わたくしはかつて老先生から「自分の若いころは『史記』や『漢書』を求めても得られず、運よく手に入ったならばみな手ずからそれを筆写し、日夜必死で暗誦(しょう)した」とうかがったことがある。ところが近年では、商売人がさまざまな学者の書物を刊行し、一日に膨大な枚数を流布させている。(蘇試「李氏山房蔵書記」)
(25) 北宋末の画家張択端によって描かれたこの絵画の題名を答えよ。
(26) 金軍が華北に侵攻するきっかけとなったのは、北宋が国境を接していたある国家を、金と結んで挟撃しようとする作戦であった。この国家を建てた民族の名を答えよ。
(27) 南宋時代に宋学を大成した朱憲は、儒教の経典のうち「四書」を重視したとされる。四書に含まれる書物のうち、『論語』『孟子』『大学』以外の書名を答えよ。
(28) 元の陸上交通は駅伝制度によって支えられていた。この制度はモンゴル語で何と呼ばれていたか。カタカナで答えよ。
(29) 清の康煕帝は、大運河を利用して六度にわたり江南地方に巡幸した。最初の巡幸は1684年に行われたが、その直前には、中国大陸南部で起こった大反乱を鎮圧している。その反乱の名称を答えよ。
第3問 世界史探究問題(20点)
二つの世界大戦にはさまれた時期、欧米諸国などでは、国民経済の運営や個々の国民の生活に政府・公権力が大きく介入するようになったが、その性格は国によって大きく異なった。1928年以降のソ連1933年以降のアメリカおよびドイツについて、それぞれの性格を、経済運営および国民の政治的自由や人権に着目して、三者の相違が明らかになるように、300字以内で説明せよ。解答は所定の解答欄に記入せよ。句読点も字数に含めよ。
第4問 世界史探究問題(30点)
次の文章(A、B)を読み、[ ]の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)〜(22)について後の問に答えよ。解答はすべて所定の解答欄に記入せよ。
A 古代ギリシア・ローマの歴史叙述は、後世に大きな影響を与え続けることになる。
ローマ共和政末期の政治家・弁論家として名高い[ a ]によって「歴史の父」と呼ばれることになるヘロドトスは、ペルシア戦争を主題とする『歴史』を執筆した。ヘロドトスにあっては、ヒストリーの語源となるヒストリエは、自身による調査、探究を意味しており、『歴史』は広義の同時代史としての性格が強かった。一方でヘロドトスは、(1)ペルシア帝国拡大の過程を記すなかで、スキタイやエジプトといった各地の諸民族の慣習や風俗を好んで描いた。「異民族びいき」の歴史家とされる所以(ゆえん)である。ルネサンス期フランスの[ b ]はその『随想録』のなかで、『歴史』の異民族描写を多数引用しつつ、新大陸「発見」以降の文化的相対主義を模索している。さらにヘロドトスは、宗教改革期の神学者にも注目された。(2)ルター派のヒュトレウスは、『旧約聖書』と『歴史』に連続性を認め、天地創造から当時までの世界年代の計測を試みたのだった。
同じくギリシアの歴史家であるトゥキデイデスは、(3)ペロポネソス戦争を自身の『歴史』の主題とした。彼は、ヘロドトスと同様に同時代の歴史を対象としながらも、ヘロドトスとは異なって政治と戦争を主題とし、演説・弁論の引用や群集心理の描写を通じて、緊迫した支配と服従のメカニズムを活写した。現在の歴史学の水準からすると、トゥキデイデスの史料の利用には多くの問題があるものの、彼の対象、手法、叙述は(4)近代の歴史学にいたるまで大きな影響力を持ち続けた。
ヘレニズム期を代表する歴史家ポリビオスは、ギリシア人の立場から、(5)共和政ローマの帝国化のプロセスを描いた。彼は、同時代史を扱い、戦争・政治を主題とする点で、トゥキデイデスの正統なる後継者である。ポリビオスは他方で、『政治学』を著したギリシアの哲学者[ c ]の影響を受けつつ、ローマの共和政が王政、貴族政、民主政の各要素が合わさった混合政体であると主張した。この混合政体論は、啓蒙思想の時代まで影響力を持ち続けることになる。
