世界史教室

大学受験生のための世界史問題解説

過去問センターワンフレーズ論述参考書疑問

段階式 世界史論述のトレーニング

『段階式 世界史論述のトレーニング』Z会 2004年8月1日改訂版

 これは旧版の『Z会 世界史論述のトレーニング』増進会出版社 2000年4月1日の新版として出版されています。問題とそれにともない解答・解説もちがっています。ただ旧版の欠点をそのままひきずっています。旧版の学生の解答例が少なくなり、もっぱら解説をいくらか詳しくすることに重点を転換しています。

長所

  (1)字数の少ない問題からはじめて長いものに進むようになっている点。これは必ずしも長所だけでないことは後述します。

 (2)詳しい解説。そのために問題数が減り、かえって短所にもなっています。詳しいといってもあくまで他の論述の参考書と比べてのことで、内容を読めば教科書程度の解説です。

短所

 第一は、あいかわらず欠点の多い解答が並んでいること。

 第二は問題数が少なくなったため、不安が相当のこることです。東大が6問ありながら、第1問の500字前後の、いわゆる大論述がたった2問しか掲載されておらず、あとは小問(60字、90字、110字、120字)であり、あのややこしい第1問に対応するには不充分であること。それに一橋の400字問題は1問しかなく、京大も2問しかない。どちらかというと論述ではマイナー(わずかな配点)の京都府立大・新潟大・千葉大・埼玉大・早稲田・学習院・明治などの問題を載せていること。添削のZ会がこれでいいのか疑問のでてくる代物です。

 2007年度の東大の農業史に関連した問題は1問もありません。今年の東大受験生にとっては無駄でした。この問題集は最近の論述問題をあつめた編集ですから無駄なのは当然で、どんな問題が出てこようと対処できる力をつけさせたい、という意図がないからです(ちなみに拙著『世界史論述練習帳 new 』の「基本60字」では5問該当する問題がのっています)。

 第三に構成が字数の増えていく順になっていて、このこと自体がそれほど意味をもっていないことです。東大の第2問の短文(120字)でもけっこう難しい論理を求めてくることがあり、逆に第1問(500字前後)では流れを書くだけで解答になるものもあります。字数で論述の書き方の難易があるわけでないから、前提(編集方針=段階式)そのものが無意味です。たしかに字数の短いものから練習する、というやりかたを考慮してのことでしょうが、60〜70字からはじめても、300字からはじめても問題によっては難易も書きやすさも差がないのです。だいたい論述は、60〜70字から書き始めるから書けるようになる、というものではないですよ。

 第四に問題を2000年くらいからの新しいものに変えています。しかし論述の場合これは無意味です。過去問を研究した方が似た問題が出る大学(東大・一橋・筑波)の志望者にとって無駄になるからです。問題が新しければ良い、とおもっているのは錯覚です。いかに過去問研究が意味をもってくるかは、このホームページの各大学の過去問解説にのっていますから、それをご覧ください。

 第五に、解答例を二つあげたものがたくさんありますが、内容にほとんど差がなく、たんなる言い換えにすぎないものです。いくつも答はつくれるよと実力のほどを示したかったのでしょうが無能さを暴露する結果になっています。

 

 では第一の解答や解説・講評の不備について見ていきましょう。

問題編p.2 問1 「ユダヤ教の特徴」(70字)という問題

解答(本文p.21)は「特徴」がどれだけ出ているかにかかっています。本文p.11の「特徴説明型」とある解説では、「“どのような性質のものか”をうまく把握できない場合、前後の時代との比較、別の地域・時代の似たような事象との比較を行なうとよい」と、旧版では特徴を意義といっしょにして、「特徴」は辞典の意味をあげただけなのに、この新版では特徴と意義を分けて、けっこう説明しています。拙著『練習帳』の影響があったのか。わたしの本では特徴(特色)はほとんど内容のことだと説明しています。それをこの本のこの部分でも「どのようなものか」を説明するタイプの問題だと、旧版に書いてなかった、というより気づいていなかったことを書いています。ただ、たんに内容ということであれば、解答例は問題はないのですが、「似たような事象との比較を行なうとよい」問題でもあり、それでいえば出来ていない解答です。ただたんにユダヤ教がこういう内容をもっている、ということであれば、それがどないしたん? 他の宗教との比較でどうちがう、つまり、どういうユダヤ教だけの「特徴」をもっているのかを表現しきれていないのです。キリスト教とのちがいか(律法と普遍的な愛)、仏教とのちがい(民族性と超民族性)があっていいはずでした。

 

問題編p.2 問2「上座部仏教と大乗仏教のちがい」を書けという問題(60字以内)。

解答p.22 では、上座部は出家者・自己解脱・修業の重視、大乗は菩薩信仰・万人の救済とあります。

 上のように用語をピックアップしたただけでも判明しますが、まず書いてある順が比較の原則にのっとっていない。出家者に対応するものは万人(「在家のままの者も/出家の有無を問わず」の方が適切)であるはずで、大乗仏教について書くときは上座部仏教について書いた順で書くべきです。また「修業の重視」に対応するものが何かがハッキリしません。「菩薩信仰」ということは仏陀以外の修行者も信仰の対象にするということであり、じゃ上座部の信仰対象は何なのか(信仰対象の否定/仏陀を師とする)、どこにも言及してありません。適当に用語をならべただけの解答です。すこしは頭をうごかしてほしものです。こんな短い解答でもボロがでます。字数が短いから易しい、とはならないことも示しています。拙著『練習帳』巻末「基本60字」問題集・南アジアにも同問と解答がありますから、比較してみるとハッキリするでしょう。

