世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

東大世界史1995

第1問

 1453年、オスマン帝国のメフメト2世は、コンスタンティノープルを陥れてビザンツ帝国を滅ぼし、その結果、地中海世界は東西二つの文明の対立するところとなった。西アジア世界と東ヨーロッパおよび西ヨーロッパ世界は、ローマ帝国の成立以後、地中海を舞台にしてたがいに長い交流と対立の歴史を重ねてきた。この間に新しい宗教や文明がおこり、これらの世界の間で人と物と文化の交流が活発に行われた。では、ローマ帝国の成立からビザンツ帝国の滅亡に至るまで、地中海とその周辺地域では、どのような文明がおこり、また異なる文明の間でどのような交流と対立が生じたのか、下に示した語句を一度は用いて、600字以内で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

  ヘレニズム、聖像禁止令、カール戴冠、ムスリム商人、

  十字軍、ギリシア語、アラビア語、イスラム科学

 

第2問

 アジアでは、国家と地域の関係には時代によってさまざまな形があった。地域支配のあり方に関連する、以下の設問(A)~(C)に答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(A)~(C)の符号を付して記せ。

(A)18世紀中期以降の東トルキスタンは、モンゴル・チベットなどとともに、清朝の間接的統治を受けていた。これらの地域を統括していた中央官庁の名称を記せ。次に改行して、当時の東トルキスタンの民族的・宗教的特徴、およびこの地域が清朝統治下に入った事情を、90字以内で記せ。

(B)東シナ海周辺諸地域は古くから内部でさまざまな関係を結んできたが、1868年に日本が明治新政府を樹立すると、この関係は大きく変動することになる。1870年代に朝鮮および琉球にとって日本との関係が政治的にどのように変動したのか、その内容を、120字以内で記せ。

(C)ベンガル地方はイギリスによるインド植民地支配上の重要地域で、そこではイギリスのインド支配全体の成立と変遷の上で画期となる事柄や事態が生じている。この点に留意して、植民地支配との関係や独立の仕方を中心に、18世紀なかばから1947年までのベンガル地方の歴史を、120字以内で記せ。

 

第3問 

 人々の移動は、政冶・経済・宗教問題その他、さまざまな原因で生じ、その範囲も国内から国際的規模にまで及び、移住先の社会に及ぼす影響もまた多様である。人々の移動に関連する以下の(A)~(J)を読み、設問(1)~(18)に答えよ。解答は設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(18)の番号を付して記せ。

 

(A)ナントの勅令は、フランスに信仰の自由をもたらしたが、その後、この勅令が廃止されると、多くの新教徒は国外に移住先を求めた。

設問(1)この勅令を廃止した国王は誰か、その名を記せ。

設問(2)この新教徒の主な移住先を一つ記せ。

 

(B)ロシアのシベリア進出は、16世紀後半イヴァン4世(雷帝)のころから本格化したが、これにはコサック集団が大きな役割をはたした。

設問(3)最初のシベリア征服の過程で、1582年シビル・ハーン国の首都を制圧したコサックの長の名を記せ。

設問(4) コサック集団は、主にどういう人々から構成されていたか、1行で記せ。

 

(C)17世紀のイギリスでは、商業資本の発展にともない、商人が会社を組織して北アメリカの植民活動に乗り出した。さらに宗教的対立も政治的抗争と絡み合って、移住をうながす一因となった。

設問(5)ロンドンの商人を中心として、1607年に北アメリカにおけるイギリス最初の恒久的植民地が建設された。その地名を記せ。

設問(6)17世紀前半、ピューリタンの一派は、信仰の自由を求めて北アメリカに渡り、植民地を建設した。その地名を記せ。

 

(D)北方戦争直後の1724年に、ロシア帝国では、国民の移動を制限する国内旅券制度が勅令によって導入された。

設問(7)この勅令を出したロシアのツァーリ(皇帝)の名を記せ。

設問(8)国民の移動をなぜ制限したのか、その理由を1行で記せ。

 

(E)人々の移動には自由意志による移民もあったが、黒人奴隷のように強制的に大西洋を横断して運ばれたこともあり、こうして西半球に送り込まれた黒人奴隷の数は1000万人を超えると推定されている。

設問(9)奴隷制プランテーションが発展をみたカリブ海におけるフランスの植民地はどこか、その地名を記せ。

設問(10) アメリカ合衆国の北部では、奴隷から解放された黒人をアフリカに送り返す動きが生じ、その結果1840年代にアフリカ西海岸に黒人国家が建設された。その国名を記せ。

 

(F)人々の移動には、人々の流出を生み出すプッシュ要因と流入をうながすプル要因となる出来事が顕著に認められる場合がある。以下の場合の移動の主な要因と考えられる出来事を記せ。

設問(11)1840年代後半のアイルランドからの流出

設問(12) 1860年代後半から70年代にかけてのアメリカ合衆国への流入

設問(13) 1880年代後半から90年代にかけての南アフリカへの流入

設問(14) 1960年代後半から70年代にかけての南べトナムからの流出

 

(G)19~20世紀の交通革命は、人やものの移動をうながし、また列強の帝国主義的政策の手段ともなった。

設問(15) 次の事項を時代順に並べよ。解答は古い順から記号(a~d)で記せ。

a.ドイツのバグダード鉄道敷設権獲得

b.シベリア鉄道の着工

c.パナマ運河の完成

d.イギリスのスエズ運河株式買収

 

(H)ナチス・ドイツの政治的抑圧や人種主義政策によって、多くの人々が国外への亡命を余儀なくされた。この中には.著名な科学者や作家も少なくなかった。

設問(16)亡命した代表的な科学者の名を一人記せ。

 