ローマ最大の歴史家タキトゥスは、自由自治を旨とするギリシア人ポリスではなく、皇帝支配が確立したローマ帝国に生きた人物である。これにともなって、歴史叙述の対象にも変化が生じた。『年代記』と『同時代史』のなかで、タキトゥスは(6)皇帝による独裁政治の負の側面を辛辣(しんらつ)に批判した。元老院議員でもあったタキトゥスにとっては、元老院を中心とした共和主義こそが理想だったのである。またタキトゥスは、ローマ帝国にとって脅威であり続けたゲルマン人の生活と習俗を、『ゲルマニア』に描いた。この作品は、ゲルマン人がローマ軍団を壊滅させた(7)トイトブルクの森の戦いとともに、ロマン主義の時代以降、近代ドイツの成立期にかけて、ドイツ人の精神的支柱の一つとなっていく。さらにローマの将軍アグリコラの伝記である『アグリコラ』のなかで、タキトゥスはブリテン島でのローマ支配の現実に鋭く迫っている。ローマ人は破壊的な征服戦争を終えると、この辺境属州に高度な文明と快適な生活をもたらした。ブリテン島の人々のなかには、現地人の生活を破壊してそれを「平和」と名づけるローマ人の欺瞞(ぎまん)を批判する者もいたが、現地のエリート層はその多くが、ローマ風の生活を競って採用したとされる。(8)タキトゥスはこの状況を評して、ローマ人の「文明」はブリテン島の人々の「隷属」を強化するものに過ぎなかったと、ローマのいわば帝国主義的な側面を喝破(かっぱ)している。タキトゥスによるこのローマ帝国主義批判は、後世、(9)ヨーロッパ人によるアメリカ大陸支配の文脈で、再注目されることになる。
問
(1) 「王の目」「王の耳」を巡回させて、アケメネス朝の中央集権化を図ったペルシア王の名を記せ。
(2) この人物は聖書のドイツ語訳を出版した。この背景にある彼の宗教的な考えを簡潔に説明せよ。
(3) 開戦当初にアテネ側を指揮し、有名な戦没者追悼演説を行ったアテネの政治家の名を記せ。
(4) 厳密な史料批判に基づく科学的な歴史学を提唱した、19世紀ドイツの歴史家の名を記せ。
(5) 第2次ポエニ戦争で、ローマがカルタゴのハンニバル軍を最終的に破った戦いの名を記せ。
(6) アウグストゥスの家系出身としては最後の皇帝であり、母親殺しの廉(かど)などでタキトゥスの猛烈な批判の対象ともなった人物の名を記せ。
(7) この戦いの古戦場と考えられたデトモルト市郊外に、ゲルマン人側の指揮官であるヘルマン(アルミニウス)の巨像が建立れ、その除幕式に、のちにドイツ皇帝となって「世界政策」を推進する人物が参加した。この皇帝の名を記せ。
(8) 以下に引用する文章は、オクスフォード大学古代史教授のハヴァフィールドが、20世紀初頭に行った2つの講演からの抜粋である。ローマ帝国の属州支配についてのハヴァフィールドの理解にみられる、当時のイギリス人工リート層にとってのローマ帝国の意義を、タキトゥスの帝国評価と比較しつつ説明せよ。
ローマ帝政期最大の達成は、属州行政にこそあります──つまり、蛮族をはねのける前線防衛の組織化とその防衛線の内側での属州の発展です。(中略)ローマの言語と慣習が広まり、政治的権利が拡大し、都市的生活が確立され、属州の人々が秩序ある一貫した文明に同化されました。これが帝国の成し遂げたことです。(中略)こうした順応を決して強制しなかったローマの寛容さは、その文化をさらに魅力的なものにしました。
(出典F.Haverfield、"The Romanization of Roman britain、"Proceedings of the
British Academy、vol.2,1905-1906(Offprint)より訳出)
ローマ帝国の研究は一体何の役に立つのかと、問う必要があるでしょうか。(中略)ローマ帝国のシステムはその相違点と類似点の双方で、わたしたち自身の帝国、たとえばインドの帝国を、あらゆる側面から照らし出します。ローマがその巨大な支配地域の過半を合併し、国民性を消し去り、同化した方法、そしてヨーロッパの三分の一以上の地域とアフリカの一部にギリシア・ローマ文化を広めたおそらく意図せざる、しかし完全なローマの成功は、多くの点でわたしたちの時代と帝国に関係するものです。
(出典 F.Haverfield、"An InauguraーAddress delivered before the first AnnuaーGeneraーMeeting of the Society、11th May、1911、"Journaーof Roman Studies、vol.1、1911より訳出)
(9) スペインによるアメリカ大陸支配の暴力性を批判し、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を著したドミニコ会修道士の名を記せ。