 

問題編p.4 「ムガル帝国の2皇帝の宗教政策の変化を書け」という問題

本文p.29の解答はアクバルが融和をめざし、ジズヤ廃止、アウラングゼーブが厳格な立場からジズヤ復活。

 書かなくてはならない「政策」の解答になっているのは、ジズヤの有無だけです。方針や信仰の立場はなくてもよかった。問題の要求のとおり「宗教政策」に集中したらいい。他に政策があるからです。たとえば、『詳説世界史』でもアクバルについては「みずからヒンドゥー教徒の女性と結婚し,非イスラーム教徒に課されていた人頭税(ジズヤ)を廃止して,ヒンドゥー勢力を味方につけた」と。三省堂の教科書には「アクバルは、ヒンドゥー女性を妻とし、カースト(ジャーティ)の上位者である北西部のラージプートの王たちと友好関係をむすぶ」と書いています。ラージプートの王たちはヒンドゥーです。アウラングゼーブ帝については「ヒンドゥー教寺院の破壊を命じ……」と書いています。教科書に書いてある程度は書けよ、といいたい。アクバル帝には他に神聖宗教(ディーネイラーヒ)の創始、ヒンドゥー官吏の採用もあります。

 

問題編p.4「米英戦争のアメリカ産業に与えた影響」という問題

本文p.35〜36の解答と解説には工業発展は書いてあるものの、それがどういう工業かが明示されていないのが欠点です。教科書では、「この戦争は勝つことができなかったが、その影響で国民意識が強まり、内陸部開発の動きは促進され、木綿工業や鉄鋼業をはじめとする産業革命もおこって、アメリカは経済的自立の道をすすむことになった」(三省堂)とあります。この記述内容に問題はあります(「産業革命もおこって」の部分)が、ただそれは別として、教科書に書いてある程度のことは書いたらどうや、とZ会にいっときます。

 

問題編p.5「ケマルの近代化政策」を90字で。

本文p.40〜41の解答・解説のどこにも土地改革がなかった、という改革の欠点を指摘したところがありません。これはZ会同様、たいていの受験生も書かない、差のつくところ。

 

問題編p.8「11〜13世紀の宋と北方民族の動向」という問題(150字)。

本文p.35の解答に金との関係では臣礼をとったことがあげてありながら、契丹・西夏との関係がどうであったかは書いてありません。また契丹と西夏それぞれに対応がちがいます。それにp.53に燕雲十六州のことが赤字で示してあるのに解答には載っておらず、採点ポイントにはありません。この燕雲十六州の割譲は10世紀であるとしても、これを取り返すべく宋は戦ってきたのであり、11世紀以降のこの地をめぐる争いによってセン淵の盟(1004)がありますから、書いてもいいことです。解答例の解答しか許さないような基準では、学習者にたいして不親切です。採点ポイントはさまざまな解答を許容する面がないと学習に役に立ちません。

 

問題編p.8 「カリフの実態を7世紀と11世紀で比較」という東大の2004年度第2問・問3の問題

本文p.61の解答のまちがいは「7世紀前半の正統カリフは、選挙で選ばれ、政教両権を握り」のところ。当然ながら採点ポイントもまちがい。政教両権をもつのは8世紀後半のアッバース朝からなのに、「7世紀前半」の正統カリフの段階でもっていたことにしています。詳細はこのホームページの東大過去問解説を見てください。

 『詳解世界史』(三省堂)には「カリフ自身も、アラブ戦士団の長ではなくムスリムの長を自任した」とあり、これに注がついていて、「アッバース朝時代にはカリフ権自体の性格も変化し、それまでのような「神の使徒の代理(ムハンマドの代理という意味──中谷の注)」ではなく「神の代理(ムハンマドと同地位──中谷の注)」とみなされるようになり、カリフ権の神授的性格が強調された」としています。つまりそれまで神授的な面(宗教面)がなかったことを説明しています。

 

問題編p.9「民族大移動からノルマン征服までのイギリス史」という問題

本文p.67の解説とp.69の解答にまちがい。解答に「5世紀にアングロ=サクソン人が七王国を建て」とあり、この世紀がまちがっています。約600年頃というのが通説ですから、「5世紀から」とするか、「6世紀末に」とすべきところ。山川の『世界史小辞典』には「6世紀末までには七つの王国にまとまりをみせた」とあります。『詳説世界史』は「アングロ=サクソン人は大ブリテン島にわたり,のち9世紀までのあいだにアングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)をたてた」とゆるやかな記述にしています。

 

問題編p.11「イギリス立憲政治について150字」という問題
 この問題はよく分からない。何を書くのか? 導入文は「名誉革命を経て」とあり、できあがった政治体制を説明するのか、それともそれまでの歴史をたどれ、といっているのか? 解答はどちらでもいいはずなのに、この解答例では13世紀から書いています。そういう風に書け、とは問題文のどこにも書いてない。問題そのものを変更すべきです。

 

問題編p.11「1848年革命のヨーロッパ諸地域への政治的影響」という問題

本文p.91〜93の解説と解答。たいていの教科書に書いてある「諸国民の春」という語句がないのはどうしてか?

