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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1983

【1】西ヨーロッパにおける中世都市の市民は「自由」を享受していたといわれている。例えば、皇帝フリードリヒ(フレデリック)2世は、都市リューベックに与えた特許状(1226年)のなかで、「都市リューベックは常に自由であるべきである」と記しており、また都市ウィーンに与えた特許状(1237年)においては、「都市の空気は自由にする」という命題を明示している。このように都市についてしばしば示される「自由」が、どのような意味を有していたか、知るところを記せ。(300字以内)

【2】第二次世界大戦における日本、ドイツ、イタリア三国の敗戦過程の特徴を比較しながら説明せよ。その際、次の語をすべて用いること。
 占領  ファシズム  ポツダム宣言  無条件降伏  レジスタンス(300字以内)
  (この問題は『世界史論述練習帳new』p.155-157に解説・解答例を掲載)

【3】次の文章を読んで、第一次世界大戦後のアジアの民族産業、民族運動に関する下記の問いに答えよ。
 ヨーロッパ大戦のとき、……中国の商人は投機事業を思いたち、紡績工場や織物工場をたくさん設立して、自分で棉花から洋糸(機械製綿糸)をつむぎ、さらにこの洋糸から洋布(機械製綿布)を織ることをはじめた。そして、上海に数十の工場が設立されて、いずれも相当に金をもうけた。……ところが、現在の状況はどうだろうか。以前には何千万元もの大金持であったものが、いまではみな大損をして貧乏人になり果てている。以前に開設された紡績工場、織物工場も今では欠損つづきで大部分が操業を停止している。……これはいかなる原因によるものであろうか。(孫文『三民主義』、1924年、安藤彦太郎訳、一部改訳)

(1)第一次大戦期は中国民族産業の「黄金時代」と言われるが、引用文に見られるように、この繁栄の期間はきわめて短かった。というのは、1858年と1860年に調印された二つの条件が、中国民族産業の発達の障害になっていたからである。その条約のいかなる内容がこのような事態を招いたのかを考えながら、下線部分の孫文の問いかけに答えよ。(175字以内)
(2)インドでも、第一次大戦期に民族産業が急速に発達したが、戦後には不況の波が押し寄せた。この時期に、英国植民地支配に対する民族運動が高まりをみせた。この運動を、その国際的、国内的背景に留意しつつ、説明せよ。(125字以内)

コメント
【3】(1)「1858年と1860年に調印された二つの条件が、中国民族産業の発達の障害になっていた」という部分の説明を求められています。天津条約・北京条約によって決定したことは「清は,外国公使の北京駐在,天津など11港の開港,外国人の中国内地での旅行の自由,キリスト教布教の自由などを認め,イギリスに九竜半島南部を割譲した。同じころアヘン貿易も公認された。(詳説世界史)」とあります。
 この中の「中国内地での旅行の自由」がくせものです。商人が行く場合は省ごとの地方関税(釐金りきん税)がかかるのが中国の慣行でした。それが外国人の場合は一回払ったらどこでも無税で通ることができました。もちろんこの二つの条約の前に南京条約があり、英国以外との虎門寨追加条約・黄埔条約・望厦条約が積み重なっています。つまり関税自主権がなにより奪われており、自国の産業の保護はできない状態です。
(2)これは民族運動を「国際的・国内的背景に留意しつつ」説明をという問題です。 民族運動の「高まり」の国際的背景は、時期が第一次世界大戦が直前にあり、戦中にロシア革命がおきて労働者政府の実現が見えてきたこと、レーニンが無賠償・無併合・民族自決を唱え、これに対抗するかたちでウィルソンも14ヶ条で民族自決を唱えました。そこに新しい時代の国と国のあり方が示されているようでした。広くはケマル=パシャの改革、アフガニスタンの独立戦争(第三次アフガン戦争)、近くの三・一運動とあり亡命者が中国に入ってきたりしました。国内的には、民族資本(タタ、ビルラという鉄鋼の財閥)の成立があり、イギリス商品の復帰を嫌っていて、ガンディーに資金援助をしています。もちろん第一次世界大戦に150万人ものインド兵が西欧やメソポタミア戦線にかり出され、犬死にとなりました。戦争直後にローラット法という民族運動弾圧法がしかれたことも大きい。
………………………………………

(わたしの解答例)

【1】都市市民は立法・司法・行政の権利や貨幣鋳造権を行使した。逃亡農奴を解放する権利、他都市の商人に対する市内商人と職人を保護する権利をもっていた。また外交権ももち他の都市と同盟をむすび防衛した。しかし都市という団体の一員として市民は安全は得られたが、親方の権力が大きい身分制があり、近代の自由のように結社・集会の自由、更に欠亡からの自由などは認められなかった。経済的にはギルド独占・ギルド強制により競争からの自由・生業の安泰はあるが、営業の自由の原則は不在であった。ギルドは同一の教会に属し同じ守護者をもち、信仰や言論の自由はない。このように中世都市の「自由」は普遍性と人権思想を欠いている。

【2】イタリアはムッソリーニの上に国王・教皇が君臨していてファシズムが弱く、教会・学校を統制できなかった。レジスタンスは強く、支配層が首相から離反した。三国とも無条件降伏したが、最も早かったのはイタリアである。強固な統制がしけたドイツも日本も内部からのレジスタンスがなく、最後まで抗戦したため戦禍は大きくなった。ドイツは連合軍とレジスタンスによって占領地を追われ、米英仏ソに分割占領されてナチスは完全に崩壊した。日本の敗戦は最後になり、本土決戦まで叫ばれたが、原爆投下でポツダム宣言を受諾せざるをえなくなった。しかし、それが天皇の判断でなされ、天皇を温存する米軍が単独占領した点にドイツとの違いがある。

【3】(1)アヘン戦争・アロー戦争によって清朝は天津・北京条約をむすび、11港の開港させられ、英仏に内地通商権と河川航行権を認め、関税自主権を喪失していた。また中国産品には地方通過税が加算されるが、外来品には5%の関税だけでどこへも入れた。第一次世界大戦中は西欧が戦場となりは中国市場に参入できなかったが、戦後は中国市場に復帰したため。
(2)国際的にはロシア革命がニュースとなり、14ヶ条で「民族自決」が唱えられ、三・一運動が身近におきた。戦中は列強の下請けとして木綿工業・鉄工業が繁栄して民族資本は成長し、また労働者がふえた。自治の約束のもと150万人が徴兵されたが約束は果たされなかった。