B 20世紀初頭までに、(10)アフリカ大陸の大半はヨーロッパ諸国の植民地として分割されるが、その前提を整えたのが一連のアフリカ探検である。宜教のために(11)南アフリカに赴いた(12)リヴィングストンはアフリカ大陸南部を精力的に踏破し、探検家としての名声を確立した。探検の途上で消息を絶った彼を1871年に救出したのがスタンリーである。(13)レオポルド2世の支援の下で行われたスタンリーのコンゴ川流域探検は、レオポルド2世の私領であるコンゴ自由国(コンゴ独立国)の設立(1885年)につながった。コンラッドの小説『闇の奥』(1899年)に描かれたように、コンゴ自由国では先住民に対する非人道的な虐待と収奪が横行し、国際的に非難が広がった。ヨーロッパ諸国の植民地建設と不可分であった苛烈な暴力行使のもう一つの代表的な事例が、南西アフリカ植民地においてドイツが実行した大量虐殺であり、先住民の8割が殺害された。こうした残虐性を帯びた帝国主義を正当化する役割を果たした思想の一つが、(14)社会進化論である。
先住民の側がおとなしくヨーロッパ諸国の支配を受けいれたわけではなく、時には激しい抵抗の動きを見せた。たとえば、イギリスがスーダンを制圧する過程では長期にわたる抵抗運動(マフディー運動)が展開され、(15)「チャイニーズ・ゴードン」の異名をとったイギリスのゴードン将軍がその渦中で戦死を遂げた。また、アフリカ争奪戦を繰り広げるヨーロッパ諸国の利害もしばしば相対立した。1898年のスーダンでは、イギリスとフランスの間に(16)軍事衝突すれすれの緊迫した場面が生まれたが、フランスが譲歩し、ドイツを警戒する両国は1904年に英仏協商を結んだ。英仏協商の締結に先立つ1902年の時点で、イギリスはクリミア戦争以降の外交の基本路線であった(17)「光栄ある孤立」を覆し、同盟外交に転じていた。ドイツはフランスとの対立を深め、(18)モロッコでは1905年と1911年の二度にわたって両国間に一触即発の危機が生じた。アフリ力分割の過程で生じた最大の戦争は1899〜1902年の(19)南アフリカ戦争であり、この戦争に勝利したイギリスは1910年に(20)イギリス帝国自治領として南アフリカ連邦を設立する。
アフリカで独立を求める動きが顕在化するのは第二次世界大戦後のことである。1951年の(21)リビアが先鞭(せんべん)をつけ、特に後に「アフリカの年」と呼ばれることになる1960年には17か国が独立した。アフリカ諸国を結集して1963年に設立されたのが(22)アフリカ統一機構(OAU)である。しかし、不自然な国境線脆弱(ぜいじゃく)な経済、教育の遅れ等、植民地支配の負の遺産は現在でもアフリカ諸国に重くのしかかっている。
問
(10) 20世紀初頭の段階では植民地化を免れていたものの、1935年にイタリアの軍事侵攻を受け、翌年には併合されるアフリカの国の名を答えよ。
(11) 1652年にオランダ東インド会社が設立し、1814〜15年のウィーン会議でイギリス領に移管されたアフリカ大陸最南端の植民地の名を答えよ。
(12) リヴィングストンの出身地スコットランドで有力だった長老派教会(プレスビテリアン、カルヴァン派)の中核的な教説は何か、答えよ。
(13) レオポルド2世が国王であったヨーロッパの国の名を答えよ。
(14) 社会進化論の概要を簡潔に説明せよ。
(15) ゴードンが鎮圧に貢献し、それにより「チャイニーズ・ゴードン」と呼ばれることとなった1851〜64年の反乱の名を答えよ。
(16) この出来事を何と呼ぶか、答えよ。
(17) 「光栄ある孤立」を捨てたイギリスが1902年に同盟関係を結んだ相手国はどこか、答えよ。
(18) 1912年にモロッコはフランスの保護国とされるが、その際領域の一部はスペインの保護下に入った。1936年にはスペイン保護下のモロッコ(メリリャ)でスペイン人民戦線政府に対する軍の反乱が始まり、これをきっかけにスペインは内戦に突入する。ソ連が人民戦線政府側を、ドイツとイタリアが反乱軍側を支援した一方、イギリスやフランスは不干渉の姿勢を保った。これらの国はなぜ不干渉政策をとったのか、簡潔に説明せよ。
(19) オランダ系入植者が設立し、この戦争でイギリスと対決した2つの国の名を答えよ。
(20) 1931年のウェストミンスター憲章は自治領の地位を大きく変化させた。この変化について、簡潔に説明せよ。
(21) イタリア領リビアの設立(1934年)に至る経緯の端緒となった1911〜12年の戦争の名を答えよ。
(22) OAUの設立を決めた1963年のアフリカ諸国首脳会議を主導したガーナ共和国の大統領の名を答えよ。
………………………………………
第1問
課題は「工業の発展に関し、いかなる背景のもと、どのように工業化が進んだのか、そしてそうした工業化が、同時期やその後の中国の政治や社会にどのような変化をもたらしたのか」でした。