 

問題編p.16「アテネとローマの国制史を対比し、その相違」という問題

本文p.123に解答例が二つのっていますが、どちらも解答になっていません。「対比し、その相違」という課題なのに、それらしい答えはローマが元老院に実権があった、ということだけらしい。これだけでもどうアテネと対比したのか分からない。

解答例1は、アテネについてほぼ3行分の経過を書いています。これだけではローマとの相違はもちろんまだ分からない。このアテネと対比しつつローマを書いているのか? アテネの「貴族の政権独占」と似た説明でローマも「貴族共和政が行われたが」と共通点をあげ(これだけで問題に反抗した解答)、アテネで「平民が参政権を求め」と上に書いておいて、ローマでも「平民の権利が拡大した」と書いています。共通点を書け、という問題と勘違いしているようです。さいごに「実質的には元老院が権力」とあり、これはどうアテネとちがうのか明示していません。

 解答例2はこの共通点をより鮮明に表わすべく(?)「アテネ・ローマとも」と書きだしています。

 採点ポイントの中に「相違」という語句がないことでもハッキリしているように、どういう相違を表わしたら何点という点数をつけるつもりもない。むしろ「共通で」という基準さえ設けています。狂っている。

 

問題編p.16「インド古代の社会・宗教・文化体系」という一橋2001年度第3問Aの問題

解答p.127に何も書いてない点がこの解答の最大欠点です。つまり指定語句にしばられて、それを説明的に書いたらハイそれまで〜よ、みたいな解答です。「インド古代」はヴァルダーナ朝までであり、何よりこの問題の問うている「体系」ができあがったのはグプタ朝です。これに言及しないと根本的な欠陥になります。『詳説世界史』ではグプタ朝をインド文化の黄金期として描いています。

 

問題編p.17「漢〜宋の儒学史」という問題

生徒の答案にたいする講評p.135 二つのコメントがついているがどちらも要らない。五経正義と科挙の関係を書くべきだ、とあるが儒学史だからかならずしも必要ではない。二つめのコメントは陸九淵の立場が宋学と対立するものであったことに言及したい、と書いているが、生徒は解答文の中で、「性即理」と書いてから陸の立場を「心即理」と書いているから要らないコメントです。

 むしろ左のページの「模範?」答案の方が、訓詁学と次の魏晉南北朝とのつながりがなく、またその後に五経正義がなぜ表れるのかの理由説明がありません。 たんに現象を羅列していて思想史としての流れが分からない。

 

問題編p.17「唐宋の政治制度と文化の変革」という問題

解答p.138 政治制度がどれだけ書いてあるのか、という観点から見れば、解答らしきものは、「律令国家」くらいしかなく、「科挙」は広くとれば政治にかかわるが、政治制度そのものでなく政治を担当する官僚の登用法にすぎない。政治制度とは統治のシステムであり、君主と官僚がどういう法と組織で動いていたかを示さないといけない。律令格式や三省六部などは不可欠の要素です。三省六部はどこにも書いてない。三省六部を書いてない教科書はどこにもないでしょう。もっとつっこむとすれば中書省・門下省に言及した方がいい。宋の政治制度は「君主独裁体制」とだけあり、これは制度全体の評価であって制度そのものではない。貴族→士大夫は正しいとしても制度ではない。制度の担手にあたるものです。

 また科挙の記述を認めるとしても、唐に科挙があり宋で殿試が加わった、という程度では変革にはならない。唐の科挙が恩蔭(任子)といって無試験入学が幅をきかせており、能力試験としては不充分であったことを指摘した上で、殿試ではなく、宋では高官は科挙によらなければ就任できなくなり能力試験として機能しだしたことの方が大事です。

 また文化のところで「朱子学が盛んになった」とあるがこれはまちがい。宋学・朱子学といっても宋代は偽学として排斥されており、普及するのは元朝のときです。意外におもわれるかも知れませんが、教科書でも宋代に宋学がおこった、と書いてあっても「盛んになった」という記述は見たことがない。

 生徒の答案講評p.139 生徒の答案で批判すべきところを書いてない。生徒は経済史(均田制・荘園・大土地所有など)をもっぱら書いていて「政治制度」が課題なのだということを指摘していない。文化のところでも唐の詩をあげた後に宋でも詩をあげているのを批判していない。「詞」としなくてはいけないのに。また唐の「外来宗教」に対して宋では「仏教」という記述で終わっていて、これも外来宗教なのにコメントしていない。唐の三夷教に対して唐で成立した中国仏教のうち浄土宗と禅宗が普及したことを指摘すべきところ。講評になっていない。

 

問題編p.17「教皇権の確立過程」という問題

生徒の答案講評p.143 よく分からない講評です。主語が皇帝であろうと、教皇であろうと、内容が正しいのだから生徒のように書いても構わない。無駄な講評。また十字軍についてクレルモン公会議とウルバヌス2世を書いていて「詳しい」という。しかし教皇権確立に十字軍(同時期のレコンキスタも東方植民も教皇が支援)は「確立」に貢献していて必ずしも屈辱と協約の説明が不可欠という問題ではない。こういう解答があってもいいはずなのに。

 

問題編p.17「十字軍の影響」という問題

解答p.147 間違いの多く出やすい問題で、これも例にもれず、というところです。

 まず「国王……中央集権化をはかった」ということを十字軍の時代(11〜13世紀)でいえません。これは次の14〜15世紀にある程度いえることで、いったい誰がどのような中央集権化をおこなったのか? 絶対主義への準備をしたということでしょうか? 稀な例としてあげられるのが第五回十字軍の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世です。しかしかれがおこなったのはシチリア島だけで帝国全体でおこなったのではありません。十字軍の時代は騎士の全盛期であり、これらの騎士と一部の諸侯が没落をはじめるのも十字軍のほとぼりが冷めた14〜15世紀です。この14〜15世紀でも諸侯・騎士が完全に滅びていないことは絶対王政の理解に不可欠です。フランスの王権の名声はあがったとはいえても、それだけです。中央集権化というのにはほど遠い状態です。教科書のように「国王の権威は高まった(詳説世界史)」という程度にしておくべきです。教科書の中には国王権力の強化、ということを書いているのも無いわけではないものの、それはすでに述べたように急ぎすぎであり誇張です。

