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世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

一橋世界史1988

 

【1】
 次の文章を読んで、下記の問いに答えよ。
 13-14世紀において、ヨーロッパ諸都市を結節点として形成された広域的商業圏は「中世の世界経済」として知られている。イギリスの経済学者マーシャル(A1fredMarshal1)は、それらの都市が経済的な自由や独立を享受して繁栄をとげた点に着目し、そこに経済的な国民主義の始まりを見出して、つぎのように述べている。
 「今日、経済的国民主義と呼ばれているものは、実際には、ブリュージュやアントウェルペン(アントワープ)、あるいは、ヴェネチア(ベニス)、フィレンツェ(フローレンス)ないしミラノの精神が一国全体にひろまったものである。それは、最初に、オランダに浸透した。その国は、いたるところに及ぶ水路網によって密接に結びつけられた諸都市からなっていた。それらの都市はお互いに妬み合っていたけれども、貿易という共通の目的のために、全体としては協調的に行動した。こうした状態のもとで、大規模な国民的産業にとっての機が熟さないうちに、国民的貿易が創造されたのである。……(中略)……イギリス人はオランダに激しい戦いを挑んだ。その戦いから得たものはわずかであった。しかし、オランダの弟子としてイギリス人がその国から学んだものははかりしれない。」 (マ一シャル『産業と商業』より訳出)

 引用文中の下線を付した二つの部分の関連に注意して、マーシャルが重視していると考えられる具体的な歴史経過を略述せよ(400字以内)。

【2】
 アメリカ合衆国とロシアの近代化において1860年代の奴隷制と農奴制の廃止は、重要な画期であった。それぞれについて廃止までの経過とその意義について述べなさい。その際、アメリカでは奴隷制が国内の戦争を経て廃止されたのに対して、ロシアでは農奴制が大きな政治的混乱もなく廃止された理由についても言及しなさい(400字以内)。

【3】
 16世紀のインドと17世紀の中国に樹立された二つの帝国には、ある共通する性格があった。そのことを念頭におきつつ、両帝国の支配機構、土地制度、思想・宗教政策の特徴について述べ、さらに、それぞれの帝国を解体に導いた要因を簡単に記せ(400字以内)。
………………………………………
(コメント)

【1】 一橋らしい世間離れした設問です。要求は「マーシャルが重視していると考えられる具体的な歴史経過を」ということですが、問題文からは、その「考え」は「経済的な国民主義」のことですね。しかし、なにか大学の講義の後で大学生が答えなくてはならない問題のようです。受験生がはじめて知る「経済的な国民主義」というものは、まあチンプンカンプンですから、ここは我慢して資料となっている引用文をなんとか参考にして探るほかはありません。とくに「いたるところに及ぶ水路網によって密接に結びつけられた諸都市からなっていた。それらの都市はお互いに妬み合っていたけれども、貿易という共通の目的のために、全体としては協調的に行動した」という部分。「水路網」のように何か国内における一致できるもの、共通の地盤、そして「貿易という共通の目的」という国外に対する一致できる行動と、どうやら国内国外の協調的施設・活動を「国民的」と言っているらしい。「二つの部分の関連」からはイタリア→低地地方(ネーデルラント、オランダ)→イギリスという順に、それぞれの国内において経済的に整備したこと、全体としての国外への活動について構想メモをつくってみます。それでも経済史ですから、学生にはそんなに想起できるデータがないのではないでしょうか? 拙著『練習帳』巻末に「基本60字」がありますので、手に入れて勉強していただくと強くなれます。宣伝です。この問題の異様さにあおられて、いかにも経済史の本をカンニングしてつくりましたという受験産業の解答がありますが、そんなものを勉強してもなんの役にも立ちません。学生に書けない「模範」解答は模範にはなりません。

【2】 三つの要求があります。「廃止までの経過」「意義」「理由」です。米露の双方とも書くので計6つ書かねばならないのです。奴隷制と農奴制の成立から書く必要はありません。「廃止までの経過」ですから後退していく、批判が強くなっていくところからでいいのです。もし成立からであれば、それだけで1問ができてしまいます。「意義」って何かわかりますか? 長い時間で見た重要性です。よくまちがえて、米国は工業が発展と南北戦争の意義を書いてしまいますが、この問題の要求は奴隷制の廃止の意義ですから合っていません。また黒人の差別が残ったと書いても、それは限界であって意義ではありません。意義というのはプラス評価なのですから。「理由」を書いた受験参考書を見たことがありません。米露の社会を比較して考えればでてくることなのに。