図でも表でも、第一次世界大戦とその直後が際立った数字を示しています。とくに表の生産量は大戦前の2倍半も伸びています。教科書(詳説)に説明があります。「第一次世界大戦による列強資本主義勢力の後退は、東アジアに空前の好景気をもたらした。……中国でも日本でも、都市労働者の数はふえ、学生などの青年知識人も増加した。大戦での帝政国家の敗北、戦後処理にあたっての民族自決原則の提唱、ロシア革命の成功などは、知識人や労働者に大きな影響をあたえ、東アジア各地では社会運動・民族運動が活発化した」と。東京書籍の教科書では「大戦中、欧米の勢力が戦争に集中している間、エジプト、インド、中国などでは、軽工業を中心に民族資本による産業がめざましい発展をとげていた。……産業や商業を担った民族資本家が、国家の独立と近代化の支持者となった。留学を通じて欧米の近代教育を受けた知識人たちも、新しい思想を鼓吹したり、あるいは民族の伝統を再評価することで、民族独立の担い手となった」と。
これらがそのまま解答になります。つまり大戦による欧米商品の後退、その間に中国工業が発展する、ということです。
「政治や社会にどのような変化」は、政治は大戦前の辛亥革命・中華民国の成立はあるものの、事実上は軍閥割拠の状態です。せっかく経済発展しても、鉄鋼、石炭、機械などの基幹産業はほとんど外国の手に抑えられ、軽工業でも圧倒的優位に立つ外国資本と苦しい競争を強いられ、政治を握る軍閥や官僚は、民族産業を育成するどころか新税や付加税を課して喰いものにしていました。
地主の取立てる小作料はほとんどの場合収穫の五割を越え、そのほかに労役や鶏などの献上品をさしださなければならなかった。端境期に食いつなぎの穀物を借りれば、年利にして5O〜8O%の利息を取られた。軍閥の徴収する土地税は、戦費調達のために数年先まで先取りされた。しかも治山治水が放置されたために、洪水、早害が毎年のように農民を襲った。農民・労働者は結束して農工会をつくり、穀物・棉花の供出を阻止しようとしますが軍閥は軍隊を派遣して銃殺します(『中国近現代史』岩波新書、p99-103)。これらが「同時期やその後」、1920年代の反軍閥闘争へ、新しい中国へのうねりとなります。
中国人の日本留学は1896年に始まり科挙の廃止された1905年以後急増します。近代的学問を講じる日本人教師も、新設された北京大学に招聘(しょうへい)されました(服部宇之吉・小川尚義)。おびただしい数の日本の書物が中国語に翻訳されます。
「留学を通じて欧米の近代教育を受けた知識人たちも、新しい思想を鼓吹」の事例として京大向きには、日本に留学して京大で河上肇に学んだことが社会主義思想を広めました。河上肇の多数の著作が中国語に翻訳され、中国の知識人や革命家に影響を与えました。それは五四運動の高まる1919年から本格化し、日中戦争、人民共和国成立、文化大革命期を経て改革開放時代の1988年まで約70年にわたります。史上初の中国語訳『資本論』は、河上肇・宮川実共訳の岩波文庫版)、『資本論』に依拠しつつ中国語訳されたもの。1875年から1949年までに翻訳されたのは10点以上とみられています。
授業を受けたり交流のあったひとに、周仏海・郭大力・李漢俊・陳啓修・王学文が認められます。周恩来は旅行カバンに河上肇の本『貧乏物語』を入れていました。他の中国人として李大釗(りたいしょう)がいます。李大釗は自分の論文を補強するものとして河上肇の著作を引用しています(以上の内容は三田剛史(著)『甦る河上肇:近代中国の知の源泉』藤原書店による)。
五四運動で活動した女子学生に影響を与えたのは河上肇でなく、アメリカの教育学者デューイでした。かれは訪日の予定でしたが、彼の弟子たちの懇請により急遽中国に来て、北京大学哲学教授になり2年2カ月留まることになりました。『学校と社会』(岩波文庫)で読みとれるデューイの考えでは、学校を実験場ととらえ、伝統を思い切って打破しよう、民主主義を実現しようと訴えていました。政治運動に女子が参加した初めての運動です。
北京大学の場合、1919年末に男女共学が始まり、最初に受け入れられた女子聴講生は9名でした。しかし1920年代初頭の中国全体では、初等・中等も含めて女子学生数は3000人余りに増えます。

これらの状況と大戦中と戦後の動きは、
1914〜18 第一次世界大戦・中国工業化
1915 二十一カ条要求
『新青年』発刊・文学革命
1916 蔡元培・北京大学学長、胡適・陳独秀・李大釗らを教授に招く
1918 魯迅『狂人日記』
1919 五四運動→中国国民党、カラハン宣言
1921 魯迅『阿Q正伝』、中国共産党
1924 国共合作・黄埔軍官学校
1925 孫文の死、五・三〇運動
1926 中華民国国民政府、北伐開始(国民革命)