 「イスラーム文化・ギリシア文化の流入」を十字軍とともにあげることはよく見られる誤解です。この問題は十字軍「遠征」の影響を問うているのです。十字軍が文化的なものもたらしたことは歴史家も認めるところですが、それは学問的なものではなく、歴史家が「物質文化」といっている、ソファ、シャーベット、築城術、紋章などです。「ルネサンスへと導いた」というのは学問的なものですが学問的なものは十字軍がもたらしたのではありません。なぜ物質文化なのかというと、兵士はほとんど文盲でしたし、イスラーム教は多神教で悪魔の宗教とおもってきたひとたちが謙虚に学ぶはずはないのです。詳解世界史には「十字軍の時代にヨーロッパに伝えられたアリストテレス哲学をとりいれて体系化されていった」とは書いていますが十字軍がアリストテレス哲学をもたらしたとは書いていません。「時代」と時期が同じだったといっているだけです。また詳説世界史には「多数の人々が東方とのあいだを往来したため、ヨーロッパ人の視野は広がり、東方の文物が流入した」とぼかして説明しています。三省堂のは「遠征によって、東方との貿易や交流がさかんになったため、貿易港であるイタリアのヴェネツィアなどの都市が繁栄するとともに、イスラーム世界やビザンツ帝国のすすんだ学問・文化が西ヨーロッパにもたらされた」と遠征→貿易・交流→学問・文化としています。直接的な「遠征→学問・文化」ではありません。遠征が直接もたらしたものではないのです(十字軍は「何も学ばなかった」……伊東俊太郎著『近代科学の源流』中公文庫 p.255)。ヨーロッパにイスラーム文化が入るのは十字軍ではなくノルマン人とレコンキスタの結果です。つまりパレルモ市とトレド市の翻訳事業です(12世紀ルネサンス)。12世紀ルネサンスについてはこの解答例の上に解説していますが、レコンキスタとノルマン人の行動を「十字軍の遠征はこうした文化の流れを促進した」と強引に結びつけています。問われているのは十字軍だけです。この時代全体のことではありません。ましてギリシア文化(ビザンツ文化に等しい)はオスマン帝国進出をのがれてきた学者の亡命の結果であり十字軍ではない。解答はかき直さなくてはならない。

 

問題編p.18「17世紀前半のオランダの世界的発展」という問題

解答p.132 解答になっている文章にまちがいはないものの、「世界的」かどうかが問題です。「世界」が東南アジアと北米だけになっているところが欠点です。スペインがポルトガルを併合していた時期の南米ブラジルへの進出があげてありません。生徒の答案講評に批判してある「ケープ植民地を獲得したのは1652年、つまり後半である」とコメントしていますが、こんなコメントは要らない。1602年からケープに進出をしています。獲得という結果は1652年ですが、この問題は「植民活動……拡大……発展」が課題だからあげてもなんら問題ではない。解説にありながら日本との貿易や中国・台湾もふくむアジア内貿易も書いてありません。オーストラリア・ニュージーランドにもこの時期に進出しています。

 

問題編p.18「スウェーデン中心のバルト海覇権史」という問題

生徒の答案講評p.158 1のコメントに三十年戦争介入時の「新教徒保護は「口実」である」というのはどうしてコメントとして必要なのか疑問。口実を書いても問題はないはず。たとえば、教科書(詳説世界史)では三十年戦争のところで「旧教国フランスも新教勢力と同盟して皇帝とたたかいはじめた」とあり、「新教勢力と同盟して」は口実にすぎないことは学ぶはずですが、わざわざ「口実」とは書いてありません。他でも「オスマン帝国支配下のボスニア・ヘルツェゴヴィナのギリシア正教徒が反乱をおこすと,ロシアは……」、「イギリス政府は自由貿易の実現をとなえて海軍の派遣を決定し,1840年にアヘン戦争をおこした」は口実という言葉はつかっていなくても事実上口実でした。

 

問題編p.18「オランダ、英仏の東南アジア勢力圏形成史」という問題

解答p.162 解答はいきなり強制栽培制度がでてきます。これは勢力圏形成史なのか? 勢力圏をつくった後にどう利用したかの説明にはなりますが、これは「形成史」に重点をおいて書くべき問題です。ジャワ戦争がほぼジャワ島征服の最終段階といっていい反乱なのでこれをあげた上でなら強制栽培制度も生きてきたはず。

 

問題編p.19「ナポレオンの革命的英雄と侵略者としての面を書け」という問題

解答p.167 これは筑波大学2003年の第4問・問2の問題です。解答には民法典に諸権利を「盛り込んだ。革命的英雄であった」とあり、えっ、と驚く解答です。この諸権利の内容は革命の過程で作られてきたのであり、何もナポレオンの発明でも功績でもありません。人権宣言とほぼ同じ内容のものを盛り込んで、なぜナポレオンが英雄なのか? むしろこの民法典を征服地の憲法にまで拡大して施行したことの方が「英雄」的行為になります。これによって征服されたひとびとも新しい政治のあり方を知り、それはナポレオン後の世界に影響をあたえずにはおかなかったからです。

 またイギリスに経済制裁したことを「侵略者」としての側面だと解答していますが、さて? 経済制裁そのものはいつの時代にも外交のひとつとして行われているもので、制裁だけでは「侵略」行為とはいえないはずです。北朝鮮に対して経済制裁をしたら北朝鮮を侵略したことになる? 金正日はそうとるかもしれませんが、こういう普通でない人を別にすれば、一般的に侵略とはとりません。侵略は基本的に軍事行動がなくてはならない。

