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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1991

第1問

 西アジアのイスラム世界では、9世紀半ばを過ぎるとカリフの権威はしだいに失われ、官僚と軍隊にたいして現金俸給を支払う体制を維持することがむずかしくなった。西ヨーロッパではフランク王国の分裂後、諸侯が割拠し、南アジアでもハルシャ・ヴァルダナの死後、地方政権が乱立する状態になった。

 まず西アジアを中心にして、これに続く10世紀から17世紀にかけてのイスラム世界における政治体制の変化を簡潔に述べ、次いでこれと対比しつつ同時代の西ヨーロッパ世界、南アジア世界における政治体制の変化を略述せよ。解答は、下に示した語句を一度は用いて、解答欄に20行(600字)以内で記せ。

  カリフ制、イクター制、マムルーク、スルタン制、封建制度、教皇権
  絶対主義(あるいは絶対王政)、ヒンドゥー教徒、人頭税

 

第2問

 中国史上の移住に関する以下(A)~(D)の文章を読み、おのおのの文章に対応する設問に答えよ。解答は冒頭に(A)~(D)の符号を付し、解答欄(ロ)に記せ。

 

(A)殷・周から春秋時代の半ばまで、黄河の中流域を本拠とする漢族の支配域のなかにも、またその周辺にも、多くの少数民族が住んでいた。

 設問

  春秋時代の半ばから戦国時代にかけて、漢族の有力な諸侯の国々はこうした少数民族をしだいに征服・同化し、広域国家をつくり上げていった。この時期の漢族の拡大に関係する技術上ならびに経済上の主要な変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

(B)秦漢の統一から三国、魏晋南北朝にかけて、政府がすすめた移住や開墾、あるいは遊牧民の侵入からの避難などにより各地方で移住が活発になり、しだいに空白地が埋められて中国本土の地理的一体性と文化的同質性が促進された。

 設問

 華北においては、三国時代から北朝の時代にかけて、政府が開墾定住をうながすとともに、豪族の大土地所有をおさえる目的でおこなった三つの制度名が知られている。それぞれにつき実施した王朝名および制度名を時代順に挙げよ。

 

(C)唐の半ばから、政情の不安を避け、より安定した生活を求めて、中国の北方から南方に向けて大量の移民が生じ、宋代には南方の人口は北方のそれをこえるようになった。

 設問

 南方での人口増加に関係の深い技術上ならびに経済上の変化を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

(D)明の半ばから清代にかけて、経済が大いに発達した。農業移民がさかんになったほか、遠隔地を遍歴する商人集団がおこり、また海外に進出する華僑が多くなった。

 設問

 国内諸都市や華僑居留地で、会館や公所とよばれる組織が発達した。この組織の特色と役割を、解答用紙に3行以内で述べよ。

 

第3問 

(A)以下の設問(1)~(5)につき、解答欄(ハ)を用いて答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(5)の番号を付して記せ。

 

 (1)紀元前8世紀から紀元前4世紀にいたる古代ギリシアでは、おのおののポリスが小規模ながら独立の国家としての機能を発揮したが、しかし時には強力なポリスを中心に都市同盟が形成され、それらが歴史の移り行きに大きな役割を果たすこともあった。アテネを盟主とするその代表的な事例の名称と、この同盟が深くかかわったギリシア世界を二分する戦争の名称とを、それぞれ記せ。

 

 (2)共和政ローマは、紀元前3世紀から紀元前1世紀にかけて地中海周辺の諸国家の統一に努め、それを達成した。この地中海世界統一の過程でローマと最後に戦い敗北したヘレニズム国家の名と、その時の国王の名とをともに記せ。

 

 (3)北欧を原住地とするゲルマン民族の一派ノルマン人は、9世紀頃からヨーロッパ各地に侵入し、政治的にも経済的にも混迷の時期にあったヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。彼らの一部は遠く地中海にまで達し、教皇の認可により王国を建設している。その国名を記せ。

 

 (4)ヨーロッパ中世において神聖ローマ帝国は、ドイツ人以外の民族をも包摂するものであった。チェコ人はそのひとつであるが、彼らは帝国内でべーメン(ボヘミア)王国を形成していた。15世紀はじめにこの地で、カトリック教会を痛烈に批判する改革運動が生じたが、それはチェコ人の民族運動の側面ももっていた。この当時のべーメン(ボヘミア)における教会改革派の中心人物の名と、この人物を異端として断罪した公会議の名を、それぞれ記せ。