(I)南アフリカ政府は、第二次世界大戦後、少数白人の利益を守るために、黒人に居住区を指定したり、移動を制限する政策を導入した。

設問(17)この政策の名称を記せ。

 

(J)国際的対立も人々の移動の重要な原因となることがある。イスラエル建国をめぐる紛争の場合にも、難民として移住を強いられる人々が生じた。

設問(18) これらの人々を政治的に代表するものとして、1964年に結成された組織の名を記せ。

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[第1問の解き方

 (1)政治史になりやすいから気をつけるように。東大が要求するのは政治史でなく文化や経済の広い交流・対立史です。問題は長い時間の興亡史でもあるので、どうしても政治史になりがちな問題です。

 (2)「どのような文明がおこり」とある以上は、○○文明と明示し、かつ「どのような」ということは内容を問うているのですから、ローマ文明ならヘレニズム文化の継承発展で済まさないで、ローマらしい文明の内容(道路・橋・公共建築物などの土木技術、ローマ法(万民法)、キリスト教など)を盛り込むべきです。ここで文明とは、精神的なものや、技術や物質的なものをすべて含めて一定の時代に栄えた諸文化のまとまった総合体であり、多民族に浸透したもの、とみなします。ローマ文明、ビザンチン文明という風に。少なくとも政治体制や王朝の興亡史ではありません。

 (3)「周辺地域」の文明も要求されていることに注意。周辺にイスラーム文明を書いたら地中海以外の文明を書いたことになるのか? そんなことはありません。地中海の南全体がイスラーム文明圏ですから、それ以外の地域でないと「周辺」になりません。イスラーム文明も地中海文明のひとつです。ペルシア・パルチア・東欧のなんらかを書かなくてはならない。

 イスラーム文明は地中海でなくアラビア半島に「おこり」だから、この中に入れなくていいのではないか、と疑問におもうひともいるでしょう。しかしムハンマド自身がメッカだけでイスラーム教をつくったのではなく、北のシリア(地中海沿岸)に隊商貿易に行ってきて、そこのユダヤ人商人・キリスト教徒商人と接触し、また何よりコーランに両宗教の影響が強く表れているように、かれらを通してムハンマドが目覚めて、セム語族の純粋な宗教、アブラハム(ユダヤ人の先祖の一人)のときの宗教を復興しようとしてできたものです。イスラーム教のスタートがアラビア半島だけで起きたのではありません。

 また「イスラーム文明」と言えるようになるためには、地中海世界の文明との接触・影響なくして形成されなかったものです。『詳説』の「イスラーム文明の特徴」という説明の初めに、

 イスラーム帝国は,古くから多くの先進文明が栄えた地域に建設された。イスラーム文明は,これらの文化遺産と征服者であるアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語とが融合してうまれた新しい都市文明である。バグダードやカイロなど大都市に発達したこの融合文明は……

 イスラーム教徒の学問が飛躍的に発達したのは,9世紀初め,ギリシア語文献が組織的にアラビア語に翻訳されてからである。彼らはギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを学び,臨床や観測・実験によってそれらをさらに豊富で正確なものとした。

 イスラーム教徒はギリシア哲学,とくにアリストテレスの哲学を熱心に研究した。イスラーム思想界は,10世紀以後しだいに神秘主義思想の影響を強くうけるようになったが,信仰と理性の調和はよく保たれていた。それは神学者がギリシア哲学の用語と方法論を学び,……イブン=ルシュド(ラテン名アヴェロエス)がいる。

 このルシュドはコルドバの出身でした。このようにイスラーム文明は9世紀以降でしか言えない文明です。7-8世紀の段階では征服者として既存の社会に乗っいただけで、9世紀から他文明と接触して文明らしくなってきます。

 また『詳説』の中に地中海世界と周辺地域の文明との密接な関係についてこう書いています。

(東欧)東ヨーロッパではビザンツ帝国(東ローマ帝国)がローマ帝国の伝統を引きつぎ,皇帝はギリシア正教会を服従させて中央集権的一元支配を維持した。スラヴ系諸民族もギリシア正教とビザンツ文化の影響下で自立・建国し,ビザンツ帝国とともにギリシア=スラヴ的世界を形成した。
(イラン文明)初期のパルティアの文化はヘレニズムの影響を強くうけ,王は「ギリシア人を愛するもの」という称号をおびていた。しかし紀元1世紀ころ,イランの伝統文化が復活しはじめると,ギリシアの神がみとイランの神がみとが,ともにまつられるようになった。

 またつぎのササン朝の時代に,イランの民族的宗教であるゾロアスター教の教典『アヴェスター』が編集された。3世紀の宗教家マニは,ゾロアスター教や仏教・キリスト教を融合して新しくマニ教をおこした。

 さあ、これらの記事を利用して書いてみましょう。

 

(わたしの解答例)

第1問・第2問  

 わたしの解答例は『東大世界史解答文』(電子書籍・パブー)に1987年から2013年までのものが載っています。

第3問 (1)ルイ14世 (2)ブランデンブルク=プロイセン(イギリス、オランダ) (3)イェルマーク (4)農奴制の圧迫をのがれてロシア東南辺境に移住した農民 (5)ヴァージニア (6)プリマス(マサチューセッツ、ニューイングランド) (7)ピョ一トル1世 (8)新設した諸税の脱税を防ぐため (9)ハイチ (10)リベリア (11)ジャガイモの疫病・凶作による飢饉 (12)ホームステッド法と大陸横断鉄道の開通 (13)トランスヴァール共和国での金鉱発見 (14)ヴェトナム戦争 (15)(古い順に)d→b→a→c  (16)アインシュタイン (l7)アパルトヘイト(人種隔離)政策 (18)PLO(パレスチナ解放機構)