 むしろこの大陸封鎖令を破ったとしてロシアに遠征したことは文字通りの「侵略者」です。ほかにエジプトを植民地化すべく遠征軍をおくっています。なぜこういう事例をあげないのか不思議です。p.168の生徒の答案の方がずっと優れています。生徒の答案に事例が複数あると的はずれな講評をしています。前者・後者と二つに分けて歓迎された面と反抗をうけた事例をあげています。

 このページの上にあげてある採点ポイントの貧しさにもZ会の愚かさは表れています。何もこの問題と解答だけでなく、わたしが関係した受験生の答案の方がずっとすぐれているのにトンチンカンな添削をして返しているのを見たことがあります。添削する能力がないのに添削で商売をしています。

 

問題編p.19「19世紀のアメリカ外交政策」という問題

解答p.177 合衆国の外交史はなぜ、モンロー宣言と米西戦争しかないのでしょう? p.175にちゃんと解説しているのに生かされていない。陸続きの国家への侵略は外交ではないのか? ナポレオンからルイジアナを買収し、メキシコという独立した国家から広大な領土をとりあげたこと(アメリカ・メキシコ戦争)やパン=アメリカ会議の開催もあっていいはず。また中国との望厦条約があり、ロシアとはアラスカ買収もある。基本的に領土拡大の政策が追求されています。これらは採点ポイントにひとことも触れていない。この貧しい基準は本業の添削事業も疑わせるものです。解答例は2つあげてありますが、内容に大した差はなく意味がない。

 

問題編p.20「クリミア戦争から日露戦争期のロシアの改革について近隣諸国の立憲化の動きにも触れながら」という問題。指定語句は6個。

解答p.180〜181 この解答の欠点は「近隣諸国の立憲化の動き」が「オスマン帝国・日本でも立憲政治が導入された」としか書いてないことです。国名をあげるだけで得点できると考えたところが甘い解答です。ミドハト憲法(アジア初の憲法)・大日本帝国憲法(明治憲法)と具体名をあげないとまず得点できないでしょう。また清朝の変法運動やイラン立憲革命もあります。なぜロシアと地続きのこれらの運動をあげないのか不思議です。気がつかないらしい。「生徒の答案」の最大の欠点はこの動きがまったく書いてないことにあるのに指摘しておらず、字数が足りないとつまらない批評をしています。また2番目の指摘はどうでもいいことで生徒の答案でもとくに問題はない。「起こり」とちゃんと「発端」として書いており、「第一革命」という語句が必要だと自分の解答に沿うように強制しています。それより「改革」の中身がないと批評すべきところ。

 

問題編p.20「洋務運動と変法運動の相違点」という一橋2003年度第3問Aの問題

解答p.184 この解答を見る前に、この参考書のはじめの方に(p.11)比較文の書き方を説明したところがあり、ここを先ず確認しておきましょう。その文章、

 4 比較・相違説明型

 比較・相違説明型は,2つ以上の事象を照らし合わせて考察することで,浮かび上がってくる類似点(共通点),および相違点を述べさせる問題である。答案作成に際しては,比較・対照する事象の特徴を列挙するのではなく,それを項目別に整理して類似点・相違点を把握し,その上で論述する必要がある。つまり,ホッブズとロックの思想を比較する場合,ただ単に両者の思想内容を列挙するのではなく,「国家の成り立ちをどう考えたか?」「国家の支配権をどう考えたか?」といった項目別に両者の思想を対比しないと,比較したことにはならないし,類似点・相違点も明確にはならない。

 この殊勝な説明に問題はありません。ただ有言実行できているか、です。「特徴を列挙するのではなく……項目別に両者……を対比し」ているか? ということは次のように解答することです。

背景は洋務運動が国内農民反乱(太平天国の乱)であったのに対して変法運動は清仏・日清戦争などの対外戦争の敗北である。方針は前者が中体「西用」という技術導入であったが、後者は憲法・議会の導入など政治体制の変革をめざした点がちがっている。前者は体制保全、後者は体制変革である……

 この答案なら「対比」していることがハッキリわかる文章です。「国内……に対して……対外……あったが、後者は……点がちがっている。前者は……後者は……」と。背景・方針・特色と「項目別に」書いています。

さてこの参考書の「模範」解答が以下です。

 アロー戦争で西洋近代兵器の優秀性を痛感した李鴻章らは,西洋の技術を導入して富国強兵をはかる洋務運動を展開したが,中体西用をスローガンに技術・軍事面の西欧化をはかっただけで,抜本的な政治制度改革は実施されず,日清戦争の敗北でその限界を露呈した。このため,康有為が変法運動を主張し,日本の明治維新を範として立憲君主制をめざした。1898年,康有為らが戊戌の変法に着手したが,保守派のクーデタによって挫折した。

  洋務運動の後に変法運動をのべるという時間の流れに沿って書いていますが、これは項目毎に対比して書いたことになるのでしょうか? 結論を先にいえば対比がなく、ほぼ流れとしてできごとを「列挙」したにすぎない。歴史的にはどこにも問題はない。しかし相違点は明らかとはいえない、ということです。