【3】 これも比較の問題です。ただし比較問題はたいてい相違点を導き出させようとするものですが、これは「共通する性格」を探させるという珍しい問題です。この基本的な要求さえ素直につかんでおれば、あとはそんなに難しいという点はないでしょう。違いをどうしても書いてしまいますが、我慢が必要です。4つの副問(副次的要求、書くさいのしぼり方)がついています、「帝国の支配機構(政治制度)」「土地制度(経済の基本的制度)」、「思想・宗教政策(文化)」の特徴(内容、内容の目立つところ)について述べ、さらに「それぞれの帝国を解体(滅亡の直接原因でなく、ゆっくり衰退する、支配体制が崩れていく)に導いた要因」と。

(わたしの解答例)
【1】南欧都市は独立した都市国家としてみずから都市法・軍隊を所有、東地中海の商業圏にくいこみ、北欧の大市で自国・東方の商品を売り、商館・銀行をきずき、自国の経済圏を拡大した。こうした世界的な商業活動をもとにした経済的国民主義は、中世末にイタリア商人をしめだす北欧にもひろまった。低地地方の都市国家は東欧の穀物・材木や北海の鯡、自国の毛織物をあつかい、中世末の商業センターとなった。ところが低地地方の北部がスペインから独立、低地の資金が北に流れるとアムステルダムは南にかわる欧州経済の要となる。オランダ商人は資金を出しあい公立の銀行や東西インド会社を設立、海洋の自由を唱え地中海・大西洋・インド洋にでた。ポルトガルの商館を占拠して香料貿易を独占する。そこへ毛織物工業と自国船主義のイギリスが台頭、市民革命を完成した勢力が出資して公立銀行を設立、議会的重商主義の下、オランダの基地を奪っていく。

【2】合衆国では30年代から廃止運動があり奴隷制是非をめぐる裁判が40〜50年代にくりかえされた。カンサス・ネブラスカ法に反対して共和党が結成され、この共和党のリンカンが大統領に当選すると南部は分離独立し翌年から戦争となる。63年奴隷解放宣言がだされ65年憲法修正13条で廃止が決定した。意義は黒人解放の第一歩となり、シェアクロッパー制の大農経営に転換した。ロシアは19世紀はじめから解放運動はあったが、ほんの一部の知識人だけのものであった。クリミア戦争で工業先進国に敗北したことが契機となり皇帝は61年解放令をだした。意義。解放資金をえた地主の一部は綿工業に投資したため工業化の契機となり、農奴は解放の借金をかかえた共同体農民となる。理由は合衆国は南北で農業と工業という経済構造の大きなちがい、世論の形成・政党の対立があったため。ロシアは圧倒的な農業社会であり皇帝専制のもとで政党も世論もなかったから。

【3】支配機構ではムガル帝国も清帝国も少数軍事集団が広大な地域を征服したため、既存の機構を活用した。すなわちデリー=スルタン朝と明朝の制度を継承した。旧支配層のヒンドゥー官僚・漢人官僚をつかい中央集権的官僚制をしいた。共に融和政策であり前者はムスリム・ヒンドウーの協調、後者は満漢偶数制をとった。土地制度。共に大土地所有制であり、征服した直轄地を別にすればムガルは旧来の大地主・隷属農民の存在、清朝は地主・佃戸制を温存した。思想・宗教。ムスリムのムガルはヒンドゥー教を許容し、諸宗教の融合さえはかった。清朝は特定の思想・宗教を定めず、伝統的儒教思想や宗教を受容した。どちらも二元性をもっている。解体要因は支配地域の喪失とヒンドゥーの自立、イギリスの軍事的・経済的進出による従属化。清朝は旗人の土地喪失、八旗軍の弱体化にたいする漢人の軍事的自立。欧米資本の浸透、被征服民の台頭は共通している。

【2】についての追記 一橋の1988年度の問題と『世界史論述練習帳 new』の説明についての疑問が書いてあるブログがあります。
 http://blog.so-net.ne.jp/zep/archive/20080123
 一橋の問題と拙著に対する批判はこうです。

 この問題は『世界史論述練習帳 new』(パレード)と『詳説世界史論述問題集』(山川出版社)に解答例と解説が掲載されており、両者を比べてみると大変興味深いです。  理由については『練習帳』の方が明快です。書き方も、最後にもってくるほうがいいと思います。違ってるのは、「意義」の部分。アメリカの場合は『練習帳』の方がいいように思いますが、ロシアの場合は『詳説』に軍配をあげたい。『練習帳』で、「都市に移って工場労働者となった」を「間違い」としていますが、『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ朝の大地』(講談社)を読む限りでは、間違いとも言い切れません。東書の『世界史B』では「工場労働者を創出して工業化への道を開こうとするものであった」とあります(実際そうなったかどうかまでは言及されてませんが)。『練習帳』では「地主貴族を説得して」も間違いとしていますが、これも前掲書を読む限りでは間違いとも言い切れません。「土地を失った農民」というのは確かに間違いです。「人格的自由を得た」くらいにしておくべきでした。  北部が奴隷制度に反対した理由として、山川の『詳説世界史』では人道的理由しかあげてありませんが、同じ山川の『新世界史』では「自由な労働力確保のため」という記述があります。いずれにせよ、生産意欲が低い奴隷は資本主義になじまないということでしょう。彼らを解放して賃金労働者とし、消費者としての役割をも担わせるほうがメリットは大きいはず。