 

 (5)中世後期にイギリスとフランスの間で戦われた百年戦争は、それまでの入り組んだ封建的知行関係を整理し、あらたに民族を中心単位とする国民国家形成への道を開いた。百年戦争の原因のひとつとしては、フランスがフランドル地方へ支配権を及ぼそうとしてイギリスの利害と衝突し、その反発を招いたことがあげられる。当時イギリスにとり、フランドル地方が非常に重要な地域であったのはなぜか。1行以内で記せ。

 

(B)次の文章を読み、下線部(1)~(4)に応じた設問(1)~(4)に答えよ。(A)と同じく解答(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(4)の番号を付して答えを記せ。

 1848年、(1)パリに勃発した二月革命は、ヨーロッパ各地に波及した。まずウィーンでは、3月、市民・学生・労働者などが反乱を起こし、軍隊と衝突。ウィーン体制の立役者メッテルニヒは、亡命を余儀なくされた。ベルリンでも、同じころ、大規模な民衆による蜂起が発生した。5月には、フランクフルトで(2)ドイツ史上初の(3)国民議会が開かれた。(4)ハンガリー、べーメン(ボヘミア)、北イタリアなどでは、おさえつけられていた諸民族の独立運動が一気に高揚した。

設問

(1)この革命は、パリの民衆が掲げた要求を政府が退けたことを契機に起こったものである。民衆の要求のなかで特に重要なものを一つ記せ。

(2)ドイツ生まれのマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が、1848年2月ロンドンで発表されている。これは最初ドイツ語で書かれたが、やがてフランス語、英語、ポーランド語、ロシア語など各国語へ翻訳されていった。1848年前後のドイツ、フランス、イギリス、アメリカ合衆国、ポーランド、ロシアの政治状況に関する以下の文章(a)~(f)のうち、不適当なものがあれば(a)~(f)の符号で記せ。ないと思う場合は「なし」と記せ。

(a)ドイツでは、フランクフルト国民議会に多くの社会主義者が進出した。しかし、自由主義者のきびしい抵抗にあい、十分な労働者救済政策を打ち出すことはできなかった。

(b)フランスでは、二月革命によって成立した臨時政府に、労働者を代表する社会主義者が加わった。この政府は、国立作業場(国立工場)を設置するなど労働者救済政策を展開した。

(c)イギリスでは、チャーティスト運動が最後の高まりを見せていた。しかし、農業労働者にまで選挙権が拡大するのは、1867年の第2回選挙法改正を待たなければならなかった。

(d)アメリカ合衆国は、西部開拓の最終段階を迎えていた。領土の西への拡大にともない、奴隷制の存続や自由貿易を要求する南部と、これに反対する北部との対立が激化した。

(e)ポーランドは、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国によって分割統治されていたが、民族独立運動は二月革命以前からすでに表面化していた。

(f)ロシアでは、依然として農奴制が強固で、地主層にささえられたニコライ(ニコラス)1世の専制政治が行なわれていた。農奴の人格的な解放はクリミア戦争敗北以後のこととなる。

(3)ここで論じられた主題は何か。1行以内で記せ。

(4)ここでの民族運動は、当時どの国からの独立をめざしていたか。以下(a)~(e)のうちから一つ選び、解答を(a)~(e)の符号で記せ。

 (a)神聖ローマ帝国  (b)プロイセン王国 (c)ロシア帝国 (d)オーストリア帝国 (e)オスマン帝国

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第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。
第3問(A)(1)デロス同盟、ペロポネソス戦争 (2)プトレマイオス朝エジプト、クレオパトラ(7世) (3)ナポリ王国(シチリア王国/両シチリア王国) (4) フス、コンスタンツ公会議 (5)毛織物工業の発展するこの地方へイギリスは羊毛原料を輸出していた。  (B) (1)選挙法改正 (2)a(「多くの社会主義者」がまちがい)、c(農業労働者が選挙権を得るのは第3回) d(最終段階は1890年) (3)統一をめぐる大小ドイツ主義と統一憲法の制定 (4)d