 運動の背景・きっかけは 「アロー戦争で西洋近代兵器の優秀性を痛感した」と「日清戦争の敗北でその限界を露呈した。このため」とありますが、これで相違を書いたことになる? どこがどうちがうのか? 対外戦争の敗北は共通点ですよ。担手(推進者)は「李鴻章ら」と「康有為が」は人名がちがうだけ? ともに漢人官僚です(共通点)。朱子学者と公羊学者のちがいくらい書けないか? 「中体西用をスローガンに」とあれば変法運動のスローガンはどこに書いてある(保皇立憲くらい書け)? 「西洋の技術を導入して富国強兵をはかる洋務運動」と「変法運動を主張し……立憲君主制をめざした」とは、どういう相違か? 甘くとればこれでもいいが、技術導入は変法運動でもやっていて、重点が前者が体制保全に対して体制変革だということです。

 結果は「日清戦争の敗北でその限界を露呈」と「保守派のクーデタによって挫折」ととってあげれば、これはどういう相違だと言っているのか? 「対比し」ているのか? 外からの衝撃と内紛のちがい? しかし前者はすでに内部に限界があったことは「西欧化をはかっただけで,抜本的な政治制度改革は実施されず」とあり必ずしも外からの衝撃だけではない、と自らのべている。ではどういう相違なのか? 不明。有言不実行という結果になりました。

 

問題編p.20「第一次世界大戦後の国際協調」という問題

生徒の解答p.193 講評は何を言わんとしているのかハッキリしない。生徒の解答でラパロ条約が「他の諸国も徐々にそれを承認した」ことに対して文句をいっているらしいが、何が問題なのか。すんなり承認になったのではなく衝撃だったということを書かないとダメだといっているのか? 左の「模範」答案には「両国の接近を警戒して」という語句が入っているのでこれを書け、と言っているのか? 時間的な経過としては生徒のもとくに問題はないのに。

 

問題編p.21「第一次世界大戦前後中国の2つの運動」という問題

解答p.198 この解答文の欠点はひとつ。二つの運動の関連を指摘していないことです。p195に解説しているのに生かされていません。「一方……」と関連のない運動として述べてしまった。文学革命の中心も北京大学です。

詳解世界史では「……(五・四運動)。この運動は、大戦中に中国に進出した日本に打撃をあたえ、翌年、親日政権は倒れた。また、運動の発端となったパリ会議への失望は、ロシア革命への関心をたかめた。すでに北京大学では、教授の李大ショウらを中心にマルクス主義研究会が発足していたが、同様な組織が各地につくられていった。」と関連づけて説明しています。

 

問題編p.21「戦間期のインド民族運動」という問題

解答p.200 1行目の「民族運動弾圧する」という変な日本語はたいした問題ではないが、この解答にはイスラーム側のことがわずかしか触れていない点(「ムスリムもこれに協力した」だけ)が問題です。ヒンドゥー教徒だけが独立運動をしたのではないし、イスラーム教徒の運動がなかったのでもないから何等かの言及が必要です。これでは東大(1981)の「パキスタンの独立に至る経過について、200字以内に記せ」には答えられない。協力の後に対立し、1940年ラホール大会で、ムスリムの国家としてのパキスタンの建国を要求しました。

 p.201の生徒の答案の末尾の文章に対して「満足したかのような書き方であるが、……満足させるものではなかった」と生徒の答案が書いてないことを、勝手に満足ととってコメントをつけています。わざわざ左の「模範」解答のように円卓会議について「成果はなく」と書かなくていい。だいたいイギリスは初めから満足させるために開催したのでなく両教徒を対立させるのが目的だったからです。もちろん生徒の答案の「自治を認めた」の前に、一定の、制限付きの、総督に大権を残したまま、とかもっと説明があればいい答案になりました。

 

問題編p.21「ヴェトナム戦争(1954〜75)の展開」という問題

解答p.205 流れの問題ですからとくに欠点はないものの、決定的なミスがあります。南ヴェトナム民族解放戦線(正しくは南ヴェトナム解放民族戦線)と書いてしまい、それを採点ポイントでもミスしています。受験生もよくやるミスですが、p.206の生徒は正しく書いています。生徒の解答を見ても気がつかないみたい。

 

問題編p.22「カール大帝の歴史的意義」という問題

解答p.211 8世紀のカロリング家の事績を羅列した解答です。課題は「歴史的役割」だから、長い時間で意味付けしなくてはならない意義の問題です。カール以前と以後でどれほどのちがいがあるのか、と問題を立て直してもいい問題です。教科書的にたんに「ローマ・ゲルマン・キリスト教」という融合的西欧世界の成立だけでは不十分な壮大な問題です。羅列的解答でも指定語句をまちがいなくつかえばある程度の得点はえられますが、この「歴史的役割」をどれだけ書けたかで差のつく問題です。カール以前にかんしては「ビザンツ皇帝の影響下に」あったのはローマ教会だけではありません。ゲルマン人の諸国がみなそうでした。その従属の度合いを指摘すべきでした。末尾の「東ヨーロッパとは異なる」は正しい重要な指摘ですが、どう異なるかはまったく書いてないため、一番の「役割」のはずの「西ヨーロッパ世界が成立」もぼやけてしまいます。また「歴史的役割」は後世への役割もあるから「歴史的」なのですが、後世(「こんにちはの意義」とわたしが呼んでいるもの)についてはまったく書いてありません。採点ポイントにも解説にもないから気がついていないのでしょう。学生並みの知識と解答です。

 