これらのすべてを書く必要はありませんが、国民党・共産党くらいまでは必要でしょう。
第2問
難問を主に解説。
問(1) モンゴルが(1)西アジアヘの進出、この進出は、当時「中央アジア、イランを支配下に置いた国」ですから大きいです。チンギス=ハンに征服された大国ホラズム(=シャー)朝(1077〜1231)です。

問(5) 資料のモンゴル軍とマムルーク朝軍の決戦(アイン=ジャールートの戦い)は教科書に書いてない詳しい説明ですが、位置はこのウィキペディアに載っている地図が参考になります。
エジプトの教科書(『エジプト』ほるぷ社、1981)では「世界中の国々はモンゴル軍に負けたがエジプトだけ勝った」と嘘を書いています。
問⑹ ラシード=アッディーンの『集史』は何語で書かれたか、という問いです。著者はイルハン国のイラン人政治家・歴史家です。ペルシア語です。モンゴル帝国の歴史を勉強したいひとはペルシア語の学習が必須です。
問(8) バヤジット1世は、ハンガリーのジギスムントと戦かって勝ち(ニコポリスの戦い、1396、語呂(中谷まちよ『『世界史年代ワンフレーズnew』パレード)→「2個ポリス、銃1さ3げ9る6)、ティムールと戦って負けます(アンカラの戦い、1402 意1志4鬼02)。
問(12) この戦い(チャルディラーンの戦い)で敗れたサファヴィー朝の君主の名を答えよ。これはサファヴィー朝の建国者でもあります。西アジア最強で鳴らしたトルコ系騎馬軍団クズルバシュがサフアヴィー朝の主力でした。戦局は鉄砲を装備したイェニチェリと鎖でつないだ大砲(問(13))を軍勢の中央に配置したオスマン帝国軍が騎馬兵を倒します。イスマーイール1世はかろうじて戦場から逃れました。これはムガル帝国がデリー=スルタン朝最後のロディー朝をパーニーパットの戦いで破ったのと似ています。バーブルはオスマン軍事技術の砲兵専門家を採用しています。戦いの絵はウィキペディアから引いてきましたが、右上を拡大すると大砲が騎兵・歩兵を屈服させています。


地図は「プッツガー歴史地図」(帝国書院)から
問(15) 教科書(詳説)では「6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として,粗放な農耕が始まっていた」と書いています。ここから朝鮮半島、そして日本に伝播したが稲作のルーツの通説です。ルーツとちがい、戦前の日本は朝鮮米を食べて生きた、という史実があります(→https://youtu.be/T7U9lnrKklw)。

河姆渡(かぼと)遺跡の図(詳説世界史、p.67)
問(18) 「「大運河」が完成」とあるので「山陽瀆(さんようとく)」は別名に邗溝(かんこう)と呼び、北京からはじまる順は、永済渠──通済渠──邗溝(山陽瀆)──江南河となり、頭だけとると「永通邗江」(えいつうかんこう)と観光会社のように覚えます。京大過去問2015-2-(5)に「(5) このとき開鑿(かいさく)された運河のうち,黄河と涿郡(たくぐん=北京)を結ぶ永済渠は,当時朝鮮半島の北部に都を置いていた国への遠征に用いられた。この国の名を記せ」と出たことがあります。私大では「隋や唐代以降には洛陽や長安は江南と運河でつながっていた。2011年度学習院1-(7)(①広通渠②江南河 ③通済渠④永済渠〕は黄河から南につながっていた運河だね。)と選択問題で出ています。1999年度の慶應・法学部で「03.永済渠 04.邗溝」と選択語句に出題されています。
問(20) 高句麗は7世紀半ばに唐王朝の攻撃を受けて滅亡する。その後、唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した国家の名を答えよ。……とありますが、新羅は半島を完全に統一していません。大同江までで、支配者たのは半島の3分の2です。

ウィキペディアの地図
問(25)
「清明上河図」は巻物を持っていて、6mも長いものを授業で広げて見せましたが、

今は動画で見ることもできます。
https://www.bilibili.com/video/BV1rx411Q7Bn/?spm_id_from=333.788.recommend_more_video.-1&trackid=web_related_0.router-related-2479604-9xr68.1777179392863.926
問(26) 燕雲十六州を割譲した国でもあります。