 まず「都市に移って工場労働者となった」を「間違い」としていますが、『興亡の世界史14 ロシア・ロマノフ朝の大地』(講談社)を読む限りでは、間違いとも言い切れません。……この講談社の記事はこうです。


「国内パスポート」を持って大都市や特定の地方へ出稼ぎにいき、地代を稼ぐことはこれらの農民にとって普通の現象であった。農奴解放はこの動きをさらに促進した……(p.242) 

「工場労働者となった」「工場労働者を創出」とあるため、わたしが間違っている、と言いたいらしい。「となった」「創出」という表現からはエンクロージュアのように受け取れる表現をしています。しかしイギリスのエンクロージュアによって追い出された農民は都市に住む労働者になり、それが工場に通う労働者になりますが、講談社の土肥の説明をよく読めばそんなものでないことが分かります。この後の説明で、こう書いています。

 が、あり方に大きな変化はなかった。農民たちは「村と土地」の絆を保ったまま、大抵は「季節パスポート」を手に出稼ぎに出たのである。……出稼ぎ農民たちは、夏季に農作業のために故郷に帰り、それが終わると再び都市へと向かった。つまり定期的な「往復運動」を繰り返していたのであり、都市に定住するものは少なかった。彼らは「都市に住む農民」であり、20世紀初めさえペテルブルクの労働者の多くは村との繋がりを断ってはいなかった。(p.243)

 つまり出稼ぎ労働者であり、都市に住む工場労働者ではないことです。この説明から「となった」「創出」という表現は正しいでしょうか? ロシアのこの農奴解放令は人格的自由を与えたといっても移動の自由を与えたものではありません。土地を買い戻す金を「連帯責任」で払いきるまで、ミール(ロシア農村共同体)から出る資格はありません。西欧の農奴解放とちがうところがここにあります。それに土肥の説明も東京書籍の説明も負の部分を書かずに甘い部分だけ書いています。国内パスポートがあるということは、許可が要り、都市で働く農民は雇用者から報酬の相当を取られ、村に帰ってからも村の管理人(旧地主)から出稼ぎの多くを取られます(『ソ連経済(構造と展望)第3版』P.R.グレゴリー、R.C.スチュアート共著、教育社)。土地支払の全額を廃止し延滞金を抹消して移動の自由を与えたのはストルイピンの改革(1907)でした。それまで待たなくてはなりません。

「地主貴族を説得して」も間違いとしていますが、これも前掲書を読む限りでは間違いとも言い切れません。……というのも変な話しですが、一応、講談社の土肥の説明では、

 アレクサンドルニ世は精力的に国内をまわって、各地で消極的な貴族たちの説得にあたった。彼を支えたのはニコライ・ミリューチンを筆頭とする開明的官僚たちであった。……(p.212)

 とあります。この甘い説明への反論としていくつかの事柄をあげておきます。
 第一に、この農奴解放の請願は地主から出されたこと。第二に解放をどうするかの検討は地主である貴族をメンバー(「貴族委員会」)に協議させたのであり、地主に不利なように決めるはずはないこと(じっさい余りにも有利でした)。第三に、中世末以来の長くつづいた制度に建前であれ反対者(抵抗勢力)がいないはずはなく地主の生き方にもなっている農奴支配を変えることに「説得」がいったということ。しかし実際は地主に大きな利益となったため腹の底では高笑いをしていたこと(山川の『世界歴史大系 ロシア史2 18-19世紀』)。第四に、「説得」しなくてはならないを真面目にとるのなら、解放反対のために地主たちは行動をおこしたのか……表明だけで行動は何もないこと。動いたのは農民であり、農民騒乱の発生件数は1861-69年にかけて3787件もおきていること(山川出版社『世界各国史4・ロシア史(新版)』(岩田徹編)にあげてある数字。土肥はこれも647件という1861年の数字だけをあげている甘さ)。
 一橋の問題は奴隷解放と農奴解放の違いを求めていて、その全体像を描けばよく、表面にすぎない「説得」が全体像の解答としてふさわしいかどうか。わたしは上の根拠で否定します。

 独立した自営農民への道は深く閉ざされ,自由な賃金労働者としての活動の余地も非常に制限されたものとなった。農奴解放は,資本主義的秩序の形成にはあまりに不十分で矛盾した前提しか生み出さなかった。(平凡社百科事典の「農奴解放」の記事)
 遣欧使節団がロシアにはいったのは1873年3月、農奴解放令に言及したあとで「自由ヲ得ルモノ絶テ少シ、貴賎ノ隔絶セルコ卜、実ニ甚ダシ」と嘆いている。(「特命全権大使米欧回覧実記」岩波文庫)