問題編p.22「唐の文化を受容し政治的関係をもった蒙古・チベット・雲南の国々について(7〜9世紀)」という問題(2002年の京大)。

解答p.215 三地域の国の興亡を書くのが課題ですが、それは唐(その文化・政治)との関係に触れながら書くのが課題です。しかし解答では、政治的な関係は書いてあっても、モンゴルの国々(突厥・ウイグル)でもチベット(吐蕃)でもまったく唐文化との関係について言及してありません。やっと雲南のところで「漢字や仏教を取り入れた」と書いています。解説文にもないから、これも気がついていないのでしょう。p.217の生徒の解答へのコメントの中にウイグルが受容したのはマニ教だと説明していますが、マニ教をどこから受容したのか考えれば、ウイグルと唐との文化的関係が書けました。関係はこれだけではないが。

 

問題編p.23「宋明清の皇帝独裁を強化した政治制度について」という京大の2003年度の問題

解答p.226 政治制度とは立法・司法・行政などの諸機関と役割をさします。かんたんにいえば官庁(役所)とその仕事です。この問題のばあいは皇帝の独裁化ですから中央官庁のあり方の変化を書け、と言い換えてもいいでしょう。

 解答の初めの宋には政治制度はまったく書いてありません。「文官を充てた……禁軍(政治制度ではない)……殿試……」と。科挙は官僚の登用法(政治制度の担手を選ぶ試験)ですが、かれらが担うはずの政治制度はどこにもありません。もっとも教科書も書いてないので、こういう場合どうするのか説明が必要でした。つぎの明代で中書省と初めて政治制度が出てきます。これが宋でどういう官庁であったか書かず、いきなり明で出てきても困ります。それではどう「強化」が分からないからです。この明でも軍事制度(というより中央の統轄機関をあげています。宋の禁軍は中央統轄「機関」ではない。明朝なら衛所制を書くべきでした)をあげていますが軍事制度は政治制度ではありません。京大は過去問で、この二つを分けて問うています(1990年「唐から宋への時代の変化を政治・軍事制度の側面から具体的に300字以内で述べよ」)。政治制度だけでは300字がうまらないと見たのでしょうか。要らないことも書いてしまいました。清になると軍事制度がどうしてか書いてありません。一貫性がない。軍機処はジュンガル討伐のための特別の機関で、国内の軍事にかんしては兵部の統轄の下に八旗・緑営などがあります。p.227の生徒の解答コメントに「雍正帝……最初はあくまでも」とあるが雍正帝の段階で事実上生徒の解答のとおり最高機関になっており文句をつけるほどのことではない。

 

問題編p.24「インドのイスラーム化の過程」という問題

解答p.230  イスラーム化とはイスラーム教が浸透して信徒が増えること(宗教)、イスラーム教王朝ができて支配すること(政治)、イスラーム教的な文化ができるとこと(文化)の三つがあります。この解答例には、政治のことは書いてありますが、デリー=スルタン朝がヒンドゥー教徒に対して寛容な政策をとったために信徒が増えたという重要な宗教事実が欠けています。神秘主義だけしかあげていません。文化については末尾にムガル帝国の一例しかあげていませんが、アイバクのクトゥブ=ミナールは写真が教科書にのっていますし、ミニアチュールをあげてもいいし、シク教・ウルドゥー語の成立もイスラーム教の影響としてあげてていいはずです。貧しい採点ポイントにはもちろんこれらのことはあげてありません。これらを書いても加点しないということでしょうか?

 

問題編p.24「イスラーム文化について4つの項目に注意して」という2001年の京大の易問

解答p.236  どこにもまちがいはないですが、末尾の「影響」が西方だけに終わっているところが欠点です。東方にも多くの影響があります(細密画・シク教・授時暦)。東方を見逃した解答例は予備校の速報にも見られました。(なお問題文は「イスラーム文化」としていますが、実際の京大の問題はイスラム文化でした。イスラームと伸ばした表現が定着するかどうかは不明です。)

 

問題編p.25「オーストリアの領土拡大と支配強化」という2000年の一橋の問題

解答p.247 指定語句を「カルロヴィッツ条約」にしていますが、実際は「カルロヴィツ条約」でした。後者の表現でもいいわけでなぜ換えたのか疑問です。指定語句は指定どおり使え勝手に変更して使うな、という指摘をするには大事なものでした。解答に拡大と強化にあたるものを探したら、いかに少ないかすぐ判るでしょう。「支配の強化をめざした」は解答になっていません。解答になっているのはハンガリーの獲得、南ネーデルランドの獲得、ポーランド分割です。初めに書いてある「弱体化」、末尾の「統一からの除外」は課題に反抗した否定的な内容です。拡大に関しては、なぜナポレオン戦争と会議の結果、ロンバルディア・ヴェネツィアを獲得したことを書かないのか、強化はマリア=テレジアとヨーゼフ2世の啓蒙主義的な改革に言及しないのか? 三省堂の教科書では「行政や軍制の改革を断行して、絶対主義体制をきずいた。その子ヨーゼフ2世も中央集権化をはかり、啓蒙専制君主として、信教の自由、農民の保護、商工業の育成などを行なった」と書いています。解答例2も要らない解答です。この参考書にある二つもの解答は内容のあまりにも似たものを言い換えただけで不要なものばかりです。視野の狭さが表れているだけです。紙源の無駄。

 

問題編p.25「16〜18世紀の銀の世界史」という2004年の東大の問題

解答p.251 解答に書いてあることにとくに問題はありません。ただ内容の偏りはすぐ見つかるでしょう。10行目まで16世紀のことばかり書いていて、後は17世紀はアムステルダムだけ、18世紀はイギリスの行動だけがあげてあります。これは受験生の書く答案で、視野が乏しい。