問(27) 四書に含まれる書物のうち、『論語』『孟子』『大学』以外の書名という、よく問われる問題。拙著『センター試験・各駅停車』p.8に「★五経と四書の区別をしておきましょう。五経は『春秋』『礼記』『易経』『詩経』『書経』→春に礼、易しく詩を書く。四書は『孟子』『論語』『大学』『中庸』→もちろん、ダッチューの」と覚えかたが書いてあります(1先史・中国史(1)にあり、無料配布)。
問(29) 「南部で起こった大反乱」なので順治帝が漢人の3人に与えた地域が反清の行動を起こした反乱(1673、英国の審査法の年でもある。語呂→「審査、取1る6な7、×メッ3、)。
第3問
課題は「……国民経済の運営や個々の国民の生活に政府・公権力が大きく介入するようになったが、その性格は国によって大きく異なった。1928年以降のソ連1933年以降のアメリカおよびドイツについて、それぞれの性格を、経済運営および国民の政治的自由や人権に着目して、三者の相違が明らかになるように」でした。
比較文を作るのは意外難しいです。
一例を挙げてみましょう(K)。
①ソ連ではスターリンの指導のもとで第1次五カ年計画が開始され、計画経済による重工業化や農業集団化が行われた。スターリン憲法では市民の権利や自由がうたわれたが、実際には反対派への大規模な粛清が行われた。
②アメリカではフランクリン=ローズヴェルトにより、議会の支持のもとでニューディールが推進され、農業調整法などで市場への積極的介入が行われた。一方でワグナー法や社会保障法の制定により、労働者の権利を保護した。
③ドイツでは全権委任法によりナチ党の一党独裁体制が確立され、アウトバーンの建設や四カ年計画の推進などで経済回復を進めた。市民へは娯楽を提供する一方、言論は厳しい統制下に置かれ、ユダヤ人迫害が行われた。
まとめると、
①ソ連 第1次五カ年計画(重工業化や農業集団化)……経済運営
①-2 憲法では市民の権利や自由・反対派への大規模な粛清……国民の生活に大きく介入
②アメリカ ニューディール(農業調整法)……経済運営
②-2 ワグナー法や社会保障法・労働者の権利を保護……国民の生活に大きく介入
③ドイツ(ナチ党の一党独裁体制) 四カ年計画(アウトバーンの建設)……経済運営
③-2 娯楽を提供・言論は厳しい統制・ユダヤ人迫害……国民の生活に大きく介入
これで「相違」は明らかですか?
①計画と②ニューディールと③四カ年計画はどれも計画経済ではないですか? 実際、フランクリン=ローズヴェルトは「赤(=共産主義)と見られ、ニューディール政策に違憲判決が出ています。計画の中身が違えば相違なのか? 米ソの違いは資本主義(土地私有)を維持する点と、社会主義(土地国有)を維持し、それも戦争準備のための計画であつた点です。
①憲法と粛清、②法で保護、③市民に対する法は書いてないので不明ですが、統制・迫害とあり、①②とは相違しています。
この答案は具体的ではなく、法に関しては、ナチスの市民統制策として、ニュルンベルク法(旧『山川用語集』8分の1の混血までをユダヤ人と規定し、公職追放、企業経営の禁止など、市民としての生活権を制限した。市民権を剥奪し、やがて絶滅政策が強行された)で規制し、ゲシュタポ(秘密国家警察)が反ナチ的な発言・思想を監視し、裁判なしで逮捕・収容所送りも可能にした。また新聞・ラジオ・映画を統制し、焚書(本の焼却)も実施しました。

労働組合も解体し、ドイツ労働戦線に統合した。労働者の権利を法律(ワグナー法)で守り、組合の結成を促進する方針(擁護・育成)をとったアメリカと対照的でした。
ニュルンベルク法制定後にユダヤ人迫害が加速しています。たとえば、学校では、ユダヤ人学者・教師を大学・学校から追放する。ユダヤ人医学生の国家試験の受験を禁止する。ユダヤ人医師はユダヤ人以外診る事を禁止する。ユダヤ人弁護士は活動禁止。図書館の利用禁止。自動車免許証の剥奪、ラジオの所有禁止、食糧購入を1日1時間に制限、チョコレート他の菓子の購買禁止、肉類・乳製品配給券の給付禁止、公衆電話の使用禁止、新聞・雑誌の購入の禁止、公的交通機関の利用一切禁止、ユダヤ人の企業経営禁止、保護口座のみの貯金可能、後に全貯金没収、ユダヤ人は財産の登録を義務、後に財産没収、ユダヤ人は胸に「黄色い星」を着ける義務(1942)、シナゴーグ(ユダヤ教の教会)破壊・焼却、ユダヤ人は胸に「黄色い星」を着ける義務(1942)、ベンチはアーリア人とユダヤ人で分ける。
このように「ユダヤ人迫害」だけ③-2で言及していますが、他国のユダヤ人対策はどうなのか、書いてないので、③-2だけ浮き上がっています。①ソ連②アメリカにユダヤ人は居ないのか? 居ます。するとどういう差異があるのか。