 17世紀はヨーロッパではアムステルダムでなくイングランド銀行に転移する時期であることは書けないか? 18世紀なら16世紀の一条鞭法のつづきになる地丁銀をなぜ書かないのか? 18世紀の銀について教科書(旧詳説世界史)に「清では、国内商業や外国貿易がますますさかんになり、銀の流入はさらに増加した。ヨーロッパ人との貿易は、乾隆帝が……」とあります。こんな当り前のことが解説にも採点ポイントにも書いてありません。

 

問題編p.26「中国民衆が「扶清滅洋」を唱えるようになる19世紀の歴史」という問題

解答p.257 「民衆」とは農民・労働者・学生など経済力も権力も権威もないものたちを指します。この19世紀の中国であれば大半が農民であり、また西欧列強は海岸から中国に進出したために港にかかわる仕事のひとたちが大衆になります。つまり経済史を中心にして説明しないと、これら民衆のやむに止まれぬ運動の背景になりません。とくに列強にいかに経済的に従属していったかがポイントです。1行目に「銀価の高騰と重税」の背景・原因がどうしておこったのかが書いてありません。4行目に「綿製品などの大量の外国製品が流入」というのをあげていますが、19世紀末ならこれは言えても世紀の大半にこれは言えません。というのは教科書のアロー戦争のところに「イギリスの綿布が薄地の高級品であったことにもよるが、根本的には中国の農民が家内制手工業でつくりだす綿布が、良質・廉価であったからである(詳解世界史)」と書いているように、戦後も列強の綿布は中国の綿布に勝てず、元になる綿糸だけは中国のものを次第に圧倒するようになるからです。また『新世界史』が「鉄道・電信・汽船の採用は車夫・船頭・人夫を失業させ,鉄道敷設により墓地がこわされ,キリスト教の布教は民間の信仰と衝突した」とあるように、もう少し具体性がほしいところです。まして「民衆と清が団結し」と書いてはだめです。「扶清滅洋」のときの「扶清(清を助ける)」の場合の「清」は清朝より中国を意味しているからです。義和団の激しい清朝批判の歌を読めば、決して清朝を信頼していないことが明らかです。一橋で出題された問題文に「清政府は全く能無しだ/八ケ国軍北京を占領/占領されてもまだ足りず/売国条約結ぶとは」というのがあります(1989年)。占領前の歌としては、「外人やっつけ、官兵を切り/貧しきもの、苦しきものに救いの手」と。たしかに西太后は発作的に列強に宣戦布告をしましたが、政府が一枚岩でなく分裂していたこと、またこの西太后に実力者たちが協力しなかったことは岩波新書『中国近現代史』p.54に詳しい。

 

問題編p.26「運輸・通信手段が植民地化と民族意識を高めたことを説明せよ」という東大2003年の問題

解答p.267  課題は二つあり、1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし、2「運輸・通信手段の発展が」→民族意識を高めた、この二つを書くことです。課題をとりちがえて、1「運輸・通信手段の発展が」→植民地化をうながし→(植民地化の結果・影響として)民族意識を高めた→さまざまな抵抗をした、と。そうすると、課題の2が書けないことになり、列強だけが手段を使ったと書いてしまいます。たとえばこの解答例1にある、12行目「手段を奪われた運輸業者らが義和団事件を起した」というのがそうです。義和団の方で鉄道を利用したのではなく失業したから事件を起こした、と受け身の抵抗を書いています。これでは「高めた」ことにはなりません。次のイラン立憲革命のことを「日本の勝利の情報」としていますが、ロシア第一革命のニュースの方がずっと影響が大きいのです。陸続きのすぐ北にある国ロシア、それまでイランの北の領土を奪ってきたロシアに革命がおきたというニュースは遠い遠い日本の勝利に及ばない喜びをイランのひとたちに与えました。ガンディーに関する記述はいいでしょう。新聞を利用しましたから。ただこれだけしかないのか? ともいえます。東大の過去問1982年第1問の移動問題と1976年の鉄道問題をやっていたら容易な問題でした。もっとたくさん民族意識を高めた例がありますから、このHPの東大過去問解説をご覧あれ。それとまたまた解答例が二つありますが、読んでその無意味さが判るでしょう。指定語句が同じ順序に並んでいることを確かめたら読まなくても推測できます。

 採点ポイントの中頃に「運輸・通信手段……民族意識を高める役割も果たすこととなった」を2点加点するポイントにしていますが、これは問題文に書いてあることであり、問題文を写す程度のことがなぜ加点理由なのでしょうか? アホか。

 

問題編p.27「第一次世界大戦後の中東状況」という問題

解答p.272 解答に書いてあることに問題はない。むしろ書いてないことの方が問題です。第一次世界大戦直後の1920年代初期に解答が集中している理由が分からない。指定語句に搏られたせいらしい。とくに限定がない以上、第二次世界大戦前の1930年代まで書いてもいいはず。また中東なのにサウディアラビアにまったく言及がないのはなぜか? また委任統治領という地位で中東がおわってしまうのもおかしい。委任統治領からシリア・イラク・ヨルダン・レバノンが自治や独立を認められています。ペルシアからイランへの国号改称もあります。また中東(西アジア)にアフガニスタン(第三次アフガン戦争で独立)も入るのに、まったく触れていません。これが解答?

 

 この参考書について初めはパラパラめくって解答の変なところがあるなあ、と書きだしたら、結果的にこんなにたくさん言及しなくてはならなくなり、正直おどろきました。ま、言及しなかった個所はできているので、何もすべての答案がだめだといってはいません。欠点はこのように多すぎますが。数人の先生たちが原稿を書いて他人の答案を検討する会議を開いたのだろうか? もし開いていてこういう誤答の連続であれば執筆者全員を解雇して新しいメンバーで書きなおした方がいい。