①スターリンが粛清(殺害)したユダヤ人は、ユダヤ人という民族性を問題にしたのでなく政治思想(非スターリン派)の違いで弾圧・処刑しています。トロツキー、ジノビエフ、カーメネフ、ラデックなど。ユダヤ反ファシスト委員会(JAC)のメンバーの作家たち、医師団陰謀事件でユダヤ人医師を投獄しました。スターリンのソ連は、ナチスのように制度化していない点が違います。
②アメリカでもユダヤ人差別がありましたが、制度化していません。憲法修正第1条で言論の自由を保障していますから規制はできない。といって差別はあり、ヘイト的なラジオ放送を許容しており、クー・クラックス・クランの反ユダヤ運動がありました。自動車王ヘンリー・フォード(私人)の反ユダヤ宣伝が名高く、ヒトラーはフォードの肖像画を執務室に掲げていたことが知られています。フォードはユダヤ陰謀論を展開した著書『国際ユダヤ人』(1922)でアメリカに反ユダヤ主義を吹き込みます。

ただし民主主義はあってもヘイトスピーチが存在することは日本とて同じです。しかしアメリカ合衆国に言論の自由があるといっても、まったくの自由はありません。2026年度の「報道の自由ランキング」では世界66位、日本は62位です(国際NGO「国境なき記者団」(RSF、本部・パリ)。
①②のソ米は③独のように国家が主導して民族弾圧・絶滅を行なっていない。
第4問
主に難しめのものを解説。
問(2) ルターが「聖書のドイツ語訳を出版した。この背景にある彼の宗教的な考えを」と説明を求めました。
ルターの考えは山川・用語集の古いものにはよく載っていたのに、2013年版には「 人は信仰によってのみ義とされる」という信仰義認論ぐらいしか載っていない。旧版では「万人祭司主義」「聖書第一主義」があった。このどれを書いても解答になります。カルヴァン派も含めて新教徒(プロテスタント)の教会の第一の仕事は聖書そのものを学ぶこと、カトリック(旧教)のような儀式重視でなく、牧師(旧教なら司祭)の説教は何より聖書のそのものの説明になっていて、それを聞くこと、集会は聖書を学ぶ会であること、聖書を知らなくてキリスト教徒たりえない、という基本的な姿勢があります。
万人祭司の考えも、教会や聖職者を通して神に近づくのでなく、信徒一人一人が聖書の言葉に依拠して、直接神の前で決断しなさい、という神との仲介者としての聖職者を否定した考えです。
旧教のように善行でなく、信仰することだけで義と認められる(天国に行ける)、というのも依拠するのは聖書のことばです。それまでラテン語で唱えられていたが、意味の分からない儀式用語だったものが、一般のひとの分かる言語で書かれていて、どこにも贖宥状を買え、なんて書いてないこと発見します。今まで言われたいたこは嘘なのだ、という驚きが広がります。
問(6) タキトゥスの『年代記』は。アウグストゥスの死からネロの死まで書いたローマ教皇伝です。
第14巻(下巻)の初めに浮気した女にそそのかされて母親を殺す顚末が詳しく書いてあります。殺される場面は息子ネロに殺されることを察知した母親アグリッパが、下腹を出して「お腹を突いてくれ」と叫び、多くの傷を受けて息を絶った、と。性欲・殺欲に満ちた人間らしい物語です。
問(8)
資料「ローマ人は破壊的な征服戦争を終えると、この辺境属州に高度な文明と快適な生活をもたらした。ブリテン島の人々のなかには、現地人の生活を破壊してそれを「平和」と名づけるローマ人の欺瞞(ぎまん)を批判する者もいたが、現地のエリート層はその多くが、ローマ風の生活を競って採用したとされる」、ローマ人の「文明」はブリテン島の人々の「隷属」を強化するものに過ぎなかったと、ローマのいわば帝国主義的な側面を喝破(かっぱ)している。
タキトゥスによるこのローマ帝国主義批判は、後世、(9)ヨーロッパ人によるアメリカ大陸支配の文脈で、再注目されることになる。
比較を求めている文章をピックアップすると、
①タキトゥスの帝国批判:独裁政治の負の側面 vs 脅威であり続けたゲルマン人の生活と習俗…破壊的な征服戦争……「平和」と名づけるローマ人の欺瞞……「隷属」を強化する
②ハヴァフィールドの講演(イギリス人工リート層の帝国の意義):国民性を消し去り文明に同化……(インドの帝国)……完全なローマの成功
①のタキトゥスはローマ帝国に批判的であり、征服者のローマと被征服者のゲルマン人を見て、後者の被害を「脅威・破壊的・欺瞞・隷属と記します。②の歴史家ハヴァフィールドは、文明に同化、成功と評価しています。
問われているのは「工リート層にとってのローマ帝国の意義」なので工リート層にとっての意義・長所です。征服の良い点を説明しろ、帝国に見習え、ということで、『ナチスは「良いこと」をしたのか?』(岩波ブックレット 1080)の言い換えでしょうか?
「文明化」「植民地主義」という表現は侵略の成果を指しています。日本が明治からモデルとして学んだ西洋化のことです。福沢諭吉の「脱亜入欧」、わたしからすれば「奪」亜「似」欧です。日本は明治から西欧を文明の模範として見習うことに邁進してきました。
つまり文明化の中身は軍事力によって征服して、人命を土地・資源を奪い、「文明」の名の下に支配することです。なんのことはないドロボー、略奪です。暴力的な西欧文明に学ぶことが明治でした。
ローマ帝国のイギリス島征服では、先住のピクト人を1〜3万人殺したが、ローマ軍の戦死は360人でした(グラウピウス山麓の戦い、84年)。
石原莞爾は『世界最終戦争』(1940)でさかんに「文明」という言葉を使って論じていますが、この言葉を「武力」に換えて読むと判りやすい。「文明の進歩とともに世は平和的にならないで闘争がますます盛んになりつつある。最終戦争の近い今日、常にこれに対する必勝の信念の下に、あらゆる準備に精進しなければならない」と説きますが、文明は石原にとって「文明=武力」です。「道義的世界統一」を目指す「東洋の王道」を代表する日本と、「侵略的世界統一」を目指す「西洋の覇道」を代表するアメリカとの世界最終戦争を戦った後に、世界に平和が訪れるという主張の展望を示した、とも評していますが(ウィキペディア)、中身は武力・暴力です。だいたい柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者のどこに「道義」があるのか?
まさかここで進化論を持ち込む必要はないでしょう(Y)。社会進化論(問14)が似た使われ方はしていますが、ここでの問いは、ハヴァフィールドの理解はどんなものか、という問いです。なお、京大は日清戦争という侵略戦争の賠償金で建てられました。
問(9) その暴力性は、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)に「彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。また、犬は豚を餌食にする時よりもはるかに嬉々として、インディオに襲いかかり、食い殺した。こうして、その獰猛な犬は甚だしい害を加え、大勢のインディオを
食い殺した(p.27〜28)。「スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また、彼らに捧猛な犬をけしかけたりした(p.39)。「司令官はインディオたちを剣で突き剌したり、生きたまま火あぶりにしたり、また、彼らに獰猛な犬をけしかけたり、そのほか様々な拷問を加えたりして苦しめ、結局、四万人ものインディオを殺してしまったのである(p.46)。「
子供や老人、そのほか生け捕りにしたインディオたちを穴の中へ放り込み、その穴の中は、しまいには串し剌になったインディオたちで一杯になった。ことに、母親とその子供の姿は胸の痛む光景であった。スペイン人たちは残りの人びとを全員槍や短刀で突き殺し、獰猛な犬に分け与えた。犬は彼らをずたずたにして食べてしまった(p.78)。犬による暴食と人間の殺欲に満ちた記録です。

ド・ブリの虐殺版画
問(10) ヒントは「1935年にイタリアの軍事侵攻」エチオピア戦争です(語呂→「エチオピア、ど1け9産3後5でも)。
問(12) 長老派教会(プレスビテリアン、カルヴァン派)の中核的な教説として、予定説をあげる予備校の解答はまちがいではないものの、それはもっぱらカルヴァン自身の説です。信徒が信仰・不信仰であれ、善悪行であれ、それを根拠に天国にいけるかどうかは分からない。神に決定権があるという説で、個人の行き先は予め神が予定している、という人間の行為の否定論です。神の絶対性の強調です。カトリックの儀式も贖宥状も無効です。
信仰義認論でも予定説でも合っていますが、同時に教会のシステムとして長老制をとりました。これは教会の中で信頼を集めた一部の信徒たちの合意(長老会)に運営を任せる制度です。
問(18) なぜ不干渉政策をとったのか。英仏が独伊との対立にまで行かないように警戒してとった政策。
問(20) 1931年のウェストミンスター憲章は、自治領議会の法がイギリス法と矛盾しても無効とならないこと、自治領の同意なき限りイギリスの法律は自治領に適用されないことを決めました。互いに独立を認め合ったような内容です。この憲章により、イギリス帝国でなく、イギリス連邦ができあがった、と言います。